冬休みに入り、教師すらいないはずの学園、その屋上。月明かりの下には一人の教師が立っていた。3−C担任、英語教師マリア・アルカード。彼女の視線の先には闇にぼんやりと浮かび上がる都庁があった。
「――龍麻クン。来て……くれたのね」
気配に気付いたのか、マリアは龍麻の方を向いた。その表情にあるのは、戸惑いと苦悩の色。
「龍麻クン……本当のワタシは、どちらを望んでいたのかしら。アナタが来てくれること? それとも……」
そこで一旦マリアは言葉を切る。龍麻はただ、マリアの次の言葉を待った。
「けれど、もう……引き返すことはできない……」
引き返せない――その言葉に龍麻は顔を顰める。それに気付いたかどうかは分からなかったが、マリアは顔を空へと向けた。
「ご覧なさい、今夜は満月……紅の満月が心を奪い、心地よい狂気へと誘う……そんな夜だわ……」
言われるままに、龍麻も空を見上げた。輝く月は紅く染まり、真円を描きつつある。普段とは違う、紅い月だ。
「龍麻クン……今夜アナタをここへ呼んだのは、教師としてじゃない……ワタシは――ワタシはアナタを……」
12月31日、23時10分。
桜ヶ丘中央病院。
龍麻達にはもはや馴染みとなったこの病院の一室に、龍麻達真神組と織部姉妹が集まっていた。理由は――織部姉妹の祖父が「何者か」に斬られた事による。
「皆様――こんな、大晦日の夜分にわざわざ申し訳ありません……」
龍麻達に頭を下げる雛乃の表情は暗い。
「いいよ、そんなの。それより、大変だったね、おじいちゃん」
小蒔が向けた視線の先には、織部翁が病室のベッドで休んでいた。
話によると、織部姉妹が買い物から戻ったところ、渡り廊下に血まみれで倒れていたという。発見が早かったので命に別状はないが、それでも入院を要する重傷だ。
「日本刀でバッサリだって話だったな。多分……あの時、ひーちゃんを斬った奴と同じだぜ」
「ああ、柳生だろうな……それで、何か他に変わったことはなかったのか?」
京一と醍醐の会話を聞きながら、龍麻は無意識のうちに胸に手を当てていた。服の下には、柳生に斬られた傷痕が今もはっきりと残っている。九角との戦いで腕についた傷と同じで、消えることはなかった。
その傷が……疼く……
「以前、皆様にもお話ししたと思いますが、我が神社には、乃木家よりお預かりした、御大将の遺品がございます」
「あぁ……ずいぶん前に、小蒔の試合の帰りに寄った時、そんなこと言ってたな。おい、ひーちゃん。お前、覚えてるか?」
京一の問いに、龍麻は頷く。
「覚えてるよ。確か、同じように東郷大将の遺品が靖国神社に預けられているって話だったと思うけど――って、もしかして……それが盗まれた?」
話の流れから推察し龍麻が訊ねると、雛乃は表情を曇らせた。
「はい。お預かりしていたのは白い桐の箱だったのですが、奥の扉が壊され、その箱だけが忽然と消えていたのです」
「龍脈の力を狙うあの男が、それを盗んだとなると……どうやら、相当重要な意味があるようだな」
今頃になって、柳生自らが盗み出した品物だ。柳生の野望に関係のない物ではあるまい。問題は、どのくらい重要な物なのか、ということだが。
「はい。皆様にわざわざお越し頂いたのも、その事について話があるからと、龍山様が……先程から姉様と一緒にロビーでお待ちです。こちらへ――」
一度祖父を振り返り、雛乃は部屋のドアを開けた。
「あっ――雪乃……どうしたの? こんなトコで」
病室前でそわそわしていた、ロビーで待っているはずの織部姉を見て、小蒔は片眉を上げた。雪乃はばつが悪そうに頬を掻くと、落ち着かなくてな、と漏らす。最終決戦直前というところで、身内に不幸があったとなると、冷静でいられないのも当然だ。
「それより、龍山じいちゃんがさっきからロビーで待ってるぜ。雛。今度はオレがじいちゃんの様子を見てるからよ」
