重い衝撃が脇腹を打つ。続けて頬に拳が叩きつけられた。
体育館裏では一方的な暴力が振るわれている。加害者は佐久間で、被害者は龍麻だ。他の不良達は嗤いながらこのリンチショーを見物している。
(趣味が悪い……)
考えた瞬間、再び衝撃が腹を襲った。
一体、どれだけ殴られ、どれだけ蹴られたのか。両手の指ではきかないくらいには食らっている。なのに
(どうして、こんなになっているのに、平気なんだろう?)
普通ならば地に這いつくばっていてもおかしくはない。それなのに、これだけ痛めつけられているのに。身の危険を感じないのは何故だろう。恐怖を感じないのは何故だろう。
痛みはある。殴られ、蹴られた部位は間違いなくそれを訴えている。なのに
(佐久間を、脅威とは感じない……)
まったくもって異常なことだった。事故に遭った時に、そういう感情まで抜け落ちてしまったのだろうか。
(あれ……?)
また不意に、違和感が生じた。
自分は事故に遭った。それ故に言葉を発することができなくなり、記憶に混乱が生じている。少なくとも、そう認識している。
(じゃあ、僕はどんな事故に遭ったんだろう?)
肝心なその記憶がない。それこそ事故のショックで消えてしまったのだろうか。いや、それにしてもおかしい。
また一発、殴られながら、龍麻は考える。
事故の記憶がないのはいい。事故の前の記憶がないのもいい。後遺症の一言で説明はつく。だが、事故後の記憶がないのはどういうことだろう? 恐らくあったであろう、入院中の記憶がない。
頭に衝撃が走った。思考が中断される。今は私刑中だったのだ。考え事などしている場面ではなかった。
さすがに今のは効いた。膝を着いて見上げると、佐久間が憎々しげに見下ろしている。呼吸は荒く、肩が上下していた。
「随分としぶといじゃねぇか……」
こちらが倒れないのが不満なのだろう。このテの人種は自分の思い通りにならないことをもっとも嫌う。
と、何故そんなことが分かるのだろうかと疑問に思った。自分にとって不良というのは縁遠い存在である。そのはずなのに――
刹那、脳裏に映像が走った。
それは乱闘の記憶。一瞬であったがそこには確かに、不良達と対峙する誰かの視点があった。言うまでもなく、それは自分の記憶なのだろう。自分はこういう荒事が日常茶飯事だったのだろうか。だから、佐久間達に絡まれても、こうして暴行を受けていても何も感じなかったのだろうか。
「いい加減に、往生しろや」
言いつつ佐久間が学生服のポケットから何かを取り出す。鈍い光沢を持つ金属製の道具――メリケンサックを手にはめ、ニヤリと嗤った。
「……ケケケッ――死ねやっ!」
佐久間が拳を振り上げる。その時――
「オイオイっ――ちょっと転校生をからかうにしちゃぁ、度が過ぎてるぜ」
突然、この場にいない者の声が聞こえた。龍麻もその声には覚えがある。
「てめぇ、蓬莱寺……」
声のする方を見ると、そこは木の上。同じクラスの京一が、大振りな枝に寝そべっていた。やれやれと嘆息し、京一は木から飛び降りる。そして
「そこまでだ、佐久間っ!」
今度は別の声が、別の方から響いた。これは聞いたことのない声――否、どこかで聞いた声だ。
「醍醐――!」
「そこら辺で止めとけ、佐久間……」
姿を見せたのは、学生服姿の巨漢。葵と小蒔、京一の時と同じく、やはりどこかで見たような気がする。そして、その傍らには見知った人がいた。
「美里……」
彼女がここにいるのが信じられないのか、佐久間の表情が驚愕一色に染まる。葵は悲しそうな、辛そうな表情で佐久間を見つめている。動きが止まったのを幸いと見たか、醍醐と呼ばれた男が、厳しい顔と声で告げた。
「佐久間……お前の処分は、後日改めて決定する。今日はもう帰宅しろ……いいなっ」
しっかりした上下関係でもあるのか、佐久間は舌打ちすると一度こちらを睨み、去って行く。取り巻きがそれを慌てて追って行った。それを見送りながら、醍醐は溜息をついている。京一はつまらなそうに佐久間達を見ていたが、不意にこちらを見た。
「……あーあー、大丈夫かよ、緋勇。ったく、弱いクセに粋がってるからこんな事になんだぜ? 俺がちゃんと忠告してやったのによ」
別に粋がったつもりはない。好きこのんで喧嘩をしたかったわけではないし、特に目立つ真似をしたつもりもないのだ。ここへ来たのも連れてこられたからで、言ってみれば不幸な事故だ。それでも、京一にはそう見えたらしい。
「仕方ないさ。誰でも自分の度量を試してみたくなる時はある」
そして、それは醍醐も同意見のようであった。
「転校生――緋勇とかいったか。レスリング部の部員が言いがかりをつけたようで済まなかったな。だが、これに懲りたら二度とあいつらには関わらん事だ。分かったな?」
二人にそこまで言われたら、自分が悪かったのかと思ってしまう。いや、確かにこのような目に遭うのが嫌なら、なりふり構わず逃げ出せばよかったのだ。さすがに校舎内で暴れていれば教師達の目にも触れただろうから。
自分が悪かった。そう結論づけて謝ろうとした時だった。
「ちょっと二人とも!?」
意外な人物が大声を張り上げた。そう思ったのは二人も同じだったらしく、三人揃って声の主に視線を送る。すなわち、葵に。
「緋勇くんは被害者なのよ!? それなのに、まるで彼が進んで佐久間くん達に絡んだみたいな言い方して! それを、粋がるなとか、度量を試すとか、どうしてそういう発想になるの!? それに京一くんは、私達が来た時に、木から飛び降りるところだったわね。緋勇くんが暴行を受けている時、貴方はそれを黙って見てたの!?」
普段の外見からは想像できない剣幕で、一気に捲し立てる。呼吸を荒らげながら、それでも葵の目は京一達に向けられたままだ。
(な、何だかすごいものを見ているような気がするのは何でだろう?)
