仁和寺の後も数カ所を予定通り見て回り、宿へ向かおうということになる。途中、茶屋で休憩をして、再び龍麻達は歩き始めた。
「あ〜あ、おいしかったね。ちょっと、お腹いっぱい……かも」
 お腹を押さえながら小蒔。先程の茶屋で抹茶と団子を注文したのだが、龍麻と京一の団子もその胃に収めていたりする。京一の分に関しては強奪に近かったが。
「そりゃー、あれだけ食えば……な。そんなんで、宿の夕食、食えんのかよ?」
 と、先程の恨みを忘れていないのか、嫌みったらしく言う京一。
「あら、心配しなくても大丈夫よ。ここから、山の中腹の宿まで、歩いて行くんだもの」
「ええ〜っ!? 山登り……」
「おいおい、まだ歩くのかよ〜。ロープウェイとか登山バスとか……文明の利器はねぇのかよっ」
 葵の言葉に、案の定小蒔と京一が悲鳴に近い声を上げた。
「うふふ。そんなもの、ない方がいいわ」
 笑いながら、葵は続ける。
「私達の泊まる宿も、村の方が経営する小さなホテルだし、この辺りは全然開発されていない、豊富な自然が残っている場所よ」
「なるほど、それは歩くしかなさそうだな。夕飯前の腹ごなしにはちょうどいいだろう」
「そうそう。便利なものに頼ってばかりいると、身体がなまるよ」
 醍醐、龍麻の二人は、別段気にしていないようだ。実際、バスも通っていないし、宿まで行こうと思ったら、歩くしかない。後は通りすがりの車にでも乗せてもらうかだが、そこまでする者もいないだろう。
 京一と小蒔が顔を見合わせ、溜息をついた。旧校舎での戦闘に比べたら、山登りくらい楽なものだろうに、と龍麻は思う。何より、危険がないのだから。
 一行は山道を行く。


「やれやれ、結構登ったな」
 この時期のこの時間。いくら気温が下がってきたとは言え、結構な運動量だ。それに加えて冬服である事も原因なのだろう、京一が額の汗を拭った。
 衣替えはまだ数日先だが、修学旅行の際の服装は冬服で、という指示が出ている。盆地特有の、夏は暑く冬は寒いという気候を考慮したのだろう。事実、こちらの方が東京よりも気温は低い。
「お――見ろよ、ひーちゃん」
 京一の声に龍麻が、葵達がそちらを向く。
「わああ……キレイ……」
 小蒔が感嘆の声を漏らした。
 鮮やか、とまではいかないが色合いを変え始めた山々。新旧の建造物が混じり合った町並み。空に浮かぶ薄い雲。それらが夕日に照らされ、赤く染め上げられている。美しく、幻想的な光景が眼下に広がっていた。どこかの寺だろう、鐘の音が聞こえてくる。
「ああ……最高の景色だな……」
「いつまでも……このままであってほしいわね」
 しばしその景色に魅入られる龍麻達。カメラがないのが悔やまれる。
「さて、いいもの見て、心も和んだコトだし」
 と、小蒔が皆に向き直る。
「もう少し頑張って山登り、だねっ!」
「ああ、もうそろそろ宿も見えてくる頃だろうし、また歩くか――」
 醍醐が道の先へ視線を移した時だった。
「誰か倒れてるぞっ!」
 和服姿の老女が道端に倒れているのが見える。醍醐の声に反応し、龍麻達は老女に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
 老女を抱き起こし、声をかける龍麻。老女の顔色は悪く、呼吸するだけでも苦しそうだ。こういう時に高見沢がいれば助かるのだが、いないものは仕方がない。
「葵さん、頼むよ」
「ええ」
 葵が老女の背後へ回って《氣》を解放する。いつもの治癒の要領だ。怪我を治すわけではないが、ある程度の病気なら、一時的に落ち着かせる事も可能だと、以前岩山から聞いた事があったのを思い出したのである。
 効果があったのか、老女の顔色が良くなっていく。呼吸も落ち着いてきた。
「起きられますか?」
「おおきに」
 龍麻の手を借り、老女が立ち上がる。どうにか歩けるくらいには回復したようだ。
「ばあさん、平気か? 痛いとことかねぇのかよ」