「えぇ。お願いします、姉様。それでは、皆様はこちらへどうぞ」
雛乃に促され、足を止めていた龍麻達は再び歩き出す。既に見知った病院である。案内されずともロビーの場所は把握している。龍麻達は無言で歩き、ロビーに出た。
非常灯以外の明かりのない薄暗い空間。夜の病院とはこういったものだが、それでも普段とは違う点がある。どこからともなく聞こえてくる鐘の音。今日は大晦日で、今年も終わろうとしている。幾つ目かは知らないが、時計を見るに、もうじき百八つ目に届きそうだ。
そしてもう一つ。こんな時間だというのに点いているテレビ。そして、その前に佇む一人の老人の姿。織部家と親交のある、新井龍山だ。
龍麻達はそちらへと歩いていく。気付いたのか、やっと来おったかと龍山はテレビから龍麻達へと顔を向けた。いつもは好々爺といった感じの龍山だが、今の表情は厳しく、固い。
「今しばらくの猶予があるかと思うておったが……事はわしらが考えていたよりも、ずっと早く運ばれていたようじゃ」
重い声が、その口から紡がれる。それこそが、事態の深刻さを表していると言えた。
「先生……一体、これから何が起ころうとしているんですか?」
それに不安を感じたのか、醍醐が訊ねる。龍山は口を開きかけ、そこで止まった。視線がテレビへと向けられる。それに近付くと、龍山は音量を上げた。
『え〜、それではもう一度繰り返してお伝えします。本日、午後9時頃――靖国神社に刃物を持った男が押し入り、蔵に安置されていた、桐製の小箱を奪い、逃走しました……警察は犯人の行方を追うと共に、強盗殺人として捜査に――』
テレビの中、靖国神社らしい場所の前で、記者らしい男が早口で話しているのが見える。この時期の神社だ。大勢の人達で賑わうし、テレビがそこへいるのもおかしくはないが、龍麻達の意識はそこではなく、語られた言葉にこそあった。
靖国神社が襲われたという事実。そして、奪われた桐製の小箱。犯人は刀を持った男。このタイミングで起きた事件だ。間違いなく柳生が――少なくとも、その手の者の仕業だろう。簡単に、そう思わせる内容であった。
「やはり……あやつは、あの場所を知っておるのか……」
苦々しく龍山が呟く。それは、まだ龍山が何かを知っているという証でもある。
「ねぇ、おじいちゃん! 今の……盗まれた箱って、東郷大将の遺品なんでしょ!?」
「そして、織部神社にあった箱も盗まれた……この二つの箱は一体……?」
女性陣の問いに、龍山は頷くと再度こちらを向いた。
「あの二つの箱に納められていた物こそは、封印を解く鍵なのじゃ。帝都の刻より、この地に眠り続けてきた、双頭の龍を――何処かに眠る、龍命の塔を起動させる鍵なのじゃよ――」
龍命の塔。浜離宮で御門から聞かされた話にあった、龍脈から《氣》を吸い上げるという呪術機構。柳生が龍脈を手中に収めようとしている以上、それに絡む施設というのはこの上なく重要な物だろう。
しかし乃木、東郷の両大将が進めていた研究というのが、まさか龍命の塔のことだったとは。軍人がオカルトに頼るという姿は、どうにも想像しづらい。それも現代
「……でもそうすると、柳生は塔の場所を知っているという事ですか?」
醍醐の問いはもっともだった。その鍵がどういう物かは分からないが、使いようがないならわざわざ奪取したりはしないだろう。塔の場所も、鍵の使い方も、知っていると考えるのが妥当だ。ただ、どうやって知ったのか、が気になるところであるが。
「恐らくそうじゃろうな。そしてすでに、その封印は解かれているやもしれぬ」
腕を組み、大きく息を吐き出して、龍山は龍麻を見る。
「緋勇よ、お主の父親もそれは強い男であった。じゃが、それでも……その身を挺してようやく、十数年の間奴を封じるのが精一杯であった」
