「真神へ来るのも、今年は今日でお終いか。へへっ、なんかあらためて見るとボロい校舎だよなぁ」
 校門前までやってくると、不意に京一が来た道を振り返った。同じようにそちらを見ると、視界に見慣れた建物が入ってくる。龍麻にとっては、転校してきて以来の馴染みの校舎だ。
「あらためて見なくたってボロボロだって。でも……そこが、また味があっていいんだよね」
「うふふ。そうかも知れないわね。私達にとってはたった三年間だけだけど、この校舎も、校庭も、体育館も、旧校舎も……長い長い間、たくさんの生徒達を見守ってきたのよね。そして、これからも……うふふ、私はこの学校が、とても好きよ。たくさんの思い出が詰まったこの学校が……」
 しみじみと小蒔が言い、葵も校舎に懐かしさと寂しさの混じった目を向ける。もうじき卒業ということもあって感傷的になっているのだろうか。龍麻以上にこの学校に通っていた葵達だ、無理もない。
「葵……えへへっ、ボクだって、大好きだよ。おんぼろ校舎も、ここで出会えたみんなも、ねっ。ひーちゃんは……どう?」
「そうだね。僕にとっての学校生活って、ここでようやく人並みになったから。この真神って学校は、僕にとってもすごく思い出深い場所になってる。例えみんなに比べて過ごした時間が短くても、これからもずっと、僕の思い出の中にあるよ」
 不幸な事件があってから、龍麻自身に普通の学生らしい生活というのは無縁だった。新しい家族との出会いである程度マシになり、こちらへ来る直前にほんの少し人並みに戻れた――そして、ここではごく当たり前になった生活。曖昧な言葉に従ってやって来たこの地で、龍麻はたくさんの大切なものを得ることができたのだ。
「えへへ……よかった。ひーちゃんもそう思ってたなんて、何だか……嬉しいやっ。真神ここでみんなやひーちゃんと会えたコト……ボク……絶対に忘れないと思うよ」
「おいおい、まるで、これが最後みたいな言い方だな」
 嬉しそうに小蒔が言うと、醍醐が苦笑いを浮かべた。小蒔の物言いは気が早い。
「冬休みはたかだか二週間だ。年が明ければ、あっという間に、また、ここへ来ることになるさ」
 そして、醍醐の物言いは少々気が長かった。先の醍醐のように、京一も苦笑する。
「何言ってんだよ。俺達にそんなのんびりする余裕はないだろ? 今日だって、夕方から旧校舎だろうによ」
 現在、旧校舎に人が潜らない日はない。強制ではなく、皆が自分の意志でやって来るのだ。それぞれが譲れない想いを抱えて。その根幹は、皆同じ。全ては、大切なものを護るために。
「ま、それは後の話だ。とりあえず今のところは、こんな所で湿っぽくなってねぇで、さっさとラーメン食いに行こうぜっ」
「いつの間にラーメン屋へ行くことになったんだ……?」
 唐突とも言える京一の提案。醍醐は首を傾げるが小蒔と葵が同時に笑みをこぼした。
「あははっ、ボクは賛成だよっ。それに――」
「それがいつものルート……だものね」
 前置きがあろうとなかろうと、それがいつものルート、いつもの日常だ。こんな時だからこそ、そのささやかな日常は大切にしたい。皆も無意識のうちにそう思っているのだろうか。
「それじゃ、いつものように王華へ行こうか」
 龍麻も笑ってそれに応じた。



 新宿駅西口。
 終業式で学校が早めに終わったと言っても、駅前の人手は相変わらずだ。大人達はまだ仕事の時間だろうが、若者にはあまり影響はないようであった。
「相変わらず、人で溢れてるな、新宿は。高い所から見下ろしたら、蟻の大群と変わんねぇんだろうな」
 うんざりした表情で京一が愚痴った。賑やかな所は好きな癖に、人混みはうざいと言う京一らしい。一方、人混みと賑やかが同じ感覚である小蒔は何言ってんだよっ、と笑う。
「これから年末だもん。もっと人手は多くなるよっ」
「それもそうね。お正月に向けて、色々と買い出しがあるものね」
 小蒔と葵の言う通り、普通の人達には忙しい時期だ。クリスマスというイベントが過ぎても、まだまだやるべきことはある。この繁雑さは年末の風物だ。年を越すため、そして明けた年を快く迎えるため、皆は走り回るのである。
「そうか、もう正月か……龍山先生と道心先生に、上物の酒でも持って、挨拶に行かんとなぁ」
 生真面目な醍醐が歩きながらそんなことを呟く。今年になって色々と世話になった人達だ。そうするのもいいかと龍麻も考える。
「ったく、しょうがねぇジジイ共だな。あんまり甘やかさない方がいいぜ、醍醐」
 それに対して馬鹿なことを言うのが京一だ。彼にかかっては目上の者への敬意など縁遠いものらしい。
「な〜にが甘やかすな、だよっ。醍醐クンはお爺ちゃん思いなだけだもんねっ。それより、早くラーメン……――!」
 そんな京一をたしなめ、醍醐のフォローをした小蒔が、止まった。訝しげな目を向ける葵が何か言うより早く、小蒔が言った。
「ねぇ……何だか……ヘンじゃない? さっきまで晴れてたのに……どんどん暗くなってく!」
 空を見上げると確かに。冬の日には珍しく晴れ渡っていた空が、急速に暗雲に覆われていく。それも四方八方から雲が集まって。明らかに自然の動きではない。
「あぁ。さっきから妙に息苦しいぜ。それに……いつの間にか、俺達以外、人っ子一人いやしねぇ」
 京一も袱紗の紐を解きながら鋭い視線を周囲に走らせる。無意識のうちに龍麻達は葵と小蒔を囲むように背中を合わせた。
 空気の質が完全に変わっている。ここにあるのは慣れ親しんだ新宿の空気ではない。悪意漂う常ならざる空間と化していた。
「あの時と、少し似てるわ……御門くんや、あの阿師谷という人が創り出した、異空間に入った時と……」
「結界……か。それもいきなり僕達だけを誘い込むなんて、かなりの力量みたいだね」
 葵の指摘に頷いて、龍麻は内心で舌打ちした。中央公園の時程ではないが、嫌な予感がするのだ。

(助けて……誰か、あたしを止めて……誰か……緋勇くん――!)

