夜の山中。
未舗装で足場の悪い道。その両端に生い茂る木々。星も月も出ているが、木の枝に遮られ、ほとんど届かない。街灯などがあるはずもなく、歩くだけでも一苦労する。
「夜の山って、思ってたより怖いね」
と小蒔が呟くが、無理もない。
「なあ、ひーちゃん。この前みたいに巫炎頼む」
「人に見られた時に厄介でしょう? 却下」
江戸川で龍麻がした事を思い出し、京一が灯りを求めるが、龍麻はそれを拒否した。
「で、これからどうするの、雄矢?」
「そうだな、まず工事現場へ行ってみよう。その辺りで天狗は暴れてるそうだからな」
「まったくよぉ、本物でも偽物でも、この際鬼道衆でもいいからよ、本当にいるんだろうな、その天狗はよぉ……」
心底面倒くさそうに京一が愚痴る。楽しみにしていた覗きを阻止され、しかもそれが一番厄介な者にバレてしまった今の彼には、何をする気も起きないだろう。
「何言ってんだよ、京一! もうちょっと、やる気だしなよっ!」
「そんなこと言ったってよ……」
小蒔の叱責にこれまた面倒くさそうに京一が答えた時だった。
ドサッ
何かが落ちたような音が暗闇の中から聞こえてきた。
顔を見合わせ、五人は音のした方へと向かう。そこにいたのは――
「「「「「……」」」」」
地面から起き上がろうとしている天狗(?)だった。
「天狗が……木から落ちたのか?」
と、自信なさげに醍醐。
山伏のような服装で、手には羽団扇も持っている。格好だけは確かに天狗のそれだが……天狗が木から落ちるというのも間抜けな話だ。
天狗(?)が起き上がる。そして、気の毒そうな目を向ける龍麻達に気付いた。その視線に一瞬狼狽えたようだったが
「貴様ら……何者だっ!? この山は、我、鞍馬天狗の御山ぞっ! これを汚す者は、即刻、去ねいっ!」
と啖呵を切る。もちろん、そんなものに気圧される龍麻達ではないが。
「なあ、ひーちゃん……一応、確認するけどよ」
「《氣》も常人レベル。どう視ても、混じりっけなしの人間。第一、天狗の面って、天狗を模したものであって。天狗が天狗の仮面を被る必要ないじゃないか……」
「だよなぁ……」
呆れ、というより哀れみの混じった目で天狗(偽)を見る京一。醍醐達も何やら拍子抜けしたのか、どうしていいのか迷っているようだ。
「なあ、偽者だって分かったんだからよ、さっさと帰ろうぜ」
「いや、しかしだな……」
「しかしもかかしもあるかよ。正体を確かめに来たんだろ? じゃあ終わったじゃねぇか」
「……俺を無視するなっ!」
「うるせぇなぁ。大根は引っ込んでろ」
立場のない天狗(偽)が叫ぶが、京一はそっけない。こういう反応をされる事自体、初めてに違いない。自分を恐がりもしない京一達に、戸惑っている。
「お遊びはそのくらいにして、その仮面を取れよ」
「そういうことだ。大人しく正体を明かせば、危害は加えない」
「うるせぇっ!」
諭すように京一と醍醐が言うが、向こうは馬鹿にされていると思ったのだろう。団扇を投げ捨て、怒鳴る。
「あのなぁ、いい加減にしねぇと、ホントに退治しちまうぞ?」
「――やめてっ!」
京一がそう言った時だった。側の茂みから、青のジャンバーを着た一人の少女が現れて、龍麻達と天狗(偽)の間に立つ。
「やめて、隆! この人たちは違うのっ!」
「違うって……どういうことだ、朋子!」
隆と呼ばれた天狗(偽)が、現れた少女――朋子に問い質す。朋子は龍麻達を見て
「この人たち……ばあちゃんを助けてくれた人たちよ!」
「何だって!? じゃあ、君はあのお婆さんの……」
この地に来て自分達と関わった人間と言えば、宿へ向かう途中で遭遇した老女しかいない。驚く醍醐に朋子は頷く。
「孫の朋子といいます。隆……」
