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西大寺井戸端会議は「楽しんで、自分起こし」を合い言葉に 備前岡山西大寺五福座を拠点として活動しているグループです。 |
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西大寺井戸端会議について |
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1. 始めた動機 それぞれのメンバーにそれぞれの理由があると思いますが、おおむね共通していることは、「この町を楽しくしよう」と言うことです。そのためにはまず自分たちが楽しむことが大切だと思っています。楽しい町には自ずから人々が集まって来ます。楽しい町ならお互いが仲良くなれます。そうなれば、そこから先の町の発展はそれぞれの立場で考えればよいのではないでしょうか。必ずしもメンバーの方向性が一つにまとまらなくても良いと思います。 特別資料 井戸端メンバーの一人野村さんが書いた「店を楽しむ 町を楽しむ つまり人生を楽しむ」 |
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参考資料1 発足当時にマスコミに配布した資料 なぜ西大寺井戸端会議を起こしたのか。 私が以前から思っていたことは、自分の住んでいるこの町、中福町をどうにかして楽しいものにしたいということです。ここに住んでいてよかったと思える町。寂しい町ではなくて、人々が集う町。自分が住んで楽しい町ならば、人も集まるのではないかと考えました。そのためにはどうすればよいのでしょうか。 平成3年度に岡山市が定めた地域振興ビジョンにおいても観音院周辺は文化/観光パークとしての整備を進めていくとあります。中福町にはそれぐらいしか活性化の道はない、と私は思うのです。幸い河本から中福を経て渡場町まで、かつての街道筋には昔ながらの家並みが点在しています。そういう昔ながらの町並みを整備し、その中で何かイベントを行うと良いのではないでしょうか。正直な話、中福町はもはや商店街としては形を成していません。 しかし、何かここにくれば面白いとか、何か変わったことをやっているぞ、ということになれば、遠くからでも人は集まってくるのではないでしょうか。舛谷商店会連合会会長からも良いことだから是非やってくれと言われていました。 しかし私は誰かがやってくれればいいなぐらいにしか考えていませんでした。私のような素人にはそんな企画力も行動力もない、私がやりましょうという人が現れて、そのお手伝いができればいいと思い続けていたのです。 ところが、そんな人が現れました。 うちの前は野村の帽子屋さんです。ここの主人野村一郎さんは備前焼の作家で、奥さんは北海道出身の智美さん。この夫婦は中々の行動家で、奥さんのほうが野村帽子店の隣、元は竹山のお茶屋であったところで、小料理屋兼備前焼の店「の村」を始めました。御主人のほうは西庄にある備前焼の仕事場を、学校の校舎の廃材から自分で立ててしまうぐらいの人だから、店にするにあたって御手製で、壁の合板・床のコンクリートを剥がし、土壁にたたきの土間という、昔の雰囲気に戻したのです。 このすばらしい雰囲気と夫婦の人柄、おいしい料理にわがままな店という面白さも手伝って、結構常連客の付いた店になりました。遠く広島・大阪からでも口伝えで客が来るのです。 この店で、夫婦の企画で三味線のコンサートをやることになりました。三味線1本をぶら下げて、高知から今井田歌(とうた)さんがやってきました。狭い店内は客で一杯となり、巻き寿司を摘み、酒を飲んで、おおいに盛り上がりました。土間に座布団を敷いて客が座り、目の前の3帖ほどの畳の上で田歌さんが歌う。客と演者が一体となり、終演時刻が過ぎても皆でワイワイと騒ぎ続けました。感動しました。こんな世界があったのかと。私は本来コンサートにはあまり行かない人間です。しかし近所であるなら、気軽にいけるなら、もっと行ってもいいと思いました。 うちの隣にはコンダヤタンス店さんの展示場があります。ここなら結構広いし、奥には婚礼タンス用のステージまであるのです。ここを使って誰かやってくれないかなとそれから思うようになりました。 「の村」の客の中に美星町の中世夢ヶ原の職員、日高奉文さんがいました。