10月21日、3−C教室――朝。
「大変よ、大変よぉ〜っ! ついに掴んだわよぉ〜っ!」
朝の静寂を破り、アン子が3−C教室に飛び込んできた。何事かと周囲の視線が集中するが、気にせずにアン子は目当ての人物を捜す。その内二人を見つけるが、周囲の生徒達とは違い、落ち着いていた。というより、慣れていた。
「って、なぁんだ。まだ、美里ちゃんと龍麻君しかいないんだ」
「おはよう、アン子ちゃん。そんなに血相を変えて……一体、何があったの?」
おかしそうに問う葵に、アン子は意外そうな顔をした。軽く息をついて
「何がって……美里ちゃんは呑気ねぇ。あれからまだ一週間だってのに、もう忘れちゃったわけ?」
答えが出る前に、アン子は龍麻に話を振った。
「ねっ、龍麻君。何が大変なのか、わかるでしょっ?」
「大変かどうかは別として……どういった用件かは見当がつくよ」
「あぁ、よかった。龍麻君ならそう言うと思ってたのよ。……いいわっ! 特別に、奮発してこれあげちゃう!」
言うなり手にした新聞を押しつけてくる。彼女が自分に渡す新聞と言えば真神新聞しかない。今回のは運動会の特集だった。自分達のクラスが優勝したのだ。
一応、龍麻も参加はしていた。普通に走るだけなら支障はないのだ。
「ったく、どうしてお前はそう、朝っぱらからうるせぇんだよ」
「あら、おはよう、京一くん」
珍しく京一が早い時間にやって来る。
「どうせ、この間頼んだ調査の結果だろ?」
先週、舞園さやかにつきまとうストーカー、帯脇の件もあって、アン子に豊島区近辺で奇妙な事件がないか調べてもらっていたのだ。
「いつまでも、くだらねぇこと騒いでねぇで、いいから早く話してみろよ」
横柄な物言いに、アン子の眉が跳ね上がる。
「覚えてたのはいいけど、なんかムカつくわ、その言い方。どうせなら『杏子様、どうか教えて下さいませ』くらいのこと、言って欲しいわね」
「あははっ、それは無理だよ、アン子。京一がそんな言葉遣いしたら、絶対、舌噛むって」
やって来た小蒔が話に加わってくる。やれやれ、と京一が反論した。
「あのなぁ、小蒔。アン子にそんな事言ったら、舌噛む前に、口が曲がっちまうだろうがっ!」
「なんですってぇ〜っ!?」
そろそろ口ではなく手が出そうだ。が、ここでいつもの如く、醍醐が割って入った。
「どうしてお前らは朝からそんなに元気なんだ?」
「あっ、おっはよー、醍醐クン!」
「よぉ、醍醐。なんだお前、低血圧か?」
「そういうわけじゃないが……」
挨拶の後、溜息をついて、醍醐は傍観者の龍麻に声をかける。
「龍麻も朝からこのノリじゃ、大変だろう?」
「まあ、静かに過ごしたいと思う事もあるんだけどね」
「やはりそうか。俺も、毎朝毎朝こうだと、たまに頭痛がなぁ……」
「二人ともひっど〜いっ! あたしは憂鬱な朝の雰囲気を和らげてあげようと思って、こんなに元気に振る舞ってあげてんのよ!? ねぇ、桜井ちゃん?」
同時に再び溜息をつく二人にアン子が抗議する。そのまま小蒔に同意を求めるが
「何言ってんだ。お前ら二人とも、それが地だろ」
「ま、否定はしないけどね……」
京一のツッコミと、それを肯定する小蒔。桜井ちゃんの裏切り者っ、とアン子がよよよと泣き崩れる。
残り少ない朝の時間を馬鹿話だけで終わらせるのもどうかな、と龍麻は話を元に戻すことにした。
「で、遠野さんは、何をしにここへ来たのかな?」
「あ……っと、そうだったわ。この前頼まれた、中野、文京、豊島辺りの事件の話! 調べがついたわよ! もう、久しぶりの超猟奇的事件っ!」
「阿呆。そんなこと、喜んで言う事じゃねぇだろが」
嬉しそうなアン子とは対照的に、顔を顰める京一達。彼女は事件にありつけて嬉しいのだろうが、今まで多くの事件に関わってきた龍麻達としては、厄介ごとが増えただけに過ぎない。事件という以上、傷ついた人達が必ずいるのだ。喜べるはずもない。
失言だったとばかりに口を押さえ、とにかく聞いてよ、とアン子は話を再開する。
「事件はみんなの読み通り、豊島区を中心に中野、文京で頻発しているわ」
「それで? 一体、何が起こっているんだ?」
醍醐に先を促され、アン子はメモを取り出して目を通す。
