3−B教室。
 下に降りて葵達と合流する。授業が終わったばかりなので教室は騒がしい。
「アン子いるかなぁ……?」
 いつも事件を追いかけている彼女のことだ。授業をエスケープすることも珍しくはないだろう。が、幸いな事に今日は授業に出ていたようだ。
「アン子ーっ!」
 小蒔の呼びかけに気付いたのか、アン子がこちらを見た。
「あら、お揃いで――珍しいじゃない。どうしたの?」
「遠野さんの力を借りたくてね」
 教室から出てきたアン子に、簡潔に用件だけを伝える。もちろん内容にまでは触れていない。
「今から?」
「ええ」
 なるべく顔に深刻さを出さないようにして、葵。が、それが裏目に出た。
「……んー、弱ったわねぇ。今、ちょっと忙しいのよね」
「アン子ぉ……」
「お願い、アン子ちゃん」
「困ったわねぇ……新しいパソコンが一台あれば作業がはかどって、時間が取れると思うんだけどなぁ」
 事もあろうに、そんな事を言った。さすがに二の句が継げない龍麻達。
「いやぁ、惜しい……うちのパソコンが遅いばっかりに相談に乗れなくて……ほんっと、残念だわぁ」
 まさかこんな展開になるとは誰も思っていなかった。
 しばらくの沈黙の後、溜息をつき、葵は言った。
「次の生徒会の予算案に組み込んでみるわ……」
「え!? ほんとっ!?」
「ええ、約束するわ」
 はっきり言って、生徒会長としては間違った決断だ。が、今回ばかりは仕方ない。
「いやぁ、悪いわね。催促したみた――」
 バンッ!
 次の瞬間、B組に面した廊下のガラスが尽く砕け散った。そればかりか、壁、床、天井にも無数の亀裂が走っている。
 原因は――
「た、龍麻くん……?」
「ひ、ひーちゃん、落ち着いて!」
 龍麻は無表情でそこに立っていた。が、その身に纏う《氣》の色は言うまでもない。膨れ上がった《氣》が衝撃波となってガラスを砕いたのだ。本来なら全方位に放出されるはずだが、それでも全て背後――人のいない方に向けた辺り、理性は残っている。
「葵さん、生徒会長がそんな事言うのはちょっと問題があるんじゃない?」
「え、ええ……それは分かってるけど……」
 野次馬が廊下に集まってくる中、さすがに《氣》は抑えて、龍麻はアン子に向き直る。
「遠野さん」
「な、なに……?」
「パソコンが欲しいなら、僕が組んであげるよ。お望みの性能でね。もちろん予算はこっちが持つから」
「あ、あう……」
「どうしたの? 人の足元を見ておいて、今更遠慮なんてらしくないよ」
 龍麻の表情に変化はない。声も荒くなく、静かなものだ。ただ、そのプレッシャーは、アン子が今までに龍麻から感じたどれよりも強いものだった。
 涙目になり、その場に座り込むアン子。先程までの笑顔はとうに消え失せ、蒼白になった顔は恐怖に歪んでいる。
「あの、ひーちゃん。許してあげてよ。アン子だって、悪気があったわけじゃ……」
 さすがに気の毒になったのか、小蒔が仲裁に入る。そちらを見ることなく龍麻は言った。
「……もし、悪気があって言ったのなら、僕は怒ってるよ。……本気で」
(これでも、本気じゃなかったんだ……)
 背中を冷たいものが走り抜ける。あらためて龍麻を怒らせることの愚かさを認識するが、このままというわけにはいかない。放って置いたら、間違いなくアン子の意識は落ちる。
