斬撃を受け止める。甲高い音はなく、ぶつかり弾けるような音が耳を打った。
びりびりと、手にした得物を通して重い衝撃が走る。相手に遠慮とか躊躇というものはなく、紛れもなくこちらを斬り捨てようとする一撃であることが嫌でも分かる。
相手の得物は木刀。銘のある真剣を持っている自分とは、その時点で差があるはずだ。にもかかわらず、その木刀は真剣をはるかに凌駕する程の存在感を持っていた。更に、使い手の《氣》を纏ってその凄味を増している。
技量は相手が上。得物の質も向こうが上。《力》も――今は拮抗しているが向こうの方が本来は上だろう。
斬り結んでそれなりに時間は経っている。自分が未だに無事なのは、向こうが本気を出していないからだ。悔しいがそれが分かる。手加減しているのが分かる。だというのに。
「それにすら届かねえってのかよ、俺はっ!」
苛立ちを隠そうともせず声に乗せ、蓬莱寺京一は眼前の剣士に一刀を繰り出した。
その日、京一は真神へと向かっていた。目的地はもちろん旧校舎である。ここ最近、京一は旧校舎へ毎日のように足を運んでいた。京一だけではない。仲間達のほとんどが、時間が許す限り集まってくる。
これから旧校舎で行われるのは鍛錬だ。あの不可思議な地下空間にいる妖魔との戦闘。今の京一達にはそれが必要であり、誰一人としてそれを拒む者はいない。
殺伐とした日課だが、そこへと向かう京一の足取りは軽かった。
昨日、大きな騒ぎがあったのだ。
柳生の手の者との戦闘があり、龍麻が自分達の前から消えた。それでも龍麻は無事に戻ってきた。意外な人物と共に。
比良坂紗夜。かつて龍麻を庇って命を落とした少女。図らずも龍麻のトラウマを再現し、《暴走》の引き金になった少女。死んだはずの少女は現実に生きた存在として再び姿を現した。
何が起こったのかは分からない。それを成したであろう本人ですら、よく分かっていないようだった。だが、その場にいた者達に共通した想いはただ一つであったろう。不遇の死を迎えた者が生き返ったのだ。これ以上のことはない。
そして、それによって龍麻は多少なりとも救われたに違いない。やり直し、自己満足、代償行為。言い方は違えど、龍麻が成したことはそれでしかなかっただろう。しかし実際のところ、救えたのは過去に失った本人そのものだった。もちろん、過去の事実自体は消えないわけだが、心の枷は幾分軽くなったはずだ。
「へへっ」
自然と笑みが零れた。大事の前にこのような奇跡が起こったのだ。これからは何もかもうまくいく、そう思える。
京一は真神へと向かう。その足取りは軽かった。
「――っ!?」
今この瞬間、湧き上がった《氣》を感じ取るまでは。
空気が凍ったのではないかと思わせる程の冷たい殺気。それは明らかに自分へと向けられたものだった。
空気が凍り、足が凍り、身体が凍る。指一つ動かすことができない。このまま案山子のように突っ立ったままだと危険だと分かっていても、身体は簡単には言うことを聞かなかった。
(い、一体、どこのどいつだ……!?)