「そうね……一つは、池袋界隈を中心に広がる、突発性の精神障害――そしてもう一つは、まるで大型獣に襲われたかのような、猟奇殺人……けど、こっちの方は、最近じゃめっきり数が減ったみたい。色々裏を取ってみると、被害者のほとんどが男性、しかも、揃って舞園さやかの大ファンだったって言うから、これはみんなが倒したっていう、帯脇って奴の仕業でしょうね」
帯脇絡みの事件、それだけだと思っていたが、どうやら別件もあるようだった。精神障害の件は、最近ニュースでもやっている。
「帯脇の件と、精神障害の件……関係あるのかな?」
「あれでしょ? 池袋の東口方面で起きてて、道を歩いている人が突然、奇声をあげたり、暴れ出したり――手当たり次第に他人を襲ったりするんだって……」
小蒔も知っていたのか、事件の概要を述べる。ただ一人、京一だけは「分かったような」顔をしていた。
「突発的な発狂……これも、誰かの仕業なのか?」
顎に手をやり考え込む醍醐に、アン子は頷く。
「少なくとも、あたし達はそう見るべきだと思うわよ。実際、警察や医学の見地からでも原因はまだ解明されていない……それに、あたしが今、一番興味があるのは、発狂状態に陥った人達の証言なのよ」
一旦言葉を切り、龍麻達に視線を向け
「その人達は……一体、何て言ってるの?」
「皆、口を揃えて言うの。体の奥底から、自分を呼ぶ何かの声に応えた、と――ただ、本能の赴くままに、身を任せた、と――」
続きを求める葵に、アン子はそう答えた。
「本能の赴くまま、か……確かに、個人個人、その人間の素を突き詰めていくと、必ず何らかの動物霊にたどり着くと言うからな」
「あら、よく知ってるわね。そういうのを、物活説って言うのよ」
幽霊嫌いの醍醐らしからぬ知識に、アン子は感心したようだった。
「つまり、この事件を引き起こしてる奴には、人間の本能に訴えかける《力》がある――さもなければ、人間の大素である動物霊を操る《力》がある――そんなところでしょうね」
「人を獣に戻す《力》……か。そういえば、帯脇もそんなことを言ってたね――」
獣になりたがっているのは俺だけじゃない――帯脇はそう言い残して消えたのだ。それを思い出す龍麻達。
「獣になっちゃえば、悩むことも辛いことも、何にもなくなる。ただひたすらに、本能の赴くまま、だもんね……ねぇ、ひーちゃんはそういうの、どう思う?」
不意に小蒔がそんな質問を投げかける。
「ちょっといいなぁ、とか思ってたりして……」
「……『どちら』であっても、もう二度と、そんな事は御免だよ」
龍麻の回答は、その一言だった。稀に見せる、自虐的な表情と声。
その表情を見、声を聞いて、小蒔は自分の発言を後悔した。
《防衛暴走》は自己防衛本能が過剰に顕れたものだし、《虐殺暴走》は理性が弾け飛んでただひたすら死と破壊を撒き散らす。《暴走》した時の龍麻は獣そのものと言ってもいい。龍麻がそれを望むはずがない。
場の空気が重くなる。謝ろうと口を開きかけた小蒔だったが、その前に
「まぁ、楽なんだろうけどね。でも、自分から逃げたって仕方ないし。でしょ?」
龍麻が苦笑しつつ肩をすくめる。先の雰囲気は完全に払拭され、いつもの龍麻に戻っていた。
「そ、そうだよね。そんなの、ひーちゃんには似合わないよ、うん。ゴメンね、ヘンなこと言って」
慌ただしく手を振って、小蒔が謝る。その小蒔の頭を京一が小突いていた。
唯一事情を知らないアン子は眉をひそめたが、それも一瞬で話を戻す。
「でも、世の中には辛い現実から逃げたい人がいっぱいいるわ。敵は確実に、そういった人間を標的
「でもさぁ、それじゃあやっぱり、あの帯脇を蛇に変えたのも、そいつの仕業なのかな?」
と首を捻る小蒔。恐らくね、とアン子が相づちを打った。
「まぁ、時期から言っても無関係ってことはないわね。けど、そういう抽象的な話なら、専門家
彼女。それだけで、この場にいる者達には誰のことを指しているのかが分かる。言うまでもなく
「ミサちゃんのことね……それじゃあ、放課後にでもみんなで行ってみましょう」
「あぁ。それが手っ取り早いかもしれんな」
葵の提案に、裏密が苦手なはずの醍醐も、珍しく嫌な顔一つせず頷いた。
