盛大に布団をはね除ける音が、それと同時に荒い呼吸音が室内に響く。医師が不在の診察室。明かりも消され、カーテンの隙間から入る僅かな光が、そこの簡易ベッドの上に人影を浮かび上がらせる。
 龍麻の治癒に《力》を使い続けた美里葵である。これ以上の《力》の行使は危険だとして、彼女は岩山に手術室から追い出されていた。その後、小蒔と藤咲に少しでもいいから休めと、半ば強制的にこの部屋へと押し込められたのだ。
 龍麻のことが気になって休むどころではなかったが、一度横になってしまうと緊張の糸も切れ、休息を欲する身体があっさりと葵を眠りへと誘った。そこまではよかったのだ。少しでも身体を休めることができれば。
 しかし今の彼女にはそんな余裕はなかった。
「龍麻……」
 弱々しい声が、葵の口から漏れた。ベッドに倒れ込み、呼吸を整えながら額へ手をやる。びっしりと汗が浮かんでいるのが分かった。
 これで何度目になるだろう。何度眠りについても、こうして意識が覚醒してしまうのである。
 彼女の想い人は未だ手術室で治療を受けている。だが、葵は何度も龍麻が死ぬ場面に立ち合っていた。夢という形で。
 眠りに落ちると必ず夢の中で龍麻に出会うのだ。そして、必ず――死ぬ。葵の目の前で。その度に目を覚まし、眠る度に夢を見て、目を覚ます。その繰り返しだ。葵にとっては拷問に近いものがあった。眠るまいとしても身体は休息を欲し、いくら抗おうとも結局は睡魔に負けてしまう。結果、休むどころか消耗していた。
 さらに、自分にかかる苦痛は、何も寝ている時だけに限らない。
 龍麻から伝わってくる、負の感情がそれである。死の淵にいる彼の心が、嫌でも流れ込んでくるのだ。その《力》故に、《宿星》故に、葵はそれから逃れることができない。《陰氣》については裏密が結界で遮断しているはずだが、こちらは防げるものではないらしい。
 自分がこうだということは、恐らく四神もそうなのだろう。そう思うと、義妹のことが気になった。あの子も、私と同じ想いをしているのではないか、と。
 しかし、葵にできることは何もない。傷を癒すための《力》を振るうだけの余力もなければ、義妹を励ます言葉も見つからない。何より自分自身、何かをしようという気力が湧き上がらないのである。
 肉体的な疲労、そして生への意志が失せている龍麻から伝わってくる負の感情による精神的な苦痛。おまけに葵は、龍麻程ではないが仲間達の苦痛まで感じ取っていた。耳を塞いでも目を閉じても、それを拒むことはできない。
 そのうち、睡魔がやって来た。葵の意識は急速に薄れていく。
 そして――彼女はまた悪夢を見ることになるのだ。
 それを防ぐ術はただ一つ。だが、それを可能にする要素は、まだない。


「ご苦労だったな、霧島」
 よくやった、とばかりに紅井が霧島の肩を叩いた。その目はマリィに向けられている。完全に吹っ切れた様子ではないが、それでもただ泣いているよりはマシというものだ。
「まったくだ。オレ達が、もう少ししっかりしてれば、お前の手を煩わせることもなかったんだろうけどな」
 黒崎も、苦笑いを浮かべてマリィの方を見た。当の彼女は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を本郷に拭いてもらっているところだ。
「大丈夫、だけじゃ、絶対に声は届かなかっただろう。よく咄嗟に、あれだけのことが言えたもんだ」
「別に、大したことじゃ」
 照れたように、霧島は頭を掻く。
「僕は思ったことを言っただけです。直接、治癒の手助けができない以上、僕たちには龍麻先輩を信じることしかできませんから。龍麻先輩が、マリィちゃんの言った通りの状況なのは悲しいですけど」
「それはまあ、そうだけどな。信じるしかないだろ、師匠を」
 考えるな、とばかりに紅井は手を振った。それを考えたところで不安を大きくするだけだ。
「今の俺っちたちのすることは、ここを守ることだ。だったら、それに専念するべきだろ」
