9月7日早朝――目黒不動。
 この季節になると、さすがに早朝という時間は肌寒くなりそうだが、まだまだ涼しいと言える気温だ。そんな中、龍麻達は紫暮の案内で目黒不動――下目黒瀧泉寺へとやって来た。
「悪かったな、紫暮。こんな朝早くに――」
「ここは俺の地元だ。これぐらいの事で気を遣うな」
 醍醐の言葉に、紫暮は豪快な笑い声を返す。
「それに俺も、朝の稽古のついでに案内しただけだしな。それより、お前ら男三人だけとは珍しいな」
「まっ、たまには男の友情を確かめ合うのもいいもんさ」
 おどけた調子で京一が言った。
 今日は女性陣はいない。全員で行く必要もないだろう、ということで前線要員の三人が出向いただけの事だ。別段、深い理由はない。
「では、俺はもう行くが。また、何か困った事があれば、いつでも相談してくれ」
「うん。ありがとう、兵庫」
「うむっ。俺でよければ、いつでも言ってくれ。じゃあなっ、また会おう」
 そのまま紫暮は走って行った。このまま学校に向かい、朝練に精を出すのだろう。相変わらず、おおざっぱなヤツだな、と京一が呟くのが聞こえた。
「さてっ、と――俺達も急ごうぜ。さっさと、祠を見つけて宝珠を封印しちまおう。ってことで、頼むぜひーちゃん」
「何を言っている。俺達も手分けして探すんだ」
 ぽん、と龍麻の肩に手を置いた京一に、醍醐が口を挟む。そういえば、醍醐は祠の件について何も知らなかった事を思い出す。
「あのな、祠ってのは目に見えないんだよ」
「見えない?」
「ああ。結界で隠されてるんだ。だから、ひーちゃんに頼らざるを得ないのさ」
「珠が祠に近付けば、何らかの反応はあるんだけどね。狭い場所ならともかく……」
 と龍麻は周囲を見回した。目黒不動は、五色不動の中でも最大規模だ。この広大な敷地を、宝珠を片手に行ったり来たりするのは効率が悪い。
「まあ、もう見当は付けたから、そっちへ行ってみよう」
 正面の石段を上がっていく龍麻に、京一と醍醐の二人は黙ってついて行く。
 本堂の横に廻ったところで龍麻は足を止めた。確認の意味で宝珠を取り出すと、淡い光を放ち始める。
「ここに間違いねぇようだな」
「みたいだね」
 作業に入る龍麻。待つ事十数秒――祠が姿を現した。
「こいつが、鬼を封じていた場所なのか……しかし龍麻、お前いつの間にそんな技を……」
「まあ、男には色々秘密があるものだよ」
 感心する醍醐に軽口を叩いて、龍麻は宝珠を祠に収めた。幾度かの明滅の後、例によって足下に何かが出現する。
「何だ、埴輪じゃねぇか」
「遮光器土偶だって……」
 思いっきり勘違いをしている京一に、龍麻のツッコミが入る。
「土偶と埴輪の区別くらい、小学生でもできるよ。京一、もっと勉強しようね」
「……」
「しかし、どうしてこんなものが?」
 確かに宝具パオペエだの刀だの、そして今回の土偶だの、不動に関係ある物ではない。醍醐が不思議に思うのも当然だ。
「いいんじゃねぇの? 珠を運んでやった手間賃だと思えば」
「お前な……」
 足下の土偶を拾い上げ、あっさりと京一。こういった事を簡単に受け止められる京一が、醍醐にはどうも納得できない。普通はもっと困惑するものではないか? そんな醍醐の肩に、龍麻はぽん、と手を置いた。
「深く考えたら負けだよ、雄矢」
「そうだな……。しかし、奇妙な話だ」
 再び龍麻が張った結界のせいで、見えなくなっている祠の方に目をやり
「鬼道衆が封印を解いたのなら、何故わざわざ祠を隠したんだろうな?」
「うーん……仮説だけど、斃された時の事を考えてたんじゃないかな。再び封印されないように」
「確かに……封印されない限り、取り戻す機会はある。そんなところだろうな」
