薄暗い部屋の中、燭台が一つ。蝋燭の小さな炎が灯り、一人の男が闇の中に浮かび上がっている。蝋燭の正面に正座し、その傍らには一振りの刀。他には誰もおらず、物音一つ聞こえない。
「御屋形様……」
低い声が静寂を破った。あまり気配を感じさせずに現れた配下の下忍が部屋の入口でひざまずき、報告する。
「雷角様は討ち死に。珠も奪われました」
「……奴らか?」
「はっ」
「そうか……」
これで鬼道五人衆は全滅。腹心と呼ぶべき存在は全て斃された。にもかかわらず、男の声には怒りも悲しみも感じられない。どうでもいいのか、気のない返事を返す。
「それと、今まで探索していた例のもの、奴らの中にいるようです」
続く報告に、ゆっくりと男は今まで閉じていた双眸を開く。が、振り向く事はなく、背を向けたままだ。
「確かか?」
「はっ。如何なさいましょう?」
「しばらくは泳がせておけ。所在が割れたのなら、どうとでもなる」
一礼し、下忍の気配は完全に消えた。
「今頃になって見つかったか」
一人残った男の声が部屋に響く。刀を掴むと片膝を立て、目の前の蝋燭に男は視線を向けた。
「今更、後には退けねぇな……」
鯉口を切ると同時に刃が一閃し、蝋燭が芯ぎりぎりの所で断たれる。離れた炎は刃の上で少しの間燻っていたが、僅かに残った蝋が燃え尽きると同時に消える。
その寸前、最後の灯火が照らした男の顔には、自嘲にも似た笑みが浮かんでいた。
男の名を、九角天童という。
ローゼンクロイツでの出来事も既に過去の事になった。
学院の事実上の壊滅は、ニュースなどで大々的に流れた。学院の関係者達は軒並み検挙され、学院の実態も明らかにされたのだ。ただ、そこに《力》絡みの何かがあった事だけは、全く公表されなかった。世間的には「子供を洗脳し、反社会的行動を目論む異常集団」という認識がなされたのだ。これに関してはとある組織が動いたのだが、その事実を知る者は当然の如く少ない。「彼ら」がどんな活動をしているのかは龍麻もその最高責任者から聞いていたので、そちらから手を回したのだろうなということは見当がついた。
鬼道五人衆を全て斃し、鬼道衆も組織的行動は取れなくなったはずだ。それでも鬼道衆の散発的な襲撃が何度かあった。如月や織部姉妹達が標的になっているが、こちらは問題なく片が付いている。それ以降は目立った動きはない。
後は敵の首領を捜すのみだがこれには時間が掛かる。珠の方はすぐにでも封印してしまえばよかったとの見方もあるが、後処理の絡みで色々と忙しかったのも事実だ。
特にマリィの事だが、彼女が十五歳――本当は自分達と同じ高校生だという事実を知った時には、あらかじめそれを聞いていた葵以外の誰もが驚いた。薬物投与で成長を止められていたらしい。だが、こちらの方は桜ヶ丘で岩山が手を尽くしてくれるらしく、時間は掛かるが再成長は叶うとの事。葵の方も、現時点では実験の後遺症は見受けられなかった。
葵の両親も、詳しい事情を聞かぬままマリィを受け入れてくれ、ようやく一息つけたのが先週までの話。
そして、今。9月14日。龍麻達はようやく宝珠の封印を再開した。
地下鉄南北線を本駒込駅で下車し、歩く事しばし。文京区は目赤不動南谷寺に到着する。
「へぇ、これが祠なんだ」
龍麻が結界を解くと同時に出現した祠を、小蒔は物珍しそうに見ている。
祠自体は何の変わり映えもない。今までに宝珠を封じた祠と同じだ。
宝珠を持っていた醍醐が近付き、それを祠の中に収める。幾度かの明滅の後、光は消え、珠自体が放っていた《力》とでも言うべきものも感じられなくなった。そして、今までの例に漏れず、足下に報酬とでもいうべき物が出現していた。真紅の石の指輪だ。
「封印できたらしいな」
「これで残りは後一つだな」
軽く息を吐く醍醐の肩を叩いて、京一。小蒔は封印を見るのは初めてだったせいか、未だに祠を眺めている。
「……」
「なんだよ、浮かねぇ顔して。後は、雷角の野郎から手に入れたこの黄色の宝珠を、目黄不動に納めりゃ、全て解決ってわけだ」