「ええ、おかげさんで……いつもの発作が起こっただけどす。それより、何とお礼を言うたらええやら……」
 京一に答えて、老女は龍麻達に頭を下げる。
「お礼には及びませんよ。それより、お婆さんが無事で何よりです」
「あの、お住まいはこの近くなんですか?」
「へえ、この山ん中の村どす」
 自分達が向かう宿のある村のようだ。
「それじゃあ、僕達がお宅までお送りします。僕達も、村の宿まで行く途中なんです。遠慮なさらず、どうぞ」
「ほなら、よろしゅう頼んます」
「ええ。京一、お婆さんの荷物を頼むよ」
「おう」
 龍麻が老女の手を引き、京一が代わりに荷物を持つ。
「あんた方は、東京の学生さんどすか?」
「はい。京都へは修学旅行で来ているんです。あの、京都って、意外と自然がいっぱいなんですね」
 老女の歩く速さに合わせ、ゆっくりと山登りを再開する一行。老女の問いに答え、小蒔が周囲に視線を巡らせる。
「へえ、山に囲まれた盆地ですから……狸もぎょうさんおりますえ。けんど――」
 老女の表情が曇った。
「村の地主はんが、山の半分を売ってしもうて、何や、レジャー施設やらが建つそうですさかい」
 つまり、この豊かな自然が失われてしまう、ということだ。
「うちの孫娘や、青年団の若いもんが、反対運動や言うて頑張っとりますけど、うちの家にも立ち退きの話がきてます。ご先祖様の家を壊すのは忍びないもんがありますえ」
「村の人を追い出して、レジャー施設だなんて……ひどい話だわ。こんなに美しい山なのに……」
「……便利な世の中になるのはいいけど、その一方で自然が失われていくのは悲しい事だよね」
 やや沈んだ声になる葵と龍麻に、老女は再度頭を下げた。その言葉だけでも嬉しかったのだろう。
「けんど、時代の流れには誰も逆らう事はできまへん。後は、山の天狗さんだけが頼りどす」
「天狗……ですか?」
 老女の言葉にある単語を聞き咎める醍醐。老女は頷くと説明を始めた。
「この辺りの山は昔から、天狗さんのもんですさかい。うちらは昔から、天狗さんに守られて……暮らしておりますのえ。その証拠に、建設会社のお人が山で襲われたり……工事の機械が壊れたり……みな、天狗さんのお怒りどす」
「そういうのがみんな、天狗の仕業ってことですか?」
「ええ、村のもんはみな、そう信じとります」
 詳しい状況を聞いていないので何とも言えないが、本物の天狗の仕業ということはまずあるまい。可能性があるならば、天狗を装った人間だろう。
(この山がいい《場》であることには違いないけど……まさか、本物がいるのかな)
 昔から、自然には神が宿ると言われていた。実在するかはともかくとして、様々な言い伝えのある場所が、霊的に良い場所であることは珍しくない。そのような場所だからこそ「何か」が集まるのか、「何か」がいるからそういった《場》になるのかは不明だが、全くの無関係ではない。
 龍麻がこの山に入って漠然と感じた心地よい《氣》も、何らかの存在があることの証ではないだろうか。
(そんな事を言ったところで、どうなるものでもないけど……)
 他人に話すような事でもないので、龍麻は黙っている事にした。



「それにしても、天狗ねぇ。どうも、引っ掛かるな……」
 老女を送り届け、龍麻達は宿へと向かう。胡散臭そうに京一が話題に挙げたのは、先程の天狗の件だ。
「でもさっ、その天狗が本物にしろ、偽者にしろ……この山を護ろうとしてることは確かなんじゃないかな。村を潰してレジャー施設なんて、天狗じゃなくても放っとけないよ」
「確かにな……だが、この山が書類上、個人の持ち物である以上、何に使おうと、最終的には持ち主の自由だ。それに、天狗の事は別としても、地元の環境問題に俺達よそ者が首を突っ込んでも仕方がない」
 小蒔の言いたい事も分かるが、醍醐の言う通りなのだ。あくまで地元の問題、自分達が関わりになる事ではない。
