周囲は完全に夜の帳が降りている。それでも人の通りが減った様子はない。いや、むしろ増えているだろうか。掻き分けなければならないわけではないが、やはり人混みの中は歩きにくいものである。東京に来てだいぶ経つというのに、まだ龍麻は人混みに慣れずにいた。葵の方は慣れたもので先へと進んでいく。それを追うように龍麻も続く。
「確か……この辺りだと思ったのだけど……あっ――」
目標を見つけたのか、葵が声を上げてそちらに駆け寄っていく。
「見て、龍麻。大きなツリー……」
少し開けた場所にそれはあった。大きなツリーが電飾で飾られ、街の灯りにも負けずに輝いている。光の塔ともとれるそれは、周囲にいる人々の目を引きつけていた。何組ものカップルが、また通行人達がその姿に魅入られているようだ。
龍麻も倣ってツリーを見上げた。今までに見たこともない大きなツリーだ。綺麗だ、と無意識のうちに口から言葉が漏れる。
「綺麗……やっぱり……来てよかった……どうしても、龍麻と一緒に見たかったから……本当に……綺麗ね……」
その光の下で葵はツリーを見ながら呟いている。そうだね、と同意しかけて龍麻は葵に視線を移し――固まった。鼓動が大きく跳ね上がったのを自覚する。
それはまるで一枚の絵のようだった。光の塔の側に佇む少女。街のネオンが夜の闇を薄め、ツリーの装飾が放つ鮮やかな光彩が葵を包み込んでいる。時折吹く冷たい風が長い黒髪をなびかせ、それがまた光に照らされ淡く浮かび上がる。まるで光に祝福されているかのように龍麻の目には映った。優しげな笑みをたたえた葵の姿に、真神の聖女と一部で囁かれている彼女の呼び名が自然と浮かんでくる。
それは完全に不意打ちだった。そんな彼女に目を、心を奪われ、胸の奥が熱くなる。湧き上がる感情を糧にして、足が動いた。一歩、また一歩と進むにつれ、葵に近付いていく。
気配を消しているわけではない。ごく普通に歩いているが、葵はツリーを見たままで龍麻の動きに気付いていない。
そう時間をかけることなく、龍麻は葵の背後に立った。未だに葵は気付かない。
(参ったな……)
もう止まりそうにない。今ここで葵が気付いても、気付かないままだったとしても。もう自分が抑えられなかった。いや、抑えようという意志などないのかも知れない。
ただ、そうしたいと思った。自分の心が望むままに。様々な感情が絡み合うことで今まで表に出そうとしなかった想いに従って。
コートのポケットから手を離し。
龍麻は葵を背中から抱き締めた。
突然背後から覆い被さってきたものに葵は一瞬身を竦ませる。悲鳴を上げなかったのはさすがというべきだろうか。こんな場所で一体誰が、とか、龍麻は一体どうしたのかなどと目まぐるしく頭の中を言葉が飛び跳ねていくが、すぐにそれの正体に気付いた。自分の身体に回されているのは黒いコートの袖。左腕から覗く見覚えのある腕時計。
「龍……麻……?」
「うん……」
間違いはないはずだが今の状況が信じられず、葵は背後の人物に問いかけた。この行動は、今までの龍麻からはとてもじゃないが想像できないものだ。それでも返ってきた声は確かに龍麻のものだった。
強ばらせていた身体から力を抜き、葵は軽く身を後方に預けた。その行動に今度は背後から動揺の気配が伝わってくる。
「嫌じゃ……ない?」
今更ながらにそんな事を訊いてくる。心なしか腕の力も緩んだような気がした。それがおかしくてつい笑ってしまいそうになるが、気付かれないようにそれをこらえて葵は龍麻の腕を抱くようにして捕まえる。すると先程以上に龍麻の身体が硬直した。向こうもまさか、自分がこのようなことをするとは思わなかったのだろう。
「あったかい……龍麻の腕の中が、一番安心できるから……私……」
防寒着越しでは実際に相手の体温を感じられるわけではない。それでも葵は確かに温もりを感じていた。それは龍麻の《氣》が、龍麻の想いが伝わってきたからだ。その行動から龍麻の想いが感じられた、だから葵は今までにない安心感を今の龍麻から得ていた。
