9月25日。真神学園通学路――早朝。
「あっ、おはよー!」
「おはよーサンッ」
 いつもと変わらない朝の風景。登校してくる生徒達が各々挨拶を交わしている。
「――あっ、美里せんぱ〜い! おはようございま〜す」
 登校中の葵に、下級生の女生徒が挨拶してきた。挨拶を返すと、その女生徒は浮かれた様子で他の女生徒達と騒ぎ始めた。
 生徒会長として人気の高い葵である。声をかけてくる者は多い。挨拶を返しながら空を見上げる。
「今日も、いいお天気……」
 気温は低いが、日は差している。今はともかく、日中になるといくらか暖かくなるだろう。
(嘘みたいに、平穏な朝――)
 鬼道衆との闘いが終わって、まだそれほど日は経っていない。《力》に目醒めてから今まで、ずっと非日常の世界に身を置いていたのだ。この何事もない日常が、とても懐かしく感じられる。
 今日もいい一日でありますように、そう心の中で願う葵の行く先に、見慣れた後ろ姿があった。
(いた……)
 今朝、家を出る時に決めていたことを思い出し、一瞬鼓動が早くなる。
 気付かぬうちに小走りになって、葵はその人物に近付いた。足音が聞こえたのか、それとも気配を察知したのか、その少年――緋勇龍麻は振り返る。
「おはよう……龍麻――」
「おはよう……葵――」
 照れながら挨拶する葵に、龍麻もやや照れながら、挨拶を返した。



 3−C教室――放課後。
「それでは今日はこれで終わります。みんな、来週は遅れないように集合してくださいね。集合時間と場所をよく確認して、月曜からの修学旅行を、楽しいものにしましょう」
 そう締めくくり、マリアは教室を出ていく。すぐに教室内は喧噪に包まれた。皆、来週の修学旅行の話題だ。どこで買い物しようとか、当日一緒に行こうとか、断片的だがそれらしい情報が龍麻の耳に入ってくる。
「おーおー、みんな、一様に浮かれてんな」
 見た目にはそれ程浮かれていない京一がやって来て、龍麻の近くの机に座った。
「京都・奈良なんて、中学の時にも行ったろうによぉ」
「あ、こっちは中学なんだ。岡山だと、小学生の時だよ。京都・奈良って」
 地方によって、修学旅行の行き先は違う。岡山だと、小学校で京都・奈良、中学校で北九州が相場らしい。
「どっちにしろ、行ってるんじゃねぇか。ひーちゃんも楽しみでたまんねぇってクチか?」
「うん」
 やれやれ、と肩をすくめて見せる京一に、龍麻は即答した。
「二条城、蓮華王院の三十三間堂、清水寺、鹿苑寺の金閣、仁和寺……観たい、訪れたい場所が、山程あるからね」
「いいねぇ、キミは楽しそうで。ま、この教室で勉強してるよかマシだけどな」
 龍麻が挙げていく名前の中、聞き覚えのあるものはわずかしかない。京一が、投げやりにそう言うと
「なんだ、京一。お前は行きたくないのか?」
 やって来た醍醐が意外そうに言う。騒ぎ好きの京一が、こういったイベントに乗り気でないはずはないのだが。
「別に、そういうわけじゃねぇけどよ」
「素直じゃないな、お前は。それより見てみろ。旅のしおりに各班の面子メンツが出てるぞ」
「3年C組、第7班は、ボクと葵と京一と醍醐クン……それからひーちゃんも一緒だよ」
 醍醐が言うよりも早く、葵と一緒にやって来た小蒔がしおりを読み上げた。それじゃいつもと同じじゃねぇかと漏らした京一を、文句あるっての? と小蒔が睨みつける。
「最高のメンバーだよっ。ねっ、ひーちゃん?」
「そうだね。いつも一緒だったから、やっぱりこのメンバーが一番かな」
 龍麻の返事に、やっぱりそうだよね、と小蒔は嬉しそうに笑う。
「ホント、色々あったけど、このメンツが揃っていれば、絶対安心、ってカンジだよねっ!」
「一人、安心できない奴がいるけどな」
