「卓越した《力》持つ者と、菩薩眼の天女の間に生を受けしその者を――《黄龍の器》と呼ぶ……。龍麻――俺が何を言いてぇのか分かるか?」
「ええ、分かります」
 浜離宮で、阿師谷伊周が口にした言葉。そして、道心が口にした言葉。
 大地を流れる大いなる《力》――龍脈の恩恵をその身に受ける事ができる唯一の存在。
 黄龍の器と呼ばれるそれが、自分だというのだ。それは理解した。自分の母が菩薩眼であり、父が卓越した《氣》の持ち主であった以上、自分がそれであるのは間違いない。
 だが、それだけだ。龍麻にとってそれは事実ではあるが、それ以上のものではない。
 器であろうとなかろうと、龍麻のする事は変わらないのだから。
「黄龍の……器……それが龍麻くんが背負っている宿星なのね……」
「葵!? どうしたのっ!?」
「分からない……でも、体が熱い……」
 呟いた葵に目を向け――小蒔が驚きの声を上げた。葵の様子がおかしい。自らの身体を抱えるようにしているが、異常なのは身体から発せられる蒼い光だ。分からない、ということは本人の意志ではないのだろう。
「って、オイ、ひーちゃんもかよ?」
「そう、みたいだね」
 龍麻の方にも異変が現れていた。だが葵と違うのは、溢れ出る《氣》が金色の光を放っていることだ。戸惑う葵とは対照的に、龍麻の方は割と平然としている。
(龍山先生が言ってたっけ……僕と葵が出会ったのも因果の輪の内だと思えるって。つまり、器と菩薩眼には何らかの関わりがあるってことか)
「心配するな、嬢ちゃん。菩薩眼が、器に共鳴してるだけだ」
 葵を落ち着かせるように、道心は優しく諭すように言った。
「菩薩眼と黄龍の器……この両者の間には、人の歴史と同じくらい、深い関わりがある。俺たちなどには計り知れぬ太古の記憶が共鳴してるんだ」
「そう……だから……なのね。初めて龍麻に会った時、不思議な懐かしさを覚えたのは」
「あの時に感じた、懐かしさ、温かさは……こういうことだったんだ」
 どちらからともなく、龍麻と葵はお互いを見つめる。
 転校初日、初めて出会った時に感じたあの感覚は、未だ目醒ぬ互いの《宿星》が呼び合っていたのだろう。記憶の共鳴、といっても具体的な情報が出てくるわけではないが、道心が言ったことは、理屈でなく理解できた。
 二人を見て道心はしばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開く。
「龍脈の《力》を得、時代の覇者となり新しい歴史を拓く存在――黄龍の器。龍麻こそが時代に選ばれし者――その、はずだった」
「はずだったぁ? そりゃ一体、どういうことだ?」
 龍麻が黄龍の器であることは今までの話で分かった。しかし道心の物言いは、龍麻が器でありながら、選ばれた者ではないと言っているように聞こえるのだ。
「黄龍の器は、一つの時代に一人――それが、この時代に限って二人――存在しているのよ」
 そう簡潔に答え、道心は龍麻を見やる。
「喩えるなら、龍麻、おめぇは《ひかりの器》だ。そして、もう一人の《陰の器》は最早――黄龍を受け入れるために必要な覚醒の最終段階に入っている。あの男の……凶星の者の手によってな」
 凶星の者――十七年前の、元凶。それが――敵。
「十七年前、中国は客家にある黄龍の穴の活性化を、いち早く察知した奴は、《黄龍の器》たる者を探し出し、己の傀儡として、大陸の龍脈の《力》を得ようとしていた。だが、奴が施した覚醒の法が未完成であった事と、弦麻の犠牲によって、すべては歴史の影に葬られた。天海が上野の地を忌地と偽ってまで厳重に封じたのも、人間如きでは決して制することのできない強大な《力》と、いつか現れる《力》の器によって、徳川の治世が乱されることを、恐れてのことだったんだろうよ」
