桜ヶ丘中央病院――東側敷地内。
「ったく、何だよ、あのヤローはっ!」
苛立たしげに、雪乃は薙刀の石突を地面に叩きつけた。布に包まれているとはいえ、それは地面に突き刺さり、土を抉る。
「いきなり出てきたと思ったら縁起でもねぇこと言いやがって!」
「あんまり、あの人の悪口言わんでやってや」
御門に好感どころか悪印象しか持っていない雪乃が、そんなことを言われて黙っているはずはなかったが、それを言った劉の様子を見て、言葉を飲み込む。治療の手伝いによる疲労のせいだろう、誰の目から見ても顔色は悪く、地面に座り込んでいた。それでも劉は、御門を弁護するように言葉を続ける。
「あないなこと言うとったけど、御門はんがアニキの心配しとるのは紛れもない事実や。現場からこの病院へ速やかに搬送できたのも、あの人が手を打ってくれたお陰やしな」
普通に救急車を呼んだところで、救急隊が龍麻の状況を見て、搬送先として桜ヶ丘を選ぶ事はあり得ない。桜ヶ丘は表向きは産婦人科であるし、龍麻の傷も、見た目は普通の裂傷なのだ。京一達が何か言ったところで、救急隊がその意見を汲むはずがない。
御門が車の手配をしていなければ、普通の病院に運ばれ、そのまま手の施しようもなく、龍麻の命は尽きていた可能性もある。
「それにここへ来るまで、ずっと治癒の術を使うてくれた。御門はんがどういう経緯で仲間になったんかとか、あの人にとってアニキがどういう存在なんかは分からんけど、アニキを想う気持ちは、わいらと同じや。だから、ロビーであの人は怒ったんやろ?」
雪乃はまだ何か言いたげだったが、舌打ちして余所を向いてしまった。そんな様子に雛乃は苦笑してしまう。姉が素直でないのはいつものことなので、仕方ないと言えばそれまでだが。
それにしても、と雛乃はこの場にいる者達に視線を走らせた。
金髪の拳銃使いは、こちらに背を向け、建物の方を向いている。恐らくその視線の先には手術室があるのだろう。いつもならば暗い場を払拭するかの如く明るく振る舞う彼も、今日は別人のように静かだ。
同じく金髪を立たせた、最近姉とよくいる槍使いは、ロビーでの剣幕が嘘のようだ。怒りの気配はなく、布にくるまれた槍を、演舞でもするかのように振るっている。それでも、表情には不安が色濃く現れていた。体を動かす事で、余計な事を考えないようにしているのだろう。
こうして皆を見ている自分の顔も、普段とは違うのだろうな、と思う。今の自分の中に渦巻く感情を、どうしても拭い去れずにいた。
「どうしたんや、雛乃はん」
不意に自分を呼ぶ声が聞こえた。立ち上がった劉がこちらへと歩いてくる。
「なんや、気になる事でもあるんかいな?」
雛乃は黙って首を横に振った。劉は怪訝な顔を作ったが、その後で苦笑いを浮かべる。
「アニキの事やったら、心配することないで。岩山センセっちゅう名医もおることやし。それに、あのアニキがそう簡単にくたばるわけあらへん」
「そうだぜ、雛乃サン。龍麻サンが、このままで終わるワケがねぇンだ」
槍を振るのを止め、雨紋もぎこちない笑みを浮かべ、言った。
「大怪我したのだって、一度や二度じゃねぇンだ。今回だってすぐ元気になって、やられた分はやり返すさ」
「だと、いいのですが……」
劉も雨紋も、平然と振る舞っているが、それはどう見ても空元気だ。それが分かっているからこそ、自分も肯定するべきなのだが、しかし雛乃の口から出たのは二人の期待に反する言葉だった。
「おい、雛。お前まで弱気になって、どうすんだよ?」
勢いよく薙刀を突き付け、不機嫌そうな顔を隠そうともせずに雪乃がたしなめる。
「雨紋と劉の言う通りだぜ。龍麻くんが、やられっぱなしで終わるもんか。絶対に助かる! それに、助かってくれないと困る!」
薙刀を引っ込めて、肩を叩きながら、雪乃は鼻息を荒くした。不機嫌そうなのは相変わらずだが、怒っているのではなく、苦笑しているような顔だ。
「出会ってからこっち、オレは一度も龍麻くんに勝ってないんだ。勝ち逃げなんてされたらたまらねぇよ」
「そうだな。龍麻サンとの勝負はともかく、オレ様だって、約束があるンだ。死なれちゃ困る」