「まあ、そういうことだな――おっ、ようやく宿が見えてきたぜ。とりあえず、飯までは時間があるし、さっきのばあさんからもらった八つ橋でも食うか」
「食事の前に食べるのはちょっと。数日は保つんだから、また別の機会にしようよ」
 伸ばしてきた京一の手を叩いて、龍麻。助けてくれたお礼にと、先程の老女がジュースと八つ橋をくれたのだ。仁和寺で賽銭を奮発した甲斐があったな、とは京一の弁である。賽銭で五十円払ったのは龍麻だが、それの見返りがジュースと八つ橋。元は取れているのだが……御利益にしてはちと寂しい気がする龍麻だった。


 山奥の宿。
「はあ……ようやく落ち着いたなっ」
 部屋に戻るなり、京一がやれやれ、と伸びをする。立った今、風呂から戻って来たところだ。
 宿に着いてしばらくしてから食事となった。もう少し規模の大きなホテルならば全員が大広間に集まって食事、というのも可能なのだが、来る途中で葵が言った通り、それ程大きな施設ではない。各部屋で部屋の人員のみ、という寂しいものではあったが、出された料理はかなり良かった。ちなみに龍麻が給仕役をやらされていたりする。
 それに風呂の方も温泉ということで、好評だったようだ。ただ、本来は混浴だったらしいが、さすがにその通りというわけにはいかず、入る時間は指定されている。それ以外の時間は好きに入って構わないらしいが、男子はともかく、女子でそれを望むものもいないだろう。
「後は、消灯までの時間をどう有効に使うかだなっ」
「ああ、そうだな……これからどうする? ロビーの方でも行ってみるか? 土産物屋もあったぞ」
 大抵の宿には土産物屋がある。後は寂れたゲームセンター。ここもその例に漏れていない。
「でも、今から土産買ったら荷物になるよ、雄矢。大抵のものは、どこに行ってもあるし」
「それもそうか。地酒なんかもあったが……」
「よし、行こう」
 地酒という言葉に反応し、龍麻が立ち上がる。醍醐がこけた。
「龍麻……いくら何でも正直すぎるぞ」
「そう言わないでよ。岡山に送らなきゃいけないんだから」
 修学旅行に行く事は、実家の家族も知っている。前日に連絡もあった。「京都の地酒を適当に見繕って送ってね♪」とは、義母の真由華の言葉である。
「ふっふっふっ。何を言っているのかな、キミ達は。今こそ、この壮大な計画を実行に移す時――今、この時がっ、何の時間か分かってるのかね?」
「「……?」」
 不気味に笑う京一に、龍麻と醍醐は首を傾げるが、それに反応したのは同室の男子生徒達だった。
「ほ、蓬莱寺! まさかお前……!」
「やるのかっ!?」
「さすがだぜ、蓬莱寺。お前こそ真の勇者だっ!」
 京一の台詞が何を意味するものなのか察したようだ。龍麻達には未だに何の事やら分かっていない。
「龍麻……分かるか?」
「ちょっと待って」
 旅のしおりを手に取り、予定表に目を通す。今の時間は――
「……雄矢、これ」
「何だ?……!」
 龍麻の指先が、現在の状況をなぞった。そこにはこう記されていたのだ。「入浴――女子」と。
「京一! まさかお前……いや、お前らっ!」
「シッ! 声がでかいんだよっ」
 慌てた京一が口を塞ごうとするが、醍醐はその手をはね除ける。
「どこが壮大な計画なんだ。下品な野望だろっ!」
「ちぇっ、これだからカタブツはよぉ。いいぜ別に。お前なんか誘わねぇよっ。だからよぉ、ひーちゃん。俺らと、桃源郷を覗きに行こうぜぇ〜」
 醍醐から目を離し、京一は龍麻に話を振る。
「……何人で行くの?」
「龍麻っ!?」
 龍麻の言葉に、醍醐の眉が跳ね上がる。龍麻なら京一を止めるに違いない、そう思った矢先の発言。何だか裏切られた気分だ。
「緋勇も参加するのか。これならばっちりだな!」
「どうする、蓬莱寺。他の連中誘うのか?」
「いや、ここは少数精鋭で行こうぜ。時間も惜しいしな」
 あっと言う間に話が纏まってしまった。総勢五名が参加する事となる。
「よっしゃ、それじゃあ行くぜっ!」