「けれどそのお陰で、この地は今まで無事だったんですね。何者にも支配されることなく……」
 天海が江戸を呪法都市にした理由。それは徳川の治世を支えるため、そして器の存在を恐れての事だったのだろう。時代の覇者となる存在とは、徳川を滅ぼす存在とも言えるからだ。
 だが、龍脈そのものを利用しようという思惑もあったのではないだろうか。かつて九角との決戦の時、龍麻は九角が徳川と争った理由を聞いた。菩薩眼と器が引き合う存在であるならば、菩薩眼を手に入れ、更に器となるべき存在を取り込むことができたなら、徳川の支配はより強固なものになったはずだ。
 結局、江戸幕府が滅びたところを見ると、それは叶わなかったのであろうが。
「あぁ、そうよ。だが――本物の器が現れた以上、穴はその者を拒みはしまい」
「でも《陰の器》は覚醒の最終段階に入ってるって……多分、僕はまだ、そこまでになってませんよ」
 だからなのだろう。身体が、《力》が、戦いを欲していたのは。自らの《力》をより高めるために《力》を振るう場を欲していたのは。自分の《力》が何であるのか分かった今なら、はっきりと言える。自分はまだ完全に覚醒していない――その途上なのだと。
「未完成の《陽の器》と、完成間近の《陰の器》……どちらが優先されるんです?」
「言ったろう? この時代に限り、二つの器が在ると。前例がねぇんだ。少なくとも記録に残る限りでは、な。それに覚醒の法も、俺たちにはさっぱりだ。多分邪法だ……知ってたところで、使う気はさらさらねぇがな」
 道心は大袈裟に肩をすくめてみせる。
「あの男……あの、修羅の瞳をした男が望むものを、知り得ることができたのは、弦麻の奴だけだった。だが、例えそれが何であろうと止めなきゃならねぇ。たった一人が支配する世界に真の平穏などありはしねぇからな。龍麻……おめぇだってあるはずだろう? てめぇの命に代えても、護りてぇもんがよ……」
「あります」
 龍麻は頷いて、この場にいる仲間達を見渡した。ここにいる者達だけではない。他の仲間達、出会った人々、遠方にある家族と友人――護りたいものが次々と脳裏に浮かぶ。
「あぁ……だったら、てめぇの手で護るしかねぇよな。おめぇには……その《力》があるんだからよ」
「ええ。そのための《力》だと、信じてますから」
 そう言いきる龍麻の肩を、不敵な笑みを浮かべた京一が叩く。
「そうだぜ、ひーちゃん。ここまで来たら、俺達がやるべきコトは、たった一つだ」
「うん。敵は本能寺……じゃなくて、寛永寺にあり、か」
 龍麻は皆を振り返る。京一達に躊躇いはない。すぐにでも戦える、そんな意志に満ちた目を龍麻に返していた。
 とは言え、今すぐ乗り込むつもりはない。最後の決戦である。準備を万全にして乗り込もうと決めていた。
「あぁ、間違いねぇ。だが、決して……無理はするんじゃねぇぞ。あの男は――」
 道心が何か言いかけた時だった。轟音と共に大地が揺れる。
「なっ、何だっ!?」
「地震――!?」
 どこからともなく、何かが割れるような音が聞こえた。それに続いて、揺れが収まる。
「方陣が破られたな。どうやら……客が来たようだ」
 道心は慌てる京一と小蒔を見ながら呟き、舌打ちした。
 何者かが道心の方陣を破った――先程までの地震はその時の反発力が招いたのだろう。
 道心がどれ程の《力》の持ち主かは分からないが、かつて龍脈を巡る闘いに身を置いていた者だ。決して弱くはあるまい。その彼の方陣を破ったとあれば、決して油断できる相手ではなさそうだ。
(この俺の方陣をいとも容易く破りやがった。まさか――?)