 今まで珠を封印できたのは、龍麻が結界を感じる事ができ、また、それを張る事ができたからだ。そうでなければ祠の位置も分からず、自分達では封印などできなかっただろう。
「さて、それより学校に行こうよ」
「……そうだな。まだ一時限目には間に合うだろう」
「別に急ぐこたぁねぇだろ。もっとのんびり行けば――」
「「却下」」
 やる気のない京一に、二人は声を揃えて言い放った。



 3−C教室。
 チャイムと同時に龍麻達は教室へと飛び込んだ。ギリギリセーフだ。
「ふー、やれやれ。けっこう、遅くなっちまったな」
 自分の席に着いて、京一は机に突っ伏した。そこへ呆れたような醍醐の一言。
「当たり前だ。お前が、飯でも食ってこうなんて言わなければ、あと三十分は、早く着いている」
「だって、腹減ったんだからしょーがねぇじゃねぇかっ。それに、お前だってしっかり食ってただろうが」
「温かいご飯じゃなきゃやだなんて言って、店に入ったのは京一じゃないか。パンでも買ってくれば、教室でゆっくり食べれたのに」
 などと三人の不毛な言い合いが続くなか、小蒔がこちらへやって来る。
「おっはよーっ。ずいぶん、遅かったね」
 挨拶を交わし、時計を見ながら小蒔が言った。
「ああ、京一がな――」
「何で俺のせいにすんだよっ」
 醍醐の視線に、京一が口を尖らせる。が、醍醐の有無を言わさぬ次の一言で沈黙する。
「お前のせい以外、何があるって言うんだ?」
「きょーいちぃ。あんまり、醍醐クンとひーちゃんの足、引っ張るなよ」
 更にそこへ、指を突きつけた小蒔の追い討ちが入る。京一はそのままふて腐れてしまった。
「そうそう――そんなコトより、珠はちゃんと封印できた?」
「うん」
 京一の事はもうどうでもいいのか、小蒔は龍麻に尋ねる。簡潔に回答する龍麻に、小蒔はお疲れさまと労いの言葉をかけた。
「そういえば、美里の姿が見えないな……まだ来てないのか?」
 と、醍醐が教室を見回す。用事があって遅れて来た自分達よりも遅いとは。小蒔も表情を曇らせる。
「う、うん……ボクも心配してたんだ」
「別に休むとかいう話は聞いてないんでしょ?」
「うん。そういう時は、ボクに連絡くれるし――」
 そこへ――
「大変よ大変よっ! 事件事件っ!」
 盛大な音と共に扉を開け、アン子が飛び込んできた。龍麻達の――いや、3−Cの生徒全員の視線がアン子に注がれる。
「なんだよ……新聞部が廃部にでもなったか?」
 息を切らせているアン子にそんな事を言う京一。瞬間、容赦ないアン子の平手が炸裂した。
「あたー」
「お、お前なぁ……」
 小蒔は額を抑え、京一は身を起こして反論しかける。このままでは埒が明かないので醍醐は騒ぎになる前に話を戻した。
「どうかしたのか、遠野?」
「それが、大変なのよっ」
「だから、どーしたのさ、アン子。少し落ち着きなって」
 どうやら本人も混乱しているようで、言葉は要領を得ない。小蒔に言われ、その場で深呼吸。そして落ち着いたと同時に
「美里ちゃんとマリア先生が……誘拐されたのよっ――!」
 その言葉によって、一瞬にして教室が騒がしく――ならなかった。逆に、静寂が訪れる。
「誘拐?」
 醍醐が首を傾げる。言葉の意味が分からないわけではない。ただ、余りにも唐突で、頭がそれを理解しないだけだ。クラスメイト達も同様に、呆然としている。
「ねっ、アン子! それホントなのっ!?」
 一方、すぐさま反応したのは小蒔だった。親友が誘拐されたとあっては落ち着けという方が無理だろう。
「ホントも何も、あたしがこの目で見たのよっ! 外国人の……まだ、少年だったと思うんだけど、その二人が――」
「遠野さん」
 捲し立てるアン子に声をかけたのは龍麻だった。
「いくら最近、事件がないからって……捏造はどうかと思うよ?」
