豊島区――池袋駅東口。
「池袋か……久しぶりだな、ここも」
懐かしそうに周囲を見回す京一。
龍麻自身は池袋に来たことは一度だけ。藤咲の弟が眠る雑司ヶ谷霊園に墓参りに来たきりだ。そもそも龍麻は、行動範囲が限られている。基本的に新宿を出ることはないのだ。例外は織部神社と如月骨董品店、それに紫暮の道場くらいで、趣味の寺社仏閣巡りも、東京に来てからはご無沙汰だった。
「滅多に来ないしね。でも、池袋にも美味しいラーメン屋が結構あるんだよね〜」
「桜井……俺達は遊びに来た訳じゃあないんだぞ」
「ゴメンゴメン、分かってるってっ」
たしなめる醍醐に、小蒔が手を合わせて謝る。
「まあ、うまいラーメンを食いたきゃ、さっさと悪党を捜せってことだな。けどよ――こうやって眺めてても、妙なところはねぇな」
「とてもあんな事件が起こっているなんて思えないわね……街を行き交う人の表情を見る限りでは、だけど……」
ぼやく京一に葵も頷くが、その表情は明るくはなかった。先の言い回しといい、葵は葵なりに、異常を感じ取っているようだ。
「池袋、渋谷、新宿――都内で有数の、人と物の密集する場所だ。こういう所には、あらゆるものが引き寄せられてくるというが……龍麻、お前も何か感じないか?」
「感じるというか、視えるというか」
「やはりか……苦手なものほど、敏感に反応するとよく言うが……いや、感知してしまうからこそ苦手なんだろうか――」
龍麻の答えに醍醐の顔色は悪くなっていく。霊感の強い醍醐は感じているのだろう。今この場所に漂っている霊達を。恐らく葵もそうだ。目に視えているのは龍麻だけのようだが。
「ようするに、アレがいるって言うんだろ?」
一方、異変に気付かなくとも醍醐の顔色には気付いた京一が、意地悪く笑っていた。
「アレって……何なんですか、京一先輩?」
「アレっていうのは、ほら夏になると出るアレのことだよ」
「夏に出るアレ……?」
「霧島クン、京一の言うコト、いちいち真に受けなくていいよ。幽霊は何も、夏にしか出ないってわけじゃないんだからさっ」
真剣に考え込む霧島を見て、小蒔が京一を小突く。
「えっ!? アレって……幽霊のことだったんですか!?」
「まぁ、そういうことだ」
笑みを崩さずに京一は醍醐を見ている。醍醐の方は、蒼い顔のまま口を歪めていた。
「それに、人の集まる所には、成仏できないアレが、人肌を求めて漂ってくるって言うからな」
「それだけじゃないわ。よくは分からないけど、激しい憎悪を感じるの……何か、強大な悪意がこの街の空を覆っている……龍麻くんも感じる?」
「うん……やっぱり、この街にいるね」
暗いままの表情の葵にそう答えて、空を見上げる。悪意とやらが見えるわけではないが嫌な感じはする。
「とりあえず、もう少し街の様子を見てみよう」
「だな。俺も池袋はあんまり詳しくねぇけど……まず、どっちへ行ってみっか?」
「僕も詳しくないしね……とりあえず、人の多そうな方へ行ってみようよ」
龍麻の指した方向には、一際大きなビルがあった。
サンシャイン通り。
「これはまた……結構な人出だね」
道行く人々を見て、龍麻は思わずそう漏らした。
見渡す限りの人の波。絶えることのない喧噪。発狂事件が起こっているというのに、その影響など微塵も出ていないように見える。
「確かにそうだな。怖いもの見たさの野次馬もいるだろうが、大半は、気にも留めない――自分だけは大丈夫、と思っているんだろうな」
醍醐の顔には苦笑いが浮かんでいた。護るべきものがこれでは、といった感じだ。
「無感動、無関心ってやつか。なんだか……寂しいね、それって」
別に護ってくれと頼まれたわけではない。自分達の行動は全て自発的なものだ。それでも、この状況を見てしまうと愚痴の一つも言いたくなる。
「まぁ、仕方ないのかな……」
「待ってください! ――皆さん!」
独り言ちたところに背後からの声。龍麻達は立ち止まった。聞き覚えのある、そしてここで聞くとは思ってもいなかった声だ。
