歪んだ空間に吸い込まれるようにその姿が遠ざかる。気付いた時にはそれが起こっていた。
止める間もなく、景色の歪みは修正され、龍麻はその向こう側に消え去る。と同時に、その現象を起こしたであろう少女の《陰氣》が収まっていった。
これを起こしたのが少女――六道ではないということは分かる。一連のやり取り自体は、ずっと聞こえていたからだ。
その場にいた者達は、何の反応もできなかった。いや、そう言うと語弊があるが、少なくとも、龍麻が消えていくことに関しては何の手を打つこともできなかった。ただただ、目の前で消えていく様を見せつけられたのだ。
起きた現実を受け入れることを、誰もが拒絶していた。これで二度目――しかも今度は、完全に姿を消してしまった。どのような状況なのかも分からない。生死すら判然としない。ただ分かるのは、自分達の前から大切な者が消えてしまったという事実のみ。
放心したままその場に佇むことしかできない四人。このまま何もなければ、もうしばらくはそのままであったろう。
だが、そこに変化が訪れた。一度は消えた歪みが、再び生じ始めたのだ。
それを見てようやく我に返り、警戒する京一達。彼らの視線の先には、倒れたまま蒼い陽炎を立ちのぼらせている少女の姿があった。
「こ、今度は何だ……!?」
刀の鯉口を切りながら京一が、皆の気持ちを代弁するように叫ぶ。《氣》の質が変わったと言っても、そこにあるのは例え操られていたという事情があるにせよ、先程までこちらに牙を剥いていた者だ。
少女に動きはない。ただ、どこからともなく何かが軋むような音がして、それに伴い歪みが増大していく。
何事が起こるのかと皆が注目する中、歪みの奥から人影が現れた。
「龍麻っ!」」
「「ひーちゃんっ!」」
無事な姿を見せた我らが指揮官。傷を負った様子もなく、確かな足取りで完全にその姿をこちらに見せる。
無事を喜び、駆け寄ろうとする京一達。
しかしその足は、続けて現れた人影を見て完全に凍りついた。
桜ヶ丘中央病院――ロビー。
龍麻が帰還した直後、彼らは倒れた六道を保護し、ここ桜ヶ丘へと移動していた。それ以外にも用事があり、その関係もあって龍麻は更に二人の仲間をここへ呼んだ。今、この場にいる真神組は龍麻、葵、醍醐の参謀陣。京一と小蒔は、難しい話は勘弁ということで早々に帰宅している。特に京一は、止める間もなくすごい勢いで桜ヶ丘から撤退していった。ともかく人数は二人減り、そこに御門と壬生が加わって現在五名。
「まったく、非常識な方ですね、あなたは」
一体何があったのか、龍麻はざっと説明したのだが。開口一番、御門はため息をついた。口こそ開かないが壬生も視線だけで似たような意味合いを訴えているようだ。言葉と視線に圧され、龍麻はたじろく。
「ひ、非常識はないんじゃない……?」
「何を言っているのですか。あなたのした事を考えたら、十分に妥当な言葉だと思いますが?」
その反論はあっさりと、御門によって打ち砕かれる。
「異界に飛ばされ、そこで一暴れした挙げ句に、そちらの存在をこちらに引き込んでしまったのですよ? それを非常識と言わず何と言いますか」
「い、いや……だって、彼女は少なくともこっちの存在だと思ったし、そう言われても僕には何が何だかさっぱりで……それより、晴明には何か分からない? どうしてこうなったのか」
小言が続きそうだったので、話題をすり替える。このまま叩かれていたのではたまらない。だというのに
「分かりません」
すっぱりと、御門は切って捨ててくれた。がっくりと龍麻は肩を落とす。それを見て一応は満足したのか、御門はパチンと扇子を開いた。
「まあ、いくらか推察することはできますよ。まず、あなたが飛ばされたのは過去ではなくて、こちらと非常によく似た別世界だったのだろうということ。柳生自体は刻逆の迷宮云々、と言ったみたいですが、実際に刻を遡れるならば、今こうして暗躍する必要はないでしょう」
