申し訳程度の外灯と月明かりに照らされた公園内には、当然のことながら人の気配はない。いや、周囲に満ちた《陰氣》によって異界と化していると言っても過言ではないだろう。並の人間ならば数秒で意識を刈り取られる魔境を一行は進む。
 先頭を龍麻。それを半包囲するように四神。その直後に真神組と残りの仲間達。図らずも等々力の時と同じような順になっていた。あの時と違うのは仲間の数と、従軍する命無き兵隊達だ。
「でもよぉ……やっぱ不気味だよなぁ」
 やや引きつった顔で、京一が漏らす。醍醐は無言で首を縦に振った。
「どうしたんだよ京一サン。この程度の空気にビビってンのかい?」
 槍を担いだ雨紋がからかうように言う。
「旧校舎の下層の方が、今のここよりきついだろ?」
「バーカ。ンなのに呑まれてるワケじゃねぇよ。俺が言いたいのは、後ろだ後ろ」
 言いながら、決して振り向くことはせずに、京一は親指を立てて背後を指した。
「あぁ、そっちか。確かになぁ」
 やはり振り向かずに、首肯する雨紋。
 言うまでもなく、式神と竜牙兵のことである。いや、強いて言うなら竜牙兵のみ、だろうか。ガチャガチャと鎧を揺らし、無言で進む骸骨達。死者の軍隊、とでも言えばしっくりくる。
「こっちの方が敵に思えちまうってのは、何だかなぁ」
「本物なら、戦士が生まれるはずなんだけどね」
 こちらも振り向かず、龍麻は言った。
「触媒が紛い物だからか、それともミサちゃんのアレンジの成果か」
 竜の牙の出自はギリシャ神話である。ある英雄が、斃した竜の牙を女神の導きに従って地に埋めると、そこから無数の武装した戦士が生まれ、互いに殺し合った。その後生き残った五人の戦士は英雄に仕えた。これによって人の世に戦士が誕生したという。
「いずれにせよ戦力なんだから、細かいことは気にしないようにしよう」
「まあ、必要なのは分かるんだけどよ……」
 それでも抵抗感はぬぐえないのか、京一は言葉を濁す。
「それよりも……さっそくのお出ましだけど」
 龍麻は足を止めた。道の先の広場、外灯の僅かな光の下に蠢く異形の者達。あちらも負けず劣らずの大軍であった。
 まず怨嗟の声を上げながら漂う死霊。
 次に、一応は人だろうか。刀を手にした、人間の姿をした者達。ただ、肌の色は悪く、その顔にも狂気の色が浮かんでいる。更にその身に《陰氣》を纏っているとなれば、明らかに普通ではなかった。一部の仲間達の見方で言うならば、かつて中央公園で村正に支配されていた男に似ている。
 そしてお馴染みの――鬼。
「何だか、服を着てるのが多いですね」
 霧島の言葉を聞いて、龍麻は知らず目を細めていた。見ると確かに、鬼達の半数以上は、破れてしまっているが人の服を――それも同じ物は一つもなく、それぞれが別の物を身に着けている。だが、それが意味するところは一つだ。
「鬼っていうから、金棒に腰巻き一つってイメージがあったんですけど」
「元は人間だからね」
 続ける霧島に龍麻は事実を告げた。驚いた顔で若き騎士は指揮官を見る。他の仲間達数名からも動揺らしいものが伝わってきた。鬼道衆との闘い以降に加わった、鬼を直接知らない者達だ。ただ、知っているからと言って平気なわけではない。残りの仲間達の顔には怒りと悲しみの色が入り混じって浮かんでいた。
「恐らく、柳生の呪法で鬼に変えられた人達やな。それにしても、随分と数を揃えたなぁ」
 臆することなく劉が鬼達を見ながら言った。
「御門はん、この辺りの住民、避難は完了しとるんやろ?」
「ええ。それに加えて上野一帯は結界で覆っていますからね。余計な人間が進入するのは不可能ですよ」
「にしても、あの数はなぁ。どこから連れて来たんやろ?」
 御門の言葉を聞いても釈然としないのか、劉は首を捻っている。
「いずれにせよ斃すべき敵だ。身の上を詮索しても、ああなった以上は仕方ないよ」
 それ以上は触れさせないような口調で、龍麻は言った。
「それよりも。というか、よりにもよって、アレまで動かすか……節操ないね、柳生も」
「仕方ないだろう。ここの地相を考えれば、予想範囲内だ」
 龍麻はしぶい顔を作り、如月は肩をすくめながらも声に怒気を乗せる。