「「さやかちゃん!?」」
師弟が揃ってその名を口にし、振り返る。そこにいたのは紛れもなく、先日霧島と共に仲間になった、アイドルの舞園さやかだったのだ。
「はいっ! お久しぶりですっ!」
周囲の人々は舞園に視線を向けはするが、そのまま歩き去る。こんな所にあの舞園さやかがいるはずない、とでも思っているのだろう。気付かれればそれだけで大騒ぎだろうが、この時ばかりは無関心な街の人々に感謝する。
「こんな所で、どうしたの? 今日は赤坂のスタジオで、レコーディングのはずだろ?」
「ふふっ。もう終わったのよ。事務所に帰る途中で、皆さんの姿を見かけたから――」
予定を知っていたのだろう。ここにいることに驚いている霧島の顔を、舞園は年相応の女の子の笑みを浮かべて面白そうに見た。それから龍麻達に視線を向け、龍麻で止める。
「つい嬉しくて声をかけちゃったんです。龍麻さんもお久しぶりです。お元気ですか?」
「元気だよ。怪我も治ってきたし。それにしても、こんな所で会うなんてね」
霧島の時と同じように右手を見せてやる。あの時と違って動いている右手を見て、舞園は安心したようだった。
「ふふふ、そうですね。でも、お元気そうで安心しましたっ。龍麻さんに、皆さんに会えてすっごく嬉しいです。それから皆さん、あの時は、本当にありがとうございました」
と、深々頭を下げた。気を遣わないで、と葵が微笑む。
「私達は当然のことをしただけだもの。ねぇ、龍麻くん?」
「そうだよ。あの時も言ったけど、気にすることなんてないから。それよりも……」
先程までの温和さは消え失せ、龍麻の表情が真剣なものに変わった。
「用事が済んだなら、早く帰った方がいい」
「そうだぜ、さやかちゃん。この辺はちょっと……やべぇからな」
続いて京一も周囲を見ながら言った。
「あの事件のことですね」
二人の様子に、舞園もその表情を曇らせる。池袋の一件は彼女も知っているようだ。舞園は何やら考え込んでいたが
「あの……私にも、何かお手伝いできませんか?」
と、突然の発言。一瞬、彼女が何を言ったのか理解できなかった龍麻達。
「何言ってんだよ、さやかちゃん! 余計なコトは考えずに、仕事、頑張ってくれよっ」
「そうだよっ。さやかチャンの歌を聴くことで、癒されている人はたくさんいるんだからさっ」
我に返った京一と小蒔が舞園に詰め寄る。気持ちは嬉しいが、はいそうですかと聞き入れるわけにはいかなかった。しかし、舞園も退かない。
「今日はもう、お仕事も終わりました。それに、私だって仲間ですよね?」
「そ、そりゃそうだけどよ……」
「……駄目だ」
龍麻の口から出たのは拒否の一言。その顔は指揮官のそれだ。
「どうしてですか? 霧島くんだっているじゃないですか。どうして私は駄目なんですか?」
「舞園さんの《力》を、まだ把握していないから」
納得いかないといった顔の舞園に、こちらは表情を動かすことなく答える。
「霧島の《力》は帯脇との戦いで大体のところは把握した。でも、舞園さんは違う。その《力》がどのくらいのもので、どこまで使えるのか、僕は全然知らない。この目で見ていない。実戦で使ったことのない《力》を、どうして信じられる?」
きつい言い方だが、他に言いようがない。龍麻は更に続ける。
「あの時見せた方陣技があるにはあるけど、あれはそう頻繁に使えるものじゃない。そうなると、舞園さんに今できることはないんだ」
誰の目から見ても、舞園は落ち込んでいた。戦力外通知を下されたのだ、そうなって当然である。京一達は何か言いたげだったが、龍麻の言っていることも理解できるので黙っている。
気まずい沈黙が流れるが、それを破ったのは
「龍麻さん、僕からもお願いします! さやかちゃんの同行を、許可してくださいっ!」
霧島だった。
「直接、戦うことができなくても、さやかちゃんだって《力》を持っているんです。傷を癒すくらいのことはできますっ!」