「ああ、分かったよ……」
天狗(偽)――隆の方も観念したのか面を取り、服を脱ぎ捨てる。
「ごめんなさい。あの……突然驚かして」
「いや、別にこの程度の事で驚くわけがないんだが……」
頭を下げる朋子に、醍醐は言葉を濁す。今までに多くの異形と対峙してきた龍麻達である。本物の天狗が出たところで、取り乱したりする事はない。
「大方、予想はついていたんだが、万が一、ということもあったからな」
「……万が一?」
こちらの事情を知らない朋子が訊き返してくるが、葵が話を変える。
「でも、どうして私達のことが分かったんですか?」
「あ、ばあちゃんから聞いたんです。皆さんの容貌も、とても親切にされたってことも」
「で、ばあさんの具合はもういいのか?」
気になったのか訊ねる京一。
「ええ、おかげさまで……皆さん、昼間はばあちゃんを助けていただいて……本当に、ありがとうございました」
朋子は再び頭を下げた。
「なぁに、別に気にする程の事じゃねぇよ。それより、改めて話を訊かせてもらおうか。そっちの兄さんにもな」
本題を思い出したのか、少しはやる気になったのか。京一が朋子にそう言い、次いで隆の方を見る。だが
「よそ者に話すことなど何もないっ。さっさと帰れ!」
「なんだとっ!?」
隆の方は話す気がないのか喧嘩腰だ。これまた気の短い京一が、それに反応して眉を吊り上げ、隆を睨みつける。放っておけば掴み合いの喧嘩になりそうだったが
「――待って、京一くん」
葵が京一をなだめ、隆と朋子に向き直る。
「確かに、私達はよそ者です。だけど……もしかしたら、少しでも力になれるかもしれません。あなた達が、危険を冒してまでも、護ろうとしているもののために」
二人は顔を見合わせ、迷っていたようだったが。
「分かりました、お話しします」
と、朋子が承知した。
地元人二人を加え、とりあえず現場を見てもらおうということになり、龍麻達は工事現場へと向かう。その道程で簡単に自己紹介をした後、詳しい事情を聞いた。
大体は老女から訊いた話と同じだ。ただ、開発会社のやり方がかなり強引らしく、地元住民への嫌がらせなどをしているらしい。ここまで話を聞いて、龍麻は嫌な予感がした。そんな龍麻の胸中など知る由もなく、話は続いている。
「で、どうして天狗のフリをしてたの?」
「この山には、天狗様がいるという古い伝承があるんです」
「さっき言っていた鞍馬天狗……か?」
小蒔の問いに朋子が答える。天狗の格好をした隆が名乗った時のことを思い出し、醍醐は隆の方を見た。
「ああ。そう伝えられているんだ。鞍馬天狗は、もともとは鞍馬寺の御本尊、多聞天の夜の姿で、その別名を魔王大僧正と言うんだ。この天狗様は、日本最大の大天狗で、絶大な徐魔招福の力を持っている。人類救済の使命をおびて、仏様より地上に遣わされた天狗様だ」
今回の件に際して調べたのか、隆は随分と詳しい説明をする。
「村のもんや先代の地主さんは、天狗様の祠を大切にして、この山の自然を護りながら、今まで生きてきたんです」
「祠?」
今まで黙っていた龍麻が、朋子に訊き返した。
「この山に天狗の祠があるの?」
「ええ……それが何か?」
「いや、別に」
(嫌な予感が消えないな……いや、別の懸案が増えたと言うべきかな……これはまずいかも……)
社や祠といったものに「何か」が宿る事は珍しくない。とくに人里離れた場所にあるそれはその傾向が強いと龍麻は聞いた事があった。天狗信仰が残る地に祀られている祠。おまけにこの山から感じる《氣》とくれば、歓迎したくない予想が立つ。どうしたものかと思考を巡らせる龍麻だったが
「ヒドイ……ここだけがぽっかりと更地になっちゃってる……」