「……今の誰?」
 自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がして、龍麻は独り言ちて声の主を捜す。しかし見る限り、その姿はない。
「分からない……でも、でも、ここは恐ろしい悪意に満ちている……」
 葵が周囲の悪意に反応し、無意識に《氣》を放つ。こうなる時は十中八九ろくでもないことが起こる。
 それぞれが臨戦態勢を取り、警戒を強めた時だった。
「そんな所にぼんやり立ってたら妖共に喰われちまうよぉ。ククク……アーッハッハッハッ!」
 先程と同じ声が聞こえた。ただし、その口調も質も変わっていたが。それでも龍麻はその声に覚えがあった。
「まさか、こんな簡単に引っ掛かってくれるとはねぇ。何もかも、あの人の言った通りだったよ」
 ちょうど龍麻の右前方の空間に波紋が走った。続けてそこから制服姿の一人の少女が姿を見せる。
「女のコじゃないか……まさか――!?」
「敵……なのか?」
 突然現れた少女に、小蒔も醍醐も戸惑いを隠せない様子だ。今まで相対してきた敵は、首謀者という意味では藤咲を除けば皆男だったし、こうも簡単に姿を見せられると意表を衝かれたのだろう。
「もしかして、あなたがこの空間を……?」
「決まってんだろう? あんたたちを招待してやろうと、ここに網を張って待ってたのさ。ねぇ、緋勇くん。あたしを覚えてるだろう?」
 同じく戸惑いがちに葵が訊ねる。少女は馬鹿にしたように笑うと龍麻に話を振ってきた。そこでまた、仲間達に戸惑いが広がる。
「龍麻くん……この人を……知ってるの?」
「姿は、ね」
 葵の問いにそう答え、龍麻は目の前の少女を観察した。姿と声だけならば覚えがある。昨日、不良に絡まれていたのを助けたからだ。名を六道世羅といったか。
 それでも、同じ姿をした目の前の少女は、龍麻の知っている六道とは違う。だから姿は、と答えた。
「そう言うと思ったよ。あんたが知っているのは……今ここにいるあたしじゃない。まぁいい。どうせあんたたちはここで死ぬんだ。この、妖閉空間でね――」
 当の六道はそれに動揺することもなく、事も無げに言った。そして更に、物騒なことを口にする。それに反応したのは小蒔だった。
「ヨウヘイ……空間? 何だよそれっ!?」
「フフフ。ここは陽と陰の狭間に息を潜めるモノたちの至高の楽園。妖のモノたちが闊歩する閉ざされた世界……お前たちの瞳に宿る生命の輝きは彼らにとって格好の御馳走さ。聞こえないかい? 歓喜に咽ぶ妖共の声が……その手も足も、髪も脳髄も……骨の一片に至るまで喰われるよ。彼らはとても貪欲で、いつも飢えているからねぇ」
 その言葉に応えるように、周りの空間から湧き出てくるモノ達。旧校舎でおなじみの化物達にも似ている。六道の言う通り、それらはこちらを獲物として捉えているようだ。
「……ひょっとして……あんたも、柳生に唆されたクチかよ?」
 吐き捨てるように京一が確認の意味で六道に尋ねる。今までの経緯からすると、単独で自分達に手を出してくる《力》持つ者はまずいない。となると、どうしても黒幕が存在することになる。そしてそれの心当たりは一人しかいないのだ。
「お前達には関係ない!」
 途端に六道が激昂した。次第にその身に纏う《陰氣》を大きくしながら、険しい顔で京一を睨みつける。
「あの人は……あの人だけが、あたしに気付いてくれた。もう一つの人格に抑えつけられていた、このあたしにねっ!」
(もう一つの人格?)