「わいだってそうや。アニキに話さないかんこと、話したいこと、まだまだあるしな」
続けて雨紋と劉も自分の都合を持ち出して、肩をすくめる。そして、笑い声を漏らした。
「ま、そういうことや。今は、アニキを信じて待と」
「ええ、そうですね」
姉や、劉の言う通りだ。ここで弱気になっていても仕方ない。気持ちを切り替えるように、雛乃は努めて笑みをを作った。自分の持つ弓に目をやり、周りを見て――気付く。
この場にいたもう一人の仲間であるアラン。彼だけは、こちらの会話に一切加わらず、背を向けたままなのである。彼と親しい雨紋も、そしてウマが合うと言っていた劉ですら、何やら声をかけるのを躊躇っているように見える。ふと、彼の宿星を雛乃は思い出した。
(黄龍を護る存在、四神……やはり、何もできなかった事が口惜しいのでしょうね。でも……)
本当に、それだけなのだろうか。無力であることに自責の念を感じているだけならば、ここまで彼が黙っているだろうか。普段の彼ならば、むしろ明るく振る舞って、それを気取られないようにするくらいのことはやるだろう。
四神の一人の沈黙。それが、雛乃には嫌に不吉なものに感じられた。
手術室前。
扉の前に佇む一人の魔女。どこから持ってきたのか、その前には木で組まれた台座があり、その上に水晶球が安置されている。
端から見るとただ立っているだけに見えるが、今の彼女は決して暇を持て余しているわけではない。御門に言った通り、手術室を更なる結界で覆うだけならば、彼女はここにいる必要はないのだ。
(これって〜、厳しいかも〜)
水晶の反応を見ながら、裏密は独り言ちる。最初は透明だったそれは、内部に異常を見せていた。紅い靄のようなものが生じ、それはゆっくりではあるが確実に色濃くなっていく。
今、裏密が行っているのは、《陰氣》の浄化である。病院内に留まった、そして、手術室内で生じる《陰氣》を、特殊な呪法を施した水晶で吸収しているのだ。結界を張れば《陰氣》は内に留まる。本来ならば、それを浄化する機構が桜ヶ丘の霊的障壁には備わっているのだが、それが追いついていないのである。皮肉な話だが、ここに集まった仲間達は常人に比べて大きな《氣》を持つ。それが裏目に出てしまっているのだ。
手術室は、外部からの《陰氣》を完全に遮断している。病院内の《陰氣》もあらかた片付いた。それで裏密の役目は終わるはずだった。が、状況は芳しくない。《陰氣》は絶えることなく発生し続けているからだ。
原因の一つは、柳生の呪詛だった。龍麻の傷口にまとわりついた《陰氣》は今も治癒を阻害しているのである。何故か衰えることがない。それどころか、強くなっているようにも思える。仮にも陽の《氣》を用いた治癒を行っているのだ。本来なら、干渉して少しは薄らぐはずなのだが。それ程強力な《陰氣》なのか、はたまた他の理由があるのか……。
そして、もう一つの原因は――
「こればっかりは〜、あたし〜達にはどうにもできないのよね〜。本人の問題だもの〜」
透明だった水晶球は、気付くと紅水晶へと変わってしまっていた。時間が経てば、その色は更に濃いものになり、最後には真紅へと変わるのだろう。
「ひーちゃん、しっかりしなきゃ駄目よ〜。いつまでもそんなだと、呪っちゃうぞ〜。あの映像も、皆に流すわよ〜」
裏密は顔を上げ、手術室のドアに向けて物騒なことを言った。心なしか、震える声で。
桜ヶ丘中央病院――北側敷地内。
この場所へ指示を出されて配置についたのは、如月、紫暮、壬生、村雨の四人。いつ来るか分からない敵に備え、建物を背にして周囲に気を配る。現時点では不穏な気配はない。それはそれで喜ぶべきなのだろうが、今まで何もないというのが、気になる点ではあった。
とはいえ、ここで考えて答えの出ることでもない。コキコキと首を鳴らして、村雨はこの場にいる他の者達を見る。一応、自己紹介というか、名乗るだけはした。それからずっとこのまま――何を話すでもなく、厳しい表情で立っている。
夜。しかも12月の夜だ。吹く風も冷たく、病院の敷地内で光源が多くあるわけでもない。無言のまま、ただ待つというのは苦痛だし、気が滅入る。村雨にしてみれば、雑談でもしていたいところなのだが……如月達三人は、元々口数が多い人間ではなかったりする。
