「おっ――どうやら、来たみたいだぜっ」
京一の声が聞こえたので、龍麻は回想を中断した。入り口の方を見ると、マリアがこちらへと歩いてくるのが見える。
「待たせてしまってごめんなさいね」
「いぇ、俺達もさっき集まったばかりですから」
お約束とも言える言葉を交わすマリアと醍醐。醍醐の言う通り、それ程待ったわけではない。ただ、これならば職員室でマリアを待っていても大差ないように思えた。それに作業の気配すらなかったマリアの机。仕事が目的で学校にいたとはどうしても考えにくい。
「そう……それは良かったわ。さぁ、みんなもこれからお参りでしょう? 大事な時期だもの。しっかりお願いしなくちゃね」
微笑みながら皆を促すマリア。この時期の教師らしい言葉である。とは言え、それに直接関係があるのは龍麻と葵だけだ。小蒔は女性警察官の試験に見事合格しているので、卒業までに不祥事を起こさない限り就職は確実である。醍醐もどうやら就職というか、道を既に定めているようだ。意外なことだが京一も。
後は、大学受験を控えた龍麻と葵、ということになる。アン子は……どんな進路を歩むのだろう?
龍麻以下、七名は本殿の前に揃って立った。思い思いに賽銭を投げ入れ、手を叩く。龍麻もお約束で五円を投げ入れると、手を叩いた。正式な作法があるらしいが、詳しく知らないのでその辺は無視である。
目を閉じ、想う。
最初に浮かんだのは、血まみれの少女。
次に浮かんだのは、故郷の親友達と、鬼に変じた転校生。
それから出会った大切な仲間達と、闘ってきた相手。
今まで自分達を支えてくれた家族、大人達。
そして、赤い剣鬼。
龍麻は祈る。
(今日の戦いで、全てが終わりますように)
龍麻は祈る。
(柳生を斃し、《器》を止め、これ以上の悲劇が起こることがありませんように)
龍麻は祈る。
(僕の大切な人達が、傷つき斃れるようなことがありませんように)
そして、誓う。
(僕の全てを懸けて、今までの因縁に終止符を打つ……っ!)
合わせた手に一層の力を込めて、龍麻は勢いよく頭を上げ、目を開けた。
既に自分の両脇に仲間達の姿はない。振り向くと、少し離れたところに固まっている葵達が見えた。参拝を済ませ、他の参拝客に場所を譲ったのだ。
龍麻もその場所を離れ、葵達に合流する。
「これで今年の初詣も無事にお終いね。龍麻くんは……随分と熱心に手を合わせていたようだけど、何をお願いしたの?」
「これからの……ことと、みんなのことをね」
葵の問いにそう答える。今の龍麻にとって、気になること、考えなければならないことはその一点のみだ。具体的に何を、とは口にしなかったが、それだけで事足りる。葵はやや寂しげな微笑を浮かべ、頷いた。
「そう……そうよね」
「心配するな、龍麻。お前は一人じゃないんだ」
そんな、重くなりかけた空気を、豪快な声が打ち払った。
「そうだよっ! ボク達、みんな一緒だし、きっと……どうにかなるってっ!」
明るく元気な声が、それに続く。
「ちっ、相変わらず気楽なヤツだな、お前は……ま、何とかなるだろうし、何とかするさ」
そして最後の一人も、やや呆れつつも同じ想いを口にした。
「そうね、ミンナ、想いはそれぞれ違うけれど、願い事が叶うといいわね」
こちらの事情は分からないであろうが、マリアは優しく笑った。そんな担任教師に小蒔が疑問をぶつける。
「そう言うセンセーは、何をお願いしてたの? ひーちゃん程じゃないけど、熱心に手を合わせてたみたいだし……」
「フフフ。さぁ、何かしらね? それじゃあ、ワタシはそろそろ行くわ」
答えることなくはぐらかすと、マリアは腕時計に視線を落とした。せっかく誘ったというのに、本当に初詣だけのために出てきたようである。そんな中、不満の声を上げたのは京一だ。
「もう行っちまうのかよ!? なんだ、せっかく俺達のために来てくれたと思ったら、これから男とデートかよぉ……」
「フフフ、ご想像にお任せするわよ」
拗ねた口調の京一に、やはり曖昧な答えを返すと、意地悪っぽい笑みを作るマリア。ただそれは一瞬で、次には授業時のような真面目な顔で言った。