「な……何を言ってるのよっ!? あたしは確かに――!」
「彼女、体調を崩したから病院へ行くってさ。マリア先生が引率で。さっき、連絡があった」
 携帯を掲げて龍麻は席を立つ。そのままアン子に近付くと
「だから、みんなを惑わすような事を言ったら駄目だよ。……一応、犬神先生に説教でもしてもらおうか」
「ちょ……ちょっとおっ!?」
 連行して教室を出て行ってしまった。
「まったく、アイツはいつもああだ……」
「アン子ぉ……」
 教室に、先程までの騒がしさが戻ってくる。龍麻の言葉を鵜呑みにしたのか、京一と小蒔は呆れ果てていた。が、そんな二人に呆れている者が一人。
「お前ら本気で言ってるのか?」
「何がだよ?」
「遠野が来る前に、俺達が何を話していたのか忘れたのか? それに、京一。龍麻がいつ携帯で電話を受けた?」
 言われてみれば、確かに。龍麻とは朝からずっと一緒だった。今日の彼は一度も携帯を利用していない。
「……ってことは……」
「何? 二人とも何を言ってるの?」
 ようやく事態が飲み込めた京一とは対照的に、小蒔はいまだに頭を捻っていた。
「遠野の言った事は本当だ。だから、龍麻は遠野を連れて教室を出た」
「えっ!?」
 再び声を上げようとした小蒔を醍醐が制する。自分は声を落として、二人を交互に見ると
「つまり、だ。あの場で遠野が発言を続けていたら、クラス中が、いや学校中が騒ぎになる。だから、龍麻はあれ以上何も言わせずに遠野を隔離したというわけだ」
「そんなところだろな。……しっかし醍醐。お前、よくそれが分かったな? ひーちゃん、何か合図でもしたか?」
 自分達はすっかり騙された。しかし醍醐だけはそれに気付いている。不思議に思って京一が問うと、醍醐の方も首を傾げている。
「さあ……何でだろうな」
 ただ、あの時――龍麻の《氣》の乱れというか。彼の焦り、不安、そういったものを確かに醍醐は感じ取っていた。だからだろうか。


 真神学園――新聞部部室。
「ちょっと龍麻君! 一体どういうつもりなのよ!?」
 到着するなりアン子は龍麻にかみついた。事件捏造などと言われた挙げ句にいきなりこんな所に連れてこられては腹も立つ。
「いくら何でも、あたしが事件の捏造なんてするわけないでしょ!? これでもあたしは――!」
「真実を追究する未来のジャーナリスト、でしょ?」
 先に言われて、アン子は言葉を詰まらせる。龍麻の放つ重圧のようなものが口を開かせなかった。
「でもさ、そう言うならもう少し状況を理解してから発言しようね」
 この感覚をアン子は知っている。つい先日、嫌というほど感じた龍麻の怒気だ――あの時よりはかなりマシだが。
「みんながいるのに、あんな大声で……これで騒ぎが広がったら、どうするつもり? 責任が取れる? 情報を提供する側なら、その影響をよく考えてからにしないと」
(な、なんで龍麻君って、あたしには冷たいのよぉ……)
 結論から言えば、全てアン子の自業自得だ。別に龍麻はアン子を嫌ってはいない。ただ、最近の彼女の行動が、尽く龍麻の気に食わない事だったというだけの話だ。躍起になって龍麻を調べようとしていた人間が、一番龍麻の事を分かっていないのも皮肉な事だが。
「まあ、そんな事はどうでもいいや。話を元に戻そうか」
 龍麻は部室の端に置いてあったホワイトボードを引き寄せると、そこにあるペンを手に取り、キャップを外した。
「で、まずは犯人の数と特徴」
「う……と、みんな外国人だったわ。そのうち二人は黒スーツで、後の二人が少年。一人が黒人で、もう一人はロシア系の男の子。こっちは学生服を着てたわ」
 アン子の証言を、龍麻は白板に記してゆく。
「移動手段は?」
「黒塗りの高級車」
「ナンバーは?」
「え、っと……」
「……車種……」