「霊だ異変だって言ったら、もうミサちゃんの領域だもんねっ。傷ついた霧島クンやさやかチャンのためにも、この事件は、ボク達の手で解決しなくちゃねっ」
そこでチャイムが鳴った。これから夕方までは、ほとんどの者にとっては長く退屈な授業の時間だ。
「あっと、それじゃあ、あたしは行くわっ。これだけ情報提供したんだから、今度、舞園さやかに会わせてよね。よろしく頼んだわよっ!」
言うだけ言って、アン子は走り去る。そちらを見て京一が悪態を吐く。
「ちっ、冗談じゃねぇぜっ! アン子なんかに会わせたら、俺のさやかちゃんが汚れちまうだろうがっ!」
「だから、キミのじゃないって……」
「まったく……いいから早く席に着かないと、マリア先生が来るぞ」
小蒔がツッコミを入れ、醍醐がそう言ったところで、タイミングよくマリアが現れた。
3−C教室――昼休み。
「さてと、かったるい授業も終わったし、一緒にメシ食おうぜ、ひーちゃん」
「うん、分かった」
京一の提案にすんなりと同意する龍麻。気をよくしたのか京一が嬉しそうに笑う。
「おうっ、それでこそ、親友だよなっ! やっぱ、お前とは気が合うぜ。醍醐の奴が先に屋上で待ってるから、俺達もパン買っていこうぜ」
本当なら龍麻は自作の弁当を持参しているはずなのだが、怪我の完治していない状態では作れるはずもなく、ここ最近は購買のパンで済ませている。
葵に作ってもらったらどうだ、とは京一や小蒔の言だ。頼んだら作ってくれるだろうが、からかわれるのを承知で頼むほど龍麻もバカではない。
「じゃ、行こうか」
と、龍麻が席を立ったところで、スピーカーから放送が流れた。
「え〜、生徒の呼び出しをお知らせしま〜すっ。3−Cの緋勇龍麻く〜ん。マリア先生がお呼びで〜す。至急、職員室まで来てくださ〜い。繰り返しま〜す。3−Cの緋勇龍麻く〜ん。職員室でマリア先生がお待ちで〜す。至急、来るように〜」
投げやりというか、間延びした放送だったが、二人は顔を見合わせる。何とも間が悪い。
「マリアせんせがお呼びだとさっ。何やったのか知らねぇけど、さっさと済まさねぇと、メシ食う時間がないぜ。なんなら、一緒に行ってやろうか?」
「いや。呼ばれてるのは僕だけだし、一人で行くよ」
「そっか。なら俺は屋上にいるから、気が向いたら来いよ。じゃーなっ」
京一はそのまま教室を出て行く。
「さて、と。僕も行くか。でも……何の用だろ? 進路調査票に不備でもあったかな?」
思い当たる節はなく、首を傾げながらも龍麻は職員室へと向かうのだった。
「龍麻クン」
職員室に入るとマリアが待っていた。
「フフフ、待ってたわ。さぁ、こっちへ……」
言われるままにそちらへ歩き、手近な椅子に座る。こうやって話をするのは何度目だろうか。
「先生方もお昼の時間にはみんな行ってしまうから、ここには今、アナタとワタシだけ……これで、ゆっくり話ができるわ」
別に、他の教師がいても話はできると思うのだが。それに、本当なら教師達の中にも弁当持参の者はいそうなものだ。過去の例に漏れず、入り口には六道迷符の印が記されていた。マリア以外の教師がいないのはそのせいだ。
「ところで……昼食は、もう済んだのかしら?」
「いえ。これから、って時に放送があったものですから」
「そう……本当に、お昼休みなんかに呼び出して、ごめんなさいね。どうしても、アナタと話がしたかったのよ……放課後だと、なかなか時間が取れないし――アナタは、いつも美里サン達と帰ってしまうから……」
帰宅部の龍麻は学校に長居する理由がない。鬼道衆と闘っていた頃はほとんど京一達と一緒だったし、それは闘いが終わっても変わらなかった。最近でこそ怪我のために単独で動いているが、授業が終わると同時に桜ヶ丘へ通院しているし、完治すればやはり京一達と行動を共にすることになる。マリアの言う通り、話をしようと思ったら昼休みか、放課後直後くらいしかない。
少し間をおいて、マリアは本題を切り出した。
「ねぇ、緋勇クン。何か……私に隠していない?」
ストレートな質問。いや、尋問かも知れない。柔らかい口調ではなかった。
(いきなり、そうくるか……だから、他の先生を閉め出したんだな)
