龍山邸。
 龍山は過去にあった出来事を全て語った。十七年前の中国は客家で起こった、龍脈を巡る闘いのこと。龍麻の父、弦麻がその闘いで命を落としたこと。
「そうして――赤子が、連れて行けるようになるまで中国へ留まり、それから日本へと戻ったわしは、人伝に、ある夫婦にその子を預けたのじゃ」
 そこからは龍麻自身の方がよく知っている。物心ついた時から人に視えないものが視え、そして《暴走》。育ての親に見放され、叔父の家に引き取られた後は「比較的」平穏な日常を経て再び覚醒し、今に至る。
「それから十七年――お主は自らこの地へと戻ってきおった。宿命という名の星に導かれて、な――」
「それじゃあ、ひーちゃんが新宿ここへ来て、得体の知れない事件に巻き込まれていくのは、初めから、決まっていたコトだって言うの……?」
 小蒔の口調は半信半疑だ。間を置いて龍山は口を開いた。
「人にはそれぞれ、持って生まれた星――宿星、というものがあるのじゃよ」
「宿星……そう言えば、秋月さんもそんな事を……」
 今までに何度か耳にした言葉。転校して来て間もない龍麻の口から、そして最近――つい先程出会った秋月マサキの口から出た言葉。
「うむ。宿星とは、人が生まれながらにして背負う定め――《死生命有り。富貴天に有り》即ち、人の進むべき道というのは、天命によって、現世に生を受けると同時に、定められておるのじゃ」
「天命、ね……」
 つまらなそうに京一が呟く。
「けど、生まれた時から進む道が決まってる、なんてよ。なんか……納得いかねぇよな」
 何を考えようと、何を努力しようと。結局はあらかじめ決まっている方向へと進む……馬鹿らしいことこの上ない。
 人は自分の意志で人生を歩む――現在の自分があるのは、本人が今までに成した事象の積み重ねがあるからであって、天命だの運命だの宿星だのという言葉で軽々しく片付けられたくはない。
「何か突然すぎて、頭ん中の整理もつかねぇよな。俺だったら、何もかも投げ出してどっかに逃げちまってるかもな」
「俺は悪い事ばかりでもないと思うぞ」
 黙ったままの龍麻を気にしつつ、京一は否定的な意見を出すが、そう言ったのは醍醐だ。
「運命だろうと何だろうと、それによって真神に来たからこそ、俺達と龍麻は、こうして共にいるんだからな」
「そっか……言われてみれば、それもそうだね。でも、十七年前の中国で、今のこの東京と同じ様なコトが起きてたなんて……なんだか信じらんないよ……」
「魔星の出現と共に龍脈が活性化して……その《力》を手に入れるために、ひかりかげの争いが起こった……そういうことなのね」
 今現在、東京で起こっている事件ですら、常識を越えたものだ。それが過去にもあったなどと、小蒔が信じられないと言うのも分かる。
 葵は浮かない顔だ。過去の出来事が今もずっと尾を引いていて、そのために今年になって様々な出来事が起こった。今までに自分が関わったそれを思い返しているのだろうか。
「あぁ……そして、その時先生が、その――弦麻という人達と共に闘った相手が、今、俺達を狙っている奴なんですか?」
「うむ。わしの易によれば、《遇大過之震於坤》――という卦が出ておる。つまり、坤――南西の方角から訪れた大いなる過ちと禍とが、この地を震撼させるに至る――つまりは《雉鳴竜戦きじなきりゅうたたかふ》――天下に異変の起こる予兆じゃ。かつて、弦麻が命を賭して奴を封じた客家の三山国王の岩戸は、この東京より、まさに南西に位置する。大地の震撼とは、まさに龍脈の活性化こそを意味するもの――そして何より、あやつが封印を解き、蘇ったのであれば、再び龍脈の《力》を求め、魔星の出現と共に日本に戻ったも道理。そして――」
 一度言葉を切り、龍山は龍麻へ視線を移す。
「緋勇よ、お主があやつに狙われるのもまた、道理なのじゃよ」
「それって……ひーちゃんが、前にそいつを封印した人の息子……だから?」
 小蒔の疑問は、皆に共通したものだった。敵は明らかに龍麻個人を狙いに定めている。拳武館を通した時は自分「達」を狙っていたようだったが、最優先は龍麻の抹殺だったという話だ。過去の恨みを晴らそうというのだろうか。
「それだけではないのじゃ。弦麻は、龍脈の作用によって生まれた《力》だけでなく、元来、人並み外れた氣の《力》を持っておった……お主は、その弦麻と――」
 そこで龍山は一度言葉を切り、一瞬だけ葵に目を向け、続けた。
「菩薩眼の娘との間に生まれた子じゃ」
 一瞬、場が凍った――龍麻達にはそう思えた。龍山の口から出た言葉を反芻する。龍山は今、何と言った? 