こちらの状況など把握しているはずなのに、敵に動きはない。それを幸いとばかりに己の《氣》を練り上げる。少しでも抗えるように《氣》を練り上げていく。
握った袱紗に力を込めた。己の《氣》が高まるにつれ、少しずつ身体の動く場所が増えていく。が、何かおかしい。
(消えていく? いや、違う)
殺気が薄まっている。いや、次第にこの場から遠ざかっていくようだ。ただ、殺気そのものは相変わらず自分に向けられている。攻撃を仕掛けもせず、ただその存在を知らしめただけで、その後は気配を消すことなく離れて行く――わざわざこんな事をする理由は分からないが、何の為の行動かは分かる。
つまり、誘っているのだ。
「面白ぇ……」
相手が何者かは分からない。ただ、こちらを殺そうとしていたのであれば、自分はとっくに死んでいる。それをしなかったのを見ると、少なくとも敵ではないようだ。ならば、乗ってやろう。
相手の《氣》を頼りに、京一はそれを追った。
新宿中央公園。
足を踏み入れると同時に違和感に気付いた。空気が停滞しているとでも言うか、その場だけが他に取り残されたような感覚。今までに何度か感じたことがあるものだった。おまけに、本来ならいるであろう一般人の姿もない。
「結界ってやつか。用意周到なことで」
フンと鼻を鳴らして京一はそのまま歩く。相手の気配は完全に消えていた。つまりここが終着点。そのうち向こうが姿を見せるのだろうが、じっとしているのは性に合わない。
以前と違って霧もない。乾いた土を踏みしめながら歩く。
時間にすると一分にも満たないだろう。行く先に人影が現れた。
時代錯誤、といえばいいのだろうか。それともカタギじゃない、というべきか。着流し姿の男がそこにいる。奇妙なのは、顔の上半分を隠すような鬼の面。手にした棒を身体の正面で地面についている姿勢で、男は言った。
「よく来たな」
京一は即座に言い返した。
「てめぇだったのかよ、神夷」
神夷京士浪。何年も前にケンカ別れした、京一の剣の師匠。面をしていてもその声、その《氣》は忘れようはずがない。殺気を感じた時点で気付くべきだったが、あそこまで自分の知る《氣》と変質していては無理もない、と自分に言い聞かせる。
「で、今更何の用だよ?」
面倒くさげに京一は問いかけた。ケンカ別れした時点でもう何年経つことか。その間、音沙汰は全くなかったのだから、正直なところ突然の出現は気になる。
んー、と何やら言葉を探すように、神夷は面を外すとそれを懐にしまい込む。その下から現れたのは、あの時と全く変わらない精悍な造り。年など経っていないのではと思わせる顔だった。
「ま、いくつかあるんだけどな……一つは、ワカメ頭の髭親父と話してた時に考えてたことが現実になってるかどうかの確認だ。ま、それはいい。これも《宿星》の導きってやつかね」
よく分からないことを口にする神夷。そして
「二つめは、お前がどこまで強くなってるのか確認したかった、ってことだ」
次に放った言葉はとても分かりやすかった。突然の鋭い視線がこちらを貫く。知らず怯みそうになるが、それに耐えて睨み返した。この男の前でだけは、何があろうとも弱いところを見せたくないのだ。それは昔、散々にいびられたからでもある。少し根を上げると見せた、呆れ気味の視線。アレがどうにも腹が立ち、それをやる気に変えて修行にも耐えてきたのを思い出す。
あの時とは違う。強くなったという自負はある。だからこそ、ここでなめられたくなかった。