隠している。それも一つや二つではない。更に言えば常識では説明できないモノばかりだ。
「それに、少し疲れ気味のように、感じられるけど……そんな身体でまた妙な事件に足を踏み入れたりしてないわよね?」
疲れているかも知れない。妙な事件にも、まさに今現在、足を踏み入れようとしている。
返答に困っていると、ふう、とマリアが息を吐くのが聞こえた。
「緋勇クン、そんな顔をしてもダメよ。どうしてアナタはそう、危険な方へと進んでいくの? それを知る度に、ワタシがどんな想いでいるか……」
その言葉に込められた悲しみの感情に、胸が痛む。マリアは本心から自分を心配してくれている。それが龍麻には分かった。だが。
「この前、文京区の高校で騒ぎを起こしたでしょう? ワタシの耳には、ちゃんと入ってくるのよ」
続く言葉が、不信感となって龍麻の中にわだかまる。文京の件では、教師どころか「まともな」人間には一人として接触していないのだ。少なくとも、鳳銘高校の教師から連絡が入ったという事だけはあり得ない。
「緋勇クン……アナタは一体、何をしているの? それがワタシには分からないから、余計に不安になるのよ。たまにはワタシにも、話してちょうだい……アナタが……何をしているのか……」
文京の件を口にしなければ、龍麻は話していただろう。だが、一度不信感が芽生えた以上、素直に話す気にはなれない。それは、マリアが人外であるから、ではない。マリアが自分達の周辺をかぎ回っている、それを確信したからだ。
(心配してくれてるのは間違いない。でも、どうして僕達の――いや、僕のことを調べる必要がある? 話すまでもなく、多分知ってるはずだ。何が狙いなんだ? )
人間であろうが人外であろうが、そのような事は、龍麻には大した問題ではない。事実、龍麻は教師としてのマリアを信頼している。だが、人払いを施したり、魅了の目を使ったりと、一個人マリア・アルカードには……気を許せない。それを龍麻は思い出していた。
思考を巡らせている間の無言を否定と受け取ったのか、マリアは再度溜息をつく。
「龍麻クン……ワタシは、心からアナタの身を案じているのよ。アナタの身体に些細な傷があると考えただけでも、ワタシは、気が気じゃなくなる……龍麻クン、ワタシは――」
言い終わるより早く、職員室のドアが音を立てて開いた。そちらに意識を向ける龍麻とマリア。そこにいたのは予想通りの人物だった。
「おや――どうしました、マリア先生。緋勇が……なにか?」
「犬神先生……もう、昼食はお済みですの?」
犬神である。先の会話の当事者以外で結界に介入できる者となると、現時点では犬神と裏密くらいだ。ひょっとしたら葵にもできるかも知れないが。
「えぇ。実は、俺は昔から早食いで有名でしてね。飯に余り時間を割く習慣はないんですよ。ご存知ありませんでしたか?」
刺々しさを含んだマリアの問いに、笑いながら答える犬神。龍麻には二人の間に火花が散ったように見えた。
「緋勇クン。もう教室に戻っていいわよ。また今度、ゆっくり話しましょう」
「おや、邪魔してしまいましたか。それは失礼」
謝りはするものの、入ってきたタイミングを考えると、様子を窺っていたのだろう。一応助けてもらった立場なのだが「タチが悪いね、犬神先生」と龍麻は胸中で独り言ちた。
「いいえ、お気になさらないでください。それじゃあ、またね、緋勇クン」
結局、不信と疑問だけを残すことになった会話は打ち切りとなり、龍麻は一礼して職員室を後にした。
1階廊下。
職員室を出ると、京一と醍醐がこちらへやって来るのが見えた。
「よっ、ひーちゃん! あんまりおせぇから、迎えに来てやったぜ!」
「昼食前だってのに、大変だったな、龍麻。一体、何の話だったんだ? さては、説教でも食らったか?」
「んー……まぁ、そんなものかな」
厳密には尋問だろうが、そう答えておく。それを聞いて醍醐の表情が曇った。
「お前、何かやったのか? それとも事件のことで……?」
「まぁ、それだけじゃないんだけどね」
醍醐の言葉に龍麻は苦笑する。だが、先の件を正直に話す必要もない。これは――少なくとも今回の件は自分だけの問題だ。
「そうか。だが、マリア先生も随分と理不尽だな」
