「やれやれ……やっと解放されたか」
自分達へ割り当てられた部屋へ戻る途中で、醍醐が溜息を漏らす。
消灯時間への遅刻という罪を犯した龍麻達は、ロビーで正座をさせられたのだ。先程、ようやく許しが出て戻る事を許された。
ちなみに、京一だけは反省の色が薄いということで未だに正座をさせられている。
「何だか、一気に疲れが押し寄せてきたな。早々に寝て――」
「雄矢、ちょっと頼みがあるんだけどいいかな?」
欠伸をしながら大きく伸びをする醍醐に龍麻が声をかけた。
「ん? どうした、何かあるのか?」
「うん。これから外に出る」
「外へ? おいおい……」
先程、正座をさせられた理由を忘れてしまったかのような物言いに、醍醐は呆れる。
「まさか、さっきまでの苦痛を忘れたわけじゃないだろうな?」
「忘れてはないけど。ただ、どうしても今の内に確かめておきたいことがあるんだ。頼むよ」
その真剣な表情と声に、醍醐は断る事はできなかった。
宿の外――竹林。
新宿の龍山邸ほどではないが、そこそこ立派な竹林があったので、龍麻と醍醐はそこまでやって来た。
冷たい風が竹を揺らし、ざわめく。もちろん周囲に人気はない。
「で、何をするつもりなんだ?」
「簡単な手合わせ」
体をほぐしながら問う醍醐に、学生服を脱ぎながら龍麻が答える。
「《氣》は、身体能力強化限定で。発剄なんかはなし。打撃に込めるのも同じく」
「それは構わないが。いい加減、その意図を話してくれてもいいんじゃないか?」
「さっき、鴉天狗と対峙した時の事、覚えてる?」
「ああ」
突然出現した鴉天狗が放った飛礫を、龍麻達が迎撃した時の事だろう。あの時、龍麻達三人は意図的に《氣》を解放し、天狗に向けた。特に龍麻の《氣》は――
(……? 龍麻の《氣》は、あそこまで強大だったか?)
今になって、ようやく醍醐はあの時の龍麻の《氣》が「異常」だったのだと気付いた。
九角と対峙した時の龍麻の《氣》と、今日の龍麻の《氣》――闘いに一区切り着いたと言うのに何故龍麻の《力》が上がっているのか。
「龍麻、一つ尋ねるが……お前、九角との闘いが終わった後で、旧校舎に入ったか?」
「いや。最後の闘いの後遺症なのか、《氣》を練ると身体に激痛が走ったから。あれ以来《氣》を一度も練ってない」
「お前……それじゃ港区の時と――」
「うん。多分、同じような状況なんだと思う」
《暴走》の影響からか、龍麻の《力》が跳ね上がった事がある。それを知らなかった龍麻は自分の《力》を持て余し、《氣》もろくに練ることができなかった。今が、その時と同じだというのだ。
「しかし、円空破は普通通りに使えていただろう?」
「あれは、ね。でも《氣》を解放した時は、過剰放出気味だった。というか、あの状態から制御が利かなくなってたんだ。鴉天狗が退いてくれたおかげで助かったけど」
「……分かった。まあ、お前と直接手合わせする機会もあれ以来無かったしな。受けてたとう」
「ありがとう」
礼を言うと龍麻は何やら呟き始める。その手が虚空に文字のようなものを描くと、何もないはずのそこが、水面の波紋のように歪んだ。そこに手を差し入れ、引き出した時には四方手裏剣が握られている。
炎《氣》を纏わせてそれを投擲すると手裏剣は周囲の竹に突き立ち、簡単な照明の役割を果たすことになった。
「今の手裏剣どこから出した?」
「んー。言うなれば四次元ポケット? 別空間内に収納スペースを作って、そこに物をしまっておくんだ。詳しい事はミサちゃんに聞いて」
裏密の名前と、四次元ポケット云々の言葉で、新幹線のホームでの会話を思い出す醍醐。
「先程の痺れ薬といい、手裏剣術といい……お前、最近芸が増えたな」
「芸は身を助けるってね」
醍醐から距離をとり、龍麻は向き直る。
「さて、それじゃそろそろ」
「ああ。いつでも来い」
「白虎変、必要だと思えば使ってくれていいよ。……どこまでのものになるか、見当がつかないから」
