「雄矢よ……お主の手紙に書いてあった事じゃがな。鬼道衆といったか、そやつらの事、心当たりがないわけではない」
そう前置きしてから、龍山は話を始めた。
「《鬼道》とは――古くは邪馬台国の女王、卑弥呼が用いたと言われる呪法じゃ。現代では、鬼道というのは原始的なシャーマニズムと理解されておる」
そう言えばそうだったな、と龍麻は思い出した。中学の頃だったか、歴史の教科書の「魏志」倭人伝に関する記述に、鬼道という言葉が載っていた。
女王卑弥呼は神の声を聞く者として、その言葉を民に伝え、またその力をもって自然災害を起こし、あるいは防ぐなどの奇跡を起こし、権力を得た。もっとも、その言葉が本当に神の言葉だったのか、また、実際に超常の力を持っていたのかは定かではない。それでも今までの体験から、それを否定することはできない。
「他に何か聞きたいことはあるか?」
問う龍山に、龍麻は少し考える。色々と聞いてみたいことはあるのだが
「先程、風水について触れましたけど、鬼道と風水――いえ、龍脈とは何か関係があるんですか?」
「ふむ、そうきたか。では緋勇よ、鬼道という呪法の力の源は何だと思う?」
「それは術者が持つ《力》で――いえ、それが龍脈、というわけですか」
話の流れから見当をつけた龍麻の答えに、龍山は頷く。
「人間の持つ霊力如きで、自然現象を治められようはずはない。卑弥呼は編み出したのじゃ。大地のエネルギー、すなわち龍脈を利用する法をな。卑弥呼は龍脈の交わる場所に自分の宮殿を建て、それに付随するように、楼観という塔を建てている。そうする事によって、より強大な龍脈の力を得ようとしたのじゃ」
塔という言葉が引っ掛かる。昨日、織部神社でもそんな話を聞いた。まさか、同じ物なのだろうか。
「龍脈の力とは、つまるところ大地の霊力――。卑弥呼は《鬼道》によってその力を使ったというが、人がその強大な力を使えば、どこかにしわ寄せが来る。やがてそれは、龍脈の流れに乱れを生み――」
「それによって、卑弥呼は力を制御できなくなった?」
「いや、そうではない。光が強ければ影もまた濃くなるのが道理。太陽神の化身とまで称された卑弥呼の力の行使は、更なる乱れ、歪みを生じさせた。そして、それは人の欲望や邪心を映し、ゆっくりと息づき始めた。それこそが《鬼》と呼ばれし輩じゃ」
「人の欲望が鬼道を生み、龍脈の乱れが鬼を産んだんですね」
負の感情を増大させ、鬼に堕ちた莎草。鬼道を使い、外道と化した鬼道衆達。どちらにせよ、鬼は人が生み出したものなのだ。
「そうじゃ。そうして、霊力の衰えた卑弥呼の死と共に、再び倭国には戦乱が訪れたのじゃ……」
歴史ではその後、男の王を立てたが治まらず、新たに女王を擁立したという。それでもその治世が続かなかったのは、新女王・壱与に卑弥呼程の力がなかったからなのだろうか。真偽はともかく興味深い話ではある。
「じゃがな……話はこれで終わりではない」
その言葉に、まだあるのかと京一が渋い顔をする。それに気付いた醍醐と小蒔に肘を入れられ何やら呻いているが、それを気にせず龍山は続けた。
「卑弥呼が鬼道を修めてから千数百年。江戸――徳川の時代に、歴史に埋もれたはずのその呪法を蘇らせる事に成功した、一人の修験道の行者がおる」
「修験道?」
「確か、山岳信仰でしたか?」
疑問符を浮かべる小蒔と、確認する醍醐。
「役小角を開祖とする、山岳信仰に仏教や神道が習合した宗教のようなものじゃな。山へ篭もり、自然に宿る神霊に祈りを捧げ、苦行の末に験力――つまり特殊な《力》を身につける修行の道よ。そして、その鬼道を修めた行者の名を九角鬼修という」
「「「「「九角!?」」」」」
その名に驚く龍麻達。港区の一件で、鬼道衆の水角が遺した言葉にあった名だ。
「鬼修は外法にも精通していたという。外法――外道は仏道に背く道。その道士は、鬼神や悪霊を使役する呪術を使うという。九角は、かねてから大地を流れる龍脈の力に目をつけており、その力を我がものにして、江戸を支配しようと考えていた。そのために使ったのが、長い修行で得た験力と、外法として蘇らせた《鬼道》よ。そして、九角が幕府転覆の為に組織したのが、《鬼道衆》と呼ばれた、人ならざる《力》を持った者どもじゃ」
「「「「「……」」」」」
「お主らが相手にしている鬼道衆と名乗る輩も、決してその名を騙っている訳ではあるまい……。恐らく、その頭目は九角の血を引く者であろうよ」
江戸の時代に暗躍していた鬼道衆が、現代に甦ったということか。確かに水角がそれらしいことを口にしていたし、風角も幕末の世より甦った、と言っていた。
