誰もが目の前で起こった出来事を疑った。誰もがその光景を信じたくはなかった。
 紅い霧は、発生後間もなく消えた。一体何だったのかと首を傾げる中、突如現れた紅い学生服の男。その足下に一人の男が横たわっていた。
 緋勇龍麻――黄龍の器としての宿星を背負う彼の周囲は、彼自身が流した血により紅く染まり、更にその範囲を広げていく。
「ひー……ちゃん……?」
 最初に声を出すことに成功したのは小蒔だった。しかし、それ以上の言葉は出ない。
 今までに何度も龍麻は重傷を負っている。夢の世界で左腕が吹き飛んだ事もあれば《暴走》の挙げ句に自分の体を壊した事もある。等々力不動では九角と死闘を演じ、龍山邸での戦いでは事実死にかけた。そんな過去の惨状も、今ここにある現実と比べると生易しく感じられる。
 どうして龍麻は倒れているのか……どうして動かないのか……
 疑問だけが頭を巡り、答えが出てこない。いや、答えを出すことを頭が拒絶していた。
 こんなことがあっていいはずがない、と。
「い……嫌ああぁぁぁぁっ!」
 次に声――悲鳴を上げたのは葵だった。悲しみと絶望が入り交じった声が周囲に響き渡る。それが二人の男を硬直から解き放った。
「てめぇぇぇっ!」
「柳生――!」
 クトネシリカを携えた京一が、斬妖剣を抜いた劉が地を蹴った。仇敵柳生宗崇に向かって走る。
 柳生は相変わらず何を考えているのか分からない表情で立っていた。刀を抜く様子すらない。
「陽炎・細雪ぃぃっ!」
「天吼前刺っ!」
 渾身の力を込めて放たれる二人の技。極限まで高められた《氣》を乗せた刃が、敵を屠らんと繰り出される。
「「な……!?」」
 しかしそれはあっさりと柳生の体を素通りした。何の手応えも感じられないままの武器に目をやり、再び柳生に向き直る京一と劉。柳生の体は次第に霞み、溶けてゆく。
『ふふふ……この程度の幻術すら見抜けぬとは……笑止!』
「てめぇ! 姿を見せろっ!」
 どこからともなく聞こえてくる、響くような声。その姿はどこにも見えない。気配だけが空気に混じったように広がっていく。叫ぶ京一に対して
『その程度で俺に挑むか? 別に構わぬが、そのような暇はあるまい?』
 からかうような口調を最後に、気配は拡散し、完全に消えた。
「ちくしょーっ! 待ちやがれっ!」
「京一! それより龍麻だっ!」
 何処へ消えたのかも分からない柳生を追いかけようとする京一を、醍醐の声が呼び止める。今はそんなことをしている場合ではないのだ。
「龍麻くん……龍麻……龍麻……!」
 うつ伏せに倒れた体を抱き起こし、何度も呼びかけながら、葵は手をかざし《力》を放った。蒼い光が傷口を覆っていく。
 これで一安心、誰もがそう思った――
「「「「「「「「――!?」」」」」」」」
 が、そこまでだった。出血こそ止まったが、傷は塞がらなかったのだ。驚きのあまり集中が途切れ、《力》が消えた途端、再び血が流れ始める。
「そんな……どうして……!?」
 治療を行っている葵自身が一番動揺しただろう。自分の《力》が及ばないのだから。
「な、何でや……?」
 劉が葵の反対側に座って《氣》を高める。その口が呪を紡ぎ
「活剄!」
 憑き物を祓う《力》を放った。僅かながら治癒の効果もある《力》。しかし、一瞬は回復するが、また元通りになってしまう。何度試しても結果は同じ。傷を癒すはずの《力》が、僅かな時間の止血程度にしか役に立たない。
「おい、御門。どうなってんだ、こりゃあ?」
「……どうやら先程の男の攻撃で、陰の《氣》にてられたようですね」
 龍麻の状況を見ながら、東の御棟梁はそう分析する。
「尋常でない《陰氣》が、龍麻さんの傷にまとわりついています。そのせいで陽の《氣》が阻害され、治癒の《力》が及ぶのを阻んでいるようです。まるで呪詛ですね」
「姐さんの《力》でこれじゃ、俺の《力》じゃ焼け石に水か……」
「でしょうね。わたしの術も、これでは意味がないでしょう。何もしないよりはマシ、でしょうが」
 菊に盃、ススキに月の札を手でいじりながら、村雨は苦い顔で龍麻の傷に目をやった。御門も治癒の符を握り締めて同じようにしていたが、龍麻から顔を逸らすと芙蓉に呼びかける。
