どこかで見たような光景が、眼前に広がっていた。否。事実、その光景に葵は見覚えがあった。
ぬかるんだ地面、そして視界を覆い尽くす紅い霧。今日訪れた新宿中央公園の景色だ。あの時と違うのは、周囲にいたはずの仲間の姿が全くないこと。霧の中、葵は一人佇んでいた。
(また、なのね……)
何度も見た風景。葵の胸に痛みが走った。
「もう……やめて……」
その場に崩れ、葵は耳を塞いだ。この動作も何度繰り返しただろう。
「葵……」
声が――耳を塞いでいるのに声が聞こえた。それは自分がよく知る声。それはもう一度聞きたい声。それでも、ここでは聞きたくない声。
それを無視し、葵は目を閉じた。ここから先を見たくなかったから。繰り広げられるであろう惨劇を見たくなかったから。
「葵……」
しかし再び声が聞こえた。それに応えるように、自分の意志に関わりなく双眸が開かれてしまう。そしていつも一人の姿を捉えるのだ。
紅い霧の中でこちらに微笑む緋勇龍麻を。
いつもと変わらぬ龍麻が、こちらへと近付いてくる。これが現実であればどれだけいいかと葵は思う。だが葵は知っているのだ。これが夢であることを。これがとびきりの悪夢であることを。
歩いてくる龍麻の背後の紅が、濃くなっていく。それは次第に人の形を成していった。紅い人影――それが誰を意味するかは分かっているが、それは完全な人の姿を見せることなく、紅い影としてその場に現れた。その手に刀を携えて。
(また……また……死んでしまう……)
全くの同じ展開。この先に起こることも同じだろう。この後、龍麻は背後の影に首を刎ねられてしまうのだ。
(嫌……やめて……こんなものを見せないで……!)
今すぐにでも顔を逸らしてしまいたい。目を閉じてしまいたい。それを何度も葵は願っていたが、一度としてそれが叶えられることはなかった。ここまで来ると、いつも身体が動かなくなる。いくら足掻こうとも、葵は一部始終を見せられてしまうのである。
そうしている間に紅い影が刀を構える。もう数秒もしたら刃が龍麻の首を斬り飛ばし、鮮血を撒き散らすことになるのだ。それが、今まで見てきた場面。
また同じ光景の繰り返し――そして自分は悲鳴を上げ、目を覚ます。同じことの繰り返し。そう思った時だった。
周囲の紅い霧が、一瞬にして消え去った。一緒に紅い影も消えてしまう。
(な、何なの、これは……?)
龍麻が死ななかったことには安堵するが、今までになかった展開に葵は戸惑う。
龍麻はその場に立ち止まった。一体これから何が起きるのか。助かったと見せかけて、再び凶刃が龍麻を襲うのではないか。そんな不安が湧き上がってくる中、目の前の龍麻が口を開いた。
「これから、戻るから」
たったそれだけ。それだけの言葉を残して、龍麻の姿は消える。後には、霧の晴れた中央公園の光景だけが広がっていた。
何が起こったのかは相変わらず分からない。だが、龍麻は言った。これから戻る、と。
夢の中の出来事である。今の言葉だって、儚い希望でしかないのかも知れない。自分の願望が紡ぎ出した、ただの幻聴である可能性もある。
しかし葵には確信できた。今のは龍麻の、本当の龍麻の言葉だと。信じるに足る、と。
「還ってくる……龍麻が……!」
戻る。たったそれだけの言葉が、葵を悪夢から解き放った。
何もない漆黒の空間。誰の夢でもない、誰の意識を反映させることもない空間に浮かぶ一人の男。
「これで、こちらも大丈夫か」
九角は独り言ち、頭上を見上げる。そこに何が見えるわけでもないが、しばらく見上げた後、顔を戻すと目を閉じた。意識を四方に伸ばす。目当てのものを探るが、反応はなかった。悪夢を見ている者は――いない。
「完全に目を覚ました。治癒をするだけの《力》が残っているかは分からないけど、彼女が側にいるだけでもだいぶ違うだろうし。もう、心配することもないか」
大きく息を吐き出す。その顔には、大きなことをやり遂げた満足げな表情が張り付いていた。
「これで、少しは借りを返せたかな。少しは……償えたかな」
再度呟くと同時に、その姿が揺らぐ。背が縮み、服装が変わり、顔の形が変わっていく。その場に現れたのは九角とは全く違う、ややひ弱そうな少年だった。
桜ヶ丘中央病院――ロビー。