日高さんは宮崎の出身で夢が原の企画担当なのですが、西大寺の一住民として、町の中でコンサートを開催し、普段聞くことのない、でもすばらしいアジア・アフリカの音楽を、皆に聞いてもらいたい、市民会館の大ホールなどではなく、こぢんまりとしたスペースで演者との触れ合いを大切にしたコンサートをやりたいと考えていたのです。そしてジュスタン・ヴァリさんのコンサートが、倉敷・福山であり、この時期に頼めば西大寺に公演に来てくれることを教えてくれました。 幸い市の商業振興課に岡山市街角文化イベント事業補助の制度があることを聞き、関係課と公演の開催に向けて協議しました。 これを活用すれば何とか可能性が出てくると喜びました。そして、皆さんの協力があって、何とか実現できるようになりました。 そしてこの補助金の受け皿として、西大寺五福協議会を組織していただくことになりました。そしてこの補助金を使う以上、年3回以上の無料イベントを行うことになりました。そしてコンサートだけではなく、展示会も行っていこうと思います。私も少々絵を書くのですが、グループ展など行うときに、会場捜しには苦労した記憶があります。コンダヤタンス店さんの展示場で、気楽に展示会ができるようにしたいのです。そして町並み保存と言えば大げさなのですが、今の雰囲気を高めるように環境の整備を行っていきたいと思います。 偉そうなことを言っていますが、私にはこうなったらいいなと考えているだけで、実現する力はありません。 このために西大寺井戸端会議というグループを作りました。後押しをする西大寺五福協議会に対して西大寺井戸端会議は実働部隊になります。幸い西大寺井戸端会議には舛谷さんをはじめ、日高さん・野村さん・大森さん・山田さん・出射さん・歳森さんなど、行動力のある皆さんがメンバーとなっていただいています。 舛谷さんは市や外部に対する交渉役として。 日高さんはイベントのプロとして。 野村さんはその行動力と人脈の広さで。 大森さんは自転車のレースなどの企画・実行の経験で。 山田さんは歌声コンサートなどの実行委員として。 出射さんは楽器店とイベントの実務経験で。 歳森さんは西大寺吹奏楽団のリーダーとして。 今後は、町並み保存に関して詳しい方の参画も期待しています。 私はただまとめ役をしているだけです。欲張って、何でもやっていこうとすると、無理が出ると思います。最初は狭い範囲でしかできないでしょうが、活動の輪が広がれば、いずれ西大寺中に広げることもできると思います。 差し当たっては街角コンサートを中心として、美術展や人形劇などできる範囲で活動していきたいと思います。 皆さんの協力をお願いいたします。 平成7年5月20日 森家孝明 |
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西大寺井戸端会議の活動は始まるべくして始まったように感じます。西大寺を何とかしたいという人達、そしてその後押しをしようと言う行政と補助金、その間を取り持とうとする人、何より何をするべきかのノウハウと卓越した能力を持った人々がこの時期に、この町に揃ったと言うことです。 誰かがやってくれないかと思っていた人々が、同時に自分たちでやろうという気持ちになったと言うことなのでしょう。 |
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2. 活動の内容 西大寺井戸端会議のメンバーは現在名簿上で23名。実際に活動しているのはこの内6〜7名。ただし、その内訳は各イベントごとで違います。イベントごとにリーダーとなる人も変わります。「私はこれがやりたい!」と言った人がその都度リーダーになるのです。そしてこれは私も協力しようと思った人だけがメンバーとなります。一応すべてのメンバーにお願いはしますが、無理強いはしません。嫌々やっても楽しくないからです。そして十回に一度でも活動してもらえたなら、その人の存在意義はあると思っています。正直言って内容的に少々偏っていると思いますが、これも自分たちの興味のあるものだけをやっていこうと言うことなのです。 イベントの企画から実行までは第1回から現在まで、大きな変化はありません。「これをやるぞ。」と決めてぐいぐいと引っ張って行く人、「ちょっと待てよ。」と慎重に考慮する人、「よし判った。」と寡黙に働く人、すべてのメンバーがイベントによってそれぞれ立場を変えて行動する、そのバランスが絶妙に取れていることが、これまで井戸端会議が活動を続けてこれた要因であると思います。 |