しかし、腑に落ちない点もある。まず、龍脈が乱れた云々の話だ。鬼道が龍脈を乱す原因であるなら、莎草の覚醒が去年の秋頃だということを考慮に入れると、鬼道衆の活動は約一年前には始まっていたことになる。しかし、今まで関わった東京の事件も、その全てが鬼道衆絡みというわけではない。《鬼道門》の件にしても、解封に時間がかかっている。東京の壊滅が彼らの目的であるなら、いくらでもやりようはあるのに、どうも手際が悪い。
(龍脈が乱れたのは、鬼道衆だけが原因なんだろうか? それに、東京壊滅だけが奴らの目的なのか?)
気になることはまだあるが、ここで考えても仕方がない。龍麻がそんな思いを巡らせている間にも、話は進んでいた。
醍醐が、持っていた珠を龍山に見せている。手紙で珠のことを知らせていたようだ。
「この珠をご存じなんですか?」
龍の模様が入った蒼と白の珠を目を細めて見やる龍山に醍醐が尋ねる。白髭をさすりながら、龍山は真剣な表情で答えた。
「わしの考えが正しければ……これは五色の摩尼やもしれんな」
「五色の摩尼?」
「摩尼というのは、梵語で宝珠を意味する言葉でな。江戸時代、徳川に仕えた天海大僧正なる男が、江戸の守護のために使った珠よ。もともとは、天海のいた天台宗の東叡山喜多院に納められていたものじゃ。……五色とは何か分かるか?」
「いえ……白と青はこれを見れば分かりますが」
「赤、黒、黄ですか?」
答えたのは葵だ。その通り、と龍山は続ける。
「黄、白、赤、黒、青の五色が、それぞれ地、水、火、風、空に対応して、密教ではこの五色を以て宇宙の基本構造を表しておる。そして、この宝珠には、九角が使役した五匹の鬼が封じられていると言われておる」
「ってことは……今まで斃した水角と風角は、これに封じられていたって事か?」
こんなガラス玉みたいなのにねぇ、と京一が感心している。
「でもよ、連中しっかり動き回ってたぜ。封印が解けたって事か?」
「解かれた、が正解じゃないかな。五色、って龍山先生が言ったけど、そこから連想できるものがある。色の名で呼ばれるお寺が、東京にはあるでしょ」
「あ、五色不動の事ね」
龍麻の言葉に納得する葵。京一達は首を傾げるばかりだ。
「今までも《鬼道門》を封じるのにお寺があったりしたからね。これもひょっとしたら……」
「そうじゃ。その珠は、天海によって江戸を取り巻く五つの不動尊――江戸五色不動と呼ばれる場所に鎮守されたという。恐らく、そこから持ち出されて解封され、現世に復活したのじゃろう」
「でも、何故そんなことを? 一カ所にまとめて厳重に封印しておけばこんな事にはならなかったんじゃ?」
「珠の力を利用したのじゃ。つまり、鬼の霊力によって、更なる鬼や邪の侵入を防ぐ方陣としたわけじゃ」
分散させる必要があったのか、と思った龍麻だったが、どうやらそういった理由があるようだ。
「とりあえず、お主らはその宝珠を持って、不動を巡ってみる事じゃ。境内の奥の方に、宝珠を納める為の祠があるはず……そこに宝珠を納めれば不動の霊力が再び、宝珠を護るであろう」
「分かりました……」
再び宝珠を受け取り、大事そうにしまう醍醐を見て、龍山が笑う。と、そこで時計が時間を告げた。
「それじゃあ、先生。俺達はそろそろ失礼します」
「ありがとうございました」
頭を下げ、立ち上がる醍醐達だったが、不意に龍山が一人を呼び止める。
「美里さんよ――」
「はい……?」
「お前さんが持っとるその《力》は、何の為の《力》か、分かるかい?」
いきなりの質問に、戸惑う葵。その問いかけは、覚醒してから常に自分の中にあった。そして、未だに明確な答えが出ていない。しかし何を為したいのかは、決まっている。
「いいえ……でも、私はこの《力》で、大切な人達を護りたいと思っています。そして、闘うこともなくなって、早くみんなが、元の生活に戻れるようになればいいと思っています」
迷いのない、はっきりとした回答に、龍山は優しく微笑む。
「そうじゃな……一日も早く、その日が来るよう、わしも祈っているよ」
「はい……」
「それから緋勇よ……」
続いて龍麻に声をかける龍山。
「また、ここに来る事があれば――お主に話しておきたい事がある」
「僕に、ですか?」
一体何の事だろうか。しかも、何故、今では駄目なのだろう? ここへ来た時に感じた疑問が甦る。
「うむ。それまでは、己が信じた道を歩むがよい。よいな」
(やっぱりこの人は、僕を知っているのか?)