小蒔の言葉で我に返った。いつの間にやら、現場であるレジャー施設建設予定地に到着していたのだ。
小蒔の言う通り、ひどい有様だった。山が崩され、木もかなりの数が切り倒されたと見える。広大な敷地に置かれた資材、建設用の重機、事務所か何からしいプレハブ――夜の闇の中、僅かな自然の光に照らされたそこは、とても寂しげな印象を受ける。
「隆さん、祠があったって言うのは、ここじゃないですか?」
周囲の《氣》を感じ取りつつ、またあることに気付いたがそれは口にせずに、龍麻は隆に問う。
「あ、ああ。この辺りだ。奴らは……俺たちが大切にしてきたものを、土足で踏みにじりやがったんだっ」
何故龍麻にそれが分かったのか不思議そうだったが、隆は悔しそうに答え、拳を自分の手に叩きつけた。
「だから、俺は天狗様の名を借りて、村のみんなや山の自然を護る。天狗様も、きっと力を貸してくれるはずだ」
「なるほどな。天狗も一人じゃ辛いかもしれねぇが、六人くらいになりゃ、何とかなるかもしれねぇな。確かに、このままじゃこの山の自然はめちゃくちゃだ」
そんなことを言ったのは京一だった。醍醐もそれに続く。
「この有様を見てはな……まあ、所詮はその場しのぎかもしれんが、しばらくの間、完全に工事を中断させる事くらいならできるかもしれんな……」
「な〜るほどねっ! えへへっ、ボク達も山を護る天狗サマか。それも悪くないよね、ひーちゃん」
「……いいわけないじゃないか」
小蒔も乗る気になったのか、龍麻に同意を求めてくる。だが、龍麻の口から出たのは否定の一言だった。
「この件に、僕達は介入しちゃいけない。それに隆さん達も、これ以上は妨害をしない方がいい」
「お、おいおいひーちゃん。ここまで来ておいてそりゃねぇぜ」
「そうだよ。例え何の解決にならなかったとしても、放ってはおけないよ!」
「あのね……解決にならないどころか、不利になるんだって分かって言ってる?」
京一と小蒔は、龍麻の言葉が意外だったのか食い付いてくる。龍麻は軽く息をつくと
「心情的には僕だって同じだよ。でもね、僕達がやろうとしている事は犯罪以外の何ものでもないんだ」
犯罪、という単語に、京一達も息を呑むのが分かった。それを確認して、龍麻は隆を見る。
「工事関係者を襲った時点で暴行罪。怪我させたら傷害罪。工事の機械を壊すのは器物損壊。これ、どのくらいの罪になると思います? 罰金で済めばいいですけど、懲役の判決を受けたらどうするんですか? それに、反対運動をしている人達にとっても大きなイメージダウンでしょう。あなただけがやったのだとしても、周囲はそう見ませんよ。青年団が、反対勢力が、とひとくくりにされても仕方がない」
さすがに自分のしてきた事の意味を、直接指摘されたことはないのか、隆は何も答える事ができずにいる。京一達も、迂闊に動く事ができないと気付いたようだ。
龍麻は龍麻で、刑罰についてのいい加減な説明が効いたことにほっとする。先の事例がどのような法に触れるのか、どのような処罰があるのかを実は知らなかったりするのだ。言ったもん勝ちである。
「なあ、ひーちゃん。そうは言っても仕方ねぇじゃねぇか。他にやりようもないんだぜ? それに、話を聞いてる限りじゃ、向こうだって嫌がらせとかしてるらしいじゃねぇか。こっちだってそのくらいやらなきゃよ。第一、バレなけりゃいいだろ?」
そんな事を言ったのは京一だった。まだ納得はできないのだろう。龍麻は京一の顔をじっ、と見て溜息をついた。
「ねぇ、京一。例えば京一が何かを作っているとするよね?」
「お? あ、ああ……」
「それが何者かに壊されて、しかも続いたらどうする?」
「決まってるじゃねぇか。犯人を見つけてぶちのめす」