 その理由は、柳生の軍勢に混じっている、古めかしい格好の亡者達。刀や槍を手にした、武者の成れの果てだ。
「幕末の亡霊。どうやら守勢側だけみたいだから、いても数百ってところだけど」
「それでも数の不利は否めないな。本格的な戦闘までに、どれだけ減らせるかが勝負の鍵だが」
 敵軍勢までの距離は約百メートル。正面切って戦うまでにはまだ余裕がある。敵に動く様子はないが、こちらが進めば嫌でも動き出すだろう。
 少し考えて、龍麻は指示を出した。
「竜牙兵を壁に。式神達には弓の準備をさせて。雛乃さんも同じく。ミサちゃんはレッドに珠を」
 裏密の命令で竜牙兵が前に出る。雛乃と式神は矢を番えた。レッドは裏密から珠を受け取り《氣》を込め、他の者達も戦闘に備える。
「僕が合図したら一斉に攻撃。前もって決めたとおり、敵が動き出したら僕達は先へ進む。残りは援護をよろしく」
 ゆっくりと龍麻は手を挙げる。一呼吸置いて、その手を敵に向けて振り下ろした。
 弦が弾ける音が続いて響き、式神の放った矢が上空へと放たれる。それらは放物線を描き、破壊をもたらす豪雨と化して陰の軍勢に降り注いだ。矢を受けながらも耐える、あるいは消滅していく敵達。こちらの攻撃がスイッチであったかのように、鬼が、剣鬼が、亡者が一斉に向かってくる。
「五月雨っ!」
 陰と陽の軍勢の間を、無数の光条が駆け抜けた。雛乃の放った陽《氣》の矢が、敵の出鼻をくじく。式神のそれとは桁違いの威力が、次々と敵を射抜いていった。
「おりゃあっ!」
 続いてレッドが動いた。《氣》を込めた赤い珠を、その強肩でもって放つ。それは見事に命中し、次の瞬間炎を撒き散らした。一撃必殺とはいかなかったがそれなりのダメージは与えられたようで、敵の動きも鈍る。
「第……二球っ!」
 続けて二つ目の珠。今度は炎ではなく、光が弾けた。こちらの方が効果があるのか、何体かが一撃で消え去っていく。
 珠は《氣》を込めることで超常を発揮する爆弾のような物。炎、水、氷――様々な現象を引き起こす。要領を得たのか、仲間の数人がレッドに倣って珠を投擲する。一撃の威力こそ彼ら自身の《力》に及ばないものの、それは確実に敵の戦力を足止めし、削いでいく。
「さて、そろそろ行こうか」
 様子を見ながら龍麻は言った。その手にはそれぞれ珠が握られている。
「足を止めずに一気に突っ切る。相手にするのは正面と、横から邪魔をしてくる奴らだけ。他は全部晴明達に任せる。僕達が最初にしなきゃいけないのは、できる限り消耗せずに寛永寺に辿り着くことだから」
 無言で首肯する葵達。柳生の《力》がどこまでのものかが分からない以上、余計なことに《力》を割くわけにはいかないのだ。
 見ると、敵との距離も最初の半分程までに縮まっている。時間的な余裕は多くない。
「弦月」
 しかし龍麻は動く前に一人の仲間を呼んだ。
「ん、何や?」
 赤い珠を手にしていた若き道士はいつもの調子で龍麻の方を向くが
「一緒に来るか、残るか。判断は弦月に任せる。今ここで、それを決めて」
 そう言うと、目を見開いた。先にメンバーは決めてあり、それはすでに発表済みだ。それでも龍麻は劉だけに選択肢を与えたのだ。
「な、何でわいだけ……?」
 これから乗り込む寛永寺には全ての元凶である柳生がいる。劉は、その柳生と因縁を持つ者の一人なのだ。彼の村は、柳生に滅ぼされた。その仇を討つために彼は日本へと渡ってきたのだから、本当なら同行を申し出てくるはずである。それなのに劉が何も言わなかったのを、龍麻は気にしていたのだ。
 劉は言葉を濁し、顔を下に向ける。一瞬見えた表情には迷いが見て取れた。少なくとも、行きたくないというわけではないようだ。
「劉様」
 その時、仲間の一人が声を上げた。敵に矢を射続ける雛乃だ。
「劉様が柳生と戦う理由は存じません。ですが、劉様が迷う理由は存じております」
 また一矢、矢筒から抜き出して番える雛乃。
「迷うのならば、お行き下さい。この先、気が変わったとしても、一人で敵陣を突破するのは不可能でしょうし、そのための援護をする余裕は、わたくし達には残されないでしょう。行くなら今しかありません」
