12月24日。
 桜ヶ丘中央病院――病室。
 目を覚ますと同時に布団をはね除けて、龍麻は上体を起こした。寝間着と、その下の下着が身体にべったりとへばり付いている。寝ている間にかいた汗を吸い、衣服は不快なものでしかなくなっていた。
 荒れた呼吸を整えて、唾を大きく飲み込む。いやに喉が渇いていた。側に置いてあったペットボトルを手に取り、一口含む。それをゆっくりと喉に流し込んで、壁に掛かっている時計を見やる。時間は午前九時を過ぎていた。普段の生活リズムから考えると寝坊であるが、今の自分はまだ入院患者なので関係ない。
 そんな事を考えながら龍麻はベッドから降りた。寝間着を脱ぎ捨て、下着も取り替えて、ラフな格好に着替え終えると、周りにある物を片付け始める。
「よぉ、ひーちゃん」
 そこへ京一の声が聞こえた。ノックもそこそこに病室へ入ってくると、こちらを見て足を止める。器用に片眉だけを上げて、彼は問うた。
「なんか顔色が悪いな。まだ身体の方がおかしいのか?」
「いや、そうじゃないよ。ちょっと夢見が悪くてね……」
「まぁ……あんなことがあった後だしな」
 苦笑する龍麻に、京一はばつが悪そうに頭を掻いた。
 龍麻が何の抵抗もできずに斬られたというのは、仲間達に大きな衝撃を与えた。もちろん、本人だってそうだ。意識を取り戻してから、何度夢に見た事か。
 実はその度に嵯峨野の《力》のお世話になっていたりする。今日は出てこなかったが。
「けど、今日の午後、ようやく退院だってな」
 努めて明るく京一が話題を変えてくる。
「院長先生も、お前の回復力にゃ舌を巻いてたぜ。なんてったって、瀕死の状態で俺達がここに担ぎ込んでから、たった五日で、ほぼ完治しちまったんだからな」
「僕の回復力だけじゃない。先生や葵さん達――治癒の《力》を持つ人達が総出で僕を癒してくれたからだよ」
「香澄さん達も駆けつけてくれたしな。と――まぁ、そんなこたぁ今日の所はどうでもいいさ」
 へへへ、と何やら含んだ笑みを浮かべる京一。
「俺が今日――学校を抜け出してまでここに来たのには、理由ワケがある」
「理由? って、学校フケるほどの理由があるわけ?」
「当然だろ? 今日は何の日だと思ってるんだよ?」
 何気に龍麻は病室に備えてあるカレンダーを見た。12月24日、とある。何の日であるのかは一応知っている。
「クリスマスイブってやつだっけ」
「そうだよ。お前だって、一緒に過ごしたい女の子の一人くらい、いんだろ?」
 そう言われて、頭の中に一人の少女が浮かぶ。何の逡巡もなく、すんなりと浮かんできた少女の顔。だが
「うーん……でも……」
 提案を受け入れるのに抵抗があった。何というか、仕組まれているようで。かと言って、自分から行動する甲斐性はないのが現実である。何せ、イブである事も京一に言われるまでは特に意識していなかったし、家に戻ったら溜まっている家事をやろうなどと考えていたのだから。
「なんだよ。今更、照れることねぇだろ? いいから俺に任せとけって。高校最後のクリスマスを独りで過ごすなんて、そんなの寂しすぎんだろ?」
 しかしそれを知ってか知らずか、京一はお節介をやめる気はないようだった。
「だから、午後までここを動けないお前のために、俺がそのコを、呼び出してやるからよ。ただし――上手くいくかどうかは、お前のここまでの接し方次第だからなっ。さっ、ひーちゃん。誰をデートに誘うんだ?」
 そう言って、ニヤニヤ笑いながら訊ねてくる。それを見ていると、素直に名を告げるのが嫌になってきた。どうせ向こうは確信しているのだ。だから、意地悪をしてやることにする。
「亜里沙」
「そうか、藤咲――だとおっ!?」
 予想通りの反応を見せた。鬼神の如き形相で、しかも何を心配しているのか、何故か蒼い顔。今にも掴みかかってきそうな京一を手で制し、龍麻はクスクスと笑う。
「冗談に決まってるじゃないか。心配しなくても、二人の邪魔をする気はないよ」
 心底安心したように大きな息を京一は吐き出した。