「先生、下がっていてください。ここは、俺達で何とかします」
 客の正体に見当を付ける道心だが、それを口にする前に醍醐が進み出る。皆もそれぞれ、自分の得物を準備し、戦闘に備えていた。方陣が破れた影響なのか、それとも敵の放つものか――周囲に《陰氣》が漂い始める。
「そうだな……今、この地を背負ってるのはおめぇらだからな……相手は恐らく人間じゃねぇ。油断するんじゃねぇぞ」
「大丈夫やって、じいちゃん。ここはわいらに任して、奥で酒でも飲みながらのんびり観戦しててやっ」
 これから戦闘だというのに随分と気楽な劉の発言。それを真に受けたわけではないだろうが、道心は龍麻達に背を向けた。
「死ぬなよ、餓鬼共……」
 そう言い残して。
「さってとっ。ほな、そろそろ行こかっ」
「うん」
 こちらに向かってくる気配を察知し、龍麻はそちらを向く。気配を掴んだ者は自分から、龍麻達の動きに気付いた者は、それに倣って注意を向ける。
 やがて彼らの前に姿を見せた敵は――もう二度と相手をする事はないと思っていた存在だった。
 即ち、鬼――

 鬼道衆との闘いが終わってから、鬼という存在は龍麻達から縁遠いものになっていた。
 外法を操り、人を鬼へと変えていた鬼道衆は既になく、外法を使う者もいなくなっていたからだ。だが、現実に鬼は自分達に襲いかかってくる。
「一体、何がどうなってんだっ!? 今更、鬼なんて……タチが悪すぎるぜっ!」
 クトネシリカに《氣》を込めて、京一が皆の気持ちを代弁するように叫ぶ。
「今はそれを言っている場合じゃない! 龍麻、先制・攪乱は任せた!」
「了解」
 醍醐の指示に従い、龍麻が駆けた。雄叫びを上げて向かってくる鬼を前に、怯むことなく立ち向かう。
 先制の一撃――発剄が、鬼の一体を吹き飛ばした。まずは一体、誰もがそう思った。
(……斃せていない?)
 しかし倒れた鬼は、ゆっくりと身を起こす。別に手加減をしたつもりはない。だが鬼はダメージはあるものの、滅びてはいなかった。
 後続の鬼が豪腕を振り上げ、龍麻に襲いかかる。並の人間なら一撃で肉の塊にしてしまうであろうそれを受け流し、手首に、肘に手を添え、相手の重心を崩す。そして、鬼が突っ込んできた勢いをそのまま利用し、それの向かう方向を変えた。
 鬼の身体が一回転し、首から地面へと落ちる。人間なら骨を折って即死――いや、今までに相対してきた鬼でもそうなっていたはずだ。それでも龍麻が投げた鬼は、首を奇妙な方向へ曲げながらも生きていた。
 龍麻は片足を持ち上げ《力》を込める。一気に振り下ろされたそれはあっけなく鬼の頭を踏み砕いた。
「斃せないわけじゃないけど……今までの鬼とは何か違う……みんな、油断しちゃ駄目だ!」
 龍麻の警告――今まで戦ってきた鬼と同じと、どこかで高をくくっていた京一達は気を引き締め直す。
「螺旋掌っ!」
 龍麻は更に前へと出る。何体かの鬼の脇をすり抜け、背後に回って掌法の奥義を繰り出した。
 吹き飛び、地面に転がった鬼達に、京一達が駆け寄り、とどめを刺す。
 葵はいつも通りの援護を、小蒔は技を放った龍麻達の隙をフォローするように、後続の鬼達へ矢を射かけ、牽制する。
「ホント、どうなってるんだよっ。もしかして……まだ鬼道衆が……?」
 次の矢を番えながら、小蒔は疑問を口にしていた。鬼というと鬼道衆。それが龍麻達の中での認識でもあったからだ。
「いや、それはないで」
 前線を抜けてきた鬼を斬り斃し、それに答えたのは劉だった。
「あんたらが斃した、あの鬼道衆ってえ奴らは、鬼道ちゅう呪法を使うて、人間を鬼に変えおった。人間には、陽の象徴である魂と陰の象徴である魄の二つが、均等のバランスを保って肉体の中に宿ってるんや。鬼道っちゅうんは、この魄の部分を肥大化させ、魂の部分――つまり、人間の人間らしい部分を追い出し、代わりに怨念の固まりの如き悪霊をこの部分に植え付ける呪法や。怨念の固まりと化したそれは、最早人間の姿を留めてはおれんようになる」
