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  店を楽しむ 町を楽しむ、つまり人生を楽しむ
 
                                         
野村智美


全国の古い商店街が、シャッター通りとか閉店街と皮肉られるようになって、どれ位になるのだろうか?

 御多分に漏れず、私が家庭料理の店をしている岡山市西大寺・中福町商店街も、数軒がなんとか営業している淋しさである。昼間も殆ど人通りがなく、地元の人でも、ここが商店街であることを知らない人が多い。

 だが、今から七年前、ひょんなことから「西大寺井戸端会議」なる今だ得体の知れぬ団体が生まれ、商店街も町も、ほんの少しづつであるが変わってきた。(ような気がしているのは、私だけかもしれないが……)

 「西大寺井戸端会議」には、代表もいなければ、会則もない。タンス屋さんの展示場だった場所を借りて、海外アーティストのコンサートを皮切りに、映画上映会、絵画展、講演会、お芝居などなど、そこらのホール顔負けの活動をしてきた。にもかかわらず、誰から誰までがメンバーなのか定かではない。企画をするたび、どこからともなくスタッフが集まり、集まらない時は、無理矢理かき集め、なんとか続いてきている。

 発足当時から関わってきた私は、自称広報係。このような堅い雑誌にも、柔らかい文章で解りやすく「西大寺井戸端会議」をPRしている次第である。
 まずは、「西大寺井戸端会議」が誕生するきっかけともなった、私がやっている家庭料理の店「の村」について書くとしよう。

 私が店を始めたのは、今から十年前のことである。結婚を機に、主人の実家である岡山市西大寺に移り住んだのが十四年前。その当時から、既に商店街とは名ばかりの通りの一角で、主人の母が細々と帽子店を営んでいた。

 店のある通りは、通称五福通りと呼ばれ、西大寺の地名の由来でもある西大寺観音院のすぐそばにある。開山千二百年とも言われる歴史を経たお寺だけあって、その近隣の家屋は、築百年を越える昔ながらの木造建築が多い。 我家も築百三十年程の商家であるが、時代の流れの中で、次々と改装を繰返し、昔は一軒だった店舗もいつの頃からか半分に仕切られ、一方を帽子店、もう一方を貸店舗として利用していたらしい。

 しかし、時は大型店が勢力を極め、古い商店街から人通りが消えてゆくにしたがい、個人商店は大型店へ吸収されるか後継者もなく閉店に追い込まれていった。
 我家の貸店舗も、私が来た頃には、年老いた御婦人が一人で住んでいたが、風呂の設備もなく、やがて引っ越していかれた。

 その後は、備前焼をしていた主人が、作品を展示していたのだが、一人のお客さんも来ない日が何日も続く状態だった。家計も苦しく、私は、パートに出ることを何度も考えたが、一人息子がまだ三才だったこともあり、二の足を踏んでいた。
 なにせ保育園に預けても、熱を出したり下痢をすると、すぐ帰されてしまう。そのたび早引きやお休みをしなければならないのでは、雇い主や従業員の方々にも迷惑をかける。
 私自身の性格から考えても、気まずい思いをしながら働くよりは、気ままに出来る事の方が良いに決まっている。それで出した結果が、自分でお店をすることだった。

 別段、料理が大の得意という訳ではなかったが、主婦を四年程経験して、なんとか家庭料理のまねごと位は出来るようになっていた。しかし、いくら小さいとはいえ一軒の店を経営してゆくことが、気ままに……で、すまされる訳がない。だがそこは、従業員を雇う訳でもなく、自分一人でするのだから気楽に考えることにした。家族の者には少々迷惑をかけるだろうが、人間、食べてゆくには働かなければならないのだから仕方がない。それに、嫌々するのではなく、自分の好きなことを選んでするのだから、家族には諦めてもらうしかなかった。

 気ままな私が、趣味と実益をかねて、私自身を表現する場が、たまたま家庭料理の店だったということである。
 まずは無理をせず、殆ど家庭の延長線といった感じで始めることにした。

 お金もなかったので、開店資金は掛けていた生命保険から五十万円を借りて、必要最小限の物を揃えた。幸い、備前焼を展示していた奥に四畳半の座敷があり、隣接して台所とトイレが揃っていたので、保健所の検査もなんとかクリアすることができた。
 営業は、週に四日。お昼の四時間だけで、メニューは日替定食とコーヒーだけ。それも十人分程しか作らず、売り切れたらおしまいにすることにした。のれんも看板も出さず、改装もせず、あるがままを利用して、家庭料理の店「の村」は出発した。

 しかし、手入れもされずにいた古い商家は、どう見てもお店とは見えなかった。その上、西大寺で商売が上手くいったら全国どこへ行っても成功するとか、西大寺の人が歩いた後には、ペンペン草も生えないなど、地元の人たちから聴いたところでは、何をするにも相当に難しい土地柄らしい。

 おおかた近所の人たちもすぐに店閉まいするだろうと思っていたに違いない。だが、私にすれば、どうせ最初から潰れたも同然の状態で始めるのだから、私のやる気があるうちは絶対に閉店はありえないと思っていた。
 一応、開店数日前に、御近所に挨拶まわりがてら、コーヒーの無料券を配ったが、他にはいっさいチラシも作らず、宣伝もしなかった。我ながら、こんな事でお客さんが来てくれるかどうか半信半疑ではあったが、まあ来なかったら来ないで、またその時に考えようと思っていた。

 しかし、お客さんは来た!