「それより龍麻クン……アナタに大切な話があるの。後で……一人で学校まで来てくれないかしら?」
正直、心のどこかで納得している自分がいる。今の今まで、表立って出ることがなかったマリアの顔というか。少なくとも、教師と生徒の話ではないだろう。でなければ、わざわざ学校に一人で出向く必要はない。
「……分かりました。こっちも所用があるので、夜になってからでいいですか?」
「ええ、ありがとう。待っているわ。それじゃあ、さよなら、みんな。気をつけて」
答えると、礼を言ってマリアは踵を返した。そして、振り向くことなく人混みへと消える。
一方仲間達はマリアの態度が気になるようだった。
「マリアセンセー、ひーちゃんに何の用事だろ?」
誰もが思っているであろう疑問を、小蒔が口にする。京一はしばらく人混みの方を見ていたが、顎に手をやり振り向くと、龍麻を横目で見た。
「ひーちゃんだけお呼びがかかるとは……しかも夜の学校で……アヤシイ」
「何が?」
「だって、せんせと言えども男と女だぜ? ひょっとしたら……」
首を傾げる小蒔に、いつもの如く、ずれた言葉を発する京一。当然の事ながら、そんな妄想めいた発言をはいそうですかと聞き流す新聞部長ではなかった。
「アンタねぇ、何でそういう発想しかできないの!? ホント、男ってどうしてこうなのかしら」
(その「男」には僕も含まれているんだろうか?)
心外ではあるが、問い質すのもどうかと思われた。だがアン子だって、以前龍麻がマリアに呼び出された時に、似たようなことを口にしているというか、期待していたのだが。
何げに横を見ると、同じように困惑した顔でこちらを見る醍醐の姿。その目は「俺達は……違うよな?」と訴えている。こくり、と一度だけ龍麻は首を縦に振った。
「まぁ、行ってみれば分かるだろ。それにどうやら、俺達の出番はなさそうだしな」
京一とアン子が騒ぐのを尻目に、醍醐は肩をすくめると歩き始める。
「そだね。ともかく、そろそろ行こ」
「えぇ、そうしましょう――」
小蒔と葵もそれに倣った。ここに至って京一達も我に返り、ばつが悪そうな顔をしながらも続く。その様子がおかしかったが笑うのを我慢し、龍麻も続こうとしたその時だった。
周囲の動きの一切が、止まる。参拝客のざわめきも消え、全ての人々がその場で静止している。やがてそれらの人々すら消え、その場には龍麻一人だけが残された。この状況が何を意味するのか、龍麻には理解できた。
(結界……ということは……)
「緋勇龍麻――」
どこからともなく聞こえる声。今までに何度か聞いた、二度と忘れられない声。
「柳生か」
名を口にすると視界が揺らぎ、その場に紅い学生服を着た男が現れる。今回の事件の元凶、柳生宗崇。
臨戦態勢をとる事はしなかった。目の前にいる男が、幻影であると分かっていたから。
不遜な態度を崩すことなく、剣鬼はこちらへ見下すような視線を向ける。
「この前、俺がつけてやった傷は、もう癒えたようだな」
「……しっかりと傷痕は残ったけどね。お前の事を考えるたびに疼くよ……」
コートの上から傷に手をやり、口の端を歪めて龍麻は柳生を見やった。柳生の方は、先の質問に執着はなかったのか、そうかとだけ返す。
そのまま、互いに何も発しないまま数秒が経ち――
「……十七年前も、そしてこの前も――何故、貴様を殺さずにおいてやったか……分かるか?」
柳生が問うた。
それは龍麻にとっても疑問だった。中央公園で斬られた時、その気になれば、柳生は一撃で龍麻の首を斬り飛ばしていただろう。その余裕があの時の柳生にはあったのだ。それにあの後、病院に収容された時点で桜ヶ丘に襲撃をかけていれば、龍麻以下、多くの仲間も斃されていたはずだ。だが、襲撃はなく、結果として龍麻は生き長らえた。
六道を使ったこともそうだ。やり方が回りくどいのである。まるで、こちらを試すような――
「貴様は、この俺の野望を、人の身ながら唯一阻止できる男……貴様こそが、俺の望む世界に生きるに相応しい修羅となるべき男。俺は貴様の全てを奪い取り、踏みにじり――貴様を修羅の鬼と化してやろう。それが嫌なら――この俺を討ち取ってみせるが良い。そのくらいの障害のないこの世など、獲る価値もないというものよ」