神夷の視線はこちらの思惑など関係なく向けられていたが、それがわずかに緩んだ。
「ま、及第なんだろうな。俺の指導を途中やめにしておきながらここまでになったんなら、それはそれで大したモンだ。だからこそ、惜しい」
溜息をつくと、神夷は手にした棒を持ち上げた。否、それは棒ではなかった。京一には馴染みの深かった武器、木刀だったのだ。しかも二本。
その内の一振りを脇に放り投げ、神夷は切っ先をこちらに向ける。
「もう少し、この手で鍛えてやれりゃ、今以上になってただろうに」
「……へっ、言ってくれるじゃねぇか」
京一は袱紗から刀を抜き放った。刀身に《氣》を込め、同じように切っ先を向ける。
「これでも修羅場潜ってきてんだ。その成果ってやつだよ」
龍麻と出会い、怪異に首を突っ込み始めてからは、戦いの連続だった。命懸けの戦闘を何度もこなしたのだ。強くなる為に、生き抜く為に《力》を求めた。共に闘いたい仲間がいた。だから自分は突き進んできた。命を落としそうになったこともあったがそれを糧に更に先へと進めた。一年にも満たない期間ではあるが、それは確かに自分をより強く鍛え上げてきたのだ。
「で、それで満足してるってのか? 欲がねぇな」
だがそれも。目の前の男にとっては大したものではなかったのだろう。
「――っ!」
それを京一は身をもって思い知った。
一気に間合いを詰めてきた神夷の一撃。辛うじて受け止めた次の瞬間、京一の足は地を離れ、身体は宙を舞っていたのだ。
容赦ない斬撃を辛うじて捌く。こちらは防戦一方だった。時折、こちらから攻めることもできたが、一合、二合で攻守が逆転してしまう。反撃しようにも糸口が掴めない。それ程に神夷の剣は速く、鋭く、重かった。身体能力を強化しているのかも知れないが、それは京一も同じだ。自らの身体と武器にのみ《力》を働かせ、攻撃にまで発展させていない。つまり純粋に剣技のみで圧されている。流石は師匠ということだろうか。
「ま、こんなもんか」
不意に攻撃を止め、神夷は軽く跳んで間合いを開ける。構えを解き、手にした木刀をぶらぶらと揺らしながら口の端を吊り上げた。
「こいつばかりは、どうしたってお前は俺に届かねぇ。実戦を積むことが何よりも重要になってくるしな。ということは、だ。たかだか一年にも満たない実戦経験――真剣を使った、だぞ、言っとくが――しかないお前が、真正面から馬鹿正直にやり合って俺に勝てるわけがねぇ。しかも、お前にゃ駆け引きが足りねぇ。化けモンばっかり相手にしてたせいで、人間相手の戦い方が疎かになってやがる。ただ剣を振ればいいってもんじゃねぇだろが」
それだけ一気に言って、神夷は苦笑した。
「まあ、こればっかりは仕方ねぇのかもな。今の時代に武器持った人間とやり合う経験なんて、そうそうあるもんじゃねぇ」
指摘された通り。京一自身、剣士との戦闘経験は数える程しかない。水岐、八剣。まともに剣を交えたのはこのくらいだ。中央公園の村正は正確には剣士ではないし、九角と戦う機会もなかった。鬼道衆忍軍も武器を使ってはいたが、あれは旧校舎戦と同じ感覚で戦っていたので、技巧を駆使するような戦いではなかった。
仲間に武器持ちは何人かいるが、いい加減手の内を知っているので、戦闘と言うよりは手合わせだ。
「それに剣士は剣士でも《力》持ちだからな。単純に剣技だけで片が付くわけじゃねぇが……柳生の野郎は、俺より技量が上だと思っとけよ」
「はぁ……!?」