 龍麻はつい昨日のことを思い出した。あたしの中に誰かが、確かそう言っていた。それが、今、目の前にいる者のことを指しているのだろうか。
(だとしても……何故柳生はこんな回りくどいことをする?)
 六道が《力》を持っていることはいい。だがはっきり言って、彼女一人で自分達をどうこうできるとは到底思えない。特殊な《力》を持っているのかも知れないが、それでもこの布陣は無謀に思えた。
「さぁ、お喋りはもう十分だろう? そろそろディナーを始めよう。もちろん――メインディッシュはあんたたちさ。アーッハッハッハッッハッ!」
 色々と疑問が残る。戦い以外でどうにかしたいが、向こうはこちらに手心を加えるつもりはないらしい。
 六道の哄笑を合図に、妖魔達が一斉に襲いかかってきた。


 鬼道衆戦以降、幾度か戦った敵達との決定的な違い。それは彼女が私欲で動いていないということだ。今後、何かしらの行動を起こすことも考えられるが、現時点では完全にただの駒なのである。こういう相手はさすがにやりづらい。
「龍麻、どうする!?」
 向かい来る妖魔を迎撃しながら醍醐が叫んだ。何をすればいいのかは醍醐も分かっているはずである。ただ、ここで問題なのは「誰が」それをするのか、だ。六道の《力》は未だに不明。この空間を作り出す、ただそれだけではあるまい。
 正面から向かってきた妖魔を掌打の一撃で討ち滅ぼし、龍麻は考える。
 この状況を打破するには六道を倒すのが一番である。では誰にそれを任せるか。
 醍醐は性格上、女性に手を上げるのは躊躇うだろう。京一の得物は刃物である。峰打ちで何とかなるかも知れないが、それでもやりよう次第で簡単に骨を砕いてしまう。相手も《力》の持ち主だ。生半可な《氣》では弾かれるだろうし、そうなると手加減は難しい。
 葵の《力》は元々攻勢向きではないので却下だ。敵の能力不明の状態で、下手に近付くのも危険。遠距離攻撃ができれば言うことはないのだが、こちらも手加減できないという欠点があるので小蒔も駄目。
「僕が突っ込む。みんなは妖魔の迎撃とこっちの援護を」
 結局、自分が出るのが一番だと思えた。少々の《力》なら自分の《力》でねじ伏せることができる。相手への手加減も、素手ゆえにどうとでもなる。オリハルコンの苦無を押し当てて雷《氣》で麻痺させるのも有効だろう。
「ひーちゃん、病み上がりなんだろ。大丈夫なのかよ?」
「ほぼ完全に治ってるよ。問題ない。それじゃ、後はよろしく」
 腰の後ろから苦無を引き抜き、龍麻は走った。

「ま、大丈夫か……」
 葵の《力》の援護を受けながら京一は龍麻を見送る。動き自体におかしな所は見られない。群がる妖魔も能力的には大したことがない。これなら旧校舎下層の怪物の方がよっぽど手強い。
 現に龍麻は行く手を阻む妖魔をことごとく蹴散らして六道へと向かっている。このまま行けば、あっさりと片は付くだろう。
「リハビリだと思えばいい機会なんだろな」
 刀に《氣》を込め、手近にいた敵に発剄を叩き込む。耳障りな悲鳴を上げて霧散する妖魔達。
 こちらに来る妖魔は京一達を取り囲み、時々思い出したように襲ってくる。一応は六道の指揮下にあるようだが、向こうは龍麻の侵攻に浮き足立っている。こっちの指揮までおぼついていない。こちらが暴れても、今更兵力を割くような真似はしないだろう。
「京一くん、結界を張るからこちらへ」
 葵がそう言うと、印を切り、呪を紡いだ。自分達の周囲に、淡く輝く《氣》の膜が広がっていく。
 葵の結界術も初期に比べればだいぶ強固になっている。結界だけなら龍麻よりも頑丈なものを張れるだろう。それ故に妖魔達はこちらに近づけない。襲ってきても完全に結界で阻まれていた。囲まれたままというのはいい気分ではないが、自分達は安全な結界の中から攻撃すればいい。何ともつまらない戦いだが、現状ではこれが一番だ。
「こちらから攻撃をすることもないのだろうな」
 完全に観戦モードになっている醍醐が呟く。
「囮としての俺達の役目は終わっている。あの女を倒せば、魔物も恐らく制御から外れる。だからこそ龍麻は突貫したんだが……あれでは援護も必要なさそうだ」