嗤う柳生。要は余興、ということだ。
だが、柳生の目に宿る暗い色は、理由の全てを語っていないことを示している。そこには、自分へと向けられる明確な感情があった。いや、自分を通した誰かに、だろうか。
「……余裕だね。そうやって僕達を見下しているといい。すぐに後悔させてやる」
「ふっ、それでこそだ。大いなる器よ……この俺を心底、震撼させてみろ! くくく……この俺を脅かしてみせろ。早く……来い。この俺の高みまで――」
再び柳生の姿が揺らいでいく。
「今宵、寛永寺で待つ――」
それを最後に柳生の姿は消えた。
「龍麻さん……龍麻さん――!」
声が聞こえると同時に景色は動き出した。柳生が結界を解いたのだろう。あの男の姿は既に無い。替わりに仲間である少女がそこにはいた。制服姿でしか見たことはなかったが、今日の彼女は薄紫色を基調とした晴れ着姿だ。
「比良坂さん。君も、花園に来てたんだ」
「はいっ。さっきまで、院長先生と一緒だったんだけど、何となく、龍麻さんのことが気になって――そうしたら、龍麻さんがぼうっとしてたから。どうかしたんですか?」
「いや、何でもないよ。それより、明けましておめでとう」
先のことは話題にせずに、話題を変える。比良坂はあっ、と口元を一瞬押さえると、姿勢を正して頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。最初に挨拶をしなきゃいけないんでしたね」
えへへと笑って、比良坂は晴れ着の袖を持ち上げてみせる。
「この格好、おかしく……ないですよね?」
「うん、似合ってる。やっぱり正月ともなると、着物率が上がるね。でも、その着物、どうしたの?」
葵に小蒔、マリィに雛乃。それに比良坂を加えると、半数近い女性が着物だ。ただ、比良坂が着物を持っているのは意外だった。というのも、彼女は着の身着のままでこの世界へ来たのである。というか、自分が引っ張り込んだのだが。
「岩山先生が用意してくださったんです。何でも昔着ていた物だとか。お下がりでもらっちゃいました」
「昔……?」
今の岩山の姿を思い出してみる。そして比良坂の着物をもう一度見た。何というか――
「時の流れって、非情だね……」
一体今に至るまでに何があったのだろうかと、考えてしまったりする。どうせ答えは出ないし、本人に問い質す度胸もないが。
「そういえば――他の皆さんが鳥居の方へ歩いて行くのを見たんですけれど、そこまで……ご一緒してもいいですか?」
「ん。そうだね、みんなにも挨拶しておくといいよ」
そう答えて、龍麻は比良坂と共に歩きだした。特に話をすることもなく、ただ周囲を見物しながら歩く。
「あの……ありがとうございました」
比良坂が言う。何のことか分からず、龍麻は比良坂の横顔を見た。前を向いたまま、比良坂は続ける。
「もしかしたら、もうわたしなんかに関わるのは、嫌なんじゃないかって、思ってたから……」
「まさか……そんな風に思うなんて、あり得ないよ」
比良坂が言いたいのは、品川の事件のことだろう。あの時、死蝋影司の手伝いをしたのが彼女だ。それ以前にもこちらに接触するのが目的で何度か近づいてきた。
結果、龍麻は死蝋の手に落ち、数日間監禁された。その事を気に病んでいるのだ。だが、それを言うなら自分だって似たような――いや、それ以上のことをしでかしている。
自分を庇った比良坂を死なせてしまった。そして《暴走》し、死蝋の作品である死人をことごとく破壊し、死蝋本人を殺した。さらには仲間にまでその矛先を向けようとしたのだ。客観的に見れば、自分の方がよっぽどひどい。
だから、比良坂の言を龍麻は否定した。大体、もし彼女の言うとおりなら、仲間に加えたりしない。後は拳武館か陰陽寮にでも任せて極力接触しないようにすればいいのだから。
比良坂は変わらず前を見たままだが、その顔は緩んでいた。
「龍麻くん!」
と、行く先から葵の声が届いた。仲間達が集まってこちらを見ている。龍麻の隣に比良坂がいるのに気付いたのか、驚いている者もいる。