「……」
 そこまで気が回らなかった。というのも写真を撮るのに集中していたからだ。そのカメラもいつの間にやら壊れている。今の龍麻に、正直にそんな事を言ったらどうなるか――
 冷や汗を流しながら押し黙るアン子。龍麻は大きく溜息をついた。
「それじゃあ――」
 気を取り直し、再び質問を始めようとした龍麻だったが、そこへ京一達が入って来る。アン子にとっては救いの神にも見えただろう。
「みんな……」
「俺達をのけ者にするなんて、なしだぜ、ひーちゃん」
 いつもの調子を崩さない京一。普段ならこれで気まずい雰囲気も吹き飛ぶのだが、今回ばかりはそうはならなかった。
「その時の状況を」
 京一には取り合わず、龍麻はアン子に向き直る。京一は何か言いたげだったが、醍醐が白板を目で指したのに気付き、おとなしく手近の席に座った。
「美里ちゃんとマリア先生は一緒に歩いてたの。そこへ急に車が来て、二人を無理矢理乗せて連れ去ったのよ。ミサトアオイ、って言ってたのが聞こえたから、多分、狙いは美里ちゃんね。マリア先生はそれに巻き込まれた可能性が高いわ」
 この状況から一刻も早く逃れたいのか、アン子は早口で説明する。龍麻は気にした風でもなく、簡潔に情報を書き記す。
「外国人の少年二人組か……営利目的の誘拐か?」
 白板の情報を整理しながら、醍醐が呟く。外国人の窃盗団がいる昨今だ。誘拐団がいてもおかしくはない。が、龍麻もその可能性は考えていたらしく、それを否定する言葉を発した。
「雄矢、多分違うよ。営利目的の誘拐なら、余計な人間を巻き込んだりはしない。葵さんが一人の時を狙うはずだよ」
「言われてみればそうだな。となると……」
「醍醐クン……まさか、鬼道衆が……」
 そう言ったのは小蒔だ。確かに現時点ではそれが一番可能性が高い。自分達が邪魔になり、直接手を出してきたというところか。
「くそっ、今度は、美里を狙って来たか」
 忌々しげに、醍醐が拳を自分の手に叩きつける。そこへ
「それなんだけど、鬼道衆じゃないかも知れないわよ」
 と、アン子が何やら取り出し、机の上に置いた。
 バッチ、なのだろう。黒字に赤の鉤十字。
「誘拐犯が、落としていった物なんだけど……」
「なんだこりゃ?」
「校章みたいだけど……」
 京一と小蒔はそれが何であるのか分からないようだ。が、醍醐はそれを知っていた。横目で龍麻を見ると、どうやら彼もそれは知っているらしく、表情を歪めている。
「ハーケンクロイツに似てるな」
 鉤十字。ドイツ――ヒトラー時代の象徴。ナチスのシンボルともいえる紋章だ。
 戦後の今でも、ドイツではナチスの勢力は馬鹿にできない。俗にネオナチと言われているのがそれだが、今回の件をそこに結びつけるのは早計だ。第一、彼らが葵を狙う理由が全く分からない。
 それに、この鉤十字はナチスのそれとは違う。もし同じものなら、鏡で映したように逆になっていなければならない。そこが龍麻と醍醐が気になった点だ。
「とりあえず、これを手掛かりに当たってみるしかないわね。これだけ特徴的な物は、そうないでしょ」
 やるべき事は見つかった。まずはこれの正体を探る事だ。
 さっそく龍麻達は手掛かりを求めて動き始めた。



 真神学園――新聞部部室。
「――あぁっ! ないっ、ないっ、ないーっ!」
 手にした資料を放り投げ、アン子は悲鳴を上げた。
「小学校、中学校、高校、大学、公立、私立、総合学園――もおっ、どこなのよっ!?」
「全国会社便覧……こっちもないみたい」
「ああ、こっちもだ。新聞、雑誌……きりがないな」
 小蒔と醍醐も、調べる手を止めて溜息をつく。
 新聞部にあった資料、そして図書室から拝借してきた資料。現在のところ、有力な手掛かりは全く見つからない。