「芙蓉、至急車の用意を。龍麻さんを病院へ運びます」
 普段ならば即答するはずの彼女からは、何の反応もなかった。
「芙蓉! 急ぎなさい!」
 龍麻の惨状に固まっている芙蓉へ、御門の喝が飛ぶ。慌てて彼女は秘書の姿に戻ると、携帯を使い、どこかへと連絡を始めた。
「ここで最善のことができない以上、できる場所へ移すべきでしょう。醍醐さん、お手数ですが、龍麻さんを頼みます」
「あぁ……そうだな。これ以上は、医者の領分だ……」
 葵の《力》だけでは及ばない。ならば、ここで頼るべき病院はただ一つ。
「行こう、桜ヶ丘へ」
 少しでも負担がかからないように、醍醐はそっと瀕死の龍麻を持ち上げた。



 桜ヶ丘中央病院――ロビー。
 恐らくどのような人間が立ち入っても、その重苦しい空気に気付いただろう。元々、病院は明るい場所ではないが、それでも今のロビーは異界と呼ぶに相応しい場となっている。
 それを形成するのは、言うまでもなく仲間達だ。タイミング悪く掛かってきた幾つかの電話が、ほとんど全員をここへと集めてしまったのである。
 雪乃からの携帯を小蒔が受け、その時点で織部姉妹と、手合わせで織部神社を訪れていた雨紋に凶報が伝わり、雨紋からアランへ連絡が行くと、ちょうど骨董品店に集まっていた残りの四神にもそれが伝わった。
 京一に電話を掛けた藤咲はそのままこちらへ来たが、同じく京一に掛けた霧島から舞園へ伝わり。
 醍醐に電話した紫暮がそれを聞いて、訓練に付き合っていたコスモの三人がそれを知った。
 壬生は龍麻の携帯に掛けたのを、村雨が受けてそのまま伝えてしまったのだ。彼はまだここにはいない。が、来るのは時間の問題だろう。
 裏密だけは、いつの間にやら病院へと姿を見せていた。
 仲間達の表情は暗く、様々な面を作っている。龍麻が重体に陥ったことを悲しむ面。彼にこのような仕打ちをした者へ対する怒りの面。何もできなかったことを悔やむ面等々。大人しく座っている者もいれば、落ち着きなくそわそわしている者、うろうろと動き回っている者もいる。
 ただ、不思議と誰も京一達を責めなかった。その場にいながら何をしていたのか、という思いを持つ者だって、普通ならばいるはずである。溜まった苛立ちを発散させるなら、これ程容易なこともない。
 しかし、誰も京一達を責めなかった。誰も、だ。
 責められるはずがない。自分達はその場にいなかったのだから。関わることすらできなかったのだから。その場で何が起こったのか正確に把握できないのに、何を偉そうに言えるだろう。
 そして何より、現場には最古参の真神の四人がいた。それだけ龍麻と共に長く戦い、実力も最上位に位置する四人。その彼らが何もできなかったという事実。その彼らが干渉する間も与えずに、仲間内で最強の龍麻を僅かな時間で重体に追いやった敵の実力。自分達がその場にいれば、という思いはあったが、自分に何ができたかと考えてしまう。
 それに、一番沈んでいるのは、そこにいながら何もできなかった京一達なのだ。
 病院に担ぎ込まれて三十分。状況に変化はない。


 目の前に光があった。明るく、温かい光だ。それが、次第に遠のいていく。
 それに手を伸ばそうとするが、腕は動かない。身体を妙な感覚が包んでいる。浮遊感――いや、水の中、だろうか。ゆっくりと、落ちていくような、沈んでいくような感覚。
 その光から離れてはいけない、そう何かが訴える。落ち行く先に何があるのかは分からない。ただ、周囲は暗くて、冷たくて、光が離れるにつれ、それが強くなっていくのを感じる。
 再度、手を伸ばそうとする。その光を掴もうと。
 しかし何も変わることはなかった。


 コツコツと、奥から複数の足音が聞こえてくる。ロビーにいた者達は、一斉にそちらへと意識を向けた。
 手術が終わったのだろうか? 龍麻はどうなったのだろうか? 皆の期待と不安が高まるが、姿を見せたのは岩山ではなかった。
「「あ、葵っ!」」
 歩くのがやっと、という感じの葵が、芙蓉に肩を借りているのを見て、小蒔と藤咲が駆け寄る。一緒にいたのは皇神組の御門と村雨、そして劉の三人。少しでも足しになれば、と龍麻の治療に加わっていたのである。芙蓉以外に共通しているのは、疲労に満ちた顔。特に葵は、まるで病気なのではと思えるほどの蒼白い顔をしていた。最初に龍麻を抱き起こした時に付着した血が彼女の服を赤く染め上げ、自身が怪我人であるようにも見える。