「皆さん、明けましておめでとうございます」
比良坂の方から挨拶をする。それで我に返ったように挨拶を返す京一達。それが終わると、比良坂は龍麻に頭を垂れた。
「それじゃあ龍麻さん。わたしはこれで……」
「え……? もう、行ってしまうの?」
挨拶だけ済ませて、もう行くと言う。葵が訊ねると比良坂は首肯した。
「岩山先生と約束がありますから。御用の時は、いつでも呼んで下さいね」
「あ、それじゃあ、岩山先生に伝言を。今日、比良坂さんと舞子を借りるから、って。詳細は後で連絡するから」
笑顔が一瞬固まる。それでも比良坂は再度首を縦に振ると、皆に一礼して歩いていった。
「さあ、それじゃ、僕達もそろそろ帰ろうか」
龍麻は皆を振り返る。仲間達の顔には若干の緊張が見られた。ここへ来るまでに何度か遭遇した仲間達に待機を命じてきたが、それが集まる時が近づいているのだ。これから一度家に戻ったら、その後は決戦だ。
「それじゃ、あたしん家、みんなと反対方向だから、行くわね……」
独り、アン子が立ち止まった。この中で唯一の、普通の人間。今晩の戦いには関係ない人物だ。これから先は《力》持つ者達の時間である。
「あぁ。今日は家で大人しくしてろよ。無闇に……出歩くんじゃねぇぞ」
釘を刺すように京一が言うと、アン子は分かったわよっ、と頬を膨らませた。
「話してくれないから、全然分からないけど、でも――無事に戻ってこなかったら、承知しないからねっ」
「もちろん。卒業まであと少し。こんなところで人生を終わらせるつもりはないからね」
仲間達程ではないが、アン子との付き合いも長く、深い。今までのやり取りがあれば、大体の事情を察するくらいはするだろう。だったら、こちらも無理に隠し立てする必要はないが、それでも詳しく話すつもりはない。適当に言葉を濁しておく。
「そういうわけだから、遠野さんは今日の所はゆっくり休んで、明日からまたアルバムの編集を頑張って、その後はまた真神新聞に精を出してね」
「うん……今度の新聞、龍麻君の大活躍を載せるスペース、空けて待ってる。だから……だから……無事に帰ってきて、ちゃんと話してよね。あたし、あんた達を……信じてるから。頑張りなさいよっ!」
アン子はそのまま背を向けると、逃げるように駆け出した。止める間もなく彼女は消えてしまう。
それを見送り、龍麻は仲間達を見やる。暗い顔でアン子の去った方を見ているのは葵と小蒔。事情を説明してやれない後ろめたさのようなものがあるのだろう。しかしおいそれと話せないことも事実。何も知らない者にとってはただのトンデモ話にしか過ぎないが、『こちら側』の人間から見れば今回の闘いに関する情報はとても重要な意味を持つ。知ることによるリスクが生じてしまうのだ。
「さ、僕達もそろそろ帰ろうか」
努めて感情を表に出さないようにして、龍麻はその場から動いた。
「ボク達がミサちゃんから聞いた話によると、今夜零時に、東京を護る結界の力が一番弱くなるんだって。そして、その前に何かが起きるって……」
人通りの多いままの新宿駅東口前を通りながら、小蒔が真神で裏密から聞いたことを説明した。相づちを打ちながら、醍醐もまた、同じ事を「偶然遭遇した」御門から聞いたと言う。占術に長けた二人の言葉だ。間違いはあるまい。龍命の塔が地上に姿を現すその時まで――もう間がない。
「ともかく、一旦家に帰ろう。家族に伝えたい言葉もあるだろうし、それに、美里と桜井は着替えた方がいいしな」
女性陣を見ながら醍醐。さすがに着物のままでは今夜の決戦に臨むのは無理だろう。
「それなりに動き回ることになるだろうから、それ相応の格好でね。とりあえず装備の類は、翡翠と紅葉が準備をしてるから、みんなは得物を持ってくるだけでいいよ。といっても、京一と小蒔さんだけか」
龍麻は二人を見た。京一はいつものように刀。小蒔は今は持っていないが弓だ。葵は指輪による能力強化が主なので手ぶらに等しいし、醍醐は元々武器を使ってはいない。
「じゃ、みんなは家に帰って家族とゆっくりしておいで」
