某日未明。真神学園旧校舎。地下六十階。
「破あぁぁぁっ!」
「ゴワアアァァァッ!」
鵺と呼ばれる異形が、一撃の下に屠られる。鵺には何が起こったのか理解する間もなかっただろう。目の前に現れた人影。それが視界から消え、次の瞬間には抗う事のできない程の強大な《氣》の直撃を受けたのだ。
「……また、か……」
地面は原形を留めていない異形で埋め尽くされていた。その中に立つ人影が呟く。声からすると男のようだ。その声は暗い。
「この辺りになると、どうも歯止めが利かなくなるな」
いつも通りに放ったつもりの《氣》が、本人の意志に反した高出力で解放されている。制御ができていないのだ。
自らの右腕に手をやる。触れた途端に走る痛み。ねっとりとしたものが指先に、鉄のような匂いが鼻に伝わる。血だ。先の発剄の負荷に耐えられなかったのか、皮膚が数カ所裂けている。
「無理に戦闘で慣らすのは問題があるか……」
現状で実戦ができるのはここ旧校舎だけだ。仲間の助力を得て手合わせ、というのも一つの手だが、このような事態になると冗談では済まされない。最悪の場合、殺してしまうかも知れない。
「……仕方ない。しばらくは練氣、蓄剄の方に重点を置いて、少しずつ慣らしていこう」
溜息をついて、男――緋勇龍麻は足下に落ちている戦利品を回収し始めた。
10月6日。3−C教室――放課後。
授業も終わり、教室は喧騒に満たされる。修学旅行というイベントも終わり、再び勉強の毎日が始まった。早々に帰宅したいという気持ちも分かる。
「あ〜、終わった終わった」
「早く、帰ろーよ」
「やっぱ、帰宅部はこういう時、楽だよなぁ」
と、教室を出て行く女生徒を見ながら、近くにいた男生徒が誰にともなく呟いた。そして、龍麻の方を見て声をかけてくる。
「おい、緋勇。お前、まだ帰らないのか?」
「え? あ、うん……」
「今日は、合同部会の日だからよぉ、部活に入ってるヤツらはみんな会議中だぜ」
そう言われれば、京一達がそんな事を言っていたような気もする。
「まぁ、誰か待ってんならしょーがねーけどよ。じゃーなっ」
鞄を持って、その男生徒は教室を出て行った。それと入れ違いになるように、今度は女生徒が声をかけてくる。
「あっ、緋勇くん。さっき、犬神先生が捜してたよ? ヒマなら職員室へ行ってみたほうがいいかもね。じゃーねっ」
「ああ、ありがとう。それじゃ」
用件を告げて去って行く女生徒に挨拶を返し、龍麻は腕組みなどして考える。
別に誰かを待っているわけではない。京一達だって合同部会に参加している以上、いつ終わるのかも分からない。それよりも犬神が自分を捜しているのが気になる。放送で呼び出さないということは、大した用事ではないのだろうが、捜している以上、いつかはお呼びが掛かるだろう。
「まあ、済ませられる用事は済ませておこうか」
とりあえず鞄はそのままに、龍麻は職員室へと向かった。
職員室。
「よぉ、緋勇――お前が一人とは、珍しいな」
入るなり、くたびれた格好の生物教師はそんなことを言った。どうやら犬神にも、龍麻達は五人でワンセットだと思われているようだ。他の教師達はいない。別に『人払い』が働いているわけでもないのに、どうしたのかと龍麻は疑問に思った。
煙草をくわえたまま、コーヒーを煎れようとする犬神だったが、ふと何か思いだしたのか、動きを止める。
「と……そうか、今日は部会の日だったな。他の奴らは今頃、来期の予算編成や次期部長の選出に追われている頃か」
「ええ、そうらしいです」