「そういえば、霧島は今回の件の敵がどんな奴か、まだ知らなかったっけ」
事件の解決に来たことは知っていても、敵の情報については何も教えていなかったのを思い出す。ならば、教えておかなくてはならないだろう。
「今回の敵は憑依師っていってね。人に霊を取り憑かせることのできる《力》を持ってる。取り憑かれた人間がどうなるか……ニュースで知ってるよね? 最悪、敵の操り人形になる可能性だってある」
「「……っ!」」
龍麻が何を言いたいのか、霧島は、そして舞園も察したようだった。
「舞園さんが霊に憑かれて自分を見失った時。戦える?」
あえて言葉にして、龍麻は問う。
答えはなかった。答えられるはずがない。今まで多くのモノと戦い、斃してきた龍麻達と違い、そういった覚悟はまだあるまい。
「そういうわけだから、舞園さんの同行は許可できない」
他の者達だって、実際にそうなった時にどれだけ動けるかは分からない。だが、今は舞園をどうするかの問題だ。あえて追求もしては来ないだろう。
「今回は、だけどね。……舞園さん」
「はっ、はい」
「別に君を特別扱いしてるわけじゃない。アイドルであろうと何であろうと、君は僕達の仲間になったんだから。ただ、今はまだ駄目だ。この件が終わったら、君の《力》を色々試す。本格的にこっちの活動を手伝ってもらうのは、それからだね。その時は遠慮なく頼るから、そのつもりで」
と舞園の肩に手を置く。その時にはいつもの温和な龍麻の顔に戻っていた。
「だから、今日は大人しく池袋から離れること。いいね?」
「……はい、分かりました」
素直に舞園は頷いた。落ち込んでいた表情も既にない。龍麻が自分という人間をしっかり見た上で判断したことが分かったのだろう。
「さて、僕達はそろそろ行くよ。そっちもお迎えが来たようだし」
こちらへ向かってくる人物を認め、龍麻は目で促す。多分、マネージャーというやつだ。
「それじゃあ、私はこれで失礼します。霧島くん、また後でね」
「うん。さやかちゃんも気を付けて」
「皆さんも、お気を付けて。……あっ、龍麻さん……」
去ろうとした舞園が立ち止まる。
「よかったら、これ……受け取ってくださいっ」
言って、持っていた鞄から取り出したのは一枚のCD。もちろん、舞園さやかのCDである。最近、ようやく舞園のCDを一通り買った龍麻だったが、まだ見たことない物だった。ということは――
「……今度出るっていう新曲?」
「なぁっ!?」
「はいっ。フライングですけど、どうぞ」
「ありがとう。遠慮なく受け取らせてもらうよ」
背後で京一の驚く声が聞こえたが、それを無視してCDを受け取る。
「それじゃあ、失礼しますっ!」
再度こちらへ頭を下げて、舞園は人混みに消えていった。
「ひーちゃんっ! 頼むっ、そのCDくれっ!」
「却下」
舞園本人がいなくなった途端、京一が龍麻にたかってくる。CDを自分のリュックにしまいながら龍麻はその手を払いのけた。
「ちくしょー。何か、ひーちゃんだけがオイシイ思いしてるみたいだぜ……」
「まったく、だらしがないなぁ、京一は。さやかチャンがいなくなったら……いや、いても一緒か。なんてったって、京一だもんね。って、あれ……?」
一人愚痴をこぼす京一を容赦なくけなす小蒔だったが、不意に怪訝な声を上げた。
「男の子が、こっちに走ってくるよ?」
これだけの人出の中ではあるが、その少年は明らかに、龍麻達の方へとやって来る。そして
「見つけたぞっ! お前ら人間なんかに、この世界は好きにさせないからなっ!」
こちらを指さし、そんなことを言った。一方、事態を飲み込めないのは龍麻達だ。誰の知り合いというわけでもない。そんな少年がいきなりやって来て、意味不明なことを言ってくる。
「ねえ君、僕達に何か用なの?」
「ボクは知ってるんだぞっ! お前たち人間は、ボクの仲間をたくさん殺した。自分たちの都合だけで、ボクの仲間を何万匹もっ!」
