10月13日。3−C教室――放課後。
「よっ、ひーちゃん。へへへっ、いいモン見せてやるよっ。ほら、これ――」
授業終了のチャイムが鳴るなり、京一がニヤニヤしながらやって来た。手には一冊の雑誌。読んでいた古めかしい本を閉じてそれに目をやると、開かれたページには、高校生らしい少女の写真が数点。
「今をときめく現役女子高生アイドル、舞園さやかちゃんだぜっ。平成の歌姫と名高い、実力派の超美少女っ! やっぱ、カワイイよなぁ……しかも、まだ高一なんだぜ」
「ふーん」
盛り上がる京一をよそに、龍麻は気のない返事をする。
「ふーんって、何だよ、ひーちゃん?」
「いや、この子が舞園さやかだったんだな、って」
「「「「「なにぃぃっ!?」」」」」
その途端、京一以下周囲の男子生徒が叫んだ。どうやら先の龍麻の反応は、彼らにとって容認できないことだったようだ。
「おいおい緋勇! 本気で言ってるのか!?」
「そうだぜ! さやかちゃんを知らないなんて、お前ホントに日本人かっ!?」
「いや……名前は知ってるし、歌も有線やラジオで聴いたことはあるよ」
詰め寄る男子達に戸惑いつつも、そう答える。
「ただCDを借りてるわけじゃないし、TVで見るわけでもなし。何より、アイドル系の雑誌なんて読まないし。写真も何度か見たことはあるけど、それが舞園さやかだとは分からなかった」
「かーっ! お前それでも男かよ、ひーちゃん! こんな美少女、そうそうお目に掛かれねぇぞ!?」
「それについては同意見だけどさ」
龍麻にだって、舞園さやかが世間一般でかなりのランクに位置するであろう事は分かる。その回答に気をよくしたのか、上機嫌になる京一。
「そうだろそうだろ。さやかちゃんに比べたら、ウチのクラスの女共なんて、ごく一部を除いて月とスッポン――いや、提灯に釣り鐘、いや、盆と正月――」
「それはどっちもメデタイだろっ、このバカっ!」
京一の言葉は、小蒔の右ストレートによって阻まれた。哀れ京一は吹き飛び、床に倒れる。周囲からどよめきが起こるほどの見事な一撃だった。
「――って、お前なぁ! 出てきていきなり殴るこたねぇだろぉ!?」
「ごっめ〜ん。だって、あんまり京一がバカだからさぁ、ガマンできなくて……」
跳び起きた京一の抗議の声に、一応謝る小蒔だったが、別に悪いコトをしたという意識はないようだ。いつものことと言えばそれまでである。
「けど、京一がそんなに舞園さやかのファンだったなんて、ボク、知らなかったなぁ。確かにカワイイけど……」
頬を押さえつつ、殴られたことを根に持ってブツブツ言っている京一は無視し、小蒔は龍麻に話を振る。
「ねぇ、ひーちゃん。もしかして、ひーちゃんもこういうコが好みだったりして?」
「さぁ……どうだろうね」
可愛ければいいというものでもないし、何より自分のよく知らない人物のことを好みかと言われても返答に困る。どう答えたものかと考える龍麻だったが、いきなり復活した京一が詰め寄ってきた。
「おい、ひーちゃん! 何、悩んでんだよっ!? 俺の愛するさやかちゃんを侮辱するたぁ、いい度胸だなっ!」
「べ、別に侮辱したわけじゃないって」
「やれやれ……まったく、こいつは重症だな」
別の方から声が掛かる。先程からの騒ぎを傍観していた醍醐だ。京一は彼の存在そのものに気付いていなかったらしく、驚きの表情を見せる。
「何だ。いたのかよ、醍醐」
「あぁ。俺も美里も、口を挟むタイミングに困っていたところさ」
「京一くんはよっぽど彼女が好きなのね」
側にいた葵もそんなやり取りに笑い、話に加わってくる。
「でも、さやかちゃんの歌は、私も好きよ。彼女の歌を聴いているとね、何だか、こう……心が安らぐ気がするの」
「確かに彼女の歌は、聴いてて心地いいね」
名と顔が一致しなかったとは言え、龍麻だって舞園さやかの歌は聴いたことがある。初めて聴いた時にはそのような感想を持ったものだ。