「意地が悪いな、ひーちゃん……で、誰にする? 小蒔か? 高見沢か? 裏密か? 織部姉妹か? マリィか? 本郷か? それともさやかちゃん……実は芙蓉ちゃんとか? それとも大穴でアン子とかマリア先生、エリちゃん――まさか、香澄さんとか沙雪さんか? いくら何でも姉弟ってのは……あぁ、義理だから問題ないのか」
「そっちも随分と意地が悪いんじゃない?」
 約一名を除いて、龍麻が知る限りの女性の名を挙げる京一。そんな彼に、恨めしそうな視線を龍麻は送る。お返しだとばかりに剣聖は笑った。
「ま、冗談はともかくとして、だ。美里でいいんだよな?」
 確認の問いかけに龍麻は答えなかった。この期に及んで照れ臭いのだ。人前で認めるのが。
 京一の方も龍麻の性格は分かっているのか、それ以上の追求はしなかった。呆れたように溜息をついたが。
「まぁ、とにかく呼び出しだけはしてやるよ。しつこいようだけど、たとえ上手くいかなくても、それは俺のせいじゃねぇからなっ。まぁ、がんばれよっ……じゃあなっ」
 言うだけ言うと京一は病室を出て行く。それを見送り、龍麻もまた軽く嘆息するのだった。


 桜ヶ丘中央病院――ロビー。
 患者が退院する時には、医者は喜ぶものである。そして、今後、病院の世話になるような事がないようにと願うものであろう。だが、この病院のヌシは違うらしかった。
「やれやれ――たった五日で退院されてしまうとは。これからまだまだ、可愛がってやろうと思っとったのに。ひひ、残念だねぇ」
「ははは……医者の言葉とは思えませんね。お気持ちだけ受け取っておきます……」
 残念そうな岩山の口調に、龍麻は笑うしかなかった。まあ、普通は病院に長居したいとは思わない。特にこの病院では、だ。何せ産婦人科である。寝間着姿の男子高校生が彷徨くには無理がある場所なのだ。ちなみに退院は午後からだったのだが、別段支障ないという事で午前中に退院できるように岩山が便宜を図ってくれていた。
「まぁ、調子が悪けりゃ、また、いつでもおいで」
「ええ。その時は、またお願いします」
「ひひ、嬉しいことを言ってくれる。社交辞令でなくそんな事を言うのは、お前さんくらいだ。そら、これは退院祝いだ。持っていきな」
 白衣のポケットから、岩山は小さな袋を取り出した。旧校舎でもよく入手する丹系の傷薬が入った袋だ。
「それから、これもな」
 今度は小瓶を一本取り出して龍麻に渡す。
「何です、これ?」
 何かは分かっていた。ただ、問い質さずにはいられなかった。一体何を考えてこの女医師はこれを渡したのだろう。
「今日はせっかくのクリスマスイブだし、若いモンは若いモン同士、精々、楽しんでくるといいさ」
 意味ありげに岩山は、京一以下男性陣が裸足で逃げ出すような笑みを浮かべた。含む物言い、そして渡された小瓶。言いたい事は分かった。そして、呆れた。
「そんな身体であまり無理をするんじゃあないよ。それじゃあ、気を付けてな」
 やはり言うだけ言って、ひひと笑いながら岩山はその巨躯をひるがえす。ロビーには他の患者も見舞客もなく、閑散としていた。そんな中に取り残される少年一人。
「まったく、先生も何を考えてるんだか……」
 肺に溜まった空気を大きく吐き出す。受け取った丹入りの袋と、高校生には多分必要ないであろうドリンクの小瓶を荷物の中に放り込むと、龍麻は一旦帰宅するべく桜ヶ丘を後にした。



 新宿駅西口――ツリー前。
 辺りはいつもの如く人で賑わっている。おまけに今日という日が影響し、気合いの入った服装で行き交う人々が多い。そして、独りよりは二人の割合が、いつもより多いように見受けられた。
 自分が今立っているツリーの下にもそれなりに人出があった。ただ、こちらは自分を含めて独りものばかりだ。何げに様子を窺っていると、時計を気にしたりこまめに携帯のチェックをしているのが分かる。
 つまりは待ち合わせをしている者達ばかりで、自分もその一人なのである。ただ周囲と違うのは、同じような行動をしていないことだろうか。待ち合わせの時間にはまだ早い。わざわざ時間を確認する必要はないのだ。