回された腕に、また力が戻った。それに負けないように、応えるように、葵もまた、より強く龍麻の腕を抱く。
「あ……そうだわ」
そこで不意に思い出す。もう少ししたら渡そうと思っていた物のことを。腕を片方だけ放し、葵はそれを取り出すと、後ろの龍麻に見えるように持ち上げる。
「――龍麻。あのね、これを受け取って欲しいの……さっき花屋さんで見つけて、龍麻に、と思って」
それは白い薔薇の花だった。花屋で見つけてと言ったが、これを買うために葵は先程別行動を取ったのだ。
「これ、僕に?」
「ええ、あなたに」
龍麻の腕が動いてそれを受け取った。しばらく龍麻はそれを眺めていたようだが
「これはまた……どう受け取ればいいのかな……」
そんなことを呟く。何やら苦笑しているようであった。
「これって、あれだよね? 花言葉に込めて、ってやつ」
「っ……知ってたの!?」
思わず大声を出してしまった。まさか龍麻が知っていようとは。
これはつい最近、女子高生達の間で話題になっていたものだ。要するに花言葉にちなんだ花を相手に贈って告白するというものである。このテの情報は普通、男子には浸透しない。こういったことにこだわったりするのは女子だからだ。そういうのにマメな男ならば知っている可能性もあるが「あの」龍麻が……
自然と顔に血が上っていく。ネタがばれるとこういうのは必要以上に恥ずかしくなるものだ。
「知ってたというか、聞いたというか。亜里沙がそういうのが流行ってるらしい、って。でも……これ、どういう意味を込めたの?」
「し、白い薔薇の花言葉は……《純粋な愛》って言うの……こ、これが……わ、私の気持ちだから……」
追い打ちのように龍麻がそんな事を訊いてきたので何とか言葉を絞り出す。恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいだ。だが問題は龍麻の反応である。これで自分の想いははっきりと伝えた。龍麻はどう返すのか――思わずまた、龍麻の腕を強く抱き締めてしまう葵。
「そっか、そんな意味もあったんだ。ありがとう、葵」
言葉と共に薔薇を持っていた手が背後に消えた。つまりは……そういうことなのだろう。
緊張の糸がぷっつりと切れ、身体から力が抜けた。龍麻の腕にしがみつくように身体が沈む。それを龍麻が支えてくれた。さっきよりもしっかりと、身体を固定される。
「ちょっ、葵? どうしたの?」
「だ、だって、安心したら急に……」
何とか言い繕おうとして足に力を入れる。そして龍麻の方を向こうとしたところで、視界に入ってくる物があった。白く、小さな、冬の風物――雪だ。その数は次第に増していき、空を白に染めていく。周囲で歓声が上がるのが聞こえた。
ホワイト・クリスマス――この時を過ごす者達にとっては天からのプレゼントだ。
舞い散る雪を見ながら、ふと葵は先の龍麻の様子を思い出した。薔薇を見せた時、龍麻はなぜか苦笑していたような気がする。
「ねえ、龍麻。さっき、どう受け取ればいいのかって言ってたけど。あれってどういう意味なの?」
振り向いて訊ねると、龍麻は曖昧に頷きながら答える。
「花言葉って、同じ花にいくつもの意味があるよね。だから、さっきの白薔薇はどれを指していたんだろうって思って」
「私は、その……他の意味は知らないんだけど……どんな意味があるの?」
こんなことならもっと下調べをしておくべきだったかと反省するが、後の祭りである。不安だったが確かめることにした。再度の問いに龍麻が答える。
「僕が知ってる限りでは《尊敬》と《純潔》と……後一つ」
「その一つって?」
「自分で調べてごらん。きっとびっくりするから。さっきの比じゃないくらいに」
クスクスと笑う声が聞こえる。ひょっとして、これまたとんでもない失敗をしたのではないかという気になってくる。ここではっきりさせておいた方がいいのかも知れない。
「あの……龍麻?」
「さて、そろそろ行こうか」
しかしその前に龍麻が離れた。左腕を掲げ、腕時計を指しながら言う。
「そろそろ門限じゃない? 残念だけど、今日はここまで。家まで送るよ」