 旧校舎で言うなら上層レベルの妖魔である。束になったところで、龍麻に傷一つ付けることすらできまい。それが分かっているからこそ、京一以下、この場にいる仲間達は安心していられる。
「問題はあの女の《力》だが……よく分からないな。風か?」
 時折、六道がその手を龍麻に向かって振るっている。その軌跡上から龍麻は身を躱していた。一瞬遅れて、龍麻がいた辺りの景色が揺らぎ、その周囲にいた妖魔が血を撒き散らして倒れていく。ぱっと見ると、かまいたちか何かで斬られたようにも見える。
 何度かの回避行動の後で、龍麻が炎《氣》に包まれた右手を突き出した。炎が形を変え、鳥の姿を成す。威力は抑えてあるが、紛れもなく秘拳・鳳凰だ。手前の妖魔を焼き払い、炎の鳥は突き進む。それは一直線に六道へ向かった。
 そして六道の直前で消えた。勝ち誇ったように六道は笑う。その直後、鳳凰は再び現れ、羽ばたいた――龍麻に向かって。若干慌てて龍麻はそれを躱す。
「ど、どうなってるの?」
「多分、空間を歪めたんだと思うわ」
 目を瞬かせている小蒔に、葵が予想を述べた。
「このような場所を作り出せるんですもの。多分彼女の《力》は、空間に干渉するものなんじゃないかしら。龍麻くんの鳳凰を、空間を歪めることで軌道修正したのか、それとも別の空間に逃がしてから出口を龍麻くんに向けたのか」
「てことは、さっきのかまいたちも空間の断裂とかいうやつかよ。おっかねぇ《力》だな、おい」
 京一は、今更ながら六道の《力》に少しだけ危機感を持った。
 空間に干渉するなど、自分達の《力》でどうこうできるものではない。あたりをつけてそこから離れる以外に身を護る術はないのだ。同じように空間に干渉できるなら話は違うのだろうが、いくら龍麻が結界関係を使えると言ってもそこまでのことはできまい。
「でもよ、腑に落ちねぇよな」
 龍麻と六道の攻防を見ながら京一は独り言ちる。自然、皆の目がこちらを向いた。
「柳生の野郎、何だってあんなのを寄越したんだ?」
「そうだな……指揮能力があるわけでなし、単に俺達を結界で隔離しただけ。魔物のレベルも低いし、あの女が《力》を持っていると言っても、それだけで俺達をどうにかできると考えたのだろうか?」
「どゆこど?」
 小蒔が首を傾げる。思案顔の醍醐は頷いて言った。
「特異な《力》には違いないが、それ程脅威ではないということだ。事実、龍麻はあの女の攻撃を躱している。恐らく、対処法も考えついているはずだ。俺達の今までの闘いを監視していたはずの柳生なら、結果は見えていただろう」
「それって、まだ何か隠し球がある、ってコト?」
「分からん。情報が少なすぎるからな」
「いずれにせよ、ひーちゃん一人で片付くならそれでよし。もしも俺達の出番があるなら、その時はその時だな」
 いつでも動けるように、京一は刀を手にしたまま龍麻の動向を見守る。

 六道の攻撃を躱しながら、迫る魔物を斃しながら、龍麻はこれからどうするかを考えていた。六道を倒さねばならないのは、正直気が重い。自分だって、できることなら女性に手を上げたくはないのだ。ただ、状況はそれを許さない。
(六道さんの人格が目醒めれば、話は別なんだけどね)
 その望みは薄いが、そう思わずにはいられない。六道の基本人格さえ表に出れば、それで万事解決するのだ。
 そんな事を考えた時、龍麻は不意に違和感を覚えた。多重人格というものについて詳しく知っているわけではないが、気になることがある。
「ところで訊きたいんだけど」
 また一体、向かってくる魔物を斃して龍麻は問う。
「君の名前、何て言うの?」
「そんなこと、あんたに関係あるのかい!?」
 腕を振り、質問を無視する六道。その軌跡から龍麻は跳び退いた。横手から襲ってきた魔物がその軸に入り、身体を削ぎ落とされて断末魔の悲鳴を上げる。
「君はいつから、自分を認識した?」
 答えを待つことなく、龍麻は次の質問を投げた。言葉の代わりに、攻撃が返ってくる。それを回避し、更に問う。
「柳生とは、いつ知り合った? 君は六道さんが起きている時にも、意識はある?」
「ごちゃごちゃうるさいよっ!」
 望む言葉が紡がれることはない。それでも龍麻は大体のところを推察することができた。
(彼女は、六道さんのもう一人の人格なんかじゃない?)