 それでも待ち人がいつやって来るのかは気になる。来るのはもう少し後と分かっていても目がその姿を求めて右へ左へと動く。
 やがて、人混みの中に目当ての人物を見つけた。黒いロングコートを纏った少年はこちらに気付くと一瞬驚いたような顔をした後、小走りに近付いてくる。
「まさかこんなに早く来てるとは思わなかったよ」
 側に来るなり、龍麻は開口一番そう言った。約束の時間まで約二十分。早いと言えば早い。いや、早すぎる、か。
「ちょっと用事があったから、早めに来ていたの。龍麻だって、まだ時間があるのに早いんじゃない?」
 内心の動揺を抑えつつ葵は微笑みかける。あまりの嬉しさについ早く出てきてしまったなどと言えるわけがなかった。
 龍麻の方はやや照れ臭そうに頬を掻いている。
「こっちも予定、というかすることがあったからね。色々回ってたんだ。まあ、待たせるよりはいいし、早く会いたかった、っていうのもあるんだけど」
 顔に血が上っていくのが分かった。いつ頃からか、龍麻はこういう事をさり気なく口にするようになった。頻繁にではなく、しかも不意打ちなので葵に免疫はまだできていない。
 龍麻のそれが無意識のものであり、指摘すればゆでだこになるであろうことなど、彼女に知る由はないが。
「そ、そう。それより龍麻、身体はもう大丈夫なの?」
 誤魔化すように葵は話題を変えた。龍麻は不思議そうにこちらを見ていたが笑って頷く。
「じゃなきゃ、あの岩山先生が退院なんてさせてくれるわけないじゃないか。通常生活に支障なし、ってお墨付きはもらってるよ。だから大丈夫。心配してくれてありがとう」
「よかった……でも、まさかクリスマスに龍麻が誘ってくれるなんて、私、思ってなくて……しかも病み上がりなのに……本当に、私なんかでよかったの?」
 嬉しいことに間違いはないが、やはり予想外であったのだ。入院中だったこともあるし、龍麻はこういう方面に疎い。今回の件を伝えてくれた京一は「うまくやれよ」とからかうように言ってきたが、実際にどういう意図で誘ってくれたのか分からない。正直、治癒に当たったお礼、とも取れるのである。品川の時もそうだった。あの時は手作り菓子の差し入れだったか。
 だからつい、そんな風に訊いてしまった。だが龍麻は目を瞬かせると、優しい笑みを浮かべる。
「葵以外を誘うって選択肢は、最初からないよ」
 その笑顔と言葉に顔が熱くなり、胸が高鳴った。龍麻の方はそんな自分の状況を知ってか知らずか、照れ臭そうに赤くなった顔を逸らし、また頬を掻く。
「とにかく、ここにいても始まらないし。場所、移動しない?」
 と、ぎこちなく歩き始めた龍麻が止まった。どうしたのかと見ていると
「どこ行こうか……?」
 と心底困ったような声を出す。誘ってくれはしたものの、特に何か計画があったわけではないようだ。
 いつも手際がよく、細かな気配りを見せる龍麻らしくないが、下手に飾らず自然体である龍麻という意味では龍麻らしい反応なのかも知れない。思わず声を出して笑ってしまった。一瞬ふくれるが、龍麻もばつが悪そうに笑う。
「ねぇ、龍麻。向こうに素敵なお店があるの。そこでお茶でも飲んでゆっくり話しましょう」
「え、あ、ちょっと……」
 龍麻の手を取って、葵は以前情報を仕入れた店へと足を進めた。


 新宿駅西口――カフェテラス。
「で、その時のコスモの連中の顔と言ったらもう気の毒なくらいでさ」
「うふふ。それは災難だったわね」
 案内されたカフェテラスで、龍麻は葵と向き合って会話を楽しんでいた。話題はもっぱら仲間達の事だ。入院中の出来事も含まれる。仲間達の個性が個性だけに、話題には事欠かない。
「はぁ……何だか久しぶりに長いこと話したような気がする」
 紅茶を一口して、龍麻は何げに周囲を見回した。他の席もほとんどがカップルで埋まっていて、それぞれが談笑している。
(こういうのも、たまにはいいな)
 基本的に皆で、もしくは独りでのんびりするのが好きな龍麻であったが、一対一でこういう風に楽しむことは今までになく、新鮮な気分を味わっていた。さすがに照れが残るのだが、こればかりは仕方がない。