「まあまあ、ちょっと落ち着こうぜ。おい、アン子。ここって確か、ポットと急須があったろ? この蓬莱寺京一サマが、茶を煎れてやっからよ」
「あら、気が利くじゃない――って、アンタさっきから何もしてないじゃないのよっ!」
 京一の言葉に、礼を言いかけたアン子だったが、その事実に気付き、怒鳴った。が、京一はこたえた様子もない。
「いや〜、俺なんかどうせ役に立たねぇしよ。おい、ひーちゃんも少しは休憩しようぜ、なっ?」
 部屋の隅に座って資料に目を通していた龍麻に声をかけるが、返事はない。聞こえてはいるのだろうが、完全に無視だ。
「……お前の気持ちも分かるけどよ、まっ、一息ついて、気を落ち着けろよ」
「これだけ捜してもないんじゃ、少し視点を変えた方がいいかもね。龍麻君も、少し休みましょ。これでも読んで、さ」
 京一に続き、アン子も龍麻を促すが、やはり返事はない。目の前に、最新版の真神新聞を差し出すが、受け取るとそれを脇にどけ、龍麻は再び資料に目を通し始める。
「……ひーちゃん、何だか恐いね。周りが見えてないっていうかさ。葵が夢に囚われた時みたい。醍醐クンの時もそうだったけど」
 様子を窺いながら、小蒔。葵の件で、桜ヶ丘に行った時。醍醐の件では、アン子と接触した時、岩角との戦闘の時。いつもの龍麻とは全然雰囲気が違うのだ。ピリピリしているというか、余裕がない。
「小蒔が攫われた時も、醍醐の時程じゃねぇけど動揺してたぜ、ひーちゃん」
 茶の準備をしながら、京一もそう言った。
「でも、今回のは今まで以上だな。ま、美里が攫われたんだ、当然かも知れねぇけどよ」
 別に龍麻と葵は付き合っているわけではない。だが、葵が龍麻に好意を寄せているであろうコトは、真神組なら感付いている事だし、他の仲間――藤咲などは何かと世話を焼いているようだ。
 龍麻だって、葵の事を意識しているのは間違いない。今まで何かと葵を気に掛けていたし、他の仲間は知る由もないが、アランがライバル宣言してからは、アランが葵にモーションを掛けているのを面白くなさそうに見ていた。
 もっとも、今回の場合はそういった色恋絡みが理由ではない。理由の一部ではあっても。
(龍麻にとって、精神面の支えだからな、美里は)
 品川の件以来、葵は《暴走》の安全装置のような役目を負っている。それはこの間、旧校舎で醍醐だけが龍麻から聞いた。が、今回の龍麻の焦りようはそれを失ったから、だけではないようだ。
(俺や桜井の時とは違う、何か別の理由があるんだろうか? )
 龍麻の苦悩、焦りの感情が、何故かひしひしと伝わってくる。先日、旧校舎で白虎の《力》を使ってからだ。
(相手の気持ちが分かってやれる人間になりたいとは思っていたが……何もできなければ苦痛でしかないな)
 人の感情の影響を大きく受けてしまうという龍麻と葵の苦労が、何となく分かってしまった醍醐だった。ふう、と息を吐いたところで
「みなさ〜ん、お茶が入りましたよぉ〜。さあさあ、休憩しましょっ」
 女性口調で京一が皆に茶を差し出した。
「……気持ち悪いからやめろっ」
「まったく、なにやってんだか……」
 醍醐とアン子が呆れながらもそれを受け取る。そして
「あちっ!」
 受け取った湯飲みを小蒔が取り落とした。零れた茶が湯気を立てながら机の上の新聞や雑誌に染み込んでいく。
「大丈夫か、桜井っ!」
「何やってんだよ、お前は」
「だって、湯呑みがすっごく熱かったんだもん……」
 男二人の正反対の反応に、小蒔は恨めしそうに京一を見て、指に息を吹きかける。アン子は何気に机の上に視線を移し――
「ちょっと、この記事――みんなっ!」
 茶で濡れた新聞の一点で目を留め、皆を呼んだ。さすがにこの時ばかりは龍麻もこちらに反応する。