 難しいことまでは知らないが、多重人格の場合、基本人格は二次的人格に気付かない場合が多いらしい。しかし昨日の六道は、それに気付いている節があった。
 それから、二次的人格は基本人格が表に出ている時の記憶があることが多いという。だから昨日新宿で彼女に会ったことで『今の六道』が自分を知っていてもおかしくはない。ただ『今の六道』は柳生を知っていた。正確には柳生の名を、だ。先程京一が名を口にした時に彼女は激昂した。昨日の彼女は名を聞きそびれたと言っていたのにだ。もちろん、柳生の名を自分に気付いてくれた人と同一だと推察しただけという可能性もあるが、普通は知らない名が出てきたら『誰だそれ』ということになるものだ。
 『今の六道』は柳生の名を知る機会があった可能性が高い。ならばそれはいつだろう? 基本人格が柳生に会った時に、都合良く人格が切り替わったのだろうか。
 そもそも、もう一人の人格に気付くことがあり得るのか、ということもある。基本人格が出ている以上は、二次的人格は表からは分からないはずだ。いくら柳生でもそれに気付くとは思えない。
 ならば、今ここにいる六道は誰なのか。今までに得られた情報と、自分の持ちうる限りの知識から推察するならば答えは一つ。
(植え付けられた人格……か)
 柳生によって干渉を受け、別人格を植え付けられたと考えるのが妥当と思える。そう考えれば、足立区の人間である六道が都合良く今この新宿にいて、なおかつ別人格に切り替わっていて、寄り道をしようとした自分達に仕掛けてきたのも納得できる。
 もちろんそうでない可能性もある。本当に柳生が六道の別人格に気付いて、それを利用しようと考えたのかも知れない。ただそれだと、このようなことに荷担する理由が分からない。いくら気付いてくれたからと言っても好きこのんで荒事に手を貸す気などないだろう。いずれにしても自分の推察した通りである可能性があるのなら、試してみたいことがある。
 そこまでの手順を瞬時に脳裏で構築し、ポーチからワイヤーを引き出して苦無に連結し、右手にそれを構えると、左手に炎《氣》を宿してまっすぐに六道へと走った。
 行く手を阻もうと動き出す魔物達。そしてこちらに攻撃を仕掛けようとする六道。
「火杜っ!」
 眼前に立ち塞がるそれらを覆い隠すように炎の壁を解き放つ。視界を塞いだ瞬間、龍麻は進路を変えた。横に跳びながら前方の《氣》を探る。魔物達、そしてその中で一際大きな《陰氣》の持ち主を感知して、龍麻は苦無を放った。目標はもちろん六道である。炎壁に視界を遮られていても、この程度ならどうとでもなる。
「ひっ!?」
 突然飛んできた苦無に驚いたのか、六道の声が聞こえた。ただ驚いただけで苦痛の色はない。それも当然で、龍麻は彼女を直接狙ったわけではないのだ。ワイヤーを巧みに操って、彼女の足にそれを絡ませたのである。
 悲鳴と同時に龍麻は《氣》を練った。ワイヤーを伝わって《氣》はオリハルコン製の苦無へと送られる。それはオリハルコンの特性を発動させることを意味していた。結果を確認する間もなく、龍麻は炎の壁に飛び込む。
「あぐっ!?」
 今度は苦痛の声が耳に届いた。紅の壁を越えた向こうで、六道がしゃがみ込んでいる。オリハルコンが《氣》と反応し、雷《氣》を発生させて彼女を麻痺させたのだ。
「我求助、九天応元雷声普化天尊――」
 続けて龍麻は《氣》を練り上げた。右手に宿った陽の《氣》が、更に神聖な輝きを放ち始める。憑き物つきの事件が終わってから、劉に手ほどきを受けた活剄だ。
「我需、無上雷公、威名雷母、雷威震動便滅邪――活剄!」
 一跳躍で間を詰めると、そのまま右手を六道の額に押し当てて《氣》を解放した。聖なる《氣》が六道の身体を包みこんだ一瞬の後、まるで追い出されるかのように《陰氣》が六道の身体から飛び出し霧散する。
 力無く崩れる六道を抱きかかえ、無事を確認すると、龍麻は安堵の溜息をついた。


 六道が倒されるのを見て、小蒔が息をつくのが聞こえた。周囲にいた魔物達も、制御を離れたせいか、次々と消えていく。これで一段落、そう思っただろう。
 それでも葵はまだ終わった気がしなかった。何故なら、妖閉空間自体がいまだに存在し続けているからだ。かつて等々力や富岡八幡宮で戦った時は、術者が斃されたことで結界が消失した。いずれにせよ《力》によって空間を維持することができなくなっている以上、この場も元に戻っていいはずである。
 この空間を維持していたのが六道ではなかったのか。それとも術者に関係なく継続するものなのか。どちらにしても不安は払拭されない。京一と醍醐も油断した様子はなく、周囲に視線を散らして警戒しているようだ。
 もちろん、龍麻本人もそれには気付いているだろう。ひょっとしたら、それ以上に何か察しているかも知れない。
「龍麻く――」
 確認してみようと名を呼ぼうとした時、それは起こった。

「く……っ!?」
 気を失ったはずの六道を放り出すようにして、龍麻はその場から跳び退いた。周囲の状況に変化がない以上、まだ何かあるとは思っていたが、
「まさか、こう来るとはね……」
 目の前で立ち上がった六道を見据え、独り言ちる。今、自分の前にいる少女は、先程とは別人だ。それは人格が違うという問題ではなく、明らかに気の質が違うのだ。《陰氣》には違いないが、より禍々しい。それは、自分のよく知る《氣》だった。いや、忘れられれるはずがない。
「柳生――!」
 紅い剣鬼の《氣》を纏った少女の口から、嗤い声が漏れる。その声は少女のものではない。
 刀を持っていない上に少女の身体である。今の柳生に戦闘力があるとは思えないが、それならばわざわざ出てきたりはしないだろう。いや、ひょっとしたら、この状態で六道の《力》が使えるのかも知れないが。
(六道さんの《力》……!?)