「……それと同じ事を、開発会社の人間が考えないと思う? 向こうは天狗の存在なんて最初から信じてないだろうし」
「……網を張って待ち構えるかも知れない、ってコトかよ?」
「あのねぇ、僕達はもう網に掛かってるんだよ。まだ気付かないわけ?」
龍麻のその指摘に――京一と醍醐は慌てて周囲の気配を探る。
「二人とも、気を抜きすぎ」
確かにそこには人の気配があったのだ。しかも複数。ようやく現状に気付いた二人をよそに、龍麻は闇の向こうにある資材へと声を放つ。
「そういうわけなんで、出てきてもらえますか? そこにいる……九人」
「まったく、近頃のガキはタチが悪いな」
資材の陰からぞろぞろと姿を現す人影。そのほとんどがチンピラ、ごろつきと大差ないが、先頭にいる頬に傷のある男はスーツを着こなしている。スーツの胸には小さなバッヂ。
(やっぱりヤクザ絡みか……)
まっとうな会社が住民に対して嫌がらせをするはずがない。これは予想していたことだったので、龍麻は別に驚かなかった。問題は、この連中がどれだけ好戦的かということだが。
「まさか気付かれるとは思わなかったがな」
スーツの男が龍麻を見た。
「このままお前らがコトをおっぱじめるまで黙って見てるつもりだったが……」
「生憎と、証拠を撮られたら最後だからね。あなた方と同レベルになる必要もないだろうし」
「んだとぉ、このガキ!」
龍麻の言葉を聞き咎め、チンピラの一人が凄む。だがそれをスーツの男が制した。
「わ、若頭……?」
「とりあえずガキの出る幕じゃねぇ――さっさと帰れ」
若頭と呼ばれた男は、龍麻達を見てそう言い放つ。その視線は、並の者ならそれだけで身動きできなくなるであろう鋭さを持っていた。場慣れした龍麻達はともかく、隆と朋子の二人は身を竦ませている。
「ここにレジャー施設が建てば、村も潤う、町も発展する……何を邪魔する必要がある?」
「繁盛すれば、ね。でも、失われた自然はそう簡単に戻らない。開発するだけしておいて、何にもなりませんでした、じゃ話にならない。何より、発展すればいいってもんじゃない。だから、反対する者も出てくる。そうでしょう?」
「それはお前が気にする事じゃねぇだろう? よそ者には関係ない話だ。いずれにせよ、お前らにできることは何もない。これで最後だ、さっさと帰れ」
「うっ……うるせえっ!」
やや裏返った声で、隆が叫んだ。大人しく帰ろうと皆に言おうとした龍麻だったが、その機会を失ってしまう。
「これ以上……これ以上この山を汚されてたまるかっ! 俺たちは、この山と一緒に生きてきたんだ!」
「うるせえんだよ、このガキ!」
「兄貴が見逃してやるって言ってんのがわかんねえのかっ」
若頭は比較的穏便に収めようとしてくれたようだったが、手下達が騒ぎ始める。こうなっては収拾がつきそうにない。いや、収めるだけの人望はあるのだろうが、その気はないようだった。
「どうやら、そっちの数人は口じゃ納得できないようだな」
葉巻に火を点け、煙を吐いて若頭。その視線の先には京一と醍醐、隆がいる。
「いいぜ、相手になってやる。そのかわり、腕の一本や二本は覚悟しておくんだな」
そして龍麻に向き直る。「さあ、どう出る?」とその目が語っていた。京一達はやる気のようだが、龍麻にはその気はない。何より「この場所」に長居をしたくなかった。京一達を何とか止めようと――
「……!」
「こうなったらやるしかねぇぜ、ひーちゃん……って、どうしたんだ?」
木刀――刀はさすがに旅行には持って来なかった――を抜き、京一がヤクザ達に向き直る。龍麻に声をかけるが返事はなかった。ただ、龍麻はヤクザには意識を向けず、何やら周囲を探っている。