犬神の言葉でほぼ無人の職員室の謎が明らかになる。教師ともなれば顧問をしている部活の一つもあるだろう。部会に顔を出さないわけがない。犬神は例外のようだが。
「まぁ、部活がない分、お前には暇な時間があるだろうが、くだらん事にばかり首を突っ込んでいないで、少しは勉強もしてるんだろうな?」
「当たり前じゃないですか。これでも僕は受験生ですよ。それに、勉強しているかどうか、先生方なら分かるでしょう?」
これでも、を強調して言い返すと、フッ、と犬神が笑う。
「お前がそんなに勉強熱心とはな。お前も蓬莱寺と同類かと思っていたが、どうやらそれは誤解だったようだな」
「赤点や補習なんてものには縁のない人間でして」
「……ところで緋勇。修学旅行で泊まった旅館のある山の事だが――暴力団との癒着が発覚したレジャー開発会社が、地域住民の猛反対を受け、山から撤退したそうだぞ」
「あ、そうですか」
突然変わる話に、それでも龍麻はよどみなく答える。どうやら、あの時の策がうまくいったようだ。
天狗が去ったあの後、龍麻は若頭に組の名前を借りたのだ。つまり、レジャー会社と暴力団の癒着を広めようとしたのである。普通なら受け入れられる事でもないが、あの山に本物の天狗が棲んでいること、次に同じ事があった時には必ず犠牲者が出るであろうこと、それに、命を救ってやった貸しがあることを言ってやると、あっさりと呑んだ。元々、彼らの上役――組長も、あの件には乗り気でなかったらしく、自分達は痛くもかゆくもない、ということで、ヤクザ達は撤退したのだ。
そして、隆達にはその旨を伝え、反対運動にうまく使っていくように教えたのである。
「まさかとは思うが……お前ら、この件にも首を突っ込んでいたんじゃないのか?」
「ええ。そう仕向けたのは僕ですし」
コーヒーのカップを差し出す犬神に、それを受け取りつつあっさりと龍麻は認めた。一瞬、犬神の表情が動いたが、なるほどなと呟き、自分のコーヒーをすする。
「あいつが去った後に、そこまでやったわけか」
「非はこちらにありますし。かといって、あのままにしておくわけにもいかないでしょう?」
「結果的にいい方向へ出たからいいようなものの、あまりにも無責任な行動だな。まあ、そのおかげで救われた人間がいたのも確かだがな」
「人間だけじゃ、ないでしょう?」
「まあ、そうだな。余計な争いが起きずに済んだ。っと、そうだ。村の青年団から、お前ら宛に届いた。ほらよ」
カップを机に置き、犬神が何やら取り出した。生八つ橋。京都土産の定番だ。
「わざわざこんな事しなくてもいいのに」
「せっかくだ。もらっておけ」
大した事をしたつもりはないが、せっかくの厚意だ。
「じゃ、ありがたく頂きます」
「あまり調子に乗って足をすくわれんようにな。それと、もう一つ――」
「アラ、緋勇クン」
続けて犬神が何やら言おうとしたその時、ドアの開く音と、それに一瞬遅れて別の声がかかった。担任のマリアが職員室に入って来たのだ。
「どうしたの? こんな所で……」
「ああ、犬神先生に用事があったんです」
「犬神センセイに?」
龍麻と犬神に接点はない。少なくとも表向きは。だが龍麻は、担任でもない犬神に用事があるという。マリアが不思議に思うのも当然だが
「ああ、緋勇のヤツが忘れ物をしてましてね。こちらに来たのはいいんですが、物を生物室に置いたままだったんですよ」
と、犬神が言い繕う。
「そういうわけで、これから取りに行くところです。ところで、先生は何か用事でも? 急いでるようですけど」
マリアにしては慌ただしく職員室に入ってきたので、それを龍麻が問うと