 醍醐の視線の先には一人の男がいた。今更、誰なのか言うまでもない。
「あーはいはい。どーせそりゃ、俺だよっ!」
 自棄気味に叫ぶ京一を見て、皆が笑う。それでますます京一は不機嫌になった。更に大きくなる笑い声。
「でも、葵も大変だね」
 ひとしきり笑った後、小蒔は葵の方を見た。
「こんな時まで班長、なんて」
 各班には班長が設定されている。決めたのは教師陣だが、今までの実績というか評価というか。自分達の班の長は葵だった。生徒会長、クラス委員長、そして今回の班長。つくづく役職に縁があるようだ。それでも葵は楽しそうだったが。
「うふふ……旅行が楽しくなるように、私も班長として頑張るわ」
「よっ、頼もしいねぇ〜。期待してるぜ」
「色々と大変だろうが、俺達も協力するからな」
 京一、醍醐の言葉に葵は頷く。
「龍麻くんも……楽しい旅行にしましょうね」
「いつでも頼ってくれていいから、遠慮なく言ってよ」
「ええ、ありがとう。残り少ない高校生活の大事なイベントだもの。いい想い出になるといいわね」
「でも、いっつも葵ばっかりそういう役を任されてさ、やっぱり大変だよね。他に班長に向いてる人っていると思うんだけどなぁ」
 葵から龍麻に視線を移す小蒔。自然と他の者達の目も龍麻に向いていた。
「特にひーちゃんなんてさ、指揮官なんてやってるわけだし」
「確かにそうだな。どうよ、ひーちゃん。美里と班長の役、代わってやったらどうだ?」
「おいおい、二人とも。あまり無茶を言うものじゃないぞ」
 たしなめるようにそう言ったのは醍醐だ。
「龍麻が俺達を率いるのは事件の時限定、そういう取り決めだっただろう? せっかく闘いが終わったんだ、ゆっくりさせてやれ」
 龍麻の指揮権は《力》絡みの場合のみ。しかも、その事件が立て続けに起こり、つい最近ようやく終結した。はっきり言って一番負担が大きかったのは龍麻だ。戦闘指揮、仲間の訓練等。最終決戦ではかなりの無理もしている。皆に心配させまいと、平静を装っていたので殆どの仲間は気付いていないようだが。
 更に言うならば、龍麻の指導者・指揮官としての適性は魔人達しか知らない。小蒔の言い分も分からなくはないが、教師方に龍麻のリーダー性など分かるわけがない……マリアと犬神は別にしても。
「それに、美里が与えられた仕事を放棄するわけがないだろう」
「それもそうだね。でも、今まであっという間だったよね」
 龍麻が転校してきて、その間に色々な事があったが、もう半年も経つのだ。しみじみと呟く小蒔に、醍醐も頷く。
「うむ。いつの間にか夏も終わって……もうすっかり秋になってしまったな……」
「うん……そうだね。って、それじゃ食欲の秋ってことで、帰りにラーメンってのはどう?」
「お前は年中、食欲の季節じゃねぇかっ」
 小蒔の提案に、からかうような京一の口調。とは言え京一も同意見のようだ。
「と、まぁ、俺も行ってもいいけどな。醍醐、お前も行くんだろ?」
「そうだな。ちょうど腹も減ったところだ」
「あの……私も……行っていいかしら」
 同じく頷く醍醐だが、珍しく葵が自分から同行を申し出た。もちろん、拒む者などいるわけがない。
「もちろんだ。それじゃあ、これで決まりだが……龍麻、もちろんお前も来るよな?」
「うん、行く」
 即答する龍麻に醍醐は顔を綻ばせた。京一も、今まさに目の前にラーメンがあるかのような表情になる。
「今日食っておかないと、旅行中に後悔するかも知れないぞ」
「あの店のラーメンは、最高にうまいからなぁ〜」
「まったく、ホントにラーメン好きなんだから」
 小蒔が呆れるのも無理はないが、そう言う本人だって同じだったりする。このメンバーでラーメン以外の外食をすることは滅多にない。
「まあともかく、これで……全員行くことに決まりだな」