貴重なものを見ているような気がするのだが、とりあえずはこの場を何とかしようと思った。
龍麻は二者の間に入るように移動する。葵の前で首を横に振り、続けて、京一達へ頭を下げた。これは自分の責任だ。逃げ出さなかった自分が悪い。だから、葵が京一達を叱ることはないのだ。
葵は落ち着いたのはいいが、先の剣幕をらしくないと思ったのか、頬を赤らめて視線を逸らした。
「あー……その、済まなかったな、緋勇」
「ああ……俺も言い過ぎた。悪かったな、緋勇」
京一と醍醐は顔を見合わせると、こちらに頭を下げてくる。何だか妙なことになったが、これで手打ち、ということにしていいのだろうか。助けてもらったというのに、正直、二人には悪いことをした気になった。
「で、でもよ醍醐。どうしてお前、ここが分かったんだ?」
「あ、ああ、それなんだが……美里に感謝するんだな。彼女が真っ先に俺に知らせてくれたんだ」
話題を変えるかのような京一の問いに答えて、醍醐は葵を見る。葵は赤い顔のままこちらを見て、また視線を逸らした。
「あの慌て方は、尋常じゃなかったぞ。緋勇君が危ない、ってな」
「もう、醍醐くん!」
またも大きな声を出す葵。ただ、真っ赤な顔では先程のような迫力はない。それを見て笑う京一と醍醐。
「あれ〜っ!? ケンカ、もう終わっちゃったの? せっかく見物に来たのになぁ」
期待が外れた、というのが分かる声でそう言ってやって来たのは、クラスメイトの小蒔だった。そんな彼女をたしなめるのは、葵だ。
「小蒔ったら……何を言ってるの。緋勇くんが、こんなに怪我してるのに」
「あらら……大丈夫? まったく、佐久間も手加減知らないんだから……でも、緋勇クンってなんか強そうな気がしたんだけどな。緋勇クン……本気だったの?」
小蒔は不思議そうにそう訊いてくる。それに対する自分の回答は決まっている。すなわち、首を縦に振ることだ。小蒔は納得いかないのか、首を傾げていた。龍麻にしてみれば、自分が強そうに見えたという方がよっぽど納得いかない。
「それより緋勇くん、怪我の方は大丈夫なの?」
葵に問われて、龍麻は先程までの自分の状態を思い出した。佐久間に散々殴られ、蹴られた身体は当然の事ながら――
(あれ?)