「ふ〜ん……それって、ヒーリング音楽とか心に優しい音楽とかいうヤツ? よく、CD屋さんに、そういうコーナーがあるじゃない。歌でそういうのがあるとは思わなかったけどさ」
「それなら、俺も聞いたことあるぜ」
なぜか嬉しそうに、京一が話し始める。
「TVでさやかちゃんの歌を聴いた、子供の熱が下がったとか、病院でいつもさやかちゃんの歌を聴いてた歩けない女の子が、突然立ったりしたらしいぜ」
まるで魔法のような話だが、龍麻達にはそれを信じることができる。人にあらざる《力》を持つ身としては、そのような《力》の発現があってもおかしくはないと思えるのだ。
「歌によって人を癒す能力……か。あり得ない話じゃあないな」
「……本当にそうなら、会って話をしてみたいわ」
醍醐と葵も彼女に《力》があるものと認識したようだ。
「それに、そんな人が私達の仲間になってくれたら、とっても心強いでしょうね」
「そうだね。でも、仮に《力》があるとして、それを彼女がどう受け止めているかが問題だけど」
「そうね……自分の《力》のことで悩んでいなければいいのだけど」
どんな《力》であれ、いきなりそんなものに目醒めてしまうと、普通の人間は戸惑い、悩む。龍麻達だって、多かれ少なかれそういう経験をしてきたのだ。
「うん、それは言える。ボク達もそうだったし……でも、いい《力》なんだから、不安になることないよって、言ってあげたいね」
と、小蒔がそう言った時だった。京一がフフフとなにやら不気味な笑い声を発する。何事かと龍麻達が見守る中
「やっぱ、俺と彼女は、運命で結ばれてたんだなぁ」
などとふざけたことをほざく京一。すっかり妄想モードへ突入してしまったと見える。
「よしっ、そうと決まりゃ、さやかちゃんに会いに行くかっ!」
「――に、チクろうかな……」
ぼそっ、と龍麻が呟く。その一言は京一の耳だけに届き、その場に彼を繋ぎ止めた。と、同時に小蒔が京一に問いかける。
「会いに行く――って、ドコに行くつもりだよ。ドコにいるかだって分からないのに」
「……」
「しかも、まさか、いきなり会いに行って『ボクと一緒に東京を護ろうっ』とか言うつもりなわけ?」
「それじゃあ、ただの変質者だな」
続く醍醐の一言に、二の句が継げない京一。そんな彼の頭上に、龍麻は手をかざす。
「何やってるの、ひーちゃん?」
その行動に小蒔が首を傾げる。龍麻は肩をすくめて平然と言った。
「いや、目に見えないアンテナでも立っているのかと思ったんだけど……どこで受信してるんだろうね?」
「誰が電波の人だっ!? 失礼なっ!」
復活した京一が、龍麻の手を乱暴に払いのけようとする。龍麻はそれを躱すと
「全く、怪我人になんて事を……」
と、おどけて見せた。龍麻の怪我は、未だに治っていない。なくなったのは頭の包帯くらいで、右手の骨折も、包帯こそ減ったがまだ折れたままだ。
それを気遣ったわけではないだろうが、葵が話を元に戻す。
「それに……《力》があるからといって、闘わなくてはいけないという理由はないもの。巻き込まれずに済むのなら、その方がいいかも知れないわ」
「確かに、それは言えるな」
「はぁ……はかない夢だったぜ……」
葵と醍醐、二人の意見に京一はがっくりと肩を落とした。
「しょうがねぇ。今日の所は大人しくラーメンでも食って帰ろうぜ。旧校舎に潜る時間までは、まだ間があるしな」
「はははっ、その方がよっぽど現実的だな」
「今日のメンバーは?」
「えーっと。俺と醍醐、小蒔に紫暮、高見沢にアランだったか、今日は」
旧校舎に潜ると聞いて、龍麻が訊ねると、指を折りながら京一が答える。
「あれ、今日も葵さんは不参加?」
鍵を預けてからこちら、毎日のように旧校舎へ潜っている京一達だが、今までに葵の名が挙がったことが一度もない。疑問に思って再度訊ねると
「ああ。美里は何やら他にすることがあるらしくてな。まあ、回復役には高見沢がいるから、別にやばくはねぇだろ?」