「それじゃ、レッツ――」
「「「ゴォオ――ッ!」」」
 いつかどこかであったように、乱入者の声が重なる。
「わああっ、アン子!?」
「てめぇ、何でここにいるっ!?」
「何よそれ」
 大袈裟に驚く小蒔と京一に、アン子は剣呑とした視線を向けた。
「あたしがどこにいようと、そんなの、あたしの勝手でしょ?」
「でもアン子。確か今日は、修学旅行の撮影班の準備で早く帰るって……」
「ああ、あれ? 大丈夫、昨日のうちに終わらせておいたから。時は金なり! ……よ」
 予定を聞いていた小蒔の指摘に、アン子はあっさりと答える。手際がよいというか何というか。この行動力だけには頭が下がる。
「それより、どうせラーメン屋でしょ? ちょっとお腹も減ってるし、久し振りにあんた達の話も聞きたいから、あたしも連れて行って――」
 そこまで言ってアン子は恐る恐る龍麻を見た。
 等々力の件以来、龍麻とアン子は一度も顔を合わせていない。と言うよりアン子が龍麻に近付かなかった節がある。あれだけひどい目――龍麻の判断が裏目に出たこともあるが――に遭えばそれも当然と言える。何よりアン子自身、あれだけの拒絶の目を周囲から一度に向けられたこと自体初めてだったのだ。今までのこともあるし、完全に嫌われたのだろうなと半ば諦めていたのだが
「それじゃ、みんなで行こうか」
 あっさりと龍麻は言ってのけた。これに驚いたのはアン子だけではなかった。例外は等々力でのやり取りを知らない葵だけで、残りの三人も同様だ。
「あ、でも」
 と続く龍麻の言葉。奇妙な沈黙が場を支配する。龍麻が何を言うつもりなのか――固唾を呑んで次の言葉を待つ京一達。そんな雰囲気を知らずか、龍麻はアン子に手を差し出した。
「……な、何?」
「この間の念珠、返してくれないかな? もう必要ないはずだよ」
「今は持ってないけど……別にいいじゃない。数珠の一つや二つ、安いもんでしょ?」
「あれ、六万九千円するんだけど」
 事も無げに言う龍麻。その途端アン子の顔が引きつる。
「ろ――っ!?」
「元々、貸しただけだし。あれが返ってこないと家計に響くんだよね」
 旧校舎基金から捻出したので家計に響くわけではないのだが、とりあえずそう言っておく。龍麻が一人暮らしであるのはアン子も知っているし、その中で七万近い大金がどれだけ重要なのかは分かるだろう。
「わ、分かった。今度持ってくるわ。だから買い取れなんて言わないでね」
「ん、よろしく。さて、それじゃ――」
 ラーメン屋へ、と龍麻が言おうとしたその時。
「――あっ! そっ、そーだっ!」
「何よ、桜井ちゃん。急に大きな声出して……」
 突然声を上げた小蒔に皆の視線が集中する。
「ボク、すっごく急な用を思い出しちゃった……ねえアン子、お願い! ちょっとだけ付き合ってよぉ〜。アン子にしか頼めないことなんだよっ」
 用事を思い出したという小蒔に龍麻と葵、そしてアン子の訝しげな目が向けられる。アン子は何やら考えていたが、仕方ないわねぇと頷いて見せた。
「じゃっ、そういうことで。みんな、先に行っててよっ! ボクも行けたら後から行くからさ」
「あ、ああ……」
「じゃっ、後でな、小蒔っ!」
 言葉を何故か濁す醍醐と、やけに元気な京一を残し、相談料がどうとか言いながら小蒔とアン子は教室を出て行った。
「小蒔ったら……急にどうしたのかしら」
「小蒔のこった、どうせ大したことじゃねぇだろ。それより俺達は、先を急ごうぜっ」
 不思議そうにする葵にそう言い、京一はドアを開ける。そして――
「「……」」
 龍麻と葵はやや呆れたような表情を見せた。入口から顔だけ出して、周囲の様子を窺っている京一の姿を見て。しかも、醍醐までが京一と同じような状態なのだ。はっきり言って怪しすぎる。
(どうだ、京一?)