痛くなかった。やられていた時はあった痛みが、今はない。いや、全くというわけではないが、動くのには支障はなかった。
「おいおい、あれだけやられて何ともないのか?」
「見た目程のダメージはないのか。それはそれですごいな……」
京一と醍醐は呆れ顔でこちらを見ている。龍麻自身、どういうことなのかさっぱりだ。
(記憶が戻れば、何か分かるかも知れないけど)
自分の中にある、一瞬だけ浮かんだ身に覚えのない記憶。ひょっとしたらだが、自分はやはり荒事に慣れていたのかも知れない。それなら打たれ強いのも納得できる。
(無意識に、急所を避けてたとか、そういうのかな……)
そんな都合のいい事を、龍麻は思うのだった。
転校してからそれなりに時間が流れた。未だに言葉を発する事もできず、色々と不自由はあるが、それでも転校初日にあった災難もあれっきりで、龍麻は平穏な日々を過ごしていた。あの日以来、一緒にいることが多くなった京一達のお陰もある。
ただ、頻繁に龍麻は違和感を感じていた。人に出会った時、ある場所に赴いた時、何かしら奇妙な感覚に囚われるのである。それが何であるのかは分からない。ただ、こう思うのだ。これは本当に現実なのか、と。
「やれやれ……やっと帰って来たな」
新宿通りに出たところで醍醐が嘆息する。疲れた、と言うよりはほっとした、の方が正しいのだろう。
今日は日本史の課題で江戸川区の目黄不動まで足を運んだ。新宿から江戸川まで出張るというのは意外と労力を使う。それに見知らぬ土地というのは何かと気疲れするものである。だから地元にいるというだけで、どこか安心できるのだ。
「ったく、今日はこれで終わりだけどよ、明日も別の寺に行くんだろ? いくら課題だからって、やってられねぇよな」
不満げに京一が愚痴をこぼした。今回のメンツの中で、一番乗り気でないのが京一である。高校生という年齢層で寺巡りなどに興味を持つものは、はっきり言えば少数派だろうから、それも当然である。
「まったく、いい加減に諦めなよ。課題なんだから仕方ないじゃないか」
『仕方ない』を強調して小蒔が言った。彼女にとっても楽しいものではないらしい。
「そうは言ってもな……寺なんぞ見に行ったって何の得にもなりゃしねぇよ。そうだろ、緋勇?」
同意を求めるように京一が視線を振った。
「ん? どうしたんだよ、緋勇? 具合でも悪いのか?」
浮かない顔をした龍麻に声をかける京一。何やら考え事をしていたらしく、はっと龍麻は顔を上げた。
「緋勇くん、大丈夫?」
「ああ。最近というか、転校して来てからこちら、よくそんな風になるな。悩み事でもあるのか?」
葵と醍醐が心配そうに訊ねてくる。龍麻はそれに、首を横に振ることで答えた。
「ま、いいけどよ。相談に乗るから、話したくなったら言えよ」
京一がそう言ったので、今度は首を縦に振る。
(また、か……)
今日のことを龍麻は思い出す。
先程、足を運んだ目黄不動の帰りに遭遇した、高校生達。その中の、一人は控えめに見ても陰気で気の弱そうな少年。もう一人は長い茶髪をした気の強そうな少女。
いじめられていた少年を、人数差に怯みもせずに助けていた少女。その光景を見た時に感じた、何か。
(あの人達も、どこかで……)
会った事があるような気がした。知っているような気がした。事実、声には聞き覚えがあった。それなのに、それが誰なのか分からない。
それに目黄不動に行った事自体が、どこかで引っかかる。自分は、あの場所を知っているような気がしたのだ。
「おいっ、信号が変わる。走ろうぜっ」
それだけではない。転校初日、体育館裏での一件の後、歓迎会を兼ねて、ということでラーメンを食べに行く事になって街に出た時。そこで遭遇した、長い棒のような物を持った金髪の少年と、その側にいた黒い長髪の少年。その時にも違和感を感じた。その二人が一緒にいる事が、えらく不思議に思えた。仲が良さそうに見えたにもかかわらず、だ。
やはりおかしいのだ。会う人、行く場所に感じる違和感。見たもの、聞いたものに湧き上がる不安。
(僕は、本当にどうしてしまったんだろう)
いくら考えても答えは出ない。だから、考えるのを止めにする。どうせ、また何かを感じたらその時に考え込んでしまうのだ。
気を取り直して顔を上げた。そこで、気付く。京一達の姿が、離れてしまっていた。彼らは点滅中の信号に急かされるように、横断歩道を渡ろうと走っている。そういえば、走ろうと京一が言っていたような気もする。
ここで離れると、また迷惑をかけてしまう。何とか追いつこうと龍麻は駆け出し――
「きゃっ!?」
横断歩道の手前で一人の少女とぶつかった。自然、足は止まる。
「痛たた……」
長い栗色の髪の少女がしりもちを着いている。どうやら自分と同じ、もしくはそれより下の高校生のようだ。
「ごめんなさい。ボーっとしてて。お怪我はないですか?」
こちらからぶつかったようなものなのに、少女の方から謝ってくる。謝ろうにも言葉は出ない。とりあえず、無事なのを意思表示しようと首肯して――固まった。
脳裏に映像がよぎった。それは、自分の前で尻餅をついている少女。今、目の前にいる少女だ。なのに――
(何で、こんな記憶が……?)