「でも、話を聞いていると退屈だけはしなかったみたいね」
「見舞いのない日はなかったからね。寂しいと感じる暇はなかったよ」
「みんな、それだけ龍麻のことが心配だったのよ」
「分かってる。ごく一部には、それ以上に余計な心配かけちゃったしね」
 あの時のことを言われたら、龍麻としては謝るしかない。
 龍麻が柳生に斬られてから、こちらは大騒ぎだったらしい。自分が生死の境を彷徨っている間に全ての仲間が病院に駆けつけたという。
 それが終われば見舞いの毎日だ。普通ならば入院中の見舞いは嬉しいものであるが、耐え難かったものもある。それは、あの時の龍麻を知る者達が来た時だ。ある者は本気で怒り、ある者は無言でこちらに圧力をかけ、ある者は涙目で訴える。直接物理的なダメージを与えてくる者もいた。色々な意味で一番痛かったのは、目の前の少女によるものだった。
 もちろん龍麻に弁解の余地はなかったわけで。皆にどれだけ心配をかけたかを知り、あの時は自分を恥じたものだ。
「あ……見て、龍麻。クリスマスツリー……」
 つい数日前の出来事を思い返していると、葵の声が聞こえた。彼女の視線を追うと、電飾などで飾られた街路樹がある。言葉のイメージから想像するものとは少し違うが、ツリーには違いない。それを見ていると、不意に葵が笑い出した。
「私ね……子供の頃、サンタクロースは本当にいるって、ずっと信じていたの。欲しいプレゼントを手紙に書いて、お母さんに渡すと、本当にそれが枕元に置いてあって……うふふ、今思えば、お母さんが手紙を渡していたのは、サンタクロースじゃなくて、お父さんだったのよね」
 葵の思い出話を聞いて、龍麻は自分の過去を頭の中から引き出してみる。自分の時は、物心ついた時には親からもらっていたような気がする。
「サンタ、か。大きくなるにつれてその存在って信じなくなるんだよね」
 親が付き合ってくれるのも、せいぜい小学校中学年までだ。親が欲しい物を訊いてきたり、面倒な場合は直接玩具売り場に連れて行って選ばせたりというのが最近のクリスマス事情だろう。
 夢を失うのは寂しいものだが、それが今の世の中というやつだ。
「そうね。でも私は、自分に子供ができたらサンタクロースは本当にいるって、そう教えてしまうような気がするわ。あなたのパパが、あなただけのサンタクロースなのよって」
「あれ。髭を生やした赤ずくめのじゃなくて?」
 夢を大切にしたいという考えじゃないのかと龍麻が首を傾げると、葵は優しく微笑む。
「だって……素敵な夢を運んでくれるのは、いつだって、一番近くで見守ってくれる大切な人だもの。でも……もしかしたら、サンタクロースは本当にいるかも知れない……だって今年、私が一番欲しかったものは……」
「ものは?」
「うふふ、内緒よ」
 そうはぐらかす葵の頬は、僅かに朱が差していた。


 新宿区――新宿通り。
 今の季節、日が落ちるのは早い。カフェテラスでの談笑は時間が経つのを忘れさせ、気付いた時には辺りは薄暗くなっていた。店を出て、特にあてもなく人が溢れる中をぶらぶらと歩いていると、不意に葵が立ち止まった。
「あ、見て、龍麻。あそこのショーウィンドウ」
 言葉に従いそちらを見ると、ガラスの向こうに陳列されているぬいぐるみが目に映る。葵は近付いてそれを見ながら顔を綻ばせていた。
「うふふ、可愛い……クリスマスになると、街も人も、何だか華やかで、見ているだけで、不思議と楽しい気分になれるわ。子供の頃も、この日だけは早く夜になって欲しかった。夜になって、次の朝が来て、枕元のプレゼントを開けるのが、あの頃はとても楽しみだったの」
 楽しい、という思い出は龍麻にもある。街に出る、ということはなかったが、家族で簡単なパーティーをしたりしたし、プレゼントももらえたので、楽しみにしていたものだ。特に「今の実家」に移ってからは、義姉達の性格もあって、毎年が大騒ぎだったのを思い出す。
(あれ……?)