(いねぇみてぇだな……)
「二人とも……どうかしたの?」
 何やらひそひそ話している二人に、葵が声をかける。やや慌てた様子を見せながら、京一は手を振った。
「いっ、いやなんでもねぇんだ。ちょっと廊下の確認を、な」
「京一、雄矢。さっきから変だよ?」
「いや……その、俺は反対したんだが……」
「バカッ! 余計なこと、言うんじゃねぇっ!」
 龍麻の視線から顔を逸らし、醍醐は言い淀む。それを何故か制する京一。
「気にすんなよ、ひーちゃん、美里。俺達はただ、未確認歩行物体の接近を許しちゃいけねぇと――」
 言いかけた京一だったが、その言葉が最後まで発せられる事はなかった。その時まさに未確認歩行物体が姿を現したからだ。すなわち、裏密ミサが。
「うふふふふふふふふ〜、それってあたし〜のこと〜?」
「ぎゃ――――――っ!?」
「い……一体どこからっ!?」
 悲鳴を上げる京一と、恐怖に身を凍らせる醍醐。ただ、龍麻と葵には醍醐の影から「生えてきた」裏密が見えていた。彼女が出入りできそうな影は他にもあるのだが、人の影から出る方が皆の反応が大きいのでそちらを選んでいるのだろうか。
「うふふ〜。神聖なる形成界イェツィラーの彼方より〜、ひーちゃんを救うために来たの〜」
「え……龍麻……くんを……? ミサちゃん、それ……どういうことなの?」
 龍麻を救うという言葉を聞きとがめた葵が訊ねると、裏密はいつもの如くうふふふふ〜と笑う。
「我が鏡占いカトプトロマンシーに、見抜けぬものはない〜。ひーちゃんを狙う、甘美な罠〜。うふふふふ〜、どお〜? 教えて欲しい〜?」
「そりゃまあ、ね……僕に関わる事であるなら……」
 罠だけならともかく、そこに「甘美」という言葉が付くのが意味不明だが、気になる事に変わりはない。
「うふふ〜。もしかしたら、聞かない方がいいかも知れないけどね〜。うふ……」
 意味ありげな笑みを浮かべ、龍麻と、そして何故か横目で葵を見ながら言う裏密。それから京一と醍醐の方を向くと
「ねぇ〜、京一く〜ん、醍醐く〜ん」
 蛇に睨まれた蛙のように身動き一つ取れなくなる二人。この二人が裏密を苦手としているのは周知の事実だが、今日のそれは一段と拍車が掛かっている。そんな中、醍醐が一歩進み出た。
「う……裏密……お……お前に、うら、占って欲しいことが……あるん……だが……」
「「はい……?」」
 龍麻と葵は揃って間抜けな声を出していた。あの醍醐が、あの裏密に、占って欲しい事があるなど――天変地異の前触れだろうか? そう思わせる程、醍醐の発言は衝撃的だったのだ。
「醍醐く〜んが〜? ……う〜ふ〜ふ〜……それはそれで、面白そうね〜」
 裏密の方も意外だったのか、一瞬我を忘れて呆けていたが、次第に皆にはお馴染みになった、何かを企んでいるような笑みを浮かべる。それを見て醍醐の表情が更に蒼くなっていくのが分かった。
「醍醐……お前って奴は……」
「いいんだ、何も言うな、京一。今日は……特別だからなっ」
「それじゃあ、醍醐く〜ん、霊研うちへ行きましょ〜」
 先程と同じく、何やらよく分からないやり取りをする京一と醍醐。何が特別なのかは分からないが、醍醐のこの行動も、何らかの目的のために必要ということだろうか。
 ずるずると――醍醐が裏密に引きずられていく。どう考えても無理があるが、何らかの《力》――魔術を使っているらしいことが龍麻には分かった。
 どこからともなくドナドナが聞こえてきそうな光景だ。売られていく子牛と醍醐がダブって見える。
