2000/10/05

ホームリポート前号次号


災害にも政治にも“絶対”はありえない

岡山市が震度5弱/お見舞いありがとうございました

 六日の、「鳥取西部地震」には驚きました。遅い昼食をとった直後で自宅にいたのですが、激しい揺れに危険を感じて、外に飛び出しました。

 岡山は地震がないところという神話は、これで吹っ飛びました。かつて東京で暮らしていたときには、震度3ぐらいの揺れを度々経験し、そのつど、岡山ならこんなことはないのにと家内にも話をしていました。しかし、阪神・淡路の大震災の時にも震度4を記録し、今回は震度5弱だそうですから、日本列島に住む以上は地震と無関係とは言えないことが分かりました。

 市の防災体制は、よく機能したようです。被害の程度もごく少なく、地元の中学校では「防災訓練ができたようなものです。」という話まで出ていました。時々、消防局の「起振車」が地震体験をさせてくれますが、機会があれば乗ってみることが必要だと実感しました。

 政界の変動も時には地震にたとえられますが、自民党の永久政権というものも「ありえない」と思ったほうが正解です。ユーゴスラビアのミロシェビッチ政権も、選挙の結果を受け入れるという形であっさり崩壊しました。強引な政治手法は続くはずがない、という歴史の経験はここでも生きています。

 強引と言えば、「教科書採択の見直し」を地方議会で請願採択の形で決議されているようです。県議会では九月議会で採択しました。岡山市議会では継続審査になっています。これを次の議会で通そうというのが、自民党系の思惑のようですが、数を頼んでの強引なやり方では、市民の納得は得られず、やがて墓穴を掘ることになるでしょう。

2000/10/05 岡山市議会議員 羽場頼三郎


寺田明生さんを悼む

最近の痛恨事は、寺田あきおさん(戸籍の上では、母方の姓を継いだので『横山明生』)の死だ。昨年、兄上の寺田憲生氏の葬式の時にお会いしたのが最後だった。近いうちに会いたいと、大阪での研究会の際に時間のうちあわせをしようと思っていた矢先のことだった。

寺田さんは私より2期早く岡山市議会議員になったと言うだけでなく、南方少学校でも、司法試験でも、社市連でも、江田の秘書でも、また私生活においても兄貴と言っていいくらいの先輩だった。正義感が強くて、政治家としても一級のセンスと行動力を持っていた。その正義感が敵を作り、最後には、事件によって政治の舞台からいったんは降りざるを得なかった。その無念さは、誰より知っているつもりだ。本人も復活を志し、また願っている市民も多かったに違いない。子供たちを残したまま、あの世に旅立った心残りも察して余りある。

寺田さんが願っていた、朝鮮と韓国との直接対話も始まり、岡山でも民団と総連が同じテーブルで話し合いを開始した。また、生前敬愛していた金大中氏がノーベル平和賞を受けることも報道された。寺田さんが生きていたら、どれくらい喜んだろう。かつて、韓国が独裁軍事政権下だったとき、持ち出しを禁じられていた文書を決死の覚悟で日本に持ち帰った話など、寺田さんならではの冒険談ももう聞けない。

また、東京時代から「困った人の『助っ人』をする」といわれていたが、その政治スタイルは、まさに高田馬場に駆けつける堀部安兵衛そのものだった。

私も及ばずながら、「助っ人稼業」を引き継ぎます。寺田さん、安らかにお眠りください。


ホームリポート前号次号