浮かんだのはあくまで記憶だ。ならそれは過去の物である。それなのに、今ここで同じ状況が再現されているのはどうした事だろう。
「そうですか……よかったぁ。本当にごめんなさい」
ほぅ、と安堵の息を漏らす少女。我に返った龍麻は、立ち上がるのに手を貸してやった。
「あ、ありがとうございます……本当にごめんなさい……」
差し出した手を取って、少女は立ち上がると再度謝ってくる。気にする事はないと龍麻は首を横に振った。それで気付いたのだろうか。少女はこちらをまじまじと見つめると
「あの……もしかして、あなた、言葉が……?」
と、ズバリ言い当てた。この状況で一言も発する事がない自分を見れば、そういう結論に行き着くのも難しい事ではないだろう。が、向こうはいきなりな発言を失礼だったと思ったのか、また謝ってきた。
「い、いきなり、ごめんなさい。初めて会ったはずなのに、なんだか……昔……どこかで――」
(昔、どこかで……? どこかで、何だ? 彼女は何を言っている? それに、彼女は同じだ。あの時の人達や、あの場所で感じたのと同じものを彼女から感じるなんて――)
途端、少女の顔が赤に染まった。顔色が変わったのではなく、それは、血だ。目の前にいる少女が、血に赤く染められたのだ。
信じられず、龍麻は目をこする。そして少女を再度見やった。赤色はどこにもない。ただ、不思議そうにこちらを見る少女がいるだけだ。
(錯覚? いや、それにしては随分とリアルな気が――)
「……」
「龍麻くん――?」
少し離れた所から葵の声が聞こえた。どうやら自分を捜してくれているらしい。考えてみたら、自分は交差点で取り残された形だったのだ。
彼女の姿を捜そうとして、目の前の少女のことを思い出す。向こうは向こうで、状況を察したようだった。
「あ……変なこと言ってごめんなさい。また……会えるといいですね。それじゃあ……」
最後にもう一度頭を下げて、少女は雑踏に消えていく。それを何とはなしに見送っていると、葵が近付いてくるのが見えた。
「緋勇くんっ。よかった……いつの間にかいなくなっちゃうから……みんなも待ってるわ。行きましょう」
去って行った少女が気にはなったが、今更どうする事もできはしない。頷いて、龍麻は葵と一緒に歩き出した。
3−C教室――早朝。
あれからどれくらいの日を過ごしたのだろう。あれから、というのがいつからの事なのか、正直に言えば思い出せない。ただ、そこであった事は覚えている。それ自体は、そして、その前のいくらかの出来事も思い出せる。ただ、その間に何をして、どう過ごしてきたのか。それはとても曖昧だった。昨日の事ですらろくに思い出せない。いくら事故で記憶を失ったからと言って、こういう事があるのだろうか? それとも、自分の頭の記憶を司る部分が障害でも持っているのか。
クラスメイト達の会話が耳に入ってくる。空手部が、優勝したらしい。
(空手部……?)
今の自分は部活に参加することなどできはしない。だから、部活動には無関心だ。それなのに、空手部と聞いて何かが気になった。別に知り合いがいるわけでもないのに、だ。それと同時に、なぜか先日杉並で出会った醍醐の友人のことを思い出した。何とも奇妙な組み合わせである。
(奇妙? いや、そうじゃない。彼と空手部には何か――)
「おい、緋勇――ちょっと、これ見てくれよ」
京一の声で意識を目の前に戻す。そこには一冊の雑誌。開かれたページには、高校生らしい少女の写真が数点載っていた。
「今世紀最後のアイドル――舞園さやかのグラビアだぜっ。へへへっ、かわいいよなぁ」
相好を崩す、というか不気味な笑みを浮かべる京一から身を引きつつ、龍麻は雑誌を見た。かわいい、という言葉を否定するつもりはない。自分もそう思う。
(ああ、この娘が舞園さやかだったんだ……って、あれ?)
何だか以前にもこんな事を考えた気がする。それに、この娘を自分はよく知っているような気がした。見知っている、ではなく、知り合いだったような――
(まさか、ね。僕にアイドルの知り合いがいるはずないし)
妄想じみた考えを振り払い、雑誌に視線を落とした。そこには変わらず舞園さやかの写真があり――
「――!?」
思わず龍麻は立ち上がった。椅子が派手な音を立て、周囲の注目を集める。
「ん……? どうしたんだよ、緋勇。ヘンなヤツだな。さては、さやかちゃんの肢体にクラッときたな? いやぁ、分かるぜ、その気持ち」
などと京一が言い、それに納得したのか集まった視線も散っていく。クスクスと笑う声が聞こえたが、そんなものは気にならなかった。それどころではない。
(何だ……今の写真?)
脳裏に浮かんだ一枚の写真。雑誌のものではない、仲の良さそうな兄妹が写っている写真。
(あの娘、の……?)