一応、結界の要である四神とその他数名を残し、京一達は病院内へと戻っていた。
「なるほどな」
ここへ来るまでの道すがら龍麻に何が起こったのか説明を受けた沙雪は、何度か軽く頷くと眉をひそめる。
「でもよ、そんじゃお前ら外で何やってたんだ?」
「何、って……ひーちゃんは重体だし、柳生の奴がいつ攻めてくるか分からねぇから警護を」
「警護、って。何でそんな無意味なことしてんだ?」
無意味。はっきりと沙雪はそう言った。こちらは龍麻を護るために行動していたというのに随分な言い種である。仲間の内数名は顔を顰めるが沙雪は構わず続けた。
「だってよ、さっきの話を聞いてたら、その柳生って野郎はたっちゃんを殺る機会があったんだろ? 公園で殺らなかったのに、何でわざわざここまで来るんだよ?」
そう言われてはうまい言葉が京一達には見つからない。外にいた時に醍醐とも話したことだが、あの時の柳生には龍麻を殺す余裕があったのだ。あの時に張られた結界だって、龍麻を殺してから解けば済むことである。わざわざ姿を見せたりする必要はない。
「殺る気があるなら公園で殺ってるだろうし。仲間がいて厄介だったから、って可能性もあるけどよ」
「先の話を聞いた限りだと、その気があるなら、あなた達を個別に叩くことだってできたと思うのよ。でもそれもしなかった……何をしたかったのかしらね、その男」
「仲間を一カ所に集めて一網打尽、とか? でも敵の戦力集中させるメリットはねぇもんな。お前らがどれだけの数なのか、知らないっていうのなら話は別だけど」
緋勇姉妹の意見に反論はなかった。京一達とてその疑問は感じていたが、今までに何度も刺客を送ったりしている柳生が、わざわざ龍麻を見逃す理由が分からない。だから襲撃に備えていたのである。とは言え、外に出ていたのはそれだけが理由ではないのだが。
「沙雪さん達の言いたいことも分かるけどよ。可能性があるなら、無視するわけにもいかねぇだろ? それに、俺達はひーちゃんの側にいない方がよかったからな」
「どうして?」
「どうして、って……ひーちゃんが《陰氣》や負の感情に敏感なの知ってるだろ?」
何を今更、と思いつつ京一は説明したが緋勇姉妹は顔を見合わせて首を傾げている。
「えーっと……つまり、どういうこと?」
「って、ホントに知らないの!?」
そう驚いたのは小蒔だった。もちろん小蒔だけではない。この場にいる仲間達は全員が目を見開いていた。
そう言われても、と香澄は頬を掻く。
「私達が覚醒したのは最近だもの。私達がたっちゃんの《力》のことで知ってるのは、霊が視えることと《氣》を扱えること。それと生命の危機に《暴走》することくらいなのよ。《力》については蓬莱寺君達の方が詳しいはずよ」
「人にとって《陰氣》がよくない、ってくらいは父さんに聞いて知ってるけどよ……今の話だと、たっちゃんは人よりそういうのに弱いってことか? あと……悲しいとか憎いとかいう感情を向けられたりするのも?」
よくよく考えてみれば、自分達だって龍麻に説明されて初めて知ったのだ。身内だから知っていると思い込んでいたが、緋勇姉妹は《力》を持っていなかったのだし、龍麻と一緒に怪異に首を突っ込まない限りはそんな話になるはずもない。説明する必要もないのだから。
「ああ。俺達もさ、ひーちゃんがあんなになっちまって色々ヤな事考えちまったからさ。それで悪影響与えかねなかったから、ひーちゃんから離れてたんだ。それより香澄さんも沙雪さんも。これからどうするんだ?」
状況の説明は既に終わっている。龍麻の事情も話した。ここで柳生の動向について推察したところで意味もない。となると、京一達には待つことしかできなくなる。だが、先程香澄は自分達は力になれる、と言った。
「香澄さん達の《力》って、どんなのなんだ?」
それを聞いていないのを思い出す。あらためて京一は訊ねた。
「私の《力》は治癒関係なの。だから直接手助けができるわ。人手、足りないんでしょう?」
「ああ。美里もダウンしてるし、何人かは消耗が激しくてリタイアしてるから。そういうことなら手術室に入れてもらえると思うけど。そんじゃ、沙雪さんは?」
「オレは治癒はできねぇよ。でも――」