「せ、せやけど――」
「その時に後悔しても、時間は元に戻りませんよ?」
 あくまで攻撃を継続しながら雛乃は言う。
 仲間達の注目が集まる中、劉はしばらく俯いていたが、やがて意を決したように、持っていた珠を敵へと投げつける。直撃を食らった鬼が一体、炎に包まれ塵と化した。
「雛乃はん、おおきに」
「御武運を」
 短いやり取りをして、劉は剣を抜く。先程までの迷いは既に無い。不敵に笑い、劉は言った。
「ほな、行こか」
 龍麻はそれに頷くと、周囲に目配せする。京一と如月は抜刀し、アランは二丁の銃をホルスターから抜いた。小蒔は弓に弦こそ張ったものの、矢は矢筒に収めたまま、空いた手に珠を持つ。 
「京一っ!」
 その時、藤咲が京一の名を呼んだ。普段の気の強い彼女からは珍しく、若干震えている声。
 この戦が今までにない程の激戦になるのは、誰にでも想像がつく。それが、鬼道衆戦を経験している者であるならば尚更だ。等々力決戦あのとき以上に危険な戦い。それを前にして、いつも通りに平静でいられる者は多くない。傍目には落ち着いて見えても、内心までそうである者はいないのだ。
 京一は足を止めた。しかし、振り返りもしなかった。
「んじゃ、行ってくるぜ。そっちも頑張れよ」
 それだけ言うと京一は一歩踏み出し、また止まる。
「怪我なんかしたら、承知しねぇからな。絶対に、無事でいろよ」
 ぶっきらぼうに言い放つ。藤咲は一瞬頬を朱に染めたが、吹っ切れたように口元を歪めた。
「……誰に言ってんのさ。アンタこそ、龍麻達の足を引っ張るんじゃないよ。とっとと行って、とっとと決めてきな」
「おう。任せとけって」
 手にした刀を一度掲げて、京一は再び歩き出す。
 柳生の軍勢との距離は先程よりも縮まっていた。本格的な接触までは僅かだ。
「竜牙兵を壁に! 正面は空けて! 僕らはそこから突っ込む!」
 龍麻の指示に従い、裏密が竜牙兵を更に前面に押し出す。同時に式神が下がり、骸骨兵の防波堤が、龍麻達の前を除いて展開される。
「今っ!」
 盾を構えた竜牙兵が体当たりするように突進した。派手な音を立ててぶつかり合う両軍。相手を押し倒し、あるいは押し倒され、陣の一部が混乱する。その中で、敵の進撃の止まらない所が一つある。意図的に兵を配置しなかった龍麻達の正面だ。
 しかしそこを塞ぐ者はいた。いや、物と言うべきか。
 それは裏密の魔操鎧リビング・メイルだった。竜牙兵と同じようにシールドを構え、漆黒の巨人は紅い光を纏って突撃する。その勢いと重量に、迫っていた鬼や剣鬼があっさりと吹き飛ばされた。それらを刃で串刺しにし、あるいは踏み潰しながらも鎧は前進を続け、しばらく歩いた所で手にした凶器を振るった。人間には持ち上げることすら困難であろう重量の斧は、鎧のこれまた人間離れした怪力に振るわれ、周囲の敵をことごとく両断してしまった。鬼達の身体は肉片と化して散らばり、次第に崩れていく。斧自体に《力》が込められているのか、死霊も例外ではなく、耳障りな悲鳴を響かせながら消滅していった。
 鎧の周りが無人地帯になる。その巨体の頭上を三つの影が跳び越え、両脇を二つの影が駆けた。
 鎧の背中の安全な所を蹴って跳躍したのは、忍と銃使いと赤い少女。駆けたのは侍と道士。
 如月は忍刀を口にくわえ、両の手の指に挟むようにして持った手裏剣を放った。四対八枚の手裏剣は、その一枚たりとも敵に命中することはなかった。それでも如月に焦った様子はない。再び忍刀を手にすると、鬼の一体に「着地」した。足場となった鬼に動く様子はない。いや、動けなかったのだった。
 理由は鬼の足元にあった。その影に、如月の手裏剣が突き刺さっていたのだ。飛水影縫――《氣》を込めた手裏剣を相手の影に縫いつけ、動きを封じる飛水流の技である。いくら夜とはいえ、今日は満月。おまけに外灯もある。影はできるのだ。
 他にも放った手裏剣の数だけ動けなくなった敵がいる。それらはまるで如月の進む先を確保するかのように、敵陣の奥に配置されていた鬼ばかりだ。足場にした鬼の首に刃を押し込み、次の足場へと如月は跳んだ。同時に鬼が崩れていく。