龍麻の質問にも答えず、少年はおかまいなしに言葉を続ける。何やら周囲の雰囲気とでもいうものが変わり始めた。これに似た雰囲気を龍麻は知っていた。
(……まさか、この子! )
それを確かめるべく龍麻は少年を視る。
「ふふんっ。しらばっくれてもダメさ。ボクはもう、お前たちの仲間を五人もやっつけたんだ。でも、お前たちはしぶといな。いまだにボクの――お腹の中で、泣きわめくんだからなっ!」
「この子、憑かれてる……!」
龍麻の言葉に緊張が走った。向こうから何らかの行動があるかも知れないとは思っていたが、まさかこんな少年が現れるとは予想外だったのだ。
「はははは……あーっはっはっはっ!」
言うだけ言って踵を返し、少年は笑いながら走り出す。それも、見た目通りの子供とは思えない速度で。
「ねぇ……お腹の中って……それってもしかして、食べちゃったって……こと!?」
少年の発言に顔色を変える小蒔。
「くっ……追うぞっ!」
「向こうから現れた手掛かりだ。逃がすわけにはいかないっ!」
いち早く状況を理解した醍醐が、そして龍麻が、少年を追って走り出した。
雑司ヶ谷霊園。
「よりによって、こんな所にね……」
二度目の来訪である龍麻が、油断なく周囲を警戒しながら独り言ちる。
結局少年の姿は見失っていた。
「広いねえ〜。夜来たら、確実に迷子になりそう……」
キョロキョロしながら小蒔がそんなことを言った。自然、醍醐の表情は曇っていく。
「不吉なことを言わんでくれ、桜井。夜の墓場なんて、青山霊園だけで十分だっ」
「そういえば、そんなこともあったわね。――!?」
不意に葵が立ち止まった。緊張した面持ちで首を動かし、辺りを探っている。
「ねぇ、龍麻くん……何か……いるような気がしない?」
「大丈夫、と言いたいところだけど……いるよ。そこかしこに」
苦笑いして、龍麻も足を止める。辺りに漂う霊の数が異常だった。
「そりゃ、墓地なんだからよ。霊くらいいるだろ?」
「僕が言ってるのは、動物霊の数のことだよ。どうやら、ここまでは誘いの手だったみたいだね」
言い終わってすぐ、墓の陰から人影が現れた。何の変哲もない中年の男だ。ただ、龍麻の視る限りでは普通ではなかった。
「君たち……死にたいと思ったことはあるかい?」
その発言も、普通ではない。
「俺はあるよぉ……いつもいつもいつもだ。くくっ。課長さえいなければなぁ」
目の前の中年が発したのとは別の声が、別の場所から聞こえる。そちらには若い男が立っていた。
「課長さえいなければ、いなければ……くっ、くくくくくっ。やっぱり食べちゃえばいいのかなぁ。あのでっぷりとした腹に、牙を突き立てて……うひっ、うひひひひいひいひ……」
「なんだ、こいつ……」
「わわっ! きょ、京一先輩……こっちからは、女の人が迫ってきますよっ!」
身構える京一の隣で霧島が慌てた声を出す。そちらからはOL風の女性が近付いてきていた。
「うふふふふ。可愛いわね、ボーやたち。柔らかくて、美味しそう……わたしを捨てたあの男なんかより、よっぽど美味しそう……ねぇ、どこから食べられるのがいい? その、お腹から? それとも、お尻から? ふふふ……やっぱり、丸飲みがいいかしら? ヒヒヒ……ヒャーッハッハッハッ!」
「みんなみんな、お腹を空かせてる……」
「今度はボクたちの番なんだ! ボクたちが人間を食い尽くす番なんだっ!」
墓のあちこちから、様々な人々が姿を現し始める。年齢も、性別もまちまち。共通しているのは常軌を逸したその目と物騒な発言くらいか。
「何か……何か、ヘンだよぉっ! まさかこれが、憑依された人達なのっ!?」
「そうだよ。憑依師によって霊を憑けられた人達。そして、現時点で僕達の敵だ……」
こちらに向かってくる人々に目を向けつつ、龍麻は《氣》を解放した。左腕の骨折はともかく、《氣》を普通に扱えるほどに龍麻は回復していたのだ。それに驚き、また、龍麻の《氣》が戦闘態勢に入るのに気付いて驚きを深める京一達。