その通りだ。龍麻を過去に飛ばさずとも、自分が望む過去へ戻った方がよほど有意義であるはずである。
「てことは、やっぱり並行世界ってやつだったのかな」
並行世界。可能性の世界と言ってもいい。同じようでどこかが違う世界。たった一つの選択によって無数に枝分かれし、変わっていく世界だ。
「でしょうね。まあ、その辺りは柳生のみぞ知る、ですが……」
「でも、連れて来といて何だけど、比良坂さんのことは?」
「さて……わたしには何とも。大体、こういう怪しげな事はわたしの領分ではありませんので。もっと相応しい人がいるのではないですか?」
扇子を閉じ、御門は視線だけを動かした。その先にあるのは、醍醐――正確には、その影だ。
『うふふふふ〜。呼んだ〜?』
それを合図にしたように、ずるり、と。醍醐の影から細い腕が伸びた。龍麻と葵はああ、と納得し、醍醐は物言わぬ置物と化し、壬生はその怪異に跳び退いて身構える。
「ミサちゃん……ここ、一応結界の中なんだけど?」
影から這い出してきた裏密ミサに、龍麻は壬生に向かって安心させるように手を挙げてから疑問を口にした。
桜ヶ丘は結界に護られた場所だ。少なくとも、こういった侵入を容易く許す場所ではないはずであるのだが。
「ああ、それは大丈夫〜。院長先生に許可をもらって〜、裏道を繋いであるの〜。それよりも〜」
よく分からない説明をしてから、裏密は龍麻達を見渡す。
「あ、ああ……その様子だと話は聞いてたみたいだからズバリ訊くけど。僕に起こったこと、そして何がどうなっているのかを教えてもらいたいんだけど」
固まっている醍醐には悪いが、そうしないと話が進まないと判断したのか、龍麻は話を戻した。いいわよ〜、と魔女は口を開く。
「ただ〜、あたしもはっきりと説明できないわ〜。起こったであろう事を〜、推察するだけ〜」
と、前置きをして続ける。
「まず〜、ひーちゃんが飛ばされた世界は〜、御門く〜んが言ってたように〜、並行世界の一つだと思うわ〜。ひーちゃんが保護した女の子の《力》を〜、柳生が利用したのね〜」
「うん。それは分かるけど……じゃあ、どうしてそこに、こちらの世界の比良坂さんがいたの?」
そこが一番の疑問であった。確かに一度死んだ比良坂が、どうして生き返ったりしたのか。
「あのね〜。結界で隔離した程度の別世界じゃないのよ〜。いくらその《力》が強大だと言っても〜、別の独立した世界をまるまる創り出すことなんて出来るはずないわ〜。だから〜、ひーちゃんが飛ばされたのは〜、あくまで『存在していた』並行世界だと思うのよ〜」
「うーん……つまり、六道さんがしたのは、世界を創り出すことじゃなくて、他の世界との道を開いたんだってこと?」
そう龍麻が訊ねると、裏密は嬉しそうに笑った。
「それも恐らく〜、緋勇龍麻が存在しない世界にね〜。同じ人物がはち合わせたらおかしなことになるし〜」
「でもそれじゃ、どうして僕の記憶が無くなってたの? それに、比良坂さんのことは?」
「記憶の方は〜、よく分からないわ〜。でも〜、それは柳生が干渉したと考えるのが妥当ね〜。こちらの世界のことを忘れさせて〜、そのまま並行世界で普通の人のまま飼い殺す気だったんじゃないかしら〜」
「ふむ。柳生にとって《力》を持つ龍麻さんは、邪魔以外の何者でもありませんからね」
さもありなん、と御門が相づちを打った。
「まあ、それについては疑問もあるのですが置いておきましょう。で、彼女のことはどう説明するつもりです?」
「それは〜」
言いかけて、裏密は口を閉じる。人さし指を唇に当て、やや首を傾げて考え込むその様は、ビン底眼鏡さえなければ可愛らしいものだったかも知れない。
「多分、だけど〜。柳生が言ったことが確かなら〜、六道は『刻を視る者にして、万物の六道輪廻を司る《力》を持つ者』らしいから〜。それは〜、単に異界と道を開くだけじゃなくて〜、ある程度の時間軸も修正できるんじゃないかしら〜。ひーちゃんが気付いたのが、転校直後だったことからも〜、その可能性は高いわね〜」