「と、とにかく! 時間が惜しいから、話は部室でね!」
 引きつった笑みを浮かべて、小蒔はアン子を引っ張って行く。それを見送る龍麻が溜息をついた。《氣》からは怒りの色が消えているが、その表情は暗い。
「龍麻くん……?」
「……ごめん、先に行ってて。頭冷やしてから行くから」
 恐る恐る声をかける葵にそう答え、龍麻は反対方向に歩き出した。


 二時限目を告げるチャイムが鳴る。
 男子トイレの洗面所で、龍麻は何度目かの大きな溜息をついた。
 つい、怒りに任せて《氣》を放出してしまった。しかも学校まで傷つけて。
 あの時怒ったのはお門違いかも知れない。アン子は今の自分達の現状を理解していないのだから。が、感情というのは理屈では制御できない。その結果があれだ。
「どうかしてる……」
 蛇口を大きくひねる。勢いよく出る水に、龍麻は頭を突っ込んだ。
 東京に来てから、どうも感情が高ぶりやすくなったような気がする。以前なら、何を言われようと何をされようと、こんな事にはならなかっただろう。
 高校二年の12月、あの時まで自分は他者との間に壁を作っていた。進んで人に関わることは一切しなかった。しかし比嘉と青葉に出会い、自分は変わった。いや、元に戻ったと言うべきか。「あの事件」から閉ざしていた心を、身内以外の者にも開くようになった。
 東京に――自分の過去を知る者がいない真神に来てからは、《力》の事もあってなるべく他者とは深く関わらないようにするつもりだった。それでも京一達はそんな自分を気に懸けてくれた。
 彼らは掛け替えのない大切な仲間、自分にとって護るべきものとなった。その一人が苦しんでいる。自分と同じような状況で。それなのに――
「龍麻くん」
 廊下からの声に龍麻は再び大きくなりかけていた《氣》を抑えた。
「葵さん……新聞部に行ったんじゃ」
「そうするつもりだったけど、龍麻くんの《氣》があまりにも乱れていたから」
 水を止めて廊下に出ると、心配そうな顔をした葵が立っている。
「今の小蒔よりも酷いわ。……醍醐くんの事が心配なのは分かるけど、もう少し落ち着いて」
「ごめん。こんな時こそしっかりしないといけないって分かってるんだけど……ただ、気になる事があってね。それを思うと、どうしても考えが悪い方に行っちゃうんだ。葵さんも思ったでしょ? 似てるって」
 苦笑して、龍麻は壁に寄り掛かる。
 小蒔から話を聞いて、気になった事がある。様子が急変し、陰の《氣》を纏い、敵を殲滅する。それはまるで――
「ええ……龍麻くんの《暴走》によく似ているわ。でも、龍麻くんの《暴走》は、自衛のためのものだって言ってたじゃない」
 それだけではないと気付いていたが、葵は先を促す為にあえてそう異論を唱えた。
「もう一つ、あるんだよ。自衛の為の《防衛暴走》じゃない、別の《暴走》が」
 以前、確かに龍麻は「《暴走》は無意識の自衛行動だ」と言った。その時はそれしか知らなかった、いや、覚えていなかったから。
「僕が、小学校六年生の時。人には見えないものが視えたけど、まだ普通の人と大差がなかったあの時。……僕の友達が悪霊に斬り殺された」
(マキ、さん……?)