「おい、ひーちゃん! どうするつもりだよっ!?」
「……とりあえず、倒す。こうなった人達に何が有効なのか、確認しておかないといけない」
「だ、だって、この人達は、普通の人でしょう!?」
「倒すか、何もせずに食われるか、それとも逃げるか。三択だけど、どうする?」
一般人に剣を向けることに躊躇いがあるのだろう。慌てる霧島に――そして、葵達に龍麻は問いを投げかける。
「僕達は、ここへ何をしに来たの? まさか、忘れていないだろうね?」
「そう、だったな……」
「あぁ。俺達は、憑依師の野郎をぶちのめしに来たんだ……だったら、こんな所で殺られるわけにもいかねぇし、逃げ帰るわけにもいかねぇよな」
醍醐が構えを取り、京一も抜刀した。
「美里、援護は頼む。桜井はとりあえず待機だ。弓の攻撃は、さすがにまずいだろう」
「分かったわ」
「う、うん」
葵、小蒔も思考を切り換えたようだ。霧島は迷いがあるようだったが、それでも剣を抜いた。
「よし、それじゃ――」
「みんな――! 早く、こっちへ!」
聞き慣れた声が聞こえてきたのはその時だった。声のした方を見ると、そこにはルポライターの天野絵莉がいる。
「ここは《彼ら》の憩いの場なのよっ! 私が安全な場所まで案内するから、早くっ!」
突然現れた彼女に、みな戸惑いを隠せない。特に、霧島は彼女と初対面だ。
「あの人……誰なんですか?」
「あの人は、天野さんといって、ルポライターなのよ。この東京に起こる怪事件を追っていて、いつも私達を助けてくれる人よ」
葵の説明を聞いて、霧島は表情を輝かせた。
「そうなんですかっ! よかったぁ〜。助かりましたねっ」
「あぁ、まさに救いの女神だなっ。一般人を傷つけるワケにはいかねぇし、ここは逃げるぜっ! エリちゃんなら、あいつらへの対処法を知ってるかもしれねぇしな。行くぜ、ひーちゃん!」
京一達は天野の方へと走って行く。一般人を相手にせずに済んだためか、皆の顔には安堵の表情が浮かんでいる。
ただ、龍麻一人だけが睨むように天野を見ていた。
豊島区――南池袋公園。
憑かれた人々の追撃を何とか撒いて、龍麻達は南池袋公園まで逃げてきた。
「追っては来ないみたい……もう、大丈夫よ」
「はぁ……ボク、もう、ダメ……」
「えぇ……もう、足がもつれて……」
小蒔と葵が側にあったベンチに腰掛け、呼吸を整えようとしている。体力には自信のあるはずの醍醐も息が荒い。
「さすがの俺も……息切れしてるな」
「ぼ……僕もです……。それにしても、天野さんって、足が速いんですね。もしかして……陸上部か何かだったんですか?」
肩で息をしている霧島が、尊敬の眼差しともいえるものを天野に向けていた。
「確かに……あれだけ走ったのに、息切れ一つしねぇなんてよ。大したもんだぜ、エリちゃん」
こちらも息を切らせている京一が感心して言うが、天野の返事はない。心ここにあらずといった感じだ。再度京一が声をかけると、ようやくこちらに気付いたようだった。
「あ……あぁ、そうなのよ。ルポライターは、この脚で情報を集めて歩くんだもの。日頃から、ちゃんと鍛えてるのよ」
得意げに笑って、天野は自分の脚を叩いてみせる。それから皆を一瞥すると、口の端を歪めて笑った。どこか天野らしからぬ、人を馬鹿にしたような笑み。
「ふふ。みんなそんなに息切れしちゃって。……緋勇……くん。あなたは大丈夫かしら?」
「えぇ。全く疲れてません。ご心配なく」
「そう……もう少し、疲れているかと思ったけど、意外だわ……」
答える龍麻の声も、どこか固く、そっけない。天野もそれを気にした様子はない。
「何だか、様子が変ね」
「あぁ……いつもと感じが違うな」
天野と、そして龍麻の様子に、葵と醍醐は眉をひそめる。特に龍麻の方は厳しい表情で、まるで天野を睨みつけているようだ。
ふぅ、と龍麻は疲れたように息を吐いた。
「そろそろ茶番はお終いにしない?」
