新宿区――中央公園。
約束の時間になり、全員が集まった。休日なので私服で来ているが、何故か醍醐だけは学生服姿だ。とはいえ、これはいつものことなので、誰も気にしていない。
それはともかく、龍麻達は入り口から公園内に視線を走らせた。
「どうってことはない、いつもの中央公園だな」
「うん……でも、おじいちゃんが言ったんだもん。間違い……ないよね」
醍醐の言う通り、いつもと変わらない中央公園がそこにある。人の姿もあるし、不穏な空気が漂っているわけでもなかった。何の変哲もない光景だけが、そこにある。
そんな様子に小蒔は、来る所を間違ったのではと戸惑いを見せていた。意地悪い仕掛けがある、そう龍山が言っていたので、何かしら異常があるものとばかり思っていたのである。
こうしていても意味がないということで、龍麻達は公園へ足を踏み入れ、しばらく歩く。しかし、それでも不審なところは見受けられなかった。気になる事と言えば、足下がぬかるんで歩きにくいことくらいだ。
「……見渡す限り、ただの公園だぜ? ジジイなんてどこにも――ん?」
「あれ……?」
愚痴をこぼしていた京一が、訝しげな声を上げた。続いて、小蒔も忙しなく周囲へ首を振る。
「どうしたの? 小蒔」
「何これ、霧……?」
雨が降ってきたのを確認するような仕草で、小蒔は葵を見て自分の掌を上へと向けている。葵も視線を虚空へと向け
「そういえば……なんだか風景が歪んでいるような……」
と、呟いた。陽炎の向こう側の景色を見ているような感覚。明らかに周囲の景色が揺らぎ、霞んでいる。
「……まさかこれが、龍山先生の言っていた、方陣というやつなのか?」
「かもな……確かに……空気が違う。おい、ひーちゃん。ジジイに言われたコト……昨日ちゃんと聞けてたか?」
その場に立ち止まり、醍醐は油断なく周囲を見据える。気付かぬ間に方陣に踏み込んでいたとなると、これから先、何が起こるか分からない。
京一は警戒しながらも、龍麻の方へと気を配る。龍山の話を途中から聞いてなかったのではないだろうかと心配しての事だ。
「名前を言うな、でしょ? 大丈夫、昨日の話、聞いてはいたから」
だが龍麻はいつもの調子で応えた。いつもの龍麻、いつもの指揮官の顔だ。その様子に京一は安堵する。どうやら昨日のことを引きずってはいないようだ。葵がうまくやってくれたのだろう。
「ならいいんだけどよ。何のコトだか、よくわからねぇが、用心するに越したコトはねぇからよ」
「でもさ、一体どういう意味なんだろう。名前を言うな……なんてさ」
誰にともなく、小蒔が疑問を口にする。結局、龍山は詳しい事を教えてはくれなかった。名を言うな、とだけ。そこにどういう意味があるのかは分からない。龍麻達はその答えを持ち合わせていなかった。
「お〜い……」
ふと……人の声が聞こえたような気がした。
「お〜い!」
空耳かとも思ったが今度はより大きく、近くで聞こえる。声のしたと思われる方へと注意を向けると、霧の向こうに人影があった。
「よかったぁ。他にも人がいたんだね」
そう言ってやって来たのは、スーツを着た、どこか冴えない感じの若い男。ごく普通の、サラリーマンに見える。
「なんだ、ジジイじゃねェのか」
「バカ! そんなに簡単に出てきてくれるわけないだろ」
期待外れな、と京一は口を歪め、そんな彼に小蒔は肘鉄を食らわせる。醍醐は二人を尻目に、目の前にいる男へ若干厳しめの表情のまま、問いかけた。
「それより――あなたのような人が、どうしてこんな所に?」
「いやぁ、あんまりいい天気だったんで、会社をサボって昼寝をしてたんだが……気がついたら、この霧だ。一体、どうなってるんだい?」
「どうなってるんだ、って言われてもよ、俺達も、迷ってるようなもんだからな」
半ば投げやりに、京一は言った。その顔には警戒の色が浮かびつつある。が、男は気にした様子もなく
「そうなのか……でも、他にも人がいてくれてよかったよ。実をいうと、一人で心細かったんだ。あっ、僕は田中というんだけどね」
と、名乗った。