 唐突に龍麻が昔話を始めた。旧校舎で龍麻がうなされていた時、彼の口から出た名前が葵の頭に浮かぶ。
「助けられたはずなのに、危険だって分かっていたのに、僕は何もできなかった。目の前でその娘が斬られたのに、その時は悲しいとすら思わなかった。あるのはただ二つの感情。その娘を殺した悪霊への憎しみ、何もできなかった自分への怒り、それが僕の《力》の覚醒を促した。その時の《暴走》が、品川の件と同質のもの。身を護る為でなく、ただ周囲にいるもの全てを殲滅する――《虐殺暴走》とでもいうべきもの。その時は悪霊一体滅ぼすだけで《力》を使い果たして、身体を壊す事も他の人に危害を及ぼす事もなかったけどね」
 一息ついて、再び苦笑い。
「小蒔さんを傷つけた佐久間への怒り、それが引き金になったんじゃないかな。そういう意味では、今回の雄矢のケースは僕と同じだと思う。ただ……」
 自らの感情に呑まれたのなら、それは龍麻の《暴走》と同じだ。しかし姿が変わるというのは、少なくとも自分にはなかった。
 姿が変わってしまうというのは、あまりいい事ではない。鬼に堕ちた莎草、異形に変えられた水岐達のことが思い出される。一度変わると、二度と生きて人には戻れない。だが、もしも醍醐が堕ちたのなら、その場にいた小蒔が無事に済むはずはない。鬼道云々とは毛色が違うような気がする。
(《力》によるものじゃなく、先天的なもの? となると、獣人とか……でも、日本にはほとんどいないって話だし、それなら犬神先生が気付かないはずはないし、もっと別の何か……)
 色々推測はできるが、こうしていても埒があかない。今必要なのは醍醐の居場所であり、原因を探る事ではない。正直、アン子に協力を求めても、根本的な解決にはなりそうもない。
 この状況で醍醐がどうするか。もしも自分と同じ心境であるなら、彼はどう行動する?
(あの時の僕は、自分の存在を危険視して命を絶とうとした。人目につかない所で。だったら雄矢もそうなのかな。彼に縁のある場所で、人目につかない場所……)
「龍麻くん、どうしたの?」
 いきなり黙ってしまった龍麻に、葵は怪訝な表情を向ける。龍麻はそれに答えなかったが、少しして不意に顔を上げた。
「葵さん。悪いけど、僕はこれから別行動をとる。ちょっと心当たりがあるんだ」
「心当たり?」
「うん。だから、遠野さんとミサちゃんの方は葵さん達に任せる。京一は別件で翡翠の所に行ってるから、何かあったら携帯へ」
「でも……一人で大丈夫?」
「もう平気。心配いらないよ。そういうことだから、後はよろしく。あ、それと――」
 不安げに訊いてくる葵にそう答え、龍麻は立ち去ろうとしたが、足を止めると
「遠野さんに謝っておいて。じゃあ、また後で」
 そう言って、階段を下りて行った。


 真神学園――新聞部部室。
「なるほどね……」
 事の次第を聞き終えて、ようやくアン子は龍麻が怒った理由を理解した。
 向こうが頼ってきたというのに、自分の取った態度は何だろう。つい、いつものノリで行動してしまった。普段ならそれでも問題なかったのだろうが、今回ばかりは状況が悪すぎた。
 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
「ごめんね、そっちの事情も知らずにあんなコト……」
「ううん。ボク達は別にいいんだけど……ひーちゃんがあんなに怒るなんて思わなかったなぁ。本気で怒ってなかっただけマシだけどさ」
「と、とにかく。今できる事は、醍醐君がそうなった原因を探る事ね……」
 先程の恐怖が甦りかけたので、アン子は話を元に戻そうとする。そこへ葵がやって来た。
「あれ、ひーちゃんは?」
「一つ心当たりがあるから、ってそっちに行ったわ。あと、京一くんも気になる事があるって北区へ向かったみたい。あ、それとアン子ちゃん、龍麻くんがごめんなさいって」