沙雪が言いかけたその時、ドアの開く音がロビーに響いた。今現在、建物内で関係者がいるのは手術室。そして二階の空き部屋に陣取っている御門と芙蓉。ロビーに集まっている京一達と、手術室前の裏密。そして――
「あ、葵っ!?」
ドアが開いたのは診察室で、そこから出てきたのは休んでいるはずの葵だった。顔色は悪いまま。立って歩くのがやっとといった状態らしく、壁に寄り掛かりながら奥へと進んでいく。
「ちょっ……葵! あんたはまだ休んでないと駄目よ!」
無茶をしているようにしか見えない葵に、藤咲と小蒔が駆け寄った。どこに行こうとしているのかは一目瞭然だ。そのまま行く手を塞ぐが、葵に止まる様子はない。
「どいて……小蒔、藤咲さん……」
「何言ってんだよ! 藤咲サンの言う通り、まだ休んでないと! ろくに歩けもしないのに、今の葵に何ができるのさっ!?」
「行かないと……龍麻が……龍麻が還ってくるの……だから……」
うわごとのように繰り返し、葵は小蒔達を押しのけて進もうとする。もちろん今の葵にそれをするだけの体力はない。完全に小蒔と藤咲に阻まれている。そんな葵に近付く者があった。香澄と沙雪だ。
「美里さん。今言ったのは、本当? たっちゃんは、戻ってくるの?」
香澄がいることに驚いたのだろう。顔を上げ、葵は香澄を見る。一方の香澄はそれ以上何も言わず、穏やかな目を葵に向けていた。
「……これから戻る、って……言ったんです。だから、私は……」
「そう。でもね、桜井さんと藤咲さんの言う通り、今の美里さんは休んでないといけないわ。《力》を使える程回復していないんでしょう?」
「大丈夫、です。少しくらいなら……何とか……」
優しく諭す香澄。しかし葵は頑なで、それを聞こうとはしない。
「おい、そこのでかいの。ちょっとこっち来てくれ」
その時、様子を黙って見ていた沙雪が、京一達の方を向いた。そして紫暮に手招きをする。急に呼ばれた紫暮は戸惑いはしたが、沙雪の真剣な眼差しに何かを感じたのか素直にそちらへと歩いていった。近くに来た紫暮に、沙雪は問う。
「急にこんな事訊くのも何だけどよ。お前、体力に自信あるだろ?」
「? ま、まあ、ここにいる連中の中じゃ、上の方だという自信はあるが」
「そっか。じゃ、それもらうわ」
意味不明な質問に、それでも律儀に答える紫暮。すると、言うが早いか沙雪の身体を蒼い光が覆った。そして、紫暮の肩に手を置く。何をするのかと皆が見守る中
「な、何だ……!?」
紫暮の身体からも《氣》が放たれた。だが紫暮自身がそれに驚いている。どうやら自分の意志ではないようだ。そうする内に沙雪の《氣》が大きくなる。
「し、紫暮師匠もやられてるのか……あれ……」
その様子を見ていた紅井が、弱々しい声を上げた。彼は先程から身動き一つできない状態になっており、黒崎に肩を借りて何とかその場にいるのであるが
「紅井。お前、アレが何か知ってるのか?」
「ああ……俺っちもやられたからな……見てれば分かる……」
京一の問いに、紅井はそれだけ答えた。意味が分からぬまま、京一は紫暮達に視線を戻す。
「ぐ、ぐお……っ?」
急に紫暮が膝を着いた。彼の身体を覆っていた《氣》の光が、次第に小さくなっていく。それとは逆に、沙雪の光は強さを増していった。
「こんなもんでいいか。ありがとよ」
紫暮から手を離すと、二人から蒼光が消えた。沙雪は今度は葵へと近付いていき、先程と同じように肩に手を触れ、《氣》を放つ。
「……! な、何……?」
今度は葵が驚きの声を上げた。何が起こったのかは分からない。ただ、葵の顔色が少しずつ良くなっていく。
「これが沙雪ちゃんの《力》なの」
こちらを見て、香澄が説明した。
「他人の《氣》を吸い取り、自分の《氣》とする。そして、自分の《氣》を他人に与えることができる。今の沙雪ちゃんは、紫暮君から吸い取った《氣》を、美里さんの《氣》に同調させて補充しているのよ。ちなみにそこの……紅井君かしら。彼の《氣》もさっき吸い取ったわ。あの方陣技とかいうのを防ぐために」
つまり、沙雪が紅井から《氣》を吸い取り、香澄がその《氣》を利用して通常よりも強固な障壁を展開し、霧島達の方陣技を防いだということだろう。
紅井が身動きできないのは《氣》を吸い取られて衰弱していたからなのだ。