「センセイ、今日は私用でもう帰らなくちゃいけないの」
「ああ、そうだったんですか。それじゃ、僕もそろそろ行きます」
「ええ。気をつけて帰るのよ。あ、そうそう。そろそろ部会も終わる頃だから、他の子達も、教室に戻って来てると思うわよ」
「そうですか。それじゃ、失礼します」
帰り支度を始めるマリアに挨拶し、龍麻は犬神と一緒に職員室を出た。
3−C教室――
用事を終えて教室に戻ると、先程マリアが言った通り、京一達が戻って来ていた。龍麻の姿を見つけた小蒔が声をかけてくる。
「あっ、ひーちゃん! よかった、まだ、帰ってなかったんだねっ」
「だから俺が言ったろ? ひーちゃんは一人で先に帰ったりするヤツじゃねぇってよ」
「まったく、調子のいい奴だな、お前は」
もっともらしいことを言う京一だったが、続く醍醐の言葉がそれを打ち消した。京一の事だ、さっさと帰ろう、とか言ったのだろう。荷物は教室に置いたままなのだから、残っている事くらい気付きそうなものだが。
うるせーよ、と顔を背ける京一に、葵も笑っている。
「あ、ひーちゃん。それどうしたの?」
「ん? ああ、隆さん達から僕達宛に送ってきたって」
龍麻の手にある生八つ橋を見て、小蒔。とりあえず、龍麻は京都の状況を簡単に説明する。
「なるほど。龍麻の策が成功したわけだな」
「それにしても、早かったよね。まだ、あれから一週間くらいしか経ってないのに」
「僕達が旅行を楽しんでいる間にも、隆さん達は動いてただろうから」
「でも、本当に良かったわ」
「だな。わざわざ出向いた甲斐があったってもんだ」
部外者とはいえ、あの件に関わった以上、皆も気になっていたようだ。今後どうなるかは分からないが、隆達がいる限りあの山が開発の対象になる事はもうないだろう。
「それじゃあ、みんな揃ったことだし、そろそろ……」
話も一段落着き、葵が皆を促す。京一と小蒔は承知しているようだが、龍麻には何の話か分からなかった。それは醍醐も同じだったらしく
「ん? 何だ? 今日は何かある日なのか?」
と、問い質している。一方の葵はそれが意外だったのか、軽い驚きの表情を見せた。
「あら、本当に忘れちゃったの? 醍醐くん」
「もうっ、しょうがないなぁ。ボクなんか、一週間も前から楽しみにしてたのにさっ」
(修学旅行の頃から? はて、一体何があるんだろう? )
呆れる小蒔に首を傾げながら考える龍麻。それが表情に出ていたのだろう、小蒔が龍麻を見て説明を始める。
「っと……ひーちゃんは知らないんだよね。えへへっ、あのね――今日は花園神社で、年に一度の縁日があるんだっ。だから、みんなを誘って行こう、って、葵と話してたんだっ。だからさぁ、みんなで行こうよっ。ねっ、ひーちゃんっ」
「縁日、か……そうだね」
「って、ひーちゃん。今、迷わなかったか?」
一瞬空いた間に何かを感じたのか、京一が訊いてくる。
「ああ、今日は肉の特売日が……」
「って、所帯じみてるな、ひーちゃん……」
「一人暮らしだからね。無駄遣いは控えなきゃ」
元々、家賃は必要ない。光熱費や電話代、食費だけの出費だ。十分な生活費はもらっているのだが、このあたりは龍麻の性格である。義姉二人に仕込まれ、立派な主夫と化している。
「でも、せっかくのお誘いだし。たまにはいいかな」
龍麻がそう答えると、皆も安心したように笑みを浮かべた。やはり龍麻がいないと始まらない、そういう感覚が出来上がっているのだ。
「ボク、縁日やお祭りって大好きなんだっ! 焼きそば、わたアメ、かき氷、ソースせんべいにラムネ……う〜ん、楽しみだなぁ」