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参考資料2 第1回街角コンサート終了後に地元新聞に提出したレポートの原案。 マダガスカルより暑い夜 「街起こしのためにコンダヤタンス店さんの展示場でジュスタン・ヴァリ・トリオのコンサートをやろう。」 そう言って2月の末に中福町の小料理屋“の村”に集まったのは…。 西大寺の町中でアジア・アフリカの音楽を皆に聴かせたいという中世夢ヶ原に勤める日高さん、商店街振興のためにはどんな協力もしましょうという西大寺商店会連合会会長の舛谷さん、以前実際に“の村”で三味線のライブを行った女将の野村さん、そして誰かがやってくれたら楽しいんだがと思い続けていただけの私の4人だった。その時に付いた名前が“西大寺井戸端会議”である。 日高さんがプロモート会社であるカンバセーションとの交渉と広報係。舛谷さんが市や各団体/企業との交渉役。野村さんが彼女の店に集まる行動力のある人達とのパイプ役。私と言えば皆さんに協力をお願いするお願い役というところだろうか。 一番の問題の「お金」については、日高さんの地域文化の向上に対する熱意をカンバセーションが理解してくれてディスカウントに応じてくれたことと、舛谷さんの粘り強い市との交渉に、西大寺支所の関係課の理解を得ることができ、補助制度の活用ができるようになって、何とか希望ができてきた。もちろん参加費をいただいても、補助金を利用しても、まだまだ資金は足らないが、「不足分は自分達で払ってでもやります!」という支所での私の一言で一気に実現に向かってスタートした。もっともこれは他のメンバーの同意を得てはいたものの、しばらくは余計なことを言ったかと悩んだものだった。 井戸端会議のメンバーは4月には支所の方も含めて5人、5月には8人、6月始めには12人、コンサート時には15人を越えた。そして5月12日には、補助金の受け皿として、西大寺五福協議会を組織していただいた。 話は前後するが、4月にはポスター/パンフレットの作成開始。費用を節約するためにイラスト/版下は私が作成し、支所で印刷することになった。5月20日にはチケットの販売を始めた。6月に入って会場の片付け・設営に入り、電気工事や仮設トイレの手配、ステージの飾りつけ、各種看板の作成、椅子の代用のビールケース200個とその上に敷く座布団の手配、むしろ/上敷の準備、警察/消防の届け、保険の加入、西大寺の特産品の飾りつけなど、数多くの仕事をてきぱきとこなしていった。 また、支所やメンバーの方から各マスコミに配信し、多くの新聞/テレビに取り上げてもらい、回覧板まで回していただいたために知名度は抜群となり、なんとチケットの予定枚数を完売してしまった。 コンサート前日。日高さんの粋な計らいで、倉敷美術館でのジュスタン・ヴァリ・トリオのコンサートを聞きにいく。 たまげたのは事前のプロモーションビデオと雰囲気が全く違っていたことである。静かなはずのコンサートがえらく賑やかなのだ。しかしこれは嬉しい誤算であり、これならば観客のみなさんに必ず喜んでもらえると言う自信が沸いてくる。 そしてコンサートの当日、6月26日がやってきた。 朝、寝不足の目をこすりながら会場の最終設営を行う。次々に井戸端会議のメンバーが集まりいよいよの士気が高まった。朝10時、倉敷までジュスタン・ヴァリ・トリオを迎えにゆく。ホテルの前で合流し、覚え立てのマダガスカル語で挨拶、「マナウナトゥンプク!(今日は)」わっ通じた。とても嬉しい。 西大寺までの道中、今度リリースするアルバムのデモテープを聞かせてもらう。役得である。ジュスタンはとにかく音楽が好きなようで車の中ではいつも大音量でカセットを聞く。それは自分達の曲であったり他人の物であったりだが、それを楽しそうに解説してくれるのだ。もっともフランス語であるので通訳がいなければお手上げである。 西大寺のホテルに着きフランス式の長い昼食を取る。彼等は普段パリに住んでいるのだ。食事の後、西大寺観音院につれて行き、観光案内をする。 その間に3時には音響スタッフ、テレビの中継車も到着した。我が家の座敷が楽屋になり、展示場のトイレが通路である。会場周辺の御宅に30分の時間延長の挨拶を済ませ、6時、サウンドチェック/リハーサルが始まった。