「な、何て危険なことをするお人や……どこまで吸い取れるんか知らんけど、下手したら紅井はん、衰弱死しとるで……」
頬に汗を浮かべながら、劉は乾いた笑い声を漏らす。それを聞いて紅井の顔は名前に反して蒼ざめていった。
《氣》は生命エネルギーとも言える。かつて龍麻が《氣》の過剰放出で衰弱して死にかけたように、消耗が激しければ命を落とすことだってあり得るのである。一応、それは知っていたのか、沙雪は振り向くと紅井に向かって言った。
「だからさっき言ったろ? 悪いことした、って。正直この《力》ってよ、頻繁に使ったことないし、加減がまだ掴めないんだよな……一応、今のは手加減できたはずだけど、大丈夫だろ? 体力には自信があるって言ってたし」
今度は未だに立ち上がれずにいる紫暮にそんなことを言う沙雪。
(体力と《氣》の容量は、別モンなんやけどな……やっぱ、姉っちゅうのは恐ろしいわ……)
《力》初心者の沙雪に言っても仕方ないのだろうが。劉は心の中でこっそりと呟くのだった。
意を決して葵は手術室のドアを開けた。
室内に留まっていた血の臭いが鼻を突く。こちらに気付いたのか岩山の指示と舞園の歌声が止まった。治療に当たっていた三人の目が一斉にこちらを向く。
「美里……休んでおれと言っただろうに。それに、そっちの二人は?」
やや呆れ、苛立った声で言って、岩山は香澄と沙雪に目をやる。
「初めまして。緋勇香澄と言います。義弟の……龍麻の治療の手伝いに来ました」
「緋勇沙雪。同じく、手伝いに来た」
突然やって来た龍麻の身内に、岩山達は呆然としている。無理もない。治療の方は進展もないというのに、いきなり手伝いに来たと言われても返答に困る。
「手伝いに来た、と言われてもな……何ができるんだい?」
「私は直接治癒の手伝いができます」
「オレは……ま、充電器だと思ってくれれば」
緋勇姉妹はそう言って、持っていた荷物を壁際に放り投げ、手術台に近付く。
「私も《力》が使えるまで回復しましたから。治療、再開しましょう」
葵も手術台に近付いて、横たわっている龍麻を見た。出血が止まった様子はない。今も輸血を継続中で、傷の方は相変わらず《陰氣》がまとわりついている。危険な状態、というやつの見本のような有様である。
それを見た緋勇姉妹の顔は一瞬で負の色に染まった。このような姿を見ては無理もない。しかも身内だ、仲間達とはまた違った想いも抱いているのだろう。
「……先生。たっちゃん、どういう状態なんです? 傷が治らない、っていうのは聞いたんですが」
一度深呼吸をして表情をあらため、香澄は尋ねた。
「お前さん達にも視えるだろう。傷に付いている紅い《氣》が。これが、わしらの《力》を阻んでおるのだ。色々と試してはおるのだが、これを取り除くことができん。だから、今は出血を抑えるのが精一杯だ」
「この紅いのがなかったら、うまくいくってことですか?」
「うむ……《氣》に作用する薬草なども試しておるが、芳しくない」
「ま、考えてても始まらねぇ。だったら、できることをやるしかないわな」
自分の力が及ばないことが悔しいのだろう。渋面を作る岩山。沙雪はそんな岩山にそう言って、舞園と高見沢の後ろへと回った。
葵の時のように肩に触れ、沙雪は《氣》を流し込む。二人の顔から次第に疲労の色が消えていった。自分達の身体の変化に二人は戸惑いの表情を浮かべ、それを見て岩山の面が驚愕のそれに変わる。それは自分の《力》と同じであったからだ。
「お、お前さん……自分の《氣》を他者に与えることができるのか?」
「ああ。言ったろ、充電器だって」
余談だが、今ロビーでは京一と劉がのびていたりする。
「さて、オレにできるのはこれだけだ。後はあんたらの出番だ。頼むぜ」
「は、はいっ」
「分かりました〜」
完全とはいかないが元気の戻った舞園と高見沢は、治癒を再開した。蒼い光が龍麻を包み、優しい歌声が手術室に流れる。
「さあ、私達も始めましょう、美里さん」
「はいっ」
運び込まれた時と同じ、蒼白くなった顔に視線を落とし、葵は香澄に続いて《力》を放った。陽の《氣》の光が大きくなり、室内を満たしていく。
(龍麻……みんながあなたの帰りを待っているわ……だから……だから……!)