「最悪だ……」
「た、龍麻くん……これは一体……?」
葵の方も気付いたのか、自分の身体を抱えるようにして辺りを見回す。事情を飲み込めないのは京一達。そして、ヤクザ達。
「若頭さん……今すぐに、ここから逃げてください……」
警告して龍麻は腰の後ろに手を回した。が、そこには何もない。普段(戦闘を予想している時)なら、そこには手甲が提げてあった。だが、使っていた鷲ノ巣甲は既に壊れているし、予備の手甲も準備していなかった。
「京一、雄矢! 分かる!?」
「あ、ああ……何となく、だけどよ」
「何かが……近付いてくるのか?」
ようやく異常を察知した京一と醍醐も、注意をヤクザから周囲に向ける。小蒔も龍麻達の様子から察したのだろう、葵の側に寄って警戒を始めた。
今、龍麻達が感じているのは、気配だ。旧校舎の魔物の類とは違う大きな《氣》が、この場所に近付きつつある。どの方向から来るのか、いつもの龍麻達なら分かりそうなものだが、今更ながらにこの山、引いてはこの場所に満ちていた《氣》が邪魔をして、正確な位置が掴めずにいる。
「おい、ガキ共。一体何の話だ?」
まさに一戦が始まろうかという時に、自分達には目もくれず騒ぎ始める龍麻達を見て、若頭が声を上げた。だが、それに構わず龍麻は空を見上げる。特に根拠があったわけでもなかったが確かに「それ」は視線の先にあった。
空に瞬く星、所々に薄く伸びる雲。その中で一際輝く月。直に半月になろうかというそれの中にある不自然な黒点が、次第に大きくなっていく。そして、それは明らかにこちらへと近付いていた。
「上だっ!」
龍麻の声に反応し、京一と醍醐が空を見上げ――自分達のすぐ側に落下して来るであろうそれを認めてその場から跳び退く。
ザッ!
静か、と言うには程遠い音を立て、それは着地する。その姿を認めた者達は、ただただ呆然とすることしかできなかった。
服装は山伏のものと同じだ。手には錫杖。持ち物こそ違えど、先程天狗を騙った隆と大差ない。ただ、先程と決定的に違う点が二つある。
一つは背に生えた翼。そして、もう一つはその顔だ。赤顔に長鼻ではなく、鴉の頭に酷似している。
「ねえ、ひーちゃん。あれ、何?」
「天狗……鴉天狗ってやつかな」
背後から小声で訊いてくる小蒔に答える龍麻。
「で、でも……今度は誰が化けてるの?」
疑問を小蒔は隆達に投げかけた。だが、二人は首を振るばかりだ。
「天狗様の名前を使ってたのは俺だけだ……他の連中のはずはない……」
(そりゃあ、そうだよ。本物だもの)
《氣》を解放していないとは言え、かなりの《力》を感じることができる。それに、龍麻の見る限り、目の前のそれは間違いなく人間ではない。天狗かどうかは別としてもだ。
「……どうも乱れがあると思えば、こういう事か……」
やや低めの声が、目の前の異形から発せられた。その視線は整地された現場と、周辺に積まれた資材に向けられている。
「なんだ、テメェは!?」
「ヘンな格好しやがって、テメェもこのガキ共の仲間か!?」
突然の乱入者に、ヤクザ達がその矛先を変えた。だが、当の天狗は歯牙にも掛けずに懐から羽団扇を取り出し、掲げる。
その姿が揺らぎ、次の瞬間には陽炎のように蒼い光がその身体から放たれ始めた。意識せずとも、普通の人間にも視認できる程の、強大な陽の《氣》が。
「な、なんだよ。このシャレにならねぇ《氣》は……五人衆並じゃねぇか……」
顔を引きつらせて京一が独り言ちるのが聞こえた。かつて相対した鬼達――鬼道五人衆に匹敵、もしくはそれ以上の《力》を感じることができる。
状況を理解している者、理解していない者、それぞれが見守る中、掲げられた羽団扇が振り下ろされた。
ゴウッ!
