亜久津の脳裏に激しく怯えるリョーマの姿が浮かぶ。
事は一週間前の出来事。
偶然通った公園の奥から聞こえた複数の声。
無粋な声に混じった儚い悲鳴。
ケンカか恐喝だと思い、無視視して通り抜け様とした時、見えた見知った顔と声に体の動きが止まる。
次の瞬間、人数と体格の差で逃げ場を失った人物に、無意識に体が動いていた。
状況上助けたリョーマを抱き上げ、亜久津は人通りの少ない道を選び若干遠回りをして帰路に着くと、迷わず浴室のドアを開けた。
そして、意識の無いリョーマを刺激せぬよう丁寧に衣服を脱がせば、日焼けした素肌に刻まれた刻印が目に入る。それに対して亜久津は顔色一つ変える事無く、ゆっくりシャワーをかけて、砂埃を洗い流し、擦り傷等を確認する。
数ヶ所の打撲と擦過傷。
言葉を失ったのは、左手のリストバンドを外した時に見えた、数本の切り傷。
亜久津の脳裏に『リスカ』の三文字が浮かび上がる。
「試合前に俺が負わせた傷に比べると掠り傷だな。2・3日で消えるか」
湿気を含んだリョーマの前髪を掻き分ければ、閉ざされていた瞼が微かに震える。
「…だ…れ?」
「目が覚めたか?」
腕の中でうごめく存在に目を向ければ、今一つ視点の合わない目と合った。
「い…やっ!」
半瞬後、力ない悲鳴が浴室に響き渡る。
「落ちつけっ!」
「いやっ!!」
まるで他人の声が耳に届いていないかのようなリョーマの反応に、亜久津は力任せに押さえ付けてしまった。
小柄のリョーマに馬乗り状態で、浴室の床に押し倒す。
「ーーーー」
脳裏を横切る恐怖と衝撃に、リョーマの瞳が限界まで見開かれ、声にならない悲鳴が更に響き渡る。
「…っ」
過剰反応を示すリョーマに、亜久津は対応に迷った。
このままでは、助けた筈の自分がリョーマを傷つけてしまう。
「仁、遅くなってごめんなさい」
少し離れた玄関先から、母・優紀の声が聞こえる。
「…嫌だっ!」
突然聞こえた第三者の声で無我夢中のリョーマに、亜久津は突き飛ばされ尻もちを着く。
「おいっ!落ちつけっ」
充満するシャワーの熱気で崩れ落ちる前髪を掻き上げ、亜久津はリョーマに手を伸ばすが、その指先が身体に触れるより先に、リョーマの手に振り払われる。
「…仁、何事?」
玄関を開けたと同時に聞こえた悲鳴と物音に、優紀は反射的に声の場所に駆け着けた。
「おふくろ!?」
息子の顔を確認し、他を見渡す優紀の視界に入ったのは、青ざめ怯え荒い呼吸を繰り返す存在だった。
「仁、あなたが?」
目の前の現状に、優紀は息子に対し疑いの視線を向ける。
「そんな訳ねぇだろ。少しは俺を信用しろよ」
「ケンカで相手に怪我をさせても、介抱するタイプに見えないもん」
「母親が言うか普通」
「仁、私と言いあっている場合じゃないでしょ」
優紀の言葉に我に返れば、浴室の片隅で言葉もなく怯える存在を思い出した。
リョーマは左手を押さえ込み、不安と混乱を隠しきれずに首を振る。
「簡潔に説明して」
「男子高校生に性的な悪戯をされていた所を助けた」
優紀に説明を求められ、亜久津は迷いながらも、衝撃的な言葉を口にする。
「私と変わりなさい。この反応からして、仁だとこの子の感情を刺激するだけよ。理由は、悪戯目的で絡んできた子と、仁がダブって見えているからよ」
降り注ぐシャワーを止め、優紀はバスタオルを取り出すと、震え怯え続けるリョーマの身体を包み込む。
優紀の言葉と行動に、亜久津は水の滴り落ちる頭にタオルを被り場所を譲った。
「この子が休める場所と着替えを準備して」
「一人で大丈夫かよ。小柄でもテニスをしているから、力はあるぜ」
「伊達に仁の母親をしてないわよ。それより、この子の名前は?」
「…越前……リョーマだ。悪いな、おふくろ。後は任せた」
呑気な母親の顔ではなく、一人の大人の顔をしている優紀にリョーマを任せ、亜久津はその場を離れた。
「リョーマ君。大丈夫よ」
全てに拒絶を示すリョーマに、優紀は引き下がらず言葉と手を差し伸べる。
「もう、大丈夫だから安心して」
怯えるリョーマを腕の中に抱き締め、宥めるように何度も小さな背中を撫で下ろした。
優紀の暖かさにリョーマの気が緩み、押さえ込まれていた感情が溢れ出す。
「大丈夫よ。声に出して泣ける時は」
「寝ちまったのか?」
客間に休める場所を準備して、様子を窺いに浴室を覗き込めば、優紀の腕の中で穏やかな表情のリョーマがいた。
「神経を張り詰めていたからね。安心したら泣き疲れて寝ちゃったわ。ねぇ、この傷を見て仁はどう思う」
穏やかな寝顔の下に隠された心の傷と、左手首に刻まれた数本の切り傷。
深さ1ミリにも満たない『自傷行為』。
「……複数の男に押し倒されたとはいえど、完全な未遂状態で俺は助けた。それなのに、あの怯えようは不自然で過剰反応だな。この自傷行為も強い影響を与えている気がする」
優紀からリョーマを受け取り、真新しいバスローブで包み込み優しく抱き上げる。
「赤の他人の私たちが、口を出せる立場じゃないけど。私、個人的にはカウンセリングが必要だと思うわ」
「同感だな」
亜久津親子は、重い溜め息を漏らす。
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