この間、ぶつかってほんの数分程一緒にいただけの少女。写真に写った幼い少女と、あの時の娘が、なぜか同一人物のように思えた。
時は流れる。いや、多分流れている。
最近は時間の移ろいを感じられなくなる事が多い。自分は本当に、毎日を正確に過ごしているのだろうかとおかしな事を考えたりする。ひょっとしたら、何日も何十日も飛び越して過ごしているのではないだろうか、と。何しろ、強く印象に残った事以外のほとんどを、忘れているような気がするのだ。日が経つにつれ、ほんの二、三日前の事が曖昧になる。
記憶は相変わらず戻らないし、記憶するどころか、日々の記憶が失われているような気がするのだ。それはとても気味が悪い。自分は昨日、何をしただろうかと記憶を呼び起こそうとした時、京一の声が聞こえた。
「緋勇、知ってっか? この病院の噂……何でも、出るんだってよ」
通りかかった病院の前で、そんな事を言う。噂も何も、新宿の事を自分が詳しく知っているはずがない。桜ヶ丘中央病院と看板の出た病院は、一見するとただの病院に見える――ただの病院だ、きっと。そうに違い……ない。
「でっ……出るって?」
醍醐は気になるらしく、恐る恐る話を促す。どことなく、顔色が悪いように見えた。京一は、おどろおどろしい表情を作るとピンポイントで醍醐を見た。
「世にも恐ろしい、巨大な女の化け物がよ……身の丈は、3mぐらいはあるって話だぜぇ?」
「ウソくさいなぁ……」
小蒔は信じていないのか、胡散臭げに京一を見やった。ほんの冗談だったのだろう、京一が一転してニヤリと笑い、醍醐はほっと息をつく。まさか、とは思うが怪談が苦手なのだろうか。
「お前なぁ……」
「あっ……緋勇さんっ……」
京一を非難する醍醐の声と、聞き覚えのある少女の声は同時にあがった。立ち止まり、龍麻は少女の声のした方を見る。そこにいたのは、先日、横断歩道の前でぶつかった少女だ。
「お……キミ……緋勇の知り合い?」
気付いた京一が、少女に声をかけた。こちらが対応する前に、知らない人間が話しかけてきたものだから、向こうは戸惑っている。それを気にした様子もなく、京一は名乗った。
「俺――蓬莱寺京一。よろしく」
「あっ、わたし――比良坂紗夜っていいます。初めまして、蓬莱寺さん。緋勇さんも……こんにちは」
こっちに微笑みかける少女――比良坂。
(ああ、確かそんな名前だった――)
ずきり、と頭痛がした。今までの既視感や違和感とは違い、身体に変化が出る。
(確か? 一度会ったきりの彼女の名前に、どうして聞き覚えがあるんだ?)
だが、それよりも。もっとおかしな事があった。
(何で彼女は、僕の名前を知っているんだ?)
ぶつかった時には、お互い名乗らなかった。というより、声が出ない自分には、名乗る事が出来ない。それなのに、いつどこで、彼女は自分の名前を知ったのだろう。
また、頭に痛みが走る。今度は映像が一緒に浮かんだ。初めて出会った時に見たのと似た映像。血まみれの比良坂の姿。
不吉な映像を、頭を振って追い払う。と――
「紗夜……ここにいたのか」
「あっ、兄さん」
二十代半ばに見えるの白衣の青年がやって来た。比良坂の反応を見るに、彼女の兄らしい。
「……紹介しますね。わたしの兄の――」
「比良坂英司です……初めまして、緋勇龍麻君」
(――っ!?)
ただ、こちらに挨拶してきただけだ。だというのに、彼の顔を見た瞬間、今までの比ではない違和感が龍麻を襲った。
目の前にいる青年が円筒状のガラスケースを抱え、邪な笑みを浮かべていた。
(な、何だこの映像……いや、記憶……?)
龍麻は白衣の青年から目を離せなかった。何だか、とても大切な事を忘れている。それは、この青年と関わりのあった事だったはずだ。
「おい、緋勇」
「……どうかしたのかい? 僕の顔に何か……?」
醍醐と英司がこちらに怪訝な声をかけてくるが、応じる事ができない。脳裏にはまた別の映像が浮かんだからだ。
後ろから比良坂を抱きすくめる青年の姿。仲むつまじい兄妹、にはとても見えない、奇妙な光景。
頭痛が次第に大きくなっていく。呼吸が荒くなってきた。息一つするのに労力が要るなんて、異常だ。
自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
人の腕に胸を貫かれた、白衣の青年。
「どうしたんですか!? 緋勇さん――っ!」
「緋勇くんっ!?」
比良坂と葵が駆け寄ってくる。眩暈がして、龍麻はその場に膝を着いていた。頭痛も消えることなく続いている。
(い、今のは一体……僕は何を忘れているんだ……!?)