 小蒔に答えて、葵はアン子にそう伝えた。
 龍麻が来たら、まずは謝ろうと思っていたアン子だったが、本人はこの場になく、しかも何故か向こうが謝ってくる。悪いのはこちらだというのに。
「そ、そんな……龍麻君が謝る必要なんてないのに……」
 項垂れるアン子だが、葵としては男性陣が動いているのに、このままのんびりするつもりはない。
「それで小蒔、話はどこまで進んだの?」
「事情は説明し終えたよ。まあ、京一はともかく、ひーちゃんは心配ないから、こっちも始めようよ」
「そうね。アン子ちゃん、心当たりはある?」
 葵の問いに、アン子は気を取り直し、少し考えて
「うーん……人間が獣みたいに変わるっていうのは、世界各地に伝承が残っていて、そんなに珍しい事じゃないわ。有名な例では人狼とかね」
「ひとおおかみ?」
「ほら、狼男のこと。満月を見て人間が狼に変わるやつ」
 なるほど、と頷く小蒔。が、これは今回の件とは違う。
「日本では、憑き物憑きもその一種ね。狐とか狼が人に憑いて、祟るって話、聞いた事ない?」
「じゃ、醍醐クンがあんな風になったのは、何かの祟りってコト?」
 問う小蒔に、アン子は首を横に振った。
「分からないわ……今、話しているのは、関連性のありそうな話を言っているだけ。実際の所、どうなのか……もっと情報が欲しいわね」
 そこへ――
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム――」
 お決まりの呪文と共に、裏密ミサがやって来た。
「思念の渦巻く処、其は運命の女神の御地よ〜」
「ミサちゃんっ――」
 どうしてここへとアン子が尋ねるより早く、裏密は何かの木の枝のような物を見せながら
「このトネリコの枝を使った土占いでみんなの姿が視えたの〜」
「丁度良かった。ミサちゃん、協力して欲しいんだけどいい?」
「いいわ〜。何を占えばいいの〜?」
 どこからともなく水晶球を取り出しながら小蒔に確認をとってくる。知りたい事はただ一つ。
「醍醐クンの居場所。お願いミサちゃん」
「なるほどね〜。分かったわ〜」
 水晶球を机に置き、裏密は呪文を唱え始める。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム……汝、魔界より出でて魔界に戻る者。星のダエモーンたる者の輝けるエンス・アストラーレを映し出し、凡庸なる我の前にそれを、示さん……」
 水晶球が淡い光を放ち始めた。裏密は言葉を紡ぐ。
「虎に与えられし道は、損失に満ち――精神は悲しみの檻とならん。二つの導き手たる者は、白き手より希望を――紅き手より絶望を誘う――」
「「……?」」
 相変わらずの難解さに、小蒔は眉間にしわを寄せた。アン子も同様である。
 が、何度か頭の中で先程の言葉を繰り返し、葵は大体のところを理解した。虎というのは恐らく醍醐の事だ。今回の件で、醍醐の心が傷ついている。そこへ二つの手の介入。言葉から、片方が自分達で、もう片方は敵――恐らく鬼道衆の事を指しているのだろう。
「何か見える……強い念が……。四匹の獣――。蝶の棲む森――違う……森じゃないわ。蒼く伸びる細い木――」
 やがて光は消え、裏密は軽く息をついた。どうやら終わったようだ。
「これを、どう解釈するかはみんな次第〜。ただ醍醐くんが〜、危険な状態である事に変わりはないわね〜」
 行方不明になって数日。鬼道衆だって、彼に目を付けているはずだ。
「すぐにでも捜しに行きたいけど……まずはミサちゃんの占いを解析しないとね」
 念を押すように葵は小蒔を見た。小蒔は焦っている。放っておけば飛び出して、一人でも醍醐を捜しに行くだろう。
 そんな葵の考えを察したのか、小蒔は努めて明るく笑った。
「大丈夫だよ。闇雲に動くより、目の前の問題を片付ける方が大事だもんね。急がば回れって言うし」