さっそく縁日の想像をしているのか、だらしなく顔を緩ませて小蒔が食べ物を挙げていく。そういえば、花見の時もこんな感じだったか。
「うふふ、小蒔ったら」
「やっぱ、お前の頭の中は、食い物のことだけだな……」
親友の葵、そしていつもの如く茶々を入れる京一だったが、小蒔の耳には届いていないようだった――少なくとも、京一のそれが聞こえていたならば拳の一つも飛んできただろう。
「ふむ、それじゃあこれから、皆で行ってみるか」
醍醐の言葉で、縁日行きが決定となる。余程嬉しかったのか、小蒔が飛び跳ねていた。
「でも、みんなで縁日なんて、なんだか楽しみね」
「そうだね。一緒にいる事は多いけど、一緒に遊びに行くっていうのは、あまりなかったから」
港区のプールへ繰り出した事もあったが、結局は事件に巻き込まれる形になった。今度ばかりは、そういった厄介事に関わることなく、楽しみたいものだと龍麻は胸中で独り言ちるのだった。
一階――下駄箱。
部会があった事を差し引いても、この時間になると下駄箱周辺には誰もいない。
「う〜ん。わくわくするなぁっ! ちょっと耳を澄ませば、祭囃子が聴こえてきそうだもんっ」
「桜井は、よっぽど祭りが好きなんだな。中でも楽しみにしてるのは、一体、何なんだ?」
浮かれる小蒔にやや呆れつつ、醍醐が訊ねている。だが、先程からの台詞を思い出してみれば、それは愚問というものだ。
「バカだな、醍醐。そんなの決まってんだろっ! 小蒔の頭の中にゃ、食い物のコトしかねぇんだって」
京一がそう指摘すると、小蒔は舌を出した。
「別にいいだろっ。あの雰囲気の中で食べる屋台物が最高なのっ」
「はははっ。桜井らしいな」
「まっ、お前の言うコトも分からなくもねぇけどな――っ!?」
不意に京一が口をつぐんだ。キョロキョロと周囲を見回し始める。
「どしたの、京一?」
「うふふふふふ〜。みんな〜、今帰りなの〜?」
小蒔の問いに答える前に、京一の異変の元凶が姿を見せた。言うまでもなく、裏密である。
「くそっ、今日は珍しく会わずに済んだと思ったのに……」
「あら、ミサちゃん」
悔しがる京一、硬直する醍醐は別として、葵達はあっさりとしたものだった。
「そうだっ、ミサちゃんも一緒に縁日に行く?」
「バッ、バカ! 余計なコト言うんじゃねぇっ!」
「いいじゃないか、別にっ。ねっ、ミサちゃんも行こうよっ」
京一の心からの叫びを聞き流し、小蒔が提案する。しかし裏密はあさっての方向を見つめながら――
「うふふ〜。あたし〜が神社に行ったら〜、何が起こるか分からないわよ〜」
「な、何が起こるかって……一体何が起こるんだ……?」
不吉な物言いに、それでも気になったのか、震える声で醍醐が訊き返す。それに対する答えは……
「うふふふふふふ〜。恐ろしくて言えない〜」
「「……」」
京一、醍醐の二人は蒼ざめたままフリーズしてしまった。
「う〜ん。相変わらず、どこまで冗談なのか分かんないね」
一方の小蒔は少し戸惑う、程度だった。このあたり、普段苦手としているかどうかの違いだろうか。
「うふふふ〜。でもあたし〜、これから出掛けるところだから〜、どっちにしろ、一緒には行けないの〜。あたし〜がどこへ行くのか〜、ひーちゃんは興味ある〜?」
「うん。いつもなら霊研に篭もってるのに、珍しいから」
こちらに顔を向ける裏密にそう答えると、彼女はにぃっ、と怪しい笑みを浮かべた。
「うふふ〜、そ〜お〜? 聞いたらきっと、ひーちゃんも行きたくなるよ〜?」
「物好きだな、お前も。聞いたら呪われるかもしれねぇ〜ぞぉ〜」
