最初に認識できたのは鳥のさえずる声だった。遠かったその声が次第にはっきりと聞こえるようになり、それに合わせて意識がはっきりとし始める。
ゆっくりと目を開くと天井が見えた。白地に奇妙な紋様が施された不思議な天井である。それが何であるのか、龍麻には見覚えがあった。
「治癒用の結界……桜ヶ丘?」
今までに何度も世話になっている部屋。その見慣れた天井。自分がここにいる時は、必ずひどい怪我をした時だった。ということは自分はそれだけの傷を負ったことになる。
そこでようやく思い出した。自分が、柳生に斬られたことを。
龍麻は慌てて身を起こした。
「ぐ……っ!」
鈍い痛みが胸に走る。反射的にそれを押さえようとするが、右手は自分の意に従わない。身体を支えようと動かした左手も同様だ。何事かとそちらを見ると、そこには自分の手を捕らえている存在があった。
右手を枕にしている沙雪、左手を握って船を漕いでいる香澄は、龍麻が目を覚ましたことにも気付かない。どこか疲れたような雰囲気を纏った二人に、龍麻は声をかけようとしたがやめた。
あらためて部屋を見渡すがこの部屋自体が治療専用の部屋なので、医療機器が幾つかあるだけで、患者や見舞い用の設備は何もない。他の人影も今のところなかった。
どうして二人がここに? そんな疑問が湧き上がってきた。義姉二人は岡山にいるはずなのだ。こちらに来るという話は聞いていない。
他にも疑問はある。あれからどれくらいの時間が経ったのか。一体どうなったのか。葵達は無事なのか。
現状の把握をなるべく早くしたい。そう考えると、やはりこの場にいる義姉二人を起こさねばならないだろう。とりあえず、寝起きのいい沙雪の方を起こそうと試みて、右手を揺さぶってみる。その上にあった沙雪の頭が同じように揺れた。
「沙雪姉、悪いけど起――」
言い終わるより早く、義姉は目を覚ました。勢いよく身体を起こし、こちらに焦点の定まっていない目を向けてくる。目の回りにクマができかかっているところをみると、寝不足気味なのだろう。
沙雪はしばらくぼーっとしていたが、意識がはっきりし始めたのか、表情を驚きのそれに変えた。目に光るものが溢れるのが見える。
「たっちゃんっ!」
普段の龍麻であればそれを支えることもできただろうが、今は病み上がりに等しい状況だ。いきなり抱きついてきた沙雪に押し倒される形になり――
「いぎっ……!」
傷の上に体重を乗せられて、龍麻は悲鳴をこらえるのにかなりの気力を費やしたのだった。
「もう、沙雪ちゃんたら」
「す、すまねぇたっちゃん。このとーり」
直後に目を覚ました香澄に白い目を向けられ、沙雪は両手を合わせてぺこぺこと頭を下げた。龍麻は胸を押さえつつ、もう一方の手で額に滲み出ていた汗を拭う。
「まあ、痛いだけだからいいんだけど……」
視線を落とすと寝間着の隙間から奇妙な模様の入った包帯が見えた。今までに何度もお世話になっている、治癒促進の呪符帯である。これだけの処置をしているのであればそうそう大事にはならないだろうと龍麻は信じることができた。例え義姉のタックルを食らおうとも……。
「ところで幾つか訊きたいことがあるんだけど。あれから……僕が斬られてからどうなったのか知ってる?」
義姉達が起きた以上、するべきことがある。龍麻は現状を訊ねる。
「え、っと。たっちゃんが斬られたのは昨日のこと。公園からここへ運ばれてきてみんなで治療。途中で私達も加わって、処置が終わったのが昨日の深夜。蓬莱寺君達はそのまま帰宅、治癒要員数名は疲労のためここへお泊まり。こんな感じかしら」
「お前の仲間、全員が駆けつけてくれたんだ。みんな心配してたぞ。会ったら礼を言っとけよ」
義姉達の報告を訊いて、龍麻は内心胸をなで下ろした。どうやら自分以外の負傷者は出ていないようである。あの柳生が仲間達を襲っていたらと思うと気が気ではなかったのだが杞憂であったようだ。
が、気になることがあった。
「香澄姉達が加わって、って……どういうこと?」
「ん? ああ、こういうこった」
問いに答えるように、二人の身体から蒼い光が立ちのぼる。それが意味することは一つだった。
「ま、まさか二人も覚醒したの!? 一体、いつ!? どうして僕に黙って――!」
思わず声量を上げて身を乗り出すと、先程と同じように痛みが甦った。龍麻の言葉は途中で途切れる。
「おいおい。目を覚ましたばかりだってのにそう興奮するな。傷に障るぞ」
「そうよ。今は大人しくしておきなさい」
有無を言わさぬ口調が耳に入ったかと思うと、龍麻は肩を両側から押さえられ、そのままベッドに倒された。今の龍麻ではそれを振り切って身を起こすのは不可能である。
こちらを宥めるように肩を軽く叩き、沙雪は口を開いた。
「先の質問に答えると、だ。覚醒したのは8月の頭。黙ってたのは、あの時のお前が精神的に参ってたからだよ。色々抱え込んでたみたいだし、余計な心配させたくなかったからな」
「……やっぱり、気付いてたんだ」
思わず溜息が漏れる。
当時の自分の精神状態は、お世辞にもよいものではなかった。葵達のおかげで幾分マシになっていたが、当時のことを触れられると少なからず動揺も出た。帰省した時も同じで、こちらがうまく隠したつもりでもそれは通用しなかったようだ。
「たっちゃんに何かあれば、絶対に気付くわよ。家族なんですもの」