「そうね、そろそろ……って、その前に龍麻、花言葉の最後の意味を――」
「僕の口からは言わない。調べたらすぐ分かるって」
「もう、龍麻っ」
結局、龍麻は教えてはくれなかった。
同じ時の流れの中にいても、その感じ方は場合によって違う。楽しい時間は早く過ぎ、辛い時間はなかなか終わらないものだ。
帰宅の途につく龍麻と葵もそれを実感していた。もちろん前者を、である。今は龍麻が葵を送っている状態だが、足の運びは家に近付くにつれて重くなっていく。何のことはない、どちらもまだ一緒にいたいのである。
が、それでも立ち止まらない以上、目的地には着く。
「着いちゃったね」
葵の家の門まであと数メートルというところで、龍麻は立ち止まった。同じく葵も立ち止まる。龍麻にとっては今日という日はこれで終了だ。家に帰ったら風呂に入って寝るだけである。が、葵にとっては違う。彼女にはまだもう一つのイベントが待っている。
「ねえ、龍麻。ここまで来たなら寄っていかない?」
葵はそう提案してきたが、龍麻としてはそれを受けるつもりはなかった。
「せっかくだけど、断るよ。時間が時間だし、それに、親御さんと顔を合わせるのもちょっと、ね」
二十一時を回っている今、常識的に他人の、それも異性の家にお邪魔するというのは抵抗がある。それに、今まで葵と行動を共にしていた身としては、彼女の両親に会うのも抵抗がある。母親とは何度か顔を合わせているが、父親には会ったことがない。やましいことは何もない――はずだが、まあ、何というか、気まずくなりそうな気が……
「それに、今年の家族との団らんは、例年とは違うでしょ?」
今年のクリスマスは新たにマリィという義妹を加えてのものだ。こんな時に家族以外が加わることもないだろう。
「マリィにはよろしく言っておいて。せっかくのクリスマスと誕生日なんだから……っと、そうだ、これをマリィに」
コートのポケットから龍麻は綺麗に包装された箱を取り出す。葵と合流する前に、買っておいた物だ。
「誕生日のプレゼント。それから兼用で悪いけどクリスマスのもね」
「ありがとう。きっとマリィも喜ぶわ」
葵にそれを手渡して、龍麻はふと思い出した。葵と話をしている時に感じた、何かを忘れているような違和感、その正体を。
「あちゃあ……」
声になって口から漏れる。葵は小首を傾げてこちらを見ていた。龍麻はそれに視線を合わせ、頭を下げる。
「ごめん……葵へのプレゼント、忘れてた」
そうなのである。マリィへのプレゼントを覚えていたのに、葵へのそれを忘れていたのだ。なんて間抜けなんだと心の中で自分を罵りつつ、龍麻は葵の反応を待つ。するとクスクスと笑うのが聞こえた。自分としてはおかしな事を言ったつもりはないのだが、葵にはそれがツボだったようだ。
「いいのよ別に。気にしないで」
「そう言われてもね……」
「本当にいいの。プレゼントはサンタクロースからもらったから」
そう言って微笑む葵だが、龍麻には何のことだかさっぱりだった。戸惑っていると葵はこちらへと歩を進め、龍麻の胸にその手を当てる。
「今日、この日を、龍麻と過ごすことができた。私には、それが一番のプレゼントよ。龍麻と過ごせて、今日はとっても楽しかったし、嬉しかったの。それだけで十分よ」
コツンと額を一度胸に預け、葵はこちらを見上げてくる。朱に染まった笑顔がそこにはあった。その表情はあっさりと龍麻の心臓に干渉し、いつも以上の活動を強いる。
それに後押しされるように、龍麻は自らの意志で手を動かした。長く艶やかな葵の髪を撫で、掻き分け、頬に触れる。温かな体温が伝わってきた。
くすぐったかったのか、それとも手が冷たくてびっくりしたのか。ぴくんと葵は震えたが、目をゆっくりと閉じていく。完全に閉じられることはなく、瞼の間から僅かに覗いた潤んだ瞳がこちらを見つめていた。それと目を合わせたまま、龍麻は顔を近づける。葵の顔も心なしか上を向いた。ゆっくり、ゆっくりとその間合いが縮まり、互いの吐息が感じられるところまで近づき――
「にゃー」
(………………にゃー?)