「今朝の新聞……これがどしたの?」
 指をくわえながら問う小蒔に、アン子は掲載されている記事を読み始めた。
「大田区文化会館にて行われた世界孤児救援バザーは、盛況の内に幕を閉じ、その収益金が財団法人の理事長、ジル・ローゼスさんに手渡された――」
 その記事がどうしたというのだろうか。首を傾げる龍麻達をよそに、アン子は続ける。
「ジルさんは長年、孤児の育成と教育に携わり、自らも、今春、大田区内にローゼンクロイツ学院を創立。世界各国の恵まれない孤児を引き取り、熱心な教育と手厚い保護の元、日々救済に励んでおられる……だって」
 そこまで読んで、アン子が一つの写真を指す。そのジルという男のもののようだが、京一が声を上げた。
「こいつの襟と胸に付いてる紋章、バッチと同じじゃねぇか?」
「あ、ホントだ」
 記事を読む限りではおかしな所はない。が、問題は、誘拐犯が残した物と同じ物をこのジルという男が着けているということだ。
「確かに、鉤十字は梵語(サンスクリット)でスワスティカ――『幸せを呼ぶ者』って意味を持つ、至高神、ヴィシュヌの象徴であるとも言われるけど……どう考えたって一般的にはナチの鉤十字(ハーケンクロイツ)の方が有名よね」
「ローゼンクロイツ学院……孤児達のための、養護施設兼、学校ってとこか。どう考えても胡散臭いな。とにかく、行ってみるしかないだろう。なぁ、龍――」
 言いかけた醍醐だったが、龍麻を見てその口が止まった。
「学院の責任者……学院長……」
 何やらブツブツ言っている龍麻だが、その表情が非常に険悪なものに変わりつつある。
 龍麻は本棚から都内の地図を引きずり出す。不安定な場所にあったため、他の本が崩れ落ちるがおかまいなしに
「遠野さん、その学校の場所は!?」
「え? ……え、と……」
 逆らえないアン子は、電話帳から住所を調べ、地図の一点を指し示す。地図上では何かの工場だが、地図自体は数年前の物だ。今春創立した学園が載っていないのは当然である。
「おい、ひーちゃん!」
 場所を確認し、龍麻はそのまま出て行こうとするが、それを京一が阻んだ。
「一人で突っ走るんじゃねぇよ。少しは落ち着け」
「……落ち着いてる時間なんてない。急がないと手遅れになる」
「手遅れって……何の事だよ?」
「説明してる時間も惜しいんだ。行くよ。話は移動しながらでもできる」
 京一を振り払うと、龍麻は出て行ってしまった。
「おいおい……いくら何でも今回のひーちゃんは異常だぜ。大丈夫なのかよ?」
「それを何とかするのが俺達の……仲間の役目だろう。とにかく俺達も行くぞ」
「うんっ!」
 京一達三人が頷き合い、龍麻を追おうとする。しかし、この場にはもう一人いた。
「よーしっ! 場所も分かった事だし、後は乗り込むだけねっ!」
 そのアン子の発言に、醍醐と京一が呆れた顔をして向き直る。
「アン子、お前は残れ」
「な、何ですってぇ!?」
 アン子の同行を止める、これは毎回のパタンになりつつある。そして、それにアン子が文句を付けるのもいつものパタンだ。
「またそう言って、あたしを置いてくつもりなんでしょっ!?」
「……ひーちゃんの頭の中には、美里を助ける事しかねぇ。それは分かるな?」
 溜息をつきつつ、京一はアン子に説明する。ただ、アン子の方が喧嘩腰のため、まともに取り合ってもらえていない。
「それくらい分かるわよっ! それがあたしを置いていく事とどういう――!」
「まあ、聞けアン子。つまり、あいつは今回俺達の指揮にまで気が回らない。お前の護衛なんぞ、欠片も考えてないぞ。ひーちゃんがあの状態じゃ、俺達にもそんな余裕はないしな。最悪の場合……お前、死ぬぞ」
 死ぬぞ――その一言に、アン子の動きはぴた、と止まった。そこへ醍醐の追い討ち。