はっきり言えば、不自然だった。このような状況にあって、随分とあっさりしているのだ。そういう性格なのかも知れないが、ただの公園で道に迷うという異常な事態の中で、落ち着きすぎている。龍麻達のように、今まで怪異に何度も遭遇した事があるなら話は別だが、この田中と名乗った男が自分達と同じだとはどうしても思えない。
(おい、どうする? こいつはどう見たって――)
(少し……様子を見よう)
顔を突き合わせ、小声で京一と醍醐が相談する。田中はそれを見て顔を顰めた。
「嫌だなぁ、内緒話なんて。みんなで仲良く、出口を探そうよ。と、そうだ。まだ君達の名前を聞いてなかったね」
「その必要はないよ」
両の腕に四神の手甲を装備し、龍麻は田中の前に立つ。
「こっちは用事があってここに来ているんだ。茶番に付き合う暇はない」
「茶番? 何のことだい?」
田中は首を傾げてみせる。京一達も、龍麻が何を言いたいのか測りかねているようだ。
「なぁ、どういうことだよ?」
「ここが、どういう場所か分かってる?」
龍麻の問いに、京一達は顔を見合わせ
「あれだろ? ジジイの方陣の中」
京一が答えた。龍麻は頷くと、田中を指す。
「ここに来た者を片っ端から方陣に招き入れるような事を、その老人がするかな? 僕達だけならまだ分かる。でも、そこにいる田中さんとやらは、普通なら何の関係もない人だ」
「そう、ね……わざわざ無関係の人を巻き込むとは思えないわ」
「次。会社をサボって昼寝をしていたと、この人は言った」
葵の言う通りなのである。肘を曲げて指を上に向け、龍麻は中指を立てた。
「今日は、何曜日?」
「……あっ、そうだよ! 今日は日曜日じゃないかっ! 普通の会社だったら休みだもん。サボる以前に、出社してないよね」
小蒔がそう指摘すると、田中は若干身を引いた。休日出勤、という可能性もないではなかったが、その態度を見るに、自分の吐いた嘘が暴かれたので動揺しているのだろう。
「三つ目。僕が生まれながらに持っている《力》は何でしょう?」
薬指を立て、訊ねる。勿論田中に分かるはずはないが、仲間達は皆知っている事だ。
「なるほどな。つまり、そいつは人間じゃないということか」
「――っ!? な、何を訳の分からないことをいってるんだ!? き、君達は一体……」
「茶番は終わり。さっき、こいつが言ったはずだが?」
名を言うな、というのは覚えている。龍麻を見てから、醍醐は田中を威圧するように拳を鳴らす。
「そういうこった。正体見せな。それとも……そのまま滅びるかよ?」
京一もクトネシリカを抜き、切っ先を田中に向ける。
田中は顔を引きつらせ、じりじりと後退していくが
「クソッ……貴様ら……貴様らああああああ……生きてここからは出さぬぞおおおおおお……ひゃはああああっ!」
逃げ切れないと悟ったのか、ややキれ気味にその本性を現した。目は紅く輝き、その肌は病的なまでに青白くなる。両手には長い爪が生え、口からは鋭い犬歯が覗いている。
「貴様ら全員、体中の血を吸い取ってやるわあああぁぁぁっ!」
人外の者――外見と、その口調から察するに、吸血鬼といったところか。
「油断するなよ、みんな。行く――!」
醍醐が皆に注意を促す。そして、戦闘に突入しようとしたところで、その動きが止まった。
気が付いた時には龍麻が前に出ていたのである。手甲を着けた右手が金色に輝き、田中の顔面を掴んで持ち上げている。
「き……っ、貴さ――!」
「邪魔」
その一言と共に、龍麻は《氣》を放った。陽の《氣》でもなく、陰の《氣》でもないそれをまともに食らい、悲鳴を上げる間もなく田中の頭部は吹き飛んだ。地に崩れた身体は塵へと変わっていく。後に残ったのは、彼が身に着けていた背広のみ。
「あっけなかったな……」
あっという間に片が付いてしまい、醍醐は困惑顔だ。田中が変貌した影響なのか、どこからともなく霊が集まってきていたのだが、それすらも、まるで逃げるように姿を消していた。
「あいつ、結局何だったんだ?」
いきなり出てきて正体を暴かれたと思ったら、これまた一撃で屠られてしまった田中という名の人外。ある意味、哀れである。