深刻な表情の醍醐に、努めて明るく言う京一だったが、醍醐の表情は晴れない。
「全て解決……か。だといいんだがな……」
「ちっ。相変わらず心配性なヤツだな。ジジイが言ってたじゃねぇか。鬼道衆を斃して、五つの珠を不動に封印すりゃいいってよ」
「まったく……お気楽もここまで来れば立派だよ」
ようやく祠から離れた小蒔が、大げさに溜息をついてみせる。
「んだとぉ?」
「鬼道衆だって、まだ全滅したわけじゃないだろ? それに、九角って人のコトだって、まだ分かってないじゃないかっ」
言葉を詰まらせ、小蒔を睨む京一に、まあまあ、と醍醐がいつもの如く割って入った。
「今は、とにかく俺達にできる事をやっていこう。みんなも、あまり余計な事は考えるな……」
「そんなコト言って、余計な事を考えるのって、いつも醍醐クンやひーちゃんじゃない」
「そうそう。気をつけろよ、タイショー」
さっきまでの険悪さはどこへ消えたのか、二人して醍醐を槍玉に上げる。その変わり身の速さに、醍醐は呆れた。
「あ、あのなぁ! 俺は真面目な話を……!」
「二人とも分かってるって。だからこうして心配してくれてるんだよ、雄矢」
結界を張り終えた龍麻が、皆に向き直って言った。
「まあ、あんまり気を抜きすぎるのも考えものだと思うけどね」
「おいおい、他人事みたいに言うなよ、ひーちゃん。余計なコト考える筆頭のくせに」
「そうは言ってもね、考えるのが僕の仕事だから。まあ、気を付けるようにするよ」
そう笑う龍麻に、ホントに分かってるのかと京一が疑わしげな目を向ける。が、それも一瞬のことで
「ま、いいか。それより、もう用事は済んだんだから、さっさと帰ろうぜ」
と明るく皆を促したのだった。
新宿――表通り。
九月も半ば。日の落ちる時間が少しずつ早くなっている。新宿に戻ってきた時にはもう真っ暗だった。それでも、街には様々なイルミネーションが煌めき、暗闇を打ち消している。
「明日は、目黄不動か……ねぇ、葵。目黄不動ってどこだっけ?」
「ええ、それなんだけど……」
この中で、不動の場所を明確に記憶しているのは葵だけだ。龍麻の場合、名前はともかく詳しい場所は知らない。小蒔の問いに、葵が言葉を濁す。
「どっちが正解なのかな?」
「ええ、問題はそれなのよね」
龍麻と葵は何やら迷っているようだった。三人には、何の事だかさっぱり分からない。
「二人だけで何を悩んでるんだ? 問題でもあるのか?」
「ああ、雄矢は知らない? 目黄不動って、二つあるらしいんだ」
「「「二つ?」」」
その言葉に、三人が口を揃えて訊き返す。龍麻は頷き
「そう。江戸川区の最勝寺と、台東区の永久寺」
「なんで、同じものが二つもあるんだ?」
「さあ? それは何とも言えないけど」
肩をすくめて見せた。
「で、どうしようかな、って」
「そうね……規模的には最勝寺の方が大きかったはずなんだけど」
「まあ、あんまり寂れた場所ってのもないだろうし……そっちに行ってみようか」
結局、龍麻と葵の判断で、江戸川に行く事に決まる。他の者には口を挟むだけの知識、意見はない。
「かーっ、江戸川まで行くのかよ。俺の青春が……」
「まあ、そう言うな。それより、飯でも食っていくか」
愚痴る京一をなだめ、醍醐がそう提案する。京一と小蒔は乗り気だったが、申し訳なさそうに葵が口を開いた。
「あの、私……今日は、マリィと一緒に家族で外食の約束があるの」
「そうなんだ……」
「ごめんね……」
残念そうな小蒔に、葵が謝る。そんな葵を小蒔はじぃ、っと見つめて
「葵……何かあったの?」
と、唐突に切り出した。
「なんだか……元気ないよ?」
「え……? ううん、そんなことないわ。大丈夫……」
そう答える葵だが、表情はやや暗い。醍醐も京一も気付いていないようだが、親友である小蒔にそれが見抜けないはずがないのだ。それでも、葵が言い出せないのは皆に気を遣ってるんだろうと判断し
「そう……それならいいんだけど」