「……私達は……止める事ができるんでしょうか? その人を……」
葵が不安になるのも無理はない。それはその場にいる者全員の思いでもあった。龍山にそこまで言わせる程の強敵。龍麻を斬り捨てた男。その事実は、呪詛といってもいい程に、龍麻達の心を縛っているのだ。
だが龍山はいつもの温和な笑みを浮かべると、ゆっくり頷いた。
「……今お主らに必要なのは、自分達の《力》を信じることじゃ。もともと《器》も龍脈によって得た《力》も混沌に属する存在。それが《ひとならざる力》を持ち得たあの男――柳生宗崇という新たな混沌の出現によって、あるべき姿を狂わされたと言うても過言ではない。この乱れた因果律を修正することができるのは、《器》たる血脈を持つ緋勇――お主のみ。わしは、お主の力を信じておる。お主と、お主の下に集う仲間達の力を、わしは信じておるよ。緋勇よ、頼んだぞ」
「ええ」
とだけ、龍麻は答えた。目を閉じ、龍山は満足げに、そしてやや辛そうに頷く。それは、結局全ての命運を龍麻に預けてしまうことへの罪悪感だろうか。
「へへへ、心配すんなよ、ジジイ」
それに気付いたのかどうか。京一が龍麻の首を抱えて言った。
「ひーちゃんにゃ、俺達がついてるからよ。だから、大船に乗ったつもりでドーンと構えてりゃいいって」
「えぇ。私達みんな、最後まで龍麻くんと一緒よ」
「そうだぞ、龍麻。お前が真神に転校してきてから今日まで、ここまでみんなでやってきたんだ。だから、今さら下手に気負うことなんかないぞ」
「そうそうっ、ここまで何とかやってきたんだもん。きっとまた、何とかなるよっ! だからひーちゃん……みんなで頑張ろうねっ!」
四対八つの目が龍麻に向けられた。その瞳に暗い色は一切ない。数日前にあんなことがあったというのに、不安を全く感じさせない、力強い光を宿していた。
「……うん。みんなで力を合わせて、絶対にあの男を止める。必ず!」
指揮官の顔を作り、龍麻は拳を突き出す。仲間達の手がそれに重ねられ、一度大きく沈み、離れた。
と、ちょうどその時、遠くから聞こえていた音が、鮮明に耳へと届いた。言うまでもなく、除夜の鐘。一年を締めくくる、そして新たな年を告げる音だ。
「そっか、もう0時になるんだよねっ」
時計を見ながら、小蒔。感慨深げに醍醐も腕など組んで、ロビーの向こう、入り口の方へと視線を向ける。もちろんそちらから聞こえてくるわけではないが、無意識に外の見える方を見たようだ。それは他の者達も同じだった。
「1998年の終わりを告げる鐘か……」
「えへへっ、やっぱこういう時は、カウントダウンだよねっ」
何やら嬉しそうに、小蒔はテレビの方を見る。そちらでもカウントダウンが始まっていた。それに合わせて、小蒔と京一がカウントを口にする。
五秒、四秒、三秒、二秒、一秒、そして零秒。同時に百八つ目の鐘が鳴り、新年おめでとうの言葉がテレビから聞こえた。
しかし――
突然、足下が揺れた。不意に起こった地震。龍麻達は倒れぬように互いを支え合い、それに耐える。震度がどの程度のものかは分からないが、決して小さな揺れではない。
やがて、揺れは収まった。普通の地震にしては、長い時間揺れていたような気がする。
無事を確認し合う中、声が聞こえた。
「まさか――始まってしまったのか……? 龍命の塔の起動が……」
龍山の震える声。それは、事態がより一層深刻になったことを意味していた。
「龍命の塔は、すぐに地上に出てくる物なんですか?」
龍麻は問う。少なくとも、帝都の時代に建てられたという塔のような建造物は、東京では見ることができない。秘密裏に建造されていた、と言うのならば尚更だ。となると、その隠し場所は地下、というのが容易に想像できる。