「そう、ですね……あれ?」
 こちらに人が近付いてくる。距離があり、光源も大きくないのではっきりとは見えない。
「紅井さん、黒崎さん、誰か来ます」
 皆に注意を促している内に、来訪者の姿が外灯に照らされて浮かび上がった。
 年の頃は自分達よりやや上、だろうか。一人はセミロングの黒髪。優しげな顔をした、控えめに見ても美人に分類されるであろう女性。上はハーフコート、下は足首までの長いスカート。もう一人は長い黒髪を後ろで束ねた、気の強そうな、それでもやはり美人の女性。こちらは黒革製のジャンバーに、濃紺のジーンズという服装。
 はっきり言えば、怪しかった。格好がではなく、ここに現れたことが、だ。
 紅井と黒崎が前に出る。その少し後ろに霧島。本郷はマリィと一緒にその後ろへと下がった。
 向こうもこちらに気付いたのか、その場に立ち止まる。怪訝な表情で、ポニーテールの方の女性が問うてきた。
「なに、あんたら?」
「そう言うあんたらこそ、何者だ? ここに何の用だ?」
 眼鏡を指で持ち上げながら、黒崎は問い返した。女性は眉をひそめたが、肩をすくめて、答える。
「ここ、病院だろ? だったら用件なんて一つしかねぇじゃねぇか。見舞いだよ、見舞い」
 その回答を聞いて、紅井と黒崎は顔を見合わせた。互いに頷くと、厳しい顔で女性達に向き直る。
「フッ……下手な言い訳だな。そんなことで、騙されると思っているのか?」
「そうだ! 面会時間はとっくに過ぎてる。それに、ここは産婦人科だ! この時間に産婦人科への見舞い……どう考えたって、不自然だぜ!」
 手にしたバットを突き付ける紅井。来訪者達はそれを聞いて、困惑したようだ。先の紅井達のように顔を見合わせる。
「そう言われても、ねぇ」
「オレ達、そこまで知らねぇもんな。赤毛がここだって言うから来たんだし」
 その言葉に、緊張が走った。赤毛――今の紅井達がその単語から連想するものはたった一つしかないのだ。すなわち、龍麻に凶刃を振るった男。紅い髪の剣鬼、柳生宗崇。
「やっぱり柳生の刺客かっ!」
「真正面から来るとは正直意外だが……」
「ここから先には行かせないわっ!」
 大宇宙組三人が進み出た。スーツは着ていないが、紅井はバット、黒崎はサッカーボール、本郷はリボンと、自分の得物を準備している。その後方では霧島が剣を構え、マリィを護るように立った。
「……あの人達、何か勘違いしてるんじゃ……」
 もう一人のセミロングの女性が、隣の連れに声をかける。するともう一方は何を思ったのか拳を鳴らし始めた。
「みてぇだけど、面倒だ。邪魔するヤツは、叩き潰せばいいだろ?」
「まぁ、それはそうなんだけど……ひょっとしたら、あの子達も――」
 物騒な物言いに同意しつつも、セミロングの女性は何かを言いかける。しかしその前に、紅井達が動いた。
「ここから先は、俺っちたちが一歩も通さないぜっ!」
「いくぞっ、暗殺者共めっ!」
「総司令には指一本触れさせはしないわっ!」
 バットに《氣》を込め、紅井が走った。ボールを女性達に蹴りつけて、それを追うように黒崎も続く。本郷は《氣》こそリボンに通したものの、様子を見るべくその場に留まった。
 光弾と化したボールを、セミロングの女性が無造作に手で払いのける。《氣》の込められたボールである。普通ならばそう簡単に弾くことなどできはしない。一瞬怯むが、男二人は止まらず駆ける。
「女に手を上げるのは気が引けるけどよっ!」
「悪党相手に容赦はしないっ!」
 《氣》を受けて淡く光るバットを、ポニーテールの女性に振り下ろす紅井。黒崎も輝く蹴撃をもう一方のセミロングの女性に繰り出した。相手は特に身構えもせず、その場に立っているだけのように見える。まずはこちらの先制、誰もがそう思っただろう。次の光景を見るまでは。
「う、うそぉっ!?」
 裏返った声で、本郷は叫んだ。それ程に、目の前で起こった出来事は衝撃的だったのだ。