 葵の話を聞きながら、違和感に気付いた。今日この日、自分は何かを忘れているような……考えてみるが思い出せない。
「でも今は……まだまだ、今日という一日が終わって欲しくない……」
 ショーウィンドウを向いたまま、葵は呟いた。その声色が変わったように思えて、龍麻は意識をそちらに戻す。
「だって今日だけは、闘いも《力》のことも、何もかも忘れて、ただの女の子として龍麻の隣にいられるから。ねぇ、これからも私、龍麻の――あなたの隣にいても……いい?」
 背を向けたままの問い。ガラスに映った葵の双眸が、こちらを見ているのが分かった。龍麻は葵に近付いて、その隣に並ぶ。
「いいよ。いや……違うな。いて欲しい。それが、僕の答え」
 正面切って口にするのが恥ずかしく、見るつもりもないショーウィンドウに視線を彷徨わせて、龍麻は答えた。
「今までの辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったこと。それを乗り越えて来れたのはみんなの……葵のお陰だから」
 そこまで言うと、腕に重みがかかった。葵がその頭を預けてきたのだ。香水や整髪料とは違う甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「それは……私にとってもそうよ。私が今まで戦うことができたのは、龍麻がいたから……龍麻がいてくれたら、これからも……」
「うん……」
「あ……そうだわ」
 不意に何か思い出したように葵の頭が離れた。軽くなった腕に物足りなさを感じつつ、龍麻は葵を見る。
「ねぇ、龍麻。ここでちょっと待っていて。すぐ戻ってくるから……」
 照れたように笑って、葵はどこかへと去っていく。止める間もなく、葵は雑踏に紛れてしまった。
 さて、と手持ちぶさたになった龍麻は人の波を見やる。
 平穏な、そしていつもより浮かれた光景がそこにはあった。ある者は談笑しながら、ある者は時間に追われるように、ある者はただ黙々と道を行く。
(この光景が、いつまで続くんだろう)
 今、この街に、この国に、下手をすれば世界をも揺るがしかねない危機が迫っている。それに気付くことなくいつも通りの生活を送る者達を見ながらそんな事を考える。
 知っている者は自分達だけ。そして、現時点でそれに立ち向かえるのも自分達だけ。今思えば、この街に来た時にはここまでのものになるなどとは夢にも思わなかった。
(でも、現実として危機はすぐそこにある)
 龍脈の力をその手にせんとする柳生という名の剣鬼。あの男が動けば確実に、この地は乱れる。今まで以上に多くの血が流れる。
(その時僕は……僕達は……柳生を止められるんだろうか)
 斬られた時のことを思い出すと、この先の戦いに不安が生じる。自分は、大切なものを護れるのか、と。
 自分のことだけならばいい。だが、東京に来て、自分には護りたいものができてしまった。だからこそより一層、東京に来る前に少しかじってきた、オカルトという通常の生活には役に立たない勉強もしたし、柄でもない指揮官という役割も引き受けた。用兵など知っているはずがないので素人なりに色々と調べ、仲間が効率よく戦えるような体制を作り上げた。それらの努力は、なるべく仲間に見せないようにして――見せたら余計な気遣いをさせてしまうから。皆には戦いに専念して欲しかったから。
 途中《暴走》という不安要素をさらしてしまいもしたが、魔人達における自分の位置付けは「戦場にあっては非の打ち所のない不敗の指揮官」で定着していたはずだ。そしてそれは仲間達が安心して戦える一つの要因ともなっていただろう。
 だが今はどうだろう。不意打ちということにしてはあるが、敵に自分を倒すことができる者がいるという事実が仲間達にどれ程の影響を与えているのか。これから起こるであろう最終決戦の時、それが仲間達の士気にどう影響するか。
 今までに「作り上げた自分」が崩れてしまったことで、流れが悪い方向へ決まってしまわなければいいが、そんなことを考えてしまう。
(せっかくのイブに、何を考えてるんだろうね……)
 指揮官らしく、をしてきたせいか、こんな時ですら思考がそっちへと行ってしまう自分を少々恨めしく思った時だった。
「きゃっ……」