「それじゃあ、比良坂さんがその世界に生まれていた、というのは……六道輪廻の《力》に引き寄せられた?」
「そうね〜。でも〜、それだけじゃないと思うわ〜。今でない時、ここでない場所で〜、ひーちゃんと彼女の間には〜何かしらの縁があったのよ〜。《宿星》がもたらす何か〜。だからこそ〜、ひーちゃんが飛ばされた世界に転生したんじゃないかしら〜」
つまり、比良坂自身にも何かしらの《力》があるということだ。無数に存在する並行世界の中から、龍麻が飛ばされた世界に生まれ変わる確率など、偶然にしてはできすぎている。その逆で、彼女が転生した後の並行世界に飛ばされた、の方かも知れないが。
「いずれにせよ〜、あたし〜の推論が当たっていようが〜、外れていようが〜、それは問題じゃないんでしょうけどね〜。とりあえず〜、あたし〜の話はここまで〜」
と締めくくる裏密。まあ、実を言えば真実の究明をしたいわけではないし、知ったところで一人の少女が復活したという事実は変わらないのだから。ただ、突拍子もない出来事だったので、真偽の程はともかくとして何でもいいから納得できそうな理由が欲しかっただけだ。
「それじゃあ、次の話に移っていいかな?」
今まで黙っていた壬生が口を開いた。
「このテの話をするだけなら、御門さんはともかく僕を呼ぶ必要はない。用件は何だい、龍麻?」
「ああ……まあ、一つは比良坂さんのことで、便宜を図ってもらおうと思ったからなんだけど……こっちでは死んでるから」
品川事件に関しては、原因不明の廃屋火災ということで警察が動いていた。もちろん、そこで行われていた実験であるとか、どう考えても不自然な死体の数々については拳武館が隠蔽していたのだが。それに伴い、比良坂は行方不明扱いを受け、以前在籍していた高校は退学している。彼女の身内は既にこの世におらず、親類は元々彼女らを厄介者扱いしていたらしいので、今更頼ることもできないだろう。比良坂は完全に独りきりになってしまったのだ。
「比良坂さんのこと、そっちから手を回して欲しいんだ」
「分かった。こっちでも関わっている事案だ、引き受けよう」
「頼むよ。さて、それじゃあ本題に入ろうか」
壬生に頭を下げて、龍麻は表情を改めた。この場にいる者達には既に見慣れた、指揮官の顔だ。
「今後のことだけど、恐らく柳生はもう僕にちょっかいをかけてくるようなことはしない。雌雄を決するなんて台詞を残していったくらいだから、今度顔を合わせるのは最終決戦の時だろうね。時間はそれ程残っていないだろうし、総力戦になると思う。そこで――」
龍麻は壬生と御門を見て、言った。
「晴明は陰陽寮、紅葉には拳武館から兵力を出して欲しい」
兵力、という言葉を聞いて、醍醐と葵が息を呑むのが分かった。
恐らく柳生の方も、こちらを迎え撃つ準備を整えているだろう。それに対抗する為には仲間達だけではなく、使えるものは何でも使おうというのだ。今までにない方針からも、龍麻が今度の決戦をどう受け止めているかがうかがえる。
だが――
「無理です」
「期待には応えられないよ、龍麻」
二人から出たのは否定の言葉だった。
「陰陽寮、というのは語弊があります。わたしが管轄している東の陰陽師達。結界を張る程度ならともかく、はっきり言って、柳生の軍勢と戦える――いえ、戦い抜ける程の者は皆無です。無駄に死体を増やすだけですよ」
「こっちもだ、龍麻。勘違いしているようだけど、拳武館の兵力の大半は《力》なんて持っていない普通の達人だ。鬼や異形に対抗する戦力にはなり得ないよ。僕や八剣、武蔵山は特殊な部類だ。それに第一、拳武の戦力は完全には回復していない……理由は今更言わずとも、分かるだろう?」
「……できることなら数が欲しかったんだけどね」
アテが外れた、と龍麻が落胆の色を浮かべた。しかしすぐに表情を改めると
「じゃあ、せめて。決戦当日はなるべく周囲に被害が出ないような措置を取ってもらいたい。寛永寺周辺から一般人を引き離す……できるかな?」
と別案を出す。それに壬生が頷いた。