と答えておく。しかし、彼女の頭には既にある計画ができあがっていた。
「それじゃあ、私、もう行かなくちゃ」
「うん、気をつけてね……っと、そうだ。ひーちゃん、葵を送ってあげなよ」
そのまま立ち去ろうとした葵を引き止め、小蒔は龍麻に話を振る。
「ねっ、そうしなよ、葵」
「でも……」
龍麻も葵の様子がおかしいのには気付いていた。そこへ小蒔の提案である。小蒔の方も、龍麻がそれに気付いているのを承知で話を振ったのだろう。そういうわけで、龍麻はその思惑に乗る事にした。
「そうだね、いくら街中とは言え、女性の一人歩きは物騒だし。葵さんがよければ、途中まで送っていくよ」
そう言って優しく微笑む。京一曰く「龍麻の微笑は対女性用の必殺兵器」だそうだ。さすがに仲間内の女性達は免疫もできたようだが、葵や、仲間になって日が浅い織部姉妹にはまだまだ効果が大きい。
葵も最初は戸惑ったようだったが
「……ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しいわ」
結局、その申し出を呑む事にしたようだ。頬を染めつつ、承諾する。
「うん。それじゃあ、送っていくよ。みんなは、どうするの?」
「んー、人数も減った事だし、今日は大人しく帰ろっか」
「ああ、そうだな」
醍醐達も帰る方向にまとまり、この場で解散する事になった。
「へへへっ、ひーちゃん」
そんな中、京一が龍麻に意味ありげな視線を送る。そしてニヤリと笑い
「送り狼になるんじゃねぇぞっ」
ゴッ!
龍麻の普通の掌打と小蒔の拳が、左右の頬に同時に決まった。哀れ京一はその場に沈む。通行人が訝しげな視線を向けてくるが
「あのねぇ、葵さんは家族と外食だって、聞いてなかったの?」
「まったく、アホはこれだから……」
殴った事には微塵の罪悪感もない二人が、倒れた京一に言い放った。醍醐は溜息をつき、葵は顔を染めたまま他人のフリをしている。
「大体、ケダモノの京一ならともかく、ひーちゃんにそんな度胸――じゃない、そんなコトするはずないじゃないか」
「小蒔さん、さりげにひどい事言わなかった?」
確かにそんな気は毛頭ないが、何やら引っ掛かる小蒔の言葉に、呆れつつ龍麻が白い目を向けた。それに気付いた小蒔はえへへと笑いながら後退していく。
「それじゃね、おふたりさん」
「また明日、学校でな。龍麻、美里」
挨拶を交わし醍醐と小蒔が去って行く。起こしてやればよいものを、京一は醍醐に引きずられていた。
「……さて、行こうか」
「そ、そうね、行きましょうか」
最早、つっこむ気力も失せた龍麻が促し、葵が応える。
そのまま二人は歩き出した。
新宿――裏通り。
表の華やかさ、喧噪から離れた場所。人影もまばらで、どことなく暗い雰囲気がある。
そんな中を、制服を着た男女が歩いていた。あまり時間を掛けるのもどうか、ということで近道をしているだけなのだが、警官が通りかかれば職質くらいされるかも知れない。
「龍麻くん――付き合わせちゃってごめんね……」
「気にする事ないよ。それより、小蒔さんも言ってたけど、何かあったの?」
申し訳なさそうに葵が謝ってくるが、時間も限られているので、龍麻は早々に本題に移る。葵は驚いたようだったが、隠しても無駄と悟ったのか、溜息をついた。
「私って、駄目ね……みんなに迷惑掛けてばかりで……いつも、みんなに護られて……」
「この間の事?」
先週、攫われた時の事を言っているのだろうか。そう思って問うが、葵は首を振った。
「それもそうだけど……今までの事。《力》に目醒めて今までずっと……龍麻くん……ごめんね……。私、龍麻くんに迷惑ばかり掛けている……」
その言葉に龍麻は考え込む。はたして、彼女の言う通り、迷惑を掛けられただろうか、と。幾つか思い当たるものを挙げてみる。
覚醒後の旧校舎の件。確かに葵が自分を追ってきたのは事実だが、あれは扉を閉め忘れた自分のミスだ。
墨田区での一件。別に葵が悪いわけではない。