「うふふふ〜、京一く〜んも聞いておいた方がいいわ〜」
冗談じゃない、とばかりに京一が顔をしかめるが、裏密はふと真顔に戻った。それに気付いたのか、さすがに京一も次の言葉を待つ。
「いずれ恒星の悪意
「「……」」
誰一人として裏密の言葉を理解できた者はいなかった。ただ、何となく不吉な事を言っているような気はした、それだけだ。
「うふふ〜、でも〜、それよりもみんなは〜、目の前の凶刃に気をつけた方がいいかもね〜」
「またかよ……で? 今度は一体なんだってんだよっ?」
「うふふ〜、天の宿星が教えてくれた〜。竹花咲き乱れる秋の宵、相見える龍と鬼〜。いずれも、その死をもってしか〜、宿星の輪廻より解き放たれざる者なれば〜。心当たりがあるのなら〜、用心と覚悟はしておいた方がいいかも〜」
それだけ言い残し、裏密は去って行く。
「……相変わらず、謎の多い奴だ」
「でもボク、例え世界がどうかなっても、ミサちゃんだけは生き残ってるような気がするな……」
醍醐が呟き、小蒔がそんな事を口にする。誰もそれを否定しなかった。そりゃ言える、と京一などは相づちをうっている。
「そんなことより、早く行こうぜ――」
「あっ、私達ちょっと……」
「そうそうっ。ボク達、実は家庭科室に用があるんだっ」
当初の目的を思い出した京一がそう言ったが、女性陣二人がそれに「待った」をかけた。
「なんだ? 課題の提出でも忘れたか?」
「えへへ……ちょっとねっ」
醍醐が訊ねるが、小蒔は言葉を濁す。ただ、その表情は何やら企んでいるような――
「悪いんだけどさ、先に三人で神社まで行っててよ。後からすぐ行くから、そこで待っててくれる?」
「そりゃ、いいけど。用事があるなら終わるまで待ってようか?」
「いいのいいの。先に行っといて。えへへっ、ひーちゃん。楽しみにしてなよっ」
「もう、小蒔ったら……」
意味ありげに笑う小蒔に、何故か頬を赤らめる葵。どうやら、今回のは小蒔が首謀者のようだ。
「あの、龍麻くん――なるべく急ぐから……」
「え? あ、うん……」
「行こっ、葵――」
そのまま女性陣は家庭科室へと去って行ってしまった。
「……何を企んでるか知らねぇけど、ここでこうしててもしょうがねぇ。俺達は、一足先に花園神社へ行くとすっか。なぁ、ひーちゃん、醍醐」
「……」
「ん……? おいっ、醍醐。どうかしたのかよ?」
「あ……あぁ、何でもない」
一人、何やら難しい顔をしている醍醐に、京一が声をかける。
「どうせ、裏密の言ってたコト、考えてたんだろ? そんなの、気にするだけ無駄だって。行こうぜ」
さっさと京一は歩き出す。だが醍醐は、どうしても裏密の言葉が忘れられずにいた。
「竹に龍に、鬼……」
竹というと醍醐はどうしても龍山の事を思い出してしまう。そして鬼――今まで闘ってきた鬼道衆のことが脳裏に浮かぶ。
(鬼道衆がなくなったからと言って、鬼そのものが存在しなくなったわけではない。新たな鬼でも出てくるというのか? それに龍と鬼が相見えるというのも気になる。龍山先生の事かと思ったが、何か違うような気がする……)
さり気なく醍醐は龍麻を見た。表面上はおかしな様子はない。ふと、先の龍という言葉が、龍麻のことを指しているのではという考えが浮かんだ。龍と鬼、それが意味するものは一体――
(龍麻は、何か気付いてるのだろうか? )
訊いてみたい気はしたが、結局醍醐はそれを実行する事はできなかった。
新宿区――花園神社。
ビルに囲まれるように建っている神社。その正面入口で、龍麻達は葵達を待っていた。