「交通規制なんかはこちらで手を回そう。それくらいなら、何とでもなる。ただ、寛永寺周辺に住んでいる人達となると――」
「それはこちらから働きかけましょう」
壬生の言葉を御門が継ぐ。
「恐らくは、寛永寺に向かうまでの間にも戦闘が起こるでしょう。だったら、それまでに住民を避難させておく必要がある。ガス漏れでも不発弾でも、適当にでっち上げますよ。それと兵力ですが、式でいいならわたしが手配しましょう」
「十二神将、動かせるの?」
「いいえ。前にも言いましたが、わたしにとって最も優先すべきは東京ではない。わたしと村雨が秋月様の傍を離れる以上、十二神将は警護に残します。まあ、芙蓉にはこちらを手伝ってもらいますが」
「じゃあ、他の式神って?」
龍麻が首をひねると、御門は扇子で口元を隠しながら白い目を向けた。
「龍麻さん……あなたは富岡八幡宮の件をお忘れですか? 阿師谷にできたことが、わたしにできないはずがないでしょう」
御門の式神というと、芙蓉を始めとする十二神将をどうしても思い浮かべてしまうが、その前に彼は陰陽師である。他の式神を使役できないはずがないのだ。
「そういうわけで、露払い程度ならわたしの式神で十分でしょう? それに、裏密さんも何かと準備しているようですし」
ちらりと裏密を見やる御門。魔女殿はニヤリと笑って見せた。
「ミサちゃん、そっちの方は、どんな調子?」
「順調よ〜。この間のは起動実験待ち〜。例のブツの方は〜、現在、加工中〜。当日までにはできるだけ準備しておくわ〜。もう少し数が欲しいから〜、今日にでもアレの起動実験を兼ねた狩りをしようと思ってるの〜。それと〜、如月く〜ん経由で手に入れた物があるから〜、そっちの方も期待してて〜」
心底楽しそうに進捗状況を話す裏密。頼もしいと言えばいいのか、不安だと言えばいいのか……きっと、両方とも正しい。
龍麻達、魔人の集団の中で、中心と言えるのは間違いなく真神の五人である。ただ、それが全体の運営となると話は変わる。指揮官の龍麻。その代理として男性陣の統括をほとんど任されている醍醐と、女性陣の統括をする葵。武器や道具などの物資調達をする如月。オカルト系の知識などで各種サポートをする裏密。それに組織的なサポートが可能な拳武館の壬生と、東の御棟梁である御門が最近加わった。以上が、魔人首脳部の構成員だ。
そして、ここ桜ヶ丘に一人を除いてそれらが集結している以上、どうしても方針会議になる。産婦人科のロビーで深刻な顔をして話し合う高校生達……幸いなのは、患者もその家族も今のところこの場にいないことだろうか。いたら要らぬ誤解を受けていただろう。
「とりあえず、現時点ではこんなものかな」
手にしたメモ帳を閉じて、龍麻はそれを懐へ片付ける。
「物資の方は調達済み。翡翠と話は付けてるから、葵さんとミサちゃんは後でチェックと準備を。便利屋にしちゃうけど、この役は絶対必要になるから、よろしく頼むよ」
「ええ。大丈夫、こちらは任せておいて」
葵は言葉に出して、裏密は無言で頷き返した。次に龍麻は醍醐を見る。
「雄矢は今まで通り旧校舎の統括を。決戦が近いし、焦る気持ちはみんなもあると思うし、僕だってある。でも、今ここでリタイヤされるのはとっても困る」
「ああ。無茶をしない程度に手綱を握っておこう」
腕組みをした巨漢は力強く首肯する。そして最後に壬生と御門を見た。
「大人の世界のことは紅葉と晴明に任せる。こればっかりは、人ならざる《力》じゃなくて権力って《力》がいるから」
「ああ、任せておくといい」
「こちらの心配は無用です。龍麻さんは自分のことだけを考えていてください。誰が何と言おうと、あなたが要です」
壬生はシンプルに、御門は彼にしては珍しく気遣いを込めて応えた。
付き合ってきた時間はそれぞれ違うが、頼もしいことこの上ない。もちろん、この場にいない仲間達にも同じことが言える。本当に自分は恵まれていると思う。