 軽い衝撃と小さな悲鳴が自分の意識を現実へと戻す。一人の少女がこちらにぶつかったのだ。どこかの制服を着た、長い黒髪の少女。どことなく暗い――以前出会った嵯峨野とはまた違う暗さというか、陰を持った少女。
「あっ……ご、ごめんなさいっ。あの、あたし……」
「クソッ、待ちやがれっ!」
 ぶつかったことを謝り、何かを言おうとする少女。それを粗野な男の声が遮った。途端、少女の顔が強ばる。
「このアマ……よくもヨシユキをっ!」
「手品みてぇなワザ使いやがって……!」
 続けて何人ものガラの悪い男達がこちらへと駆けてくる。どうやら彼らは、この少女を追っていたらしい。どういう理由かは分からない。男達の言葉から察するに彼女が何かをしたようだが、少なくとも原因は男達にあるように思えた。だから自然と龍麻の身体は少女の前へと進み出る。
「てめぇ、もう逃がさねぇ……ん? なんだぁ、てめぇは? 邪魔するんじゃねぇよ」
 追いついてきた男が龍麻を見て凄む。他の男達もこちらに気付くと、取り囲むように集まってきた。周囲に通行人はいるのだが、面倒ごとを恐れてか誰も介入してこない。
 頭数の差のせいか、男達は余裕の表情で絡んでくる。龍麻の容姿が荒事向きでないのも理由だろう。
「カッコつけやがって……これからデートかい、兄ちゃん」
「ケケケ、ちょうどイイや。テメェもツラ貸しな。このアマ、オメェも――っ!」
 少女に伸ばされた手を、龍麻は無言で叩き落とした。突然の行動に男の顔に驚愕の色が浮かび、その後怒りの赤に染まる。それを無視して龍麻は少女の手を取ると、すぐ側に見えた路地へと向かう。少女は戸惑いながらもついてきた。男達はこちらに逃げる意志がないと見たのか、ニヤニヤ笑いながら同じくついてくる。
(さて、どうしたものかな)
 全員を叩き伏せるのは難しいことではない。が、あまり大きな騒ぎにしたくないのも正直な気持ちだ。なにせ、今の自分は葵を待っている身である。長引くと彼女を巻き込んでしまうかも知れない。できるならここでお引き取り願うのが、自分達にとっても彼らにとっても一番なのだが。
「へへへ、ここならちっと騒いだぐらいじゃ、誰も来やしねぇ。女の前に、まずてめぇからいたぶってやらぁ」
「へっ、憂さ晴らしにゃ、ちょうどいいぜっ!」
「ケケッ、運が悪かったと思って諦めな、兄ちゃん!」
 が、男達はこれから起こるであろうことを期待してか下卑た笑みを浮かべている。どうせ彼らの頭の中には砂にされる自分の姿でも浮かんでいるのだろう。その後は……まあ、この少女に対し、口には出せないことをするのだろうか。
 こういう輩に怪我をさせることに罪悪感は微塵もないが、表立った騒ぎは起こしたくない。不本意ではあるが、龍麻は一番楽な手段をとった。
 いつものように《氣》を練り上げ、それを腕に集める。程なく腕に光が生じた。路地裏という薄暗い場所で、光は強く輝き、男達の目に映る。
 真っ赤に燃えるような、紅い《陰氣》が。
「くっ……」
「なっ、何なんだよ、こいつの《力》は――」
 腕が光るという怪奇現象に男達の間に動揺が広がっていく。恐らく彼らは、同時に奇妙な感覚も感じていることだろう。《陰氣》は人に負に感情を与える。この場合――恐怖だ。
 わざとらしく口の端を歪めて、龍麻はさらに《氣》を練り上げた。燃えるような紅は、文字通り炎と化し、次第に形を変えて鳥の姿を成す。それを見て、男達の緊張は限界に達した。
「人間じゃねぇ……こいつもバケモノだっ!」
「ヒッ……ヒィッ!」
「にっ、逃げろっ!」
 先程までの威勢は微塵もない。不良共は我先にと路地裏から飛び出していった。視覚的な恐怖と、感覚的な恐怖、それが龍麻によってもたらされたのだから、当然の結果と言える。
(これくらいなら、うまくいくんだけどな)
 自分の腕を覆う《陰氣》を消し、龍麻は少女の方を見る。彼女は驚きを隠せないでいたが、こちらに頭を下げた。意外なことに、こちらを怖がっている様子はない。
「あの……助けてくれて、ありがとうございました」
「いや、大事なくて何より。怪我とかはない?」
 自分の見た限りでは問題はないだろうと思いつつも訊いてみる。少女ははい、と頷くと、龍麻をじっと見つめてくる。何か言いたそうな様子で、しばらく躊躇っていたが
「あ……あの……もしかして……あなたは、真神学園の緋勇龍麻くん……?」