「なあ、あんたらは先生とは――緋勇とは長いのか?」
仕方なく、村雨から話しかけることにした。如月達の事はあまり知らないし、会話は龍麻絡みの事に限られてしまうだろう。それでも、黙っているよりは良かろうと思ったのだ。
「そうだな。ここにいる者の中では、俺が一番長いか。5月の下旬頃に、ある事件があってな。それ以来の付き合いだ」
腕を組み、視線は動かさずに、紫暮が答えた。
「まぁ、噂は以前から聞いていたがな。初めて会った時は、少々意外だった。この優男が、あの緋勇龍麻なのか、とな。だが、噂に違わず強い男だった。仲間になってからは《力》の扱いについて色々学ばせてもらったし、何度か手合わせもしたな」
懐かしそうに紫暮は話す。厳つい顔には笑みが浮かんでいた。
「俺はこれくらいか。次は、如月だな」
今度は首を動かし、紫暮は如月に話を振る。ああ、と如月は頷いた。
「僕は港区で起きていた事件を追っている時に龍麻と出会った。あの時は、こうして関わっていくことになるとは、思いもしなかったよ」
「なるほどな。それも宿星の導きってわけだ」
如月の宿星について聞いていた村雨は、面白そうに言った。如月は苦笑いを浮かべる。
「僕には使命があり、それを果たす事だけが全てだった。あの時だって、ただの共闘だったはずなのに、いつの間にかそれが変わっていた。龍麻の宿星に気付いてからは、彼の力になることが当然なんだとさえ思うようになった。宿星が、というのもあるだろうが、何より彼という人間に惹かれたんだろうな」
そこまで語って、如月の表情が曇った。
「だがその割に、僕は肝心な時に彼の側にいない……九角の時も、そして今回もだ。これで四神の一角だとはね……」
「いつも張り付いてるわけにはいかねぇんだ。こればっかりは、な。で、壬生だったか。お前はどういった経緯で仲間になったんだ?」
慰めるように如月に言って、最後の一人に声をかける。壬生はポケットに手を入れたまま、こちらを向いた。
「元々、彼とは一年程前に面識があった。それ以来会うことはなかったが……」
そこで壬生は言葉を止めた。目を閉じ、何かを考えるような仕草を見せ、再び目を開く。
「僕の所属している組織で、トラブルがあってね。その関係で、彼と敵対したんだ」
「よくそれを了承したな。顔見知りを殺そうとするなんて、普通なら断りそうなもんだ」
壬生の表情が動いたのを、村雨は見逃さなかった。自分が彼の所属する組織、拳武館のことを知っているのに驚いたのだろう。
「疑問はあったよ。だけど、抹殺対象になるということは、何かしらの理由があるのかも知れない。そう思う事にしたんだ。あの時点では、そうするしかなかったしね」
少し間を置き、壬生は開き直ったように話す。この場にいる者は村雨を除いて、あの事件に関わった者達だ。知られたところで、構いはしないと判断したのだろう。
「結局、龍麻達が狙われる理由はどこにもなく、副館長派の独断だった。あの件は片付いたし、彼とはそれっきり、のはずだったんだけどね。気が付いたら、彼の力になりたい、そう思っていた」
「ふう、ん。なるほどな」
様々な経緯があるとはいえ、よくも色々な人間が集まったものだと村雨は思う。特に如月と壬生だ。如月は使命とやらに、壬生は拳武館という組織に縛られている。
(そして俺は……か。ま、不器用なんだな)
それは自分とよく似ている。緋勇龍麻という男との出会いによって変わったところまで。それが悪いとは思っていない。如月達にしてもそうだろう。
「そういう村雨は、どうして仲間になろうと思ったんだ?」
今度は如月の方から、問いが投げられた。そう来るとは思っていなかったが、自分から質問したのだ。こういう展開もありだろう。
「あんたらと大差ないさ。事件絡みってやつだ。まぁ、他にも色々あるが、簡単に言えば気に入ったからさ。緋勇龍麻って男がな」
そう、それが偽らざる村雨の気持ちだ。宿星だのなんだのを抜きにして、村雨はほんの僅かな時間しか行動を共にしていない、龍麻という人間が気に入ったのである。