「後は翡翠の手配した物資が揃ってからだね。多分、決戦は年末年始にかけての辺りになると思う。それまでは、それぞれできることをやっておいて。それじゃ――」
解散、と言いかけて、龍麻は近付いてくる気配の方を見た。ロビーの奥、診察室へと続く廊下から二人の少女が姿を見せる。一人はお馴染みの高見沢。もう一人は、比良坂だった。二人はこちらへとやって来る。
「比良坂さん、身体の方は大丈夫?」
葵が声をかけると、比良坂ははいと頷く。見る限り《氣》の乱れもないようだ。
一応、並行世界の住人となっていた彼女である。こちらの人間と違うところはないか、こちらの世界に来たことで身体に何か影響が出てはいないかと検査を受けていたのだ。院長が出張ってこないところを見ると、今のところは問題ないようである。
龍麻は何げに高見沢と葵を見る。二人とも比良坂が無事なことを喜んでいる。彼女達は比良坂の死を看取った人間だ。何かと思うところもあったのだろう。
「それで比良坂さん。今後のことなんだけど」
「はい。そのことで報告したいことがあるんです」
早めに話を片付けておこうと口を開いた龍麻。すると比良坂の方から話を切り出した。
「わたし、こちらのお世話になることになったんです」
「こちら、って……桜ヶ丘にか?」
意外そうに醍醐が疑問を放った。ええ、と比良坂は続ける。
「身寄りはないですし、今のままじゃ行くところもなくて……夢のこともありますし、そうしたら岩山先生が面倒を見てくださるって言ってくれたんです」
「ということは、鈴蘭に?」
「そうだよ〜。紗夜ちゃんも舞子と同じ看護婦さんになるの〜」
嬉しそうな高見沢の声。
今の比良坂にとってはこれ以上ない条件だ。彼女の夢にも近づける。身体のことも、万が一のことが起きたとしても岩山が対応できる。何より高見沢のような隣人が側にいればそれだけでも彼女にプラスになるだろう。マイナスもあるかも知れないが。
「そうか。でも、よかった。これで比良坂さんのことは何の問題もなくな――」
「あの、龍麻さん」
った、と言い終わる前に、比良坂は真剣な表情を作ると龍麻の正面に立ち、言った。
「その、これからのことなんですけど。これからの闘い、わたしにも参加させてもらえませんか?」
「「は?」」
思わず間抜けな声を出したのは龍麻と醍醐。葵は口元を押さえながらも驚愕に目を見開き、高見沢は小首を傾げる。裏密はいつもと変わらず、壬生と御門も表面上の変化はない。
ただ、それはあまりにも唐突で。正直、耳がおかしくなったのではないかと錯覚してしまう程の威力を持っていた。
こちらの動揺などお構いなしに、比良坂の目は回答を待っている。
「ち、ちょっと……どうしていきなりそんな? 大体、闘うなんて言っても、比良坂さんが闘う必要は――」
そう、ないのだ。《力》を持っている者は闘わなくてはならない、などという決まりはない。龍麻達が闘っているのは、あくまでそうしてまでも護りたいものがあるからだ。
「わたしにも《力》はあります。これから龍麻さん達は、あの男と闘うんでしょう? だったら、少しでも人手はあった方がいいはずです」
いつだったか、同じような光景を見たような気がする。意外な人物から出た、意外な言葉。
比良坂に退く様子はない。強い意志を宿した双眸は変わらずこちらを見つめている。口にこそしないが彼女には彼女なりの闘おうとする理由があるようだ。
それでも答えは決まっている。だから答えた。あの時のように。
「駄目だ」
はっきりと、拒否した。比良坂の表情が歪む。その目はまだ何か言いたげであった。それを証明するかのように口が動きかける。龍麻はそれを言わせる前に先制した。
「今の僕達に必要なのは……『仲間』じゃなくて『戦力』なんだ。だから比良坂さんを参戦させるつもりはない」
「で、でも……」
「比良坂さん」
納得いかないのかなおも食い下がろうとする比良坂。それを制したのは葵だった。