どこからともなく聞こえた猫の鳴き声に、龍麻は動きを止めた。葵の目も開いている。龍麻は目だけを動かして鳴き声の方を窺った。
それは葵の家の門の前。黒い子猫が何をしてるのとばかりの表情で小首を傾げてこちらを見ていた。そして、その門の陰。金髪の少女が僅かに顔を出し、黒猫に非難めいた視線を送っている。そしてこちらへと視線を移し――硬直した。
龍麻の視線と葵の視線がマリィに注がれる。しばし彼女は固まったまま、自由な首だけを動かしてメフィストとこちらを慌ただしく交互に見ていたが
「え、えっと……マリィのことは気にせずに、続きをドウゾ……?」
などとのたまった。まさかその言葉に従うわけにもいかず、恐る恐る龍麻は訊ねる。
「ま、マリィ……一体、いつからそこに? も、もしかしてずっと見てた?」
「な、何も見てないよ!? 龍麻オニイチャンと葵オネエチャンがキ――」
「ストーップっ!」
割と大きな声で弁解を始めるマリィの口を、龍麻は能力全開時を思わせる素早さで間合いを詰めるとその手で塞いだ。夜にこの音量では下手すると家の中にも聞こえる。
「い、いいかなマリィ? マリィは何も見なかった。僕と葵はなにもしていない。OK?」
「む、むぐも……」
何やら言いたげなマリィ。隠すことはないのに、と目が語っているが
「いいね? でないと僕は、ミサちゃんに――」
再度念を押すと、こくこくと頷く。それはもう激しく、力強く。どうやら「説得」は無事成功したようだ。物分かりのいい子で助かった。ホッと一息吐いて龍麻は手を離した。
「そうだマリィ、君の誕生日にプレゼントがあるんだ。葵に渡してるから、後で受け取ってね」
「プレゼント? ありがとう。それはいいケド……龍麻オニイチャン」
「ん?」
「葵オネエチャン、大丈夫ナノ?」
マリィの指し示す先には顔を真っ赤にしてオブジェと化している葵の姿があった。頭から湯気が立ちのぼっているようにも見える。何事か呟いているが、それは先の自分の行動のせいか、それともそれを義妹に見られたせいか。
『二人の仲なんて周知の事実なのに。何ていうか……』
わざわざ英語で語るマリィに対し、龍麻は答える術を持たなかった。
翌日25日。3−C教室――放課後。
「それでは、これで今学期最後のHRを終わります。明日からは冬休みですが、皆さんのほとんどは受験生ですから、入試に向けて、しっかり勉強してください。Enjoy your vacation.See you!」
挨拶を終え、クラスが動き始める。明日から冬休みだ。受験生がほとんどであるのでのんびりとした休みを過ごすのは無理だろうが、それでも長い休みというのは嬉しいものである。生徒達の表情も明るい。
今日からしばらくは教室に用はない。忘れ物をせぬようにと片付けをしている龍麻の元に、醍醐と葵がやって来た。
「よぉ、龍麻。いよいよ冬休みか。時が経つのは本当に早いものだな」
「全くだよ。今年もほんの一週間。年が明けて三学期が始まったら、あっという間に卒業式だからね」
「卒業か……何だかまだ、ピンとこないんだがな」
醍醐は腕を組んで首を捻っていた。ピンとこないのは自分も同じだ。きっと、卒業の日にもピンとこないだろう。龍麻も同じように腕を組んで首を捻った。そんな自分達を見て葵が笑っている。
「でも、1998年もあと少しで終わり……私達のすべきことは、まだ何も終わってはいないけど、でも、せめて今年はもう、何も起きずにいてくれるといいのだけど……」
「それが一番だろうね。でも……そうはいかないと思う」
葵の期待も分かるが、恐らくもう一つか二つ、事件があるだろう。何しろ、自分がこうして生きているのだから。柳生がなにもせずに静観しているとは思えない。
龍麻の言葉に葵が表情を曇らせた。
「でも、これ以上誰かが悲しむような事件は起こって欲しくない……そう思うの」
「あぁ、俺も同感だ。体の傷なら我慢もきくし、回復も目に見えて早い。だが……心に受けた傷はそうはいかんからな」
「全てはあちらさん次第、なんだけどね」
眉間に皺を寄せて同時に龍麻達は溜息をついた。いずれにせよ厄介ごとは起こる、それに対処するのは自分達なのだ。
「あれっ――? どうしたの? 三人揃って、一体、何の相談?」
そんな自分達が気になったのか、小蒔がやって来た。