 まず、紅井の一撃は難なく躱された。バッドの一撃は女性の捌きで軌道を修正され、地面を穿つだけにとどまっている。そして、紅井本人はきりもみ状態で宙を舞い、危うい体勢で女性の後ろに落ちた。投げられた、それだけは分かった。
 黒崎の方も攻撃は不発に終わった。こちらは蹴りを掴み取られたのだが、それだけでは終わらなかった。女性は足を掴んだまま黒崎を持ち上げ、地面に叩きつけたのだ。叩きつけられる度に黒崎の口から苦痛の声が漏れる。それを数回繰り返すと、女性は黒崎を本郷達へと放り投げた。無事には見えないが、自力でゆっくりと身を起こすところをみると、命に別状はないようだ。
「……本郷さん、マリィちゃんを頼みます」
「ちょっ……いくら何でも一人じゃ無茶よっ! 今の見てたでしょう!?」
 魂の剣に蒼光を宿らせる霧島を、本郷が慌てて制した。
 紅井達の戦闘力は、仲間達の中で比較すれば低いものの、実戦で通用しないものではない。龍麻達の指導で実力も上がり、旧校舎においても、仲間達と下層に潜っても支障ない程にはなっているのだ。その二人を一蹴した目の前の敵に、一人で立ち向かうのは無謀というものであった。
「見てましたよ。でも、このままじゃまずいでしょう? あの二人、強いですよ。だったら京一先輩達に今の状況を伝えなきゃ。少しでも派手に動けば、先輩達なら気付くはずです」
 正直、一人でどうにかなるとは思っていない。何しろ、相手の実力は未知数だ。それらしい《力》を見せていないのだから。恐らく持っているであろう《力》が振るわれた時、足止めできるかどうか疑わしい。
 だから、できることは限られる。爆音一つでもいい。そうすれば全員、とはいかずとも、何人かはこちらへ来るはずだ。
「ここを突破されたら、病院までは一直線です。通すわけにはいかないっ」
 あらん限りの《氣》を剣に込め、霧島は前に出る。ここで大技を一発放てば、京一達は気付いてくれる。そう考え、それを実行しようとしたその時、別の《氣》が膨れ上がった。
 そちらを見ると、炎を纏った仲間の姿があった。先程まで泣いていた少女ではない。そこにいるのは強い《力》を持つ一人の戦士だ。
 互いに視線を合わせる。それだけで、相手が何を考えているのか理解できた。
 霧島は、蒼剣をマリィの前に掲げた。
「燃えよ我が剣……!」
 声に応じ、マリィが《力》を解き放つ。灼熱が渦を巻き、霧島の剣に巻き付いていった。互いの《氣》が干渉し、炎は勢いを増していく。
「煉獄の炎となって邪悪なる者を焼き払え!」
 刀身を覆った炎が身の丈以上に伸び、紅蓮の刃と化す。舞園のものと同じ、霧島に《力》を付与する性質の方陣技。
「「フレイミング・ソードっ!」」
 裂帛の気合いと共に、紅い軌跡が放たれた。冷たい夜気を吹き飛ばし、猛火が侵入者である女性二人に襲いかかる。盛大な爆音を上げ、それは炸裂し、地を震わせた。
「さすがに、今の一撃だったらそれなりのダメージは――」
「……マダっ!」
 かつて試した時以上の威力を見て、霧島に若干の余裕が戻る。これで無傷のはずがない、そう思わせるに足る出来だった。が、隣の少女はそれを否定した。
 揺らぐ炎が晴れる。その向こうには、相も変わらず佇む人影が二つあったのだ。
「はぁ、びっくりした……」
 セミロングの女性が、両手を前に突き出していた。その前面には蒼く輝く壁がある。《氣》の障壁を展開し、今の一撃を凌いだのだろう。相手にダメージは見られない。ただ、心底驚いたらしく、頬を伝う汗が、残った炎の照り返しを受け、光っている。
「そ、そんなっ!」
 霧島は、目の前の光景が信じられなかった。方陣技である。個人個人の放つ技ではない。複数人の《氣》を増幅して放つ、必殺技とでも言うべきものなのだ。それをたった一人の女性に、完全に防がれてしまったのである。
「凄かったな、今の。普段通りのだったら、まずかったんじゃねぇの?」
「ええ、助かったわ。ありがとう。でも、その子には悪いことをしたかしら」