「茶番、って……何のこと?」
意味が分からない、と首を傾げる天野。もちろんそれは、側にいた京一達も同じだったが
「霊園で会った時から、ずっと天野さんに憑いてたお前は何者だ?」
続く発言に、目を見開いた。自分達を助けてくれたはずの天野が、憑かれているというのだ。
「本当の天野さんなら、僕のことを《龍麻君》と呼ぶ。出会った頃ならともかく、今更、姓で呼んだりしない。それに、僕には霊を視ることができる。もちろん、憑かれた状態の人間だって見極められる」
龍麻の身体を、蒼い光が覆う。何かあれば瞬時に攻撃に移る、そんな雰囲気を纏っていた。葵達はどうしていいのか分からず、ただ状況を見守っている。憑かれた人間への対処方法、それが現時点では分からないのだから無理もない。
「ふふふ……」
やがて天野が笑い声を漏らした。その顔も愉快げに形を変えている。だが、どこか不快を誘う笑み。
「真実が知りたければ、ついてらっしゃい……ふふふふ……こっちよ――」
天野の姿を借りたモノは、そう言って公園から出て行った。
しばらく歩き、龍麻達は豊島区内の廃屋へと誘導されていた。何かの工場か倉庫だったのだろうか。似たような建物がいくつも並んでいる。
「この辺りは、みんな廃屋か……」
視線を巡らせて呟く醍醐。人の姿は見当たらない。少々派手に何かをやっても、気付かれることはないだろう。罠を張るには格好の場所だ。
天野はそのまま廃屋の一つへと入っていく。
「なぁ、ひーちゃん。エリちゃん、ホントに憑かれてんのかよ?」
「間違いないよ」
いまだに信じられないのだろう。京一が訊いてくる。確信を持って、龍麻は頷いた。
「でもさ、何で天野サンが憑かれてるの? ボク達との関係を、知ってたってコト?」
「いや。多分、天野さんは天野さんでこの件を追ってたんだと思う」
最近の天野は、自分達の知る限り、まともな事件を追ってはいない。渋谷区の烏騒動に始まって、港区の行方不明、江戸川区の連続殺人といった鬼道衆絡みの事件。そして今回の発狂騒ぎ――天野なら食いついてもおかしくない。
「そして、憑依師と接触した。ここからは仮説だけど、憑依師は霊を自在に操るらしいから、憑依させた霊を介して、取り憑かれた人間から情報を引き出せるんじゃないかな。そこで、僕達の存在を知った……そして、邪魔者である僕達を始末するために、こうやって招待してくれた、と」
肩をすくめて龍麻は廃屋へと目を向ける。あの中では、恐らく憑かれた人々が待ち構えているだろう。今度は戦闘を避けられそうにない。
「話はこれまで。みんな覚悟はいい?」
無言で頷く四人。龍麻は残る一人に視線を移した。
「やれるね、諸羽?」
「……はっ、はいっ!」
自分を名の方で呼んだ龍麻に、ぽかんと口を開ける霧島だったが、我に返ると自分の剣を握り締めて頷く。
「よし、行こう」
龍麻達はそのまま廃屋へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、視界は悪い。空気も澱んでいる。色々な物が足下に転がっていて、足場も悪い。
「ここ、何だったんだろうね? 薄暗くて……よく見えな――あっ!」
「どうした、桜井――うっ!?」
目を凝らして廃屋内を見回していた小蒔と醍醐が、立ち止まる。
「これはまた、用意周到だね……」
自分達を挟むような形で、見知らぬ人々が待ち構えていた。挟撃、下手をしたらそのまま包囲されてしまう形だ。
「やっぱり、これはみんな、憑依された人達なの……?」
こちらに確認してくる葵に、龍麻はただ首を縦に振った。
「どう見ても、普通の人間の瞳じゃないですね。あれじゃ、まるで――血に飢えた、獣の目ですよ」
憑かれた人々の数と、その尋常でない雰囲気に、霧島の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。さすがにこの状況に気圧されている。
「フフフ……ウヒヒヒヒッ!」