との京一の回答。回復役が確保できているのなら、別に問題はない。葵から相談の一つもなかったのは気になるが、何かあれば話してくれるだろうと、その場での言及は止めることにした。
「まあ、いいや。それじゃ、王華へ行こうか」
「あの、私……」
荷物を背負って外に出ようとした龍麻だったが、そこへ葵の声。
「ん? どうかしたのか、美里?」
「えぇ、犬神先生にレポートを提出するのに、職員室へ寄らないといけないの」
問う醍醐に、葵は手に持ったレポート用紙を掲げて見せた。今日の授業で、提出しなければいけなかったものだ。
「なんだ、授業の時に出さなかったのか?」
「えぇ。後になって、少し見直したい所があったから……それじゃあ、私、行ってくるわね。みんなは先に行っていて。すぐに追いつくから」
「あ、僕も行くよ」
教室を出ようとした京一達だったが、龍麻がその場に留まる。そんなことを言うとは思ってもみなかったのだろう、葵は驚いたように口元を押さえていた。それは京一達も同じだったらしく、龍麻らしからぬ積極的な行動に、表情を変えている。
「僕もちょっと用事があるから」
「ええ。それじゃ、一緒に行きましょう」
「うん。そういうことだから」
頷き、龍麻は京一達に手を振った。
「じゃ、俺達は先にぶらぶら行ってるからよ。まっ、校門のトコで待ってるぜ」
「あんまり、遅くならないようにね」
「それじゃあ、また後でな」
荷物を手に、京一達は教室を出て行く。
「それじゃあ、私達も行きましょう。とにかく、早く用事を済ませてみんなと合流しなくちゃね」
そして、龍麻達も職員室へと向かうのだった。
1階廊下。
人気のない放課後の廊下を、肩を並べて歩く二人。元々、龍麻達五人が固まっていたイメージもあって、最近の真神では、あまり珍しくない光景になりつつある。
「犬神先生、まだいらっしゃるといいけれど……」
「あの先生のことだから、職員室でコーヒーでも啜ってるよ」
部活の顧問をしているわけでもなく、まして外で何か趣味があるわけでもないだろう。よほどのことがない限り、犬神は遅くまで学校にいるはずだ。
「ねぇ、龍麻。用事っていうのは、犬神先生に?」
「別に今日でなくてもよかったんだけどね。後は、大した時間じゃないけど、葵と一緒にいたかったってのもあるし」
「……もう、からかわないで」
「別にからかったつもりはないんだけど。失礼します――」
頬を染め、ややむくれた表情の葵に笑って、龍麻は職員室のドアを開けた。
ここも廊下と同じで人気はない。いるのはただ一人の教師だった。
「ん……? 美里か。それに緋勇も」
先程の龍麻の予想に、煙草というオプションをつけた犬神が、こちらを向く。
「遅くなって、すいません。これ……課題のレポートです」
「あぁ。しかし、お前が期限に遅れるとは、珍しい事もあったものだ。何か悩み事でもあるのか? 最近は学校に遅くまで残っているようだが」
レポートを受け取り、そう訊ねる犬神。授業以外でこう「教師らしい」犬神を見るのも珍しい。
「いえ、何も……」
「……おい、緋勇」
言葉を濁す葵に、犬神は今度は龍麻に矛先を向けた。
「その『交通事故』といい、お前が原因を作っているんじゃないだろうな?」
龍麻の怪我は、交通事故ということになっている。まさか「鬼と戦ってぶん殴られました」などと言えるはずがない。もっとも、犬神は龍麻の怪我の原因を知っているのだが。
「さあ、どうでしょう?」
思い当たる節は残念なことにいくつもあるが、ここでそれを認めるのも癪なので、誤魔化しておくことにする。
「まあいい……お前達が色恋に溺れようが、俺の知った事じゃないが、人の心は移ろい易い……愛などというものが、永遠に不変なものだとは、考えない方がいい。せいぜい、肝に銘じておく事だ」
言い終えてクククと笑うところをみると、こちらをからかっているのだろう。最近はそういう意地悪もする。
「余計な心配はかけるな、ってことですね。覚えておきますよ」