「ああ。事件に首突っ込んでんのは、ひーちゃんだけじゃねぇ。怒られる時も、みんな一緒じゃなきゃ、納得いかねぇよな」
そう言いながら、京一は時計に目をやり
「おっと、急がねぇと昼休みが終わっちまう。お前が心配だから、わざわざ待っててやったんだぜ」
「まぁ、気にすることはないが、早いとこ、飯を食ってしまおう」
「へへっ、行こうぜ、ひーちゃん」
と促すのだった。
3−C教室――放課後。
「さてと、今日も一日、ゴクローサン。いやぁ、今日もよく勉強したなぁ」
大欠伸しながら説得力のない言葉を吐く京一に、呆れたような小蒔のツッコミが入る。
「ねぇ……それって、今の今まで寝てた人のセリフ? あーあー、教科書がヨダレで波打ってるよ」
京一の机に目をやると、小蒔の言う通り、ヨダレで波打つ教科書の姿があった。勉強に使われず、ヨダレ拭きにしかならないとは、不憫な教科書だ。
「うっ、うるせぇなっ! 俺がこのイスに座って、授業に参加したってことが、すでに偉大なことなんだぜ?」
「人はそれを、単なる日数稼ぎって言うんだよ」
「まったくだ。それよりみんな、もう準備はいいのか?」
言い訳じみたことを言う京一を龍麻が一蹴し、同感とばかりに頷いた醍醐が皆に確認をとる。そこで怪訝な表情になったのは京一だった。
「準備って……何のだよ? ラーメン屋なら、俺はパスな。今月はもう、金がねぇ」
「京一くん……もしかして、忘れてるの? 放課後、みんなでミサちゃんの所へ行く約束じゃない」
葵がそう言うと、京一は腕組みして考え込み、ポンと手を叩いた。
「えっ……? あっ、そーか」
どうやら本気で忘れていたようだ。苦手な者を無意識のうちに避けていた結果だろうか。
「……まったく、寝過ぎで脳味噌
「あのなっ、これはヨダレだ、ヨダレっ!」
「どっちでもいいから、さっさと行くぞ。龍麻、まさかお前も忘れてたんじゃないだろうな?」
不毛な言い合いを始める小蒔と京一に苦笑し、醍醐は龍麻に目を向けて問う。
「あら、そんなことないわよね。龍麻くんは、ちゃんと覚えてたものね」
「もちろん、覚えてたよ」
確認を取る葵に、龍麻は即答する。一人仲間外れになった京一は
「美里の前だからって、格好つけやがってよぉ。本当は、忘れてたんだろう? なぁ、ひーちゃ〜ん」
と、絡んできた。鬱陶しいことこの上ないが、龍麻が振り解くよりも早く
「もう、うるさいなぁ。忘れてたのは、キミだけっ!」
小蒔がポカリと頭を叩く。頭を抑えて呻く京一を一瞬気の毒そうに見た醍醐だったが
「京一も桜井も、そのくらいにしておけ。今は裏密に相談して、事態を正確に把握するのが先決だろう? それから池袋へ繰り出すことを考えれば、こんな所でつまらん議論をしている場合じゃないぞ」
そう言って歩き出した。
オカルト研究会部室。
「ミサちゃん……?」
「あれっ? いないのかな……」
何度来ても怪しい雰囲気は変わらない。部屋の主の姿は見えず、きょろきょろと部屋を見回す女性陣。
少しして、部屋の闇から這い出すように、裏密がその姿を現した。
「うふふふ〜。ようこそ、我が居城、霊研へ〜。待ってたのよ〜。ひーちゃんに、京一く〜ん」
「なっ、何でひーちゃんと俺だけ名指しなんだよっ!?」
狼狽える京一に、それはキミ達が気に入られてるからだよ、と事も無げに小蒔が言う。龍麻は笑っていたが、京一は心底嫌そうな顔をした。醍醐は何故かホッとしている。裏密は、うふふふふ〜と笑っていた。
「いつもながら、背筋の凍る笑いだぜっ。それより裏密。お前に聞きたいことがあんだよ」
「うふふ〜。我が下に集いし知恵の精霊
気を取り直した京一が話を切り出すと、裏密の方もそんなことを言った。
「なっ、なんだよ。俺のスリーサイズなら、秘密だからなっ」
京一は眉をひそめた後、冗談じみたことを言ってやや後ろに下がる。
「そんなもの知って、どうするわけ?」
呆れ顔で龍麻はそう突っ込むが、それ以上に裏密の次の言葉はぶっ飛んでいた。
「うふふ〜、それはもう知ってるからいいの〜」
「なっ、何ぃっ!?」
事もあろうに「知っている」ときた。さすが、と誉めるべきなのだろうか。それとも、何で知ってるんだと追求するべきなのだろうか?