言うと同時に、龍麻は間合いを詰めた。
先制の掌打を、醍醐も同じく掌打で迎え撃つ。手と手がぶつかり合い、乾いた音を立てた。
手を合わせたまま、互いに力を込めて相手を押し戻そうとする。
(まだ、増幅はしていないようだな)
通常の力比べなら、明らかに醍醐の方が有利だ。醍醐の方もまだ《力》抜きの状態――龍麻の変化を確かめるのが目的なのだから、とりあえずは様子見である。
「どうした龍麻。まだ始めないのか?」
「いや。ぼちぼち行くよ」
一瞬、醍醐の腕が押し戻される。拮抗するように醍醐は力を入れた。龍麻を視ると、淡い蒼の膜が身体を覆い始めている。そろそろ本気で来るようだ。
同じく醍醐も《氣》を身体に巡らせた。増幅された筋力が、龍麻を圧倒し始める。
不意に均衡が崩れた。押し合っていた手を、龍麻が引いたのだ。バランスを崩した醍醐の顎めがけて蹴りを放つ。
「ふっ!」
上体を捻り、かろうじてそれを躱すと、崩れる体勢そのままに足払いを掛ける醍醐。軽く後方に跳んでそれを避け、間合いを取る龍麻。
(まだ、いける……)
今程度の身体機能増幅ならば、以前もできた。ならば次は――
「雄矢、対九角戦の時くらいに上げるからね」
「ああ」
「行くよっ!」
再び龍麻の方から攻撃を仕掛ける。先程との違いは、その速度が跳ね上がっていることだ。同じように掌打を繰り出してくるが、今度は同じ技で迎撃する余裕はなかった。腕を盾替わりにして醍醐はそれを受け止める。
ゴッ!
比べものにならない衝撃が醍醐を襲った。
「ぐうっ!」
二撃目の掌打は何とか受け流し、醍醐は間合いを取ろうとする。させじと龍麻は醍醐に迫った。
(こ、これが九角と互角に戦った龍麻の実力か……っ!)
龍麻と九角の戦闘を直接見たのは、等々力不動本堂前でのほんの僅かな時間だ。それだけでも二人の実力が並外れていたのが分かった。それを醍醐は、今、身をもって実感している。
(《氣》を込めていなくても、この筋力なら並の人間の骨は保たんだろうな。これに《氣》を込めたら、どれ程の威力になるんだ?)
見てみたい気はするが、受けてみたいなどと無謀なことを考える余裕はない。
「うるああっ!」
龍麻が掌打を放った瞬間、醍醐もまた蹴りを放った。リーチは醍醐に分がある。掌打が届く前に蹴りが龍麻を捉えた。派手に吹き飛ぶ龍麻だが、防御は間に合ったのか途中で体勢を立て直し、危なげなく着地する。
「今のは効いたな……」
左腕を押さえて、龍麻が苦笑した。相手が醍醐ともなると、少し前ならともかく、一方的に攻め立てることなどできはしない。有利なことに変わりはないが、圧倒するのは無理だ。
「そう簡単にいくと思うなよ。俺だって以前の俺じゃない。それに、今ではこれにも慣れたしな」
竹林がざわめいた。醍醐の《氣》が膨れ上がっていく。
「さて、と……どこまでやれるかな」
姿を変えていく醍醐。それを見ながら龍麻は自分に問いかける。今のままでも倒すだけなら何とかなるだろう。だが、今の目的は、龍麻の能力がどこまで上がるのかの確認だ。
(どのタイミングで増幅するか……いや、迷うことはないか)
醍醐の能力が上がったのだ。それならこちらもそれに合わせればいい。不安はあるが、迷っていても仕方ない。
「今度はこちらから行くぞっ!」
醍醐が跳んだ。鋭い爪が龍麻めがけて振り下ろされる。その場を退いて避けようとした龍麻だったが、思い直してそれに正面から対峙した。
醍醐の爪――正確にはその手首辺りを、両腕を交差させて受け止める。体重を乗せたその一撃に、龍麻の身体が沈んだ。それでも潰されることなく、龍麻は醍醐の一撃を受けきった。
「まだだっ!」
以前のような大振りな攻撃ではない。醍醐の連続攻撃をかろうじて龍麻は躱す。
「どうした龍麻! 防戦一方じゃ意味がな――!」
醍醐がそう言った時だった。
ザッ!