「龍麻くんは……さすがにそうもいかないわね」
申し訳なさそうに言う葵。龍麻の実家は岡山だ。家族と過ごすことはできない。仕方のないことではある。
「それじゃ、ささやかながら家族と最後の食事でもするか」
腕を頭の後ろで組みながら、しんみりとそんなことを漏らす小蒔。そんな彼女を京一が小突く。
「バーカ。これから帰って英気を養って、決戦を俺達の勝利で終わらせて、その後はひーちゃんとこでどんちゃん騒ぎと洒落込むんだ。縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ」
「そっか……そうだよねっ! ひーちゃんとこのおせち、まだ食べてないし!」
一転して元気がよくなる小蒔を見て、醍醐が笑う。
「はははっ。その、すぐに前向きになれるところが桜井らしいな。まあ、それは最後のお楽しみだ。それじゃあ、集合は九時に新宿駅でいいか?」
「いや……二十一時には上野に居て。各自、西郷像の下辺りに集合。人数が揃い、準備が済み次第、進軍を開始する」
醍醐の提案を修正し、龍麻は言った。ゴクリ、と誰かが喉を鳴らしたのが聞こえる。
「これが……最後の戦いになるのね」
胸元で手を組んで、深刻そうな顔で、葵。最後の戦い。本当に、そうであって欲しいものだ。もちろんそれは、龍麻達の活躍に懸かっている。
「あぁ、間違いねぇな。さぁて、ちっとは家で親孝行でもしてくっかっ。と……ひーちゃんはどうする? さっきマリア先生が来いって言ってただろ?」
背伸びをしながら京一が龍麻を見た。自然、皆の視線が集中する。
「あぁ、約束は約束だ。行った方がいいだろうな」
「うん……でも、ホント、何の用なんだろ……ねぇ、ひーちゃん。何か……心当たりはないの?」
「あいにくと」
小蒔の問いに、言葉短く答える龍麻。
「まあ、行ったら分かるだろうし。それじゃ、僕はこの辺で」
肩をすくめると、龍麻は仲間の列から外れ、自宅へと足を進めるのだった。
19時45分。真神学園校門前。
静かにバイクを門の正面に止めた。はっきり言って通行の邪魔になるのだが、冬休みという事もある。しかも今日は元旦、更に夜だ。文句など来るはずもない。
龍麻はヘルメットをミラーに引っ掛けるとハンドルロックを掛け、キーを革ジャンのポケットに放り込む。そのまま閉まっている校門を一跳躍で越えて校舎へと向かった。
その道程は空に浮かぶ月の光に照らされ、歩くのには何ら支障はない。そう歩かぬうちに入り口の前に辿り着く。本来なら施錠されているはずの入り口は、軽く押すだけであっさりと開いた。
人気のない校舎内は闇と静寂に包まれていた。そこに龍麻の靴音が響く。以前も人気のない夜の校舎を歩いた事があったが、今日は以前とは違う。霊研からの異様な気配は、主が不在なせいか微塵もない。大荷物があることであるし、既に集合場所へ向かっているのだろう。職員室も無人のはずだ。それでも校舎自体は通常とは違う空気に支配されていた。
(もう、隠そうとはしてないんだ……)
階段を上りながら独り言ちる。
正直、気は進まない。本当なら来ない方が良かったのかも知れない。それでも来なければならなかった――そう約束したから。
やがて階段も終わり、一枚の古びた金属製の扉の前で立ち止まる。大きく一度深呼吸して、龍麻は屋上へ出る扉を開けた。
冷たい風が吹き、少し長めの龍麻の髪を撫でていく。
冬休みに入り、教師すらいないはずの学園、その屋上。そこには一人の教師が立っていた。3−C担任、英語教師マリア・アルカード。彼女の視線の先には都庁がある。
「――龍麻クン。来て……くれたのね」
気配に気付いたのか、マリアはこちらを向いた。金色の髪と赤い唇を持つその美貌は、戸惑いと苦悩の感情を浮かべ、色褪せて見える。
「龍麻クン……本当のワタシは、どちらを望んでいたのかしら。アナタが来てくれること? それとも……」
そこで一旦マリアは言葉を切った。龍麻はただ、マリアの次の言葉を待つ。
「けれど、もう……引き返すことはできない……」