「さぁ。人嫌いだからって、道心さんが人外と親しくしてるとは思えないし……多分、方陣に迷い込んで出られなくなったクチじゃない?」
昨日からの雨でぬかるんでいる地面に散らばった背広に目を向ける京一に、龍麻は自分の考えを述べる。そして、そんなことより、と話を現実へと戻した。
「これからどうする? 方陣の中っていうのは相変わらずだし」
「そうだな。向こうから出てきてくれるのが一番なんだが……」
周囲の景色は歪んだまま。霧のようなものも消えてはいない。迷っているという事実は変わっていない。どうしたものかと考えを纏めるよりも早く
「ちょぉと待ってやっ……って、あら……?」
意外な人物が、龍麻達の前に現れた。ここは道心が築いたであろう方陣の中である。普通なら、侵入するのは無理なはずだ。だが
「あれっ……劉クン!?」
小蒔がその名を呼んだ。姿を見せたのは、仲間の一人である劉弦月だったのである。何やら意気込んでいた彼は周囲を見回して、残念そうに頭を掻く。
「あちゃあ……もう終わっとったんか」
「劉。なんでお前がこんなトコにいるんだ?」
当然の疑問を、京一が放つ。全員の目が劉に集まった。五対、十の視線に貫かれ、劉はダラダラと汗を流す。
「い、いや、わいは単なる通りすがり、っちゅうことで……」
「でも、さっき、もう終わってたって……もしかして、私達を助ける為にここへ……?」
葵もまた、自分の疑問をぶつけた。劉のセリフから、彼は自分達の状況を知っていたと推測できる。だからこそ駆けつけたが、既に戦闘は終了しており、拍子抜けした――そんな意味合いが感じられた。
「い、いや……なんちゅうか……ほな、さいならっ!」
劉は背を向け、追求から逃れようと駆け出す。急な行動に、誰も反応できないかと思われたが
「くえっ!?」
奇妙な声を上げて、劉は立ち止まる。背を逸らし、足だけが先へ進もうとしているような形で。首を引っ張られている、そんな風にも見える。
「で、どういうことなのか、説明してもらえるかな?」
龍麻の手が、くいくいと動く。その度に、劉がくぐもった声を漏らし、身体を揺らす。よく見ると、龍麻の手にはワイヤーが握られており、それは劉の首に巻き付いていた。先端に分銅を付け、放ったようだ。
「ア、アニキ……苦しい……」
「逃げようとしてるからだよ。こっちに来れば、全然苦しくないよ? 大体、どうして逃げなきゃならないのかな?」
「俺が、ほっとけって言ったってのに、おめぇらに手を貸そうとしたからよ」
龍麻の問いに答えたのは、劉の声ではなかった。感じからすると老人の声だ。
「全く、余計な心配だったろうがよ、弦月」
「じ、じいちゃん……」
霧の中から聞こえる声の主を、劉は知っているようだった。
「もしかして――道心先生じゃありませんか?」
この場にいるということは、一般人ではない。そして、向こうはどうやら自分達を知っているようだ。醍醐は霧へと問いかけた。
「分かり切ったことを訊くんじゃねぇよ。そうじゃなけりゃあ、この俺の張った方陣の中を、自在に歩けるわきゃあねぇだろ」
面倒くさげな声と共に、声の主――道心が姿を現した。
「えぇ――っ!?」
「この酒臭ぇ、サイケなジジイが道心だって!?」
小蒔と京一は、見るなり大声を上げる。その気持ちは分からなくもない。龍麻達だって声こそ上げなかったが似たような感想だったからだ。
京一の言う通り、酒の臭いを纏った老人。一言で言えば、変人だろうか。髪の毛のない頭は、剃ったのかそれとも絶滅したのか定かではないが、顎には長い髭を生やしている。その髭には、所々装飾が付いていた。白のランニングシャツの上から水色の縞模様が入った服だか着物だか分からないものを着て、片方の肩を晒している。腕には何やら装飾品をつけ、極めつけにサングラスだ。
密教僧、修験者、どう考えてもそれと結びつかない。
「さすがは破戒僧……」
京一が呆れたように漏らしたそれを聞き咎め、道心は厳しい視線を向ける。
「餓鬼が、知った風な口を利くんじゃねぇよ。それよりも、おめぇらは俺を捜しに来たんだろう? いいから、さっさとついてきな」