「うふふ……別に相談なんてしていないわよ。ただ、今年もあと少しで終わりだし、何も起きずにいてくれればいいわね、って言ってたの」
「う〜ん。それは言えるなぁ。年末年始くらい、ボク達だってのんびりしたいよねっ」
葵がそう言うと小蒔が頷く。そして、更なる声が会話に加わってきた。
「そうよねぇ。お正月くらいボケ〜っとTV観てたいわよねえ」
「あら、アン子ちゃん」
「珍しいね、アン子がボケ〜っとしたいなんてさ」
いつもの如く3−Cにやって来たのはアン子だ。ただ、その表情はいつも通りではない。どこか疲れているように龍麻には感じられた。
「あら、あたしだってたまには骨休めしたいわよ。でも、今年はそうも言ってられないのよねぇ」
意外そうに小蒔が言うと、アン子は肩をすくめる。そして先程の自分達のように溜息などつく。いつもの元気が感じられないので何かあったのか訊こうとすると、納得したように小蒔が言った。
「そっか、アルバムの編集、まだやってるんだっけ。どおりで最近、事件事件って騒がないわけだ。それで、進み具合はどうなの?」
「う〜ん、それが何とも言えないのよね。年が明けたらすぐに印刷所の方に頼むらしいから、これから最後の修羅場があたしを待ってるわ〜」
「って、遠野さん一人でやってるの?」
あたし達、ではなくあたしと言ったので龍麻は気になって訊ねる。するとアン子はこちらにジト目を向けてきた。何とも言えないプレッシャーに龍麻は思わず後ずさる。
「龍麻君……これは新聞部の仕事なの。新聞部にはあたし一人しかいないの。そうなると、編集もあたし一人でやるの。これがどれだけ大変か、龍麻君に分かる?」
「あ、あはは……大変だね」
「そーよっ! 大変なのよっ! それなのに他の連中はのほほんとっ! お陰で昨日は街に繰り出すこともできなかったわっ! 色々噂になってたカップルの真偽を確かめるチャンスだったのにっ!」
アン子の手が伸び、龍麻の胸元を掴む。そして叫びながらがっくんがっくん揺さぶり始めた。
「全く、どこにいてもお前は騒がしいな」
揺れる視界の中、真神組最後の一人がこちらに来るのが見えた。
「大体、そんなことしてどうすんだよ? 独り身の惨めさが身にしみるだけだぞ?」
「うっさいわねっ! それはあんたも同じでしょうがっ!」
龍麻から手を離し、きっとアン子は京一を睨みつける。しかしそこにあったのは、余裕げに笑う京一の姿。
「はっはっは。いくら吼えても所詮は負け犬の遠吠えっ。全然こたえねぇなぁ」
「……って、まさか。京一、昨日デートだったのっ!?」
驚くアン子。ああ、と納得する小蒔。ほう、と感心する醍醐。龍麻は……何げに葵を見た。向こうもこちらを見ようとしたらしく、視線が重なる。葵は顔を赤らめて視線を逸らした。
(恥ずかしい、か……そりゃ僕も同じだって)
とりあえず気を落ち着かせる。こんなところでアン子に突っ込まれたらあっという間にボロを出しそうだったからだ。
「まぁまぁ、遠野さんも落ち着いて。それより今日は何の用でここへ?」
そして話題をすり替えた。アン子は思い出したように愛用のカメラを持つと龍麻達から距離をとり始める。
「は〜い、そのままそのままっ。動かないでよ〜……はいっ!」
そしてこちらが身構える間もなくシャッターを切った。
「はーいっ、ご協力、ありがとっ」
「おい、なんだよ、今の写真……」
丁寧に頭を下げるアン子。どういうつもりかと京一が言いかけたところで、小蒔の声がそれを遮る。
「あっ、もしかして……卒業アルバムに載せる写真でしょっ!?」
「当ったり〜! やっぱり、こういう日常風景の写真だって、必要じゃない? だからこうして、あたし自ら校内を歩き回ってるってわけ」
得意げにアン子は胸を張る。最後の大仕事ということもあってか、やる気は十分のようだ。愚痴をこぼしつつも色々と考えているらしい。
「うふふ。熱心なのね、アン子ちゃん。でも、編集作業の上に撮影じゃ大変でしょう?」
「まぁね。でも、さっきは一人でって言ったけど、本編集の方はあたし一人じゃないし、こうして写真を撮って歩くのは、いい気晴らしになるからね。それに、アンタ達はやっぱり五人揃ってなくちゃっ。ねっ、龍麻君?」
龍麻は後ろを振り返った。葵達、いつものメンツがそこにいる。今まで、そしてこれからも共に闘う大切な仲間だ。