「だ、大丈夫……私はまだ……」
 弱々しい声がその口から漏れるが、誰の目から見ても限界は明らかだった。公園からこちら、御門の手配した車の中でも《力》を使い続け、手術にも立ち合っていたのである。このままでは潰れてしまう、そう判断した岩山が、先に彼女を出したのだ。手持ちの符も尽きた御門と、疲労が蓄積している劉、村雨も一緒に。
 現在手術室では、岩山、高見沢、そして駆け付けた舞園が《力》を使った治療を続けている。
「どんな具合だ?」
 皆を代表して、醍醐が問うた。岩山が出てこない以上、処置は済んでいない。それでも状況くらいは知っておきたいのだ。それが、どんな状況であっても。
「厳しいですね」
 御門の回答は、あっさりとしたものだった。焦りも、苛立ちも、何も「感じさせない」ただ淡々と事実だけを述べた、そんな感じだ。
「院長の腕は確かですが……問題は傷が塞がらないことです。右胸の刺し傷は何とかなったのですが、袈裟斬りにやられた方が深刻です。医術と《力》の両方をもってしても、何も進展がありません。柳生の呪詛――なかなかに厄介ですよ」
「そうか……」
「最悪の場合、というのも考えておいた方がいいかも知れませんね」
 やはり淡々と、御門は告げる。それは、こんな時だからこそ皆の耳には酷く冷淡に聞こえ、それが仲間達の神経を逆撫でした。
「ンだとてめぇっ!」
「龍麻くんに限って、そんなことあるわけねぇだろっ!」
 溜まりに溜まった鬱憤が溢れたのだろう。最初に反応したのは雨紋と雪乃だった。得物こそ置いていたが、殺気に満ちた視線を御門に向ける。
「姉様、落ち着いてください!」
「止めるんだ雨紋!」
 雛乃が姉を、如月が後ろから雨紋を抑えにかかる。それに反応して芙蓉が無言で御門の前に進み出た。格好は秘書のままだが、その手には扇が握られている。
「この野郎、黙って聞いてればっ!」
「ひーちゃんが死ぬわけないだろうっ!」
「そうよ! 縁起でもないこと言わないでよねっ!」
「おい、お前ら! 静かにしないかっ!」
「ここは病院デース! 大人しくするネ!」
 続いてそれに触発されたのか、大宇宙組が御門にかみついた。それを紫暮とアランが押し止めにかかる。
 騒ぎを作った元凶は、いつものように扇子で口元を隠し、そんな彼らを冷めた目で見ている。そして、深々と溜息をついた。その態度が、益々雨紋達に油を注ぐ。
 小蒔と藤咲はその態度が気になるようではあったが、葵の介抱に回っていてそちらに干渉する気は今のところないようだ。裏密は何を言うわけでもなくその様子を眺め、マリィは葵の側で今にも泣き出しそうな顔。霧島は修羅場に発展しそうなこの場を見ておろおろしている。
「わたしは可能性を述べたに過ぎませんよ。まあ、頭で湯が沸かせそうなあなた方よりは、現状を把握していますがね」
「ンだとぉ!?」
 歯に衣着せぬ、辛辣な物言いに、雨紋の顔が怒りで更に赤く染まった。如月に抑えられているからいいものの、手を離せば確実に御門を殴るだろう。
「失敗だったかもな……」
「仕方ねぇよ。最初に小蒔が雪乃に教えちまった時点で、こうなることは予想がついただろ。あの時、そこまで気が回らなかった俺達が悪いのさ」
 醍醐と京一は、苦い顔でその騒ぎを見ている。そこへ、入り口の方から一人の男がやってきた。こちらの姿を認め、近付こうとしたようだが、騒ぎを目にして足を止め、眉根を寄せている。
「よぉ、壬生」
 軽く手を挙げて、京一が声をかける。
「何の騒ぎなんだい、これは?」
「まぁ、あれだ……色々とあってな」
 目をよそへやって、京一は言葉を濁す。壬生は黙ってその視線を追い、騒ぎの内容を聞いていたが、納得したのか口を強く結び、鼻から息を漏らした。
「いい加減に止めた方がいいんじゃないか? これじゃ、僕がわざわざ時間を空けて来た意味がなくなってしまう」
「……そうか。気を遣わせたな」