そして、龍麻達を見やると、年齢を感じさせない速さですたすたと歩き出した。
「あっ、ちょっと待っ――行っちゃった……」
小蒔が止める間もなく、道心の姿は遠ざかっていく。どうする? と京一が目で皆に訴える。
「あんな胡散くせぇジジイ、……信用できんのか?」
「う、うむ……しかし、龍山先生が仰ったことだ……いずれにしても、ただ者でないのは確かだしな」
「それに、ボク達が来るコト、分かってたみたいだったよ。信じてみても、いいんじゃないのかなぁ」
醍醐も小蒔もそう言うが、言葉は頼りなげであった。心の中に描いていたイメージとのギャップが激しいのだろう。
「それに急いで後を追わないと、この霧だもの。見失ってしまうわ」
「敵意は感じなかったし、いいんじゃないかな?」
このままここにいても進展は何もない。ならば、進むしかないのである。
葵と龍麻の言葉にとりあえず納得して、劉を加えた一行は、道心の後を追った。
やがて霧は晴れ、視界が開ける。見た感じは中央公園そのもの――元に戻ったのかと思われたが、遠くの景色が若干歪んで見える。方陣の中には違いないようだ。
「おじいちゃん……本当にここに住んでるの?」
「あぁ、そうよ」
未だに信じられないのか小蒔が訊くと、道心はあっさりと返した。
「家や仕事なんて、新宿じゃあさして重要なもんでもねぇ。この街には、ありとあらゆるもんが溢れてやがるからな。おまけにこの街の人間はものを捨てるのが大好きだ。まだ使えるもんを捨て、まだ食えるもんを捨て、お陰でこっちは大助かりだがな」
ケラケラと笑う道心だったが、不意にその表情を厳しくした。一瞬ではあったが、その顔に浮かんだのは悲しみの色。
「……こんなもんが……あいつが命を賭しても護りたかったもんなのかね……」
こんなもん、が何を指すのか。あいつ、が誰のことを言っているのか。想像は容易い。少なくとも、道心の目に映るこの世界は「あいつ」とやらの望んだ世界には、見えないのだろう。
「まぁ、そんなこたぁ、どうでもいい」
道心は肩をすくめると、龍麻達を無遠慮に見回す。
「それよりおめぇら、揃いも揃って全員、真神かよ」
「はい……あっ、あの、私は美里葵といいます」
「あぁ、知っとるよ」
思い出したように葵が名乗ると、道心は頷き、他の仲間達に目を向ける。
最後に懐かしそうな目を龍麻に向ける道心。無意識のうちに龍麻は頭を下げていた。
「お久しぶり、と言うべきなんでしょうか?」
「おめぇが覚えてりゃな。しかし、それはあるめぇよ。それにしても、龍麻――まさか、おめぇまで真神にいるとはな。星の巡りとは、つくづく恐ろしいもんだと、時折実感させられる」
龍麻が真神へ転校したのは、鳴瀧の指示だった。だが、今の道心の物言いは何かが引っ掛かる。転校するまでは気にもしなかったが、旧校舎での一件で、真神に何かがあり、それ故に鳴瀧は自分を真神へ送ったのではないかと考えた事もあった。道心の言葉は、その考えを裏付けているように思える。
「それ、どういうコト? 真神には……何かあるっていうコトなの?」
「そいつはいずれ分かるさ。それより、龍山の爺いが俺を訪ねろと言ったのかよ?」
小蒔は首を傾げるが、道心はそれをはぐらかした。気になりはするが、それ自体は別に構いはしない。真神云々は、今回ここへ来た事とは関係ないからだ。
「はい」
道心の視線を真っ向から受けて、醍醐は首肯する。道心の口元が――おかしげに歪んだ。
「俺に助けてもらえってか? ハーッハッハッハッ。こいつは気分がいいな」
そして、笑い出す。何がおかしいのか、腹まで抱えて。こちらは頼って来ているというのに、随分な態度だ。
「助けて欲しいか?」
「……手助けする気があるんですか? 今まで放置しておいて、今更」
割り切ったはずだったが、昨日の感情が反芻される。厳しい表情と声で、龍麻は道心を見た――否、睨みつけた。
「なるほどな……考えてみりゃ、あの弦麻の息子だ。やっぱり、おめぇには逆効果だったらしいな。俺達は気を回しすぎたって事か」