龍麻が頷くと、アン子は満足そうに笑った。
「ふふっ、そうそう。何となく、こうなる予感はしてたのよ。あの旧校舎の事件の時からねっ。さてと、もう少し他の教室もまわらなきゃっ。それじゃ……良いお年を。じゃあねっ!」
元気よく手など振って、アン子は教室を出て行く。それでもいつもの元気はなかった。やはり無理がたたっているのだろう。
一段落着いたら差し入れでも作って持って行ってやろう、そう思う龍麻だった。
「明日から、学校も休みかぁ」
廊下に出て歩いていると、小蒔がそんな呟きを漏らす。そして何か思い出したような顔になると京一の方を向いた。
「そうだ、京一。今回、補習はないの?」
「どーゆー意味だよ?」
苦い顔で京一が言い返す。だって、と小蒔は悪びれもせずに言った。
「京一が補習だ補習だって騒いでるのを聞かないと、休みだなぁって気がしないんだもん」
「はははっ、京一の補習は最早、定例だからなぁ。ちなみに、俺は今回は呼び出しは食らってないぞ」
醍醐も揃って相づちを打つ。龍麻は一学期のことしか知らないが、どうやら京一の補習は毎年のお約束だったようだ。
「うるせぇなっ! 俺だってねぇよっ!」
苛立たしげに京一は叫んだ。それでも小蒔と醍醐の視線は疑わしげだ。それに怯み、頬を引きつらせながらも
「そう毎度毎度、貴重な休みを潰されてたまるかってんだ。だいたい、休みだってのにわざわざ学校に来たい奴なんて、いるわけ――」
京一は言いかけて口を閉ざした。先程とは違った意味で顔が歪み、そして視線をある一点で止める。
「いや、あいつがいたか……」
京一の視線の先には神出鬼没でおなじみの少女が立っていた。言うまでもなく裏密ミサである。
「あいつって……ミサちゃんのコト? ミサちゃん……休みの日にも学校によく来てるんだ」
呆れ半分で小蒔はこちらへとやって来る裏密へ視線を送っている。
「うふふ〜。部室は霊的環境がいいから〜。それに〜倫理的因果関係
裏密はそう言いながら笑った。霊研の占いは相変わらず繁盛しているようだ。卒業後の進路は安泰といったところか。
「ひーちゃんも悩みがあったら霊研
「その時は頼むよ。で、それよりも。例のあれは、完成したの?」
そう言った途端、裏密のメガネが妖しく光った。その口からはいつもの不気味な笑い声が漏れてくる。表情は何やら楽しそうだ。
「うふふ〜。後は最終調整を残すのみよ〜。それが終わったらテストするから〜、旧校舎の鍵を貸してね〜」
「うん。それにしても、随分と早かったね。もっと時間がかかるのかと思ってたけど」
「本当ならね〜。今回のは〜、あんまり本格的じゃないから〜。もっとしっかりしたのを作るなら〜、材料の選別から儀式の準備〜、その実行まで数ヶ月から〜場合によっては数年かかるわよ〜。でも今回は〜、時間優先だから〜。それでも今までの中では最高の出来だわ〜。アレの使用許可をくれたひーちゃんには感謝〜」
「ま、使い道が他にないしね。うまいこと利用してくれたミサちゃんには感謝」
「出来の方は期待してくれていいわよ〜。それじゃ〜あたし〜は作業に戻るわね〜」
裏密はそのまま去っていく。歩くと言うよりは、立ったまま床の上を滑っていくようにも見えるのだが……まあ、彼女のことだから深くは考えないようにする。
「な、なあ龍麻。お前、裏密に何を作らせているんだ?」
恐る恐るといった感じで醍醐が訊いてきた。今の会話で何か不安になったようだ。京一達を見ると、程度の差こそあるが似たような表情でこちらを見ている。
素直に答えようかと思ったが、止めた。実物はまだ見ていないし、何より成功するか分からないからだ。上手くいけばこれからの戦力になるが、失敗すればただのゴミだ。いや、ゴミの方が幾分マシなシロモノだ。
「完成してからのお楽しみってことで。そのうち見る機会もあるよ」
それだけ言って誤魔化すことにする。腑に落ちないようだったが、醍醐はそれ以上何も言わなかった。裏密に関して深入りしたくなかったのかも知れない。
「さ、それじゃ、そろそろ帰ろう」
これ以上はないと判断して龍麻は皆を促して歩き出す。皆も後に続こうとするが、その中で葵が立ち止まった。
「ねぇ、もしよかったら職員室にも顔を出して行かない? マリア先生や犬神先生には色々とご迷惑もおかけしたし、今年の内にご挨拶くらいしておいた方がいいんじゃないかしら」