 壬生の考えを読み取り、醍醐も嘆息する。ちらと親友に目を向けると、苦い顔のままで雨紋達を見ていた。本来なら騒ぎに混じっていてもおかしくない彼が大人しいのも、それが及ぼす影響を考慮してのことだろう。ただでさえ今のこの場は異常なのだ。
 壬生の言う通り、このままにしておくわけにもいかない。遠からず、京一の我慢も限界にくるだろう。
 騒ぎを静めようと、醍醐が動こうとしたその時だった。
「今、何と言いました?」
 御門の声が、聞こえた。あれだけ騒がしかったにもかかわらず、それは嫌にはっきりと皆の耳に飛び込んでいた。そして、周囲を一気に沈黙させる。
「今、何と言ったのです?」
 再度、御門は問う。彼の視線の先には雨紋達がいた。どうやら、誰かが御門に何か言ったらしい。
「龍麻さんとの付き合いの短いわたしに、あなた方の気持ちは分からない、と? 彼がどうなろうと、わたしにとってはどうでもいいことなのだろう、とそう言いましたか?」
 御門の長い黒髪が、ふわりと揺れた。半開きにしていた扇子をパチンと閉じて、両の手で握り締める。ミシリ、と何かが軋む音がした。
「ではお聞きしますが、その長い付き合いとやらをしているあなた方は、自分たちが何をしているのかが分かっているのですか?」
 周りの空気の重みが増した。その場にいた者達はそう感じた。それが、目の前にいる白い学生服を着た男の仕業だということはすぐ想像できる。彼の身体から《氣》の光が滲み出ていたからだ。
「龍麻さんにとって、負の感情や《陰氣》が、害にしかならないと承知の上で、あなた方はそうやって、負の感情を《氣》に乗せて撒き散らしているのですか?」
 御門の手にあった扇子が――音を立てて捻り切られた。いつもは冷静な皮肉屋も、今回ばかりは腹に据えかねたとみえる。
「彼のことを心配しているのはともかく、あなた方が彼を余計なことで消耗させていることに、いい加減に気付いてもらえませんかね」
 反論は、なかった。常に前線で戦うタイプの雨紋達が、術者である御門にすっかり気圧されてしまっている。それに、この場にいる者達は、御門が言ったことの意味に気が付いたのだ。龍麻が《陰氣》に、負の感情に過敏であること、それがどういう影響を彼に与えるのか、程度の差はあれ仲間内で知らない者はいない。
「……言ってるわたしが、このようなことをしていては、説得力がありませんがね」
 自嘲気味に笑って、御門は自分の《氣》を抑える。ロビーの雰囲気はほんの少しだけ和らいだが、今までに蓄積された場の空気を思えば、それ程大差はない。
「さて、醍醐さん。我々も、このままというわけにはいかないのではないですか?」
「あぁ……そうだな」
 御門に話を振られた醍醐は、頷いて皆を見回した。
「正直、俺達はここにいない方がいいのだろう。冷静を装ってても、何かのはずみで感情を吐き出しかねない」
 誰に言ったわけでもなかったのだろうが、真っ先に動いた雨紋達は、ばつの悪そうな顔をしている。
「だが、このまま龍麻を置いて、俺達は帰る、というわけにもいかない。あの男が――柳生が、龍麻をこのまま見逃すとも思えんのだ」
 柳生が龍麻を狙っていたのは事実であり、今回は黒幕自ら出向いてきて、龍麻を斬った。それが醍醐達の認識だ。実際、柳生はとどめを刺すことなく立ち去ったわけだが、柳生が龍麻を見逃した、という可能性は醍醐の頭にはなかった。
「だから警護は必要だ。龍麻の治療が終わるまでの間、予想されるであろう敵の襲撃に備えなければならん」
 仲間達に緊張が走る。龍麻をあのようにした敵が、ここへやって来るかも知れない。太刀打ちできるのか、そんな不安が見て取れる。
「そこで、だ。御門、護りの戦いには慣れていると言っていたな」
「まぁ、防戦に関しては、多少の自信はありますが」
「済まないが、指揮を任せていいか?」
 仲間の何人かはそれに驚いたようだった。新参の、よく分からない人間に、自分達の指揮を任せると醍醐は言ったのだ。
「わたしでよければ、ですが」
 ちらりと意味ありげに、御門は雨紋達を見る。彼らは当然、面白くないだろう。わざわざ見るまでもなく、それは感じられた。
「頼む。俺の指揮は攻撃向けでな、護りとなると、どうしても不具合が出る」
「分かりました。お引き受けします」