それに臆する事はなかったが、龍麻の言いたい事を察し、道心もまた苦渋に満ちた顔を作る。
「先生達が何を思って僕をあの家に預けたのか……分からない訳じゃないんです。でも、やっぱり僕は……」
「あぁ……皆まで言うな。全ては……俺達が決めたことだ。言っておくが、親父殿がそう指示したわけじゃねぇからな。その辺は、誤解しないでやってくれ」
弦麻も、そして母親である迦代も、龍麻の《宿星》に気付いていた者達だ。平穏な暮らしを送ってほしい、と願っていた事は事実だが、それが叶わぬ願いである事も分かっていただろう。
「となると、俺にはおめぇに助力する義務があるってこった。今までの分も含めて、な」
出会ってすぐの飄々とした態度と顔に戻った道心は、そう言うと、何事か試すように笑みを浮かべ
「だが、もしも俺が、協力せんと言ったら、どうするつもりだったんだ?」
と訊ねた。どうする、と言われても、実際に協力の約束は取り付けたのだ。駄目だった時の事など、考えられるはずはないが
「困ります」
とだけ、醍醐は答える。それを聞いて道心は、一瞬きょとんとしたと思うと
「ハーッハッハッハッ。こいつは愉快だな」
と、再び大笑いを始めた。
「なんや、今日のじいちゃんはよう笑うなぁ」
「……何がツボだったんだろうね?」
意外なものを見るような劉の一言に、龍麻も首を傾げている。その原因となる言葉を発した醍醐も、何かおかしな事を言っただろうかと困惑していた。
「すまねぇな……いや、それにしても愉快なこった」
ひとしきり笑うと、道心は呼吸を整えて真顔に戻り、醍醐を見て言った。
「俺が愉快だと言ったのは、俺に困ると言ったのが、こいつで、二人目だからよ」
「まさかジジイ、来る人間全部にそんな事訊いてんのかよ……って、あんたを訪ねてきた奴が他にもいるってことか、そりゃ?」
どういう状況でそう言ったのかは知らないが、やはり同じような質問をしたのだろうか。とすると、疑問が残る。
中央公園を訪れる人間は数あるだろうが、道心を訪ねてくる人間など、まずあり得ない。彼は方陣の中にいて、その姿を人前に見せないのだから。だから、道心とそのような会話を交わしたということは、彼に会うのが目的で来たということになる。
ならば、それは一体誰なのか。京一が訊くと道心は、あぁ、と頷いた。
「るぽないたあ、とかいってたが……ありゃイイ女だったな」
きっと、ルポライターと言いたいのだろうが、ルポライターがどうして破戒僧に会う必要があるのか。普通ならばそう考える。だが龍麻達にはそのような人物に心当たりがあった。
ルポライターであり、道心曰く美人であり、そしてこういった件に首を突っ込む人物と言えば……たった一人しかいないではないか。
「それってもしかして――エリちゃんか!?」
「うんっ、きっとそうだよっ! その人、天野絵莉サンって名前でしょ、おじいちゃん!」
京一と小蒔が、その名を口にする。怪異に絡んだ事件を追うルポライターの女性など、彼女を置いて他にない。そして、その予想は見事に的中した。
「あぁ……確かそんな名だったなぁ。ともかく、二、三日前のことだ。俺がちょいと夜の散歩に出掛けたら、深夜を回ったってのに、若い女が一人……そこの木陰に、突っ立っていたもんだから、こっちから声をかけてやったのよ」
道心は側にあった木を目で指して、続ける。
「そうしたらその女、どこで何を聞きつけてきたのか知らねぇが、俺を見るなりこう言いやがったのさ。東京を……護っているのは何ですか? って、な」
「東京を……護っているもの……?」
天野が道心のことを調べてここまでやって来たのは、彼女の腕で、それを道心が見つけて声を掛けたというのは、ある意味幸運があったからだろう。だが、どういう意図でその質問をしたのだろう? 龍麻達にはそれが分からない。
「そうよ――そして、こうも言った。江戸時代から続いている、東京を守護する《力》は、今もその効力を保っているのですか? ……ってな。どうよ? おめぇらが俺に聞きにきた事と、同じだろうがよ?」
龍麻達は顔を見合わせた。自分達が聞きに来た事……?