こちらの動揺を滑稽だとでも思ったのか、天野が笑った。ただ、その声は途中から別の者の声に変わっていた。聞き覚えのない、男の声だ。しかも天野の身体から、紅い光が立ちのぼってもいる。《力》持つ者の光――《陰氣》だった。
「ハーッハッハッハッハッ! ようこそ、獣の巣窟へっ!」
勝ち誇った男の声が、龍麻達の神経を逆撫でする。自分達のよく知る者が、利用されているのだ。怒るなというのが無理な話であった。
「くくくっ……この女は十分に役目を果たしたぜ。邪魔なてめぇらを、この罠へと誘い込むなぁ。しかし、罠と分かっていてついて来るとは……余計なことに首を突っ込んだ己の愚かさを呪うんだなっ! 俺の可愛い獣たちが、飯の時間をお待ちかねだ。喰われたくなかったら、せいぜい無様に逃げ回ることだなっ!」
「自分は姿を見せず、高みの見物ってわけ? 憑依師っていっても臆病者か……」
嘲る口調で言い放つ龍麻に、天野の動きが止まる。憑依師の名を出したことに反応したのか、それとも臆病者呼ばわりしたことに反応したのかは不明だが、動揺したのは確かなようだった。
「――やれっ!」
それ以上は何も語らず、天野の身体を借りた憑依師が命を下す。周囲にいた憑かれた人々が、じわじわと動き始めた。
「ちっ――! こうなったら……やるしかねぇっ! 諸羽ぁ! ビビるんじゃねぇぞっ!」
「は……はいっ!」
冷《氣》を発する刀、クトネシリカを抜く京一。霧島も、カラドボルグを抜き、構える。
「相手は一般人だ! 絶対にやりすぎるな! いくぞっ!」
言いつつもやりにくそうな表情の醍醐だったが、敵は待ってはくれない。
憑き物つき達が、一斉に襲いかかってきた。
一旦後方にいた数人を吹き飛ばし、建物の隅へと移動する龍麻達。四方から攻められては、葵や小蒔を護りきれないからだ。
「えぇいっ! タフなヤローだぜっ!」
叩きのめしたはずの中年が起きあがってくるのを見て京一が忌々しげに吐き捨てた。
醍醐も、龍麻も、霧島も、それぞれ応戦してはいるが、まだ一人も倒せないのが現状だ。いくら倒しても起き上がってくるのである。
「ゾ、ゾンビみたいですね……」
「ゾンビなら五体をバラバラにすればお終いだけど、そうも言えないし、ねっ!」
やや怯みがちな霧島の言葉に、龍麻は近寄ってきた男を蹴り飛ばした。
(ダメージにはなってるはずだ。それでも、身体が無事な限りは動けるのか)
肉体にいくらダメージを与えても意味はないのかも知れない。そんな考えになってしまう。手足をへし折ってしまえば行動不能にはできるだろうが、実行するわけにはいかない。
(打撃で気絶させるのは、無理なのか。だったら……)
先程蹴倒した男が再度向かってくるのを見て、龍麻は飛び出した。振り下ろされた腕をいなし、相手の奥襟を取る。身を翻して男の背後に回ると、襟を取ったままで更に身体を半回転――背負い投げの要領で男の身体を持ち上げた。もちろん襟はそのまま――男は少しの時間もがいていたが、やがて静かになる。絞め技を、無理矢理片腕でやってのけたのだ。霊を気絶させるというのも妙な話だが、肉体が眠ってしまったり、動かない状態では、憑き物も身体を自由にはできないと見える。
「雄矢、絞め技は有効っ!」
「それはいいが……! 一人一人絞め落としていくのは骨が折れるぞっ!?」
言いつつも憑き物つきの一人を背後から裸締めにする醍醐。締めや関節系の技なら醍醐の方がよほどうまくやる。だが、絞め技、関節技はどうしても隙を作る。一人を相手にしている間に別の敵が掛かってきても、応戦は難しかった。
「それに、京一達にそれをやれと言うのも無理だろう!」
「分かってるよ! ミサちゃんや舞子がいれば、眠らせるのも手なんだろうけどっ!」
(麻痺とか石化とか、そういう効果のある攻撃なら。もしくは、霊に直接ダメージを与えるとかができればあるいは……なら……)
別の憑き物つきの男の攻撃を躱し
「これならどうだっ!?」
パンッ!