「いや、わしが昔に聞いた話では、地中にて稼働し始めた塔は、大地のエネルギーを吸い上げ、一昼夜の後に、地上に姿を現す。そして、塔の出現によって大地の力は、更に増幅され、天昇る龍の如く、一点の高みへと駆け昇る。己を受け入れるに相応しい者
龍麻が問うと、龍山はそう答えた。
寛永寺――天海によって、江戸の刻
「こうなったら、じたばたしても無駄だね。ここは一旦、解散しようか」
「うむ。塔が完全に現れるまで一昼夜……ならば、今日の所は帰って体を休めておくべきだろうな」
状況を見て、龍麻と醍醐はそう判断した。龍命の塔が起動した以上、そちらに手を回す理由はない。起動を止められるかどうかも不明であるし、何より場所が分からないのだ。ならば、することは最終決戦に備えて身体を休め、体調を万全にしておくことのみ。
「それよりも、新しい年の始めの日じゃ。地元の花園さん
「そうだな。もともと、そのつもりだったし、必勝祈願も兼ねて、行くか」
龍山の提案。それに京一が頷いた。今更神頼みというのも何だが、縁起物だ。それで気持ちよく戦えるなら、無意味ではない。
「それじゃあ、俺達はそろそろ帰るとしよう。時間も時間だし、家に帰って、少しは眠らないとな」
「そうした方がいいぜ。睡眠不足は体力だけじゃなく、集中力も衰えさせるからな」
醍醐がそう言ったところで、その場にいなかったはずの者の声が聞こえた。先程まで病室にいたはずの雪乃だ。
「雪乃さん……おじいさんの具合はどうなの?」
「ああ、先生が言うには何とか峠は越したってさ。龍麻くんの時みたく、呪詛があったわけでもなかったみたいでさ」
葵が訊ねると、雪乃は微笑を作る。その場にいる者達の顔にも、安堵の色が浮かんだ。高齢であり、斬られてどのくらいの時間で発見されたのかも分からないという、厳しい状況だったのだ。
「後は岩山先生にお任せして、わたくし共も神社へ戻ります。初詣に来られた方のお世話もしなくてはなりませんからね」
傍に控えていた雛乃は、姉と顔を見合わせる。今という時期は、神社にとっては忙しい時期だ。高校生であっても、彼女達は巫女である。手伝いをしないわけにはいかないのだろう。
「ま、そっちはバイトも何人か雇うみたいだし、何とかなるだろ。それより龍麻くん達も、今から少しでも寝ておかないと、明日――いや、もう今日か。一日、保たねぇぞ。まっ、手が空いたら花園神社
「今日は皆様も、ゆっくり休まれて下さい。そのくらいの気持ちの余裕がなければ、とても立ち向かえるような相手ではないでしょうから……」
「そう、だね。それじゃ、僕達はこれで。また明日――じゃないや、日が昇ってから会おう」
織部姉妹に頷いて、龍麻はズボンのポケットから懐中時計を取り出す。針は既に、新しい年の時間を刻んでいる。一秒、また一秒と時計は時を刻む。それは決戦までのカウントダウンでもあった。
病院を出た龍麻達は、そのまま中央公園まで足を運んでいた。誰かが行きたいと言ったわけでもないのに足は自然とそちらに向かっていたのだ。家に帰って身体を休めるのが最良だというのに、誰も素直に帰ろうとは口にしなかった。それは、一人になることへの不安がそうさせたのかも知れない。
「とうとう――決着
普段より狭い歩幅で歩きながら、醍醐が呟いた。その声には若干の緊張が含まれている。ああ、と京一も固い声で言った。
「ここまで、結構、長かったな。それもこれも、たった一人の野望のせいで、か……」
「そのためだけに……たくさんの人が犠牲になったんだ……みんな……そいつのせいで――」
今までに敵対してきた《力》ある者達も、柳生にそそのかされなければ大それたことを考えることはなかったかも知れない。少なくとも命を落とすことだけはなかったろう。命が助かった者にしても、柳生に利用されなければ血生臭い世界に足を踏み入れることはなかったはずだ。