 彼女の《力》を思い浮かべた瞬間、背筋を冷たいものが伝った。自分が把握している彼女の《力》は空間に干渉するものだ。もし、彼女に別の《力》があるのなら。そうでなくとも、柳生が彼女の《力》をより有効に扱うことができるのなら――
 危険を感じ、六道から距離をとろうとしたが、一足遅かった。
 背中に感じる妙な圧迫感。それが、こちらの後退を阻んでいる。背後を見ても何もない。目に見える限り、そこに異常はないというのに。
「くっくっく……今こそ開く、時逆の迷宮――全ては、緋勇龍麻、貴様の存在を無に帰す為に――」
 かつて自分を雑作もなく斬った男。それを前にして逃げ出すつもりはない。胸中に生じ始める恐怖を無理矢理ねじ伏せ、龍麻は対峙する。とは言え、ここで六道を攻撃するわけにはいかない。彼女は被害者であり、彼女を傷つけたところで柳生を倒せるわけではない。となると、先程のように活剄を叩き込んで、柳生の干渉を打ち消すことができれば――
 現状打破の方策を何とか考えようとした時、柳生の声が告げた。
「くっくっく……こやつは、刻を視る者にして、万物の六道輪廻を司る《力》を持つ者」
「刻を視る? 六道輪廻……?」
 意味が分からず、眉をひそめる。言葉の意味はともかくとして、柳生の真意が分からない。ただ、とてつもなく不吉な予感が駆け抜けた。
「こやつを使った真の意味は、緋勇龍麻――貴様を刻の彼方へ封印することよ。空間を自在に操る《力》によって、貴様を相応しい世界へと帰してやろう」
 景色が歪む。奇妙な感覚を感じて振り向くと、背後の空間が渦を巻き始めていた。じわり、とそちらに引っ張られるような、何か特別な《力》が働いている。それに抗おうと、龍麻は身を低くしてその場に踏ん張る。それでも身体はゆっくりと動き続ける。
「さらばだ、緋勇龍麻。刻は戻る――過ちの原点へ。汝は帰る――相応しき世界へ。一つの時代に、二人の《器たる者》はいらぬ。我が手の内にある《器》こそがこの時代を制する者となるのだ。あーはははははっ――」
 柳生の哄笑と共に引力が増した。膝を着き、指を地面に文字通り突き立ててこらえるが、これ以上は保ちそうにない。
「龍麻っ!」
「ひーちゃんっ!」
「くそっ! ひーちゃんっ!」
 背後から――歪んだ空間の向こうから、仲間達の声が聞こえる。彼らには、自分が今、どのように見えているのだろう。
 諦めるつもりはないが、この場に留まり続ける事は無理そうだった。
 足から、地に着いている感触が消えた。指が地面から抜ける。引きずられる感覚が、落ちていく感覚に変わる。目の前の景色が消え、漆黒の空間が広がる。
「龍麻……龍麻――っ!」
 自分を呼ぶ、とても悲痛な声を最後に、龍麻の意識は飛んだ。



「Good Morning Everybody」
「Good Morning Miss Maria」
 気が付くと、英語の挨拶が耳に入った。目の前には制服姿の生徒達が席についてこちらを見ている。それらの目には好奇の色が浮かんでいた。
(なんで、僕はここにいるんだろう?)
 そんなことを考える。目の前の光景は、どこかで見たような気がする。気がするだけで、本当のところは分からない。
「おはよう。みんな揃ってるかしら。もう知ってるヒトもいると思うけど……ホームルームに入る前に……今日からこの真神学園で一緒に勉強することになった転校生のコを紹介します。名前は――緋勇龍麻クン」
 隣に立っている、美しい金髪をした女性が、こちらを見て告げた。
(ああ、そうか。僕は転校してきたんだ)
 その事実を、受け入れる。自分は緋勇龍麻という人間で、この学校に転校してきたのだ、と。
「緋勇クンは、一ヶ月程前に御家庭の事情で、こちらに引っ越して来たばかりなの……それから、緋勇クンは、大きな事故に遭って、今は声を出すことができません。その時のショックで、記憶の方もまだ少し混乱したままなので、分からないトコロが多くて戸惑うかも知れないから、みんな、イロイロ、緋勇クンに教えてあげてね」
 生徒達の返事が聞こえる。それに満足したのか、金髪の女教師は微笑んだ。
「緋勇クン、それじゃキミの席は……そうね。確か……美里サンの隣が空いていたわね。美里サンはクラス委員だから、イロイロ教えてもらうといいわ。美里サン、よろしくネ」
 マリアに呼ばれ、一人の女生徒が席を立ち、頷いた。黒い長髪をした、綺麗な女生徒。
(あれ?)