 開店第一号のその人は、銀行の若い営業マン。近所の酒屋さんに、いつものように立ち寄ったところ、そこの店主から「あそこに食堂ができたから行ってやれ」と、なかば強制的に言われたそうだ。

 「食堂ってどこに!?」

 彼は、開口一番、そう言ったらしい。
 それもそのはず、昨日までと何も変わらぬ人通りのない商店街。開店祝の花輪がある訳でもなく、食堂の気配など何処にもないのだから。
彼は小声で「ごめん下さい……」と、肩をすぼめて入ってきた。

 開店当時、古い引き戸を開けると、すぐに土間があり、薄暗い空間に無造作に備前焼が展示されていた。その奥の四畳半に、普通の茶ぶ台と長机を置いて食堂のスペースにしていたので、入ってきたお客さんは、なおさらここが食堂とは信じられなかったらしい。
 銀行の若い営業マンは、目を白黒させながら、何を食べさせられるのかと不安気だったが、煮物・焼魚・おひたし等、いたって普通の家庭料理にホッとした様子だった。食べ終わる頃には、まるで知り合いか親戚の家に御飯を食べに来たみたい、と気に入ってくれ、すぐさま同僚の営業マンにも口コミで広げてくれた。
 だが、絶対的な地場産業にも乏しい土地柄、昼間の外食人口も少なく、一日十食程作った定食も完売する日は数える程で、連日、我家の夕食に廻されることの方が多かった。

 しかし、それでも私は、楽しい毎日だった。何故なら、私が西大寺に来て以来、主人以外に親しく話せる人もなく、雑談する相手など殆どいなかった。そんな中で、お客さんは定食もさることながら、気ばらしがてら雑談に来てくれるような感じだった。お客さんというよりも、家族が少し増えたというか、知り合いが遊びに来て御飯を食べていくといった方がいいかもしれない。その上、お代を下さるのだから、この上なく有難い毎日なのである。
 ニ、三人のお客さんでも、そのお代の範囲内で翌日の買い物をする。あれこれメニューを考えながらやり繰りするのが、もう楽しくて仕方がなかったのである。
 作り手の気分が良いと、大した御馳走でなくても美味しくなってくれるのだろう。「美味しい!!」とお客さんが言ってくれるたび、ますます私は楽しくなって、やる気満々になってしまうのだ。

 そんな繰り返しの中で、常連のお客さんも増え、気兼ねなく身の上話やら町の話題、あらゆる悪口から様々な発展的話まで、私そっちのけでお客さん同志で盛り上がることもたびたびである。
 十年以上もこんなに気楽にお店ができているのは、後にも先にもお客さまのお陰である。私のようないい加減な人間を、寛大な心で育てて下さったと実感している。
 先日、あるお客さんが「お店をしていたらあまり外出ができないでしょ?」と、尋ねてくださった。確かに、三年前から縁あってアルバイトを雇い、営業も日曜以外はするようになって、出掛けることがめっきり減った。

 しかし、まったく不満に思うことはない。常連のお客さんは、文化・芸術・芸能・農業・工業・商業と、様々な職業の方がおり、私は、店に居ながらにして生の情報を受け取ることができるのだ。退屈する暇がない程、楽しませてもらっている毎日である。
 まあ、大もうけは出来ないが、自分の好きなことをして、なんとか生活してゆけるのだから、これ以上の幸福はないだろう。

 人は、楽しめる場所に自然と集まってくる。そんな中から、誰に強制された訳でもなく新しい動きが起こり、「西大寺井戸端会議」は自然発生していったのである。

              ○

 発端は、三人の立ち話だった。

 何か事を始める時は、三人が理想的だと聴いたことがある。全てに当てはまる訳ではないが、二人では平行線だったり擦れ違ったりすることが多い。だが、三人になると面が生まれ、和が保たれるからだろうか?
 「西大寺井戸端会議」も、北海道生まれの私と西大寺生まれの森家さん、そして、九州生まれの日高さんの三人が出会い、形になっていった。