考えれば考える程、脳をかき回すような痛みが激しくなっていく。思考を止めればいいのに、自分の中の何かがそれを否定した。
(何か、ある……この奇妙な記憶の断片に、僕自身の事を知る何かが――)
目の前が黒に染まった。身体の感覚が消えていく。自分を呼ぶ声が次第に遠くなっていく中、最後に見えたのは――
素手で解体されていく、人型をした無数の『何か』だった。
真神学園正門前――放課後。
「あ……緋勇さん」
外では比良坂が待っていた。最近、いつも一緒にいる葵達の姿は今日はない。
こんにちは、と頭を下げて、比良坂は少し躊躇った後、口を開いた。
「あの……わたし、どうしてももう一度、会いたくて。少し……わたしと話をしてもらえませんか?」
別に用事があるわけでもない。それに、わざわざ遠方からやって来たのに――
(遠方? 彼女がどこの人なのかも知らないのに、何でそんなことを……)
また奇妙なことを考えてしまう。彼女に出会ってからこちら、そういうことが頻繁に起こっているような気もするが、今は返事をするのが先だ。龍麻は首を縦に振った。すると、比良坂の顔がぱっと輝く。
「本当ですか!?……よかったぁ。いきなり押しかけてこんなこと言うなんて……おかしな娘だって思われたらどうしようかと思ってました」
恥ずかしそうにそう言って、比良坂は一転、表情を引き締める。
「どうしても、あなたとは初めて会った気がしないんです。蓬莱寺さんから、緋勇さんは、事故のせいで、記憶が少し、混乱していると聞きました……だから――もしかして、わたしたちどこかで会っているんじゃないかって。わたし、そう思うんです」
少々、意外だった。向こうも自分を知っているような気がする、などと。正直、それはないと思う。龍麻は都外からの転校生だ。接する機会もないはずなのだから。だがどこかで、彼女を知っているような気がするのも事実だ。
「いやになったら、すぐに帰っても構いませんから、今日は……少しだけ、わたしに付き合ってください。お願いします……」
頭を下げ、比良坂は真剣な声で言った。
比良坂に連れて行かれた先は、品川の水族館だった。水槽の一つ一つを、彼女はとても嬉しそうに見て回っていた。ここでも既視感を覚えたが、比良坂が楽しそうだったのでそれについては考えないことにした。
見終わって、近くの公園まで足を運ぶ。
「ここの水族館、とっても綺麗だったでしょう? わたし、大好きなんです。水族館とか、動物園とか……人間もそうだけど、命あるものはみんな綺麗……きっとそれは、一生懸命生きようって頑張るからなんですよね」
公園内を歩きながら、そう感想を漏らす比良坂。それはとても嬉しそうで、心からの彼女の言葉なのだと感じ取れた。
しばらく歩き、池のほとりまで来ると、比良坂は柵に肘をついて、池にいる魚を眺めだす。龍麻も何となしにそちらへ近付き、同じように池を見た。水面近くを悠々と泳いでいる魚は、水族館で見たのとはまた違う趣がある。
「緋勇さん……一つ訊いていいですか……?」
池を見たままで、比良坂は問うてきた。
「緋勇さんは、奇跡って信じますか?」
どういう意図があるのか分からないが、龍麻は頷いた。起こるはずのない事象。一番起こりうる未来、それも悪い方向へ向かうものを回避した結果。言いようは色々とあるが、それは確かにあると、信じられる。大体、自分自身が――
(自分が……何だろう?)
浮かびかけた言葉が、霧散した。自分は今、何を思い浮かべたのだろう?
しかもそれは、また何やら龍麻にとってはよくないことのようだった。それをスイッチにしたように、頭に痛みが走る。
「……わたしも、信じています。きっと、奇跡はあるって……」
こちらの様子には気付かないまま、比良坂は続ける。
「いったい、何が奇跡と呼べるのかは分かりません。でも……わたしは信じています。奇跡を……」
『わたしは奇跡なんてないと思います。だって奇跡があるなら――大切な人を失う事なんてないじゃないですか』
不意に言葉が耳の奥で響いた。それは知っている声。目の前にいる少女が発した声。そして――目の前の少女の言葉とは矛盾する言葉。
また、頭痛がした。
「ねぇ、緋勇さん。わたしね……夢があるんです……えへへ、笑わないでくださいね。実は看護婦さんになる事なんです」
こちらを向いて、恥ずかしそうに比良坂は笑った。だがそれも一瞬。再び視線を池に向けると、遠い目をして語る。
「わたし……小さい頃に両親を亡くしているんです。飛行機事故で……たくさんの人が、その事故で死にました。わたしは……父と母に護られて、ほとんどケガもなかったそうです。でも、父と母は――だからかも、知れません。看護婦さんに憧れるのは――看護婦さんになって、苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。誰かの命を……」