「たっ、龍麻……念のために言っておくが、俺は最後まで反対したからなっ。本当なら、こんなやり方は――」
 何やら言おうとする醍醐だったが、京一が一瞥してそれを黙らせる。余計なコトは言うなとその目が語っていた。
「と、とにかく、俺も後から行くから、先にラーメン屋へ行ってくれ」
「おうっ、できることなら生きて帰ってこいよ〜っ」
 そのまま醍醐は裏密に連行されていった。その場に取り残される三人。
「……やっぱり変だわ」
「……どう考えてもね」
「それに、ミサちゃんが言ってた罠って一体……」
 次々と消えていく仲間達。ここまでくれば、京一達が何やら企んでいるのは確かなのだが、その目的が分からない。
 龍麻と葵、二人の疑わしげな目が京一に向けられる。醍醐に手を振っていた京一だったが、その視線に気付いたのか、慌てて言い繕い始めた。
「あ、ああ、何でもねぇよ、きっと。それより早く行こうぜ」
 ラーメン屋、ラーメン屋と口にしながら足早に外へと向かう京一。そんな彼の背中を見ながら、釈然としないものを感じつつも、結局二人には後に続く以外、道はなかったのだった。


 真神学園――校門。
 あれ以降、何事もなくここまで来た三人だったが、不意に京一が立ち止まる。
「どうしたの、京一くん?」
 今度は何だと龍麻が周囲を窺う。京一だけで、先に消えた二人はいないようだ。何か仕掛けてくるのではと思ったのだが、気のせいらしい。
 葵の問いに、京一はすまなそうに――その感情は一切感じられなかったが――謝った。
「すまねぇ。俺、教室に忘れもんしてきちまったぜっ」
「忘れ物って……一体、何を忘れたの?」
 京一の手にはいつもの如く、刀と木刀が入った袋がある。普段の京一はこれだけしか持っていない。葵もそれを知っているからこそ、京一が忘れ物をしたというのが意外だった。
「えっ……? いや、その……え、英語の教科書……をな」
「いつも教科書類を机の中に押し込んでいる京一が、何で今日に限って教科書なんて必要なわけ?」
 龍麻の指摘に、京一は言葉を詰まらせる。額には冷や汗が浮かんでいた。
 龍麻と葵を相手に、生半可な言い訳など通用しない。それでも京一は諦めていないのか
「い、いやぁ。楽しい旅行の前には家で勉強しようかなぁ……なんて……」
 二人の視線が痛い。段々と声が小さくなっていく。
「京一……何を企んでるのか、そろそろ教えてもらえるかな?」
「べ、別になにも企んでなんていねぇよ……」
「……ふーん」
 表情一つ変えずに、龍麻は最近腰に着けているポーチからある物を取り出した。
 蛍光塗料のような色をした怪しげな液体の入った試験管。
「ひーちゃん……それは何かな……?」
「ああ、ミサちゃんが作った『効果不明の新薬』らしいんだけど……今ここで試してもらおうか……ねぇ、京一? 僕的には『桜ヶ丘へ直行』って効果だと思うんだけど」
 霊研&桜ヶ丘。京一にとっての鬼門である。そんなモノを飲まされたら最後、来週からの修学旅行は絶望的だ。
「……」
「京一……?」
「と、とにかく! そういうことで俺、ちょっと行ってくるから、二人で先に行っててくれよ」
 何とかそう口にして、京一は後ろへ数歩下がった。
「二人って……私と龍麻くんで……?」
「もちろん、そうに決まってるじゃねぇか。二人でのんびり帰る、なんてのもたまにはいいんじゃねぇの?」
 朱に染まった葵に、ニヤリと笑って京一は龍麻を見る。龍麻の方は完全に呆れていた。