 恐る恐る、そう訊ねてきた。
「そうだけど……君は?」
「あのっ、あたし……足立の逢魔ヶ淵高校2年、六道世羅っていいます。あたし、ある人にあなたの話を聞いて、ずっと捜していたんです。あたしと同じ……不思議な《力》を持ってる人だって……あたしの話……聞いてもらえませんか?」
 龍麻の名を知っている者は少なくない。いつの間にやら自分の名はかなり広まっている。原因は武勇伝であったり、女子高生達によるよく分からない情報網からであったり。
 だがこの少女が自分を知っている理由はそうではない。彼女は「あたしと同じ不思議な《力》を持っている人」と言った。つまりは《力》絡みである。それなのに、龍麻は彼女のことを聞いたことはない。
 この東京で龍麻が《力》を持っていることを知っているのは、例外である一般人数名を除いて、基本的に仲間達だけなのである。仲間の知り合いに《力》を持つ者がいるのであれば、それは必ず自分の耳に届く。一方的に相手が自分について知っているのはおかしいのだ。
 彼女の言う「ある人」というのが気になり、龍麻は頷いた。六道と名乗った少女の顔が、ぱっと輝く。どうやら自分の《力》についてかなり悩んでいたようだ。ありがとうございますと六道は頭を下げた。
「ずっと……誰かに聞いて欲しかったんです。ある日突然、この手がさっきのあなたみたいに光りだして……触ってもいないものが、遠くへ移動したりするんです。それに……あたしの中に、誰かが――」
 しかしそれ程語らぬうちに、口を閉ざして俯いてしまう。顔色も悪くなっていた。どうしたのかと声をかけようとした時、六道は顔を上げた。やや無理して作ったであろう笑みを貼り付けて。
「……それじゃ、あたし、もう帰ります。あっ、あたしにあなたのことを教えてくれたあの人に、お礼を言っておいてください。名前を聞きそびれちゃったんですけど、確か、新宿のどこかの高校の人で……そうそう、紅い学生服を着た人でしたっ。それじゃあ、またいずれ……」
 再度一礼して、六道は路地裏から出ていった。それを引き留めようとは思わなかった。六道が出会ったであろう紅い学生服の人というのは間違いなく柳生だろう。だが、恐らく大した情報は得られない。彼女の雰囲気を見ると柳生の協力者というわけではないようだ。《氣》も、多少常人と異なっていたようだが危険な感じは今のところしなかった。
(問題は、柳生が何の目的で彼女に接触して、僕のことを教えたのか、だけど……)
 話から察するに、彼女も《力》の持ち主だ。それを利用しようとしているのだろうか。それにしては悪意も何もなかった。知らぬ間に利用されているのかも知れないが、それならば今ここで考えても仕方がない。
 考えるのを止め、龍麻も路地から人気のある通りへと戻る。
「龍麻――!」
 そこへ自分に呼びかける声が届いた。見ると、ついさっきまで自分達がいたショーウィンドウの前に葵が立っている。軽く手を上げて、龍麻はそちらへと近付く。
「遅くなってごめんなさい。戻ってきたらいなくなってるから、私、びっくりしちゃって……」
「いや、こっちこそごめん。いなくなるつもりはなかったんだけど、ちょっと、ね」
 龍麻は先程あった少女のことを説明した。柳生と接触していたようだったが、そこは一応伏せておく。
「そう……そんなことが……その人も……一緒に闘ってくれる仲間だといいわね。私も、会うのが楽しみだわ」
「そうも言ってられないよ。最終決戦は近い。戦闘経験のない人をいきなり仲間に入れるわけには、ね。よほど戦闘向けの《力》を持っているならともかく、今からの参戦は危険なだけだし。それに、納得するかどうかも分からないしね」
 《力》を持っているから闘わなくてはならない、という理屈はない。自分達は自分達の意志で闘っているのだから。六道という少女が闘いを拒んだところで責めることはできないし、仮に仲間になったとしても、戦えるかどうかは別の話である。
「まあ、縁があればそのうち会えるよ」
「そうね。それじゃあ……そろそろ行きましょう。この辺で、一番綺麗なものが見られる所へ……そこで、龍麻に渡したいものがあるから」
 話を切り上げると、葵はどこか嬉しそうに歩き始めた。



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