「私達は全員が何かしらの《力》を持っている。だから《力》があるというだけじゃ駄目なのよ。確かに、中には闘いとは無縁だったけれど、仲間になってから《力》の扱いを覚えた人もいるわ。でも、そんな人達は始めは戦力扱いされていなかったの。《力》を扱えるように、何より無事に戦い抜けるように訓練を課し、そうすることでようやく肩を並べて闘う仲間として受け入れられたのよ」
例を挙げるならコスモレンジャーと舞園だ。彼らは仲間になってから、一度も旧校舎以外の場所での戦闘を経験していない。実戦経験こそあるが、それには仲間達のフォローがあった。彼らにとっては命懸けだったのかも知れないが、真の意味での命懸けの実戦は経験していない。
「比良坂さんは強い《力》を持っているのかも知れない。でも《力》が強ければ即戦力になるのか、と問われれば、答えは否よ。自分の《力》を把握し、それを問題なく扱えないと始まらないわ。特にこれからの闘いは、恐らく最後の決戦のみ。相手も戦力の出し惜しみはしないでしょうし、今までにない激しい戦闘があるはず。そんな中で、自分が仲間に迷惑をかけず一人前に戦えるという自信が、今の比良坂さんにあるかしら?」
いつにない厳しい表情と視線を葵は比良坂に向けている。だがそれが、比良坂の身を案じてのものだということは分かる。
言っていることは正論で、それは龍麻の考えと同じだ。特に戦場の空気を知らない人間を戦場に連れて行きたくはない。戦えないだけならばいいが、それが元で仲間に被害が及ぶ可能性もある。最後の最後でそのリスクを負いたくはなかった。もちろん戦力があるに越したことはないのだが、今回はあまりにも時期が悪過ぎた。最終決戦がいつになるのか、正確な時期は分からないのだ。まさか比良坂が戦力になるまで待つというわけにもいかない。これが二週間前だったならば、間違いなく受け入れていただろうが。
残念ながら今回は断念してもらうしかない。そう考えたところで
「なら、試してみればいいじゃないか」
意外な人物が異を唱えた。声の方には拳武館の暗殺者がいる。
「戦力が欲しいのは事実。なら、使いものになるか試してみればいい」
「紅葉……でも――」
「正直、気は進まないよ。素人を戦場に出すのはね。だが、そうは言っていられないのも事実だ。使えるものは使う。だからこそ、拳武や御門さんに戦力の提供を頼もうとしたんだろ? それに、一人増えたくらいじゃ大差はないんじゃないか?」
暗に仲間内にも不安要素を持つ者がいる、と言っているのだ。耳が痛いがその通りだ。
龍麻は今回の決戦には全員を参戦させるつもりでいる。旧校舎のようなフォローはできないと分かっていても、だ。そうでもしないと勝てない、そう思っているから。
「いいではないですか、龍麻さん。決めるのは彼女です」
そして御門までもがそれを支持するようなことを言った。
「どうせ、近接戦闘向けの《力》ではないようですし。今回の方針に引っ掛かることもないと思いますよ。もっとも、彼女に殺し合いができるのかどうかは疑問ですが」
扇子で口元を隠し、値踏みするような視線を比良坂に向ける御門。それに一瞬怯んだようだったが、比良坂は改めて龍麻を見た。やはり決心は固いと見える。
「それに、この時点で参戦する者がいなければ、あの絵が完成しません」
「比良坂さんが、そうだ、と?」
「可能性がないとは言えませんね」
御門の言う絵とは、浜離宮で見せてもらった秋月の絵のことだろう。黄龍に立ち向かう仲間達。その中で、不自然な空白があったことを龍麻は思い出す。あの絵が黄龍に立ち向かう龍麻達の未来を示すのならば、そこには必ず人が入るのだ。
(これも縁、ってやつなのかな……)
一度深呼吸して、龍麻は心を決めた。こうなった以上、うだうだ言っても始まらない。
「雄矢、紅葉。これから比良坂さんを連れて旧校舎へ。見極め役は二人に任せる。ミサちゃんは同行して例のブツの試験を」
そう指示を出し、龍麻は天井を仰ぐ。当然の事ながら、そこには天井以外の何ものもなかった。
そしてその日の晩、新たな仲間がまた一人加わることが決定した。