「一体何年、お前の姉ちゃんやってると思ってるんだ?」
さも当然という風に胸を張る義姉二人。
「まあ、その後で話せばよかったんだろうけどな。機会がなかったからそのままうやむやになっちまったってわけだ」
義姉二人の覚醒については完全に龍麻の予想外の出来事だ。義父の兵麻が《力》持ちであったとは言え、自分が覚醒するまでずっと普通の人間であったので、覚醒することはないと踏んでいたのだ。
《力》絡みによる周囲の変化、悪い影響が自分のせいであると思い込んでいた時期でもあった。あの時にこれを知ったら、また何かと落ち込んでいたかも知れない。
義姉の配慮に、心から龍麻は感謝した。そして最後の問いを投げる。
「《力》のことを黙ってたのは分かった。義姉さん達が助けてくれたのも。でも、どうしてこのタイミングで東京に来た――いや、いたの?」
「そうそう。本来はこっちが本題だったのよ。たっちゃんが事故に遭ったのはこっちに来てから聞いたの」
ポンと手を叩いて、香澄は荷物を漁り始めた。沙雪の方もポケットに手を入れて何かを探しだす。何事かと見守る中、先に目的の物を探し出したのは沙雪だった。
「ほい」
それを龍麻の手に落とす。そこにあったのは
「キー?」
どこから見てもキーだった。革製のホルダーに付いた二つのキー。
「遅くなった誕生日プレゼントと、少し早いクリスマスプレゼントだ。ブツは家の方に運んでもらってるから、大事に使え。ちなみに、新車だぞ」
「……それはまた、大きなプレゼントで」
意外といえば意外なプレゼントに、龍麻はそう答えることしかできなかった。
(真神、バイク登校禁止なんだけどなぁ……)
とは言えずに胸中でのみ呟いておく。どこから費用を捻出したのかも、とりあえずは無視だ。
「それじゃあ、これの受け渡しのためにこっちに来たわけ?」
「ああ。それとたっちゃんに渡したい物が見つかってな。それも――」
「おかしいわ。沙雪ちゃん、あれ、確かに荷物に入れたわよね?」
沙雪の言葉を遮って、香澄が漁っていたリュックを持ち上げて訊ねた。沙雪の方も不思議そうに首を傾げている。
「あんなごつくて派手なの、なくなるモンじゃねぇんだけどな。姉ちゃんが作った方は? あれもないのか?」
「いえ、そっちはあるんだけど……やっぱり家に忘れてきたのかしら?」
「一体何の話?」
「まあ、いいわ。戻ってからもう一度探してみましょう。こっちは忘れてなかったから。はい、たっちゃん」
持ってきたはずの物が見つからないらしい。訊ねると香澄はリュックを龍麻に放り投げた。それを受け止める。ずしりと随分と重い手応えがあった。
何が入っているのかとリュックの中からそれを取り出そうとして――止める。
「……これ、香澄姉が作ったの?」
「ええ。そんな物初めて作ったから、うまくできてるかどうか分からないけど」
のほほんと答える義姉に龍麻は返す言葉が見つからなかった。
(義姉さんの趣味は知ってる。知ってるけど……こんなもの、どうやって作ったんだ? そもそも、仕込んである「これ」をどこで仕入れたんだ!? 翡翠の店みたいなのが岡山にあったっけ!?)
「どうしたの、たっちゃん?」
「い、いや……何でもないよ、うん。HAHAHA……」
思わずアラン笑いになってしまう。義姉のことがよく分からなくなってしまう龍麻であった。
義姉達が出て行った病室で、龍麻は一人天井を眺めていた。
香澄達は自分が目覚めた報告のために岩山の所へ行っている。後は入院の手続きなどがあるらしい。
とりあえずこの病室からはおさらばだろう。一般の病室に移れるはずである。
「何か、色々あったな」
義姉達の覚醒についてはもう済んだことだ。どのような《力》なのかも一通り聞いた。これからどうしたいのかも。今後の戦い、恐らく手伝ってもらうことになるだろう。それを決めるのは自分なわけだが。
今更だが義姉達には危険なことをさせたくないと思う自分がいる。義姉達が一緒に闘いたいと願っているのが分かっていても、だ。今まで散々世話になった義姉達には、自分がしっかりやっていけるから大丈夫と言いたいのだが、今回のようなことがあってはそれにも説得力がない。龍麻としては義姉離れしたいのだが。
(駄目って言っても無駄だろうしな。まあ、都合よくこっちに呼べるか分からないけど……)
手にあったバイクのキーを玩びながら、今度は義姉の荷物に視線を移した。
(バイクの方は……雷人に慣らし運転してもらおうかな。見舞いに来てくれたら、その時にキーを預けよう。香澄姉のアレは……翡翠に少し細工をしてもらうとして……)
キーをベッドの脇に置き、両腕を目の前に持ち上げる。腕自体に負傷はないのできれいなものだ。
《氣》を練り、意識を腕に向ける。攻撃時に《氣》を纏わせるのと同じ要領で、それの範囲をいつもより広げてみた。
金色の光が滲み出て、前腕部を覆っていく。《氣》の出力を上げていくとそれは次第に濃くなっていった。だが、自分の思う結果は得られない。諦めて龍麻は《氣》を収める。
「時間はすこしだけどあるし……今は回復するのが先か」
退院まで何日かかるか。それを考えると気が滅入る。だがそれより何より
「どう言い訳しよう……」
今後見舞いに来るであろう、あの時の自分の状態をよく知る者達にどう接するべきか。
それを思うと、ますます気が重くなる龍麻だった。