「「「「おう!」」」」
 気合いを入れるスケベ集団(龍麻除く)に呆れ果て、醍醐はこめかみを押さえる。
「貴様ら……俺はどうなっても知らんからな」
「あ、雄矢。その前に入口を開けてくれる?」
 吐き捨てるように言った醍醐に龍麻が声をかける。自分で開けろ、と言おうとした醍醐だったが、龍麻の表情を見てその言葉を呑み込んだ。龍麻の表情、それはどこか疲れたような、呆れたようなもので、少なくともこれから覗きに行くのを楽しみにしているようには見えない。
 だから、醍醐はその言葉に従ってドアを開けた。と同時に冷たい空気が流れ込んでくる。廊下側から風が吹き込んできたのだ。
 それを見計らって、龍麻は入口に近付き、右腕を京一達に向けて一閃する。
 行動の意図が読めず、問い質そうとする京一だが、その前に、背後で何かが倒れる音がした。
「か、身体が……?」
「な、何が起きたんだ……?」
 同志達がその場に崩れ落ちている。喋る事はできるようだが体の自由が利かないらしい。
「な……一体、何をしたんだよ、ひーちゃ……!」
 叫ぼうとした京一も、身体の自由を失い、バランスを崩して倒れた。何が起こったのか理解できない醍醐を前に、龍麻はクスクスと笑う。
「風下に立ったがうぬらの不覚よ……就寝時間まで、そこで大人しくしていてもらおうかな……」
「龍麻。お前、何をしたんだ?」
「麻沸散を風に乗せて撒いた」
 腰のポーチから小さな紙包みを取り出し、答える龍麻。
 麻沸散――本来は麻酔薬として使われていたもので、相手を麻痺させるものである。旧校舎で入手可能だが、これは北区の骨董品店で入手した物だ。
「当分は身動き一つできないはずだよ。これで一安心、と」
「すまん、龍麻。どうやらお前を誤解していたようだ。てっきりお前も京一達と同じかと思ってしまった……」
「葵さん達が入浴を終えているならここまでせずに密告くらいで済ませるんだけど……微妙な時間帯だからね。さ、そんなことより、ロビーに行ってみようか」
「そうだな。まったく、どうしてあいつら……いや、京一はあんなに馬鹿なんだ。付き合ってられん」
 京一達をその場に捨て置き、部屋を出て行く龍麻と醍醐。
「こ、この裏切り者ーっ!」
 京一の遠吠えが部屋に響き渡った。


「あ〜、ひーちゃん。来てくれたのね〜」
 ロビーに出ると、裏密が待っていた。自由行動の前に約束していたのだが、ちょうどいい時間だったようだ。醍醐はトイレに行くと言ってその場にはいない。
「で、話ってのは?」
「実は〜、あたし〜の秘文字占いプレネスタインロットによると〜、この山にはアレがあるのよ〜。徐福が秦の始皇帝のために探し求めた、あの――不老不死の霊薬がね〜」
「霊薬? 徐福が不老不死の秘密を探してたってのは知ってるけど、何で京都に?」
「海中の神山でかの霊薬を手に入れた徐福は〜、始皇帝の時代が永劫に続くことを望みはしなかったの〜。そして始皇帝の目から逃れるために徐福は日本へと渡った〜」
「そういう話もあったね」
 徐福の話というのは意外と有名である。実際、徐福の墓と呼ばれるものが熊野の地に建てられていたりする。
「そして、その霊薬が愚かな人間の手に渡らぬよう〜、この辺りの山々の主であった魔王大僧正サナートクマラに託したって話よ〜。うふふ〜。これさえ手に入れば〜……」
「不老不死ね……興味ないなぁ」
 龍麻のその言葉に、裏密は首を傾げる。
「どうして〜?」
「だってさ。いつまでも死なないなんて、何だか時間に取り残されてるみたいでいい気分じゃないよ。他の知り合いが死んでも自分だけが生き残るなんて、恐いし寂しいじゃない?」
「それもそうね〜。でも〜、霊薬そのものには興味ない〜? 伝説とされてきた幻の一品よ〜?」
「それは……確かに」
 歴史、伝説、伝承。それらに含まれる真実。かつては神話や叙事詩の中のものでしかないとされていた伝説の街、トロイやミュケナイを発掘した考古学者シュリーマンの例もある。龍麻にとって、そのテの話であるならば、興味は尽きない。