『わたしは……兄を救いたかった……兄のために何かをしてあげたかった……』
再び聞こえる声。そして、咳き込み、口から血を流す少女の姿が浮かぶ。
どくん、と心臓が跳ねた。頭痛が激しくなっていく。
比良坂はまだ何か言っているが、それも認識できない。頭が割れるような激痛と、耳鳴りが、龍麻の意識を浸食していく。
視線の高さが不意に下がった。立つこともままならず、その場に膝を着いたのだ。それでようやくこちらの異状に気付いたのか、比良坂の顔が蒼くなるのが見えた。
景色が歪み、比良坂の姿が遠ざかっていく。何が起きているのかは相変わらず分からない。
だが、その光景を龍麻は見たことがあるような気がした。
「もう……終わりにしましょう。兄さん……」
気が付くと、見知らぬ場所にいた。広く、薄暗い部屋。乱雑に置かれた用途不明の機材。部屋の奥には祭壇らしきものがあり、緑色の蛇の像が鎮座していた。その傍に佇む、白衣の青年。
そして、自分は何やら台のような物に拘束されていた。両手足はしっかりと固定され、動かすことはできない。普通なら混乱するその状況で、頭の中は冷静だった。
(見知らぬ……? 違う……)
頭痛は消えていない。そのせいか、少し前までの記憶はしっかりと残っていた。自分はつい先程まで、品川の公園にいたはずだ。それに、この場所には見覚えがある。
龍麻の傍には比良坂がいた。
「わたしは兄さんのものじゃないわ。私は生きてるの。自分で考え、自分で行動できる! 兄さんが創った怪物達と一緒にしないで! 病院から死体を盗んだり、人を攫ったり、こんな酷い実験をしたり……こんな事をして何になるって言うの!? 兄さんはあいつらに騙されているのよ! いいように利用されているだけだわ!」
それに、この言葉。確かにこの場所で、同じ言葉を聞いたような気がする。溜まりに溜まった想いを吐き出すような比良坂の言葉。それは――
(狂気に火をつけるだけだった――)
だった? まるで過去の出来事のように認識している自分に一瞬戸惑う。だがそれを肯定するかのように、青年の目には禍々しい光が宿っていた。
「緋勇龍麻……お前がいなければ紗夜は僕のものだった」
「兄さん!?」
「ククク……簡単な事じゃないか。緋勇龍麻、お前が死ねばいいんだ。それで紗夜は僕の元へ帰って来る」
明確な殺意が伝わってくる。常人なら身を竦めるであろうそれ。なのに、龍麻はそれに何の脅威も感じなかった。
(そうだ……僕は知ってる。この光景を……いくらかの違いはあるけど、間違いない)
『死蝋影司』の声に応え、近くの扉から巨大な影が姿を見せる。
緑色の肌、光を失った目。大きな身体を持つ異形。筋肉の鎧を纏ったそれは、見るからに怪力を誇る者であると分かる。
「腐童……その男を殺せ」
命令に従い、腐童と呼ばれたそれがこちらに近付いて来る。
「危ない、緋勇さん――っ」
庇うように比良坂が動いた。しかし彼女に何ができるわけでもない。このままあの異形に殴り飛ばされ、彼女は――
(彼女は、何だ?)
起こったであろうことを思い出そうとした。それを阻むかのように頭痛が生じる。だが、この状況でそれはもう意味を成さない。疑問はもう、確信に変わったから。
(邪魔をするなっ!)
思考を掻き乱す痛みを、龍麻は無理矢理ねじ伏せた。嘘のように頭痛は消え、堰を切ったように無数の情報が溢れてくる。
『緋勇クンは、大きな事故に遭って、今は声を出すことができません。その時のショックで、記憶の方もまだ少し混乱したまま――』
(事故になんて、遭ってない!)
『今日の議題は、旧校舎跡地の利用案について……』
(旧校舎は取り壊されてなんかない!)
クラスメイトの――いや、親しい顔が次々と浮かぶ。
(小蒔さん、京一、雄矢――)
新宿で遭遇した、長い棒のような物を持った金髪の少年と、その側にいた黒い長髪の少年。
(新宿じゃない。彼らと――雷人と唐栖に出会ったのは、渋谷だ)
目黄不動の帰りに見かけた、控えめに見ても陰気で気の弱そうな少年と、長い茶髪をした気の強そうな少女。
(嵯峨野と亜里沙とは、墨田区で)
空手部の話題と、同時に浮かんだ醍醐の親友の姿。
(目黒鎧扇寺の兵庫。凶津煉児は、もういない……)
縁あって出会った、仲間達。
(舞子、ミサちゃん、翡翠、アラン、織部姉妹、マリィ、コスモ、さやかちゃん、諸羽、弦月、紅葉、晴明、祇孔、芙蓉――)
そして、最愛の少女。
(葵――)
拳を握り締める。身動きが取れないだけで、身体は動く。ならばすることはただ一つだ。
少々の無茶は承知で、龍麻は一気に《氣》を練り上げた。瞬時に身体能力を、筋力を強化し、造作もなく拘束具を引きちぎる。
(あの時できなかったことを……護れなかった人を、今度こそ――!)