 アランの跳躍は前と言うよりは上へのものだった。既に霊銃は抜かれている。両手の凶器が唸りを上げ、如月へと注意の向いていた敵へと次々に《氣》弾が撃ち込まれていく。それは精密射撃ではなく乱射だった。いるのを幸い、手当たり次第に破壊を撒き散らすアラン。耐久力の低そうな剣鬼や亡霊は撃破されているが、明らかにしぶとそうな鬼はダメージを受けつつもその姿を留めている。だがアランには一体一体を確実に仕留める気などないようで、《氣》弾をばらまき続けている。
 時間にしてほんの数秒。攻撃が終わる時が近づいていた。翼を持たぬ身であるアランは、そのまま地上へと降り立つしかない。だた、その前に前方の一点に火力を集中した。剣鬼のみならず、さすがの鬼も撃ち抜かれて斃れる。
 着地したアランの肩を踏み、更に跳んだのはマリィだった。彼女は手にした瓶を途中で両脇へと投げる。地に落ち、あるいは敵に当たって割れた瓶は、次の瞬間爆音を響かせた。使ったのは桜ヶ丘の天然看護婦が使う危険物ニトロ。爆発点を中心に、敵の密度が薄まる。
 そちらの戦果を確認せずに、マリィは一つの空白地帯――先程、アランが作り上げた場所へと降り立った。彼女の両手には炎が生じている。炎を纏ったまま、スケート選手がするようにその場で回転する少女。炎は帯となって周囲へと広がり、敵を焼き払い、更なる空間を作り上げる。
 再び炎を生み出して、彼女は駆けた。その前方には追いついた拳銃使いが先行しており、如月の攪乱によって背を向けた敵を、あるいは空白に流れ込もうとする両脇の敵を牽制、撃破している。
 京一と劉は、魔操鎧の脇を抜けたと同時に練り上げた《氣》を解放した。斬撃と共に発生した《氣》の衝撃波が、螺旋を描く《氣》の奔流が、側面から迫る敵を再び押し戻す。二人は得物に《氣》を通わせ、侵攻路を確保するべく前に出た。
 それを追うように二人の少女が駆ける。手にしている物は普段彼女らが使う物ではない。それでも道を切り開くため、敵を迎撃するため、なるべく己の《力》を温存するために、二人は邪魔になりそうな敵に珠を投げつけていった。腕力はなくとも、珠は爆弾に等しいので関係ない。起動に使う《氣》も微々たるものだ。
 その後に続くのは龍麻と醍醐。彼らは女性二人の背後を護るように走る。後方からの攻撃を警戒・阻止し、味方が安心して進むための殿しんがりだ。敵を斃すのではなく、阻むのが目的なので、攻撃も《氣》を込めた通常の打撃。放出系の発剄などは一切使っていない。
 後は後方の仲間達が援護する。それは矢であったり珠であったり彼らの《力》であったり。突っ込んだ龍麻達が囮のような役割を果たし、かなりの戦力を削いでいった。
 やがて、先頭の如月が敵陣を抜けた。続いてマリィとアランが、京一と劉が、葵と小蒔が突破に成功する。彼らは振り向かない。そのまま公園の出口へと駆けた。
「龍麻、後は俺達だけだ!」
 追いすがる鬼に裏拳を叩き込んで、醍醐が叫ぶ。龍麻は頷くと右手に炎《氣》を生み出した。
「火杜っ!」
 腕を一閃すると同時に炎が走り、紅蓮の壁がそびえ立ち、敵を飲み込む。壁はすぐに消えることなく、鬼達の行く手を阻んだ。
 走りながら龍麻は振り返る。炎の壁は既に消え、鬼達にこちらを追撃する様子はない。ただ、広場に残った仲間達の方へと向かうようであった。
 龍麻は再び前を向いて走る。そして、二度と振り返らなかった。



 人の気配のない道を龍麻達は目的地へ向かって走っていた。敵の第一陣を突破してそれなりに時間は経ったが、やはり敵が追いかけてくる様子はない。それどころか、待ち伏せの気配すらなかった。普通ならば、こちらを阻止するために陣の一つや二つは敷いておくものだ。
「野郎、なめてやがるのか?」
 京一がぼやいた。敵の邪魔が入らないのは、正直自分達にとってありがたいことである。ただ、それが向こうの持つ余裕であるように感じられるのだろう。
「くそっ、まるで、地の底から何かが這い上がって来るようだ」