「で、それを探しに行くの?」
「もちろんよ〜。見つかったら〜、ひーちゃんにも見せてあげるわ〜」
「でも、消灯時間までに帰ってこれる?」
「大丈夫〜。身代わりのゴーレムを〜、置いて行くから〜」
 楽しみにしててね〜、と裏密はそのまま外へと出て行く。
「大丈夫かな……」
 余程の事がない限り心配は要らないと分かっていても、何をしでかすのか分からないのが裏密だ。
「ま、いいか」
 とりあえず土産物を見てみようか、と店の方へ向かおうとした矢先――
「――アラ? 一人なんて、珍しいわね、龍麻クン」
 担任のマリアが声をかけてきた。こうして顔を合わせるのは随分と久し振りのような気がする。もちろん授業やHRでは会っているが、対個人で話すのはあの時以来だ。
「フフ。よかったら、座らない?」
「あ、はい」
 促され、龍麻は側にあったソファに腰掛ける。
「そう言えば、僕、マリア先生に謝らなきゃいけないことがあったんです」
 向かいに座ったマリアを見て、龍麻。マリアの方は、何の事を言っているのか一瞬分からなかったようだが
「ああ、この間の事ね」
「ええ、その件です。あの時は、すみませんでした」
 葵が九角の元へと走ったあの時、運悪くマリアに遭遇した龍麻達は、何の事情も説明せずに集団脱走そうたいしたのだ。後で冷静になって考えてみると、随分と失礼な応対だったと後悔したのであるが、今まで謝る機会がなかったのだ。
「もういいのよ。あなたは――あなた達は無事に帰ってきたのだし。ただ、少し残念ではあったけどね。教師として信用されてないのかしら、って」
 意地悪く笑うマリアに、龍麻は苦笑するしかない。
「ねぇ、龍麻クン。あなたは卒業したらどうするつもりなの?」
「卒業後、ですか? 大学に進学できてればいいんですけどね」
「進学希望だったわね、龍麻クンは。でも、進学、就職、それもいいけれど……もし良かったら、ワタシの故郷へ行ってみない?」
 唐突な物言いに、龍麻は首を傾げる。
「マリア先生の故郷、ですか?」
「ええ。ワタシはいずれ、帰ろうと思っているわ。もしよければ、あなたの卒業を待って、一緒に……どうかしら、龍麻クン?」
「……はい? いや、あの……でも……」
 マリアの言葉が理解できず、龍麻はただただ混乱するばかりだった。マリアが故郷に帰るというのは分かる。だが、何故そこに自分がいるのだろう? しかも自分の卒業後、ときた。順調にいけば、自分は大学に進学しているはずだし、つまり卒業旅行ということだろうか? しかし、どうもそういう意味合いではないような気がする。
「突然で、驚いたかしら?」
「そりゃあ、驚きますよ。いきなりあんな事言われれば」
「フフ。焦らなくてもいいのよ。ゆっくり考えてくれれば……」
「いや、考えるって言ってもですね……」
「すまん、龍麻。待たせた――マリア先生」
 そこへ醍醐が戻って来た。それを見計らったように、マリアが席を立つ。
「アラ、醍醐クンも蓬莱寺クンと一緒じゃなかったのね。てっきり、一緒だと思ってたけど」
「ああ、あいつは、その……部屋で休んでます。湯中ゆあたりしたみたいで」
 麻痺させて転がしてある、などとは言えずに誤魔化す醍醐。だが、マリアは眉をひそめた。
「でも、ワタシさっき蓬莱寺クンとすれ違ったわよ?」
「「えっ!?」」
 時間的に部屋での出来事の前、ということはないだろう。ということは、麻痺の状態から脱したのだろうか。
「すいません、急用ができたので失礼しますっ!」
 龍麻と醍醐はそのまま全力で駆け出した。
「二人とも、消灯までにはちゃんと部屋へ戻るのよ」
 事情を知らないマリアがそんな事を言うのが、二人の耳に届いた。


 宿の廊下を疾走する二つの影。言うまでもなく龍麻と醍醐だ。すれ違った他の生徒達が慌てて道を譲る。
「まさか、こんなに短時間で復活するとはな!」