心の中で呼びかけながら葵は《力》を制御する。葵自身、少し前に治療に参加していた時とは違い、精神的に余裕があった。状況が芳しくなくても、今の龍麻からは何も――負の感情を感じないから。龍麻が生きることを選択したから。
岩山は相変わらず厳しい表情のままだが、高見沢と舞園の方は若干余裕が戻っている。《氣》が回復したこともそうだが、癒し手の数が増えたことで負担が減ったためだろう。
沙雪はできることが終わってしまったためか、少し離れたところでただ状況を見守っているだけ。こちらからは若干の苛立ちが感じられる。そして
「香澄さん……もう少し抑えてください」
隣にいる香澄に、葵は言った。
「余計な《氣》が漏れてます。それは散ってしまうだけだから――」
「私も沙雪ちゃんと同じで、頻繁にこの《力》を使ったことがあるわけじゃないから……加減がちょっと、ね。ありがとう、やってみるわ」
香澄の《氣》が収まっていく。治癒自体には衰えはないが、放出される《氣》自体は減った。
治癒の《力》は、際限なく《氣》を高めればいいと言うわけではない。攻撃の場合はともかく、治癒の場合は《力》を維持するのに必要な《氣》というのが大抵決まっている。葵が指摘したのは、香澄の《氣》が、治癒の《力》の維持以上に放出されていた、ということだ。こうなると余計な消耗をしてしまうのである。
これとて、自分が覚醒した当時、同じようなことがあったからこそ分かることだが。
葵のアドバイスが効いたのか、しばらく香澄は安定した《力》を放っていたが、また過剰放出を始めた。少ししてそれに気付き、また《氣》を抑える。葵には、その理由が分かった。慣れというのもある。だがそれ以上に、負の色が視えるのである。自分達が散々味わった、《力》が及ばないことへの不安。それを何とかしようとする焦り。それがより強い《力》を求め、《氣》を費やしてしまうのだ。
大丈夫だと言うのは簡単である。龍麻に生きる意志が戻ったのは事実なのだから。が、それを言うと、それ以前の状態をばらすことになる。済んだこととは言え余計な心配を掛けたくなかったので、葵はそれ以上何も言わなかった。
「……なあ。たっちゃんの治癒の邪魔をしてるのは、この《陰氣》だって言ったよな?」
その時、不意に沙雪がそんな質問を投げかけて龍麻の傷を指した。
「これがなくなれば、治癒の《力》も届く、って」
「そうだが……さっきも言った通り色々試してはいるが、現状では解決策はない。わしらの《力》で中和しつつ、という手段しか――」
岩山は何やら別の薬品の準備を始めていた。まだ試していない薬か何かだろう。だが沙雪はその言葉を切って捨てた。
「でも、それができねぇからこの状態なんだろ? だったら……取り除いてやればいいんだよな」
言うなり沙雪は手術台に歩み寄った。手に蒼い光が宿り、それを龍麻の傷にかざす。それに呼応するかのように、《陰氣》が揺らいだ。少しずつ、沙雪の手に紅い光が移り始める。それを見て岩山の顔色が変わった。
「無茶をするでない! ただでさえ高見沢達に《氣》を与えて自身の《氣》が弱まっておるのだ。そんなことをしたら、お前さんの身体にどんな異常が出るか分からんのだぞ!?」
何をしているのか気付き、またその《力》に動転して岩山が叫ぶ。沙雪は、龍麻にある《陰氣》を自分に取り込もうとしているのだ。
人間の《氣》は陰陽が拮抗して成り立っている。そのバランスが崩れれば、岩山の言う通り何が起こるか分かったものではない。
「構やしねぇ、よ」
影響が出始めたのか、額に汗を浮かべ顔を歪めながらも、沙雪は止めようとはしなかった。《陰氣》が強いのは相変わらずで、弱まる様子はない。じわじわと沙雪の手を染めていく。
「元々、たっちゃんの力になりたくて望んだ……得た《力》だ。だったら、今使わずにいつ使うよ? 直接治癒ができないなら、せめてこのくらいは……」
効果があるようには見えない。それでも沙雪は止めなかった。
「何か……《陰氣》は自分の《氣》に変換できねぇのかな……こっちに移すことはできるんだけど……」