「ええ、そうね。それじゃあ、とりあえず教室に戻りましょう。アン子ちゃん、ミサちゃん、どうもありがとう」
 どうやら小蒔は心配ないようだ。協力してくれた二人に礼を言うと、アン子はパタパタと手を振った。
「なんのなんの。大して役に立てなかったけど、何かあったら、いつでも声かけてね。それと、部室ここ使っていいわよ。人がいない方が集中できるでしょ?」
「ええ、ありがとう。それじゃあ使わせてもらうわ」
「醍醐くんが〜、見つかるように魔神にお願いしとくね〜」
 と冗談めいた事を言ったのは裏密だ。が、彼女の事だ、きっと本気なのだろう。少々胡散臭いが、裏密なりに醍醐の事を心配しているのは分かる。だから葵も素直に答えた。
「ありがとう、ミサちゃん。心強いわ」
「あ〜、それと〜、これあげるわ〜」
 言いつつ裏密は花のような物を取り出し、葵に渡す。ただの花に見えるが、何かしらの《力》を感じる。
「白蓮花〜。宝貝パオペエの一つよ〜。身を護ってくれるわ〜」
 それじゃあ、がんばってね〜と裏密は部室を出ていった。アン子も後に続いて出ていく。
「さて、それじゃミサちゃんの占いを解読しよっか」
「ええ。頑張りましょう」
 部屋に残った二人は、紙に書き写した占いの文と格闘を始めた。



 北区――如月骨董品店。
「おーい、如月っ!」
 やって来たものの、返事はない。店の中は静寂に包まれている。が、無人でない事が京一には分かっていた。
「しっかし不用心な奴だな。これじゃ、盗まれたって文句は言えねえぞ」
「心配はいらない――」
 京一の独り言に答えるように、店主の声が届く。
「……気配隠して待ち構えるなんて、イイ趣味じゃねぇな。心臓弱い奴だったらポックリいっちまうぜ」
「それでも気付いたのはさすが、と言っておこう」
 店の奥から何故か招き猫を持ったまま、如月が姿を見せる。目の前にいるというのに気配は極力消している辺り、習慣になっているのだろう。
「やあ、いらっしゃい。しかし珍しいな、蓬莱寺君が一人で来るとは」
「ああ、ちょっと、な。こいつを見てくれねぇか?」
 京一は袋から、昨日、目青不動で入手した刀を取り出した。招き猫を置き、それを受け取って抜刀する。
「ほう、いい刀だ。しかもこの《力》……恐らくこれは水龍刀だな」
「水龍刀?」
 感嘆の息を漏らす如月におうむ返しに問う京一。鞘に戻して刀を返すと如月は簡単に説明した。
「聖武天皇が使ったと言われる霊刀さ。水の加護を受けた刀だ」
「俺が今使ってる髭切丸よりは強いのか?」
「そうだな、髭切丸は闇の加護を受けた刀だが、《力》を考えなければ水龍刀の方が強力か。で、そろそろ本題に入ったらどうだ?」
 来た時から京一の様子がおかしい事に気付いていた如月はそう言って話を促した。京一は驚いたようだったが苦笑して話を切り出す。
「実はよぉ、お前に聞きたい事があるのさ。醍醐の事でな」
「……なるほど、大体予想はついていたが、やはりね」
 醍醐の名を聞いた途端、如月は深刻な表情を見せる。
「教えてくれ、あいつに何が起こったか。一体、あいつがどうなっちまったのか……」
「分かった……僕が今から話す事をよく聞いて欲しい。これは君たちにとって――いや、君たちの闘いにとって、これから深く関わってくるだろう」
「俺達の……闘いに、だと……?」
 如月は君たち、と言った。醍醐一人の事であるはずなのに、そういう言い方をする事が京一の不安を嫌でも増大させる。
「人は――生まれながらにして《宿星》というものを持っている。《宿星》は《星宿》とも言ってね――元々は古代中国で星座を表す呼び名でもある。そして、人はそれぞれ、天が決めたその《宿星》の運命さだめのままに一生を送ると言われている。僕も、君たちも《宿星》を持って生まれてきているんだよ」
「《宿星》ね……」