龍麻の姿が目前から消えた。いつの間にやら自分の前方――五メートル程離れた場所に立っている。驚愕の表情を浮かべて。
(今、龍麻は何をしたんだ?)
気が付くと間合いの外に逃れていたのだ。
「……行くよ」
そして、瞬きした一瞬の間に、再び龍麻が自分の間合いに――否、自分が龍麻の間合いに捉えられていた。
「ぐおっ!?」
技と呼べるものではない。ただのショルダータックルだった。それでもその強烈な一撃が、まともに醍醐の腹にヒットした。転倒こそしなかったものの身を屈め、苦痛をこらえる醍醐に、龍麻は追撃をせずに再び間合いをとる。
「な、何だ、今のは……?」
「……こ、これは、かなり厳しいね……」
顔を上げた醍醐の視界に、苦笑いを浮かべる龍麻の姿がある。
「雄矢。今ね、僕は近接した後に肘打ちを入れようとしたんだ……でも実際はどう? 攻撃が間に合わずに、ただの体当たりになっちゃった」
「ね、狙って体当たりしたんじゃないのか?」
「違う……次、行くよ」
龍麻の立っていた場所に散っていた枯れ葉が舞い上がる。再び龍麻の身体が消えた。いや、消えてはいない。その影を追うことはかろうじて可能だった。影が走る軌道上で、地を蹴るたびに落ち葉が舞う。龍麻の居場所を教えてくれるようにも思えるが、それに気付いた時には龍麻はそこにいないのだ。
「く……うおおぉっ!」
姿が見えたわけではないが、背筋に冷たいものを感じて醍醐は腕を横に薙ぐ。その腕の間合いから数十センチ離れた地面が弾けた。寸前で回避されたものの、当てずっぽうで放った攻撃は、しっかりと牽制の役割を果たしたようだ。
「うわっ!?」
龍麻の慌てた声が聞こえる。そちらを向くと、龍麻が地面を滑っていくのが見えた。倒れたまま、起き上がろうとしない。
「何をやっている?」
「……今の攻撃を避けようとして跳んだのはいいけど、体勢を立て直すのが間に合わずにスライディング……」
ふう、と大きく溜息をつくのが聞こえた。自分の身体が思い通りに動かないのがどうにも歯痒いようだ。
「増幅した身体能力に付いていけてない。微妙な力加減ができない。これは、前よりも大変そうだよ」
「俺が白虎になった時でも、そこまでではなかったぞ?」
「だよね……」
「どうする? まだやるか?」
「うん。とりあえず、できることはできるうちにやっとこう」
そう言って龍麻は跳び起きると、再び白虎と化した醍醐と対峙するのだった。
「さて、これで大体は把握できたか?」
「多分……」
白虎変を解いた醍醐が龍麻を見下ろす。龍麻の方はその場にしゃがみ込んで肩で息をしていた。消耗の度合いは龍麻の方が大きい。
「身体能力の爆発的な上昇。雄矢クラスの使い手でも、目で追うのがやっとな敏捷力。白虎変をした雄矢と一時的に張り合える腕力……この分だと、雄矢みたいに《氣》の防護だけで刃を弾くこともできるかもね……試したいとは思わないけど」
「元々、仲間内で最強だったが、ますます強くなったな。目標が遠いと、追いつくのも一苦労だ」
やれやれとばかりに、醍醐は肩をすくめて見せる。龍麻の方は黙ったままだった。様子に気付き、訊ねようとする醍醐だったが、龍麻の方が先に口を開く。
「どうしてだと思う? 僕の《力》がここまで上がったのは……」
「どうした龍麻?」
「何で僕だけ、ここまで並外れた《力》があるんだろう?」
「……俺に言われてもな。何か、思い当たる節はあるのか?」
醍醐の問いに、少し考えてみる。等々力で変生した九角と戦った時、確かに自分は《力》を求めた。だが、それだけが理由なのだろうか?何故、自分だけ、段階的に《力》が上がっていくのだろう?