私が店を始めて二年目のことだったと思うが、主人の友達から、三味線のライブをやってもらえないかと頼まれた。全国を三味線一本でライヴ活動している今井田歌さんが、岡山での演奏場所を探していたのだ。
 岡山へ来る前、信州の居酒屋で偶然にも演奏を聴いたことがあった私は、これも何かの縁と思い、引き受けることにした。
 二畳程の小上がりを舞台、土間にゴザを敷き、座布団を置いて客席とした。即席のライヴ会場だが、昔の芝居小屋を彷彿させるようで、実に情緒たっぷりの空間となった。
 当日は、主人の友人や常連のお客さんが三十人程来て下さり、狭い店内は、トイレに立つのも大変な騒ぎで、それはもう他では味わえないアットホームなライヴとなった。

 「こんな場所でも、ライヴが楽しめるもんじゃなぁ」とは、お向かいで敷物屋をしている森家さん。

 彼は、主人の高校時代の後輩で、商工会議所の青年部員でもある。以前から、衰退する一方の商店街が、なんとかならないかと思っていたらしい。
 「そりゃあ、やる気があれば、どんな場所でも楽しめるでしょ」と、口をはさんできたのは、九州宮崎出身の日高さん。
 彼は、俳優を夢見て上京。ある劇団の研究生をしていた経歴の持主である。しかし、俳優よりも愛する女性を選んだのかどうか知らないが、結婚して子どもが生まれたのを機に自然あふれる西大寺に移り住まれた。
 西大寺は、奥様の故郷であり、きっと生まれた女の子を奥様のようなステキな女性に育てるには、ここに住むしかないと思ってのことだろう。しかし、東京を離れたにもかかわらず、片道二時間近くもかけて、岡山県西北部にある美星町の「中世夢ヶ原」という公園施設の職員をする傍ら、様々なイベントの企画をしており、古い町並が残る西大寺でも、ぜひ何かしてみたいと思っていたそうだ。

 「地元の人たちは、まったくこの町はの良さに気付いちゃいないよな。この通りを散歩するたび、俺は、昔旅したイギリスの古き良き街を思いだしちゃうよ」

 熱っぽく語る日高さんの言葉を、生まれて十日と西大寺を離れたことがない森家さんが、どれほど実感できたのか定かではない。だが、私たちのように西大寺以外から、この町へ移り住んだ者の多くが、街並の良さを発見し賞賛するのだ。これには、さすがの森家さんも、あんがいイケてるかも……と、思ったに違いない。

森家「うちの隣のタンス屋さんの展示場だった所で、なんか出来んじゃろか?」

日高「マダガスカルの民族音楽なんかどうかなぁ?」

野村「よく解らんけど、やろう!!やろう!!」

 根っからの西大寺人・森家さんと九州男児・日高さん、そして、どさん子の私。まったく育ちの違う三人が、あれこれ話しているうちに、後に引けなくなったというか、勝手に話が進んでしまったというか、もうやるしかなくなってしまったのである。きっとこれも、神様のおぼしめし、必然だったに違いない。
 だが、日高さん以外にマダガスカルの民族音楽を知っている人はなく、どれだけのお客さんに集まってもらえるのか、不安材料は山積みだった。

 まずは、テープを聴かせてもらい、バリハという琴に似た音色を出す楽器のリズムを体感した。躍動感あふれる軽快なリズムに、これはイケると直感した。

 その後、三者三様、知りうる人脈をつてに四方八方に声をかけ、協力して下さる方々を集めた。サラリーマン・OL・主婦・商店主から市の職員の方々まで巻き込んで、夜な夜な家庭料理の店での会合を重ねていった。

 マスコミ等への宣伝やチケットの販売、当日のタイムテーブルや役割の分担等、何から何まで慣れないことばかりではあったが、不思議と心は踊っていた。

 会場作りもお金をかけずにしなければならず、舞台は、立てすや布を使って雰囲気を出し、客席は、前の方にゴザを敷き、後はビールケースを借りてきて並べた。クーラーのない会場のため、暑さしのぎに、これまた借りてきた団扇を配ることにした。スタッフ一丸となり、身体と頭をフル活動させて準備は進められていった。
 これだけの思いが成功しないはずはない。当日は、会場一杯のお客さんで大盛況となった。
 三人組のマダガスカル出身のミュージシャンたちは、その夜の盛り上がりを、マダガスカルよりも暑く、エネルギッシュだと賞賛してくれた。