(だから……こんなところでくたばるんじゃねぇぞ、先生よ。あんたには、これからも色々と面白いモンを見せてもらうつもりなんだからな)
胸中で独り言ち、村雨は帽子をかぶり直した。そして、三人を一瞥する。
「それはともかくとして、だ。ちょっとした賭をしねぇか?」
「賭だと? こんな時に、何を言うかと思えば……どうしてそうなる?」
不謹慎な、と考えたのだろうか。突然の提案に鋭い目を紫暮が向けてくる。それは如月とと壬生も同様で、冷たい視線が「何を考えているんだ」と訴えていた。
「まぁ、験担ぎみたいなもんさ。これが俺の《力》でもあるんだが、俺はツキが異常にいいんだ。こう見えても、そのツキだけで先生の攻撃を躱した事だってあるんだぜ」
無理もないと思いつつも、村雨は肩をすくめつつそう説明した。言葉の意味を理解しようと、紫暮は頭を捻っている。その中で、壬生が真っ先に村雨の意図を察したのか、こう言った。
「残念だけど、賭は成立しないよ」
「ほう……そりゃ、どうしてだ?」
「この場にいる全員が、同じ方に賭けるからさ。龍麻が助かる方に、ね」
それを聞いて、残った二人も理解したようだった。一様に、口元を歪める。
つまりは龍麻を賭の対象にして、龍麻が助かる方に村雨が賭けることにより、その《力》をいい方に向ける、ということなのだ。
「冗談でもお断りだ」
「賭を成立させるためとはいえ、龍麻が助からない方に賭けるつもりはないんでね」
当然の返事だった。
空いた病室の一つに、陰陽師とその従者の姿があった。部屋にあったベッドも外に出され、簡単な祭壇が設置されている。部屋の明かりは消されており、部屋の四隅に置かれた燭台に灯る蝋燭が、唯一の光源だ。燭台の間には縄が張られ、幾つもの鈴が符と共に吊り下げられていた。
祭壇の前で呪を紡ぎ、印を切る。一通りの式を終え、ゆっくりと御門は息を吐き出した。
「これでひとまずは、何とかなりますか」
少なくとも、陰を源とする《力》の干渉はこれで察知できるし、大抵のものなら防ぐこともできる。普段なら自信を持って「これでもう、何も気に病むことはない」と言えるのだが、今回ばかりは事情が違った。
(果たして、この結界でどこまで抑えることができますかね……)
胸中で呟く。時間がもっとあるならば、そして、それなりの準備ができれば、今以上の結界を張ることも可能だが、現状ではこれが精一杯なのだ。そして、これが通用するのかと問われると、分からないとしか言えない。
(東の御棟梁などと呼ばれていても、この程度ですか)
と、自らを嘲笑う。
十分な時間を掛けて作った浜離宮の結界にすら敵は干渉し、伊周を結界内に招き入れることになったし、今日の中央公園では、逆にこちらから敵の結界に干渉することはできなかったのだ。それ程の《力》を持つ者が相手では仕方ない、と割り切ることなどできはしない。何もできなかったせいで、龍麻は生死の境を彷徨っているのだから。
どうかしている、と自分でも思う。緋勇龍麻。人の身には重すぎる宿星を背負った者。だがそれはそれで、自分には何の関係もないはずだった。転校生狩りの件で手助けしたのだって、主の命があったからだ。
それなのに――阿師谷の者達との闘いが終わった後、御門は彼の申し出を受けた。目的が違う以上、足引き合うのが関の山だと自分で言ったにもかかわらず、仲間になることを了承した。
(まったく、不思議な人ですよ)
としか言いようがないのだ。行動を共にしたといってもたかだか数時間で、彼という人物をそれ程把握したわけではない。ある程度調べて知っていることと、同行の際に見たものだけが全てだ。それだけで、御門は龍麻という人間に興味を持ったのである。
いや、興味という枠は既に跳び越えているのだろう。でなければ、ロビーの一件で自分はあそこまで取り乱したりはしない。他人のことであそこまで感情を出すことなど、今まで片手で数えられる程しかなかったのだから。
「気付いた時には、ですか……まったく、わたしらしくないですね」
声に出して呟き、御門は部屋にいる芙蓉に目を向けた。普段ならば身じろぎ一つせず、無表情でこちらの言葉を待っているはずの彼女の顔には、見慣れない表情がある。悲しげな、とは違う。どこか辛そうではあったが。