「非戦闘員を抱える余裕はないということだ。それに、今の龍麻は冷静さを欠いているからな。学院に着いた途端にいきなり暴れ出す可能性もある。あいつが本気になったら、誰にも止められん」
(今の龍麻の状態なら、いつ《暴走》してもおかしくない。ただでさえ《氣》に免疫のない遠野が、強力な《陰氣》を受けたら、壊れてしまうかも知れないしな)
 そんな場所にアン子を連れて行くわけにはいかない。
「アン子。アン子は学校の方を頼むよ。二人が誘拐されたコト、適当に誤魔化しといて。騒ぎになったら大変だし」
 小蒔の説得もあって――結局アン子は折れた。



「ねぇ。そろそろ説明してよ、ひーちゃん」
 動き出した電車内で、小蒔は龍麻に話しかける。正直、話しかけるのも抵抗があるのだが、このまま何も分からぬまま龍麻について行く事はできない。
「今回のひーちゃんはいくら何でもおかしいよ。葵が心配なのは分かるけどさ」
 待つことしばし
「……今回は、小蒔さんや雄矢の時とは状況が違う」
 ようやく龍麻は重い口を開いた。
「小蒔さんの時は、人質としての役割があった。だから、必要以上の危害を加えられる可能性は低かったんだ。結果論だけど、どのみち凶津には、誰も殺すつもりなんて無かったし。雄矢の失踪の時は、向こうに雄矢を利用する意志があったから、少なくとも命に関してだけは心配なかった。でも……」
 ギリ、と吊り手脇の支柱を握る龍麻の手に力が入る。
「今回は……葵さんは違う」
「……よく分からねぇな。美里が目的なら、その時点で身柄は安全じゃねぇのか?」
 首を傾げる京一だったが
「営利誘拐、それも相手がプロならね。でも、もし目的が葵さんの《力》そのものだとしたら?」
 次の言葉で目を見開く。《力》そのもの。つまり《力》が行使できるのなら、あるいはデータが取れさえすれば、葵の身がどんな状態になっていても構わないということだ。
「それと、もう一つ。僕が品川で拉致された時、死蝋が電話で話していた相手がいる。同じように《力》について研究、実験をしている奴で、死蝋はそいつを学院長と呼んだ。今回、誘拐犯の残したバッチと同じ物をしていたのがローゼンクロイツの学院長……できすぎてると思わない?」
「そ、それって……!」
 どうやら想像してしまったようだ。小蒔の顔から血の気が失せていく。
「葵さんが人体実験に使用される可能性は極めて高い。連中が被験者モルモットをいつまで大事にするかは彼ら次第」
「そ、そんな……!」
「それに、そんな連中が、用のないマリア先生をいつまで生かしておくか。……これが今回時間がないって言った理由」
 よくよく考えてみれば、誘拐されたのは葵だけではなかった。マリアもいたのだ。その存在をすっかり忘れていた京一達である。龍麻の態度の変化から、葵の事にしか気が回っていないように見えたのが原因だが。
 が、龍麻は口ではそう言ったものの、マリアについてはあまり心配していない。正体までは未だ見極められないが、あれでも人外の者だ。もちろん心配していることに変わりはない。葵程ではないが。
(いざとなったら魅了の目(チャームアイ)でも使って危機を脱するだろうし。でも、葵さんの手前、迂闊には動けないだろうな……彼女が葵さんを救い出してくれるのが一番だけど……そうはいかないか。間に合えばいいけど……!)
 自分がいつもの状態でないのは分かっている。何とか冷静さを取り戻したい龍麻であったが、それは叶いそうになかった。心を静めるどころか、今の龍麻は力加減すら制御できていない。掴んでいた支柱は、龍麻の握力によってしっかりと手形が残っていた。



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