 醍醐は柳生の動きではなく、今の状況を前に顔を顰めていた。現在この一帯は異常なことこの上ない。上野公園内でもそうだったが、寛永寺に近付くにつれて周囲の《氣》の乱れが大きく、禍々しくなっていくのだ。旧校舎の深部どころではない。今この場にいるメンバーは劉を除いて鬼道衆戦を経験している者達だが、雌雄を決した等々力不動に比べてもここは酷いのだ。
 事態はより悪化しているに違いない。タイムリミットは、確実に迫っているだろう。
「龍麻、さっき御門に言ってたな。お前に関しては、柳生は寛永寺に来ようとするのを止めないと」
 あの時理由を説明しなかったからか、醍醐が訊いてくる。
「うん、言った」
 皆を先導しながら龍麻は答えた。
「あいつは僕に用があるんだ。いや、僕自身じゃないのかな。とにかく、うまく説明できないけどそういうこと」
「わけわかんねぇよ」
 先程と同じような口調で京一がぼやいた。
「気にすることはないよ。多分、寛永寺には柳生本人以外にも兵力がある。どうせ後で戦うんだから、今は楽をさせてもらおう」
 そう言って、龍麻は脳裏に目的地までの道順を思い浮かべる。
「次を左。そうしたら右手の学校を過ぎた先が寛永寺の敷地になる」
 敵の本陣は目前だった。さすがに皆の間に緊張が走る。龍麻自身もこれからのことを考えた途端、手が震えた。
(武者震い、かな。それとも本当にビビってるのか)
 どちらとも解釈できる。ついに決着をつける事ができるのだと逸る心と、またあの敵と相まみえなくてはならないという恐怖が自分の中にあるのだ。
 恐怖を紛らわせるように、龍麻は震える手を強く握った。大きく深呼吸をして、何事もなかったように進む。
 そして、ついに辿り着いた。柳生の本陣。上野寛永寺。門は開かれており、やはり行く手を阻む者はいない。龍麻達は敷地へと足を踏み入れる。
 途端――仲間の全ての口から呻く声が漏れた。
 そこは地獄だった。もちろん本当の地獄を知っているわけでもなければ、そもそも地獄が実在するのかどうかも分からない。ただ、そこが地獄だと言われれば、龍麻達にはそれを信じることができる。
 濃密で、身にまとわりつくような《陰氣》がそこには満ちていた。等々力の比ではない。《力》を持つ自分達が、等々力の時よりも強くなっている自分達が怯んでしまう程の《陰氣》だ。しかもただ《氣》が濃いだけではなく、様々な感情――憎悪――哀しみ――怒り――が混じっている。自分と、そして葵には京一達以上の負担だ。龍麻は身を包む《氣》を大きくした。葵も顔を顰めながら《氣》を放って身を守る。
「ふっふっふっ……ようやく、俺の元へ辿り着いたな」
 声が聞こえた。注意を向けると境内の奥、本堂の入り口の前に全ての元凶がいた。戦の準備はしていたのか、身に着けているのは鎧。赤と黒が混じった南蛮胴具足を纏った剣鬼が座っている。
「よく来たな。緋勇龍麻――そして、菩薩眼の娘と《力》持つ者共よ――全ては宿星によって定められた因果の輪の内というわけか……」
 こちらを一瞥し、柳生は立ち上がった。手にした刀を腰に差し、進み出る。抜刀すらしていないのに、それだけで今まで以上のプレッシャーに襲われる。
 そんな中で、仲間達の動揺が伝わってきた。姿そのものを見た者はいる。ただ、その存在を肌で感じたことのある者は一人もいない。中央公園で対峙した時は不意打ちであったし、京一達が相手にしたのも幻影だ。柳生の《力》を見たのはただ一度。足立区で八剣を肉片に変えた鬼剄であろう一撃だけなのだ。それが今、実際の脅威として目の前に在る。柳生に気圧された仲間達から伝わってくるのは恐怖という負の感情。戦闘態勢にも入っていないというのに、相手に呑まれかけていた。それは龍麻も同じだったが、逃げ出したくなる衝動に耐えながら凶星の者を睨む。数の上ではこちらが有利に思えるが、思えるだけで実際は余裕の欠片もない。柳生の方も泰然自若として顔色一つ変えようとはしなかった。
「まずは、貴様らに礼を言っておこうか。貴様らは、実によく働いてくれた。龍脈の《力》を活性化させるために……な」
 尊大な態度で柳生は言った。仲間達のいくらかはその意味が分からず戸惑っているようだが、龍麻はやはりと納得する。