 肩に手を置いていたポニーテールの女性に応え、セミロングの女性は、相方のもう片方の手を見た。ぐったりとしているとしか形容できない状態の紅井が、首根っこを掴まれている。
「ま、いきなり攻撃仕掛けてきた罰だと思えば安いモンだろ。そんなことより、どうする? こっちだって実戦は初めてなんだ。これ以上大技使われたら、保たねぇよ」
 女性は紅井を放り出して、霧島達を見やった。
「ヤるんなら、とっととケリつけないとな。こっちだって、殺られるわけにはいかねぇんだし」
「そうね……この子を人質にするしかないのかしら。気は乗らないけど」
 セミロングの女性が、足下に転がっている紅井に視線を落とす。困ったような口調だが、その目に躊躇の色はなかった。目的のためには手段を選ばない、そんな目だ。
 しかし、そこで疑問が生じる。彼女達の目的は何であるのか。
 見舞い、と言っていたが、先に紅井が言った通り、こんな夜中に産婦人科へ見舞いに来るのは不自然である。だが、彼女達が龍麻を狙う刺客なのかと考えると、それもおかしいのだ。もしそうであるなら、先の攻防で紅井も黒崎も殺られているだろうし、向こうもここまでのんびりしていないで、早々に行動に移るはずである。
 一体、彼女達の真意はどこにあるのだろうか。
「諸羽、無事かっ!?」
「京一先輩! みなさんっ!」
 そこへ京一の声が飛び込んできた。京一だけではない。全てではないが他の仲間達も一緒だ。先の爆音、あるいは《氣》の高まりを感じ取ってやって来たのだろう。
「状況はどうなってる?」
「え、っと……敵は二人。どちらも女性です。紅井さんと黒崎さんが先制したものの、反撃を受けて戦闘不能。僕とマリィちゃんの方陣技も防がれました」
「そりゃまた……手強い相手だな」
 霧島の説明を聞いて、京一は呟く。方陣技を防ぐなど並の芸当ではない。それだけで相手の強さがうかがえる。京一以下、仲間達の間に、緊迫した空気が広がった。
 一体どんな奴だとその「敵」に視線を移す京一だったが。
「よう、赤毛。いたならさっさと出てこいや」
「蓬莱寺君、お久しぶり」
 意外な人物に、京一はクトネシリカを取り落とした。


 声が聞こえる。自分を呼ぶ声が聞こえる。気のせいかとも思ったが、それは龍麻の耳に届いた。いや、耳に届いたのかどうかは分からない。だが間違いなく、自分を呼んでいる。それだけは確かだ。
(一体、誰の?)
 聞き覚えのある声ではあったが、その主の名が思い出せない。姿も思い浮かばない。ただ、側にいるのだろうと思い、龍麻は意識を自分の目に集中した。目を開く、そんな些細なことですら難儀に感じられる――それが龍麻の現状だったのだ。
 時間をかけて、重たい瞼を開く。閉じていた時と同じく周囲は闇に包まれており、はるか遠くに点のような光があった。いくら手を伸ばそうと、もはや届くこと適わぬ光。最後に見てから、随分と距離が離れたようだ。
 視界に声の主の姿はなかった。
「よう、やっとお目覚めか?」
 姿は見えないが、声は聞こえた。先程よりもはっきりと。声のした方へ首を向ける。目を開いた時以上に重労働だったが、何とか視界を動かすと、そこに在るモノに驚く。
(九角……?)
 姿を見てようやく思い出す。そこにいたのは九角天童だった。初めて会った時と同じく奇妙な学生服姿で、腕など組んで自分を見下ろしている。
「まったく、いいザマだな、緋勇龍麻」
 嘲るような笑みを浮かべ、九角は言った。
「随分な有様じゃねぇか。これが本当に、あの緋勇龍麻かと思っちまう程な」
 龍麻には九角が何を言っているのか分からなかった。自分が一体どうなっているというのか。
「……その様子じゃ、気付いてねぇんだろうな。てめぇがどうなってんのかなんてよ」
 口調が呆れを含んだものに変わった。しかしそう言われても、何が何だか理解できない。現状を理解しようと龍麻は再び気力を振り絞って首を動かす。
(……身体が……ない……?)