今回の大田区での一件。これも同じく。
龍麻の認識では、葵が言うような事は一切ない。全ては自分の意志で行動した結果だ。だから当然、龍麻の次のセリフは決まっていた。
「そんな事ないよ」
葵の足が止まった。龍麻も立ち止まり、葵を見て続ける。
「迷惑だなんて思ってない。葵さんがそう望んで厄介事に巻き込まれたわけじゃないんだから。それに、僕の方がよっぽど皆に迷惑を掛けてる。特に葵さんにはね。だから、そんなに気にする事はないよ」
「龍麻くん……あなたはいつも、そうやって私を励ましてくれるのね」
自らの身体を抱きかかえるようにして、葵は俯く。
「龍麻くんには、誰かを救う《力》がある――私には分かる……。あなたは、きっとこの東京が呼んだのね……この東京の意志とも言うべき何かが――」
「……どうしたの、葵さん?」
いきなり話の方向が変わってしまった。戸惑いつつも声をかける龍麻だが、返事はない。
しかし、気になる事を言った。東京の意志――何の事だろう。ふと、師である男の言葉が思い出される。自分の《力》を必要とする者のため、東京へ――真神へ行けと言った鳴瀧。彼の言葉と何か関係があるのだろうか。
「私――もっと強くなりたい。心も、身体も……。そうすれば、きっと……」
「あの、葵さん?」
肩に手を置き、揺さぶってみる。それでようやく葵は顔を上げた。
身長は龍麻の方が高い。自分を見上げるやや潤んだ瞳、桃色に染まった頬に、龍麻の心臓が跳ね上がる。
(な、泣く……!? どうしよう、僕また何か変な事を言ったんじゃ……)
桜ヶ丘での一件を思い出し、思いっきり勘違いをするが
「龍麻くん……私、あなたの事――」
続く言葉がその可能性を否定した。いくら鈍い龍麻でも、ここまで言われれば今がどういう状況なのかくらいは何となく見当が付く。そのため余計に頭が混乱しかけるが――
「……! 誰だっ!?」
幸か不幸か、いきなり湧いた複数の気配に龍麻は声を発した。葵の方もそれで我に返り、周囲を警戒する。
「あなたたちは……」
現れたのは鬼道衆の忍軍だった。忍装束の色は、まちまちだ。五人衆が斃されたので、部隊が統合されたのだろうか。
「緋勇龍麻と美里葵に相違ないな……」
下忍の一人が確認してくる。が、その必要もないはずだ。彼らの放つ殺気が、こちらをどういう対象として捉えているのかを物語っている。
「葵さん、下がって」
「龍麻くん……」
葵を庇うように龍麻は前へ出る。が、背後にも別の気配が生まれた。同じく殺気を放っているところを見ると、こちらも鬼道衆のようだ。
「その命……我らが鬼道衆が貰い受ける――ッ!」
「させるかっ! 葵さん、僕から離れないように!」
それぞれの得物を持ち、下忍達が襲いかかってくる。とにかく今すべき事は、正面を突破して挟撃を避ける事だ。
「破あぁぁっ!」
今更雑兵に手こずる龍麻ではない。両の手に《氣》を凝縮し、正面に向けて放つ。水面に広がる波紋のように《氣》の塊が弾け、それに接触した下忍達が吹き飛んだ。
「葵さん、こっちへ――って、葵さん!?」
そのまま突破しようとした龍麻だったが、葵に動きはなかった。いや、そうではない。鬼道衆の方へ向き直っている。
(いつまでも頼っていては、護られてばかりでは駄目……龍麻くんの負担を少しでも減らしてあげたい……だから……!)
今までずっと思っていた事。治癒・支援の《力》だけでなく、自分も龍麻と、皆と共に闘いたい。攻撃の手段を持ちたい。その願いが届いたのか、つい最近、葵は自分の《力》を自覚した。まだ使った事のない《力》だ。不安がないと言えば嘘になるが、十分戦闘に使える。そう確信できる。
「神に仕える大いなる力!」
強い意志に満ちた葵の声が高らかに響き、その《氣》が解放された。
「な……っ!?」
葵の能力については把握していたつもりだった。しかし、葵のこの《力》は初めて見る。明らかに攻撃的な《氣》の高まり。
(葵さん、いつの間に攻撃の手段を?いや、そんな事よりも……!)