「この一年近くの間にこの地で起きた様々な怪異は、龍脈の乱れが引き金となって起こったものだ。龍脈の活性化は、この地に住まう者に《力》を与えた。だが所詮はヒトだ。その《力》に押し潰され、あるいは溺れ、いくつもの火種となる。火種は火となり、炎となり、世に混乱を引き起こす。それが更に龍脈に活力を与える……」
「なるほど……僕達が事件に関わったこと自体が、お前にとっては都合が良かったわけだ。いや、僕達が関わるように仕向けたと言った方が正しいのかな」
 遡れば鬼道衆との闘いの時から、もしかするとそれよりも前から、柳生の暗躍は始まっていたのだ。全てはより強い《力》を求めるため。龍脈という絶大な《力》を手に入れんがため。そのために《力》を得た者をそそのかし、あるいは壊れることを承知で《力》を与えたのだ。自分達が関わった《力》ある者全てがそうだとは言わないが、少なくとも九角との再戦以降のそういった事件は直接、間接の違いはあるが全て柳生絡みだ。
 知らぬ内に、握り拳を震わせている自分に気付いた。だがこれは、武者震いではない。恐怖から来るものでもない。それは――今にも暴発してしまいそうな怒りだ。
「見ろ、この《氣》の奔流を――聞くがいい、大地の鳴動を――ふっふっふっ……そこで、見ているがいい。ヒトの滅びる様を――」
 柳生は両の腕を広げ、嗤う。周囲の異状は指摘されるまでもなく分かっている。龍脈の活性化――恐らく龍命の塔の起動のせいもあるのだろう。ここへ来る前からも微弱な地震が続いているし、大気の《氣》はこれでもかと乱れている。更にこの場所は龍穴の直近だ。漏れ出した《氣》がうっすらと地面から立ちのぼっており、陽炎のように揺れていた。
「ふざけんじゃねぇっ! 俺達が、この場で引導を渡してやるぜっ!」
 京一が抜刀し、切っ先を柳生に向けた。しかし柳生は歯牙にもかけない。
「愚かな……この俺を、斃せるつもりでいるのか? 俺を斃す事は、誰にもできぬ。例えそれが、神であろうともな。この無限の刻の中を生きる俺を、たかがヒトが、斃せると思うか?」
「無限の刻?」
「そうだ……俺は、徳川の治世に生を受け――以来、長き刻を生き続けてきた。この龍脈の《力》を手に入れるためにな」
「へぇ……無限の刻ってのは、長くてもたかだか四百年のことを言うんだ」
 ここで初めて、柳生の表情が動いた。もちろん今までも動いてはいたのだが、今のはこちらが「動かした」のだ。当然だろう。本当ならば、今のはこちらが驚きを見せる場面なのだ。柳生の正体を龍麻達が知っているはずがないのだから。
「貴様……何を知っている?」
「さあ?」
 京一からもたらされた、神夷の持つ情報は、ここまでの道すがら、ここにいるメンバーには話してあった。伏せておいても良かったが、いざ戦闘の最中にこのテの情報を出されたら、動揺するのは目に見えている。そして戦闘中のそれを柳生は見逃さないだろう。ならばということで説明しておいたのだ。
 柳生の目はそれ以上の言葉を欲しているようであったが、教えてやる義理はない。柳生は少しの間こちらを見ていたが、まあいい、と背後へ振り返った。それは明らかに隙を見せる行為なのだが柳生は余裕を崩そうとはしない。
「もうすぐ、新たな覇王が誕生する。《器たる者》に、この地下に集まる龍脈の《力》が流れ込めば、偉大なる黄龍の《力》を手中に収める事ができる――」
 柳生の視線の先には寛永寺の本堂があった。恐らく《器》はあの中なのだろう。今回の戦いの最重要目標。《器》さえ斃せば、自分達の勝ちだ。
「そうなれば、俺は黄龍の《力》を持った《器》を操り、この現世を混沌の陰に覆われた世界へ変えてみせる」
「そんなコトさせるもんかっ! この東京を、キミの自由になんかさせてたまるかっ!」
 矢を矢筒から抜き取り、番えながら小蒔が叫ぶ。それはこの場にいる、そしてこの上野という地に集った仲間達全員の想いだ。
「柳生……貴様が、その永い時の中で何を見、何を聞いてきたかは知らないが、たかが、数百年の年月としつきを生きてきただけの奴のために、この東京を滅ぼさせるわけにはいかない」
 拳を鳴らしながら、醍醐が一歩、前に出た。
「たかが……だと?」