「どうしたのです、芙蓉?」
「いえ……何も……」
訊ねると、返ってきたのは歯切れの悪い言葉だった。昨日に続き、珍しいものを見たと思いつつ、御門は次の問いを投げた。
「龍麻さんのことを考えていたのですか?」
少しして、芙蓉は無言で頷く。それを見て更なる問いを投げた。
「心配ですか? 彼のことが」
「分かりません……」
今度は首を横に振った。
「わたくしには分からないのです。龍麻様をあのようにした柳生に対しては、怒りを覚えます。ただ、あの方が……苦しんでいる。それを思うと、苦しいのです」
所在なげだった手を自らの胸に当て、芙蓉は天井を見上げた。
(それを、心配していると言うのでしょうけどね……今まで感情が稀薄だったぶん、自分の変化に戸惑っているのでしょうが……)
御門が知っている芙蓉の表情は多くない。いつもの無表情、村雨の言動に対して見せる怒りの表情。そして、時折見せる微笑。それがつい先日龍麻と出会ってから、いくつもの新たな表情を見せた。村雨から聞いた話では初めて龍麻と顔を合わせた時には驚いていたらしいし、富岡八幡宮では戸惑いを、中央公園では我を失って呆然としていた。何とも急激な変化である。
それはそれでいいのだが、御門には一つ気になることがあった。
「芙蓉。こんな事を聞くのも何ですが……あなたは、龍麻さんに誰かを重ねているのですか?」
一瞬だが、芙蓉が固まったように見えた。
会ってすぐの人物に対して、芙蓉がここまで態度を軟化させることは、まずない。だからこその疑問だった。
「村雨から、初めて彼に出会った時に、あなたが驚いていたと聞きました。龍麻さんとあなたに接点はない……そうなると、わたしのあずかり知らぬ時、場所での話なのでしょう。あなたは龍麻さんを通して、誰か他の人物を見ていませんか?」
芙蓉の感情が育つことについては、御門はあまり気にしていない。主である秋月が、芙蓉の無感情なところを気に掛けているからだ。ただ、龍麻に対する態度が御門の言った通りの理由によるものならば――
「龍麻様は似ています……わたくしの知っている者に。姿は瓜二つと言ってもよいでしょう」
こちらを見て、芙蓉は答えた。
「ですが、言葉遣いも、雰囲気も、性格も、あの者とは違います。龍麻様に初めて会った時には、あの者が迷い出てきたのではないかとまで思いましたが、あの者は過去の者。龍麻様は今を生きる者に御座います。懐かしさは感じましたが、重ねて見るということは御座いません。それは龍麻様に対しても、あの者に対しても、無礼というもの」
それを聞いて自然と、笑みが浮かぶのが自分でも分かった。それに対し、芙蓉は怪訝な顔を作る。
「何か、おかしな事を言ったでしょうか?」
「いえ、そうではありませんよ。あなたが他人に興味を持つこと、それ自体に興味が湧きましてね。龍麻さんを心配していることもそうですが」
「心配……わたくしが、龍麻様を?」
やはり、自覚しているわけではないようだ。芙蓉は首を傾げ、戸惑いの顔を見せる。
「まぁ、いいでしょう。今のわたしたちの役目は、あの人が戻ってくるまで、この結界を維持することです。ですから――」
その時、室内に涼やかな音が響いた。符の一つが淡く光り、鈴と共に揺れている。
「何者かが《力》を使って干渉してきたようですね」
「しかし晴明様。これは……」
「ええ。敵のものではありませんね」
御門は断言する。符が放つ光は蒼だった。もしも敵が、悪意を持つ者が干渉してきたのならば、符は紅く光るはずなのだ。
「誰なのかは分かりませんが……放置しておいても問題ないでしょう。ひょっとしたら、これが良い方向へ働くかも知れません。とりあえず、様子を見ますか」
揺れる符を見ながら、御門は何も持っていない右手で、扇子を開く仕草をした。
桜ヶ丘中央病院――西側敷地内。
戻ってきた京一から話を聞いてからは、沈黙が続いている。誰一人、口を開こうとはしなかった。ロビー程ではないが、ここも重苦しい空気に満ちている。もっとも、それはこの場所だけに留まらないのであろうが。
それを何とかしたいという考えもあったが、醍醐は気になることがあってそれをせず、思考を巡らせていた。