「四方を守護する偉大なる五人の聖天使よ!」
「葵さん、待って! その《氣》の大きさだと――!」
龍麻が警告を発するが、葵には届いていない。赤、紫、緑、黄、青の光球が葵を取り巻き、その一つ一つが天使の姿を成し――
「ジハード!」
五人の天使が放った光条が、迫っていた鬼道衆もろとも葵の周囲を吹き飛ばした。
「く……うっ……!」
両手を突き出し、《氣》の障壁を展開して龍麻は葵の《力》の余波に耐える。力加減というものがまるでない攻撃だ。自分が見た事のないものだということは、葵も今回初めて使ったということになる。仲間が旧校舎に入る時には、必ず自分がいるからだ。まさか旧校舎以外で試すはずもない。
(加減しろって言う方が無理か……!)
やがて《力》の解放は収まり、龍麻は障壁を解いた。葵の《力》の影響で、アスファルトの道路は捲れ上がり、両脇の民家の塀は粉々になっている。家そのものが範囲外だったのは不幸中の幸いだが、壁にはヒビが走っていた。
もちろん、鬼道衆がそれに耐えられるはずもなく、一人残らず消滅している。
凄まじいの一言に尽きる。これだけの破壊力を生む攻撃を、仲間の何人が放てるだろう。もちろん、今回のは完全な制御下にあったとは言い難いので、無理のない範囲での行使となるともう少し威力は落ちるのだろうが。
当の葵はその破壊の中心に立ち尽くしている。よく見ると震えているようだった。
(本人が一番驚いてる、か。無理もないな)
「葵さん」
背後から肩に手を置くと、電流でも当てられたかのように葵の身体が跳ねる。振り向いたその顔は、死人のように真っ青だった。
「た……龍麻くん……私……」
「言いたい事は分かるけど、とりあえず、この場を去ろう」
突然の閃光と爆発。近所の者に気付かれないはずがない。これ以上の騒ぎは避けたいところだ。葵の手を引き、龍麻は走り出した。
表通りに近い場所で、二人はようやく走るのを止めた。龍麻は自販機で買った烏龍茶を一つは葵に渡し、もう一つは自分の口に運ぶ。
葵の方はあれから口を開こうとしない。
「少しは落ち着いた?」
「……ええ」
幾分顔色も元に戻ってきた葵は、ようやく言葉を発した
「ごめんなさい、龍麻くん。私、また――」
「ストップ」
俯いたまま続ける葵の言葉を、龍麻は遮る。怪訝な表情の葵に
「迷惑を掛けて、とか言うなら聞かないよ」
「でも……」
「まあ、心配はしてるけど。あれだけ高出力の《氣》を放って、身体の方は大丈夫かな、とか。初めて敵に攻撃したから、ショックを受けてないかな、とか」
「……それを迷惑掛けてるって言うんじゃないかしら?」
「僕自身、それで害を被ったわけじゃないから、違うと思うけど?」
と、龍麻はおどけて見せた。が、それも一瞬で再び真顔に戻って問う。
「で、話を戻すけど大丈夫?」
「……ええ。身体の方は大丈夫。少し疲れたけど」
「あれだけの《氣》を放出したら、疲れて当然だよ。初めて黄龍菩薩陣を使った時よりも、はるかに大きい。過剰解放と言っても過言じゃない」
旧校舎で初めて方陣技を発動させた時、葵は《氣》の使いすぎで意識を失った。その後は力加減も分かってきたので同じような事はない。が、先程の《力》の威力は方陣技の比ではなかった。にもかかわらず、彼女の言葉を信じるなら『少し疲れた』程度の影響しか出ていないのだ。
(ここ数日で《力》が上がってる……それも急速に)
龍麻が心配しているのはそこだ。確かに覚醒して以来、葵を含め他の仲間達の《力》は増している。が、急激に《力》が増すのは、あまりいいことではない。《虐殺暴走》後の自分は、芝プールの件で《氣》の膜すらまともに張れなかった。白虎が覚醒した醍醐はその《力》に振り回された。そして今回の葵も同じく。いざという時に《力》が制御できないとなると色々厄介なことになる。それが敵に襲われている時なら尚更だ。
(葵さんの《力》が強くなった理由は何だろう?)
自分の《力》が《暴走》後に増した理由は判然としていない。醍醐の場合は同じ四神との接触、それに龍脈の影響があったからだ、ということで仲間内――と言っても京一と如月だけだが――では納得している。では、葵には何が起こったのだろう?