 このコンサートの大成功で味をしめた私たちは、次から次へとイベントを企画、実行することになっていった。

 実は、やめられない理由もあった。

 最初のライブで、市から街並コンサート基金をもらうことができたのだが、その条件として、年に三回、三年間は、何がしかのコンサートをしなければならなかったのである。
 しかし、物は考えようである。させられていると思えば嫌々やらなければならないことも多くなるが、好きでやっていると思えば仕方なくでもなんとか乗り越えることができるのだ。それが証拠に、年に三回でいいはずが頼まれもしないのに毎月のように何かをしている年もある。そんな活動が、少しづつ住民やマスコミの知れるところとなり、新聞や雑誌の取材が時々くるようになった。そんな時、いつも私が首をかしげてしまうことがある。記者の方々が、何故だか「町おこし」ですね、と決めつけてくるのである。
 私にすれば、「町おこし」は、結果的なことであり、まずは「自分おこし」と位置付けている。何でもやりだすまでは大変と思って尻込んでしまいがちだが、やりだしてみると、あんがい楽しいものである。
 これは、私自身、家庭料理の店や「西大寺井戸端会議」を始めてみて、大いに実感したことだ。

 じっと家に居て重くなった自分を、よっこいしょと、起こすところから始めてみようというのが基本。決して、町のためになんて大それたことは考えてはいない。
  自分の好きなこと、やりたいことを一人でも多くの方がやりだすと、結果的に町が活気付き、楽しい町になってゆくはずである。

 でも、誰もが何かをしなければならないのかというと、そんなことはないのである。したくもないのに無理矢理したって、決して良いことにはならない。自分ではしたくないけれど、誰かがしていることに参加したいと思えば、そこから始めてみるといい。参加しているうちに、いつの間にやら自分スタッフになっていたら理想的。そのうち、こんなことしてみたい!!なんて、自分から言いだすようになってしまうかもしれない。とにかく、たまにでもいいから動いてみることだ。

 水は、淀むと腐ってしまう。しかし、流れが激しすぎても濁流になってしまう。ほど良い流れは清流となり、人を穏やかにしてくれる。

 人間は、変わることができる。つまり、町も変わることができるのだ。

 私は、決して景気が良くなるだけが町の活気を取り戻すことだとは考えていない。本当の意味で、その町に住む一人一人が自分の楽しみを見付け、毎日を生き生きと明るく暮らせているかどうかが重要だと思っている。

              ○

 今まで書いたことを読まれた方は、さぞかし町に活気がでたのだろうと思われたかもしれないが、実状は、以前とそれ程変わってはいない。
 閉めるお店を見付けては、その後を使ってくれる人を探すので精一杯である。

 五福通りも化粧品屋さんをパッチワークの工房、クレジットの事務所をトールペイントの工房、仏具屋さんを差し物大工さんの工房と、お店というか物作りをする人たちが作業場として借りて下さっている。

 他にもギャラリーや喫茶店をしてみたいという方が、空店舗を探しているのだが、いろいろな問題があって、貸してもらえるようになるまでには、まだまだ時間が必要である。でも、諦めずに声を掛けあってゆきたいと思っている。
 何事も、人と人との繋がりが大切である。今まで様ざまなイベントをしてこれたのも、それに関わってきた人たちの繋がりがあってこそである。

 以前、阪神大震災の経験を講演された方も話していたが、地域のコミュニケーションが良く取れている所ほど、その後の復興も順調にいっているということだ。
 考えてみれば、現代の不況も震災と形は違えど同じような状況なのかもしれない。だからこそ、今、自分にとって本当に必要なものが何なのか、本気で考える時にきている。

 私も、この七年間のイベントを通して、たくさんの方々とのコミュニケーションを勉強させてもらったような気がする。そんな時間の流れを思い返すと、愛しい仲間たちの顔が次々と浮かんでくる。この町に移り住んで、本当に良かったと思える。
 これからの時代は、今まで以上に不況といわれる状態が続くかもしれない。しかし、世の中がどんな苦しい状況になろうとも、人と人との繋がりを大切に、前向きに生きてゆくことが、とても大事なことである。

              ○

 のんびり、ゆっくり、できない無理はしないように「西大寺井戸端会議」の活動も定着してきた今、次なる動きも始まっている。
 西大寺観音院近くの、旧西大寺市民信用金庫の建物を、町の観光スポットにしようという計画である。

 財政難である行政に、全てを頼る時代ではない。まずは、住民のパワーで住民の思いを動かせないものかと考えた。
 「西大寺の情報と味と観光のスポットを作りたい。そんな夢を買っていただけませんか!!」というチラシを作り、建物の調査費用を作ろうというアイデアである。
 一口一〇〇〇円で三〇〇人の寄付を集めようと有志に呼びかけたところ、思わぬ反響ですぐに集まり、岡山建築師会の協力もあって無事、調査を終えることができた。今後は、具体的に建物をどう使っていくかを考える段階に入っている。

 夢が夢で終わるか、現実のものとなるかは、神様だけが知りうるところである。しかし、心に深く思ったことは、きっと現実となる。明るく楽しい町を想像する毎日であれば、必ず思い通りの町となると信じている。







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