「おいおい、マジかよっ!? 自分から説教くらいに行くとは、物好きなヤツめっ」
その提案に真っ先に京一が反論した。彼にとって職員室は鬼門だ。誰にとっても好きこのんで行きたい場所ではないが、特に京一は他の人達よりも苦手意識は大きいだろう。何せ真神の問題児であり、呼び出しの数は両手の指では足りないくらいだという。
「別にボク達、お説教なんてされる覚えはないもんね〜っ。さっ、京一なんて放っておいて早く行こっ」
「はははっ、仕方がない。京一、お前も付き合え。お前は人一倍、迷惑をかけてるんだからな」
京一以外の仲間の反応はそれ程否定的ではない。小蒔はあっさりと、醍醐は苦笑しながらも葵に同意する。もちろん龍麻にもそれを拒む理由はない。
「ちっ……分かったよ。しょうがねぇ。久しぶりに職員室に顔でも出すか」
ただ京一だけが、がっくりと肩を落とした。
一階廊下へと降り、龍麻達は職員室へ向かう。道中、諦めの悪い京一が愚痴をこぼしていたが、誰もそれに取り合おうとはしなかった。京一にしてみれば職員室と言うよりは犬神に会いたくないのだろう。
いい加減に諦めろと言おうとして、龍麻は立ち止まった。声が聞こえたからだ。
「犬神先生の声? それにあれは……」
同じく気付いた葵も呟く。そちらには職員室に行くまでもなく、担任のマリアがいた。そして犬神もだ。ただ、いつもと様子が違う。
「何か言い争っているようだが……?」
醍醐の指摘する通り、何やら言い争っている。雰囲気的にはマリアが一方的に吼えているようだ。
(そういえば、マリア先生の奇妙な態度の正体って、結局分からないままだったっけ)
今までに何度も自分にちょっかいをかけてきたマリアだが、今のところその目的が全く分かっていない。いつだったか犬神は彼女に気を許すなと言った。犬神は彼女の目的を知っているのだろうか。
「へへへ……ちょっと覗いてみようぜ」
「あっ、こら、京一!」
野次馬根性を出した京一を小蒔がたしなめる。醍醐と葵も気になるようではあったが、このようなことには躊躇いがあるのだろう。
しかし今回ばかりは龍麻も気になった。もめている京一と小蒔をそっちのけで、犬神達へと近付く。もちろん、気配を消してだ。
「君ももう、分かっているんだろう? 共に過ごした時間が、君に答えを教えたはずだ」
諭すような口調で、そしていつものやる気なさげな目を真剣なものに変えて犬神はマリアに訴える。
マリアの方は厳しい表情のままでそれに答えようとはしない。一瞬だが困ったような顔をして、犬神はなおも続ける。
「いつまでもつまらない理想に縛られていることはない。君は……君の人生を生きればいい」
「ワタシの人生を……ですって?」
僅かにその声が震えた。今のマリアは龍麻達がよく知る3−Cの担任ではない。かといって龍麻が何度か遭遇した妖女でもなかった。その面は険しく、声には怒りの感情が滲み出ている。
「今さら、そんな勝手なこと言わないでっ! ワタシの答えは、もうとっくに決まってる……これ以上は待てないわ。もう……時間がないのよ……」
「何だか、大変なことになってるみたいだな」
いわゆる男女間の修羅場というのを連想したのか、醍醐は若干退いている。その横で京一は訳知り顔で頷いていた。
「マリアせんせも、まだ焦るような歳じゃねぇと思うけどな」
「歳って……それ、一体どういう解釈
小蒔は呆れ顔を京一に向ける。京一は何やら自信満々に人差し指を立てると皆を見回して
「ズバリ、マリアセンセーは犬神に結婚を迫っている! ……信じたくねぇけど……」
面白くないのか渋面を作る。醍醐はそれで納得したのか唸っていた。しかし葵はその意見に異を唱える。
「そうかしら? そんな感じじゃないような気もするけれど……」
「でも、言われてみればそんな気も……ひーちゃん、どう思う?」
恐らく葵も、今の犬神達が形成している空間を感じ取っているのだろう。小蒔達にはそれが分からないようだ。少なくとも今の犬神達の周囲には、通常の学校における空気は微塵もない。
犬神とマリアは睨み合ったまま動かなくなっている。このまま待っていても新しい情報は得られそうにない。それならこの不快な空間を壊すに限る。龍麻にとっては居心地の悪い空間だ。
「直接確かめるのが、一番手っ取り早いんじゃない?」
「直接って……」