「なぁ、醍醐。一つ気になってんだけどよ」
そんな彼に声をかける者がいた。
「ひーちゃん、どうして殺されなかったんだろうな?」
「俺もそれを考えていた」
こちらを見ることなく問いかけてくる京一に、そう答えて醍醐は短く息を吐く。
中央公園で龍麻が凶刃に倒れた時、醍醐達は敵の姿を見た。刀を抜きもせず、龍麻の側に立っていた柳生を。
(柳生は刀を抜いてなかった。だがあの時、柳生には龍麻を殺す余裕があったはずだ。首なり心臓なり頭なり、急所を一突きするだけでいい)
京一と劉が攻撃に移るまでにも時間があった。その間にも、殺ろうと思えば殺れたはずなのである。
(あれだけで十分と思ったのか、それとも……殺す気がなかったのか)
そこまで考えて、馬鹿なことだと思った。今まで散々刺客を放っておいて、あの場で見逃す理由がない。少なくとも今の醍醐にはそんな理由は思い付かない。
「ねえ、それってどういうことなのさ?」
「あの時の柳生には、ひーちゃんを殺すことができたってことさ。俺達がひーちゃんと分断されてる間にな。だが、野郎はそれをしなかった」
「あんたらが動いたから、それをする前に退散したってわけじゃないの?」
あの場にいなかった藤咲にしてみてば、危ないところを京一達が助けたと思っていたのだろう。だが京一達が柳生の姿を見た時には、全て終わった後だったのだ。
「そうじゃねぇよ。あいつは……ひーちゃんを斬っておきながらとどめを刺さずに、ご丁寧に結界を解いて、自分の幻を見せつけて消え失せやがったんだ」
忌々しげに京一は吐き捨てた。自分達は柳生に遊ばれたようなものなのだ。
「とどめ云々ってのはまあ、あいつが八剣並に間抜けだったらアリなのかもしれねえけどよ……あり得ねぇよな」
「藤咲も知ってるように、柳生がその気になれば人間一人を肉塊に変えるなど造作もないことだ。八剣の末路を見ただろう?」
醍醐に言われ、藤咲は当時を思い出し――顔色をより一層悪いものに変えた。
「だって、あの時は不意打ちみたいなものだったじゃない。今回の龍麻は、抵抗くらいしたんじゃないの?」
「まあ、そのはずなんだがな……どういう攻防があったかは、俺達には分からんからな」
大きな《氣》の動きは感知されなかった。ただ、これとて結界に阻まれていたからという可能性もある。全てを知るのは当事者のみだ。
「ねえ……ひーちゃん大丈夫だよね?」
今までずっと黙っていた小蒔が、ようやく口を開いた。弓を抱きしめるようにし、沈痛な面持ちで語りかけてくる。龍麻は倒れ、親友の葵も疲労困憊で今はベッドの中だ。彼女の不安も並大抵のものではなかった。
「今までだって、大丈夫だったんだもん。今回だって……大丈夫だよね?」
「当たり前じゃない。あの龍麻よ? こんなところでくたばったりしやしないよ」
「そうそう。俺達は、ひーちゃんを信じて待ってればいいのさ」
皆は言う。龍麻は強い、と。事実、そう思わせるだけのことを龍麻はしてきた。だからこそ信じられる。龍麻がこのまま終わることなどないと。
そうだろう? と、自身に言い聞かせるように、自分達を奮い立たせるように京一は親友に同意を求める。だが、そこで京一が見たのは苦虫を噛み潰したような醍醐の顔だった。何かに耐えるように眉間に皺を寄せ、拳を握り締めている。こちらの声には気付いたようだったが、先の呼びかけに対して肯定はしなかった。何も語らず、ただ顔を背けるようにして別の方を向いてしまう。
「おい、醍醐、どうしたってんだよ? そんなツラしやがって」
「醍醐クン……何かあったの?」
こんな時に、心配ないと言って仲間を励ますのが醍醐という男だ。それなのに今の態度はその正反対――不安を煽るようにしか働かない。
握っていた拳を開き、その大きな掌を額に押し当てる醍醐。彼の口は微かにだが動きを見せていた。声はなく、何と言っているのかは分からないが、何やら自分に言い聞かせているようにも思える。
「マリィがな、泣き止まん……」
再度声をかけようとした京一よりほんの僅か早く、醍醐のうめくような声が聞こえた。