 自分の目に、身体は映らなかった。正確には、自分の見知った肉体が見えないという意味だが。
 身体の感覚はある。今そこに存在すると感じ取れる。だが視覚的に自分の身体は存在しなかった。見えるのは、人の輪郭をした煙のようなものだけ。
「自分をしっかり持ってねぇから、自分の姿すら形作ることができねぇでいる。それが今のてめぇだ。何もかも捨てようとしてる今のてめぇにゃお似合いの姿だろうがな……」
 馬鹿にしたようにそう言って――九角は表情を厳しいものに変え、こちらを睨みつけた。
「いつまでこんな所でくすぶってるつもりだ?」


「ど、どうして二人がここに!?」
 目の前にいる女性二人を見て、京一は驚きの声を上げる。いるはずのない人物がここにいる――これが明日のことならば、別段驚きはしなかった。龍麻の実家に連絡をしたのは間違いなく自分だったからだ。しかしその時間を考えると、今ここにいるのは計算が合わないのである。
(まさか、文字通り岡山から飛んできたんじゃねぇだろうな……?)
 まずあり得ない……が万に一つはあるかも知れない。馬鹿なことを考えてしまうが
「ああ、たっちゃんに用があってよ。そんで東京こっちまで出てきてたんだけど」
「母さんから連絡をもらって、それでここに」
 二人の回答はあっさりしたものだった。つまり最初から東京にいた、ということになる。それならば、連絡から短時間でここへ来られたのも頷ける。
「まあ、それはいいけどよ。一体――」
「あの、京一先輩。その人達、誰なんですか?」
 更に質問をしようとしたところで、霧島が問いを投げた。それはこの場にいるほとんどの者達に共通したものだった。無理もない。直接面識のある者は、この場に限れば京一と小蒔だけなのだ。後三人、彼女達の素性を知る者がいるが、一人は病院内で休んでいるし、二人は持ち場を動いていない。
「そっか、この中で知ってるのって、ボクと京一だけなんだ。えっとね、この二人は――」
「緋勇香澄です」
「緋勇沙雪だ」
「ってわけで、ひーちゃんの義姉さん達だ」
 小蒔が紹介しようとしたところで、二人は名乗った。それを京一が補足する。
 仲間から反応らしい反応は返ってこなかった。当然とも言えよう。予期していた襲撃者が現れたのだと駆け付けてみれば、それが龍麻の身内であったとは。現状をまだ良く掴めないのである。
 沈黙がしばらく続き。
「すっ、すいませんっ!」
「ゴメンナサイっ!」
 大きな声でそう言って頭を下げたのは、霧島とマリィだった。黒崎と本郷も、慌ててそれに倣う。
「申し訳ないっ!」
「あ、あの……勘違いしてごめんなさいっ!」
 緊迫した空気が一気に抜けていくが、この四人だけは違った。攻撃を仕掛けたのは事実なのである。何事もなかったからいいようなものの、最悪相手を傷つけていたかも知れないのだ。
「あー、別に構いやしねぇよ。こっちは無傷だし」
 が、向こうは気にした様子はなかった。
「それに、もうちょっとで皆さんを実力で排除するところだったし……」
「ンな事したら、絶対に後でたっちゃんが怒っただろうし、悲しんだろうしな。何事もなくて何よりだ……って、二人ばかり悪いことしたけどよ」
 言いつつ沙雪は手にした紅井を引きずりながらこちらへと歩いてくる。目立った外傷はないが、紅井の身体に力はない。まぁ、仕方ないかと思った京一だったが、ふとあることに気付く。
「そういや、香澄さん達。さっき、方陣技を防いだって言ってたよな?」
「方陣技? ああ、さっきの炎撃な。いきなりだったからびっくりしたけどよ」
「じゃなくて。二人とも、春頃にこっちへ来た時は、《力》を持ってないって言ってなかったか?」
 京一、そして小蒔はあの時、確かに聞いたのだ。香澄も沙雪も《力》には目醒めなかった。それが悔しいのだ、と。
 その指摘に、二人は顔を見合わせて苦笑した。
「あの時はな。実際《力》なんてなかったんだけどよ」
「私達が覚醒したのは8月の頭だったかしら。たっちゃんが里帰りして、東京に戻ってからすぐよ」
「って、何か事件にでも巻き込まれたの?」
 小蒔の問いに、二人は首を横に振った。