「龍麻の母親が菩薩眼――!?」
 声に出したのは醍醐だった。龍麻達の間に動揺が広がる。菩薩眼の娘――龍脈の流れを視通す者。今の事件より少し前、自分達と闘った鬼道衆が捜し求めていた者。龍麻の母親が、それだというのだ。
「私と……同じ《力》を持った人が、龍麻くんの……?」
 葵は言葉を失い、龍麻の方を向く。龍麻の方も、菩薩眼の言葉から葵を思い浮かべたのか、そちらへと首を向けていた。二人の視線が絡み合う。
「お主と葵さんが出会うたのも、わしには全て、因果の輪のことと思えてならぬ。のお、緋勇。少しは運命……いや宿星というものを信じる気にはなったかの?」
 龍麻には即答できなかった。今まで知り得なかった事――両親の秘密、過去の出来事、そして今現在起こっている怪異。その全てが繋がっているなどと言われても、即座に理解できるわけがない。
「……よく、分かりません……」
 そう答えるのが精一杯だった。得た情報がどうやっても纏まらない。いや、認めたくないのかも知れない。今までにないくらい、龍麻は自分が混乱しているのを感じていた。
「そうじゃの……なにも、焦る事はないのじゃ。ただ、己の道を見極め、思うように進むがよい。そうすれば、自ずと道標は見つかるじゃろう」
「はい……」
「お主の父と母は、お主と、そして世界を護るために共に闘い、そして――ついにはどちらも帰らなんだ。大いなる二つの《力》を受け継いだお主には、まだ知らねばならぬことがある。そして、やらねばならぬことも、な……」
 ふう、と長い時間を掛けて龍山は息を吐く。その様子は何か迷っているようにも見えた。やがて、重々しく口を開ける。
「やはり、あの男に会うてみるべきか。楢崎道心にの……」
「楢崎……道心? さっきの話に出てきた、父と共に闘ったという人ですか?」
「うむ。若い頃には高野山金剛峯寺において密教の修法を学び、後に、神仙への道を求めて山に入り、修験の僧となった男じゃ。あやつが何を見出し、何に絶望して山を降りたのか知らぬが、わしが出会うた時には、すでにあやつは破戒僧であったよ」
 その頃を思い出したのか、龍山の顔には苦笑と、そして懐古の色が浮かぶ。
「破戒僧ってあれだろ? 確か、肉も食えば酒も飲む、時には女も抱くっていう、要は、生臭坊主じゃねぇか」
 ろくなもんじゃねぇ、と京一は肩をすくめる。しかしよくよく考えるならば、そう言ってしまえば今の世の中の僧侶のほとんどが生臭坊主という事になる。一生を仏道に捧げる者など、そうは存在しないだろう。
 まぁ、その通りじゃな、と龍山は気にした風でもなく、続けた。
「じゃが、俗世との関わりを絶った寺僧とは対極に位置する彼らは、その実、純粋な求道者よ。奴の求めるもの……それは決して人の手に入るものではない。それでもあやつはあの日、訪れた弦麻の内に何かを見出し、共に行くことを決めたのであろう。楢崎道心は、密教の秘術と会得した験力を用いて、先の闘いにおいて、弦麻と共に先陣を切って闘った男じゃからの」
「龍麻くんのお父さんと、共に闘った人……それなら、私達の力になってくれるかも知れないわね」
「……そうだといいけどね」
 龍麻は葵にそう答えた。父の戦友だったという人物が、どのような人なのか、龍麻は全く知らないのだから。
 それに――今までの事を思うと、過度な期待はしない方がいい。
「案ずることはない、緋勇。あやつなら、必ずお主に力を貸してくれるはずじゃよ。道心とは、十七年前に中国で別れたきりじゃったが、数年前に、日本に戻ってきおったらしい。このわしには、挨拶の一つもないがの。まぁ、それが奴らしいといえば奴らしいのじゃがな」
 龍麻の胸中を知ってか知らずか、龍山はそう言って笑うが、すぐに表情をあらためると、目を閉じ、天井を仰ぐ。
「あれから、十七年――長かったようで、あまりにも、短かったの……今まで真実を隠しておったわしを、お主は恨むかの?」
「……正直、分かりません」
 いいえ、とは言わなかった。たっぷり間を置いて、そう答える。だが、心の中にはある種の感情が湧き上がっていた。それを抑えようと、無意識のうちに龍麻は拳を握り締める。