目の前にいた比良坂の腕を引っ張って後ろにやり、龍麻は向かってくる腐童を見やった。
練り上げ、昇華した《氣》を収束させる。眩い黄金が右前腕に集い、完全に包み込んだ。
「今度こそ、助けてみせるっ!」
振り上げられた拳が向かってくるより早く間合いを詰め、龍麻は右腕を一閃した。金の軌跡は腐童の左肩から右脇腹へと走り、延長上にあったものを――崩壊、消滅させた。全質量のいくらかを永遠に失った巨躯が二つに分かれて落ち、重い音と共に埃を舞い上がらせる。過去に数十発の連撃で斃された異形は、ただの一撃でその活動を停止した。
続けて龍麻は奥にいる死蝋に意識を向けた。あの時、狂気に冒されていた青年は、今はいいものを見たとばかりに嗤っていた。
「ふっふっふっ……これ程の《力》とは……さすが《器》よ」
口から零れたのは、死蝋の声ではなく、柳生のものだった。
「このまま朽ちてしまうのであれば、そこまでだったが……まさか、ここまで抗うとはな……いいぞ、それでこそだ緋勇龍麻よ。待っているぞ。貴様が帰って来るのを。その時こそ、雌雄を決しようぞ――あーはははははっ!」
哄笑を残し、死蝋の姿をした柳生は溶け、消えた。
一段落着き、ゆっくりと息を吐き出す。右腕に残った《氣》を消して、龍麻は護りきることができた少女の方を向いた。
「龍麻さん――ありがとう」
「いや……」
龍麻は首を横に振った。
礼を言われることではない。『あの時』に自分は護れなかったのだ。自分はただ、あの時の償いを、自己満足をしたに過ぎないのだから。
「いいえ。龍麻さんは、わたしを助けてくれました。だから、お礼を言ったんです。それに龍麻さんには、とてもつらい思いをさせてしまいました。ごめんなさい」
だというのに、深々と、比良坂は頭を下げる。
「あの後、とても龍麻さんを苦しめることになって……わたしが、もう少しうまく動けていたら、龍麻さんの古傷を抉ることもなかったんじゃないかって」
「ち、ちょっと待って!」
比良坂が言いたいことは分かる。分かる、ような気がする。だがそれはおかしいのだ。何故なら、それは自分のいた世界のことであって、決してこの世界の比良坂に関係あることでは――
「って、まさか……比良坂さん?」
「はい。比良坂紗夜です。言っておきますけど、ゾンビじゃないですよ?」
悪戯めいた笑みを浮かべて、比良坂は言った。
「な、な……なんで? どうして!?」
頭の中が真っ白になる。『ここ』が自分のいた世界じゃないのは承知している。なのに何故、自分がいた世界で死んだ比良坂が、生きてここに存在しているのか。
比良坂は申し訳なさそうに首を振った。
「わたしにも、よく分かりません。ただ、わたしがそちらの世界で死んだのは確かです。その直後、つまり品川の事件が終わるまでは、わたしは彷徨ってたんですけど……」
「あ……」
そこで肝心なことを龍麻は思い出した。比良坂は、品川の件の結末まで知っていることになる。ということは、自分が彼女の兄を殺したことも、知っているはずなのだ。
「比良坂さん、あの……」
「兄のことは……仕方ないと思っています」
少しだけ悲しそうな表情で、比良坂はこちらの言葉を遮った。
「わたしには、兄を止めることができませんでした。兄がああなってしまったのは悲しいことですけど、あのままだと、きっと兄はもっと多くの人を悲しませていたと思うんです。それを、龍麻さんは止めてくれた。いえ、龍麻さんがどう思っていても、それはそれで事実なんです。だから、謝らなきゃいけないのは、こっちなんですから」
この話はここまでです、と比良坂は目で念を押してくる。言いたいことはあるのだが、そんな風にされたら言葉が出てこない。
それよりも、と比良坂は話を戻す。
「龍麻さんは、こちらの世界で既視感みたいなのを感じませんでしたか?」
「うん、感じた。出会った人や行った場所で、わずかに記憶が浮かんでくるんだ。それに、毎日があやふやで、過ごしてない日があるような感じもした」
「ええ。それで、ついさっき、なんですけど。わたし、あちらの世界のことを完全に思い出したんです。そこで気付いたんですけど、わたしは正確には、この世界に二度目の生を受けたみたいなんです。飛行機事故も起こったけど、兄は変わることなく、二人で支え合って生きてきました。そんなある日、龍麻さんに出会った時から、既視感みたいなのを感じるようになったんです。あちらの世界の記憶ですね。その頃から兄がおかしくなり始めて、いつの間にか向こうの記憶と同じような流れになってました」
よく分からないが、とにかくここは自分達のいたのとは違う世界で、比良坂は向こうの世界で死んでからこちらの世界に生まれ変わって、自分と同じように既視感に触れている内に向こうの世界の記憶を取り戻し、今、こうしている、と。
色々と分からないことはあるが、あの時の比良坂が、生きてここにいるという事実は変わらない。つまりは、彼女を救うことができた、ということだろう。
「まあ、難しい話はいいとして。比良坂さんはあの比良坂さんで、今はこうして生きている、ってことでいいのか……」
何だか御都合な何かが働いているような気がしないでもない。いや、それこそが運命とか因果とかいう言葉で説明されるものなのだろうか。
考えが纏まらないが、それはそれでいいだろう。考察はいずれゆっくりやればいい。分からなければ分からないでも構わない。それ程重要なことでもない。
「奇跡、か……」
「え?」
「いや、やっぱり奇跡ってあるんだな、って」
小首を傾げる比良坂にそう言って龍麻は肩をすくめる。
誰が何を言おうと、事実は事実として受け止めよう。
奇跡は――確かに起きたのだ。