「それが……今までに私達が闘ってきた鬼の正体なのね」
 前線を気にしながら、葵は呟く。龍麻達の方は、鬼が手強くなっているとはいえ、危なげなく戦っていた。これ以上の支援も、必要あるまい。
「そうや。せやけど、あんたら――五色不動を封印しおったやろ? 五色の鬼の護りによって、鬼道の材料となる怨霊共は、もうこの地には入ってこれんはずなんや」
 材料がない。それは鬼道を使って人を鬼に変えることができないことを意味する。五色の方陣がある以上、新たな怨霊は呼び込めない。方陣の内側に残った怨霊を使うしかないのだろう。
 だがそれ以前に、鬼道を使う者はもういないはずだ。九角は完全に滅びたのだから。今更、残党がどうこうという線は薄い。
 そして何より
「劉くん……どうしてそのことを知ってるの?」
「そうだよっ。鬼道衆との闘いのコトだって……」
 それが疑問だった。鬼道衆との闘いのさなか、葵は一度、劉と顔を合わせてはいるが、彼があの闘いそのものに関わっている様子は見られなかった。それなのに何故、劉がそこまで知っているのか。それから池袋の件で出会うまでの間、劉は何をやっていたのだろうか。
 問いには答えず、劉は顔を背けた。追求したいのは山々だが、今は戦闘中だ。葵と小蒔は、戦場に意識を戻す。
「雄矢! 後、何体!?」
「残り三体――いや、一体だ!」
 視界の端に、京一の斬撃で首と胴が離れた鬼が見えた。問いかけに醍醐はそう答えて、目の前にいた鬼へと両の拳を振り下ろす。戦鎚の如き一撃を頭部に受け、鬼の身体が沈む。低くなった鬼の身体を、醍醐はそのまま抱え込み、跳んだ。
「うりゃあぁぁぁっ!」
 自らの体重を加え、そのまま脳天から地面に叩き付ける。さすがの鬼もそれに耐えきれず、頭を半ば地面に埋没させるようにして、身体を痙攣させている。
 今のようなプロレスの大技など、実戦ではとても使えたものではないが、威力としては申し分ないし、醍醐にとっては得意分野である。敵の数が少なければそれも可能だ。
「っしゃあっ! 次でラストっ!」
 最後の鬼を視界に捉え、京一はそちらへと走る。これで片が付く、そう思った龍麻達はそれに続かずにその場へと留まった。
 だが京一が相手をするよりも早く
「猪鹿蝶・紫雷っ!」
「はっ!」
 横手から走った雷光が鬼を貫き、続いて現れた天女が、舞とともに鬼を打ち砕いた。
 突然の乱入者に龍麻達は驚く。劉は初見だったが、鬼を斃したのは昨日から仲間に加わった村雨と芙蓉だったのだ。その後ろには、例の如く扇子で口元を隠して、何事もないかのように歩いてくる御門の姿もある。
「どうやら、無事だったみたいだな、先生」
「龍麻様、お怪我は御座いませんか?」
「え、ええと……まぁ、無事だけど。それよりも、どうしてみんながこんな所に? どうして僕達がここにいるって……」
「いや、まぁ……色々とあってな」
 村雨は言葉を濁す。まさか秋月の絵に不吉な姿が描かれたからやって来た、などとは言えない。下手なことを言って龍麻達を不安にさせる事はあるまい。それに、まだ嫌な予感は消えていないのだ。
「それより、これは一体何の騒ぎです? どうやら、襲われたようですが」
 崩壊していく鬼をちらりと見て、御門。こちらも絵のことを話題にするつもりはないらしい。ただ現状を把握しようと問いを投げる。
「どうもこうもねぇよ。ジジイの方陣が破られたと思ったら、いきなり鬼の襲撃だ。まぁ、それはそれで片付いたからいいんだけどよ。おい、劉」
 刀を鞘に収め、京一は劉の名を呼ぶ。
「さっきの話の続きだ。お前、何で俺達の闘いのこと知ってんだ? お前一体……何者だ?」
 劉と葵達の会話は彼らにも聞こえていたらしく、京一はまっすぐ劉を見据える。劉は気まずそうにしながら、葵達の時と同じく視線を逸らしたが、やがて観念したのか、龍麻へと首を向けた。
「黙っとったことは……すまんと思うとる。せやけど……今のわいは私怨で闘うてるだけや。それでも……アニキ、わいの話……聞いてくれるか?」