「わしを恨むのは仕方がないことじゃ……」
 予想はしていたのだろうが、龍山の顔は悲しげなものに変わる。
「じゃが、己の運命からは、決して目を背けてはならぬよ……」
 だがその一言が。
「だったら、何故――っ!」
 龍麻の激情を堰き止めていた堤の楔を抜いた。床に叩き付けられた拳が、木製の床を破砕する。突然の行動に、京一達は目を見張った。
「運命から目を逸らすな!? それを僕の目の前から遠ざけたのは先生達でしょう! 平穏な人生を送って欲しい、僕の親はそう望んでいたのかも知れない! でも……!」
 ギリッと歯軋りする音が聞こえる。俯いているので龍麻の表情を窺う事はできない。
「こうなる事が分かっていたのなら、そうするべきじゃなかった! 物心がついた時から、僕を鍛える事だってできたはずだ! 《力》や《氣》の扱いも、怪異に対処するすべも!」
「龍麻、少し落ち着け! 先生の気持ちも少しは――!」
「雄矢は黙ってろ!」
 感情を露わにし、早口で捲し立てる。見かねた醍醐は止めようとするが、龍麻は一喝してそれを黙らせた。
「矛盾してるじゃないですか! 中国での闘いが終わった時から、それが早いか遅いかの違いでしかないと分かってたんでしょう!? 闘う運命にあるというのなら、何故最初からそれに備えさせようとしなかったんです!? そうしていれば――助けられたかも知れないんだ!」
 龍麻が《力》を自覚してからほんの数ヶ月。それだけの短期間でも、彼の戦闘力は高くなった。幼少時から修練を積んでいれば、もっと早くに目醒めていただろう。そうであれば――
「僕を庇って殺された麻紀も!」
 《暴走》などすることもなく、彼女を護り、あの程度の悪霊なら斃せていた。
「僕が殺した、鬼に堕ちた莎草も!」
 そうなる前に倒して《力》を奪えていたかも知れない。
「比良坂さんだってそうだ!」
 少々の薬物や拘束具などものともせず、彼女を救う事ができたはずだ。
「今までの事件に関わって死んだ人達だって、もっと減らせたかも知れない! それとも、その人達の死ですら、運命だったで片付けるつもりですかっ!?」
 全てが救えた、とは思わない。所詮個人の《力》がいかほどあろうと、できることは限られる。それでも思わずにはいられないのだ。もしもあの時、今の《力》があれば――ここまでのものでなくとも、ある程度の修練を積んでいれば、と。
 そんな仮定をしても意味はない。それが分かっていても、龍麻は叫ばずにはいられなかった。
「……何を言っても、今更ですけどね……もう、過ぎたことですから……」
 荒れた呼吸を整えて、龍麻は声を絞り出す。そして俯いたまま、完全に黙ってしまった。
 京一達には、掛ける言葉が見つからない。今までの龍麻を見知っている彼らには、彼がこうして心情を吐き出す事自体が珍しい。例外は葵と醍醐だが、そんな彼女達にも、今は彼に対して何もできはしなかった。
 気まずい沈黙が続く。放っておけば、ずっとそのままだったかも知れない。そういうわけにもいかず、醍醐が沈黙を破った。
「先生。それで、その楢崎道心という方は、どこにいるんです?」
「……とりあえずは、中央公園に道心を訪ねるがよい」
 苦悩をその表情に滲ませたまま、龍山は告げる。それを聞いて、京一が素っ頓狂な声を上げた。
「ちゅ……中央公園!? その、道心ってジジイは中央公園に住んでんのかよっ!?」
「でも、それらしい人なんてボク、一度も見たことないよ?」
 小蒔の方も記憶を呼び起こそうとしているのか、腕など組んで頭を斜めに傾けている。
 その様子に、龍山が微笑を浮かべた。
「あやつは世間との、必要以上の関わりを嫌うておるからな。普段は、己の張った方陣の中に隠れて暮らしておるんじゃよ。普通の人間には、決して気付かれることのない別の空間じゃ」
 今日訪れた、浜離宮のようなものだろうか。それだと、案内役が必要になるが。
「それじゃあ――どうすれば、その道心先生に会うことができるんですか?」