荒れ狂う暴風が、鴉天狗の先――重機や資材を襲う。かなりの重量があるはずのそれらは、あっけなく風に舞い、敷地の隅に吹き飛ばされ、瓦礫の山と化した。目の前で起こった事実に、ヤクザ達は声も出ない。中にはその場にへたり込んでいる者すらいた。一番肝が据わっているはずの若頭でさえ、手にしていた葉巻を取り落とし、呆然としている。
「……貴様らに尋ねる事がある。答えよ」
羽団扇をしまい、鴉天狗はここで初めてヤクザ達の方を向いた。
「ここに在りし祠を破壊したのは貴様らか?」
「「「「「「「「「「「……」」」」」」」」」」」
答える事のできる者はいない。初めて見た《力》に完全に気圧されていた。普通の人間の反応としては当然と言える。
「無言は肯定と受け取る……」
再び天狗は《氣》を放った。手にした錫杖が涼やかな音を立てる。同時にその背後に浮き上がる石。小さなものはせいぜい五百円玉程度のものだが、大きなものになると一抱えはある。それはぴたりと空中で止まり――数秒の間を置いてヤクザ達に降り注ぐ。
しかしそれが誰かを傷つける事はなかった。
「「円空破っ!」」
「剣掌・旋っ!」
ヤクザ達と天狗の間に割って入った龍麻、醍醐、京一が、各々の技で迎撃したのだ。円空破によって大きめの岩が粉砕され、剣掌・旋が他の小石と共にそれらを吹き飛ばす。
「邪魔をするか、《力》ある人間よ」
「……こうなったら、そうするしかないでしょう」
鴉天狗にそう答え、龍麻はゆっくりと自分の《氣》を解放する。等々力での決戦以来、《力》は一度も使っていない。港区の件と同じようになるのは避けたかった。
「人にあらざる者達の領域を侵したのはこちらです。あなた方の怒りも分かります。ですが……《力》ない者が、《力》によって傷つけられるのを、黙っている事はできません。例え……非があるのが人間でも」
「確かに、悪いのはこっちだけどよ……」
「関わった以上、性分なんでな」
互いに《氣》を高めつつ、対峙する龍麻達三人と鴉天狗。既に双方ともかなりの《氣》を解放していた。特に龍麻の《氣》は凄まじく、九角と一騎打ちした時以上の《氣》が放たれている。
数分も経過しただろうか。先に《氣》を収めたのは鴉天狗の方だった。
「……」
「……何か?」
天狗の視線が自分に向いている事に気付き、訊ねる龍麻。それには答えず、天狗は背を向けて、敷地のある場所で足を止める。
「あそこは……祠があった場所だ」
隆の声が背後から聞こえた。天狗は錫杖を地面に突き立てる。と同時に地面から円盤状の何かが飛び出してきた。それを手に取り、懐にしまうと、天狗は再びこちらを向く。
「……貴様の名と、流れているであろう血に免じて、此度は退こう」
しゃんっ、と錫杖を鳴らして、鴉天狗はそれを龍麻に向けた。一方、訳が分からないのは龍麻だ。この場で名乗った覚えはない。なのに、何故自分の名を知っているのか?