現時点で思い当たる事は一つしかない。それを確認したかったが、今の葵にそれを聞くのは躊躇われる。とりあえずは様子を見る事にした。
「さて、そろそろ行こうか。待ち合わせの時間まで、もう少ししかないよ」
腕時計を見て龍麻が促すと、葵も自分の時計を確認して頷いた。
「……それじゃあ、その角を曲がればもう、待ち合わせの場所だから……」
「うん」
「……あの……今日は、送ってくれてどうもありがとう。また明日……学校でね」
「うん、それじゃあ、また明日」
挨拶を交わし、葵は表通りに歩いて行く。それを見送る龍麻。
「それにしても、こんな街中で襲ってくるなんて……」
空になった缶を握り潰し、くずかごに放り投げ、後方に点在する気配に意識を向ける。さすがに一般人に姿を見せる気はないのだろう。ここでは手を出すつもりはないらしいが、それを放っておく龍麻ではない。
「いざとなったらマリィもいるし、大丈夫だとは思うけど、無理はさせられないか」
《氣》を戦闘状態にまで高め、龍麻はもと来た道を戻っていった。
翌日9月15日。3−C教室――朝。
「おはよっ――」
席に着いた龍麻の側に、小蒔が寄ってくる。声こそ元気だったが、近付くと同時に小蒔は表情を曇らせ、声を抑えた。
「昨日、葵から電話で聞いたんだけど……ひーちゃん達も鬼道衆に襲われたんだって?」
「うん。そっちもらしいね。他にも報告は入ってる」
昨日は自分達に加えて紫暮、藤咲&高見沢が襲われた。いずれも怪我はなく、無事なようだ。
「昨日は、あれから何もなかったから良かったけど、あんな場所でいきなり襲ってくるなんて、今までなかったよね」
「まったく、ノン気なヤツだぜ……」
そう言って近付いてきたのは京一だ。が、どうも様子がおかしい。その顔には、珍しく疲労の色を浮かべている。
「何が、ノン気なんだよっ!?」
「お前は無事だったんだろうけどな、あの後、俺なんか家に着くまでに、二回も襲われたぜ」
きつい口調で問い詰めるが、京一の言葉に小蒔は目を見開いた。自分は三人一緒の時に一度きりだったからだ。
「そ、そうなの……?」
「それだけじゃねぇ。家に着いてからも、しばらく辺りを彷徨いてやがった。下手に気を抜くと、寝首を掻かれそうだぜ」
つまり、昨晩はロクに眠れなかったのだろう。不機嫌そうに京一は吐き捨てる。
「そんな……ボク……全然気がつかなかったよ」
「無理もないさ」
落ち込む小蒔を弁護するかのように別の声が話に加わった。言うまでもなく、醍醐だ。
「奴らは、巧妙に気配を殺し、俺達の周りを取り囲んでいる。姿こそ見ていないが、俺も昨日から尾けられている。今、来る途中も気配を感じたからな……」
「いつでも、俺達を殺れるってわけか……やっぱ、ひーちゃんの方も来たのか?」
問う京一に、龍麻はあっさりと答える。
「うん。葵さんと一緒に襲われたのが一回。その後で葵さんを狙って隠れてた連中と一戦。その後帰る途中で二回。で、家に着いてから道場に殴り込んできたのが一回。計五回かな」
「……さらっと答えるなよ、そんなコト」
仲間内で一番多い襲撃頻度だ。まあ、そのうち一回は葵に向かうはずだった敵なのだが。
「しかし、何でこうも差があるんだ?」
「危険度の高い奴を狙ってるんだろ。ま、ひーちゃんは指揮官だし、仲間内では最強だからな。きっと、連中のブラックリストのトップに名前があるんだぜ」
もっともな醍醐の疑問に京一が答えた。危険度云々というのはあり得ない話ではない。実際にそんなモノ――リストがあるのかどうかは不明だが。
「おはよう――」
「あっ、葵。おはよっ」
そこへ最後の一人が到着する。明るく挨拶を返す小蒔だったが
「……どうしたの? なんか、顔色悪いよ」
と葵の状態をを指摘した。今回は葵もそれを隠そうとはしなかった。
「ええ……少し体調が優れなくて……でも、平気よ。家で薬も飲んできたし。今日の放課後は最後の不動に行くんですもの。私だけ休んではいられないわ」
「でも……」
「心配しなくても連れて行くよ。葵さんがそう望む限りはね」