引き返せない――その言葉に龍麻は顔を顰める。かつて聞いたことのある言葉だったからだ。その時の嫌な感覚が、甦ってくる。
「ご覧なさい、今夜は満月……紅の満月が心を奪い、心地よい狂気へと誘う……そんな夜だわ……」
言われるままに、龍麻も空を見上げた。輝く月は紅く染まり、真円を描きつつある。いつだったか見た月も紅かった。あの時も、本当なら好きなはずの紅い月が、不吉なものに思えた。
「龍麻クン……今夜アナタをここへ呼んだのは、教師としてじゃない……ワタシは――ワタシはアナタを……」
顔を伏せ、言いにくそうに言葉を紡いでいたマリアは、やがて何かを決心したかのように顔を上げた。そこにあるのは、教師としてのマリアではなく、かつて職員室で僅かに表に出した妖艶な女性としてのマリアでもない。今までに見たことのない、しかしどこかで感じたことのあるマリア・アルカードだった。
「龍麻クン、今夜、寛永寺へは行かせないわ。今、アナタを……失うわけにはいかないのよ」
「どうしてです?」
すぐさま龍麻は訊き返す。その反応に、今度はマリアが眉をひそめた。
「何故ワタシがそんな事を知っているのか、何故ワタシが、アナタを必要としているのか……ワタシに訊きたい事はたくさんあるんじゃない?」
「別にどうしても、ってわけじゃないので。訊けなければ訊けないで構いませんよ。マリア先生が人間でないことは、とっくに知っていますし」
マリアは驚愕の表情を浮かべた。目を見開き、何かを訴えるように手をこちらに伸ばそうとして、止める。
「し、知っていたって……いつから!? 誰に聞いたの!?」
「気付いたのは転校して四、五日した頃です。誰に聞いたのか、ですけど誰にも聞いてません。僕は僕自身の《力》でそれに気付きました」
自分の目を指しながら龍麻は動揺を隠せない女教師に告げる。
「僕のこの目は、人ならざる存在を映し出す。霊も、《氣》も、そして人外も」
「だ、だったら何故――!?」
何故今まで普通に接してきたのか、とでも問いたいのだろう。だがそれは龍麻には愚問だ。
「先生が人外だからって、担任のマリア先生が変わる訳じゃないですからね」
龍麻にとって、人と人外の垣根というものはかなり低い。人間じゃないからと拒絶する理由が龍麻にはないのだ。それに、教師として生徒に接するマリアだけを見ていれば、何ら心配することもない。生徒へと向けられる、彼女の真摯な態度には偽りがなかったのだから。
嫌という程動揺しているのが分かる。いっそのこと、このまま立ち去れるものならそうしてしまいたいが、そうもいかないのが現状だ。先程、知りたい事はないと言いはしたが、一つだけ気になっている事もある。それに立ち去ろうとしても向こうがそれを許しはしないだろう。
両手をズボンのポケットに突っ込んで、龍麻は口を開いた。
「一つだけ、訊きたい事があるんです」
「何……かしら?」
努めて平静を装うように、マリアは反応する。
「先生は、僕が『何』であるのか知っていたんですか?」
マリアが龍麻に接触してきたのは転校してすぐだった。頻繁に、ではないが確実に、マリアは龍麻に近づいてきたのだ。ただ、その理由がどうしても分からなかった。だが今ならば。自分がどういう存在なのか分かっている今ならば、その理由にも見当がつく。
風に金糸をなびかせながら、マリアは認めた。
「ええ、知っていたわ。だからこそ、私はこの真神学園へ来たのだから」
「真神に? 僕がここに来ると、分かっていたんですか?」
「ええ。ワタシがこの東京に降り立った目的はね、大地を巡る大いなる《力》を手に入れる事だったの。ならば、私が何を欲していたのか分かるでしょう?」
「《器》ですね」
時代の変わり目に現れるという、龍脈を制する事のできる存在。それを求めてマリアはこの地へやって来たという。《器》の事をどこで知ったのかは気になったが、それは言及せずに言葉を待つ。
「ええ。その時には、既にあの男は天龍院高校で《陰の器》を手に入れていたわ。でもワタシにはそれを手に入れる術はない。そのための外法を、ワタシは入手できなかった。ならば、求めるのはただ一つ。作られし紛い物ではなく、真なる《器》」