「なに、案ずることはない。あやつの方で、お主らを方陣の中に招き入れるじゃろうて。じゃが、あやつのことじゃ。底意地の悪い罠の一つや二つ、用意していることじゃろう」
 醍醐の問いに、仕方のない奴だとばかりに龍山は溜息をつく。そして皆に視線を走らせて、忠告を発した。
「よいか――あやつの方陣に足を踏み入れたら、いかなることがあろうと、名前を言うてはならぬぞ」
「名前を……? つまり、誰かに会っても名乗ってはいけないということですか?」
 不思議そうに葵が確認を取る。名乗ってはいけない、何とも奇妙な忠告だ。しかし、龍山の言うこと。何かしらの理由があるのだろう。
「そうじゃ。それだけ覚えておれば、後はお主らの力でなんとかなろう」
「分かりました、先生。それじゃあ、俺達はそろそろ……」
 頭を下げて、醍醐が立ち上がる。京一も時計を見やり、刀の入った袋を手に取った。
「あぁ、そうだな。すっかり長居しちまったし、そろそろ帰るとしようぜ」
 ここへ来てから、それなりに時間が経っている。来た時間も遅かったが、これ以上長居するのは、家族持ちには都合が悪いことになる。
「陽と陰の争乱によって活性化した龍脈の膨張が限界点まで達し、この地を揺るがす強大なうねりとなって放出されてしまうまで、もう時間がない……」
 皆が立ち上がる中、ただ一人座ったままの龍麻に龍山は目を向ける。
「緋勇よ……これから先、お主を襲うであろうは、数百年の間、因縁の輪を彷徨い続ける、怨霊ぞ。心してかかるがよい」
「……ええ」
 全く覇気のない、聞こえるかどうかの声で呟き、フラリと立ち上がる。顔を上げようとはせず、皆を残して龍麻はそのまま外へと出て行ってしまった。
「わしの言うことなど、最早聞けぬか……」
 どうやら龍麻の呟きは聞こえなかったらしく、龍山は肩を落とす。
(わしらがしたことは、間違っておったのかもしれぬな……)
 龍麻が言った事も、一理あるのだ。それによくよく考えてみれば、例え平穏な暮らしをして欲しいと願っていたとしても、もしも弦麻が生きていれば、息子に古武術の技を教えないはずがない。いずれ来る闘いが避けられないものなのであれば、そのために何かしてやるのが親というものだ。
「だ、大丈夫だよ、おじいちゃん。ひーちゃんにはボク達がついてるからっ」
「まぁ、そういうこったな。今のひーちゃんは、ちょいと混乱してんだ。あんまり気にすんなよ」
 あまりの落ち込みように、小蒔と京一は慌てて、励ますように言った。分かっておるよ、と龍山は弱々しい笑みを返す。外見は変わっていないというのに、纏う雰囲気は年齢以上に老けこんだもののように感じられた。
「皆――気をつけてな……それと、緋勇に……済まなんだと、伝えてくれぬかの」
「えぇ、分かりました。それじゃあ、龍山さん。私達、これで失礼します」
「先生、ありがとうございました」
 龍麻を追うように、残った四人も龍山邸を後にした。



 結局、龍山邸を出て街まで戻って来た時には、夜はすっかり更けていた。雨は止んでいるが、雲行きは怪しいままだ。下手をすれば、また降り出すだろう。
「もうこんな時間か。早く帰らねぇと、美里と小蒔はやべぇだろ」
 学生が彷徨く時間ではない。どころか、大人が一杯引っかけて、という時間すら過ぎている。それでも
「えぇ、でも……もう少し、歩いていたい気もするの……」
「うん。ボクも……そんなカンジだな……」
 女性陣二人は、そう答えた。普段なら、ここで醍醐が帰るように言うのだろうが、彼も帰宅を促すようなことはせず、目の前を行く背中をじっと見つめている。
「……龍麻――お前はどうしたいんだ?」
 龍山邸を出てから一言も発しない龍麻に、それでも醍醐は声をかけた。立ち止まろうとはしなかったが
「別に何も。とりあえず、今日はこのまま解散でいいんじゃないかな。明日は……中央公園に行くんでしょ?」
 ようやく、龍麻が口を開く。こちらを見ることはなかったが、いつもと同じ、落ち着いた声だ。京一と小蒔はホッと胸をなで下ろした。龍山邸での一件が未だに尾を引いていたら、と気が気ではなかったのだ。