多くの者が柳生によって人生を狂わされ、犠牲になった。小蒔の声に怒気が含まれるのも当然であった。
「これ以上誰も、犠牲になんてさせられない。私達が終わらせなくちゃ……ね、龍麻くん」
「もちろん。龍脈なんて《力》なんかのために、これ以上犠牲なんて出させはしない。そのためにも、必ず《器》を止める。そして、柳生を斃す」
葵に龍麻は力強く頷いた。決意に満ちたその顔と声。そこに不安や恐れの色はない。あるのはただ、強い意志のみ。
「えぇ。龍麻くんも、あまり一人で無理をしないでね。いつだって、私達がついてるんだから」
そんな龍麻に葵は微笑みながら釘を刺した。いつも無理をする龍麻への牽制のつもりだろうか。龍麻はそれに苦笑するでもなく、素直に首肯する。
「へへっ、いよいよ大詰めってヤツか。ただ……」
袱紗の長物を首の後ろに担ぎ、思い出したように京一は言った。
「柳生の野郎、真紅
「うむ……あの時は気にする余裕はなかったが、紅い学生服か……ひょっとして――天龍院……か?」
「天龍院……? あの、都庁の向こう側にある……?」
「あそこの制服って紅だったっけ? 今は生徒も少ないから、ほとんど見なくなったし……」
醍醐の口から学校名が漏れる。葵も小蒔も、その名に聞き覚えがあるようだ。
「それって、どういうこと?」
だが龍麻には東京の学校事情は全く分からない。訊ねると京一が説明してくれた。
曰く、五年前に廃校が決定した高校で、今は三年生だけが卒業を待っている状態だという。
「……でも、それが本当なら、柳生という人は、天龍院高校へ、転校生を装って侵入したとも考えられるわ」
葵の発言は、別の疑問を浮かび上がらせた。
考えてみれば妙な話である。柳生が高校生になる必要はどこにもないはずだ。しかもその先が、廃校を目前にした高校である。全くその意図が読めない。
「わからんな。天龍院自体に、何か意味があるのか……どうする、龍麻。探りを入れるか?」
「……いや、やめておこう」
気になるのか醍醐はそう提案する。龍麻は少し考えてから首を横に振った。
「何かあるのかも知れないけど、事態はもう動いてる。今更どうなるものでもないと思うから。だったら、藪をつついて蛇を出すようなことは避けたい」
「そうだぜ。今の俺達にできるのは、今晩に備えて寝ることだけだ」
気にし始めたらキリがない。やるべきことは決まっているのだから、京一の言うとおり、ここは帰宅して十分に休養をとるのが一番だろう。
「そうだよね。でもその前に、今日はどうする? ボク達、学校へアン子を迎えに行くんだけど……」
「学校へアン子をだぁ!?」
小蒔が言うと、京一は素っ頓狂な声を上げた。そこまでではないが龍麻と醍醐も今の発言には驚いたようだ。
「まさか、正月まで泊まりで卒業アルバムの編集かよ!?」
「随分、根を詰めてるんだな。体を壊さないといいんだが……」
「注意しても聞きそうにない、ねぇ」
確か編集作業はクリスマス前には始まっていたはずだ。行事の写真に加えて日常の光景も、と校内を駆け回っていたアン子。満足のいく写真は撮れたのだろうが、逆に今度はそれをまとめるのに四苦八苦しているわけだ。
男性陣の反応に葵も苦笑を漏らす。
「えぇ、私達も心配しているんだけど、でもアン子ちゃん、自分にできるのはこれくらいだから、って。それでも私達と一緒に初詣には行きたいって言ってたの」
「そっか。それなら、昼過ぎにでも神社の前で待ち合わせるか。ぞろぞろ大所帯で迎えに行くのも何だしな」
京一がそう提案した。
「それじゃあ、私達は学校へ寄ってから行くわ。龍麻くんはどうする?」
「一緒に行くよ」
葵の問いに、龍麻は女性陣との合流をを選択した。
「頑張ってる遠野さんに、何か差し入れでも持っていってあげようと思うから」