「何て言えばいいのかしら……あの時のたっちゃんって、どこかおかしかったのよね。普段通りに振る舞っていたのだけれど、こっちのことを聞いていた時、一瞬だったけど凄く悲しそうな顔をしたの」
「まあ、オレらにしてみれば。たっちゃんがどこか無理してるのがすぐに分かっちまったんだ。こっちで何かあったんだな、って」
 それを聞いて、京一達仲間の何名かは僅かに顔を顰めた。夏前にあった、龍麻が落ち込むような事件はたった一つしかなかったからだ。
「その時に思ったの。やっぱり《力》が欲しいって。《力》があればって。少なくとも、ないよりはたっちゃんの力になれるから」
「中学、高校じゃ直接たっちゃんを護ってやれてたのに、こっちで事件やら何やらに巻き込まれてる分にゃ、オレ達何もできねぇから歯痒かったんだよな。そんな想いが強くなってた矢先だ。父さんと組み手やってた時に、ホント突然」
「急に身体が熱くなったと思ったら、蒼い光が滲み出て。父さんも驚いてたわね」
 端で聞いていると冗談のような話だ。緋勇姉妹の執念とでも言おうか――それとも姉弟愛の成せる奇跡か。
「……そういうのってアリなのか?」
「同じ血族なわけですから、あり得ない話ではありませんわ。それに加えて、恐らく龍麻さんが側にいたから……《力》に呼応したのかも知れませんわね」
 誰にともなく呆れた問いを投げる京一に、雛乃が律儀に説明した。
 遺伝というわけではないだろうが、例えば織部姉妹や如月、御門のような一族。先祖に《力》を持つ者がいるとそれが受け継がれる場合が多い。龍麻の両親は《力》を持っていたし、緋勇姉妹の父親も《力》を持つ者。影響を受けたところで不思議ではないのだ。
「まあ、原因なんてどうでもいいけどな。目醒めて《力》が使えるようになった、その事実だけで十分だ。ンな事より、だ。たっちゃん、今はどうなってるんだ?」
「そ、それは……」
 現状を問われ、京一は言葉を詰まらせる。全員が暗い顔をしているのは当然なのだが、その中でも龍麻がどういう状態なのか「知ってしまった」者達の表情は更に悪い。
「……悪ぃのか?」
「あ、ああ。治癒が使える連中が総出で癒してるんだけどよ、傷が塞がらねぇんだ。止血が精一杯でよ。それに、いまのひーちゃんには――」
 生きようという意志がない、そう言いかけて京一は言葉を飲み込んだ。口にしたら本当にそうなってしまいそうで。それが二度と覆らなくなってしまいそうで。事情を知らない仲間が怪訝な視線を向けてくるのは分かったが、京一はそれ以上何も言わなかった。
 香澄と沙雪はこちらの様子を無言で眺めていたが、少しして大きく息を吐いた。
「ねえ、蓬莱寺君。とりあえず、たっちゃんの所へ案内してくれない? それと、何があったのか詳しく説明してほしいの」
「説明はいいけどよ……ひーちゃんは手術中で、今は会えないぜ? 治癒の人間以外は立ち入りできないようになってるから」
「だったら、私は入ってもいいってことよね。少しは足しになると思うわ。それに、沙雪ちゃんも役に立てるはずよ。そのための、私達の《力》だもの」
 そう言った香澄の顔には龍麻に似た、こちらを安心させるかのような微笑みが浮かんでいた。


 いつまでくすぶっているつもりか。その問いに、龍麻は答えることができなかった。いつまでも何も、これ以上何かをする気がなかったからだ。今の自分は何もせず、何も考えず、ただただ堕ちていくだけの存在なのだから。
 答えられぬまま時間が流れる。九角は表情を変えることなく厳しい目を向けたままだ。
「まさか、本当にこのまま朽ち果ててくつもりじゃねぇだろうな?」
(だって……もう、そうするしかない……じゃないか……)
 そんな考えしか浮かんでこない。言葉にする気力も湧かないので、問いに対する答えは思うだけに留まる。しかし
「何がそうするしかない、だ。ふざけてんじゃねぇぞ。てめぇはまだ生きてんだろが」
 その考えを読んだかのように九角は言った。
「生きてるってことは、生きなきゃならねぇってことだろうが。今更それを放棄するだ? 冗談も休み休み言え。だったら何で、てめぇは今まで生きてきた?」
(何で……?)