「……はい」
恐らく今問い質しても答えてはくれまい。そう判断して、龍麻は頷いておいた。
「それじゃあ、俺達はこれで失礼します」
そのまま龍山邸を後にする龍麻達。
それを見送り、一人残った龍山は呟く。
「弦麻……やはり、あの子は宿星の輪からは逃れられぬのじゃな……」
その声には深い悲しみがあった。
新宿歌舞伎町。
「今日は、不動巡りは、無理だね」
周囲を見ながら、小蒔が言った。
昼の顔が失われつつある歌舞伎町。辺りは暗く、そろそろ高校生がうろつくには問題ある時間になりつつある。
「ああ……もう遅いしな。ところで龍麻、それに美里もだが――先生は、どこかお前達の事を気にしているようだったが……何か思い当たる事はないか?」
「いいえ」
「……僕も」
龍山邸での事を思い出し、醍醐が問うが、葵には心当たりがない。龍麻の方は気になる事があるのだが、何も言わなかった。
「でも、葵の瞳がどうしたのかな? 普通だよね?」
龍山邸を訪ねた時の事を思い出した小蒔の言葉に、龍麻はひょい、と葵の目を覗き込む。黒い綺麗な瞳が龍麻の顔を映した。が、それだけだ。
「そうだね、特におかしなところはないけど……どうしたの?」
京一達の様子がおかしいのに気付き、龍麻は視線をそちらに向けた。京一と小蒔は感心したような表情で、醍醐は目を逸らして咳払い。
葵の方は、龍麻の突然の行動に頬を染めていた。いきなり至近距離に異性の顔が近付いてくれば、当然の反応だろう。ただ、龍麻は自分の行動がどう影響を及ぼしたのかに気付いていないようだった。
ここで京一や小蒔が余計な事を言えば、いつもの如く慌てるだろうが、さすがにそれは気の毒だと思ったのか、醍醐は話を元に戻す。
「まあ、先生は易者だからな。お前達の顔に、何か特別な相でも出ていたのかもしれん」
「それより、明日にでも不動へ行ってみようぜ。早い方がいいだろ」
鬼を封じた宝珠だ。いつまでも持っていると、鬼道衆が奪い返しに来るかも知れない。ならば、再び封印してしまった方が得策というものだ。京一の提案に異議を唱える者はいない。
「でも、どこから行く? まあ、白か青のどっちかしかねぇけどよ」
手元にあるのが白と蒼の珠である以上、他の場所へ行っても仕方がない。そう問う京一に少し考えてから葵が答えた。
「豊島区の目白不動が、新宿からは一番近いわね」
「そうだね。それじゃあ、明日の放課後にでも目白不動へ行ってみよう」
「うんっ――あっ。いっけない、もうこんな時間だっ!」
明日の予定が決まったところで、小蒔が腕時計を見て声を上げる。
「ボク、これから弓道部のみんなと昨日の打ち上げなんだ。悪いけど、先に帰るね」
「ああ。今日はありがとう。気を付けて帰れよ」
挨拶を交わして、小蒔はそのまま去っていった。それを見送る龍麻達だったが
「しかし、厄介だな……」
不意に真剣な表情で京一が呟く。
「どうした、京一?」
「この珠だよ。じじいの話だと、宝珠は全部で五つあるんだろ?」
「ああ……。あと三つあるって事か」
「そういうコト」
鬼道衆の戦力がどれだけ残っているのかは不明だが、少なくとも鬼と呼ばれるだけの《力》を持った者が三人、それとその鬼を統べる黒幕の存在だけは確実だ。これからの事を考えると頭が痛い。
「鬼を封じていた珠に《龍脈》に《鬼道》……鬼道衆に会っていなければ、信じ難い話ばかりだな」
「ええ……何だか急に、いろんな事が起こってしまって……龍麻くんは不安じゃない?」