夕方のニュースの生中継も終了して一息入れる間もなく、カメラのためにはがしてあった桟敷用の上敷を元に戻し開場準備にはいる。7時、いよいよ開場だ。通りに溢れていた観客の皆さんがスムーズに会場に入っていく。これだけの人が中福町に集まるのは何年ぶりなのだろうか? まだまだ人の数は増えていく。ほんの一月前にチケットは売れるだろうかと心配していたのが嘘のようだ。勝手なもので今度は収まりきれるかと心配になる。7時30分、照明が消え、コンサートが始まった。ジュスタンのソロから入る。観客の皆さんには始めて聞くヴァリハの調べはどのように聞こえるだろうか。2曲目からはドゥドゥ、3曲目からはクレマンが加わり トリオでの演奏になる。最初のうちは観客も緊張していることがこちらに伝わってくる。しかし通訳の鈴木さんが登場し、楽器の解説が始まった頃から、雰囲気が和んできた。そしてジュスタンの「この会場は、故郷のマダガスカルよりも暑い!」でどっと来た。 私にはもう一つ心配があった。はたして西大寺の皆さんは“乗って”くれるのだろうか?有り難いことにそれは杞憂に終わり、とてもすばらしいコンサートになった。特にアンコールも 2曲目、アンプの故障でジュスタンのヴァリハの音が出なくなった時に観客の拍手で盛り上げてくれたのは感動的な思い出になった。 コンサート後の打ち上げが異様に盛り上がったのは全てのメンバーが感動したからだと思う。 後で聞いたことだが、コンサート開始直後、ジュスタンのソロが流れ始めた時に、ステージ脇の窓から、なんと螢が2匹飛んだという。音楽に合わせるかのようにしばらく窓から出入りしていたらしい。観客の中には最初なんと粋な演出だろうと思った人がいたらしいが、もちろんそんなことができるはずもない。かつては西川用水沿いに螢の乱舞がみられたというが、私はこの十数年、いや二十数年以上この界隈で螢の飛ぶのを見た記憶が無い。不思議なこともあるものだが、これも川がきれいになってきたことの現れだと思えば嬉しい話である。 翌日はジュスタンの腰痛騒動から始まった。朝起きると腰が痛いと言う。あわてて早朝の時間外で診てもらえる所を探す。バタバタしたものの幸い近所に見つかり、すぐに連れていく。驚いたことに整骨院の稲谷先生は患部に触っただけでジュスタンの職業を当てた。もっと驚いたのはジュスタンの方だろう。生まれて初めて身体に針を何ヶ所も刺され、それでたちまち腰痛が治ってしまったのだから。 私が運転し、福山へ向かうワゴン車の中、ジュスタンがホイットニー・ヒューストンのファンであることが判った。私も映画「ボデイガード」以来のファンだと告げると喜んでくれた。 高速に乗り、もともと静かだったドゥードゥーが寝て、通訳の鈴木さんも、クレマンも、追っかけの幸子さんもみんな静かになり、車の中で起きているのはジュスタンと私だけになった。さあ困った、会話が続かない。お互い片言の英語で会話するのだが(ジュスタンの方が数倍ましである)、結局道路脇の竹林を指さしてバンブー、バンブーと笑い合うのがせいぜいだった。竹は彼の爪弾く楽器「ヴァリハ」の主材料であり、竹林が多いのは故郷マダガスカルと同じだという。 福山のホテルまで送り、ロビーで別れることになった。マネージャーのサーリーを始め、ジュスタン、ドゥドゥ、クレマンを前にして挨拶をしなければならなかったが、何か言うと涙があふれそうな気がして、それぞれと堅く抱き合い、ミサウチャ(ありがとう)というのが精一杯だった。クレマンがフランス式に頬にキスをしてくれた。ヒゲが痛かった。 今回のコンサートは大成功だったと思う。それは全ての関係者の協力があってのことだと感謝している。特にコンダヤタンス店の野崎さんにはお礼を言わなければならない。この展示場が使用できなければ全てが始まらなかったのだから。 MISAOTRA! 平成7年7月1日 森家孝明 |
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参考資料3 西大寺井戸端会議・企画/実行/協力イベント 「平成7年度」「平成8年度」「平成9年度」「平成10年度」「平成11年度」 平成12年度以降はこちら |
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平成7年度 |
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平成8年度 |