 柳生が再度振り返る。醍醐の言葉に腹を立てたのかと思わせる重圧がこちらに向けられたが、剣鬼の顔に浮かぶのは嘲りの色だった。
「俺は、今まで、ずっとこの国の歴史を観てきた。ヒトの無力さと、ヒトの愚かさを――そして、天命という、持って生まれた宿星の力を――因果の流れは、全ての者に平等ではない……現世に於いて、その流れに逆らう事ができる《力》を得られるのは、天に選ばれた者だけなのだ……」
 天に選ばれた者――このような物言いを以前聞いたことがあった。《力》を得たことで自分を特別な存在だと思い込んだ、己の《力》に酔い、ただ己の欲望を満たし、あるいは正当化して罪なき人々を傷つけた者達。普通の人にはないものを得た人間が陥りやすい、《力》の裏側に潜む副作用に負けてしまった者達だ。
 そうなった以上、末路は大抵同じだ。何処までも堕ちていく。そして最後の一線を踏み越えればヒトですらなくなってしまうのだ。目の前の男は人の姿を保ってはいるが、既にヒトではない。数百年を生きてきたというだけで人間を逸脱している。龍麻は人外に偏見を持っていないが、こういう輩に対しては別だ。狂ってやがる、と京一が舌打ちするのが聞こえたが、全くの同感であった。
 その時、後ろにいた葵が前に進み出た。柳生のプレッシャーにも負けず、葵は多くの感情が入り交じった瞳を柳生に向ける。
「人の歴史が愚かなものだと言うなら、その愚かな刻を生きてきたあなたは、何なの……?」
「何だと?」
「あなたは、その歴史の中で何をしてきたというの? ヒトの無力さを、ヒトの愚かさを観てきただけなの? それじゃあ泣いている赤子と同じじゃない。何もできず、誰にも認められず、ただ、泣いていただけの……あなたは――」
「ふっふっふっ……相変わらず、よく口の廻る女よ」
 柳生の低い嗤い声が、葵の言葉を遮った。ただ柳生の言葉には違和感があった。相変わらず、と言った。柳生と葵が直接顔を合わせるのは今回が初めてだというのに。その意味を考えようとした時、柳生が刀を抜いた。
「貴様らの《力》がいかに無力か――その考えが、いかに愚かか、教えなければ分からぬか……まあ良い……見せてやろう、俺の《力》を――」
 柳生が刀を逆手に持って地面に突き刺した。それを通して柳生の《陰氣》が地に注がれる。地鳴りの中で、柳生の何やら呟く声が僅かに聞こえた。
 そして、それは現れた。地面から這い出してくる無数の鬼。人が変じたものではなく、純粋に《陰氣》から生み出した鬼。更に、本堂の手前に紅い光が灯る。見ると、それは日本刀だった。無造作に積み重ねてあった数十振りの刀が浮かび上がる。やがて《陰氣》が集まるとそれは人の姿を成した。上野公園に出現したのと同じ、剣鬼だ。
「話にも飽きた。我が大願を邪魔する貴様らにはここで死んでもらうが……菩薩眼。貴様だけは生かしてやらんでもない」
「え……?」
 意外な言葉だった。言われた本人はもちろん、仲間達もその意図が読めない。今更、柳生が女に興味を持つわけでもないだろう。ただ、その疑問は次の言葉で簡単に解消された。
「《器》を産めるのは菩薩眼のみ。《陰の器》に不都合が生じた万が一の時は貴様に《器》を産んでもらう。つがいとなる《力》を持つ人間など、捜せばいくらでもいよう」
 そこには何の感情も浮かんでいない。あるのはただ、物を見るような目。人を道具としか見なさない冷たい目だった。
 びくりと葵の身体が震える。女性という身に今の言葉がどれ程の不快感を与えるか――分かるはずもないが龍麻にはそれが分かってしまう。戦いとは違う意味の恐怖に葵は呑まれかけていた。
「寝言は寝て言え」
 葵を庇うように龍麻は前に出た。
「話に飽きたのなら、そろそろ始めよう。こっちも、悠長にしている暇はないんでね」
 ゆっくりと両手を前に差し出し、龍麻は《氣》を練り上げていった。身に纏う《氣》を二ヶ所に集中させる。
「な、何やて……!?」
 驚きの声を上げたのは劉である。他の者達も声こそ上げなかったが、驚いているのは気配で分かる。