「品川の件で一度は命を絶とうとしたくせに、それを止めたのは何故だ? 等々力での決戦で、俺を殺してまで生き延びたのは何故だ? あの竹林で、俺を斃したのは何故だ? 生きて、やらなきゃならねぇことがあったからだろうが!」
 九角の言葉の一つ一つが、やけに胸に響く。まるで自分を奮い立たせるような、そんな不思議な力強さがあった。
(生きる……どうして僕は生き長らえてきたんだ?)
 今までに何度も、龍麻は死の淵に立ってきた。それでもその度にそれを乗り越え、生きてきたのだ。それを思い出すと自分がやってきたこと、これからやるべきことが、朧気ではあったが浮かんでくる。
 が、その瞬間、再び鋭い痛みが龍麻を襲った。何かしようとする度に、自分から何もかもを奪ってしまう苦痛。生まれた自分の意志が、再び崩れていくのを感じる。
「それが何だ!? たかだか不意打ち食らって死にかけたくらいで、もう負けです、ってか!? ボ……あのモヤシ野郎に言っただろうが! 自分で一歩を踏み出さないと、何も変わらない。ここで逃げたら、二度と変われない、ってよ! 一度負けたらそれまで、か!? そのまま立ち止まって、堕ちていくのかよ!?」
 しかし変わらず九角は言葉を繰り出した。言葉は龍麻に活力を与えるが、それが呼び水となって更なる苦痛が生じ、龍麻を苛む。それを知ってか知らずか、九角は続ける。
「このままだと柳生の思うつぼだろうが! 際限なく苦痛を与えて、てめぇの意志を削ぎ、そのまま死に至らしめる。そんなくだらねぇテにあっさり屈するつもりか!?」
(柳生の……手……!?)
 その名が、その言葉が、龍麻の意識を覚醒させた。歯を食いしばり、身体を動かす。苦痛は変わらず存在していたが、湧き上がってきた意志でそれをねじ伏せた。視界に入った自分の身体は元の姿ではなかったが、それでも輪郭が先程よりははっきりしてきている。
「い、今……何て言った……の?」
「……ようやく言葉を発することができるくらいにはなったかよ」
 ふん、と九角は鼻で笑うが、その表情は安堵の色を見せていた。九角のそういった顔自体、見たことがない龍麻にとっては、それが異様な姿に思える。
 だがそれは忘れることにした。今問題なのは、先の言葉。柳生が自分に何らかの干渉をしていたということだ。
「いいか、簡単に説明するぞ。今のてめぇは、精神攻撃みてぇなもんを受けてたようなもんだ。本来なら治癒を阻害するだけだったんだろうがな、てめぇの体質と精神状態が災いしたみてぇだな」
「……体質?」
 《陰氣》が陽の《力》を阻害するのは九角戦で負った傷の手当てをした時に実証済みである。自分の傷が癒えにくい原因が、柳生の斬撃に込められた《陰氣》であるというのなら納得がいく。
 精神状態というのも見当が付く。自分の《力》に対する不安や恐怖のことだろう。そこへ柳生に斬られた時の感情が加わり、自分を必要以上に追い込んだ。そう推察できる。
「柳生の一撃でてめぇにまとわりついた《陰氣》が治癒を阻害する。ただでさえ深い傷だ、なかなか治らない傷に癒し手は焦り、苦悩する。《陰氣》やら負の感情やらに過敏に反応するてめぇは、その負の感情をまともに浴びて苦しむ。そんなてめぇの《陰氣》を吸って、傷の《陰氣》は強さを増し、ますます治癒の《力》を妨げる」
「弱り切った僕の心は、それに抗う術を持てず……それどころか柳生に斬られた時の絶望感が増幅され、全てを放棄してしまった……そういうこと……?」
 こう言っては何だが、うまくできた仕組みである。傷に《陰氣》がまとわりつく限り、逃れることのできない苦しみが龍麻を襲い、その結果生じた《陰氣》が更に龍麻を苦しめ、なおかつ周囲の仲間達にまで悪影響を及ぼす。それが再び龍麻へ戻り――悪循環というやつだ。これが別の仲間ならばここまでのことにはなっていないだろう。体質が災いした、という九角の言も頷ける。