 どこかで聞いた事のある言葉だ。あれは確か、初めて龍麻の家に行った時のことだった。龍麻は自分の《宿星》に従って東京に来た、と言っていた。
「特に強い《宿星》を持つ人は、大きな因果の流れの中にいるといってもいい。例えば、君たちのように――」
 如月の言う事が正しければ、今の自分達の闘いはその《宿星》とやらのせいだということになる。そんな馬鹿な、と言おうとした京一だったが、その前に如月が口を開く。
「《四神》というのを聞いた事があるかい?」
「《四神》? この間、港区でお前が言ってたような気がするけどよ。それが何だってんだ?」
「《四神》とは、大地の各方位を守護する、四匹の聖獣の事だ。北方を護るのが玄武。南方を護るのが朱雀。東方を護るのが青龍。西方を護るのが白虎。そして四匹の聖獣が守護する中央に、黄龍と呼ばれる黄金の龍が眠ると信じられている。説明が長くなったが、醍醐君は、その白虎の《宿星》を持って生まれた人なんだ」
「白虎ぉ? おいおい、いくら何でも――」
「彼は確か杉並区で生まれたと言っていたね。杉並は、この新宿の西――白虎は西の守護の星を持っている。醍醐君は間違いなく、白虎の《宿星》を持っているとみていいだろう」
「そりゃこじつけだぜ……」
 呆れたように京一が言う。
「それじゃあ、杉並生まれの連中はみんなそうなっちまうじゃねぇか。それに西だの東だの、基点にする場所次第で変わるだろ。それなのに、何でそんなコト言えんだよ?」
「以前、飛水の家の話をしたのを覚えているか?」
「ああ。確か水を操る《力》がどうとか玄武とか――あ、それでか」
 つまりは同じ《宿星》を持つが故、ということだ。《宿星》同士、引き合っているのかも知れない。
「ああ。それだけじゃない、アランもそうだ。言葉として知っているかは分からないが、彼も青龍の《宿星》を持っている」
「で、醍醐が白虎か。そんじゃ、残りの朱雀は誰なんだよ?」
「少なくとも今の仲間にはいないな。が、それよりもだ。醍醐君は、不安定な龍脈の影響で急激に覚醒してしまったんだろう。彼は、自分の《力》に戸惑っている……文字通り、生まれたばかりの虎のように……ね」
「つまりは一番危ない状態、ってコトだな。もしも今、あいつが敵に襲われたら……」
「もしも、ではなく確実に、鬼道衆は醍醐君を狙って来るだろう。彼の《力》を――。一刻も早く、彼を見つけなければならない。どこか心当たりはないか?」
 如月が問うが、京一には皆目見当がつかない。
「そうは言ってもな……」
「そう遠くへは行けないだろう。多分、まだ新宿にいるいるはずだ」
「新宿の中か……だったら、俺に思いつくのはジジイのところぐらいしかねぇな」
 家にもいないのなら、他に身を寄せそうな場所はそこだけだ。最悪、旧校舎かとも思ったが、施錠はしっかりされていたので醍醐がそこにいる可能性はゼロだ。
「よし、ここでこうしてても、しよーがねぇ。一旦、学校に戻ってひーちゃん達と合流するか。ありがとよ如月」
「待ちたまえ。僕も行こう」
 店を出ようとした京一を、如月が呼び止めた。
「他人事ではないのでね。それに、同じ《宿星》を持つ身として、何か手助けができるかも知れない」
「助かるけどよ、店はいいのか?」
 学校をサボってまで営業しているのだ。何か約束でもあるのではないかと思った京一だが、心配いらないと如月は笑う。
「ここは、僕の気が向いた時にしか開かない店だ。そして、今の僕にその気はない。もっと大切な事があるからね」
「分かった。それじゃ、行こうぜ」
 水龍刀を袋に戻し、京一は店を出る。如月は簡単に準備を済ませると外に出て施錠をし、本日休店の表札を入口に掛けた。



 場所は変わり――杉並区。
 龍麻はある建物の前で足を止めた。建物、というのは間違いかも知れない。少なくとも人が利用しているわけでもないし、そういった機能は既に失われて久しいはずだ。
