伝えたい・隠したい・この想い3

 高校生に絡まれた他校生を助けた数日後の夕暮れ。


 亜久津の目の前には、片手に刃物を握り締め、利き手である左手を傷つけて立ち尽くす越前リョーマがいた。
「馬鹿やろう」
 反射的に逃げるリョーマに走り寄り、亜久津は俯いたままのリョーマの胸倉を掴み上げる。
「お前な…自分がやった事、理解してるのか?」
 目を赤くしたリョーマの顔に、亜久津はそれ以上に怒鳴り上げる事が出来ず、リョーマを腕の中に抱きしめる。
 どれくらいの時間、この小さな身体を風雨に晒していたのだろうかと、考えさせられる程に冷え切った身体。


 亜久津は自宅にリョーマを連れ帰り、終始無言で傷の手当てを行い、溜め息一つ漏らしてリョーマに視線を向ける。
「おい、どういう事か説明してもらおうか」
「…………」
 包帯の巻かれた左手を凝視したまま、一切反応を示さなかったリョーマの双肩が僅かに震えた。
 それを無言で見守っていれば、戸惑った瞳がゆっくり返される。
「黙秘するなら、せめて、今日、お前をこれに走らせた切っ掛けだけでも教えろ」
 包帯の巻かれた左腕を掴まれ、リョーマの心が"チクチク"と痛みを訴える。
 知られたくない心の内。
 でも、話をしないと目の前の亜久津から開放されそうに無い雰囲気に、リョーマは迷いながらも口を開いた。
「……必ず両親のどちらかは家にいるはずなのに、今日は部活が終わって家に帰ったら、二人ともいなかったんだ……」




 学校から戻るなり気付いた、テーブルに置かれた一枚のメモ。
 母・倫子からの置手紙で、急な用事で二週間ほど渡米するという内容だった。
 日本に帰国してから、殆ど家を空ける事のなかった母に、疑問を持ちながら部屋を見渡せば、父・南次郎も不在の事に気付く。
 車の鍵が無い事から、空港まで母を送りに行ったのだろうと、リョーマは一人納得して、両親の部屋の前を通り過ぎようとした瞬間、ドアと床の隙間に挟まれた一通の手紙が目に留まった。
 何気なく拾い上げれば、母・倫子宛の国際メールだった。
 記憶にある法律事務所の名前に、リョーマは中身の手紙を拡げてしまった。
 英文で書かれた手紙を苦になく数行読み上げた所で、突然、酷い眩暈に襲われる。
『リョーマ君を襲った少年たちには、この件以外にも数件の余罪があることが判明しました。弁護士の一人として、来米して頂ければ助かります』
 血の気が一気に引き、酷い眩暈と激しい圧迫感に襲われる。手紙を持つ手も氷の様に冷えていった。
「何で、いまさら……」
 零れる声も震えていた。
 一人でいる事に恐怖感が込み上げる。


 手紙を投げ捨てて、無意識に家を飛び出した。




「……痛っ」
 僅かな痛みと共に血の赤い筋が、突然降り出した雨によって流される。
 自分の意識に気付いた時には、自分自身を傷付けた後だった。
 いつから、自分の心はこんなにも弱くなったのだろうか。
 感情の迷う中に、見知った人物が現れ怒鳴られた。