「ならいいがな。ところで《力》の方はどうだ?」
その問いに、龍麻は表情を厳しくした。この場にいるのは龍麻と犬神だけではない。葵もいるのだ。犬神はただの生物教師、そういうことにしておいた方がいいというのが龍麻の考えだった。しかし犬神は平然と
「美里のことなら心配するな。俺が普通でないことは、とっくに知っている」
「え……?」
「旧校舎でお前を『指導』した時に鉢合わせた」
何事もなかったようにコーヒーを啜る。龍麻は龍麻で、自分だけ緊張していたのが馬鹿みたいに思え、はあ、と溜息をついた。
「そういうことは、もっと早く教えてくださいよ」
「別に大した事じゃあるまい。で、身体の方はどうなってる?」
「……まあ、今の状態でも僅かな《氣》は練れます。弱い発剄程度なら、例の石のおかげでどうとでもなりますけど、それ以上の技は多分無理ですね。試してませんけど」
「そうか。まあ、しばらくは大人しくしてろ。っと……忘れるところだった」
コーヒーの入ったカップを机に置き
「そう言えば、裏密がお前らの事を心配していたぞ。何でも、お前らの背後に八ツ首の大蛇が視えるそうだ」
「「大蛇……?」」
口を揃えて訊き返す二人。
「あぁ。それ以上は何も聞かなかったが、蛇は猫と並んで霊力の強い動物だからな。精々、祟られたり憑かれたりしないよう、気をつけるんだな」
話はここまでだと言わんばかりに、犬神はそのまま背を向けた。
「犬神先生……一体、何を言いたかったのかしら……」
「何らかの警告だろうけど」
職員室を出て、二人は犬神の言ったことを話題に挙げた。出所が裏密である以上、信憑性は確かだが、唯一の欠点は言い回しが分かりづらいことだ。理解するのに時間がかかる。今回のはそうでもないが、もう少し凡人に解りやすい言い方をしてもらいたいものだ。
「大蛇が見える、か……しかも八ツ首……」
八ツ首の大蛇と言えば、神話にも登場する有名なものがある。ただ、それが自分達に関わる理由というのがさっぱりだった。
「気をつける以外にできることは、現時点ではないか」
「ねぇ、龍麻。前から訊こうと思っていたのだけれど……」
下駄箱へと向かう途中で、葵が口を開く。
「犬神先生って、何者なの?」
「真神の生物教師。それ以上は――知らなくてもいいよ。それとも、どうしても知りたい?」
「どうしても、っていうわけじゃないけど。気になるわ」
今までに思わせぶりなことを何度も言い、旧校舎では龍麻を《力》でねじ伏せ、龍麻に例の石を渡したのも彼のようだ。龍麻が付き合っている以上、敵ではないのだろうが、やはり気にはなるのだろう。
「今はまだ駄目。正体を知って、今まで通りに接することができるかどうか、分からないから。それより、僕も訊きたいんだけど」
今度は龍麻の方から質問をする。
「最近、旧校舎にも行かずに、どこで何をしてるの?」
職員室で犬神が言っていた――学校に遅くまで残っている、と。その理由を、龍麻はもちろん、仲間の誰も知らない。
「それは……」
「それは?」
「霊研へ、ちょっと……」
意外な言葉が出た。まさか、葵の口から霊研へ行くなどという言葉が出ようとは。
「な、何をしに……?」
霊研といえば、真神のミステリースポットである。占い目当てで足を運ぶ女生徒は多いが、あそこは真神でも有数の――旧校舎を除けば最大の妖しい空間だ。そんな所に、葵が一体何の用があるというのか。
恐る恐る、訊ねる龍麻。そして
「ミサちゃんに、色々と教えてもらっているの」
続く言葉に石化した。
怪しげなものが多数置かれている霊研の部室。マントなど身につけている裏密。その傍らで、同じくマントを纏った葵が、二人して、鍋を煮込んだり呪文を唱えていたりする――そういった『かなりヤバイ状況』が、一瞬で龍麻の脳裏に刻み込まれた。
真神の聖女のイメージが、あっさりと正反対のものに覆されてしまう。
(いや、考えるのは止めよう……僕は何も考えてないぞっ!)