 取り壊し寸前の廃屋。
 かつて、凶津煉児が潜伏していた場所。龍麻や多くの仲間にとっては、凶津と対決した場所でしかない。が、醍醐にとってはここは思い出深い場所であるはずだ。
 醍醐が凶津とつるんでいた頃の溜まり場、集合場所、そして凶津と二度も拳を交えた場所。
 人気がないという条件はクリアしているし、醍醐に馴染みの深い場所でもある。ひょっとしたら、と一人で龍麻はここへやって来た。
 外から見る限りでは人の気配はない。龍麻は廃屋へと足を踏み入れた。
(気配もない。《氣》も感じない。ここじゃないのかな)
 周囲を探りながら奥へと進む。ふと――足下にあるものに気付いた。
 白いチョークで書かれた落書きのようなもの。よく刑事ドラマなどにある、殺人現場にある人の形をなぞったものに似ている。もちろん、以前来た時にはなかったものだ。
「悪趣味な落書きだな……」
『ほう……こりゃあ驚いた』
 突然の声に、龍麻はその場から跳び退いた。敵意はないが、何の気配も感じなかったことが、龍麻に警戒心を抱かせる。声のした方へと視線を向け――
「そ……そんな……」
 龍麻は言葉を失った。そこにいるはずのない者が、そこにいたからだ。
「凶津……」
 かつて、その《力》をもって龍麻達と敵対した男、凶津煉児。瓦礫の上に腰を掛け、こちらを見下ろしている。
「どうしてここに……? 君はあの時、警察に捕まったんじゃ……」
 問う龍麻に凶津は皮肉げに笑った。何を今更、といった感じだ。
『そりゃあ、冗談を言ってんのか? お前には、俺の姿が視えるんだろ?』
「姿が……視える?」
 その言葉に、一瞬眉をひそめる龍麻だったが、すぐにそれが意味するものに気付いた。
「……霊体……!?」
『ああ、そういうもんだ。さしずめ自縛霊ってとこか』
 目の前にいるというのに、凶津からは生者特有の《氣》が感じられない。よくよく観察してみれば、光を背にしていながら影もなかった。その代わり、注意して探ると霊気のようなものが漂っている。
『お前らが出て行った後に、殺られたのさ。鬼道衆の風角ってヤツにな』
 決着のついたあの後、龍麻達は警察沙汰になる前にここを立ち去った。その後でまさか鬼道衆がここへ来て、更に凶津を始末していったなどと、誰が想像できるだろう。
『どうしたよ? お前はこういったのは慣れてるんじゃねぇのか?』
 からかうような口調でそう訊いてくる凶津。確かに霊が視えるのは子供の頃からなので慣れている。しかし
「生憎と、霊の声を自力で聞き取ったのは、初めてでね。以前は視るだけだったから。まさか、会話ができるようになってるとは思いもしなかったよ」
 《暴走》の影響だろうか、こんなところにも変化が出ている。以前渋谷の事件の時に、冗談で思っていたことが現実になっていた。
「で、何で凶津がここに縛られてるの?」
 気を取り直し、龍麻は凶津の霊に問いかける。凶津は肩をすくめて言った。
『ま、自分を殺した奴を怨まないワケがねぇんだが、どうもそれじゃねぇみたいでな。何か未練があるんだろうさ。そういうお前こそ、何で一人でこんな場所へ来たんだ?』
 その場所に縛られるから自縛霊というのであって、それならばこの場所での出来事以外を知らないのは当然だ。無駄だろうと思いつつ、一応訊いてみる。
「……雄矢がここへ来なかった?」
『醍醐がか? いや、来てねぇな。何かあったのか?』
 かつての醍醐とのわだかまりは、完全に払拭されているのか、凶津は心配げな表情を浮かべた。こんな表情もできるんだなと意外に思いつつも、龍麻は簡単に事の次第を説明する。醍醐の変貌、その彼が引き起こした事件と、今の状況を。
 凶津は黙って話を聞いていたが、それが終わると溜息をついた――ように視えた。
『あの馬鹿は、相変わらずだな。で、お前は醍醐を捜してどうするつもりだ? 引導わたすのか?』