彼が何を言っているのか、即座に理解できる者はいなかった。龍麻のことを話していて、いきなりマリィのことを言われても、何が何やらさっぱりなのだ。
「どゆこと? マリィが、どうかしたの? それに泣いてる、って……どうしてそんなことが分かるのさ、醍醐クン……?」
「俺は白虎で、彼女は朱雀だからな」
返ってきたのは、要領を得ない答えだった。小蒔は首を傾げるが、醍醐はそれを見て疲れた口調で続ける。
「四神同士の、精神感応ってやつらしい。互いの考えていることというか、感情を読み取ることがあるんだ。関わりのある宿星同士だかららしいが、少し前からずっと、マリィの悲しみが伝わってくる。あまりにも強烈でな、だから、泣いていると表現した」
「関わりのある宿星、ってことは、あれかい? 如月やアランもそれを同じように感じてるってことだよね? 何て言うか、悪循環ってヤツ?」
今の醍醐がマリィの悲しみを感じ取っているならば、そういうことなのだろう。ということは、それに心を痛めている醍醐の感情が、他の四神達にも伝わるということであり、同じように如月達が心を痛めればそれがまた跳ね返ってくるということだ。
同情めいた顔をする藤咲に、これまた同じような顔をしかけた京一だったが
「っておい、マリィにはコスモの連中や諸羽がついてるんだぜ? あの連中が、泣いてるマリィをそのまま放っておくわけねぇんだけどな」
「そもそも、どうしてマリィが泣いてるの? そりゃあ、ひーちゃんのこともあるし、葵が寝込んでるってのもあるんだろうけどさ」
と、当然の疑問を口にする京一と小蒔。正義の味方を肩書きにしている彼らが、泣いている少女を放置するはずがないし、霧島にしたってそういうのを放っておけるような人間ではないのだ。
となると、彼らの力が及ばなかったということになるのだが。一体何が、彼女を悲しみの海に沈める要因になったのか。
「あの子、実際はともかくまだ子供だからさ。醍醐達の不安なんかを感じ取っちゃったんじゃないの?」
「発端は醍醐達ってことか? つってもよ、さっきまでタイショーは普通にしてたぜ? 如月は自分を制することくらいやるだろうし、アランだってどっちかと言えば――」
藤咲が立てた予想にそう異を唱えかけて、京一は口を閉ざした。
(四神同士の、精神感応? マリィは朱雀で、他の四神と繋がってて……)
嫌な汗が滲み出てくるのが分かった。醍醐は関わりある宿星同士で繋がっていると言った。ならば……
「おい、醍醐。一つ訊くがよ……四神と関わりある宿星ってのが、あったよな」
その言葉に、醍醐の巨躯が震える。それには構わず、京一は更に一歩踏み込む。
「だったらよ……今のひーちゃんからは、何を感じてんだ? 御門がロビーで言ってたよな? 四神は黄龍を護る存在だってよ。だったら、黄龍の器って宿星を持ってるひーちゃんとも繋がってるんじゃねぇのか?」
醍醐は黙したままだ。京一の問いにも答えない。その態度に疑問は確信へと変わった。醍醐は、四神の連中は、龍麻からも何かを受信していると。
「ここにいる連中は誰だって、多かれ少なかれ不安を抱えてる。マリィだってそれくらいは分かってるはずだ。だったらよ、お前らの不安を感じたくらいでおかしくなるってのは納得いかねぇよ。マリィにしか、四神にしか分からねぇ、別の要因があるんじゃねぇのか? 答えろよ、醍醐……」
鋭い視線が醍醐を射抜く。女性二人も、醍醐が口を開くのを待つ。醍醐は沈黙を守ったままだったが、誰一人として急かすような真似はしなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。十数秒か、数分か、それとも数十分か。
醍醐の口が、ゆっくりと動いた。
桜ヶ丘中央病院――南側敷地内。
その場にいた者達は、一様に衝撃を受けた。それも、今までない程に強烈なやつを。誰もが自分の耳がおかしくなったのではないかと疑い、やがて、それが聞き間違いでないことを認める。ただ、それを信じたくはないというのが共通の想いであった。
その源となった金髪の少女は、俯いたままそこに立っていた。嗚咽の声を漏らし、その度に身体を震わせている。
「ね、ねえ、マリィちゃん……今、何て言ったの?」