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平成9年度 |
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平成10年度 |
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平成11年度の井戸端イベント |
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「平成7年度」「平成8年度」「平成9年度」「平成10年度」「平成11年度」 平成12年度以降はこちら |
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3.今後の展望 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私達の活動は特別気負ったところがないことが、今まで続けてこれた理由だと思います。そして「なんだ、案外簡単にできるじゃないか。」と他の人々に思ってもらえて、「それじゃあ我々もやってみようか。」とやる気を出してもらえれば言うことはありません。 特別な人々が特別なことをしているのでは決してないことを判ってもらいたいのです。事実西大寺では個人レベル、商店会レベルでのイベントが増えているように思います。大事なことは、上からの命令で嫌々するのではなく、自分たちのやりたいことを楽しんでやると言うことなのです。 そうは言っても、私たちも何度かは失敗を繰り返してきました。イベントに人が集まらなかったこともありましたし、西大寺からの観客より、外からの方が多いというジレンマもあります。しかしイベントについては大きな変化もなく続けていきたいと思います。それが長続きの秘訣だと思うからです。 忘れてはならないのは西大寺五福協議会の存在です。補助金の受け皿としてだけではなく、井戸端会議という個人の集まりでは実現不可能な事でも、各種団体の集合体である五福協議会の主催と言うことで協力を得ることができました。これは非常に大きな事だと思います。勿論、井戸端会議のみでも同じような活動はできます。しかし、規模は縮小せざるを得ませんし、余分の苦労も増えることでしょう。 私たちの活動の拠点であるコンダヤタンス店・前店は、1年前に岡山市の補助金をいただいて、エアコン/水洗トイレ等の設備も整い、備前岡山西大寺五福座として生まれ変わりました。これにより、夏/冬のイベントが非常に楽になりました。残念ながら下水道が完成していないためにトイレの方は未だに使えませんが…。しかし良い事ばかりではありません、維持費が大幅に増えてしまいました。そこで私たちは西大寺の絵はがきを作り、これを販売することによって維持費を出そうと考えました。そしてこの絵はがきには西大寺は観音院だけじゃない、他にもいいところがあるんだよ、と言うことを知らしめる役割もあります。観音院以外の場所でも人が呼べるのなら、会陽の晩以外でも人が集まると言うことなのです。それでも西大寺観音院の力は絶対ですので、それも含めた売り出し方を考えなければなりません。 たとえば旧さと静けさとなつかしさをキーワードにしたらどうでしょうか。観音院での精進料理、ちょっと古い街並みや西川沿いの散策、近隣の商店街には趣味の店や食べ物屋が並んでいる。そんな形で、街作りはできないものかと思います。実際この1年で観音院の近辺に3軒の骨董屋ができ、お好み焼き屋を開業する人が現れ、パッチワークの店をするのに空き家を探している人もいます。大したことではないように思われるかもしれませんが、これまで閉店する店舗ばかりだったこの地区とすれば、大きな変化であるといえるでしょう。 幸いにも?空き店舗は数多くあります。あとは家主さんの同意が得られればよいのです。 こういった形の街作りには大きな予算は必要ありません。要は地域住民、各種団体、そして行政の協力があればすぐにでも実現可能であると思います。私たちはあくまで手作りでの街作りを目指していきたいと思います。 最後になりましたが、こんなわがままなグループに自由に活動させていただいている西大寺支所、西大寺商工会議所、西大寺商店会連合会、西大寺連合町内会の関係各位に、これからもよろしくと、感謝を込めて御礼申し上げます。 1998年8月9日 西大寺井戸端会議事務局 森家孝明 |