どちらについて行っても大差ないが、冬休みを返上してまで作業をしているアン子には頭が下がるのだろうか。
「うふふ、アン子ちゃんもきっと喜ぶわ。それじゃあ、お昼……そうね、一時半頃に新宿駅東口で待ち合わせでいいかしら?」
「うん。さぁて、もう遅いし、そろそろ帰ろっ。今晩のために、これからゆっくり寝なくちゃね」
元気いっぱいの小蒔の言葉に龍麻達は頷く。そして、思い思いに挨拶を交わすと、そのまま家路に就くのだった。
1月1日。13時30分。新宿駅東口。
正月初日から駅前は人の海ができていた。普通なら家でおとなしくしているものではないのだろうかと龍麻は不思議に思う。初詣に行くくらいならばともかく、道行く人の大半は正月と言うよりは休みを楽しんでいるように見えた。着物姿もちらほらと見かけるが、いつもと変わらぬ服装の者がほとんどだ。ただ、昼間だというのに酒精の匂いを漂わせる者が多いのが、いつもと違う点か。
正月らしい光景はないものかと龍麻は視線を巡らせる。と、そこに一人の少女の姿が入った。赤い着物を着たその少女は、自分の知った顔だ。
「あ、龍麻――明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとう、葵」
近づいてきた葵と挨拶を交わして、龍麻はあらためて目の前の少女を見る。浴衣の時も思ったが、やはり葵には着物がよく似合う。
龍麻が自分を見ているのに気付いたのか、葵は頬を染めながら着物に視線を落とした。
「着物……どうしようかって随分迷ったの。ちょっと恥ずかしいけれど、でも……龍麻に見て欲しかったから……どう?……おかしくないかしら?」
「大丈夫。やっぱり葵には着物がよく似合うね」
「龍麻……うふふ、ありがとう。そう言ってもらえると、私も嬉しい……今年も……よろしくね」
「うん、こちらこそ」
お決まりの挨拶を続け、しばし見つめ合う。そこへ聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「ひーちゃん、葵っ! へへっ、明けましておめでとっ!」
「まぁ、小蒔!」
小蒔を見て、葵は驚いた。龍麻も、正直びっくりした。何しろ、小蒔が着物姿だったのだ。表情を見て、こちらが何を思ったのか悟ったのだろう。小蒔は腰に手をやって胸を反らす。
「高校最後のお正月だよっ。着物くらい着なくちゃねっ! ただ、着物の欠点はこの締め付けだよねぇ〜。これじゃあ、いくらお腹が空いても何にも入んないってカンジ」
続けて、帯をぽんと叩いた。縁日の時はそれを嫌って浴衣を着なかった小蒔だ。案外、今回着るかどうかも真剣に悩んだのかも知れない。
「うふふ、小蒔ったら。そんなこと言わないの。とっても似合ってるわよ」
「えへへ、そうかな? それじゃあ、あらためて――今年もよろしくね、ひーちゃん!」
「うん。こちらこそよろしく」
「今年も仲良くやろうね。絶対みんなで、無事卒業しよう。約束だよっ! さっ、それじゃそろそろ、学校に向けて……しゅっぱーつっ!」
合流を果たし、龍麻達は学校へと向かう。
いつもの通学路を歩く龍麻達。学校が冬休みである以上、ここを利用する多くの生徒達は当然のことながらいるはずもなく、故に人通りはほとんどない。
そんな道を歩きながら話題にあがるのは、これから向かう学校で今も作業をしているであろうアン子のことだ。
「アン子ちゃん、大晦日から泊まりだなんて、ちゃんとご飯食べてるといいんだけど」
「そうだねぇ。アン子って、熱中しだすと他が見えなくなるタイプだし。体壊したりしてないといいんだけどね」
小蒔が言うとおり、アン子は一旦走り始めたら簡単には止まらない。今回だって、泊まりがけとなると徹夜している可能性もある。
「ところでひーちゃん。さっきから持ってるそれって、アン子への差し入れ?」