「ったく、おせぇな、あいつら……早く来ねぇと、置いてくぞっ」
「まぁ、落ち着いてもう少し待とう。せっかく二人が何か計画を立ててきたんだ。ここは乗ってやるべきだろう?」
愚痴をこぼす京一を醍醐がなだめる。
辺りは日も落ち、暗くなりかけている。敷地を覗くと、それとは対照的に色とりどりの光が闇を照らしていた。小蒔が楽しみにしている屋台群だ。それは神社の境内のみならず、神社周辺の歩道にまで出張っていた。
「案外、どこかの屋台で捕まってるのかもね。葵さんはともかく、小蒔さんなら……」
「有り得るな。アイツの食い意地だけは、どうにもならねぇよ」
「そういう京一は、どうせ浴衣を着た女性の鑑賞がしたいんでしょ?」
「まったく……お前も桜井の事は言えないな、京一」
龍麻、醍醐のツッコミに、京一は言葉を詰まらせる。図星か。
「大体、お前はな――」
「おっ? ありゃエリちゃんっ!」
醍醐が説教モードに入ろうとしたその時、京一がめざとく人混みの中からある人物を見つけた。
「お――いっ! エリちゃ――んっ!」
大声で名を呼び、ブンブンと手を振る京一。呆れつつも京一の視線の先に目を向けると、ルポライターの天野絵莉がこちらに軽く手を上げているのが見えた。
「うふふっ、あなた達もやっぱり来てたのねっ。もしかしたら、会えるんじゃないかと思ってたのよ」
近付いてくると、天野は龍麻に目を向けた。
「龍麻君、この間借りた物を返すわね」
そう言って天野は龍麻の手に、念珠を渡した。龍麻が如月から取り寄せ、等々力で天野に渡した物だ。
「あ、どうも……。あの……あの時は――」
「この間はごめんなさいね。色々と迷惑をかけて」
等々力の件を謝ろうとした龍麻だったが、先に天野の方が謝ってきた。
「あれから、随分軽はずみなことしたなって後悔したの。あなた達はいつも命懸けで事件に関わっていたのに、私は興味本位で首を突っ込んで……」
「あ、いや……。もういいんですよ。全部終わったことですし。天野さんには何度も助けてもらってるのにあんなことして……こちらこそすいませんでした」
「ところで、天野さん。今日は取材か何かですか?」
話題を変えようと問う醍醐に、天野は苦笑して
「あら、私にだって、プライベートはあるわよ。今日は友達とのんびり縁日でものぞこうかな、ってね」
「エリちゃんと、そのお友達のおネェ様かぁ……俺もお供したいぜ……」
「ふふふっ。それなら、私と一緒に来る? 私も友達も全然構わないけど。どう――?」
「いいのかよっ!? それじゃ――!」
天野のお誘いに、飛びつこうとする京一だったが、それを龍麻が制する。
「申し出は嬉しいんですけど」
「そう……誰かを待ってるの?」
「ええ。美里と桜井が後から来るんです。すいません、天野さん」
続けて醍醐も頭を下げた。それを見て天野が笑う。
「何言ってるの。謝る事なんてないわよっ。ふふっ、ちょっと残念だけど、またそのうち会いましょう。それじゃあ、またね!」
天野はそのまま境内へと入って行き、人混みに紛れて見えなくなった。
「あぁ、行っちまった……」
「未練がましいぞ、京一。俺達は、美里と桜井を待ってるんだ。あまり、きょろきょろするなよ」
未だに天野の去って行った方を見ている京一に、冷たい醍醐の一言。京一は不満げな表情のままこちらを向くと、こんなことを言った。
「うるせぇな。お前らは美里と小蒔がいればそれでいいんだろうけどよ。それに中
「な、何を――っ!?」
耳まで真っ赤になる醍醐だったが、龍麻の方は別段変化はない。