「お前は少し黙ってろ、京一! 話が全く前に進まん」
襟首を掴み、醍醐は軽々と京一を持ち上げると後ろへと下がらせた。そうしている間に葵が裏密に話しかける。
「それで……私達に聞きたいことって、何なの? ミサちゃん」
「うふふ〜。アン子ちゃ〜んからも話は聞いてるけど〜、みんな〜、八俣大蛇を見たって本当なの〜?」
「なんだ、そのことかよ。それなら見たぜ。八ツ首じゃあなかったけどよ」
「それで、さやかチャンのコトをクシナダヒメだって……でもあれって、ホントにヤマタノオロチだったのかな?」
京一と小蒔の回答に、裏密の笑みが深くなっていく。端から見ていると不安を誘うだけの笑みだったが。それでも、その件について色々と考えてはいたらしく
「うふふふふふふふ〜。多分、それはね〜、一種の憑依現象だわ〜」
と、彼女なりの結論を述べた。
「憑依……? その人間の素を呼び起こしたものじゃなかったのか?」
ここへ来る前のやり取りで立てていた予想とは違うようだ。首を傾げる醍醐に
「もちろんそれも〜、無関係ではないけど〜。帯脇って人の強い《念》が〜、憑依していた大蛇の霊に〜、そのさやかって子を櫛名田比売と錯覚させたんだと思うわ〜」
との説明。
(やっぱり、勘違いじゃなかったんだな。憑かれた人間って、ああ視えるんだ)
帯脇を視た時のことを龍麻は思い出す。とりあえず意識して視れば、今後は憑かれた人間を見極めることができそうだ。
「ねぇ〜、ひーちゃんは、憑き物、って知ってる〜?」
「え、と……霊が人に取り憑くとか、そういうこと……だよね?」
色々考えているところで裏密が話を振ってくる。曖昧な知識ではあったが答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「そう〜。一般的には〜、動物霊がもたらす憑依現象だと考えられているけど〜、霊的な存在が人間に乗り移ることの総称〜。うふふ〜、やっぱりひーちゃんって、博識なのね〜。そんなところがまた魅力的なの〜。うふふ〜」
「魅力的かどうはかどもかく……って、ひょっとして、僕達が聞こうと思っていた話に関係あり?」
そう問う龍麻に、裏密はいつもの笑みで答えた。
ここに来ることを知っていたことと言い、また、今までの経験からも、裏密が自分達の身の回りに起きることを占っているのは確かなようだ。先読みされても、今更特に驚くことではない。占いの的中率、と言う意味では驚異的ではあるが。
「みんな〜は、豊島で起こってる事件の事を聞きに来たんでしょ〜? もしかしたら〜、あれは憑き物の仕業かも知れないわよ〜」
「つまり、その憑き物を自在に操れる奴がいて、そいつが帯脇や、豊島を往来する人達に、獣の霊を取り憑かせているってこと?」
そこまで言って、龍麻はもう一つの出来事を思い出していた。鳳銘高校へ出向いた時に、漂っていた無数の動物霊。ひょっとしたら、あの時あそこに黒幕がいたのかも知れない。
「多分ね〜。ただし、その帯脇って人の素が蛇なのに間違いはないわ〜。だからこそ、八俣大蛇の霊を憑かせることができたのよ〜。そして、その人間の素を見抜き〜、それに相応しい霊を、自在に憑かせることができるのは〜、太古に滅びた憑依師と呼ばれた人々だけよ〜」
聞き慣れないその名に、龍麻以下が眉をひそめる。ただ、一人だけそれに思い当たる者がいた。葵だ。
「憑依師……何かで見た気がするわ。確か、平安の頃に活躍した呪術師よね?」
「うふふ〜。さすがは美里ちゃんね〜。憑依師は常に己の周りに動物霊を漂わせていて〜、好きな時、好きな場所へと飛ばせると言うわ〜。犯人は恐らく、憑依師の系譜を継ぐ者〜。そして、豊島に渦巻く強大な怨念をその糧としている〜」
豊島に渦巻く怨念――気になることもあるが、とりあえず敵の手掛かりは掴めた。後は行動あるのみだ。
「まっ、よく分かんねぇけど、豊島のどっかに潜んでいるその憑依師ってヤツを捜し出して、ブチのめせばいいってことだなっ。そうと決まれば、今から池袋へ行ってみようぜ」
「あぁ。もとより、そのつもりだったしな」
「色々と教えてくれてありがとう、ミサちゃん。お陰で助かったわ」
「うふふ〜、いいのよ〜」
礼を言う葵に手を振って、裏密は龍麻を見た。
「ひーちゃん。無用な心配だと思うけど、気を付けて行ってきてね〜。強い意志を持つ者は、取り憑かれにくいって言うわ〜。ひーちゃんは、きっと大丈夫よ〜」
「だといいけどね。気を付けることにするよ」
裏密のお墨付きだが、龍麻は苦笑いでそれに応えた。自分の意志がそれ程強いとは思えなかったからだ。