 部屋に戻った龍麻達が見たものは、こちらを恨めしそうに見るクラスメイト三人だった。つまり、京一はいなかったのである。
「京一の煩悩を甘く見てたね! こんな事になるなら、古式ゆかしい方法を使って、最初から手足の関節を外して縛り上げておけば良かった!」
「……いや、そこまでするのもどうかと思うが……」
「……被害が出た後でもそう言える?」
「う……」
 被害が出てからでは遅いのだ。どのくらいの時間差があるのかは分からないが、急がないと京一が凶行に及んでしまう。
「しかし龍麻。もし、手遅れだった場合はどうする?」
 非常口から外に出たところで、醍醐が訊いてくる。すると龍麻は口だけを歪めて笑い
「その時は風呂にダイブしてもらおうかな……後は女子と先生方の裁きに任せよう」
 つまり、女子が入浴中の風呂へ放り込むということか。京一にとってはある意味極楽だろうが、本当の極楽へ旅立ちかねない――いや、彼の場合は地獄か。
「じゃ、じゃあ……まだだった場合は?」
「雄矢、蓑虫って知ってる? 寒い冬も外で木にぶら下がっているよね」
「……」
 どうやら一晩吊すつもりのようだ。
(絶対に、龍麻を怒らせるのは避けよう……)
 そう心に固く誓う醍醐だった。
「雄矢、そろそろ……」
 走るのを止め、気配を消して、龍麻と醍醐はゆっくりと進む。心なしか気温が少し上がったような気がする。それに加えて風に乗って聞こえてくる水音と、女子の声。
「こっちに間違いはないようだが……いるか?」
「……いたよ、標的が」
 茂みに潜み、そちらを窺うと、垣根の前でしゃがみ込んでいる京一の姿があった。
「どうやら、間に合ったようだな」
「ギリギリの所でね……」
 足下の石を拾い、龍麻はそれを京一めがけて投げつけた。弾丸の如き速さで放たれたそれは、京一の背中に命中する。
 普通なら悲鳴を上げてもおかしくない一撃だが、口に手を突っ込んで京一はそれに耐えた。覗こうとした瞬間を邪魔されたのだ。きっ、とこちらを睨みつける京一だったが、冷たい目を向ける龍麻と醍醐を見て、硬直する。
「ひ……ひーちゃんに、醍醐……」
「何をしているのかな、蓬莱寺君?」
「京一……俺は呆れてものが言えん……」
 パキパキと手の関節を鳴らしながら、京一に近付く二人。蒼白い顔でじりじりと後退する京一。だが、そこで京一の様子が変わった。追い詰められた、といった感じではなく、何やら切り札を持っているように思える。顔色も元に戻り、ニヤリと京一は笑って見せた。
「……龍麻、何やら嫌な予感が……」
 醍醐がそう言った時だった。京一が大きく息を吸い込む。そして――
「ひーちゃんに醍醐っ! こんな所で何やってやがるっ!」
 と、力の限り叫んだのだ。
 垣根の向こうがあっと言う間に静かになる。水音も、声も無くなり、周囲は静寂に支配された。しばらくの後――
 垣根の向こうから桶や石鹸、シャンプー、悲鳴などが手当たり次第に飛んでくる。
 この場にいては、どんな言い訳も通用しない。龍麻と醍醐は脱兎の如くその場を離れた。
 その時には既に、京一の姿はなかった。


 宿内――ロビー。
「た、龍麻……」
「……なに、雄矢……」
 ソファにぐったりと身を委ね、龍麻と醍醐は力尽きていた。あれで、犯人は自分達ということにされてしまっただろう。京一にしては、小癪な手を使う。
「俺達は、どうなるんだろうな……」
「先手を打って、一撃で仕留めていればよかったね……」
「ああ……」
「このままだと、僕らに罪を着せられるね……実際に覗いたのならともかく、納得いかない……」
「それもどうかと思うぞ、人として……」
「そりゃそうだけど……見てないだけ、損だよ……」
「そういうものか……」
「ふーん、じゃあ、龍麻君達は覗いてないんだ」
「当たり前じゃないか……覗きを止めようとして覗き魔にされるなんて……」
 言いかけてふと思う――自分は一体、誰に話しかけているのだろう?