 それは異様な光景であったろう。龍麻の両手に《氣》の塊が生じている。右手に蒼い光の珠が、左手には紅い珠があった。大きさはそれ程でもないが、それが恐ろしく高密度の《氣》の塊であることが分かる。問題なのは、陽の《氣》と陰の《氣》という、対極にある《氣》を同時に放っている点だ。
 更に、金色の《氣》が腕から生じ、珠を飲み込む。一瞬大きく輝いたかと思うと《氣》の光は消え、代わりに龍麻の腕には手甲が顕現していた。龍の頭を象った金色の手甲。前腕の肘に近い部分には、蒼と紅の珠がそれぞれ埋め込まれている。それは宝玉を持つ龍の姿を思わせた。
「貴様もそれができるか……そうでなくてはな」
 柳生に京一達ほど驚いた様子はない。ただ、嬉しそうに口の端を歪めた。
 馴染ませるように龍麻は手を握る。何度か試したことはあったが、今回程しっくり来る出来は今までになかった。自分が知る物とは違う造りになったが問題はないだろう。
「じゃあ始めようか」
 言うと同時に龍麻は腰のポーチに手を突っ込んだ。取り出したのはピンボール大の黒い玉。それを一斉に柳生の方へと放り投げる。玉は地面に落ちた瞬間に弾け、派手に煙を噴き出した。
「雄矢。四神と葵さん、小蒔さんを連れて本堂へ。《器》は任せる」
「「「な――っ!?」」」
「京一と弦月は僕と一緒に柳生の相手」
「ちょっ……ちょっと待て! いくら何でもそれは無茶だ!」
 異論を唱える醍醐。仲間達も何を馬鹿なと真意を問うような目を向けていた。京一だけがやれやれと溜息をついているが、その顔は笑っていた。
「無茶かどうかは問題じゃない。僕達の目的は《器》の阻止だ。だったら、柳生の足止めをしている間に《器》を叩くのが当然。雄矢達が早めに《器》を叩いてくれるほど、僕らは助かる。柳生の相手はその後みんなでゆっくりすればいい」
 何か言いたげな仲間達。しかし時間がないのも事実だった。柳生相手に全員でぶつかれば、確かに安全に戦えるかも知れない。だが、一人の相手に掛かることができる人数は限られる。後方からの射撃支援も前にいる仲間の数が多ければそのタイミングが難しくなる。いるだけの人数を活かすことができなるなるのだ。ならば多少きつくても少人数の方がいい。
 それに、四神と後方支援、回復役がいれば、《器》がどのような《力》を持っていても対応できるだろう。少なくとも柳生を相手にするだけならば、近接戦闘要員だけで事足りるのだ。もちろん、攻撃を食らわないという前提のもとで、だが。
「僕達だけじゃない。公園ではみんなが柳生の軍勢と戦ってる。一刻を争うこの状況で、何をためらうの?」
 指揮官代理を命じられた醍醐は、眉間に皺を寄せたままこちらを見ていた。やはり何か言いたげではあったが、大きく溜息をつくと頷いた。
「みんな行くぞ。ここは龍麻達を信じよう」
 大きな手を広げ、醍醐はそれをこちらへと振った。同じく龍麻は手を広げてそれを受ける。パンという小気味いい音が響いた。
「それじゃあ僕らが道を開く。雄矢達は邪魔者だけを潰していって」
「了解だ。こちらは気にせずに、柳生に専念してくれ」
「頼むよ。それから葵さん」
 龍麻は首から提げていた物を葵に手渡した。それは光沢のある、石器のような形をした黒い石の首飾り。龍麻の《力》を抑えるための物だ。
「これ、預かってくれるかな」
「龍麻……」
 それが何かを知っている葵の顔が曇る。そうすることが何を意味するか、分かっているからだ。しかし、現状のままで戦っても勝算は低い。持ちうる《力》の全てを出し切らなければならないのだ。
「僕は大丈夫だから。葵さんも気をつけて。みんなの援護・回復をよろしく」
「ええ……龍麻くんも……気をつけて」
 石を握り締め、力強く葵は頷く。頷き返して、龍麻は本堂の方を見た。煙幕は未だ健在で、軍勢が動き始めたのが気配で分かる。そして、その中でも大きな《氣》を放つ柳生の位置も。
「これから道を開く! 行って!」
 龍麻は《氣》を練り上げる。蒼光が炎へと変じ、霊獣の姿を成す。
「秘拳・鳳凰っ!」
 咆吼を上げ、炎の霊鳥が敵陣目がけて突き進む。それが、戦闘開始の合図となった。



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