「あぁ、それから〜、憑依師と接触する時は気を付けてね〜。あまり感情を高ぶらせると、霊の進入を容易くするわよ〜。死にたくなければ平常心〜。うふふ〜」
言い忘れていたとばかりに続く裏密の言葉に、京一と醍醐の顔が蒼くなっていく。
「……お前と話してると、意味もなく不吉になってくるな」
「こらっ! そんなこと言ったら、心配してくれてるミサちゃんに失礼だぞっ!」
と、身震いしながら京一が漏らした。そんな彼を、小蒔がたしなめる。
「うふふ〜。心配とも、期待とも言うわね〜。それじゃあ、お土産楽しみにしてるわ〜」
「土産……って……連れて帰って欲しいわけ?」
「うふふ〜。ヒ・ミ・ツ〜」
意味を察したのか、呆れ気味に裏密を見る龍麻。不気味に笑って、裏密は後ろを向いた。
「そっ……それじゃ、そろそろ俺達は、池袋へ向かおうぜっ」
「う、うむ」
逃げるように部室を出る京一と醍醐。
そんな二人を見ながら龍麻達三人は顔を見合わせ、肩をすくめて部室を後にした。
真神学園――校門。
「ここから池袋までは電車で一本か。向こうに着いても、まだしばらくは明るいぜ」
時計を見てから、京一は空を見上げる。日の落ちる時間は早くなっているが、新宿から池袋まで行くのに大した時間は掛からない。
「そろそろサラリーマンの退社時刻に重なる。池袋も、結構な人出だろう」
「その中で、憑依師を捜すのかぁ……結構、大変かもね」
先が思いやられる、と顔を歪める醍醐と小蒔に
「俺はそうは思わねぇぜ」
と京一が言った。
「ヤツが力を貸していた帯脇を、俺達は倒した――ヤツが何者かは知らねぇが、向こうの方から、ちょっかいかけてくるかもしれねぇぜ」
「あぁ。それは十分に考えられるな」
京一の言うことにも一理ある。問題は、帯脇とその憑依師がどういう関係にあるのか、だ。単に霊を憑けただけならば、帯脇が倒された――いや、斃されたことを知っているとは思えない。もちろん、憑けた霊がどうなったかを知る術があるなら話は変わってくるが。
ただ、協力し合っているという感じではなかったように思える。帯脇が舞園を付け狙ったところで憑依師に利があるとは考えにくい。
(まぁ、今回の件の黒幕が、憑依師なら、の話だけどね)
憑依師がいて、それが今回の騒ぎを起こしているのは間違いないだろう。だが、龍麻にはそれだけでないように思えるのだ。何より、先に起きた九角の復活と繋がらない。
(何かを企んでいる奴がいて、そいつが九角を復活させた。そして、憑依師にも介入しているとしたら……考え過ぎかな……)
いずれにせよ、今結論の出ることではない。
「だが、例え罠が待っていようとも、行かないわけにはいかんだろう、龍麻?」
「そういうこと。関わりのない人達が犠牲になっていくのを、これ以上は見たくないからね」
「あぁ。この《力》がある限り、これは俺達の仕事だからな。俺達が……やるしかないんだ」
龍麻と醍醐が拳を握りしめるのを見て、京一は口の端を吊り上げて笑う。
「相変わらず、格好つけたこと言うな、二人とも。まっ、そろそろ駅へ向かおうぜっ」
「そうだね――あれっ?」
駅へと向かおうとした一行だったが、小蒔が立ち止まって不思議そうに声を上げる。
「向こうにいるのって……霧島クンだっ!」
小蒔の指す方向から、霧島がやって来るのが見えた。
「おっ、本当だな。こんな所で、何やってんだ、あいつは」
疑問を口にする京一だったが、向こうも気付いたようで、こちらに駆けて来た。
「京一先輩、龍麻さん! 皆さんも……お久しぶりですっ!」
「うふふ。相変わらず、元気いっぱいね」
初めて会った頃と変わらない礼儀正しい態度に、葵が笑う。
「はいっ、ありがとうございますっ。龍麻さんも、お変わりないですか?」
「まぁね。いや、変わったかな。あれから怪我も良くなったし」
と、右手を動かしてみせる。左腕はまだ折れたままだが、右手の方は普通に動くようになっていた。
「そうですかっ! ……よかった。龍麻さんがお元気そうで、僕も嬉しいですっ」
「つくづく、いいヤツだなお前は。礼儀も正しいし……さすがは俺の弟子だぜっ」
心底嬉しそうな霧島を見て、京一はうんうん、と頷いていたりするが
「ホント、師匠はこんなに礼儀知らずなのにねぇ〜」
と、意地悪く笑う小蒔の茶々が入り、ぐっ、と言葉を詰まらせる。
「ところで、霧島。お前こそ、体の方はもういいのか?」
「そうだぜ。お前、重傷だったろ? もう平気なのかよ?」
霧島を気遣う醍醐に、京一も心配げに訊ねる。