「いればいいとかじゃなくて、そういう約束でしょ? 約束破るのはよくないよ。ところで雄矢、どうしてそんなに赤くなってるわけ?」
どうやら、京一の言葉の意味に気付かなかったらしい。相変わらず、鋭いくせに鈍い。
「まったく……何を騒いでるんだよ。恥ずかしいなぁ」
そこへ小蒔の声が聞こえた。
「小蒔か。あれっ? おい、美里はどうしたんだ?」
いるのは小蒔だけだ。一緒にいるはずの葵の姿はない。京一の問いに、小蒔は悪戯好きの子供のような笑みを浮かべる。
「えっへへ〜。向こうにいるよっ。ほら、葵! 早くおいでよっ!」
「え、えぇ……」
小蒔が葵を呼んだ。躊躇いがちな返事と共に、葵が姿を見せる。
「あの……おかしくないかしら?」
「おっ、浴衣じゃねぇかっ!」
京一の指摘の通り、葵は浴衣を身につけていた。
「いいね〜っ、これぞ縁日の醍醐味だよなっ!」
「そうか……この事だったのか」
「はぁ……」
まじまじと自分を見つめる三対の視線に、葵もやや照れくさそうにしている。
「やっぱり葵は浴衣が似合うよねぇ〜」
「もう……小蒔ったら。本当は今日、朝から持って来ていたの。みんなが行ってから、家庭科室で小蒔に手伝ってもらったのよ。私の着替えのために……待たせちゃってごめんなさい」
「いいっていいって。みんなには好評みたいだしさ。ねぇ、ひーちゃんもそう思うでしょ?」
そう話を振ってくる小蒔。龍麻は葵から目を離していなかったらしく、その声で我に返ったようだった。
「あ、うん。浴衣に限らず、葵さんって着物とかも似合いそうだよね。もちろん、今の浴衣もよく似合ってるよ」
「あ、ありがとう……龍麻……くん……」
「へへへ〜。何だか、急に顔の色が変わったね、葵ぃ?」
「こ、小蒔っ!?」
真っ赤になった葵を、さっそく小蒔がからかい始める。が、それもすぐに終わった。京一が小蒔に声をかけたからだ。
「ところで小蒔よ。何でお前は着なかったんだよ?」
小蒔の格好は学校にいた時と変わらない、真神の冬服だ。
「えっ? だって……浴衣じゃきついし、動きにくいし……」
「確かに、食べ歩きには向かないな」
「でも、小蒔さんも着れば良かったのに。ねぇ、雄矢?」
「そうだな。こういう機会でもないと着ることもないだろうし。結構似合うと思うが……」
さり気なく話題を振られたことに気付かぬまま、醍醐は照れもせずにそんな事を言う。今度は小蒔が赤くなる番だった。
「そ、それじゃ、みんな揃ったことだしっ! 縁日へレッツゴ――っ!」
やたらと張り切って、小蒔は境内に入って行った。
「どうしたんだ、桜井は?」
「……本気で言ってるのか、タイショー?」
未だに自分が何を言ったのか理解していない醍醐に、京一は深々と溜息をついた。
暗闇を打ち消すのではなく、その中に浮かび上がる灯火。これで人気が少なく、静かならば、さぞ幻想的な光景だったろう。もっとも、そうなると縁日とはまた別のものになってしまうが。
「わぁ……提灯の灯が明るいね」
「あぁ、結構な人出だな」
提灯の明かりに目を奪われている小蒔と、人混みに感心している醍醐。参道の両脇は屋台に埋め尽くされていた。
「まずは、どうしようかしら?」
これだけの屋台があると、どこから見て回るのかも悩むところだ。
「そうだな……おっ、焼きそばの匂いが……」
「あっ、見て見てっ! くじ引きだって。懐かしいなぁ」
「焼き鳥にたこ焼き……これだけあると目移りしてしまうな」
京一達もそれぞれ気になる屋台を見つけたようだ。今挙げたのだって全てではなく一部だ。他にも色々な屋台が出ている。
「ねぇ、ひーちゃん。ひーちゃんはどこへ行きたい?」