 どこかで似たような状況があったな、と龍麻は思った。つい昨日のこと――浜離宮で秋月が自分の過去について語ってくれた時と同じなのだ。ただ、あの時の秋月と違うのは、彼の目に宿る怯えの色だろう。もし拒絶されたら――そんな不安が見て取れる。
 他の仲間達の目は龍麻に集まっていた。どう答えるのかを気にしている様子はない。ただ一言、龍麻が口にするのを待っているのである。まだ付き合いがほとんどない御門達ですら、龍麻がどう答えるかは分かっていた。
「聞くよ。僕でよければ」
 そして、龍麻は皆の予想通りの言葉を口にする。それを聞いて劉は一瞬安堵の表情を浮かべると、慌てて目を手で覆った。涙ぐんだ声で呟く。
「アニキ……なんや、わい、ほんまに泣けてきたわ。あの人も……きっとええ人やったんやろな。弦麻殿も……」
 弦麻――意外な名が劉の口から出た。それは龍麻の父親の名だ。龍麻はともかく、葵達ですら昨日聞いたばかりだというのに、どうして劉がその名を知っているのか。
 ぐいと袖で目を拭って、劉は再び龍麻へ向き直る。
「……なぁ、アニキ。わいとあんたは、ずーっと昔に一度、会うてるんやで? 十七年前、客家の村で――言うても、同じ場所におったってだけやけどな」
 思えば、池袋の事件の時にも、過去の話題に触れたことがある。その時には、劉が何故自分を知っていたのかと疑問に感じたが、そういう事情らしい。
 龍麻はそれを覚えていない。自分より年下の劉がそれを覚えていることが驚きである。もっとも、劉も人伝に聞いただけ、という可能性もあるが。
「客家……? あの、龍麻の親父さん達が最後に闘った所か?」
「そうや。客家は中国の少数民族の一つで、幾多の戦乱を潜り抜けてきた、剛健弘毅で、誇り高い民族や。そして、十七年前――龍山老師や道心のじいちゃんらと同じく、わいのじいちゃんもまた、弦麻殿と共に、奴と闘った一人や」
 問う醍醐に、劉は誇らしげに答えた。今ここにいる者達の中では、劉は龍麻と並んで過去の件に関わりがある者ということになる。十七年前の闘いの、当事者の血筋という。
 劉の話は続く。
 客家の村が、大陸を支配する《黄龍の穴》を護るという重大な意味と使命を持つ場所だということ。地相を始め、八卦碑をかたどった円楼ユアンロウと呼ばれる集合住宅、その入り口の数や方向など、村の至る所にある全てが風水に基づいて造られていること。それが、龍脈の護りをより堅固にするための呪法であること。そして、客家に生を受けた者――客家封龍フォンロンの一族の定めを。
 一生を龍穴の守護に捧げる。今まで長い間、そうやって龍穴を護ってきた劉達の生き方に、龍麻達は驚きを隠せない。日本の龍穴が風水や言霊を駆使して封じられたという話を聞いたときにも驚きはしたが、スケールが違う。風水等の呪法に、より深く通じていたであろう大陸だからこその流れなのかも知れないが。
 ここまでは何かを懐かしむように喋っていた劉。しかし、その表情が不意に暗いものになった。
「そうは言っても、もう――わいが最後の一人やけどな……」
 続いて漏れた声に、皆は息を呑む。何かに耐えるように、俯き、拳を震わせる劉に、声を掛けることのできるものはいなかった。
「一瞬やった……蚩尤旗の出現を予兆する、紅い彗星が空を渡った、あの夜――弦麻殿とじいちゃんらが命懸けで封じたあの岩戸が開き――中から出てきたのは、ほんまもんの剣鬼やった……奴の刀の一振りで、文字通り、村は塵と化したんや。わいを……わいを一人、残してな」
 その当時を思い出したのだろう。劉の身体から、負の気配が滲み出る。大切な者達を喪った悲しみと、それを一瞬で奪った者への恐怖が。強い負の感情に、龍麻と葵は勿論だが、京一達も眉をひそめた。
「……自由を取り戻した奴が目指すのは、次に龍脈の活性化を迎える、この日本やいうことを知ったわいは、迷わずこの地を踏んだ。ただ……復讐のためだけに」
 やがてそれらの感情が、別のものへと変換される。発する声は冷たく凍り、劉はその身に憎しみの光を纏って龍麻達に背を向けた。