相手の額に触れ、《氣》を解放する。乾いた音と共に男の身体が震え、縦に落ちた。
「《氣》も有効、か」
「おい、ひーちゃん! 今の、どうやったんだよ!?」
「《氣》を使ったスタンガンみたいなものだよ。元々、片手で人間を気絶させる用途でアレンジした物だから、脳震盪を起こさせる程度で、破壊力はほとんどないんだけど……」
「それはどうでもいいから! やり方を教えろっ!」
そう言われても、剣に乗せて放つのと、素手で触れて放つのとは勝手が違う。怒鳴る京一に龍麻は一瞬考え込み
「京一達がやるなら、《氣》をぶつけるんじゃなくて、流し込むような感じで! 僕も慣れてないから、今はそれくらいしか言えないよっ!」
今度は発剄を放つ。京一に言ったように、叩き付けるのではなく、流し込むつもりで。発剄を食らった人間は大抵吹き飛ぶのだが、物理的な威力は抑えられたためか、後ろに倒れるだけにとどまる。猫の霊らしきものが身体から飛び出していくのが龍麻には視えた。
「うだうだ言ってても始まらねぇ! やってやるさっ! 剣掌――旋ッ!」
京一が《氣》を練り、三人の憑き物つきを吹き飛ばす。一人は立ち上がったが、残りは倒れたままだ。どうやらうまくやったらしい。
「ま、こんなもんか。諸羽、お前も行けっ!」
「はっ、はいっ! ――旋っ!」
見様見真似で霧島も《氣》を放った。威力や精度は京一に及ばなかったものの、それでも一人の憑き物つきを倒す。
「初めてにしちゃ上出来だぜ、諸羽。その調子で行けっ!」
「分かりました、京一先輩っ!」
前衛組が、それぞれ憑き物つきに有効な攻撃を見舞っていく。勢いづいた龍麻達を止めることはできなかった。
「これで全部か――」
最後の一人を絞め落とし、醍醐は倒れた人々を見る。完全に意識を失っている者、呻き声をあげている者、それぞれだが、全員が動けなくなっているというのは共通していた。
「一応、峰打ちというか手加減はしたつもりだが、このダメージだからな。当分は起きあがれない――」
そのまま天野の方を向こうとした醍醐だったが、その動きが止まった。
「……?」
「どうした、醍醐? 呆けてる場合じゃねぇぞ。それよりも……残るはてめぇだけ――!?」
そう言った京一も、途中で動きを止める。
「もうっ、二人とも何やってんだよ! 天野サンを助けるのが先だろっ!」
呆けている二人を怒鳴り、小蒔が進み出るが
「コラッ! さっさと降参して、天野サンから出て――……!?」
やはり同じようにその場で止まってしまった。
「雄矢?」
「小蒔……?」
「京一……先輩?」
様子のおかしい三人に眉根を寄せる龍麻達。
「くくく、まったく単純な奴らで助かるぜ」
天野の姿をしたものが、男の声で、さもおかしそうに笑った。
「あははははははははっ! てめぇら、もう終わりだな」
「何っ!? どういう意味だっ!?」
元に戻った醍醐が鋭い視線を天野に向ける。だがそれに怯む様子は全くない。優位を確信した余裕の表情でこちらを見ている。
「てめぇらはもう、逃げることはできねぇよ。あらためて――ようこそ、獣
「あっ……行ってしまう――」
哄笑をあげる天野を見て、葵がそう漏らした瞬間、天野の雰囲気が一変した。禍々しい《陰氣》は消え失せ、呆然とした顔の天野だけが残される。天野に憑いていた「何か」が抜け出したのだろう。
何が起こったのか、よく飲み込めない京一達。その目の前で、天野の身体が揺れ――ドサッという音と共に、身体が倒れる。
「天野サン――!」
「エ、エリちゃん! くそっ!」
その場にいた皆が駆け寄り、京一が天野を抱き起こした。お世辞にも顔色はいいとは言えない。憑かれていたせいか、消耗しているようだ。
「天野サン……大丈夫!?」
「多分、気を失ってるだけだわ。ともかく、外へ出て、公園まで戻りましょう」
不安げな小蒔に、葵は天野の様子を見て、そう提案する。これといった意見もなく、皆は頷き、廃屋を後にする。
ただ、その場にいた全員の意識は、天野に向いてしまっていたため、途中で様子がおかしくなった京一達のことを気に掛ける者は誰一人としていなかった。