 ぎぎぎ、と油の切れた人形のようにぎこちなく首を動かす龍麻と醍醐。その視線の先には――
「「とっ、とととと遠野(さん)!?」」
 ソファの背後からこちらを見下ろしていたのはアン子だった。制服を着ているが、髪が若干湿っているように見える。ということは……
「な、何か用かな……?」
「ホントーに覗いてないのね?」
 ジト目でこちらを見るアン子に、こくこくと頷く二人。その様子に、アン子は一息つく。
「まあ、龍麻君と醍醐君だもんねぇ……天地がひっくり返らない限り、そんな事はないと思うけど……」
 ひどい言われようだが、どうやら信用してくれたようだ。
「……遠野さんはともかく……みんなはそう思ってないかも……」
 はあ、と大きい溜息をつく龍麻。他の女子に会うのが少し恐い。
「よぉ。こんな所で何やってんだ?」
 そこへ悪の元凶がやって来た。
「き、京一っ! お前――」
「聞いたぜ醍醐。女風呂覗きに行って、見つかったらしいじゃねぇか」
 今にも掴みかからんとする醍醐に、京一はそんな事を言った。
「あら、京一。あんたも知ってるの?」
「ああ。それにしても、醍醐とひーちゃんがねぇ……」
 ニヤニヤ笑いながら二人を見る京一。龍麻と醍醐は何かに耐えるように拳を握りしめ、俯いている。
「へぇ〜。でも、おかしいわねぇ?」
 アン子が眼鏡を器用に光らせる。
「風呂を覗かれた事、みんなには他言無用ってことで話が付いてるから、知ってる人がいるのはおかしいんだけど?」
 その一言で、京一が凍った。だらだらと、冷や汗など流し始める。
「ねぇ、龍麻君。以上の点から、事実を知っている理由としては、何が挙げられるかしら?」
「その場にいたから、じゃないの?」
 わざとらしく話を振ってくるアン子に、即答する龍麻。
「自ら墓穴を掘ったな、京一」
 少しは気が晴れたのか、意地悪い笑みを浮かべる醍醐。
「やっぱり〜っ! あんただったのね! あそこで叫んで二人に罪を着せようとしたのは! 信じらんないっ! サイテーよ、この変態っ! この口止め料は高くつくわよっ! 東京へ帰ったら……覚悟してなさいっ!」
 一気にまくし立てるアン子に、観念したのか京一ががっくりと肩を落とす。
「じ、地獄だ……」
 自業自得である。
「――あっ、いたいた!」
 そこへ、小蒔と葵がやって来た。びくっ、と龍麻と醍醐が身を竦ませる。やましい事はしていないが、いきなり覗き魔呼ばわりされたりしたら、そのダメージは計り知れないモノになるだろう。
「ねぇ、アン子。さっきの件、調べはついた?」
 さっそく小蒔がアン子に話しかける。どうやら先程の覗きの件らしい。
「ええ。軽く調べてみただけなんだけど、龍麻君と醍醐君の方は完全にシロよ。裏は取れたわ」
「そっか〜。まさかとは思ったけど、やっぱり二人がそんなコトするはずないよね」
「ええ。一瞬でも疑った私達が悪かったわね」
 心底安心した、といった表情の二人に、龍麻達もこっそりと安堵の息を吐き出した。これで、不名誉な二つ名で呼ばれる事だけは避けられそうだ。龍麻と醍醐はアン子に感謝した。もちろん、心の中でだ。
「でもさ、結局あの声って誰だったんだろうね? ボク、どこかで聞いた事あるような気がするんだけどなぁ」
「そうよね……実は私もなんだけど……誰かしら?」
「その辺は、追々ってことで。もう少し調べてみるから」
 獲物を追い詰めた狩人のような目を一瞬だけ京一に向けるアン子。京一の顔色が悪くなるのが龍麻達には分かったが、女性陣は気付かなかったようだ。