突然出てきた名前に京一は間抜けな声を上げた。よりによって柳生の名が出てくるとは思わなかったのだ。
「な、何でてめぇが柳生のことを知ってんだよっ!?」
「あん? 龍山のジジイのとこで客家の件は聞いてんだろ? 俺もあの戦いに参加してたんだ。知ってて当然だろうが」
「なっ、何だとぉっ!?」
これまた京一は驚くことしかできなかった。客家での戦いについては龍山邸で聞かされた。だが、そこで語られたのは主に龍麻の父親である弦麻の事と、柳生の事、そして龍麻自身の事だ。龍山や道心が共に闘った者だというのは聞いたが、まさかそこに神夷がいたとは思わなかった。
こちらの反応を見て、神夷は舌打ちした。
「あのジジイ、肝心な部分しか話してやがらねぇのか……まあ、誰が一緒に戦ったか、なんてのはあんまり関係ない話だけどよ」
「んなこたぁ、どうでもいい! てめぇ自身、柳生と戦ったってのか!?」
「アイツとは少なからぬ因縁があってよ。ま、それは置いとく。それよりも、だ」
一度肩をすくめると、神夷は目を細めて京一を見る。
「京一。お前、柳生戦に最後までついてくつもりがあるのか?」
「はぁ? そんなの、当たり前じゃねぇか」
何を馬鹿な、と京一は返した。今までの闘いの、最後の締めだ。参加しないわけがない。
「柳生の化けモン相手にか? さっきも言ったが、悔しい事に技量は俺より上だ。《力》となると、確実に俺を越えてるな」
「……何が言いたいんだよ?」
「今のお前で、どこまで戦えるってんだ?」
ぐっ、と言葉に詰まった。柳生が強いのは分かっている。龍麻をあっさりと斬り捨てたような奴だ。だがそれ以上に、自分の師匠がこう言った。俺よりも強い、と。それはつまり『俺に敵わなかったお前が、柳生に勝てるわけがない』と言っているのだ。
確かに一対一では勝てないだろう。だがこちらには多くの仲間がいるのだ。それを考えれば――
「で、そんな危険な奴を相手にする時、お前に――いや、お前らに出番があるのか?」
言葉の刃が、深々と突き刺さった。
「まったく、緋勇の血筋ってのは厄介なモンでな。容姿や表面的な性格は全く違っても、奥の奥、芯の部分は憎らしい程にそっくりときてる。肝心なところで自分が全て背負い込むなんてところは特にな」
うんざりした表情で、吐き捨てる神夷。おそらくそれは客家での戦いのことなのだろう。龍麻の父、弦麻はただ一人で柳生を岩戸に封印したと聞く。自らを犠牲にして。
言いたいことは分かる。嫌という程分かってしまう。神夷にとっての弦麻がそうだったように、京一にとっての龍麻もそういう人間だ。
ただ、神夷の物言いはどこか引っ掛かった。弦麻のことを言うなら、わざわざ『緋勇の血筋』などという言い方をしなくてもよさそうなものだが。
そんな事を考えている内に、神夷は木刀で肩を叩きながら続ける。
「京一、数を頼みにすりゃ倒せるって程、柳生は甘くねぇ。むしろ、乱戦の方が野郎にゃ戦いやすいだろうよ。弱いところを攻めながら隙を誘い、確実に『戦力になる奴』から狙い討っていく。一度こちらの体勢が崩れれば後は為すがままだ。それを避けるにゃ、少数精鋭で向かう他ねぇ。足手纏いを一切排したごくわずかの人数でな」
「んな事言ってもよ……包囲して一斉攻撃の方が確実じゃねぇのか?」
「お前、何か勘違いしてねぇか?」
眉根を寄せて、神夷は京一を見やり、息を吐く。何で気付かないんだとその目はこちらを非難していた。
「今度の戦、お前、どうすりゃ勝ちだと思ってる?」
「決まってるだろ。柳生をブチ斃す、それで終わりじゃねぇか」