小蒔が興味ありげに龍麻の手にした包みを見た。
「うん。と言っても、正月用に作った料理を詰めてきただけだけど」
「えっ!? ひーちゃん、おせち作ったの!?」
「作ったというか、できあがっていたというか……」
年末の食料調達は緋勇家の子供達が担当であったため、例年の正月のつもりでついつい食材を買い込んでしまったというのが真相であった。途中止めにするわけにもいかず、結局全て作り上げてしまったのだ。一応、分量的には一家五人分である。
「いーなー。ボクも食べたいなー」
「小蒔ったら……でも、私も興味あるわ」
「別に構わないけど……全員分はちょっと、ね。追加を作らないといけない」
女性陣の期待のこもった眼差しを受け止めつつ、龍麻は言った。
「今日の決戦が終わったら、やるつもりあるよね? 祝勝会と新年会」
「それはもちろん、って、そっか。仲間全員となるとハンパな量じゃないよね」
かつて鬼道衆との決戦が終わった時の仲間が、龍麻を含めると全部で十三人。以降の参戦者を加えると全部で二十四人になる。会場は緋勇家道場を使えば問題ないが、料理となるとそうはいかない。
「いくら何でも龍麻くん一人でどうにかなる量じゃないわ。その時は私も手伝うから、遠慮なく言ってね」
「うん。まあ、そっちは何とかなるとは思うんだけど、問題はお酒だよね。小蒔さん、正月早々注文したいんだけど、大丈夫かな?」
「ひーちゃんはお得意様だからね。その辺は任せといてよ。無理でも何とかするから」
「それは頼もしいね。じゃあ、明日には注文するから――って、あれ?」
龍麻は思わず声を上げた。行く先に人影が見え、それが知った顔であり、なおかつ珍しい組み合わせだったからだ。
「あっ! ひーちゃんっ!」
「あっ、ホントに龍麻!」
その中の二人、高見沢と藤咲が声をかけてきた。もう一人――その中で一番珍しかった芙蓉は、軽く会釈をしてくる。
「えへっ、ひーちゃん、明けましておめでと〜っ。今年もよろしくね〜っ!」
「おめでとう。今年もよろしく」
いつも通り、マイペースに、そして元気よく、高見沢は言った。そして、葵達の方を羨ましそうに見る。
「あ〜、いいなぁ。二人とも、着物なんだぁ。もしかして、これから花園神社へ行くの〜?」
「えぇ、そうなのよ。高見沢さん達は、もしかしてもう帰りなのかしら?」
「そうだよ。ちょうど今、お参りしてきたとこ。もうちょっと早く会ってたら、一緒に行けたのにね」
葵の問いに答えると、藤咲は葵と小蒔を交互に見る。やはり女性。着物に目を引かれるようだ。
「あーあ、やっぱりあたしも着物くらい着てくるべきだったかなぁ」
「京一からは何の連絡もなかったの?」
「ええ。まあ、初詣くらい、いいんだけどね。今日は女同士で交友を深める約束だったしさ」
少し残念そうではあったが、一瞬だった。そう言いながら、藤咲は高見沢と芙蓉の肩に手を回す。
「ところでさ、二人とも、いつの間に芙蓉サンと仲良くなったの?」
そこで小蒔が疑問を投げかけた。芙蓉と仲間達の接点は、ほとんどない。藤咲と高見沢は分かるが、そこに芙蓉がいるというのは正直不思議な光景だ。
「いえ、わたくしはただ晴明様の御命令で、少々調べものを……」
「元旦早々、女の子を働かせるなんて酷い奴だよ、御門って!」
芙蓉の言葉を遮って、憤慨する藤咲。つまりは仕事中の芙蓉を見つけて、藤咲達が引っ張ってきたのだろう。そういえば、藤咲達は芙蓉が式神であることを知らないはずだ。まあ知っていても同じであろうが。
「だから、そんなの無視
「そうそうっ、一緒に行こうよぉ〜っ」
藤咲と共に、高見沢も芙蓉を誘う。普通ならばこれで動揺する芙蓉ではないだろう。彼女は式神で、命令は絶対であるはずなのだから。しかし今の芙蓉には、明らかに迷いの色がある。困惑したまま、芙蓉は助けを求めるように龍麻に目を向けた。