 扇子を開こうとした御門だったが、先程自分が壊してしまったことに気付く。苦笑してそれを投げ捨てると、彼は少し考えて指示を出した。
「まず四神の方々には、病院の外にそれぞれ待機してもらいます。正確に龍麻さんの手術室を中央に配置できればいいのですが、この際贅沢は言えません」
「……僕たちを使った結界、というわけか」
 言葉の断片から意図を導き出し、如月が納得する。
「四神は黄龍を守る存在、その宿星を最大限に使わせてもらいます。あなた方の《力》を使い、擬似的に四神相応の地を形成する――この病院自体、霊的障壁が存在するようですし、それを更に強力にしようと思います。これで、霊や陰の存在は阻めるはずです。人間は対象外ですが、それは皆さんに任せます。四神の護衛に就いてもらうと同時に、敵の迎撃を。私と芙蓉は、ここで結界の形成と維持を担当します」
「それなら〜、あたし〜は手術室を別の結界で隔離するわね〜」
 ソファから立ち上がって、裏密は言った。どこからともなくマントを取り出して、それを纏う。
「病院が結界で覆われているということは〜、内部に《陰氣》や負の感情が留まるということ〜。だったら〜、それがひーちゃんに届かないようにする必要があるわ〜」
「お任せします」
 具体的な指示を、御門は出さなかった。裏密は無言で頷くと、手術室の方へと歩いていく。
「それでは、編成については醍醐さんに任せます」
「ああ。各員、これから俺が言うように、配置に付いてくれ。まずは北。如月の護衛だが――」


 手術室。
 むせ返るような血の臭いが満ちていた。手術室という場所を考えると不思議でもないはずだが、明らかにここは異常だ。産婦人科にある手術室で行われる手術で、一体どれ程の出血があるというのか。
 だが現実に手術は行われている。手術台に横たわる少年の胸からは、赤い血が今も流れ続けていた。
 普段なら正視できるものではないが、舞園さやかは傷の上に手をかざし、歌を紡ぎ続ける。自分の、自分達の《力》が、彼の生命線であるといっても過言ではないのだ。
 大柄、という表現ですら控えめな体躯の院長が、施術しながら指示を飛ばしている。それに応えるのは栗色の巻き毛をしたもう一人の仲間、高見沢だ。今この場に、普通の人間は一人もいない。院長の岩山、舞園、そして高見沢の《力》を持つ三人だけである。術と平行して医学的な措置も行わねばならないが、それができるのは岩山のみで、その手伝いができるのは高見沢のみ。本来なら数名の助手がつくのだろうが、この病院にいる、他の《力》持つ看護婦達は、早々にリタイアしていた。彼女達に比べて《力》が弱いこともあり、患者の《陰氣》にてられたのである。結果、助手役を一手に引き受けることになった高見沢の負担も並大抵のものではない。《力》を使う事での消耗と、手術の助手という仕事とで、その表情は疲れ切っている。
 大丈夫なのだろうか、と不安がこみ上げてくる。舞園自身、今の状況が未だに信じられないのだ。
 初めて龍麻の戦う姿を見た時のことは今でも鮮明に覚えている。怪我をしているにもかかわらず、不良達をいとも簡単に打ち倒していく彼の姿。現実離れした光景ではあったが、それが龍麻の実力をより強く感じさせた。
 一緒に旧校舎へ潜った時もそうだ。怪我をしていた時以上に、彼は圧倒的な《力》を見せた。恐らく、仲間内でも敵う者はいない。戦いに関しては素人である自分にそう思わせる程の強さ。
 だがその彼が、大きな傷を負い、生死の境を彷徨っている。それが今ここにある現実だ。しかも治癒がほとんど効かない状況。考えたくはないが、最悪の事態というものが嫌でも頭をちらついてしまう。
 そんな考えを振り払うように頭を二、三度振ると、高見沢と目があった。彼女はこちらに笑みを浮かべてみせる。いつもならば場を和ませ、患者の不安すら吹き飛ばしてしまえる高見沢の笑顔も、今はその効力を発揮しなかった。無理をして作った、今にも泣き顔に変わってしまいそうな弱々しい笑みだ。
 彼女自身、相当参っているはずなのに、それでもこちらを気に掛けてくれている。それを思うと、胸が痛い。
 一度頷いて、高見沢は再び治癒に専念し始める。
(考えたって始まらない。今の私にできる事は、これだけだもの。弱気になってる暇なんて、ない!)