「無意識に感じた恐怖に家を飛び出して、我に返ったら右手に刃物を握り締めていて、自分を傷つけていた。その殆どの自傷行為が無意識で、傷付けても軽症だから、テニスをするのに影響がでないスよ。でも、始めの……一度目の時は、俺の行動に気付いて親父が止めてくれなかったら、テニス…出来なくなるところだった」
 自分の身に起きた現実に差し伸べられた母親の手すら払い除け、脳裏に残ったショックに怯えて刃物を手にしたリョーマ。
「…あの時の親父の顔と声が今でも脳裏に在るから……」
 左腕を握り締めて黙れ込めば、言葉の重さが胸に圧し掛かる。
「要するに、お前にこれをさせた元の原因に、母親がアメリカに呼び出された。そして、この間の悪戯が原因に類似している。その結果、自分の感情をコントロールが出来なくなって自分を傷付けた。馬鹿かっ。自分の殻に閉じこもって、自分を傷付けて何か変わるのか?」
 再び、亜久津に胸倉を掴まれる。
「…わかってるスよ。だけど……」
「……重症だな…こんな状態だと、テニスどころか日常生活にも影響ありそうだな。この前には無かった傷は、昨日か一昨日の事か?」
 数日前には無かった筈の傷に、亜久津は無遠慮に問い質す。
「……一昨日…学校で…やった事を後悔していた所を先輩二人に見られて……」
 胸倉を掴まれたままでも、亜久津と視線を合わせるのが怖くて、リョーマは俯き状態に答える。
「目撃した二人は、口止めをさせられた挙げ句に、心迷う姿を見せられて心痛む思いだな。お前、その二人の気持ちを考えた事あるか?そして、俺の気持ちも?」
「……っ……。自分の……感情ですら、コントロール出来ないのに、相手の事まで考えられる訳ないスよ。あんただって、俺の気持ち…」
 亜久津の言葉に、感情のまま言い返せば、突然唇を塞がれた。
 一瞬の出来事に、身体が硬直する。
「だったら、もっと素直に感情を表せよ。自分を傷付ける前に、言葉で訴えてみろ。そうでなければ問答無用で知り合いの精神科に連れ込むぞ」
 亜久津は最終手段だと言わんばかりに、精神科と言う言葉を口にする。
「……ねぇ。その知り合いって、この人達の事?」
 リョーマの視線の先には、数枚の集合写真があった。
 その一枚に、亜久津親子に寄り添う人物に、リョーマの表情が変わる。
「あぁ、母方の伯母が精神科医をしている」
 亜久津の言葉にリョーマは顔を上げ、強気な表情を失った涙目で訴えた。
「……言わないで、……には絶対言わないで……」
 聞き取れない程の小さな声に、亜久津はテーブルを叩き上げる。
「悪戯目的で絡まれたお前を助けて、傷の増えた手首を見た俺に、お前は見て見ぬ振りをしろと言うのか?」
 亜久津の言葉がリョーマの心に深々と突き刺さる。
「……お願い…今はほっといて……誰にも、言わないで…」
「…………」
 拒絶の言葉でしかないリョーマに、亜久津は言葉も無く溜め息を洩らす。 


※※※
『怯えた表情と拒絶の言葉に、最後は返す言葉が無かった。だが、あのままにしておく事も出来ないと思っていれば、お前からの帰国メールに迷った末、連絡をした状態だ』
 拒絶の言葉を最後に黙り込んだリョーマの姿を思い出し、亜久津は無意識に溜め息を洩らす。
「………今日の様子だと、リョーマはかなり深刻な状況ね。多少のオーバーワーク覚悟で、精神面の不安定さの解消と調整が必要ね」
 も再会したリョーマの反応を思い出し、思考を曇らせる。
「大会までの予定が、他校との練習試合と合宿か、期間的にギリギリかな」
 テニスコートでリョーマと別れたあと、顧問の竜崎スミレに挨拶をし、受け取った資料を見下ろしたは、強く右手を握り締める。
『怪我が原因でリハビリ留学で、先日、帰国したばかりのお前に、どうにかできるレベルの問題か?』
「帰国直後の私に、話を持ち込んだのはあんたでしょ。情報はゼロではないし、10月までは自宅療養で学校は休学だから、リョーマの調整に集中できるわ」
 現時点での情報を整理しながらは、明日からの予定を組み上げる。
『自分の怪我は大丈夫なのか?』
 亜久津の言葉に、は自分の姿を振り返る。
 去年の夏の終わりに怪我をし、半年程前から治療の為にアメリカに留学した身体。
 国内でも充分治療が可能な怪我だったが、外科医である父のすすめもあって、馴染みのあるアメリカに行った。
「痛めた右肩と手首も順調に回復したわ。まだ、時間制限はあるけどね。握力も以前並に戻ったし、左打ちでのコントロールも安定したから、大丈夫よ」
 趣味でのテニスなら多少の無理は出来る。
 リョーマの体調を調整する為にも、早い時期にテニス部を退部したのだから。
「もし、私で対処出来なくなったら、仁を呼び出すからその時は、よろしくね」
『おいっ』
「今更、無関係な立場には戻れないでしょ」
 半ば困惑した亜久津の声に、は駄目押しの言葉を返す。
「出来る時に出来る事をしないと、現状は変わらないのよ。行動あるのみよ」
 
 終  話 

2へ戻る