「自分の《氣》が弱まってるからじゃない? 私の《氣》をあげるから、それで試してみたら?」
治癒の手を止め、香澄は沙雪のもう一方の手を取った。岩山を見て問う。
「沙雪ちゃんの《氣》が上がれば、少しは変わってくるんじゃないでしょうか?」
「それはそうかもしれんが……危険すぎる! お前さんだって慣れない《力》を使ってそれなりに消耗しておるのだぞ!?」
「でも、沙雪ちゃんも言ったじゃないですか。私達の《力》は……たっちゃんのためにあるんです。だったら、迷う前に実行します。沙雪ちゃん」
「ああ、悪いけど、もらうな。美里さん、そういうわけだから、済まねぇけど……」
「ええ……治癒の方は、私達で何とかしますから」
沙雪の言葉を聞いていれば、彼女の《力》は《氣》を吸収して、それを自分の《氣》に変換するものであることが分かる。それができないということは《陰氣》をまともに浴びているのと同じだ。《陰氣》は陽の《氣》で相殺してやるしかないのだから、二人の考えはある意味正しいのだろうが無謀にも思える。これ程の《陰氣》に、覚醒してそう日が経ってない沙雪がどこまで耐えられるのか分からないし、その沙雪に力を貸す香澄の《氣》だってどのくらいの効率で変換されるのか。何より完全に《陰氣》を取り除けるのか。
それでも、二人の意志は揺らぎようがない。誰が止めろといったところで絶対に止めないだろう。それが分かったから葵は止めるという選択肢を捨てた。
(香澄さんも沙雪さんも、自分にできることを精一杯やろうとしている。だったら、私もできることをするだけ……!)
自分もそう決心して、葵は岩山、高見沢、舞園へと順に目を向けた。危険なことが分かっているからだろう、岩山は渋々、高見沢と舞園は緋勇姉妹の動向が気になるようではあったが、葵の意を察したのか力強く頷いた。
そしてあらためて《力》を振るおうとしたその時――
「なっ……何だっ!?」
沙雪が突然悲鳴にも似た声を上げた。その場にいた者達の視線全てが彼女に向けられ、そして釘付けになった。
「そ、そんな……これは龍麻の……?」
沙雪に起きている異変に、葵は見覚えがあった。神々しい金色の光が沙雪の身体を包み込んでいるのだ。陰、陽、そのどちらでもない《氣》が。葵の知る限り、この《氣》を持つ者は龍麻一人のはずである。
(龍麻の《氣》……いえ、似ているけど違う?)
龍麻が何度か見せたことのある《氣》と同質のようであったが、龍麻自身のものとは違う。ではこの《氣》は何なのだろうか。
「そ、そこから、光が飛び出してきたのが見えましたけど……」
害はないのか沙雪は不思議そうに自分の身体を見ている。そこへおずおずと、舞園が壁際を指した。その先には、沙雪達の荷物がある。
「一体、何を持ってきたんですか?」
「別におかしな物は持ってきてないんだけど……それより沙雪ちゃん。大丈夫なの?」
問う葵に首を傾げながらも香澄は答えた。そして未だに光を放つ妹へと声をかける。
「ああ。おかしいところはどこも。いや……」
沙雪は自分の右手を持ち上げた。そこには龍麻から取り除いた《陰氣》がまとわりついていたはずだったが、それが次第に薄れていくのが分かる。
「何か、楽になってきた。《陰氣》が消えていくみてぇだ……」
皆の見守る中、沙雪の腕から紅い光が消失した。どういうわけか、金色の《氣》が《陰氣》を消し去ってしまったのだ。それだけでも驚きだが、金色の光は沙雪の身体から離れると、今度は龍麻の身体へと飛び込んだ。光は一瞬で龍麻の中に消えてしまう。
「ど、どうなってるんですか〜?」
「わ、分からん……こんなのを見るのは、わしも初めてだ……」
あまりの展開に高見沢が岩山に問いを投げる。それに答えることは岩山にはできなかった。もちろん、この場にいる誰にも答えを出すことなどできない。ただ様子を見守ることしかできずにいた。
そうしている間に、龍麻の身体から金色の陽炎が立ちのぼり始める。
(こ、今度は龍麻の《氣》……?)