「そうだね。とりあえず手前の屋台から見て行こうよ。この場合はくじ引きからでいいんじゃない?」
「ホントっ!? それじゃみんなでやってみようよっ!」
「くじ引きって、あの、紐を引くやつか?」
さっそくくじ引きの屋台へと向かう小蒔を見ながら、醍醐が龍麻に問う。
「どうかな? 箱の中にあるくじとかボールを引くのもあるけど……」
「小蒔が見つけたのは、今醍醐が言ったやつだな。たくさんの紐の中から一本引くんだ。確かに紐の先に、高価なモンが繋がってるように見えるんだが、これがどうも、本当かどうか分からねぇときてる」
「うふふ。でも、だからドキドキするのよね」
「違いない」
どうやら全員経験者のようだ。
「ねぇ、一回五百円だって。どうする?」
「みんなでやってみようぜ。誰から行く?」
「あ、それじゃボクからっ!」
屋台の兄ちゃんに金を払い、小蒔は並んだ紐とにらめっこを始める。
「こうしてみると、色々な物が景品になってるな」
「だね。お菓子からおもちゃ、ぬいぐるみに……へぇ、指輪なんかも――」
紐の先に繋がっている物を見ながら言う醍醐に、龍麻も頷きつつそれらを眺めていたが、不意に言葉を切った。
「どうした?」
「あの指輪、視てごらん」
「ん? ……ほう、あんなものまであるとはな……」
龍麻が見つけたのは景品の中にある指輪の一つだ。ただ、それが普通の指輪でないことに気付いたのである。
「あれ、何とか手に入らないかな?」
「さて、な。こればかりは運だからな」
「あーっ! 駄目だぁ……!」
「ちくしょー……」
そんな話をしているうちに、小蒔と京一の溜息が聞こえた。
「で、戦利品は?」
「ボク、ポテチ……」
「俺は焼き鳥」
「焼き鳥?」
そんなものがついていただろうかと疑問に思う龍麻と醍醐だったが、見ていると屋台の兄ちゃんが隣の焼き鳥の屋台から物を受け取っていた。
「なるほど」
「おい、次は醍醐と美里、ひーちゃんだぜ」
受け取った焼き鳥をさっそく頬張りつつ、京一が促す。
「よし、やってみるか」
「何だか緊張してきたわ」
醍醐と葵も金を払い、くじを引いた。結果は――
「缶ビールか」
「ぬいぐるみ……マリィにあげようかしら」
醍醐は缶ビール、葵は猫のぬいぐるみをそれぞれ入手したようだ。葵はともかく、酒の苦手な醍醐が酒を手に入れるというのも皮肉な話である。
「じゃ、残りは龍麻だな」
「ボク達、みんな負けみたいなものだから、仇を討ってね!」
「龍麻くん、頑張ってね……」
「はははっ。頑張って、はちょっとナンセンスだぜ、美里。こいつはもう、完全に運試しなんだからよ」
「じゃ、引くよ」
欲しい物はあるが、どうなるものでもない。適当に紐を選び、それを引く。軽い手応えはあるが、目当ての指輪は動かなかった。
「あら、駄目だったか」
軽く息をつく龍麻だったが、周囲の反応は違った。
「すごいわ、龍麻くん!」
「へぇ、指輪だぁ」
「ひーちゃんが一番高価なモンを当てたな」
「案外捨てたもんじゃないな、龍麻。視てみろ」
醍醐の言葉に、受け取った指輪を視る。これも普通の指輪ではなかったのだ。藍色に輝く石の指輪。角度を変えると、何かの眼のような模様が浮かび上がる。そして、感じられる《力》。
「他にもあったのか……」
「やるねぇ、にーちゃん。彼女にプレゼントかい?」
屋台の兄ちゃんが葵と小蒔の方を見ながら言う。
「え? あ、うん……そうだね。葵さん、これあげるよ。僕が持ってても仕方ないし。有効に使って」
龍麻のその言葉に、葵は一瞬怪訝な表情を浮かべるが、指輪を受け取ると納得したようだった。