 その少女を見た瞬間、頭の中に映像が浮かび、消えた。
(今のは一体?)
「緋勇クン……? どうかしたの?」
 訝しげなマリアの声が聞こえる。どうかしたのか、と言われても困る。自分でも、何が何だか分からないのだから。
 首を横に振って、大人しく指定された席に着く。
「それじゃ、ホームルームを始めましょう。今日の議題は、旧校舎跡地の利用案について……」
 そう告げて、黒板にチョークを走らせるマリア。
(跡地……?)
 その時、また正体不明の違和感を龍麻は感じた。


3−C教室――休み時間。
「緋勇くん」
 自分の名を呼ぶ声に、龍麻は隣を向いた。
「こんにちは。さっきは、すぐにホームルームに入ってしまって挨拶もできなかったけれど……ごめんなさい」
 隣の女生徒が話しかけてくる。確か、クラス委員だとマリアが言っていた。
「私、美里葵っていいます。美里は、美しいにふる里の里。葵は、葵草の葵――これからよろしくね」
 こちらこそ、と言いかけて。声が出ないことに気付いた。何とか返事をしようとするのだが、どうしても声が出せない。
『緋勇クンは、大きな事故に遭って、今は声を出すことができません』
 マリアの言葉が甦る。今の自分は事故の後遺症か何かで声が出ないのだった。
 それにしても、挨拶一つ返せないのは情けないものがある。どうにかならないかと考えていると、葵の表情が動いた。
「……あ、無理しなくていいの。首を縦か横に振ってくれれば、大体のコミュニケーションはとれるし、何かあれば筆談という手もあるんだから……ね?」
 こちらを気遣う優しい言葉。現状ではそれしかないのだろう。そう言ってもらえると、正直助かる。
 ありがとう、と口だけ動かして、龍麻は頷いた。
「学校の事で、分からない事があったら、いつでも聞いて」
 そう言って微笑む葵。クラス委員だからか、色々とこちらを気に掛けてくれているようだ。
(いや、そんなのじゃない。肩書きがあろうと無かろうと彼女は――彼女?)
 何故、そんなことを思ったのか。初対面の人間を前に、自分は何を考えているのだろう。会ったばかりの相手のことが、どれだけ分かるというのか。
(でも――)
 どこか懐かしさを覚える。彼女の顔も、その声も。いつか、どこかで知っていたような気がするのだ。
 事故の後遺症だろう、と勝手に結論づけることにした。仮に自分が覚えてないのだとしても、知り合いなら向こうが覚えているはずだ。第一、自分は転校生である。見知らぬ土地であるこの東京に知人がいるはずもない。
「あ〜お〜いっ!」
「きゃっ!」
 などと考えていると、別の声が乱入してきた。
「小蒔」
 小蒔と呼ばれた女生徒が、葵の背後に立っていた。少し茶色がかったショートカットの、活発そうな少女だ。
「葵もやるねぇ〜。さっそく、転校生クンをナンパにかかるとは――」
「えっ……?」
 とんでもないことを茶髪の少女は口にした。葵の顔に朱色が差す。それには構わず、小蒔はこちらに挨拶してくる。
「へへへっ、転校生クン、初めまして。ボク、桜井小蒔。花の桜に、井戸の井。小さいに、種蒔きの蒔。まっ、これから1年間、仲良くしよっ」
 第一印象を修正する。活発そうな、ではなくて活発な少女だ。首を縦に振ると、うんうんと向こうも頷く。
「キミ、悪いヒトじゃなさそうだし、仲良くやってけると思うよ。へへへっ」
 そして、イイ事教えてあげるよ、とこちらへやって来て、耳元に近付いてきた。
「あのねぇ……葵って、こう見えてもカレシいないんだ。声は、結構掛けられてるみたいだけど……全部断ってるし……別に話を聞くと、理想が高いってワケでもないんだけど。緋勇クンなら、イイ線いくと思うんだけどなぁ……まっ、いずれにしても――恋敵が多いのは覚悟した方がイイよ。葵は、男に対する免疫がないから大変だと思うけど、玉砕しても、骨ぐらいは拾ってあげるからさ」
 拾ってあげる、といわれても困る。そもそもこれは、転校したての人間に聞かせるような話なのだろうか? それに、だ。こういった話はこういう場所でやらない方がいい。特に本人の前では。
「小蒔……聞こえてるわよ」
 やや怒りを含んだ葵の声に、小蒔はあははと笑いながら席から遠ざかっていく。
「いやぁ〜、ヘヘヘヘっ」
「……小蒔っ」
「緋勇クン、ボク応援してるからね。じゃ、ボクは用事があるんで……」
 そして、がんばりなよ、と言い残して教室から逃げ出した。
「あ、ちょっと……もうっ、小蒔ったらっ!」
(何だったんだろう……?)