「……あんたらと出会うて、ほんまに楽しかった。せやけどわい、こっからはもう、一人で行くことに決めたんや。わいの私怨に、あんたらは巻き込めん」
 劉が直接、怪異に関わったのは、池袋で出会った時だけだったが、それ以外でも彼は色々なところで仲間達との交流を重ねてきた。だからなのだろう。自分が、龍麻達と共に歩むことができないと思ったのは。
 劉の目から見た龍麻達は、この東京を護るため、大切なものを護るために闘っていた。私怨という理由で戦う自分は、龍麻達の側にいるのに相応しくない、そう思ったに違いない。
 だが、劉は勘違いをしている。
「そんな……例え……例え劉クンの目的が復讐でも、ボク達がやろうとしていることは一緒だよっ」
 小蒔が、劉の前に回り込んで言った。目をぱちくりさせる劉の後ろから、京一がその肩を叩き
「あぁ。どっちにしろ、そいつを斃さなきゃならねぇことには変わりねぇ。一緒にやっていけねぇ理由はねぇよ。なぁ、ひーちゃん?」
 仕方のない奴だとばかりに、劉の身体を強引に龍麻へと向ける。
「闘う理由なんて、あまり関係ないよ。それに、劉が闘う理由は、私怨だから、ってだけじゃないでしょ?」
「え……?」
「劉は客家の人間なんだから。龍脈を護るっていう使命を持つ――それ故に龍脈を手中に収めようとしている敵を止めなければならない。そうじゃないの?」
「事情はあんまり飲み込めねぇが……」
 帽子を手に取ってくるくる回しながら、村雨も加わった。
「先生もさっき言ったが、理由なんて関係ねぇだろ。昨日仲間になったばかりの俺たちだって、別に東京を護りてぇから一緒に闘うわけじゃねぇしな」
 東京を護ると言ってはいるが、龍麻達にはそれぞれ護りたいものがあり、そのために闘っているのだ。その結果として東京が護られる、というだけのことである。それが分かりやすいのが皇神組だ。彼らにとっては秋月マサキが第一であり、東京など二の次なのだから。
「あぁ。今更、水くせぇこと言うなってんだよな」
「その通りだ。俺達はもうとっくに、共に闘う約束をしたと思っていたぞ」
「それに私怨だって言っても、仇討ちでしょ? それなら僕だって同じになるし。難しく考えることないんだよ。理由はどうあれ、目的は同じ。僕達は仲間……それだけでいいんじゃない?」
 京一が、醍醐が、龍麻が、次々と言葉を向ける。劉はしばらくの間、呆然としていたが
「アニキ……あんたら……わい、わい……ほんまに嬉しいわ……」
 額に手をやり、天を仰いだ。その声は震え、目尻から涙が零れ落ちる。
 龍麻達は、自分を認めてくれたのだ。何があろうと、共に闘う仲間なのだと。
「あぁ、もうっ、なんて言うていいかわからへんっ。まだまだ不便やな、わいの日本語は……おおきに、アニキ……みんな……謝謝シェシェ……ほんまに……ありがとな……」
 繰り返し、感謝の言葉を口にする。その言葉以上に、彼の気持ちは十分すぎるほど伝わってきた。
「じいちゃんが言うとったことは、やっぱ間違いやなかったんやな。わいとアニキは、共に闘うために出会う……て。わいの名前……弦月の弦は、弦麻殿の一字をもろうたものや。そして月は、その影となり、共にあることの意――この名前はわいの誇りや。せやけど、わいが今共に在るんは親父殿やのうて、アニキ――あんたやからなっ」
 龍麻の名も、弦麻から一文字もらっている。血こそ繋がっていないが、過去の事を考えると、ある意味、兄弟みたいな間柄ということになるだろうか。実際、龍麻にとって、年下の仲間というのはそういう感覚であったりする。
「あらためて……これからもよろしゅう頼むでっ!」
「うん。これからも、よろしく頼むよ……弦月」
 劉の差し出した手を、龍麻はしっかりと握り返した。京一達は何も言わずに龍麻と劉の二人に暖かな眼差しを送っていたが
「一件落着といったところですか」
 パチン、と扇子の鳴る音が響いた。勿論それをしたのは御門である。
「しかし、今は他にすることがあるのではないですか?」