「あぁ、それができれば後腐れはねぇな。だがそれじゃ勝ちじゃねぇよ。確かに総大将は柳生だろうが、あいつを斃せば全て終わるってワケじゃねぇ。考えてみろ。柳生の目的は何だ? あいつは、何をしようとしている?」
そこまで言われて、ようやく京一は気付いた。
柳生の目的は、龍脈を掌中に収めることだ。そのために龍麻を排そうとし、《陰の器》とやらを祭り上げた。つまり、柳生を斃しただけでは終わらない。いや、それどころか
「《陰の器》を止めないと、意味がねぇ、ってことかよ……」
「気付くのが遅ぇよ。そうだ、柳生を斃せば確かにこれ以上の火種は消える。だが、龍脈を向こうの《器》に押さえられたら意味がねぇ。お前らが完全勝利するつもりなら、柳生を斃して、さらに敵の《器》を止めるしかねぇ。それが無理なら、せめて《器》だけでも止めて柳生に龍脈の《力》を渡さねぇことだ。ま、それくらいお前らの大将は気付いてるだろうけどな」
少しは頭を使え、と訴える神夷の眼差し。悔しいが言い返せない。事実、柳生を斃せば終わると思っていたのだから。
「ちっ……でもよ、何でひーちゃんならそれに気付くと思うんだよ? 確かに頭は切れるけどよ……ひーちゃんとも知り合いなのか?」
「赤子の頃を除けば、少し前にちらと見た程度だよ。だがあいつも緋勇だ、そんくらい気付いてるに決まってる。おまけにあのツラだ。あいつもぜってー、腹黒いに違ぇねぇ」
「おいおい……ひーちゃんの親父さんって、そんな奴だったのかよ?」
「あん? 弦麻の野郎は融通きかねぇ石頭だよ。謀略だの何だのとは無縁だ」
「……じゃあ、誰のこと言ってんだ? ひょっとしてひーちゃんのおじさんのことかよ?」
問うと、神夷はばつが悪そうに口元を押さえた。
「口が滑ったな……忘れろ」
「おい……」
「えぇい、うるせぇ。それよりも柳生のことだ」
そして強引に話題を変える。どうにも師匠らしくないのだが、ここで追求しても無意味だし、知ったところで有益なことでもないだろう。言う通り、今は柳生のことが先だ。
「もう一度言うが、柳生に数でかかっても無駄だ。おまけに攻撃対象は二人。柳生も馬鹿じゃねぇから、戦力を集める。お前らと総力戦だ。勝とうと思ったら、こちらの消耗を最小限に抑えて敵陣を突破し、目標を斃す。なら、どうすればいいか」
一度言葉を切り、神夷は告げた。
「柳生を無理に斃す必要はねぇ。第一目標は《器》だ」
「おいおい、いくら何でも――」
「ただし! 柳生がそれを見逃すわけねぇからな。誰かが柳生を足止めし、その間に叩くしかねぇだろ。となると、だ。柳生の相手をするのは誰だ?」
答えるまでもない。仲間内の最強戦力は龍麻だ。だが、龍麻一人でどうにかなる相手だろうか。答えは否だ。神夷もそれを肯定した。
「龍麻一人じゃ無理だ。なら、他の奴が手を貸すしかねぇんだが……」
がつんと。頭を殴られたような衝撃が走った。散々話が脇に逸れていたような気がしたが、きっとこれが本題だ。何故か、それが分かった。
「龍麻も緋勇だ。汚い部分やヤバイところは、絶対自分が引き受けるだろうよ。その時、お前に与えられる役割は何だろうな?」
誰が龍麻のフォローをするのか?
「あいつの援護をしてやれる奴が、お前らの中にいるか?」
龍麻は自分を頼りにするのか?
「その時、お前にそれができるか? それができると、龍麻に思われてるか?」
肩を並べ共に戦う実力が、自分にはあるのか? 緋勇龍麻は蓬莱寺京一を信頼しているのか?