 かき回すだけかき回して消えるなど、まるで台風のようだ。小蒔に呆然とする龍麻だったが、そこで葵と目が合う。
「あ……あの……小蒔が変なこと言っちゃって……その……ほ……本当にごめんなさい……」
 先程とは比較にならないくらいに真っ赤な顔で葵が謝ってくる。
 気にすることはないよ、と言いかけて、自分の声が出ないことを再認識した。そして、こちらが気にするなと意思表示をするより早く、葵は慌てて逃げるように教室を出て行ってしまった。
(あれ?)
 また違和感。先程のやり取りを頭の中で再生する。葵の自己紹介、小蒔の自己紹介、そして小蒔のいたずらめいた情報提供と、その後の葵の反応。
(これって、どこかで……)
 既視感、というやつだろうか。同じような光景を、どこかで見たような気がする。そこで気付いた。小蒔の声、言動。葵の時に感じた懐かしさがそこにもあったことを。
「初日からあの生徒会長殿に興味を持たせるなんて、なかなかやるねぇ転校生」
 どういうことだろうと考えている内に、また別の声がかかった。今度は誰だろうと思いつつ、龍麻は声の方を向いた。
 そして、やはり不思議な感覚に襲われる。そこにいたのはやや赤みがかった髪をした一人の男子生徒だ。手には見た目が袱紗に似た、青い棒状の袋を持っている。
「俺は蓬莱寺京一。これでも剣道部の主将をやってんだ。まぁ、縁あって同じクラスになったんだ、仲良くしようぜ」
 そう言う彼に、反射的に頷いていた。どんな人物なのか、それを考えるよりも早く。まるでそうするのが当然のように。彼からも感じた懐かしさが何か関係があるのかも知れない。
 京一はしばらくこちらの目を見ていたが、そうだ、とばかりに顔を近づけてくる。
「一つ忠告しておくが……あんまり目立ったマネはしない方が身のためだぜ。学園の聖女を崇拝してる奴はいくらでもいるんだ。特にこのクラスには――」
 そこまで言って後ろに視線をやる。その先には、いかにも不良ですと言わんばかりの生徒が四人たむろしていた。
「頭に血が上り易い奴らが多いしな」
 要するに、彼らがその『崇拝者』ということだろう。しかしだからといって、それが自分に関係あるのだろうか。
「ま、そういうこった。無事に学園生活を送りたいなら、それ相応の処世術も必要って事さ。じゃ、また後でな」
 何を言いたいのか理解する前に、京一は行ってしまう。確認する間もなく、チャイムが鳴ったことでその機会は失われた。



 3−C教室――放課後
 気が付くと放課後になっていた。そして、目の前では不良達と少女が口げんかを展開している。不良然とした少年達が顔を貸せと言ってきたのを、少女が見咎めたのである。
(にしても、遠野さんもよくやるな)
 完全に優勢である少女を見ながら感心する。そういえばあの時も――
(あの時……?)
 あの時とはいつのことだろう? そもそも、何故彼女はここにいるのだろう?
(いや、それ以前に。僕はいつ遠野さんと知り合った?)
 彼女と今日は顔を合わせていないはずだ。なのに、自分は初対面のはずの少女の名を知っていて、向こうはまるで顔見知りのようにやって来て、一緒に帰る約束までしようとしていた。
 何かがおかしい。記憶がとてつもなく曖昧だ。今ここにいる自分は、本当に自分なのだろうか?
 などと考えている間に。口論は決着がついていた。正確には不良達が負けたようだ。
「……しょうがねぇな、おめぇらは……」
 しびれを切らしたのか、リーダー格の男が姿を見せた。割とがっしりとした体格の、まあ、見るからにチンピラ風の男。
「佐久間、アンタ……」
「遠野、少し黙ってろや……俺はコイツに用があんだ」
 アン子を一瞥して黙らせると、佐久間と呼ばれた男子がこちらを睨む。
「へっ……緋勇とかいったな。随分と、女に囲まれて御満悦じゃねぇか……」
 龍麻は首を左右に巡らせた。少なくとも、自分の周囲にいる女性はアン子だけだ。どう考えても『女に囲まれて』という状況ではない。故に、首を横に振った。ただ、その態度は佐久間にはお気に召さなかったらしい。
「ちっ、気に入らねぇな。てめぇのその面を、柿みてぇに潰してやる。さいわい、あの剣道バカはいねぇし――俺たちだけで話つけようじゃねぇか」
「ダメよ、緋勇君。こいつは……」
「……体育館の裏まで来いや。逃げるんじゃねぇぜ……まぁ……イヤだと言っても一緒に来てもらうまでだがな」
 ニヤニヤと不快な笑みを浮かべる佐久間。それに従うように、不良達が龍麻の両脇に位置し、逃走を阻む。
 普通なら不安になりそうなものである。
 しかし何故か、龍麻はこの状況にあっても不安や恐怖を一切感じなかった。



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