「……御主人様……わたくしはどうすれば……」
ぴしり
瞬間、場が凍った。龍麻も、葵も、小蒔も、藤咲も、凍りつく。高見沢は固まった龍麻達を不思議そうに、そして芙蓉も皆の態度に眉をひそめた。
「ちょっと、龍麻……?」
一番最初に動き始めたのは藤咲だった。つかつかと歩み寄ると、そのまま龍麻の胸ぐらを掴む。そして、とっても素敵な笑みを浮かべて顔を近づけてきた。ただ、目は笑っていない。
「どういうことか、説明してくれるわよねぇ?」
「な、なにをでせう……?」
「ごしゅじんさま、ってどういう意味かしら? とっても危険な響きじゃなぁい?」
藤咲の力が次第に強くなっていく。《力》で身体強化をしているのではと思える程の腕力だ。
「そ、それは誤解――」
「ゴカイもイソメもアオムシもないわ。さあ、とっとと白状おし! まさかとは思うけど、葵という者がありながら、指揮官権限を笠に着て、芙蓉にいかがわしいことしたんじゃないでしょうね!?」
「え〜、それって調教ってやつ〜? ひーちゃんってば鬼畜〜♪」
意味が分かって言っているのか、なぜか楽しそうな高見沢。助けを求めるように龍麻は同伴の女性に目を向けるが、まず映ったのはこれでもかと冷たい小蒔の目。最後の頼みの綱は葵なわけだが、彼女は苦笑したまま、助けてくれる様子はない。少なくとも、信じてはもらえているようだが。
(ぼ、僕が一体何をしたって言うのさ……?)
言いたいことはあるのだが、口を開くのにえらく労力がいる。それでも黙ったままだと、誤解されたまま話はどんどん逸れていくに違いない。
「と、とにかく、離してくれな、い……? ちゃんと、説明するから……」
「ええ、しっかりと分かりやすく納得できるように説明してもらうわ」
力を緩めて、藤咲。ただ、手は相変わらず胸ぐらを掴んだままで、目には危険な光が宿っている。それから逃げるように、龍麻は芙蓉の方を向いた。
「え、えっと……その前に芙蓉?」
「はい」
「な、何で僕のことを、ご主人様だなんて呼ぶのかな……?」
「お忘れになったのですか? 先日、わたくしを使役すると仰ったでは御座いませんか」
事も無げに芙蓉は答えた。
「だ、だからって、何でご主人様!?」
「そういう約束で御座いましたから」
やはりあっさりと、芙蓉は答える。
約束というのはあの事だろう。それは分かる。だが、御門ですら名前に様付けなのに自分は何故に御主人様なのだろう?
「そ、それってあいつがそう言ったわけ?」
「仰るとおりに御座います」
芙蓉は即答する。龍麻は初めて顔も知らない先祖――そっくりなのだから知った顔だが――に殺意を抱いた。昔ならともかく、現代ではその単語は色々な意味でヤバい。何がって、誤解される可能性が大きいからだ。ちょうど今のように。
「あ、あのね、芙蓉。当時のあいつがどう言ったかはともかく、できれば普通に呼んで欲しいんだけど……」
「何か問題でも?」
「いや、別に芙蓉が悪い訳じゃないんだけど、居心地が悪いと言うか針のむしろと言うか……」
ここだけならばまだいいが、これが京一やら村雨やらに知られたら、どんな目に遭うか分かったものではない。龍麻の心の平穏は、きっと遙か彼方へと飛んでいくことだろう。
芙蓉は少しの間何やら考えていたが、それがまとまったのか、頭を下げた。それにほっと息を吐く龍麻。
「分かりました。では当分は、今まで通り龍麻様と呼ばせて頂きます」
「と、当分……だけ?」
が、甘かった……
「急に呼び方が変わることに抵抗がある、と判断致しました。ですから、龍麻様がわたくしを使役する者であるということを普通に感じられるようになるまでは、そうさせて頂きます」
「い、いや、あの、芙蓉……そ、そういう意味じゃなくって……」
どうやら、平穏は当分先のようである。