「等々力で、例の声をまた聞いたんだ。雄矢も、白虎に覚醒する時に聞いたって言ってたよね?」
「ああ。それ以来《力》が跳ね上がった。だが、お前は四神じゃないだろう?」
「うん。それはそうなんだけど。ただ、僕自身に何かあるんじゃないかと思って。皆と違う、異常なまでに強力なこの《力》……最終決戦時に《力》を求めたのは事実だし、そのお陰でみんな生き残れた。でも《力》が強くなる度に何かが起こるような、そんな気がするんだ」
「おいおい。それは考えすぎだろう?」
と醍醐は笑ったが、それもすぐに止まった。龍麻の顔は真剣そのものだ。笑ってうやむやにできる雰囲気ではない。
「九角を斃した今になっても不安は消えない。だから、僕はまだ警戒を解いていない。翡翠にも色々と協力してもらってる。きっとまた、何かが起こる。そんな気がするんだ」
「お前の考えを他に知っているのは?」
「翡翠と、今聞いた雄矢の二人だけ」
「他の連中には話さないのか? その……美里とか」
龍麻の周囲にいるのは真神組の面々で、その中でも一番龍麻に近いのは葵だと醍醐は認識していた。だからこそ、そう問うたのだが、龍麻は首を横に振る。
「今はまだいい。せっかく手に入れた一時の休息だし。それに、京一はともかく、葵さんにこんな話をしたら、また色々と考え込みそうだし」
「ほう。やはり美里には余計な心配をかけたくないか?」
「……そりゃあね。悩むのは指揮官の仕事、そういうこと」
もっともらしいことを言ってはいるが、顔を赤らめていては説得力に欠ける。まさか龍麻も、醍醐にそのようなことを言われるなどと考えはしなかっただろう。
「まあ、雄矢には今日つきあってもらったし。こうなったら知っててもらおうかな、と。余計な苦労をかけるかも知れないけど、勘弁してよ」
「いや……俺は別に構わん。お前の力になれるのなら、どうってことないさ」
「ありがとう。まあ、とりあえずは今まで通りでいいから」
「それが一番難しいんだぞ? ボロを出しても文句を言うなよ」
醍醐は嘘や隠し事が下手だ。京一や小蒔に問い詰められたら口を割ってしまうだろう。まあ、それらしい事件が起きない限り、その心配も無用ではあるのだが。
「いずれにせよ、話さなくてはいけないだろうな」
「その時が来たら、僕が話すよ。さて、と。そろそろ戻ろ――痛たた……!」
立ち上がって大きく伸びをする龍麻だったがその途端に悲鳴を上げる。
「どうした?」
「あ、足とか腕とかが筋肉痛みたいに痛い……」
「……まあ、いきなりあんなに酷使したんだ。《氣》で防護するにも限度はあるさ」
「とりあえず、戻ったら温泉にでも入ろう。汗もかいたし」
「そうだな。そうするか」
「筋肉痛に効くかな?」
「さあな。効能までは見てない」
他愛ない話をしながら、龍麻と醍醐は竹林を後にする。
修学旅行一日目も終わろうとしていた。旅行はまだ続く。
だが、旅行が終わって一週間も経たない内に、再び平穏が破られることを、この時の二人はまだ知らない。