「京一……こんなことして楽しい?」
「なんだよ、照れんな照れんなっ。せっかくのチャンスなんだ。楽しんで来いよなっ。気が向いたらお前らもラーメン屋へ来いよ。それじゃあ、ごゆっくり……」
 何がおかしいのか、わはははと笑いながら去っていく京一。それを見送りながら二人は嘆息する。
「罠って、この事だったのね」
 よくこんな事を思いついたものだ。首謀者は京一と小蒔、醍醐はそれに巻き込まれたクチだろう。
 葵としては、この状況は嬉しくもあるのだが、やはり一方的に押しつけられたものであることには変わりない。相手の気持ちというものもある。
「こんなの……みんなも人が悪いわ。龍麻は迷惑かも知れないのに」
「そんな事ないよ」
 だからこそ、そんな言葉が出たのだが、すぐさま別の声が否定する。我が耳を疑い、えっ、と葵は龍麻の方を向いた。平静を装ってはいるが、龍麻の頬はやや赤い。
「たまには、さ。こういうのも……いいんじゃないかな」
「本当……に?」
「まあ、京一達のお膳立てっていうのが、どうにも引っ掛かるけど。せっかくだから、厚意に甘えよう。もちろん、葵が迷惑じゃなければ、だけど」
 どうする? と龍麻が軽く肩をすくめる。葵は未だに信じられないのか、しばらく呆然としていたが、現実を認識したのか、頬を染めたままで頷く。
「うふふ。私、本当はね……ずっとこんな風に、龍麻と一緒に帰りたかったの」
「え?」
「おかしいと思うかも知れないけど、でも……私……今、すごく嬉しいのよ。みんなに感謝しなくちゃね」
 そう言って微笑む葵を見ながら、龍麻もまた、京一達に心の中で感謝していたのだった。そう、この時は。


 校門から少し離れたくらいの場所で、葵の方から話しかけてきた。
「来週からの修学旅行。いいお天気だといいわね」
「週間天気予報を信じるなら、大丈夫みたいだよ」
「京都はもう、紅葉が始まっているかしら」
「どうかな? 紅葉なんかで有名なところは大抵11月中頃に入ってからだろうから。そう派手には始まってないと思うけど」
 不意に、何やら思いだしたのか葵がクスクスと笑う。
「私ね……中学校の時の修学旅行も京都だったのよ。残念がる子もいたけど、でも、私は嬉しかったわ。どうしてかしら……私、京都がとても好き。生まれるずっと前に住んでいたような気さえするの。なんだか、すごく懐かしくて……」
 そこまで言って、葵は龍麻を見る。龍麻の方は別段気にした風でもなく、葵の話に耳を傾けていた。
「ごめんなさい、また一人で喋って……せっかく龍麻と一緒なのに……」
 どういうわけかいつもより饒舌になっている。深刻な悩みや相談があるとかいった状況ではなく、ただ普通にこうして二人でいることが余程嬉しいのだろうか。謝る葵に龍麻は首を振った。
「気にすることないよ。葵の話だし、僕も聞いてて楽しいから」
「ありがとう、そんな風に言ってくれるなんて、思ってもみなかったわ。私……龍麻といるとお喋りになっちゃうみたい」
「確かに珍しいよね。まあ、みんなの知らない葵を見ることができるっていうのは幸運だけど」
 顔を見合わせて笑う二人。まだ照れが残ってはいるが、端からは仲のよい恋人同士にしか見えない。途中遭遇した真神の生徒達が羨ましそうに、悔しそうにそんな二人を見ているのだが、本人達は気付いてもいない。
 しかし、龍麻の方がそれとは別の者に気付いた。
「この《氣》……舞子とマリィだ」
「あ、本当だわ」
 龍麻の言葉と同時に、曲がり角から高見沢とマリィが姿を見せた。