「でも、どうして僕が真神に来ると? 他の学校、他の区にとは考えなかったんですか?」
大体の見当はついていたが、あえて問う。マリアは微笑を浮かべて、答えた。
「龍麻クンも知っているように、この学校には龍穴がある。そしてもう一つ、天龍院にも……この地でそういった条件が整っている学校は二つしかなく、一つは既にあの男の勢力下。というコトは、その片割れである真神で網を張るしかなかった。その辺りは目論見通りになったわ」
なるほど、と納得する。《器》である自分は、きっと真神以外の場所にいたら今のような存在にはなっていなかっただろう。真神にいたからこそ、真神にある龍穴から龍脈の影響を受け続けたからこそ、そして龍脈の乱れによる怪異に関わってきたからこそ、今の龍麻がある。
こう仕向けたのは鳴滝だが、今となっては感謝だ。これが普通の学校で、平穏な生活を送っていたのなら、例え自分から怪異に首を突っ込んでいても今程ではなかったに違いない。また、天龍院に転校していれば、確実に死んでいたか、柳生の人形にでもなっていただろう。
「……ねぇ、龍麻クン。少しだけ――少しだけ、ワタシの話を聞いてはもらえないかしら?」
マリアの微笑の色合いが若干変わった。察するに、楽しい話題では決してない。ただ、聞いておかなくてはならないような気がする。
言葉は発さず、首を縦に振る事で答える。
「ありがとう。フフ、こんなことを人間に語る日が来るなんて、この数世紀の間、一度たりとも考えてみたことはなかったわ。これは――アナタが生まれるずっと前、遙か昔の物語……」
微笑を苦笑に変え、マリアは天を仰ぐと、話し始めた。
「かつて、地上には二つの世界が存在していた。神によって等しく創られた陽と陰から成る、二つの世界。そのそれぞれに生きる、二つの種があったのよ。人は太陽の下で、そして、魔は月の下で――互いの領域を侵さぬよう、二つの種は共存してきた。けれど――それを壊したのは、愚かな恐怖に駆られた人間達……」
ざわり、と空気が動く。マリアの身体から、染み出すように紅い光が漏れ始めた。僅かな光だが闇の中でそれははっきりと浮かび上がる。
「全てをその手に掌握せねば気が済まぬ程、人間とは弱く、愚かで卑小な存在だった……闇を……自分達以外の存在を受け入れられぬ人間の愚かさは、破壊と殺戮という衝動となってワタシ達に襲いかかった。土地を奪い――城を破壊し――やがて人間は全てを治めた。人間の持つ力があらゆるものの上に君臨したのよ」
煌々と輝く紅い瞳がこちらを見据えた。かつては自分を魅了し縛ったその視線を、龍麻は腹に力を入れて耐える。ただ、向こうにその気はなかったのか、紅いままではあったが視線が緩んだ。過去の記憶を呼び起こした事で、その時の負の感情をも起こしてしまったのだろう。
「以来、わずかに生き残った闇の末裔達は、それでも尚、人間との共存を目指そうとした……それでもその結果はやはり、破壊と殺戮でしかなかった。磔にされ、炎にくべられ……胸に杭を打たれて……ワタシ達の安息……生きる権利さえも、全てが人間によって蹂躙されたのよ……ワタシ達……いえ、ワタシにはもう……帰る場所も、愛する者もいない……」
せわしくマリアの表情と雰囲気が変わっていく。怒りが憎しみへ、憎しみが悲しみへと移ろう。彼女の放つ陰の《氣》は、既に旧校舎の下層レベルを超えていた。自分を飲み込もうとする悪意の《氣》を、龍麻は己の《氣》で防ぐ。
「不死にも似た生命を持ち、永き時代を生きてきた闇の者。ワタシ達は元々、滅びる運命にあったのかも知れない。それでも……ワタシは取り戻したい。ワタシ達、闇に生きる者達の安息を……そして、闇への畏怖を忘れた人間達に、再び、捕食される立場の記憶を蘇らせてあげる……それが、太古より続いてきた、この世界の自然な姿なのだから」
目を閉じ、顔を下に向けるマリア。話は一通り終わったのだろう。ただ、マリアの《氣》は現状を維持したまま、そこにある。
「そのために、アナタの《力》が……アナタの血が欲しいの。全ては……ワタシの望みのために――」