「……そうだな……それじゃあ明日、十四時に待ち合わせる事にしよう。それでいいか?」
 醍醐が皆に問う。勿論異論はなかった。
「それじゃあ、お先に。みんな、おやすみ」
 挨拶をして、龍麻は歩いていく。
「……やはり、相当参ってるな」
 醍醐はポツリと漏らした。ええ、と葵も頷く。二人の視線は、龍麻の背に注がれていた。
「二人とも、どうしたのさ?」
「いや……龍麻がな。立ち直るのに時間が掛かるかもしれん」
 小蒔達には分からないようだが、今の龍麻は、龍山邸にいた時とさほど変わってはいないのである。外見上は通常通りだが、彼の内側は相変わらず揺らいでいるのだ。
「……同じ立場だったら、俺もああなっていたかも知れないな」
 醍醐自身、白虎という宿星に振り回された身だ。今の龍麻と同じような境遇に置かれていたとしたら、どうなったことか。
「でも、ひーちゃんが言ってたコトも分かるけど……おじいちゃんは、ひーちゃんの事、とっても心配してたんだと思うよ。だから、不安になるようなコトは、なるべく知らせたくなかったんじゃないかなぁ」
 龍山の落胆ぶりを思い出し、弁護するように小蒔は言った。えぇ、と葵もそれを肯定する。
「龍麻くんも、それは分かってるのよ。でも……」
 何やら言いかけた葵だったが、それ以上は口にせず、足早に龍麻の後を追う。京一は首をコキコキと鳴らしながら、醍醐を見やった。
「大丈夫なのかよ、今のひーちゃんを美里に任せてよ?」
「他に適任はいないだろう? 龍麻のことは、彼女に任せるのが一番いい」
 最近の龍麻の状態を考えると、今のうちに何とかしておいた方がいい。現場に復帰して以来、龍麻から常に感じられ、次第に大きくなっていった負の感情。今まで何も言わずにいたが、今回の件が下手に絡むと、それがどう変わるか分からない。
(自分の《力》に対する不安、焦りか……)
「早く元気になるといいね、ひーちゃん……」
「あぁ、そうだな」
「信じようぜ、美里を。そして、ひーちゃんをな」
 人混みに消えてしまった二人の方を見ながら、三人はしばし、その場に佇むのだった。
 僅かな不安を胸に残したまま。


 新宿区――都庁。
 今日出会った秋月マサキが描いた絵にあった、二つの塔。それを模して造られたという都庁舎の足下を、龍麻は歩いている。その少し後ろに葵の姿があった。追いかけてきたものの、どう接すればよいのか分からず、そのまま後に続くだけになってしまったのである。
 龍山邸の件から龍麻がだいぶ落ち着いてきたのは、感じるから分かるのだが、拒絶のオーラを纏っているとでも言おうか……話しかけるタイミングがどうしても掴めない。それでも何か話さなくてはと葵が口を開きかけたその時
「……何だか、大変な一日だったね」
 前を行く龍麻が、そう言った。まさか龍麻の方から話しかけてくるとは思ってもいなかったので、葵は慌ててそれに答える。
「そ、そうね……色々な事があって、色々な事を知って……私……ううん、きっとみんなも同じ想い……不安になっている……」
 そして今、こうしている間も不安は消えない。かつて旧校舎で龍麻を保護した時と似たような感覚が葵を包んでいた。
「あなたが……あなたが……どこか遠くへ行ってしまうんじゃないか、って」
 龍麻が立ち止まった。振り返り、怪訝な表情で葵を見る。
「龍麻……そんなこと……ないわよね?」
「そんなこと、あるわけないじゃないか」
 恐る恐る、確認するように葵が問うと、龍麻は苦笑いをして
「約束したはずだよ。もう二度と、皆の前から黙って消えたりしない、って」
 あの時と同じことを言った。失踪した龍麻が、自分に誓ってくれた言葉を。
 だが――不安は完全に消えなかった。心のどこかで、何かを危惧している自分がいる。
(どうして……私、何を恐れてるの……? 龍麻は勝手にいなくなったりしない……そう言ってくれたのに……)
「龍麻……私は……私達は、どんな事があっても、最後まで、龍麻の味方だもの。だから……どこへも行ったりしないでね……」