「あれ〜、ひーちゃんと葵ちゃんだ〜。今、学校の帰りなの〜っ?」
「うん。舞子は?」
「わたしも今、看護学校の帰りなの〜っ。これからマリィちゃんと一緒に桜ヶ丘病院へ行くんだ〜っ」
 高見沢が、マリィと繋いだ手を上げて見せる。
「わたしはお仕事〜、マリィちゃんは診察だよね〜」
「ウン……」
「マリィちゃん、とっても偉いんだから〜っ。お注射の時だって、絶対に泣かないもんね〜っ」
「ウン……。マリィ、チャントガマン、できるヨ。龍麻オニイチャン……マリィのコト、ホメてくれる?」
 マリィが龍麻を見上げる。龍麻はしゃがむとマリィの頭に手を置いて優しく撫でてやった。
「うん。マリィは偉いね」
「エヘヘ……龍麻オニイチャンがホメてくれるなら……マリィ、これからもガンバル」
「うふっ……よかったね〜マリィちゃん。早く、実験の後遺症を克服するために〜、ガンバって治療を受けないとね〜っ」
 嬉しそうに目を細めるマリィを見て、これまた嬉しそうに高見沢が言った。
 実験の後遺症――主に成長を止めるものだが、治療は始まったばかりだ。今後どれだけの時間が掛かるかは分からないが、マリィが早く人並みに成長できるようになるのを祈るばかりである。
「高見沢さんは……マリィが治療に通うのに、いつも家まで迎えに来てくれるのよ。高見沢さんのおかげで、本当に助かってるの」
「へぇ、そうだったんだ。しっかり看護婦やってるんだね、舞子も」
 葵の説明に感心する龍麻。えっへん、と高見沢が胸を張る。
「っと、早く行かなきゃセンセ〜に怒られちゃう〜。行こ〜、マリィちゃん」
「エッ、モウ?」
 時計を見て時間に気付いた高見沢がマリィを促す。マリィの方はもう少し二人と一緒に居たいのだろう、やや不満げな表情を見せたが
「駄目だよ〜、せっかく二人きりだったのに、あんまり邪魔したらお馬さんに蹴られるんだから〜」
「「な……っ!?」」
 唐突な高見沢の発言に、龍麻と葵が狼狽える。マリィの方はきょとん、としていたが、不意に手を叩いてこう言った。
「人のコイジをジャマするヤツは、って言うんでショ? ……デモ、コイジってナニ?」
 疑問符を浮かべ、龍麻と葵を見るマリィ。高見沢はニコニコと笑っていた。悪気はない……のだろう。
「ネエ、龍麻オニイチャン、葵オネエチャン?」
「……そ、そうだね。もう一年か二年したら、マリィにも分かる日が来るよ……はは……」
「そ、そうね……だから、その時までお預けね、マリィ」
 困惑の混じった笑みを浮かべる二人に、マリィは可愛らしく首を傾げて見せたが、とりあえず納得したのか、高見沢と一緒に去って行った。しばし、その場に足を止めていた二人だったが
「Oh、アミーゴにアオーイッ! 久し振りーネッ!」
 今度は別の声がかかった。《氣》を読むまでもなく、この独特の喋り方をする者を龍麻は一人しか知らない。
「アラン……宴会から一週間経ってないんだけど……」
「こんなトコロでバッタリ会うなーんて、運命カンジーるネ」
 という指摘も聞き流し、そう言って四神が一、青龍は龍麻の肩をばしばしと叩く。
「アミーゴ、元気デースか?」
「うん、元気だけど」
「オウ、そうデースか! アミーゴが元気そうで、ボクも嬉しーいネ!」
「ところで……アランくんは、新宿まで、何をしに?」
 葵の疑問も当然である。アランの地元は江戸川だ。この時間帯にここにいる事自体、不自然である。授業が終わって急いで来ても、今ここにいられるはずがない。サボりでもしない限りは。