 胸元を握り締めて、歌姫は己の《力》をその声に乗せた。自分の《力》が通じることを信じて。


 耳が痛くなるほどの静寂の中、身体は未だに沈む感覚から解放されぬまま。温かな光はもう手の届かない場所にある。
(このままじゃ、駄目なのに……)
 それは理解していた。それでも、抗おうとすると強烈な脱力感に襲われる。動こうとしても身体はいうことを聞かず、口を動かしても声が出ない。何度試みても結果は同じ。何も変わらない――いや、やる気だけが萎れていく。
 どうしてこうなってしまったのか。
 自分に残った最後の記憶――刀を持った、紅い学生服を着た男。それに斬り伏せられたのを思い出した。その途端、今まではなかった別の感覚が生じる。斬られた所と同じ箇所に、激痛が走った。
 呻き声の一つも出そうなものだが、やはり声にならなかった。身体も動かず、声も出せず。何かをしようとするとその度に苦痛が生じ、あの時の絶望感、無力感が繰り返し甦る。
(何をやっても、何も変わらない……それなら、何もしない方がいいのかな……)
 そんなことを考えてしまう。普段なら思い至らない考えだが、不思議と何の抵抗もなく、そう感じた。
(《力》を持ってたって、何もできない……抗ったところで……どうせ、あの男には……)
 考えることすら億劫になる。今更、どうしろというのか。このままでもいいではないか。このままどこまでも墜ちていけば。
(そうだ……もう、僕にできることは、ない……このまま、全てを終わらせたって……)
 しかしその一方で、何かが訴える。本当にこのままでいいのか、と。それは自分の内なる声ではなく、別の者の想いだ。まるで今の自分を咎め、改めさせようとするような。沈みゆく自分を引き留めるような。
 それでも――現状に抗う意志が湧き上がることはない。


 受話器を置く音がロビーに響いた。一瞬の間を置いて、電子音と共にカードが電話機から吐き出される。それを片付け、京一は大きく溜息をついた。拳を強く握り締め、目の前にある壁に、思い切り叩きつける。
 全力を出したわけではない。壁に損傷が生じることはなかった。鈍い痛みに舌打ちし、京一は公衆電話の置かれているテーブルに目をやった。そこにあるのは一つの携帯電話。血にまみれた窓の部分には「実家」と表示され、その下に電話番号が示されている。龍麻の携帯だった。
 最悪の可能性――そんなものを認めたくはない。だがそれを別にしても、龍麻が重体であることは家族に知らせなくてはならない。最初は醍醐がするはずだったが、無理を言って替わってもらったのである。
 かつて龍麻が、自分に《暴走》のことを告白した時、京一は彼に言った。その時は俺が止めてやると。それは単に《暴走》を止めるということではなく、彼を守るという意味合いでの言葉だった。もちろんそれは京一が勝手に決めたことであるし、誰にそれを打ち明けたわけでもない。が、結果として彼は今日、龍麻を守れなかった。何もできなかったのだ。それは他の者達も同じである。同じであるが、京一はそんな自分が許せなかったのだ。
 だから、だろうか。連絡の役を買って出たのは。龍麻の身内にこの事を伝え、自分を裁いて欲しかったのかも知れない。何もできなかった自分を責めて欲しかったのかも知れない。
 ところが、電話の先の反応は見事に期待を裏切ってくれた。龍麻の状況に驚いたようではあったが、謝る京一を叱責するようなことはせず、それどころか気にするなとまで言う。「気に病むことはない、ただ信じてやってくれ」というのが連絡先を伝えた後、恐らく母親であろう女性が最後に言った言葉である。
 拍子抜けした。責められた方がやはり気分的には楽だっただろう。仕方なしに自分の拳を痛めつけてみたが、気が晴れるわけもない。
 とりあえず、自分にできることは限られる。病院の警護、そして言われたように、龍麻を信じて待つことだけだ。
 壁に立て掛けていたクトネシリカを手に取り、京一は自分の分担する場所へと向かうのだった。



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