いや、《氣》は更に高まっていく。目に見えて強大な《陰氣》を纏い、マリアは目線を鋭くした。
「く、っ……!」
《氣》の大きさだけならば、かつての九角を超えている。マリアの正体そのものは実のところ分からないが、かなり高位の人外なのだろう。更に《氣》を高め、龍麻はそれに対抗した。互いの《氣》が徐々に干渉し合い、弾ける。コンクリ製の床が細かく震え始めた。
その時、足下からの別の震動が校舎を揺らした。並の地震ではない。そうであるならば、これほど《氣》が乱れる事はないはずだ。大地を、そして大気を駆け巡る《氣》は、まるで行き場を失って《暴走》しているかのようだ。
「これは……《龍命の塔》か……!」
この事態の原因に思い当たり、小さく叫んだ。封印を解いて一昼夜で塔が姿を現す、そういう話だった。だが、タイミングが悪い。一触即発という時に、余計な不安要素には出てきてほしくなかった。
「大地が歓喜に震えている。もうすぐ、塔がその姿を地上に現し――大地は選ばれし者に《力》を与える――ワタシには、その《力》が必要なの……」
一歩、マリアは踏み出した。一対の紅玉に宿るのは光。人ならざる《力》とはまた別の、強い意志の光だった。
「今のアナタ達では、決してあの男――柳生宗崇には勝てない。彼は人の身ながら、ワタシ達に最も近い存在だから……もし、彼が《力》を手に入れれば、この世界は混沌と化すわ。彼の望みこそは、破壊と殺戮。力が全てを支配する世の構築。でも、ワタシはそうじゃない。ワタシはただ、この世界を、在りし日の姿に戻したいだけ……奪われた全てを、この手に取り戻したいだけ……」
龍麻も一歩踏み出した。柳生の野望については当然阻止するとして、マリアの望みが何の問題もないのならば追求してもらって構わない。ただ、その望みは必ず争いを呼ぶ。人間と人外の対立を引き起こしてしまうだろう。彼女が望むのは、先の話を聞く限りでは、人と人外の共存ではなく、人の上に立つ人外の者の世界なのだから。マリアは違うと言ったが、それは柳生の望みとよく似ている。破壊と殺戮をもたらすのが修羅と化した人間か人外かの違いだ。
人外そのものに偏見はない。ただ、それが自分の周りの者を傷つける恐れがあるのならば、それを許すわけにはいかないのだ。
「……少し……おしゃべりが過ぎたみたいね。ワタシのために死んで欲しいなんて、都合のいいことは言わないわ。ただ――最後にアナタの気持ちが聞きたかったの。例え、ワタシの屍を乗り越えても、アナタには、護りたいものがある……?」
「……先生もよくご存知のはずですよ」
龍麻には護りたいものがある。だからこそ今まで戦ってきたし、今日も戦う。これからも戦っていくだろう。マリアもそれは知っているはずだ。自分が、そういう人間であると。
マリアの顔が、一瞬緩んだ。
「そうね……アナタには大切な仲間と、愛する者がいる……ならば、アナタも命を懸けなさい。アナタの大切なもののために――アナタの望みのために――アナタ自身のために――!」
話はここまでとばかりにマリアは叫ぶ。
正直、戦いたくはないが状況はそれを許さない。戦らねば殺られるのだ。しかしそれでも――
「先生、どうしても、戦わなくては駄目ですか?」
やはり龍麻はマリアと戦いたくはなかった。
「先生が何をしたいかは分かりました。先生の過去を考えれば、そういう結論に達するのも不思議じゃない。それは分かります」
大切なものを奪われた哀しみ、怒りを、龍麻は想像することしかできない。
「でも、先生がこれからしようとしていることは、本当に先生が望んでいることですか? 闇の者の安息、と言いましたが、そのために人間を犠牲にすると? 先生にとって大切な人間は一人もいないということですか?」
それでも、教師マリア・アルカードという存在が真神の生徒達に親身に接していたのは事実だ。その彼女が、人間を完全否定してしまうとは龍麻にはどうしても思えなかった。
「行くわよ、龍麻クン」
龍麻の問いを無視するマリア。
「先生……っ!」
闘志を無理矢理奮い立たせ、龍麻も吼える。
紅と蒼。相反する《氣》が膨れ上がった。