「いなけりゃ、あいつは独りで戦うだろうな。お前はそれを是とするのか?」
「んなわけねーだろーがっ!」
刀を地面に突き立てて、京一は叫んだ。
最悪の事態というのが訪れたとして、龍麻がその時に何をするのかは容易に想像できる。ならばそれをさせるわけにはいかない。絶対に、だ。
「絶対に、ひーちゃんを独りで戦わせたりしねぇ! 何があろうと、何と言われようと! 誰もいないんだったら、俺がひーちゃんを援護してやる!」
仲間が傷つくのを見たくない――龍麻がそう思うのも、それを何よりも嫌い、恐れているのも分かっている。だがそれはこちらも同じなのだ。
「ああ、俺がやってやるさ! 足手纏いだって言うなら、その認識を改めさせてやる!」
龍麻が品川で《暴走》した時も、等々力で九角と戦った時も、龍山邸で九角と再戦した時も。そして、柳生に斬られた時も。龍麻が傷つく姿を見て何も感じていないわけではないのだ。
「これ以上、あいつだけに背負わせてたまるかよっ!」
「よく言った。それでこそ俺の弟子だ」
神夷は嬉しそうに笑った。手にした得物に《氣》を込めて。
「なら、見せてみろ! 今のお前が持ってる全てをな!」
こちらが構える間もなく、神夷は《力》を解放した。
背中にはひんやりとした土の感触がある。それが火照った身体には心地よかった。
「おい、生きてるか?」
さして心配していない、呼びかける声。京一は無言で上体を起こし、声の主を見た。そこには地面に座り込んでいる着流しの男、師匠である神夷の姿がある。
「なんだよ……動くだけならともかく、戦闘は無理だぞ。ったく、容赦なしに打ち込んできやがって……」
「何言ってやがる。本当に手加減なしだったら、とっくにくたばってるぜ」
愚痴ると、神夷はふふんと笑う。
正直、手加減をされていたのは分かっている。でなければ神夷の言うとおり、自分は死んでいる。ただ、どちらにせよ生きた心地がしなかったのは事実だ。何しろ、神夷の持てる技全てを、実践で伝授されたのだから。もっとも、それをどこまで再現できるかは正直疑問なのだが。所詮は付け焼き刃。問題は山積みで、決戦までにどれだけ飲み込めるかが鍵だ。
「ったく、おかげで旧校舎での約束まですっぽかしちまったし……つうか、今何時だ?」
「さあ、な。ずっと結界内に篭もってるしな。ま、日が替わってるのは確実だな」
懐から懐中時計を出しながら、神夷は言った。
「結界を出たら、もうじき朝日が拝める時間だ」
「おいおい……んじゃ何か? ほぼ丸一日戦り合ってたってのかよ……」
途中、何度か意識が飛んでいた時間もあるので、ぶっ続けというわけではないが、いつの間にそれだけの時間が経ったのかと自分の事ながら呆れてしまう。
「やべぇな……あいつらに何を言われるか分かったもんじゃねぇ」
そしてもう一つ。結局、旧校舎での修行はさぼる結果になってしまった。何の連絡もしていない以上、仲間達も心配しているだろう。小言だけならまだいいが、時期が時期だ。しかも以前、行方不明になった件もある。下手をすれば決戦前に負傷で戦線離脱、などという馬鹿げた事態になりかねない。
「おい神夷! 俺はもう行くぜ。このままじゃ仲間に殺されちまう!」
「あー、待て。悪いがまだ終わってねぇ。諦めてもう少しだけ時間を寄こせや」
「諦めて、じゃねぇ! 俺は行くったら行くぞ!」
その場を去ろうと立ち上がった京一を、神夷は引き留めた。身の危険を覚え始めていた京一は、それを無視して立ち去ろうとする。しかし
「柳生の情報、要らねぇのか?」
次の一言で、足はぴたりと止まった。
柳生の情報。要らないのかと問われれば、要るに決まっている。よくよく考えてみれば、その手の情報を京一は何も聞いていない。柳生を相手に闘ったという龍山や道心からすら、柳生が何者で、どのような《力》を持ち、どのように戦うのか、といった今後の闘いに重要になるであろう事柄を一切聞かされていなかった。戦い方については先程、技の伝授の合間に叩き込まれたので問題はないが。