「それより、今日の班行動。何か、面白いことあった?」
「あっ、そうそう。アン子にも話そうと思ってたんだ。この山にはね……天狗が出るらしいんだよぉ」
 驚いたか、と言わんばかりの小蒔に、アン子の反応はふーん、と相づちを打つだけのあっさりとしたものだった。もう少し食い付いてくると思っていたのだろう。不思議そうな目を向ける小蒔に、アン子は解説を始める。
「この辺りは天狗伝説の宝庫よ。愛宕山、鞍馬山、比良山……天狗は山を住みかとする妖怪。江戸の中期に記された『天狗経』って書には、日本全国の山々には、全部で十二万五千百の天狗がいるって記されているくらいだもの。ましてや、山岳信仰の残る山村じゃ珍しい話でもないでしょ」
「でも……ボク達が助けたおばあちゃんは、天狗様がレジャー開発から山を護ってくれるって言ってたよ。実際に人が襲われたり、機械が壊されたりしてるって」
「うむ……恐らくは天狗の面でも被った人間の仕業だと思うがな」
「けど、その面ってのがどうも気になるんだよな」
 小蒔、醍醐に続き、ようやく京一も復活したのか、話に加わってくる。
「面なんか被った奴に、ろくな奴らはいねぇからよ」
 その言葉が指すものは一つしかない。最終決戦から、まだ二週間も経っていないのだ。
「鬼道衆……」
 皆の頭に浮かんだであろう単語を、葵が口にする。
「その残党か、もしくは……この京都に、新たな敵が潜んでいるか……あり得ないことじゃあないわよね」
(少なくとも、鬼道衆の線だけはあり得ないんだけどね……)
 口には出さずに胸中で龍麻は独り言ちる。頭目は死に、腹心の部下も封印済み。その時点で、実行部隊とも言える忍軍も消滅している。万が一鬼道衆が動いているとすれば、それは過去の亡霊ではなく、九角と同じく生身の人間であろう。だが、そのような人物がいるのであれば、等々力での決戦時に姿を見せないのはおかしい。仮にその時身動きが取れなかったのだとしても、あれから時間が経っている。自分達に何らかの行動を起こしていてもおかしくないのだ。それがない以上、鬼道衆自体は完全に消滅していると、龍麻は考えていた。
 新たな敵については考えるだけ無駄である。少なくとも、地方に情報網を持つ如月からはめぼしい情報はないし、京都で怪事件が起こっているというニュースも今はない。
 つまり、自分達が動く理由はない。のだが……
「ねえ、やっぱり、これから天狗の正体を確かめに行こうよっ」
「そうだな。やはり、そうするか……」
 気になるのか小蒔と醍醐がそんな事を言いだした。それに反対したのは京一だ。
「おっ、おいおい本気かよ? 冗談じゃないぜ、今から山登りなんてよぉ。俺はゴメンだぜ」
「そんな……だって、すごく気になるよっ!」
「私も……そう思うわ。宿を抜け出すなんてよくないけれど……でも……」
 葵も行くべきだと主張し、全員の視線が龍麻に注がれる。
「龍麻、お前はどう思う?」
「賛成が三、反対が一、僕がどう思ってても、行く事に決定するでしょ? それに《力》絡みじゃないんだから、僕の意見は必要ないと思うけど」
「それはそうだが……お前は反対なのか?」
 龍麻らしからぬ物言いに、怪訝な表情を浮かべる醍醐。しかし龍麻は何も答えず、醍醐達はただただ首を傾げるだけであった。



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