何やら言いたげな小蒔だったが、龍麻が機先を制する。龍麻としても無理はさせたくないが、彼女の意志を尊重するつもりだ。最後の宝珠の封印。全てが終わったわけではないが、鬼道衆との闘いが始まってからの、一つの節目なのだから。
「そうか……美里、くれぐれも無理はするなよ。鬼道衆の奴らも、不審な動きをしているようだしな」
「ええ……」
醍醐の言葉に葵が答える。と同時にチャイムが鳴った。教室が慌ただしくなる。
「じゃ、話の続きは休み時間にっ」
小蒔が席に戻っていく。京一と醍醐もその場を離れる。そこへ
「龍麻くん……」
隣の席の葵が呼びかけた。
「あの……龍麻くんに相談したい事があるんだけど……後で聞いてくれる?」
「うん、いいよ」
躊躇いがちな葵の言葉に、龍麻は即答する。ようやく決心がついたか、といったところだ。相談の内容は恐らく「例の件」だろう。
「よかった……龍麻くんに聞いてもらえれば、私も心強いもの」
余程嬉しかったのか笑顔を浮かべる葵を視ながら、龍麻は先の自分の言葉を思い出す。葵が望む限り連れて行く、そうは言ったものの、彼女の弱った《氣》を視ていると、それが正しい判断なのか、分からなくなってしまっていた。
「――それでは、今日はここまでにしましょう。クラス委員長は、ノートを集めて職員室まで持って来て」
一時間目終了のチャイムが鳴り、マリアは教壇の上を片付けながら告げる。しかし、返事はなかった。
「委員長――美里サン?」
「あっ……はい。すいません……」
再度の呼びかけに、葵は我に返る。その様子にマリアが眉をひそめた。
「……どうしたの?顔色が悪いわ」
「い、いえ……」
何でもありません、と続けようとした葵だったが、マリアの方が行動が素早い。
「副委員長。美里サンの代わりにノートを集めて。美里サン――あなたは、保健室へ行きなさい。いいわね?」
珍しく有無を言わさぬ口調でそう言うと、マリアは教室を出ていった。と同時に喧噪が教室内を満たす。そんな中、小蒔が葵に近付いてくる。
「葵――やっぱり具合が悪いんじゃないか……ボクがついていってあげるから保健室へ行こっ」
「ええ……ごめんね、小蒔」
心底済まなそうに謝る葵に、小蒔は照れながら、気にしなくていいよと返す。それから龍麻の方を見て
「ほら、ひーちゃん――ボケッとしてないで、キミも手伝ってよ」
と振ってきた。
(事ある毎に、僕を葵さんの側に置こうとしているのは気のせいだろうか?)
などと勘ぐってしまう龍麻だが、小蒔の思惑はその通りだったりする。
個人の感情はともかくとして、龍麻が仲間からの信望が厚いのは周知の事実だ。そんな龍麻だから、仲間達も気軽に彼に相談を持ちかける。優等生としてのイメージが強く、大抵の事なら自分で何とかしようとしていた葵ですらも、その姿勢は崩れ、人に頼るということを覚えた。その変化の原因は龍麻だ。彼なら何とかしてくれる、誰もがそう思える何かを龍麻は持っているのだ。
龍麻が転校してくる前までは、葵の相談役と言えば自分だった。正直、少し寂しい気もするが、葵が本音を出せる人間が自分以外にいるという意味では嬉しかったりする。
……まあ、それ以外の思惑――龍麻と葵の関係について――があるのも否定しないのだが。
話は戻って――
「ボケッと、って……手伝うって言っても、付き添うくらいしかできないけど?」
「いいのいいの。指揮官殿が付き添うだけで、葵だって安心できるんだから」
「……何か釈然としないなぁ……」
と言いつつも、先の約束の件もあるので、龍麻はそれを断りはしなかった。
保健室。
「あれ? 誰もいないや」
室内を見回すが、小蒔の言葉通り誰もいない。
「ま、いいか。葵、とりあえず、ベッドに横になってなよ」
誰かいたところで、葵を休ませる事に変わりはない。小蒔が葵をベッドに連れて行く。
「……ええ。ごめんね、小蒔。龍麻くんも……」
「なにいってんだよ。余計な気を遣わないのっ。ゆっくり休んでなよ」
龍麻は何をするでもなく、窓に目を向けていた。そこから見える空は青ではなく、薄い雲に覆われている。
(一雨くるかな……)