「まあ、座れ。話はそれからだ」
神夷に言われるままに、京一は再びその場へと座る。仲間達のことは……考えないことにした。
「さて、どこから話したものか。と、その前に京一。お前、柳生と聞いたら何を連想する?」
「そりゃあ……まず剣術の流派としての柳生だろ。で、その使い手である剣士だな。十兵衛とかよ」
神夷の問いに、京一は少し考えてから答えた。柳生の名は、別に剣の道に関わらずとも聞く機会はある。歴史小説や時代劇ではよく扱われる一族だ。
答えを聞いて、満足そうに神夷は頷く。そして、言った。
「そう、その十兵衛だ。今、お前達の戦っている相手は、その十兵衛の弟になる」
「はぁ!?」
師匠の言葉は、あまりにも唐突で、意外なものだった。一体何度目になるのか、京一は驚愕の声を上げる。
「ちょっと待てよ! 十兵衛つったら江戸時代の人間だろ!? しかも初期だろうが! あいつ一体、いくつだよ!?」
「あいつはそれだけの刻を……生まれた時からだと四百年近い刻を生きてきた、正真正銘の化物なんだよ」
こちらの驚きを無視して、神夷は淡々と話し続ける。
「どっちにしても、十七年前に封印されてからも生き続けてたんだ。驚く程のことでもあるめぇよ。まあ、それはいい。とにかく結論を言ってしまえば、だ。柳生の野郎は不老不死なんだよ。寿命で死ぬことはねぇ。おまけに身体に蟲を飼っててな……少々の傷なら蟲が癒しちまう。歳は食わねぇ、傷はすぐに治る、たいした不死身っぷりだ」
神夷の口調は軽いが、京一には衝撃的な事実だった。
何百年も生き、その間も己の野望のために暗躍していたであろう柳生。十七年前に一度封じられているといっても、解封されてから時間も経っている。《力》が弱まっている、などと期待するだけ無駄だろう。本当に、相手は化物なのだ。
いずれにせよ、その対応策を考えなければいけない。自分の頭では無理でも、幸い仲間達の中には頭脳派が多い。何かいい策を考えてくれるに違いない。
が、その前に確認すべき事がある。
「で、その不死身の柳生をどうにかする方法、てめぇは持ってんのかよ?」
柳生の秘密を知っているのならば、当然それの対処法を考えるなり探すなりするだろう。それだけの時間はあったはずだ。
しかし期待した答えを目の前の師匠は持っていなかった。
「残念ながら、ねぇ。それをどうにかしたくて中国にまで渡ったってのに、無駄骨だったしな。よくよく考えりゃ、俺は剣士であって術者じゃねぇし……」
ブツブツと何やら呟き始める神夷。残念ながら、そうそう都合よくはいかないらしい。
「ただ、蟲殺しは手に入れた。野郎の妖蟲に効果があるかどうかは疑問だが、気休めにはなるだろ」
「頼りねぇな、つっても仕方ねぇか。俺らにはそれを探すだけの時間もねぇしな」
「まあ、最悪の場合、五体バラバラにして別々に封印すりゃ何とかなるかもな。そこまでが並大抵の苦労じゃねぇだろうが……後はお前ら次第だ」
神夷は懐から何かを取り出し、こちらに放り投げる。それは、一振りの脇差し。一見すると、何の変哲もない、ただの脇差しだ。特に《力》を感じるわけでもない。
鞘から引き抜くと、やはり普通の刀身が現れた。ただ、何か塗っているらしく、微妙に光沢が違う。
「そいつに塗ってある蟲殺しが効けば御の字だな。少なくとも再生能力は封じることができるかもしれねぇ。だからって楽になるわけじゃねぇが……まあ、過剰な期待はしないこった」
「ま、もらっとくわ。ひょっとしたら、ってことがあるかもだしな」
譲り受けた脇差しを袱紗の袋に片付け、京一は勢いよく立ち上がった。そろそろ行かないと、本当に危険だ。
「あぁ、そうだ。神夷、お前、今度の戦いには手を貸してくれんのか?」
最後に確認の意味で京一は振り向いた。答えの予想はついていたが、念のために訊ねる。
「年寄りの出る幕はねぇよ。後のことはお前ら若人に任せる。もしもお前らで駄目だったら、その時は尻ぬぐいしてやるさ」