タチの悪い冗談、そう思いたかった。本郷が顔を引きつらせながらマリィに尋ねる。
「ああ……いくら何でも、冗談きついぜ」
「そ、そうだぞ。そういうことは、時と場合を考えてだな……」
そう言って、紅井と黒崎も乾いた声を漏らした。
誰もが、彼女の言葉を信じたくはなかった。彼女の口から、冗談だという言葉を聞きたかった。冗談にしてはタチが悪すぎたが、それが現実であることに比べるとはるかにマシだったからだ。
しかしマリィは黙って首を横に振った。長い金髪が揺れ、それに合わせて雫が散る。
「で、でもマリィちゃん。どうして、そんなことが分かるの? みんなが不安になってる時に、そんなことを言うのは――」
「ダッテ! 聞こえるんだモン! 感じるんだモン!」
優しく宥めようとする霧島の声を、マリィの声がかき消した。
「マリィだけじゃない! アランも! 翡翠も! 醍醐も! キット葵オネエチャンも! 龍麻オニイチャンの苦しみは全部伝わってくるんだモン! 悲しみも、恐怖も!」
その音量と、涙を一杯に溜めた瞳に、彼はそれ以上何も言えなくなる。
「だから、分かるの……龍麻オニイチャンが、生きるコトをホウキしようとしてる……」
ここに来てからずっと鬱ぎ込んでいた彼女を励まそうとした年長者達に、マリィが発した言葉。それが、再び紅井達の耳を打つ。
「ずっと前から自分の《力》が恐くて、心が痛くて……敵が恐くて、何もできなかった自分が嫌になって……もう何もしたくないって……」
マリィはその場に座り込み、また俯いて泣き始める。紅井達は顔を見合わせ、顔を顰めるしかなかった。
信じること、それが自分達を苛む不安を振り払う術である。なのに、彼女には一番非情な現実が突き付けられているのだ。助かって欲しい人自身が、助かることを望んでいない――生きる意志を持っていないと知ってしまった。
紅井達にはそれを否定もできる。人伝に聞いたことでしかないのだから。だが彼女は自ら、それを感じ取ってしまっている。他人の言葉より、自分の感覚を信じるだろう。ただ信じろと言われても、それは無理な話だ。自分の感覚を否定できない――それ程に、龍麻から感じるものは激しいのである。
「そうなのかもね」
何もできず、泣いているマリィを見下ろすしかない大宇宙組。その時、霧島が口を開いた。
「僕たちには、マリィちゃんのような感じ方はできない。だから、マリィちゃんがそう言うなら、それは事実なんだろうと思う。こんな時に冗談で言うようなことじゃないし」
ある意味、追い打ちにも思える発言に、マリィが震える。大宇宙組の気配も変わった。それには構わず、霧島は身を低くしてマリィの両肩に手を添える。
「でも。今それを感じてるってことは、龍麻先輩はまだ生きてるってこと。そして、生きてるということは、変わりうるということ。今はマリィちゃんの言う通りなのかも知れない。でも、これからずっと、そうだとは限らない。そうじゃない?」
マリィが泣き腫らした顔を上げた。安心させるように霧島は微笑んでみせる。
「初めて会った時、龍麻先輩はこう言った。自分の住んでる街が、みんながいる街が好きだって。龍麻先輩が今まで戦ってきたのは、それを護るためだったはずだ。今までにだって、辛いことはたくさんあったと思う。でも、先輩は諦めなかっただろ?」
確認するように問いかけてくる霧島に、マリィは鼻をすすりながら首肯した。
「だったら、それを途中で放り出したりはしない。だから信じよう、生きる意志を取り戻すことを。応援しよう、龍麻先輩が自分に打ち克てるように。それは、先輩と繋がっているマリィちゃんにしか、マリィちゃんたちにしかできないことだと思うから」
そこまで言って、霧島は立ち上がる。そして、手を差し出した。
龍麻と四神の精神感応は、互いの危機を知らせる警告めいたものでしかない。考えが全て伝わるわけではないのだ。ただ、彼が何を言わんとしているのかは、分かった。諦めたら、そこで終わりなのだ。
袖で涙を拭い、マリィは霧島の手を取って立ち上がった。表情は完全に晴れたわけではなかったが、もう、泣くことはしなかった。霧島を見上げ、ただ彼女は頷いてみせた。