「どこかで流れを断ち切らねぇ限り、無限に続く連鎖だ。いや、てめぇが死ぬまで、か。まぁ、断ち切るきっかけは、何とかなったみてぇだがよ」
「正直、まだ……きついんだけどね……」
 じわじわと輪郭を取り戻していく身体を見ながら、龍麻は声を絞り出した。動き、会話するというごく普通の動作が、今の龍麻には重労働なのである。油断していると、さっきまでの状態に逆戻りだ。
「で、でも……どうして九角がここに……? というより、ここはどこなの? 九角がいるってことは、地獄の一丁目なのかな……?」
「ここは、てめぇの心の中だよ。暗く冷たい、死にかけのてめぇを象徴してるような、意識の深層だ。まぁ、そんなこたぁ、どうでもいいんだ」
 龍麻の問いに九角はそう答え、何かを誤魔化すかのように両手を顔の前で振った。龍麻はその態度が気になった。口調こそ九角だが、どこか違和感があるのだ。
「とにかく、てめぇが死ぬにはまだ早すぎる。あの時、言っただろうが」
「すぐに追いかけてきたら、承知しない……でしょ?」
 が、彼の言うことは自分の記憶にある九角のものであることに間違いはない。元々九角はこういう奴だったのだろうかと、疑問が湧き上がる。
「分かってんならいい。てめぇの存在は、てめぇが思っている以上にでかいんだ。とっとと戻って、連中を安心させてやりな」
「そう、だね……」
 自分は生き続ける義務があるのだ。自分のために死んでいった者、自分が手にかけた者達のためにも。それをまた忘れ、取り返しのつかない過ちを犯すところだった。
「品川の時といい、今回といい……本当に僕はどうしようもない……しかも今回は九角に助けられるなん――?」
 何かがおかしいことに龍麻は気付いた。九角は、ここは自分の心の中だと言った。ならば何故ここに自分以外の者が存在しているのだろう。心の中で生きている、などということはあるまい。それはあくまで思い出であって、個体として存在しているわけではないのだから。過去の記憶が蘇るならばともかく、このように自分を励ますようなことをする存在が、自分の中にいるはずがない。
 ならば、この九角は何者なのだろう? 他人の心――意識に干渉できる者など、今の仲間の中には――
「……ああ、そういうことか……」
「あん? ど、どうしたんだ?」
 九角が怪訝な顔を向けてくる。何か焦っているようにも見えたが、龍麻は首を横に振った。
「いや、何でもないんだ。それよりも」
 龍麻ははるか彼方にある光点を見つめた。恐らくあそこが、自分の行くべき場所だ。
「随分と離れちゃったね」
「そりゃ自業自得だ。とっとと目を覚まさないからだろ。ま、今のてめぇなら問題ねぇだろが」
「そうだといいけど……まあ、やれるだけのことはするよ。いや……絶対に戻ってみせる」
 完全に復活したわけではない。苦痛と脱力感は相変わらず襲ってくるし、それに耐えるのも一苦労だ。だが、自分はあそこまで辿り着かなくてはならない。仲間の元へ還るために。
 完全に輪郭を取り戻した身体を見て、龍麻は真神の学生服をイメージした。やや遅れて、一糸纏わぬ身体を見慣れた学生服が包み込む。
「それじゃあ、僕は行くよ。色々とありがとう」
「礼なんざ必要ねぇよ。とっとと行きな」
「そう? それじゃあ、礼は現実に戻ってからさせてもらうよ」
 ぶっきらぼうに答える九角に、龍麻はいたずらっ子の笑みを浮かべて言った。途端、九角の顔が驚愕に染まる。
 それを見て満足したのか、龍麻は動き始めた。沈んでいくだけだった身体が、ゆっくりとではあるが光点に向かって浮上を開始する。

 その龍麻を見送りながら、九角は頬を掻く。うまくやったつもりであったが、下手なことを言ったのが災いしたようだ。
「……ばれた、んだろうなぁ。仕方ないけど。それより……次はあっちをどうにかしないと」
 そう呟くと、九角の姿は幻のように消え去った。



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