「あの……そうなんですか?」
「……なんだい、てめぇが何をしに来たのかも分からねぇのか?」
「そう言われても……僕達は過去の中国で何があったのかを聞いただけです。それと、僕の出生についてと《宿星》について少々。知らなければならない事、しなければならない事がある、とは言ってましたけど、具体的な事は何も」
ねぇ、と龍麻は同意を求める。即座に頷く葵達四人。劉は……何故か一緒になって頭を縦に振っている。
「……まぁ、いいけどよ」
何やら疲れたような表情を浮かべ、道心は溜息をついた。
「まぁ、最初から話してやるよ。おめぇらにゃ信じられねぇかもしれねぇが、長い間、東京が超自然的に守護されてきたのは事実さ。そして、この東京を護っているものの正体――そいつは《言霊》よ」
「言霊……?」
呟き、醍醐は空を見上げた。どうにも最近、聞き慣れない言葉ばかりを耳にする。
「なんだ、おめぇら言霊も知らねェのか?」
じろり、と龍麻達を見渡す道心。小蒔と京一は早々に視線を逸らした。劉は相変わらずで、龍麻と葵は平然として、続きを待っている。
「おめぇらは、知ってるんだな?」
一応、念押しする。三人が頷いたのを見ると、どこかほっとしたようだ。説明が面倒くさいのだろう。
「それなら話は早い。この東京を護るもの、それこそが言霊による呪法よ。だが、こいつは誰もが掛けられるってわけじゃねぇ。それ相応に修行を積んだ者が掛けられる、強力な呪なのさ。おめぇら、天海という名を知ってるか?」
「確か……江戸時代の初めに、徳川家に重宝されたお坊さんですよね」
葵が答える。天海の名は、歴史の勉強をすれば出てくる事もある。学業優秀な葵が、それを知っていてもおかしくはない。龍麻もその名は知っていたし、醍醐も小蒔も思い当たるものがあるようだ。京一には……聞くだけ無駄だろう。劉に至っては、日本史の知識を求めるのは酷である。
「あぁ、そうさ。では、その天海が言霊を使ってこの地に何をしたか……それを知っているか?」
さすがにそれを知る者はいなかった。天海が何をしたか、であれば答える事もできるだろう。だが「言霊を使って」となると、話は違ってくる。
龍麻達の表情から察したのだろう。それも仕方ねぇ、と道心は髪のない頭を撫でる。
「少し長くなるが、大人しく聞いてるんだな。天海僧正ってのは、江戸時代の人間で、比叡山天台宗の坊主だ。この天海こそ、江戸幕府草創期の三代に渡る将軍に仕え、徳川三百年の太平の基礎たる部分を確立した男よ」
ここまではいいな、と龍麻達を一瞥する。この辺は歴史でも触れられる部分だ。
「埼玉の川越に寺がある。名を、星野山喜多院――そこの住職だった天海は、比叡で学んだ天台密教だけでなく、高野の真言密教や神道に通じ、風水や様々な呪法にも詳しかった。後に徳川家康に重用されることとなった天海は、己の持つあらゆる知略と法力を駆使して、徳川家を守護した。そして、家康の拠点となる江戸の都市造りにおいて、天海は京都に目を付けた」
「京都の、霊的な護りにですか?」
京都にあった平安京が四神相応の地だったというのは、最近の風水ブームでたまに取り上げられる事がある。
特に昔は、そういった呪術的なものが盛んであった。都を建てるのに適した地相を選び、そして都の造成時には、通り一つ造るにも気を配り、更に護りの要として寺社を建立――平安京が呪術都市と呼ばれる事があるのはそういった理由からだ。
「その通り。平安京以降、天皇の御所、朝廷があった場所であるが故に、彼の地には昔から、陰陽師、風水師達による霊的な護りが布かれておるのよ。天海はそいつを東京……当時の江戸にも持ってきたかった。だが、風水的に理想の地であった京都と違い、江戸には水浸しの下町と小山程度の台地しかない。つまり、風水の呪法を施すには、地相的に悪相だったのさ。だが、天海は諦めなかった。なければ、創るまでと考えた」
「そこで用いたのが、言霊、なんですね」
だが、ここまで話を聞くと、疑問が生じる。何故、そこまでする必要があったのかだ。地相的に最悪ならば、わざわざ江戸に幕府を開く必要はない。もっと地相のいい場所を選べばいいのだ。
(江戸でなければならなかった理由……それは何だ?)