 不安を紛らわすように、念を押すように、葵は龍麻を見る。龍麻は苦笑いのままだったが、それでも頷いて見せてくれた。
 そこへ――
「あっ……雨が――」
 またもや雨が落ちてくる。水不足ならば天の恵みと有り難がることもできようが、今の龍麻達にとっては厄介なものでしかない。この時期、この時間に雨に濡れたりすれば、まず間違いなく風邪をひく。
「傘なんて、持っていないのに……今ならまだ小降りだから、走って帰れるわね。龍麻も、急いだ方がいいわ」
 空模様を眺めながら葵は言うが、龍麻は家路に就くつもりはないようで、建物の下――雨の当たらない場所へと移動する。
「僕は、少し雨宿りして帰るよ。葵は急いだ方がいい。この時間じゃ、親御さん達も心配してるだろうし」
 特に今日は土曜日だ。学校は午前で終わる。生徒会長の肩書きも「元」になっている今の葵には、帰宅がここまで遅くなる理由がないのだ。一体今日はどうしたのか、と両親と義妹に追求されるのは目に見えている。
 それは分かっているのだろう。しかし、葵は黙って龍麻の隣までやって来た。
「それじゃあ……少し、雨宿りしましょう」

 雨は衰えることなく地上へと降り注ぐ。遠くの空からは低い音が時折聞こえ、それは次第に大きくなりながら近付いてくる。
 二人は黙したまま、視線を虚空へと向けていた。ただただ、雨が止むのを待つ。
「……龍麻。さっきの事なのだけど」
 五分はそうしていただろうか。やがて葵の方から、龍麻へ話しかけた。
「龍山さんから。済まなかった、って」
「そう……」
 龍山に頼まれていた事を伝える。龍麻の方に、目立った反応はない。それから少しの間を置いて
「分かってるんだ」
 ポツリ、と龍麻が漏らす。葵は龍麻を見て、次の言葉を待った。
「僕の言ったことが、一方的なものだっていうのはね。先生達にだって、あの頃の事情があれば心情もある。その上での選択だったんだろうと思う」
 龍山達にとって、両親がどのような存在だったのか――今の龍麻にそれを知る事はできないが、大切な者であったろう事は想像できる。でなければ、その子供である自分の処遇に悩みはしなかっただろう。
「だから、先生達を責めるのはお門違いなんだろうね。それでも、ついカッとなっちゃって」
 龍山邸で龍麻が出した個人名――葵はその名が持つ意味を察することができた。
 麻紀――龍麻の覚醒と《暴走》の引き金となった少女。
 莎草――かつて真神にいた、素行の悪い生徒。《暴走》した龍麻が殺した男。
 比良坂――龍麻を護って、死んでいった少女。そして、自分が救ってやれなかった少女。
 いずれも、救えたかも知れない人達。
 突発的に《力》に目醒めた者達とは違い、龍麻に素養がある事は分かっていたのだから、覚醒させること自体は難しくはなかっただろう。先程の龍麻の言葉ではないが、もしあの時に《力》があれば――
 だが、何度繰り返してもifはif。あくまで仮定の話。あるのはただ、今という現実だけだ。
「《宿星》云々っていうのもね。僕は最初、深く考えてなかったんだ。古武術の師の言葉に従って真神に来ただけで。その後は色々な事件に関わって、色々な人達と出会って、別れて……龍山先生は運命だって言ったけど、僕はそう思ってない」
 雨のせいで気温が下がったためか、寒くなってきた。そのためか一旦言葉を切り、両手に息を吹きかける。吐く息は白い。
「真神に行くのだって、断ろうと思えばできた。こっちに来てからだって、事件から遠ざかろうと思えばできたんだ。見ざる聞かざる、そうしていればよかったんだから」
「でも……龍麻はそうしなかったわ」
「嫌だったからね。できることがあるのに、それをしないのは。結局、東京の命運を懸けた戦いなんてのに巻き込まれて、鬼道衆と全面戦争もした……でも、それは運命だったからじゃない」
 雨宿りを始めてから、ようやく龍麻の方から葵を見る。近くに光源がないためにはっきりと見えるわけではないが、葵にはその顔が、いつも通りの穏やかなものに見えた。