先週の件で、霧島はひどい怪我を負っていた。常人なら死んでいてもおかしくない程の怪我だったのだが、《力》に覚醒したこともあって、一命を繋ぎ止めていたのだ。もちろん、搬送先が桜ヶ丘だったことも、彼を救う一因となっていた。
「はいっ! 大丈夫ですっ! 今も、病院へ行った帰りなんですけど……院長先生に、もう通院でいいって言われてるんです」
元気よく、そして嬉しそうに霧島は答える。桜ヶ丘に入院しなくてもよくなったから喜んでいる、と考えてしまうのは邪推だろうか。
「でも、僕、感激ですっ。みなさんや、その……京一先輩に、そんなに心配してもらえるなんて……」
やや照れたような表情でそう続ける霧島。それを聞いて小蒔が吹き出した。
「あははっ! 相変わらずだね、その《京一先輩病》はっ!」
「怪我は治っても、それだけは治らなかったか……」
やれやれ、と醍醐も苦笑している。龍麻は仏頂面の京一の肩を叩いた。
「京一。少年の夢を壊さないように、普段の素行にも気を付けて、真人間になるんだよ」
「ひーちゃんまでそんなこと言うか……あー、はいはい。わかりましたよっ」
ふて腐れてよそを向く京一に、笑いを堪えきれない、霧島を除く一同。
「そういえば……霧島はどうしてここへ?」
通院があるとはいえ、霧島がここまで足を運んだ理由が分からぬままだったので、龍麻が訊ね――
「あ、はい。怪我の状況の報告を、と思ってここへ寄ったんです。それに、これでようやく京一先輩に稽古をつけてもらえますし」
それを聞いて納得する。いずれにせよ《京一病》によるものらしい。
「ところで……皆さんは、今から帰る所なんですか?」
「いや――池袋に……ちょいとした野暮用でな」
何も含むところのないその疑問に、京一は言葉を濁す。
誤魔化そうとしたのは、霧島を気遣ったためだろう。怪我が治ったといっても本調子ではないだろうし、何より今回の件は多人数でない方がいい。憑依師の《力》がどの程度のもので、《力》持つ魔人達にどこまで通じるのかは分からないが、もしも仲間が憑かれたりしたら、厄介になる。
しかし――
「なにカッコつけてんだよ。話したって、別にいいだろ? ボク達ね、豊島で起きてる謎の事件を解決しに行くんだよ」
小蒔が答えてしまった。はぁ、と龍麻達男性陣が溜息をつく。その様子に、首を傾げる女性陣二人。霧島はというと
「それってもしかして、あの、人が突然発狂するっていう事件のことですか!?」
と、声を大きくした。ニュースでもやっていることだ、知っていても不思議ではないが、龍麻達が動く――《力》絡みだとまでは思っていなかったようだ。
「ったく、おしゃべりなヤツだなっ。……お前には黙っておこうと思ってたんだがな。どうもこの事件の犯人な、帯脇と関係ありそうなんだ」
小蒔を一睨みして、観念したのか京一は霧島に事情を話した。案の定、霧島は帯脇の名前に反応する。
「それなら――僕も、一緒に連れて行ってくださいっ!」
そして、予想していた通りにそう言った。
「帯脇に関係するのなら、僕にも関係ありますっ。そいつが何者であれ、さやかちゃんを傷つけるのに荷担したのなら、僕は……絶対に許さないっ!」
どうする? と京一と醍醐が龍麻を見る。
霧島がどこまで使えるかは疑問が残る。帯脇との一戦で《力》を扱えるようになったと言っても、未熟には違いないし病み上がりだ。だが、戦闘に耐えうるだけの能力は持っていると見ていい。
顎に手をやり、龍麻は考え込む。しばらくしてようやく口を開いた。
「無理はしないと、約束できる?」
「は、はいっ! ありがとうございますっ! 皆さんの邪魔にならないよう、一生懸命頑張りますっ!」
喜ぶ霧島とは対照的に、京一は何とも言えない表情をしていた。断る、と思っていたのだろう。
「ひーちゃん、いいのかよ?」
「帯脇絡みだからね。もやもやを抱えたままよりは、いいと思って。それに、一応の戦闘はこなせると思うし、いざとなったら僕が――」
「そん時は、俺がフォローするよ。ひーちゃんだって、まだ完全じゃねぇんだからな。……おい、諸羽」
小声でやり取りして、霧島に声をかける京一。
「自分の身は自分で護れよっ。俺達にゃ、そこまでの余裕はねぇからなっ!」
「とか何とかいって、いざって時には、助けに飛んでくのが、京一なんだよねぇ〜」
「誰が行くかっ! おらっ、さっさと行くぞっ!」
ニヤニヤ笑いながらツッコミを入れる小蒔に、照れ隠しに怒鳴り返して、京一は早々に歩き始めた。その後を霧島が小走りに追いかける。
「京一くん、いつにも増して頼もしく思えるわね」
「そうだね。さて、僕達も行こうか」
二人の背中を見ながら微笑む葵に、龍麻も笑って歩き出した。