「あの、龍麻?」
葵に肩を揺すられ、龍麻は我に返った。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
「い、いや……別に。でも、ミサちゃんに教わるって……一体何を? まさか、魔術を教わっているわけでもないんでしょ?」
「それも考えたんだけど……」
その言葉に、再び湧き上がってくるイメージ。それを龍麻は何とか振り払う。
「私の《力》って、全部が術系でしょう? 癒しや援護、攻撃もあるけど、そういうのってミサちゃんの範囲だと思ったから、私にできるなら習ってみようかと思ったの。私の《力》って実戦で高めるものじゃないような気がしたから」
後方支援の援護・回復役である葵と高見沢は、旧校舎に潜って修行、というタイプの《力》ではない。どちらかというと、どこかで精神修養といった感じだ。
「でも、どうも相性がよくないらしくて」
「まぁ……そうだろうね。天使の力を借りるって感じの葵の《力》――白魔術と、呪術、悪魔系の力を借りるミサちゃんの《力》――黒魔術じゃ正反対だろうし」
「ええ、そう言われたわ。でも、ミサちゃんも黒魔術だけじゃないから。私にできそうな事――結界とか封印の関係、後は知識面ならどうとでもなるから、本を借りたりしてたの」
どうやら黒魔術士・葵の誕生だけは、なさそうである。
「それで霊研か……確かに、無関係の人を巻き込む可能性もあるから、その手の《力》はありがたいな。知識にしたって、あって困るものじゃないし」
「それに、怪我が治ったら龍麻は前線で戦うでしょう? 龍麻が戦闘以外に《力》を割くよりは、って思ったから」
「助かるよ。でも、一言教えてくれればよかったのに」
「あら。一番隠し事が多い龍麻が、それを言うのかしら?」
「ごもっともです……」
そっぽを向く葵に、龍麻は苦笑するしかなかった。
新宿駅前。
校門前で京一達と合流し、いつものルートを通ってラーメン屋へ向かう。
「ひゃ――っ。今の風、すっごく冷たかったよ」
一際大きな風が吹き、小蒔が悲鳴にも似た声を上げた。10月もすでに半ば――これからはもっと寒くなるだろう。
「えぇ。まだ秋なのに……何だか、あっという間に冬が来そうね」
風になびいた髪をまとめながら、葵も頷く。
「そうだねぇ。ラーメンもいいけど、そろそろ鍋の季節だよねぇ」
「まったく、桜井は……本当に食べ物の事ばかりだな」
苦笑する醍醐。えへへと小蒔が照れ笑いをし
「でも、鍋もいいなぁ……ねぇ、ひーちゃん。今度、鍋やろうよ、鍋。ねぇ〜」
「それは構わないけど、せめて鍋を持てるように……いや、包丁を持てるようになってからね」
右手と左腕を見せて、龍麻。右手は相変わらず親指だけしか動かない。それでもフォークやスプーンは持てるが、料理は無理だ。
「それもそうだね。でも、鍋の話をしたら、鍋が食べたくなったなぁ。ねぇ、京一も――って、なに見てんの?」
同意を求めるべく声をかけた小蒔だったが、京一がどこか別の方を向いているのを見て、問いかける。
「え……いっ、いや、今の風で、あそこのオネェちゃんのスカートが――」
「やれやれ……こっちはこっちで……か」
相変わらずな京一に、今度こそ醍醐は溜息をついた。
「まぁまぁ。いいじゃねぇか。こうして、ボーッとオネェちゃんのパンチラをのぞけるってのは、世の中、平和な証拠だぜ。……今のところは、だけどな」
最初こそおどけた口調の京一だったが、最後は真顔でそう言う。
一週間ほど前の龍山邸。そこであった九角との再戦。消滅間際に九角が放った、これから事件が起こるであろう事を暗示させる言葉。それが、龍麻達の脳裏によみがえる。
「どちらにせよ、真の平和はまだまだ先ってことだな」
腕組みなどして、醍醐が独り言ちる。先月、ようやく全てが解決したと思った矢先にこれだ。どうしても、気分は重くなる。
「何だかさぁ……どこまで行っても、トンネルの中ってカンジだね。真っ暗で……全然先が見えてこないってカンジ」