「あぁ、そうだよな。さっきの話の続きだって、まだ済んじゃいないしよ。鬼道衆じゃないってんなら、あの鬼共は、一体何だ?」
 京一も相づちを打ち、話を元に戻す。劉はややわざとらしく咳払いなどして、いつもの通りの表情を作った。
「わいらが今、たたこうたんは、鬼道なんてもんとは次元がちゃう。もっと本質的な《力》の働き……魂魄を分離させることなく、その全てを――陰そのものに塗り替える……」
「なるほど、つまりは龍脈の乱れが産んだ鬼ということですか」
 納得顔で、御門は劉より先に結論を述べた。劉が頷くところを見ると、言いたいことと同じだったようだ。
「えっ……? それって、ボク達が今まで闘ってきた、《力》を持った敵のコトじゃなかったのっ!?」
 ここで驚いたのは小蒔だった。今までに聞いた話で、龍脈の活性化、それに伴う乱れが《力》を誘発するのは知っていた。そして、姿こそ人間であっても《力》を悪用する人間を、龍麻達は敵としてきた。彼らの所業を考えれば、鬼扱いされても仕方ないだろうが、まさか本当の鬼を指すとは思っていなかったのだ。
「強大すぎる能力を持った者を、欲望という名の下に支配するのは容易いことやからな。アニキらが今までに戦うた敵も、そうやったやろ? 火怒呂とか」
「うん。僕が初めて会った《力》持つ敵は、僕の目の前で鬼に変わったし」
 文字通り鬼になってしまった魔人を、龍麻は知っている。莎草覚、彼は龍麻の目の前で鬼になった。自分の《力》を、欲望を暴走させて。
「でも、敵は……それを任意にやれるみたいだね。今回みたいに鬼をけしかけたってことは」
 今思えば、龍麻が拳武館で聞いたあの声も、やはり龍麻を堕とすことが目的だったのだろうか。
「全ては、争乱の下に更なる龍脈の活性化を促すのが目的……そして、その全ての裏にいるのはたった一人の男……凶星の者や。そいつの名は――」
 歯を軋らせ、劉はその名を口にした。
「柳生――柳生宗崇――」
 その瞬間。誰かがその名を反芻するよりも早く、異常が起こった。方陣に迷い込んだ時のように、霧のようなものが発生する。
「何、この霧……!?」
 しかしそれはただの霧ではなかった。《陰氣》だ。紅い光がどこからともなく湧き出し、景色を赤く染め上げていく。
「この赤は……やべぇっ!」
「龍麻様っ!」
 村雨が、芙蓉が、龍麻を見て叫んだ。それが意味するところを、龍麻達が気付くわけがない。周囲を警戒しつつも怪訝な表情を見せる龍麻。その姿が、紅い靄に紛れていく。
「く……っ!」
 懐から符を取り出し、御門は呪を唱えた。この異常が方陣、結界の類だと判断し、それを破ろうとしたのである。事実、この術で御門達は道心の方陣内へと足を踏み入れたのだ。
 だが、彼が何をしたかったのかは誰にも分からなかった――術が、発動しなかったから。
「くっ、一体、何が……!」
「ちくしょぉっ! ――ひーちゃん!」
 醍醐と京一がこちらに向かってくるのが龍麻には見えたが、その姿は途中で消える。京一達の気配も、稀薄になっていった。
「龍麻――!」
 葵の声を最後に、龍麻の側にあった気配の全てが消え去った。

 龍麻は龍麻で、この異常が結界関連であることを悟る。ただ、自分にとってかなり都合の悪い部類であると言えた。
 《陰氣》や負の感情は、感知、感応能力が並外れている龍麻にはかなりの悪影響を与える。正直、今のここは旧校舎の深層並の不快地帯になっていた。そんなだから、下手に周囲の《氣》を探るといった行動もできない。
(どこから仕掛けてくるのかが分からないのは不安だな)
 四神甲の感触を確かめながら、目だけを走らせる。《陰氣》の霧は相変わらずで、視界を悪いものにしていた。視覚だけに頼っていたら、「敵」の攻撃にどうしても出遅れてしまうことになる。どうしたものかと考えようとした、その時だった。
 とす……
 ふと――背中に何かが当たる。それに気付くと同時に龍麻の右胸から何かが生えていた。
(な……いつの間に……!?)