「ま、そんなこったろうと思ったぜ」
肩をすくめる神夷を見て京一は苦笑した。龍山や道心の姿勢からも分かるように、以前柳生と戦った面々は、直接手を貸してくれる様子はない。戦力としては申し分ないのだが。
こちらの考えが伝わったのか、神夷ははぁ、と息を吐く。
「いくら因縁があるとは言っても、俺と柳生の戦いは、もう十七年前に終わってるんだ。それに……俺の大将は、もういねぇ。龍麻に命預ける気はねぇし、それは俺じゃなくてお前の役目だしな」
そう言って神夷が再度こちらに放り投げてくる。それは木製の長い棒――先程まで神夷が使っていた木刀であった。それ自体が強く清冽な《氣》を発する木刀は、今の自分の愛刀よりも頼もしく思える。その分、自在に振るうのに苦労しそうな得物だった。下手をすれば木刀に振り回される事態になりかねない、そう直感できる程の業物だ。
「阿修羅って言ってな、神木から作ったって言われてる木刀だ。持ってけ」
「いいのかよ?」
よい武器を入手できることは嬉しいが、愛刀を預けるという行為が何を意味するか。それが分かっただけに、京一はまっすぐに神夷の目を見た。
「あぁ、餞別代わりだ」
返ってきたのは、滅多に見ることができなかった、神夷の真剣な眼差しと声。
「その剣と技で、柳生の野郎に一泡も二泡も吹かせてやれ。んで……この長くてくだらねぇ争いにケリをつけろ。これ以上あの野郎のせいで傷つく人間を増やすな」
「……あぁ、任せとけ。俺が、俺達が、きっちりカタつけてやるよ。てめぇは何の心配もせずに見てな」
保証などどこにもない。柳生の強大さが嫌になるくらい分かっただけで、不安要素は数多くあっても、こちらに有利に働くことなど数える程しかないし、それすら確定したものではない。
それでも京一はそう言った。受け取った木刀に込められた想い。教わった技に込められた想い。そして、師匠の言葉に込められた想い。それには応えなければならない。そう思ったから。
京一は神夷に背を向ける。手にした剣を一度天に掲げ、それ以上は何も言わず、そのまま仲間達の元へ向かうべく歩き出した。
「もういいかよ?」
弟子の背中を黙って見送っていた神夷の耳に、知った声が届いた。振り向きもせず、神夷は答える。
「あぁ。色々と手間をかけさせたな」
「全くだ。こんな面倒なこと、わざわざここでやらなくてもよかろうよ」
声の主は愚痴をこぼしながら神夷の横に来ると座り込む。
「で、結果は?」
「ま、及第ってとこだ。これだけやれりゃ、な」
言いながら周囲に視線を走らせる神夷。そこにある光景は、結界を張る前とは随分と変わっていた。幾条も地面に刻まれた亀裂。何かが爆発したように陥没し、荒れた地面。どういうわけだか凍りつき、四散している木々。常識では起こり得ない大規模な破壊の跡がそこにはあった。
「それに、あいつ一人で戦うわけじゃねぇ。その辺は、向こうの大将がうまくやるさ」
「……だったら、何の心配もあるまいよ」
道心は、手にした酒瓶に口を付ける。だな、と神夷はそれに相づちを打った。
緋勇龍麻。弦麻の息子。龍の血を引く者が、ここまで柳生と関わることになるとは、奇妙な因縁である。しかしそれも「あの時」「自分達」が柳生を斃せなかった事に端を発する。もしも――
「いや、今更だな」
頭を振って、その思いも振り払う。既に過去の事。やり直しはできないし、あの時はあれが精一杯だった事も事実だ。
結局、客家の戦いでも最後は弦麻一人に背負わせてしまった。自分の手では因縁を断つ事はできなかった。そして、今また龍麻に託さねばならない。龍の血を引く者に。
だからこそ、自分もまた、京一に託した。己の想いを。己が磨き上げ、あるいは受け継いできた技を。まだ若い、それ故に可能性を秘めた弟子に。
(死ぬんじゃねぇぞ、京一)
胸の内で独り言ち、神夷は京一が消えていった方へと、再度目を向けるのだった。