「……僕の名前と……血? ち、ちょっと待っ――」
「だが、次はない」
それ以上は取り合わず、鴉天狗は大きく跳躍する。一度中空で翼を羽ばたかせると、そのまま何処へともなく飛んで行った。
「なあ、ひーちゃん……あの天狗、知り合いか?」
「まさか。人外の知り合いは二人しかいないし……」
舞い落ちてくる数枚の羽根を見ながら、京一が訊ねてくる。その羽根を掴み取って、龍麻。さり気なく問題発言をしているが、誰も気付かないようだ。
「何で僕を知ってたんだろうね?」
「俺達が知るかよ……」
「しかし龍麻。これから、どうするつもりだ?」
醍醐がヤクザ達の方を見ながら問う。
人外の出現、破壊された工事現場。更に奇妙な蒼い光を放つ高校生。彼らの認識の範疇を超えた出来事が一度に起こったのだ。未だに「向こう側」に行ったままのようだ。
いずれにせよ、工事が再開されれば、あれはまたやって来るだろう。その時に龍麻達はいない。となると、確実に工事を止めさせなければならない。
「そうだね……この惨状を見ても、天狗の話は他の人達には信じてもらえそうにないし……」
そこまで言って、龍麻の脳裏にある案が浮かんだ。現状でできるのはこれぐらいだ。
「若頭さん。ちょっと、相談があるんですけど」
とりあえず、龍麻は代表者と話をつける事にした。
再び宿。ロビー。
一応の片を付け、迫る消灯時間を気にしつつ全力で宿へ戻って来た龍麻達を待っていたのは――
「――まったく! こんな時間まで、一体、どこへ行っていたの!?」
金色の髪を持つ鬼女だった……。結局間に合わなかったのだ。
「い、いや、だからセンセー……醍醐の奴が生徒手帳落としたって言うから、探しに――」
「ウソおっしゃい!」
京一の苦しい言い訳を、マリアは一言で斬り捨てる。ここまで怒っているマリアというのも珍しい。
「ともかく、三人とも、朝までここで正座ですっ!」
「あっ、朝までですか……?」
これまた珍しく、醍醐がマリアの言葉に退いている。ちなみに、三人というのは龍麻達男性陣のことで、葵と小蒔は除外されている。
「ホントに朝までかどうかは、あなたたちの態度にもよります。とにかく、言い訳しても駄目ですっ。じっくり、反省してもらいますからね!」
がっくりと肩を落とす京一、醍醐。まあ、仕方ないか、と龍麻は葵達を見る。当の二人はごめんなさいとばかりに、こちらに手を合わせていた。
「あらあら、三人とも、どうしたのぉ? 正座なんかさせられて……」
そこへカメラを持ったアン子がやって来た。龍麻達を見つけるや、シャッターを押す。
「てめぇ、アン子! 何で、小蒔と美里が無罪放免で、俺達だけ正座なんだよっ!?」
「あらぁ? そんなコト言うわけ?」
ニヤリ、と意地悪くアン子が笑う。その表情に、ある事を思い出し、京一の顔が引きつった。切り札は向こうにあるのだ。今逆らうのは得策ではない。
黙ってしまった京一に、勝ち誇った笑みを浮かべるアン子。
「だってねぇ、美里ちゃんと桜井ちゃんが、落とした財布を探しに行ったのは知ってるけど、あんた達のことまではねぇ」
「遠野サンも、早くお部屋に戻りなさい。それに美里サンと桜井サンもです」
「は〜いっ……じゃあね」
「そ、それじゃあ私達も……」
「部屋に戻るね……あ、あはは……」
アン子は悪びれもせず、葵と小蒔は一瞬躊躇ったようだったが、それでも部屋へと戻って行った。
「ちくしょーっ! こんなんアリかよぉ〜っ! こっそり抜け出して――京都のオネーチャン達を――ナンパしまくる俺の大計画がぁ――っ! 半年も前から計画してたのにぃ〜っ!」
なおも騒ぎ立てる京一を無視し、龍麻と醍醐は正座したままで目を閉じる。
「クソ――っ、誰か俺と代わってくれ――っ! 天狗様ぁ――っ!」
「蓬・莱・寺クンっ!」
人気のなくなったロビーに、京一の遠吠えと、マリアの怒声が響き渡った。