皆の目には同じように見えただろう。だが葵にはそれが先程の《氣》とは違うものであることが分かった。今度は紛れもなく、龍麻自身の《氣》であったのだ。
それに気付いた時には、葵は《力》を放っていた。今度は何事かと皆の視線が集まる。
「今、みんなが見ているこの《氣》は龍麻のものなの……これは、龍麻が自分で解放している《氣》なの!」
時が――止まった。そう錯覚する。事態に戸惑っていた香澄達は石像の如くその場に立ち尽くしている。葵の言葉の噛み砕き、意味を理解しようとして――
一斉に皆が動いた。岩山以下、癒しの《力》を持つ者がそれを患者に向け、沙雪は自分の《氣》を香澄に預ける。
葵の言葉。それは、龍麻の容態が変わったことを意味していた。それも、いい方にだ。今まで身動き一つできなかった龍麻が、意識してか無意識かは別にして、反応を示しているのである。
呪いの赤は金色に圧されていく。出血も、目に見えて少なくなってきた。葵達はひたすらに自分の《力》を振るった。陽の《氣》が《陰氣》を少しずつ浸食していく。
どれくらい時間が経っただろうか。
「一旦《力》を止めるんだ」
岩山が告げた。それに従い、《力》の解放を止める葵達。
龍麻の《氣》は既に消えていた。忌まわしき赤も傷には微塵も残っていない。出血は完全に止まっていた。ただ、そこに傷があったという痕跡だけが深く刻まれている。
しばらく様子を見るが、再び出血する気配はない。《陰氣》が湧き上がることもない。患者は顔色こそ悪いままだったが、呼吸は静かなものに変わっていた。
岩山が盛大に息を吐き出した。ゆっくりと高見沢の方を向き、指示を出す。
「輸血と点滴の準備。特別室の手配。それが終わったら……空いてるベッドで休んでいいぞ。後はわしがやる」
それから葵達に向き直ると
「お疲れさん。よく頑張ったよ」
それだけ言うと首をコキコキと鳴らしながら手術室を出て行った。高見沢もよろけながらそれに続く。
その場に残った葵達は顔を見合わせる。お互いに何も発することのないまま数十秒が経過し。
ワッ!!
部屋の外から歓声が聞こえた。どたばたと大勢の人が動く気配が生じたのが分かる。
「今日は一旦帰れっ! 面会は意識が戻ってからだよっ!」
そこへ岩山の怒声が響いた。それで外は一瞬にして沈黙する。長時間に渡る手術と《力》の行使の後だというのに、大した音量だ。それからしばらく何やらやり取りがあったようだが、突然慌てたように複数の足跡が遠ざかっていった。やや遅れて、残った気配も消えていく。
「あの……終わった、んですよね……?」
我に返った舞園が、バランスを崩して座り込むのが見えた。
「少しは、役に立てたかしらね?」
「何もできなかった頃よりは、な」
緋勇姉妹はハイタッチをして、舞園に手を貸している。
葵は今までにない疲労感に耐えながら、手術台の少年を見た。穏やか、とまではいかないが落ち着いた様子の龍麻が横たわっている。
視界が歪んでくる。龍麻の姿をまともに捉えることができない。胸の奥が熱くなる。両の目から溢れるものが止まらなかった。言いたいことはたくさんあったのに、言葉にならない。
そっと、肩に触れる者があった。振り向くと、笑みを浮かべた香澄の姿がある。その後ろで舞園が沙雪に肩を借りていた。こちらも同じく微笑んでいる。
「お疲れ様、美里さん」
「ホント、ありがとな」
緋勇姉妹の優しい労いの言葉に、葵はただ黙って頷くことで応えた。
緋勇龍麻、帰還。