「でも、トンネルなら必ず出口はあるよ。そこを目指して進むしかない。これからも頑張らないとね」
龍麻のその言葉に、頷く京一達だったが
「っと――何だありゃ。……ケンカか?」
「どうした、京一?」
「今通った時、裏道の方がちらっと見えたんだけどよ、見慣れねぇ制服だったな」
路地の方に視線を向けていた京一は、訊ねる醍醐にそう答える。どうやら誰かが揉め事を起こしているようだ。
「どうする、ひーちゃん? ちょいとのぞいてくるか?」
「誰かが絡まれているならともかく、不良同士の喧嘩なら、放置しておくのが一番だと思うけど」
「ああ。俺もやめた方がいいと思うぞ。事情も知らずに首を突っ込んでも、ろくなことにはならん」
龍麻と醍醐は乗り気でないようだった。不良同士の喧嘩なら、首を突っ込んだら最後、巻き込まれてしまう可能性が大だ。
「うーん、ボクは少し気になるけど……ねぇ、京一。どんな連中だったのさ?」
「ん? だから、制服がちらっと見えただけで――」
京一が言いかけた時だった。
その、件の路地から声が聞こえたのだ。それも、女性の悲鳴が。
「女の助けを求める悲鳴とくりゃ、当然放ってはおけねぇぜっ!……というわけで、俺、一番乗り決定っ!」
言うが早いか、京一はあっという間に路地へと飛び込んでいった。渋谷の時もそうだったが、女性絡みとなると、とんでもない行動力を見せる。
「……とりあえず、行かないわけにはいかないよね」
内心溜息をつきつつ、龍麻達はその後を追った。
「ケケケッ、もう、逃げられねぇぜぇ」
「手間掛けさせやがって……」
「あのヒトが、首を長くして待ってんだ。さぁ、大人しく来てもらおうかぁ……」
裏道まで来た龍麻達の目に映ったのは、いかにもな不良に追いつめられている、一組の男女だった。どちらも、この新宿では見かけない制服。不良の方はともかく、男女の方は、自分達よりも年下に見える。
「――よぉ、てめぇら」
こちらには気付いていないようだが、京一が声をかけた事により、不良達がこちらを向く。
「誰だ――っ!?」
「人ん家の庭先で、幼気な少年少女をいたぶろうたぁ、ちょいとオイタが過ぎるんじゃねぇか?」
やや芝居がかった口調の京一に、案の定不良達が凄んで見せるが
「あぁ〜? 何だ、テメェら!?」
「俺たちは、このふたりに大事な用があんだよ」
「怪我したくねえなら、とっとと失せなっ!」
「てめぇら――誰に向かってモノ言ってんだぁ? この俺を知らねぇたぁ、とんだド田舎モンだぜっ!」
刀の入った袋をびし、と突き付け、京一も凄んで見せる。怯みもしない京一に、不良達の間に動揺が走った。
「どっちがチンピラだか分からないね……」
「まぁな」
失礼極まりない龍麻と醍醐の発言も、幸い、京一には届いていないようだ。一方、もう片方の当事者である少年と少女は、突然の乱入者に呆然としていた。
「てめぇ、何者だっ!?」
「へへっ、待ってたぜぇ、その台詞! 一度しか言わねぇから、耳の穴かっぽじって、よく聞いてろっ!」
気分は正義の味方なのだろう。何故か喜々とした様子で言い放つ京一。どうやらコスモが伝染ったと見える。
「新宿、真神一のイイ男――超神速の木刀使い、蓬莱寺京一様とは、この俺のことよ!」
最近、その木刀を振るう機会がめっきり減っている事はこの際言うまい。
「……やれやれ。ちなみに俺は、同じく真神の醍醐雄矢だ。この名で引き下がってくれれば、無駄な労力を使わずにすむんだが」
続いて醍醐も一歩前に出る。龍麻も名乗ろうかとは思ったが、この二人で事足りるだろうと判断し、傍観を決め込む事にした。名はそれなりに広まっているのだが、怪我をしている今の状態では、あまり牽制の役にも立つまい。
「真神……」
「魔人学園の、蓬莱寺に醍醐――!」
「こいつら、帯脇さんが言ってた……」
二人の名前の威力に、不良達が怯むのが分かった。
「へっ。その帯脇ってのは、少しはモノを知ってるみてぇだな」