「疑問はあるだろうが、今は置いとけ」
思案顔の龍麻、葵、醍醐にそう言って、道心は続けた。
「では、天海がそうまでして護ろうとしたもの。それは、果たして何であったか……龍麻、おめぇ、どっちだと思うよ? 徳川家か、それとも江戸の町か」
「徳川家、でしょう? 少なくとも、幕府に仕える身の天海にとって、一番大切なのは将軍家でしょうし」
考えるまでもない。元々、徳川家は東海地方、三河周辺の戦国大名だったのだから、江戸の地自体は、これといって徳川に特別縁のある場所ではないのだ。
「そうだな。そう考えるのがごく自然だろうよ。天海が言霊を使ってこの地に布いた方陣は全て、徳川の権威と繁栄を護るためのもんだ。だが、結果的にはこの長き時代
「個人的には、そうであってほしいですけどね」
民あっての権力である。権力を護る為ではなく、その権力を支える原動力となる民を護る為の呪法。そうであってほしい、というのが龍麻の正直な気持ちだ。
そんな龍麻に道心は懐かしむような顔を向ける。
「くくっ、やっぱりおめぇは親父殿によく似てやがる。どうしてそうも、お人好しかねぇ」
「血筋、じゃないですか?」
恐らく弦麻と重ねているのであろう道心の視線を、龍麻は笑顔で受け止めた。違いねぇ、と道心も笑う。
「まぁいい。それはともかく、だ。おい、そっちの――」
突然、道心は小蒔に視線を移し
「ちゃんと俺の話についてきてるんだろうな?」
と尋ねる。頭を捻っていた小蒔はあたふたと慌て
「えっ……えぇ〜っと……ちょっと、京一! キミはどうなのさっ!?」
別の生け贄を差し出した。責任転嫁というやつだ。しかし京一は腕を組んだまま、微動だにしない。
「京一……目、開けたまま寝てんの?」
「そうかもしんねぇ」
ぱたぱたと目の前で小蒔が手を振ると、ようやく目を瞬かせて、自信なさげに答える。そして、小蒔と同じように生け贄を指名する。
「ひーちゃん……ちゃんと理解してっか?」
「そりゃまあ。要約すれば、それ程難しい事を言ってるわけじゃないし」
つまり、言霊や風水という呪法を使って、江戸の地をを護ったという事だ。長々とした説明だったが、話に付いていこうと思えばそれだけで事足りるのである。
「もういい……おめぇらはそこで大人しくしてろ」
ぽかんと大口を開けて呆けている京一達に、投げやりにそう言って、道心は優秀な生徒達――龍麻、葵、醍醐、劉を見やる。
「そうして、風水の力と言霊の呪法によって、江戸の地に荘厳な呪の曼陀羅を築き上げた天海だったが、その中でも特に、封じ込めるのに身を砕いた場所がある。それこそが――鬼門よ」
「鬼門……艮
この言葉自体も、珍しいものではない。葵の言う通り、昔は方角を十二支で表していたこともあるし、艮の方角――東北を鬼門と呼ぶのも割と知れ渡っている。何せ、高校の授業で使う古語辞典に載っているくらいだ。
「そうよ。この方角からは、邪気や災い、鬼や死霊が出入りすると信じられ、はるか昔から、忌み嫌われ、封じられるべき方角だった。かくいう天台宗の総本山、比叡山も京都の艮の方角――つまり、京都の鬼門封じとして建てられてるのさ。では天海は、この江戸の鬼門を何をもって封じたか……」
ごくり、とつばを飲む音が聞こえた。内容が理解できる者、できていない者……それぞれだが、道心の表情と声が真剣な、厳しいものに変わっていく様子に、ここからが重要なのだと悟ったのだろう。