「それが、僕の意志だったから。そうしたいと思ったから。できることをやろうと決めたから。運命なんていう、後付けされる、言い訳じみた言葉のためじゃない」
 今まで黙っていたのが嘘のように、龍麻は自分の考えを次々と口にする。いや――自分にそう言い聞かせているのだろうか。
「《宿星》っていうか、生まれ持ったものがあるっていうのは認めるよ。雄矢達が四神をその身に宿してるように。葵が菩薩眼であったように。だけどそれは、そうであるという事実であって、それ以上のものじゃない。だって《宿星》を知る前だって、知った後だって、やってる事は変わらないもの。性格と同じでさ、個人を表す特徴の一つ、くらいの考えでいいんだ。僕はそう思ってる。いや……そう思いたいのかも知れない」
 そこまで一気に語って、龍麻は再び空を見上げた。雨足は弱まったが、黒雲の狭間から閃光が漏れ、一瞬だが龍麻の顔を照らす。
「ここ最近、僕の《力》は日に日に強くなっていく。何かに急かされてるみたいに。自分の《力》なのに、どうしてなのかは相変わらず分からないままだし、不安がないと言えば嘘になる。現に、今だって不安なんだ……」
 雷光で浮かび上がった龍麻の表情。そして、龍麻が内に抱く負の感情。かつて自分が菩薩眼として覚醒し始めた頃に抱いていたそれが、今は龍麻から感じられる。
「でも、僕がやる事は何も変わらない。僕の生まれがどうでも、僕の《力》が何であっても、そう決めたから……」
 龍麻は自分の手に目をやり、そう呟いた。拳をつくり、手を開いて、また拳をつくる――それを繰り返す。決意を言葉にはしたものの、完全に吹っ切れたというわけではないようだった。
「ええ、それでいいと思うわ」
 その手に、葵の手が重なる。周囲が冷えきっているせいか、互いの手がとても温かく感じられる。
「菩薩眼かどうかなんて関係ない。私は私だと、あの時、龍麻はそう言ってくれた。龍麻が持つ《宿星》が何であっても、私には……私達にはそれは重要なことではないわ。だって、龍麻は龍麻だから。だから、私達は私達にできることをしましょう」
 添えられた手から、葵へと視線を移す龍麻。その目に映ったのは、慈愛に満ちた聖女の顔。見る者に安らぎを与えてくれる笑顔だった。
(……軽くなった?)
 今までわだかまっていたものが、不意に弱まった。完全に消えたわけではないが、葵の言葉が、笑顔が、心に生じた闇を打ち払ってくれた。龍麻には、そう感じられた。
 ふと、等々力不動での出来事が頭をよぎる。かつて自分が葵に言ったセリフ。それを返されるとは思ってもいなかった。
「参ったな……」
「え?」
「いや、葵には随分助けられてるな、って」
 空いた方の手を、そのまま葵の手へと重ねる。彼女の存在を、温もりを、より感じられるように。
「ありがとう、葵。葵がいてくれて、本当によかった」
「ううん、私も嬉しいわ。龍麻の役に立てて」
 互いに笑みを浮かべ、しばし見つめ合う。そして、どちらからともなく、手を離した。気恥ずかしくなったのだ。
「いつの間にか……もうすっかり冬ね……」
 建ち並ぶビルの方を見ながら、葵は呟く。街路樹の葉も既にない。それが一層、寒さを、冬の到来を思わせる。
「今年の春、龍麻に出会って、すごく、色々な事があって……もうすぐ、高三の二学期も終わり。もうすぐ……今年もお終い……」
 色々な事。本当に色々な事があった。いい事、悪い事、悲しい事、嬉しい事――今までの思い出が浮かんでくる。
 不意に葵が笑い声をあげた。何事かと龍麻は首を傾げる。
「結局、私――ずっと龍麻のことばかり見ていたみたい。そして、これからも――あなたのこと……見つめていても……いい?」
「……だと、嬉しいな」
 葵は顔を上げ、龍麻はその視線を受け止めた。こういう雰囲気には未だに慣れないのだが、自然とその言葉は龍麻の口から出た。
 自分から訊いたというのに、葵の方が狼狽える。しかしそれが落ち着くと、黙って龍麻に身を預けた。龍麻は何も言わずにただ微笑み、葵もそれ以上は何も語らぬまま――
 雨が上がるまで、二人は寄り添っていた。



 翌日20日。
 浜離宮――結界内。