京一が一歩足を踏み出す。気圧されて不良達が一歩下がった。こうなったら、もう勝負はついたようなものだ。
「ク……クソッ。一旦、引き上げるぞっ!」
「えっ!? けどよぉ……」
目標を目の前にして退くのが躊躇われたのだろう、少年達の方を見る不良の一人に
「真神が出てきた以上、帯脇サンに報告するのが先だっ」
別の不良がそう諭す。もっとも本当のところは分からない。単に、京一達とやり合うのが嫌なだけかも知れないのだ。
「そうそう。さっさと帰って、大将にでも泣きつくんだな。てめぇら雑魚が何人束になろうと、俺の敵じゃねぇのさ」
挑発する京一に、不良達は悔しそうな顔をしていたが
「てめぇら……中野、さぎもり高の帯脇サンを敵に回したこと、必ず後悔させてやるっ!」
「チッ! 覚えてろよっ!」
結局、捨て台詞を残し、その場から逃げ出していった。
「けっ、不細工な野郎の面なんざ、覚えてられるかっ」
その背に追い打ちの言葉を吐く京一。京一の事だ、彼らの顔など、早々に忘れてしまうのだろう。
「何にせよ、面倒なことにならなくてよかった。悪とは言え、弱者を殴るのは俺の性に合わんしな」
と、安心しているのは醍醐だ。小蒔はというと、盛り上がりもなく決着がついてしまった事が不満なのか、期待してたのに……などと愚痴をこぼしている。その隣では葵が苦笑していた。
「っと……お前ら、怪我はないか?」
その場に残っている少年達に、京一が声をかける。
「は……はいっ! 助けて頂いて、ありがとうございました!」
「あの……ありがとうございます」
少年は直立不動で、少女はまだ警戒しているのか、やや少年の陰に隠れるようにして礼を言った。
「いやなに、俺は当然の――!?」
――事をしたまでだ、そう言いたかったのだろう。が、京一の言葉は途中で止まり、視線は少女を向いて固まっている。
「どうしたの、京一くん? その子が……どうかしたの?」
「カワイイから見惚れてるとか言うんじゃないだろうね」
女性二人の問いにも反応はない。いや、何か言おうとしているようだが言葉にならないようだ。
(あれ……? この子、どこかで見たような)
ふと、龍麻は少女を見てそう思った。確かにどこかで見た覚えがある。それもそう昔の事ではない。ごく最近だ。
「バッ、バカ! そんなレベルの問題じゃねぇ! その顔、その声……ま、まさか――」
「あ、思い出した。さっき、京一が見せてくれた雑誌に載ってた。舞園さやかだ」
ようやく京一が言葉を発し、何気ない龍麻の一言が続く。そして
「「「えーっ!?」」」
残り三人が少女を見て大声を上げた。
「あっ……はい。舞園さやかです。……よろしくお願いします」
名前を呼ばれた事と、葵達の反応で、アイドルとしての自分に戻ったのか、笑みを作って挨拶する舞園。
「ほ……本物だぁ……」
「確かに……」
呆然と舞園に視線を注ぐ小蒔と醍醐。まさか、こんな所で平成の歌姫と謳われた彼女に会えるとは思っていなかったのだろう。それは全員に共通した認識であり
「でもなんで、本物のさやかちゃんがこんな所に……?」
と、京一が訊ねる。
「それは……」
「それについては、ちょっと……」
舞園と、彼女と一緒にいた少年の表情が曇り、声のトーンが落ちた。それに京一は慌てて
「あ、あぁ。そうだよな。芸能人
今のは無し、とばかりに手を振り、今度は少年に向き直る。
「それより少年。お前は一体、さやかちゃんの何なんだ?」
「あっ――すみませんっ。僕は、さやかちゃんの同級生で、文京区、鳳銘高校一年の霧島諸羽といいます」
怪訝な表情の京一に、再び姿勢を正して少年――霧島が名乗った。
「う〜ん。さわやかな少年だなぁ」
「もう、小蒔ったら」
周りにいないタイプだからだろう、小蒔が述べた感想に、葵も笑っていた。
仲間は二人を除いて同級生。マリィはともかく、雨紋は礼儀正しいと言ったタイプではない。もっとも、彼とて龍麻達と話す時は、口調もある程度丁寧になるのだが。