「まず鬼門たる場所には、東叡山という名が付けられた。東叡山……つまりは東の比叡山さ」
「まさか、言霊……ですか?」
先の話を思い出し、醍醐は確認を取る。あぁ、そうさとそれを肯定する道心。
「それまでただの小山だった場所が、そう名付けられた途端に、名の通りの《力》を持ち始める。それだけじゃあねぇ。弁財天の祀られた平凡な池は、琵琶湖を――桜の植えられた小山は、吉野山を――そして、輪王寺って小寺は、京都御所を――こうしてその地は、まるまる京都最強の方陣の再現となった。その場所こそが、江戸の鬼門――上野寛永寺よ――」
寛永寺。この東京の鬼門とされる場所。鬼道衆との闘いの時にも思ったが、ただの寺が様々な意味と役割を持っているのがとても不思議に思える。増上寺は《鬼道門》封じ、五色不動は江戸を護る結界だったか。そして、今回の寛永寺は――鬼門封じだ。
だが――
「道心さん。鬼門とは、そうまでしても、堅固に封じなければならないものなんですか……?」
葵が疑問を漏らした。どうにも腑に落ちない、そんな表情だ。鬼門が忌み嫌われる方角だというのは分かるが、京都の再現までするのは、大袈裟に感じられるのだろう。
「そうさ……と言いてぇ所だが――」
道心は大きく息を吐いた。言いてぇ所だが――つまりは違うという事だ。ならば、何故に?
「実はこの話には恐るべき事実が隠されている。ここからが……俺が語るべき最後の真実だ。龍麻……心して聞くんだぜ?」
「ええ」
真剣な面持ちで、龍麻は返事をする。それに満足げに頷くと、道心は空を仰ぐ。
「俺の口からおめぇに事実を話すことになろうとは、あの時にゃ……思いもしなかったぜ」
そして勢いよく頭を下げると、鋭い目を龍麻達それぞれに向けた。
「いいか、おめぇら。恐らくこの事に気付いてるのは俺と龍山……それから、関東一の陰陽師である、御門の若棟梁くれぇのもんだ。俺はさっき、上野は江戸の鬼門だと言った。だが――当時の江戸城本丸から正確に北東を測ると、恐らくそこは、寛永寺じゃねぇんだ」
「えっ――?」
「それ……どういうことなの!?」
葵と小蒔が揃って声を上げた。道心はさっき、寛永寺が江戸の鬼門封じだと言った。だが正確に測ると寛永寺は鬼門ではないと言う。混乱するのも当然だ。男性陣もその事実に戸惑いつつ、次の言葉を待つ。
「正確に言えば、江戸の鬼門を影で護り、封じてきたのは、浅草にある浅草寺なのよ。では――そこまで徹底して造られた寛永寺は果たして、何を封じるためのものだったのか――それこそが、この江戸にあり日本で最大の《力》を持った、最強の《龍穴》――真にこの島国の黄龍のおわす穴よ――」
(何だ……この感じ……)
黄龍――その言葉が、龍麻には妙に重々しく感じられた。浜離宮で話を聞いた時には何ともなかったのに、だ。体の奥底から湧き上がってくる奇妙な感覚。自分が持つ《力》が、騒ぎ始める。
「この小さな島国を司る、大いなる主龍の流れの末に開く穴。それこそが、黄龍の穴と呼ばれるその地で最強の龍穴さ。そして、この穴から噴き出す、大地を統べる大いなる《力》は、いつの時代にも、たった一人のためだけにある」
道心の双眸が、龍麻に向けられる。他の者達の目も、それを追うように龍麻へと注がれた。