「ひーちゃん。ボクは教室に戻るけど、ひーちゃんはどうする?」
小蒔の問いに少し考えるフリをする。答えは出ている。出ているが……何故かにやけている小蒔を見ると……即答するのは躊躇われた。だから間を置いて答える。
「ん、残るよ」
「そっか……それじゃあ、ボクは戻るよ。葵のコト、よろしく頼むね、ひーちゃん。二人っきりだからって、変なコトしちゃダメだよ」
ニシシと笑う小蒔だが、その言葉は龍麻の予想範囲内だった。だから、龍麻も負けずに冷めた目で言葉を返す。
「……小蒔さん。最近のそういうところ、京一そっくりだね」
「へ……!?」
小蒔の目が点になった。
「き……京一と同じ……」
余程ショックだったのか、何やらブツブツ言いながら小蒔は保健室を出て行く。それを見送り、龍麻は葵の隣のベッドに腰掛けた。
「心配してくれてありがとう、龍麻くん」
「気にする事ないよ。さて、本題に入ろう。朝、言ってた相談の事。多分、夢の事じゃない?」
その言葉に、葵の表情が驚きに染まった。それはそうだろう。普通なら分かるはずのない事だ。
「ど、どうして……?」
「人に聞いてね。最近、葵さんに介入してる奴がいるって」
直接名は出さず、そう答える。
実のところ、その情報源は嵯峨野だった。墨田の事件以来、桜ヶ丘に入院している嵯峨野だが、龍麻とは夢でよく会っているのだ。その彼が、最近葵に干渉する者の存在を教えてくれた。
嵯峨野はそれを排除しようとしたが、彼の《力》ではそれも叶わなかったそうだ。そのまま殺されていてもおかしくない状況だが、向こうは嵯峨野に興味を示さなかったらしい。ただ、単に夢を見せているだけで、直接葵の身体を蝕むものではないようなので、それ以上は危険だから手出し無用ということで、その犯人の姿形だけを教えてもらっている。自分と同じ高校生だという事は判明した。
恐らくは鬼道衆の頭目、九角であろう。根拠はないが、この時期に自分達にちょっかいをかけてくるのは鬼道衆くらいだ。
「龍麻くんの言う通り……最近不思議な夢を見るの。着物を着た女の人や、お侍さんのような人が出てくる夢。断片的だけど、とても、懐かしい感じがするの。とても……」
夢の内容について葵が話し始める。
「でも、目が覚めて、詳しく思い出そうとすると、胸が締め付けられて、涙が止まらないの……それが、何でだかは分からない……でも、確かに私はその光景を知っている。ただ――それを思い出したら、私はみんなとは、一緒にいられない気がするの……」
「……」
「龍麻くん……もし、私がいなくなったら、どうする?」
悲しそうな表情を向け、葵がそう問いかけてくる。質問、というよりは何か確信めいたものがある、そんな口調だ。
「それは……状況によるよ」
しばしの沈黙の後、龍麻は口を開いた。
「もし、攫われたのなら、何があろうと救い出す。引っ越してしまうとか、納得できる理由があるなら、今の僕には何も言えない。でも――」
そこで一旦言葉を切り、葵に真剣な眼差しを向け
「何も告げずに黙っていなくなるのなら、その時は捜し出して問い質す。後はその返答次第。……一度黙って出て行った僕が言う事じゃないかも知れないけどさ、それだけは駄目だよ」
言い終えた後で、龍麻のその表情が悲しげなものに変わる。
「ごめんなさい。こんな話をして……」
(でもいつか、そんな時が来る気がする……)
夢を見るようになってから、何故かそんな事を思うようになった。そしてその不安は、日が経つにつれて強くなっていく。
その不安を振り払うように、そして龍麻にこれ以上心配を掛けないように、葵は努めて明るい笑みを見せた。
「ありがとう、龍麻くん……少し休めば、良くなると思うから。私は大丈夫だから、龍麻くんも教室へ戻って」
「分かった。でも、無理はしないようにね。あんまりひどいようなら、連れて行かないよ。それが嫌なら今はゆっくり休んで」
念を押して、龍麻は保健室を出て行く。
「龍麻くん……ありがとう……」
投げかけられたその言葉は、ドアを閉める音に遮られ、龍麻の耳に入る事はなかった。