「……最悪の場合は、ね。でも、雄矢はそこまで弱くないよ。きっと戻ってくる。ただ、きっかけは必要だろうから、迎えに行ってやらないとね」
 かつての自分がそうだったように。ただ、それが自分の役目かどうかは分からないが。
「まあ、とにかく捜し出さないと始まらないからね。ここにいるかと思ったんだけど、いないのなら他を捜すよ。……あ、そうだ」
 立ち去りかけた龍麻だったが、ある事を思い出し、凶津に向き直る。
「君を殺した風角だけどね、僕達が斃したから。一応、仇は討ったよ」
『そうか。ま、あの野郎が死んだって、別に俺の何が変わるわけでもねぇ。生き返るわけじゃねぇから、どうでもいいさ』
 意外な言葉だった。だが、凶津がここに縛られているのは風角への怨みではない。それだけは分かる。
『それより、醍醐の馬鹿を見つけたら、伝えてくれねぇか?』
「別に構わないけど、何て?」
『二言だけでいい。「死ぬな」と「逃げるな」だ』
「それだけでいいの?」
『ああ。それで分からなければ、あいつの所へ化けて出てやるさ。ってことだ、頼んだぜ』
 ニヤリと笑う凶津。死してなお、これだけの口が叩ければたいしたものだ。こうして話していると、あんな事件を引き起こした張本人とは思えない。こっちが本当の凶津なのだろうか。
「伝言は了解したよ。でも化けて出るのは止めた方がいいよ。雄矢、お化けとか苦手――」
 苦笑しつつ言いかけた龍麻だったが、そこへ携帯の着信音が鳴り響いた。ウィンドウには葵の名が出ている。
「もしもし」
『あ、龍麻くん? 今どこにいるの?』
「ん、ちょっと……それよりどうしたの?」
 杉並にいる、と告げてもいいのだが、とりあえず誤魔化して訊き返す。
『ミサちゃんに占ってもらったんだけど、よく分からなくて。龍麻くんの意見を聞きたいの』
 葵は裏密の言葉をそのまま龍麻に伝えた。
『どう? 何か分かるかしら?』
「最初のくだりは、雄矢の状況を指しているんだと思う。で、後半が居場所の手掛かりかな。強い念と四匹の獣ってのが何かは分からないけど。蝶の棲む蒼く伸びる細い木っていうのは……多分、木は竹の事じゃないかな」
 もっと砕けた文ならば解釈もしやすいのだが、文句を言っても始まらない。少し考えて、龍麻は自分の意見を述べる。それを聞いて、電話の向こうが静かになるが
『竹と、蝶……? あ、ひょっとして蝶って蛾の事じゃないかしら』
「蛾?」
『ええ。この間、醍醐くんに案内されて、会いに行ったじゃない』
 そこまで聞いて、ようやく葵の言いたい事が分かった。竹林に住まう蛾――つまり
「そうか、龍山先生の所!」
 確かに醍醐の師匠とでもいうべき人だ。心身共に疲弊しているであろう醍醐が頼っていってもおかしくはない。それに、だとすれば自分と違って死のうという意志はないはずだ。ならばすることは一つ、鬼道衆より先に醍醐を保護するだけでいい。
「分かった、これから新宿に戻るよ。そうだね、中央公園の入口で合流しよう。京一の方へも連絡を頼めるかな」
『分かったわ。それじゃあ、また後で』
 電話を切って、龍麻は凶津の方を見る。しかし、そこに凶津の姿はなかった。霊気も完全に消えている。感じるのは、以前藤咲の弟が消えていった時と同じ感覚――
「成仏、したのかな……?」
 凶津の未練とは醍醐の事だったんだろうと、今更ながらに龍麻は納得した。この場所での二度目の闘いは決して無駄ではなかった。確かに二人はあの時に分かり合えたのだ。
 死んでも醍醐の身を案じていた凶津。その彼の想いを、期待を裏切るわけにはいかない。
 姿は視えないが、先程まで彼がいた場所に手を合わせ、龍麻は廃屋を飛び出して行った。



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