「ええっと、私は美里葵。彼女が、桜井小蒔で、こっちが醍醐雄矢くんに蓬莱寺京一くん、それから、緋勇龍麻くん。私達も、真神学園の同級生よ」
「よろしくっ、霧島クン、さやかチャン!」
「はいっ。よろしくお願いします」
葵が一通り、全員を紹介し、小蒔と舞園が挨拶を交わす。とりあえず、警戒は解けたようだ。
「皆さん……さやかちゃんを助けて頂いて、本当にありがとうございます」
「ハハッ。気にすんなよ。こう見えても俺達、さやかちゃんの大ファンなんだぜっ……っと、約一名、例外がいたっけか」
再び礼を言う霧島に京一は笑って答え、龍麻に視線を向けた。
「何しろ、今日の今日まで、さやかちゃんの顔を知らなかったっていう不届き者だ」
「え……さやかちゃんのこと、ご存じないんですかっ!?」
まさか、知らない者がいるとは思わなかったのだろう、霧島が驚愕の表情を浮かべて詰め寄ってくる。
「それなら今度発売になるCDを、是非、聴いてみてくださいっ! そうすれば、緋勇さんもきっと、さやかちゃんの歌を好きになってくれると思いますっ!」
「いや……顔と名前が一致しなかっただけで、歌は聴いた事があるんだけど……」
「もう、霧島くんったら……私のこと、そんな風に言ってくれなくていいのに……」
霧島の熱意に戸惑いつつも、龍麻はそう答える。持ち上げられた舞園は、何やら恥ずかしそうに頬を染めていた。
「あははっ、霧島クンっていつもこうなの? 面白いコだなぁ。なんか、マネージャーみたい」
さもおかしそうに小蒔が笑う。すると、今度は霧島が慌てて
「えっ!? そっ、そんな……僕はマネージャーじゃなくて、一応、その……ボディガードのつもりなんです……」
と答えた。ボディガード、という単語を聞き咎め、冷静さを取り戻した龍麻が訊ねる。
「もしかして、こういう事ってよくあるの? 今日みたいに、タチの悪いのに追いかけられたり」
「はい……でも、僕……」
先程、何もできなかったことを悔やんでいるのか、霧島は再び沈んだ表情になる。それを励ましたのは京一だった。
「何だよ、男がそんな情けねぇツラすんじゃねぇよ。仮にも、ボディガード、なんだろ? だったら、しっかり胸張ってろ」
「は……はいっ!」
袋で胸を小突かれ、言われた通りに胸を張る霧島。それを見て満足げに頷き、京一は踵を返す。
「さって……それじゃ、俺達はそろそろラーメン屋へ行くか」
「そうだねっ! ボクもう、腹ペコだよ。あっ、もしよかったら、さやかチャンと霧島クンもどう?」
小蒔が二人に声をかけた。それを聞いて京一が振り返り、笑う。
「バカだな、小蒔。さやかちゃんがラーメンなんか食うわけ――」
「いいんですかっ!?」
だが京一の予想に反して、舞園の口から出たのは嬉しそうな声だった。
「あの、実は私も……すこしお腹が空いてたんです。さっき、たくさん走ったし……もしよかったら、私たちもご一緒しても構いませんか?」
「うん、おいで。みんなで食べる方が美味しいし」
「よかった……」
あっさりと同意する龍麻に、舞園は顔を綻ばせる。
「皆さんとも、もう少しお話したいなって思ってたんです」
「うんうんっ、カワイイな、さやかちゃんはっ」
こちらは綻ばせるどころか、にやけすぎて顔が崩れている京一。そんな彼に、小蒔が冷たい視線を送る。
「鼻の下伸びっぱなし……みっともないぞ、京一」
「うるせぇっ! 俺は今、このまま死んでもいいぐらいだ」
「じゃ、勝手に死ねっ!」
ゴスッ
京一の背中に、蹴りを入れる小蒔。不意な一撃に、京一は無様に地面に転がった。
「アホはほっといて、行こ、行こっ!」
「そうだな。そろそろ行くか」
「全く京一は……」
小蒔はそのまま歩いていき、醍醐と龍麻は溜息をついてそれに続く。
「それじゃ、さやかちゃん、霧島くん、行きましょう」
葵もいつものことなので気にした様子はなく、笑いながら二人を促した。戸惑いつつも、ついて来る二人。
「ま、待て、お前らっ! 俺を置いてくな――っ!」
起きあがった京一が、慌てて後を追ってきた。