「オウ、もちろん決まってマース。新たなボクのエンジェルとの出会いを探しているのデース。ボクの理想のヒトはアオーイですが、アミーゴとアオーイの間に立ち入るのは不可能デースカラ。泣く泣く諦めて、新たな出会いを――」
『……アラン、僕達をからかいに来たわけ?』
 赤面する葵をよそに、男二人は葵に介入不能の会話を始める。
『そういうわけじゃないさ。翡翠から、アミーゴがまだ本調子じゃないって聞いたから、様子を見に、ね』
『ああ、なるほど。まあ、当分は《力》を使う必要はないだろうし、問題はないよ』
『それについては、翡翠が何やら難しそうな顔をしてたけど。まだ、何かあるのか?』
 普段の言動からはとても想像できないが、ラテン系のこの男、見かけに寄らず結構鋭い。本当のアランに気付いている者は、龍麻を含めても多くはいまい。
『いや、ただ彼の性分だね。全てが終わったように見えても、まだ何かあるかもと警戒してるんだ』
『それならいいんだけどな。何かあったら、すぐに知らせてくれよ。僕という人間は、君を護るために在るんだ』
『……ありがとう。頼りにしてる』
 龍麻のその言葉に満足したのか、アランはにいっと笑って
「それじゃ、ボクは行くネ。お二人はデートの続きをごゆっくり。HAHAHA!」
「「アラン(くん)!」」
 同時に声を上げる龍麻と葵だが、アランはそのまま真神の正門の方面へと消える。
「……ぼ、僕達もそろそろ行こうか……」
「え、ええ……」
 気を取り直し、二人は再び歩き始めた。


「あら、龍麻に葵じゃない」
 どういうルートを通ろうかと話していたところで、艶っぽい声が聞こえた。この声には聞き覚えがある。そちらを見ると、藤咲が手を上げていた。
「珍しいね、亜里沙。新宿まで出張ってくるなんて」
「確かにそうね。旧校舎に降りることももうないだろうし、用事って程のものもないんだけど……あんた達に会えそうな気がしたから何となくふらふらと。それにしても……」
 龍麻と葵を交互に見て何やら含み笑いを浮かべる藤咲。
「二人きりだなんて、こっちの方が珍しいわね。ようやく付き合い始めたわけ?」
「ふ、藤咲さん!?」
「どうしてそうなるかな?」
 赤い顔で葵は慌て、龍麻は比較的冷静に切り返す。さすがに龍麻は藤咲相手だと慣れたようだ。
「まあ、細かいことはどうでもいいじゃない。それより、どこか行く途中だったんじゃないの?」
「え? ああ、ラーメンを食べに行く話になってるんだけど」
「ラーメン? まったく、色気のない話ねぇ。誘うなら、もちっとマシな場所にしたらどうなんだい?」
「いや、だからそういうのじゃないんだってば……」
 さっきからこんな話題ばかりである。一体、自分達が何をしたというのだろう?
「と、とにかく僕達は行くね。それじゃ」
 逃げるように龍麻と葵が去って行く。それを見送りながら藤咲は一言漏らした。
「お膳立てがまだ足りなかったかしら?」
 二人の誕生日の件で、せっかく葵だけからのプレゼントという形に仕向けたというのに、あまり効果がないように思える。「同志」の話では、龍麻からも葵に何やら送ったらしいのだが。
「やっぱり、有無を言わさず葵を縛り上げて龍麻の家に送った方が良かったかもね」
 物騒なことを平然と言い、その場を後にしようとした藤咲だったが、そこで彼女はあるものを見つけ
「へぇ……」
 一枚噛むことにした。



お品書きへ戻る  次(第拾四話:京洛奇譚2)へ  TOP(黄龍戦記)へ