「おい、ちょっと待てひーちゃん――」
小蒔と京一が止めるのも無視して、龍麻は犬神達の方へ歩いていく。もちろん、犬神達はこちらに気付いた。犬神は割と冷静に、マリアは驚きの表情でこちらを見る。
「お前達……どうせ立ち聞きしてたんだろう?」
犬神はちらりと安堵の表情を見せるとこちらを一瞥し、龍麻で視線を止めた。京一達はばつが悪そうにしていてそれに答えようとはしない。
「まぁ、いいだろう。緋勇……お前は、何か訊きたそうだな?」
「まぁ、気になりますから。率直にお訊きしますけど、一体何を言い争ってたんです?」
だが龍麻は犬神に対して苦手意識というものがない。ずばりと先の状況の説明を求めた。犬神は顎に手をやり、何かを考えている。無難な回答を探しているように龍麻には思えた。
「お前達には関係ない……と言い捨てるのは簡単だが、つまらん誤解をされたままじゃ俺もマリア先生も迷惑だ。そうですよね、先生?」
そしてそれをマリアに任せたようだ。厄介ごとを押しつけられ、それでもマリアは教師としての顔を崩さぬよう、言葉を選びながら答える。
「……犬神先生もワタシも、教育者としての誇りを持ってるわ……同じ立場でも、その信念が違えば言い争いになることもある。ミンナが心配するようなコトは何もないわよ」
マリアの答えは龍麻以外の者達が納得するに足るものだった。すでに不穏な空気はもうない。それも言葉に説得力を持たせている。
「ふっ。まぁ、そういうことだ。どうせマリア先生に用があって来たんだろう? 心配しなくとも、邪魔者はすぐに消えるさ。じゃあな」
別に犬神が邪魔なわけではない。挨拶をしておこうというのは何もマリアに限ったものではなかったからだ。それでも勘違いしたのか、それともここにいたくなかったのか。止める間もなく犬神は去っていった。
「ったく、ひーちゃんのおかげで嫌な汗かいちまったぜ」
そんな中で京一は一人安堵の息を漏らすとマリアに目を向ける。
「それよりせんせ、邪魔して悪かったな。大事な話……だったんじゃないの?」
「フフフ、もういいのよ。お互いの信念をぶつけ合って切磋琢磨していくことは、アナタ達生徒だけでなく、ワタシ達教師にとっても大切なコトだと、ワタシは思うわ」
「それじゃあ、さっきのはただの教師同士の話ってだけか」
「な〜んだ。そうだったんだ」
京一も小蒔も拍子抜けしたような顔になった。期待外れとも言うが。マリアは笑いながら龍麻の方を見た。
「でも、突然龍麻クンが来た時は、さすがに驚いたわ。もしかして……ワタシを心配してくれたの?」
「もちろんですよ。マリア先生は僕達にとって大切な先生ですから」
嘘ではないが、別の答えを龍麻は返す。
龍麻が知りたかったのは犬神とマリアの確執の原因であり、自分に干渉してくる理由だ。今更だが、今後に響いてくるならば早い内に手を打つ必要がある。ここに至って予想外の出来事に囚われる余裕は自分達にないのだ。
マリアには龍麻のそんな考えが分かるはずもない。その言葉を素直に受け取ったのか、ありがとうと返してくる。
「ところで、ミンナは何か用事があって来たんでしょう?」
「あっ……でもボク達はただ、マリアセンセーに挨拶しとこうと思っただけだったんだ」
「先生には今年一年、色々とご心配とご迷惑をお掛けしてしまったから、その……お礼を言おうと思っていたんです」
小蒔と葵がかしこまって告げる。そうだったの、とマリアは教師の顔で微笑む。
「ミンナ……ありがとう。その気持ちだけで充分よ。これからも気をつけて……残り少ない高校生活を、有意義にね。それじゃあ、気をつけてお帰りなさい。さよなら、みんな。良いお年を……」
背を向け、職員室の方へと歩いていくマリアへ、葵達は言葉を返している。その中で龍麻だけは何も言わずに去って行く背中を見ていた。
(気のせい、じゃないよね)
今までの彼女から感じられた違和感。そして今日の犬神との会話、その後の自分との何でもないやり取り。
彼女の抱えているものは、どうやら自分が思っている以上に暗く重い。それが原因かどうかは分からないが何故かマリアは自分にこだわっている。別に彼女の恨みを買っているわけではないが、それならば余計に彼女の狙いが分からない。
今考えても仕方ない、そんな事案が更に一つ脳裏に刻まれ、龍麻は無意識のうちに口の端を歪めるのだった。