 痛み一つなく、ひんやりとした冷たい金属の感触とともに現れたそれ――日本刀の刃を見て驚愕する。自分を傷つける攻撃を受けたというのに、まるで現実感がない。
「ついに――真実へと辿り着いたか。緋勇龍麻よ――」
 背後から聞こえる、低く、冷たい声。気配も何も感じられず、そこにいるかどうかも疑わしいというのに、その声だけで動きを封じられたような感覚に陥る。
(この声は……あの時の――っ!)
 拳武館で暗殺者達と拳を交えた時に、頭の中に響いた声。それが今、肉声となって龍麻の耳朶を打つ。
「お前は、この世界の新たな時代を担う者。だが、もう遅いのだ。何もかも――な」
 上を向いていた刃が赤い《氣》を纏い、その角度を変えた。抉られた途端、痛覚が総動員されたのではと思える程の強烈な痛みが押し寄せる。
 声が出ない。息と共に真っ赤な血が口から漏れた。ゆっくりと、刀が引き抜かれていく。
「ぐ……!」
 苦痛に耐えながらも背後にいるであろう「敵」に反撃するべく振り返る。
 しかしそれは間違いだった。口から溢れた血が呼吸を遮り、練り上げていた《氣》も途中で霧散してしまう。振り向きはしたものの、龍麻は何もできなかった。ただ、無防備な姿を相手に晒すのみ――
「お前の役目は終わったのだ。安心して眠るがよい。黄泉の国にて待つ、両親の元でな」
 目の前に、紅い学生服を着た男が、刀を片手に立っている。その刃は《陰氣》と、龍麻の血で赤に染まっていた。
 間違いない、この男が――
「や、や……ぎゅ……!」
 ザンッ! 
 左肩から右脇腹にかけて、灼熱が通り抜ける。激痛と共に盛大な血飛沫が舞い、視界を赤く染め上げた。
(殺意も何もない……? そ、そんな馬鹿な……)
 これ程の攻撃を受けたというのに、柳生の敵意は感じられない。まるで物を斬るみたいに……何の感情も持たずに刀を振るった。
(敵とすら認識されてない……そういう、こと……?)
 《力》が次第に増していく自覚はあったし、その《力》が並外れたものであることも分かっている。それでも、それだけの《力》を持っていても、この紅い男にとって自分は、取るに足らない存在だというのか。
(だ、駄目だ……諦めちゃ……こいつを、止め――)
 身体の力が抜け、目が霞んでくる。《氣》の膜すら展開できず、龍麻は周囲の《陰氣》をまともに浴びた。不快な感覚が、気力を根こそぎ奪っていく。
「これで終わるか、緋勇龍麻よ……姿は似ても、この程度とは……興醒めよな」
「ま、まだ……ま――っ!」
 柳生が何を言っているのかは分からない。だが、このまま終わるつもりは毛頭なかった。何とか力を振り絞り、《氣》を練り上げる。龍麻の右拳を金色の光が包んだ。ほう、と柳生は感心したように片眉を上げる。
 しかし、そこから先はなかった。光は消え、龍麻の身体は重力に引かれて地面に受け止められた。
 刀を逆手に持ち、柳生はそれを持ち上げる。それを振り下ろせば、全ては終わる――
「ふっ……まぁいい。ここで死なれても、つまらぬからな」
 役目は終わったなどと言っておきながら、しかし柳生はとどめを刺すことなく、刀を一振りして血糊を払い、鞘に収めた。
 足下に転がった龍麻を一瞥し、独り言ちる。
「これでは満たされぬ……これでは消えぬ……聞こえるか、緋勇龍麻よ。貴様も器ならば、足掻くがいい。あの男のようにな」

 龍麻の意識は、既にない――その命の灯火が今、消えようとしていた。



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