 結界により、外界から遮断されている空間。それ故に、天候も季節も関係なく、常に過ごしやすい環境が維持されている。12月だというのに桜が舞い散る常春の世界。
 その世界に護られながら生活している住人、秋月マサキは、池の畔で趣味に没頭していた。彼の目の前には一枚のキャンバスがある。昨日、龍麻達に見せた絵だ。不自然な空白部分があったそれは、秋月の筆によってその面積を減らしつつある。
「ふう……」
 筆を置き、息をつく。一通りの作業が終了したのだ。
 昨日まで白地だったそこには、秋月のよく知る者達が描かれていた。
「なるほどな。これが俺たちのもう一つの天命ってわけだ」
 描かれた自分の姿を見ながら、村雨は呟く。側には御門と芙蓉もいて、その目を絵に向けていた。
「しかし、これで全てではないようですね。空白がまだ残っています」
「そこに誰が入るのか……僕にはまだ視えない」
 御門の指摘に、秋月はそう答える。星見の《力》とは違い、先見の《力》は、そう都合のよいものではない。ある時突然、その光景が脳裏に浮かぶ。しかも、それがいつであるかは不明。便利なのか不便なのかよく分からない《力》だ。
「だけど、揃うのもそう遠い未来じゃない。緋勇さんたちは昨晩、白蛾翁の所で話を聞いたはず。だったら――」
「秋月様?」
 不意に、秋月の言葉が止まった。芙蓉の呼びかけにも返事はない。彼の目は、自分の描いた絵の一点に注がれている。
 様子がおかしい事に気付き、御門達が再び声を掛けるよりも早く、秋月は新しいキャンバスを取り出した。そして、何かに取り憑かれたように筆を動かす。
「おいおい、どうしたんだ、マサキの奴?」
「何かが視えた、のでしょう……しかし……」
 視えただけならばまだいい。問題はその内容である。
 しかも、秋月の様子から察するに、あまりよいものとは思えない。彼の顔からは血の気が失せつつある。視えた光景を忘れぬ内に描こうとしているのだろうか、一心不乱に筆を振るうその姿は、普段の秋月からはかけ離れたものだった。
 急いでいるためか、いつもの緻密さはない。しかしそれでも、絵の内容は理解できる。
 まず始めに描かれたのは一人の少年。村雨達には見覚えのある者。
「おい、こりゃ先生じゃねぇのか?」
 その顔は紛れもなく、緋勇龍麻のそれだった。周囲の様子はよく分からない。何故か、赤一色に染まっている。これでは場所の特定はできそうにない。
 続けて、その龍麻の背後に筆が入る。
「……これは?」
 それが何であるのか、分かった者はいなかった。赤。それだけが龍麻の背後に塗りたくられている。背景よりも濃い、真紅が。
「紅い影、としか言いようがないですね」
 パチン、と御門が扇子を鳴らす。周囲の赤から浮かび上がる、紅。形すら判然としないそれだが、何故か禍々しいものに感じられる。
 そして最後に、描かれたものは――
「刀……」
 いつもと変わらぬ無表情で、芙蓉がそれの名を口にした。日本刀である。
 赤一色の世界にいる龍麻の背後に、紅い何かが刀を携えて佇む絵。刀という武器を持つ以上、背後の紅は人なのだろうか。
「おいおい、こりゃあ……やべぇんじゃねぇか?」
 普段は強運として現れる村雨の《力》が、悪い予感となって警鐘を鳴らしている。この絵がいつの事を指しているのかは分からない。だが――急げと何かが叫んでいた。どんな危険な勝負でも感じなかった不安が、これでもかと湧き上がってくる。
「マサキ、悪ぃが俺は行かせてもらうぜ。何だかわからねぇが、嫌な予感がしやがる」
「ええ……御門、芙蓉、あなたたちも……」
「……分かりました。芙蓉、急いで支度を」
「御意」
 慌ただしくその場を去っていく三人から視線を戻し、秋月は最初の絵を見やる。《力》ある者達が黄龍と対峙する絵――その中の一人の姿は、変わらぬままそこにある。
 だが、不安は消えない。秋月には、その姿が揺らいでいるようにも思えた。



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