不安を隠せない葵に、龍麻はいつものように大丈夫だよ、と微笑む。
「今までと、そう大差はないよ。僕達自身が標的になる可能性はあるけど、それでも何も知らない無関係な人を巻き込む可能性は減るだろうし。何より、今の僕達ならどんな事があっても乗り越えられる。だから、大丈夫だよ」
龍麻の不思議なところは、この「大丈夫」の一言が単なる気休めに聞こえないことだ。どんな悪条件下にあっても、龍麻がそう言う限り、何の心配も要らない――そう思わせる説得力、安心感のようなものがある。
もっとも、それは他人に対してのものの場合で、龍麻自身の事を言っている場合にはこれ程アテにならない言葉もない。
どちらにせよ、今の状況は前者だ。龍麻の言葉に葵の表情が緩んだ。そこへ醍醐が珠の入った袋を差し出してくる。
「龍麻、珠はお前に預けておく。構わないか?」
もしも、鬼道衆が珠を取り返しに来るなら、醍醐達では家族を巻き込みかねない。その点、一人暮らしの龍麻は何の心配も要らないし、今住んでいる家だって、そういう状況を想定して選んである。
「僕の所が一番安全かもね。分かった」
「ともかく、明日、目白不動に行ってみよう。今日はここで分かれるか」
「うん。それじゃあ」
「さようなら」
「またな」
四人はそれぞれ帰路に就いた。
人気のない道。日は完全に落ち、街灯と、家から漏れる明かりが闇を照らしている。
歌舞伎町で解散したまでは良かったが、その時から尾けてくる気配に醍醐はいい加減うんざりしていた。
溜息をついて、醍醐は立ち止まる。背後の気配も動きを止めた。
「おい……話があるなら出てきたらどうだ?」
振り向きもせずに告げる。
気配の主は動揺したようだったが、舌打ちしつつも姿を見せた。
「しかし、へたくそな尾行だな。そんな事じゃ――」
言いかけた醍醐だったが、そこで言葉が止まる。姿を見せたその男を知っていたからだ。
どこから見ても不良風の容貌の男。いつも佐久間と一緒にいた男だ。
「佐久間はどこにいるんだ? 家にも帰っていないんだろ?」
「ケッ。人の心配より自分の心配をしろよ」
佐久間の事が気になって尋ねる醍醐だったが、男はそう言い捨てた。
何の事だか分からなかったが、それ以上男は何も言う気はないようだ。仕方なく、別の質問を投げかける。
「で、俺に用があるんだろう?」
「くくく……あんまり佐久間さんを甘く見んじゃねぇぞ……。あの人は変わったんだ。もう、てめぇなんか相手じゃねぇ」
「……?」
「まあいい……俺はこれを渡すよう言われたのさ」
言いつつ男は醍醐に何かを放り投げた。受け取る醍醐だったが――
「これは――っ!」
それは見覚えのある物だった。自分の御守り。ただし、今まで小蒔に貸していた物だ。
「うちの体育館裏で佐久間さんが待ってるぜ……」
どこでこれを、と訊く前に、男は去っていく。捕まえて問い詰める、という選択肢は醍醐の中にはなかった。ただ気になるのは小蒔の安否、そして佐久間の意図だ。
御守りを握りしめ、醍醐は駆け出した。
真神学園――体育館裏。
「はあ、はあ……出てこい、佐久間っ!」
息を整えるのももどかしく、着くなり醍醐は叫んだ。怒りと焦りを乗せた声が体育館裏に響き渡る。
「佐久間っ!」
「待ってたぜ、醍醐」
木の陰から佐久間が姿を見せた。外見は別に変わった様子はない。ただ――
「……桜井は何処だ?」
「けっ。格好つけんじゃねぇよ。久し振りに会ったんだ。ゆっくり話をしようぜ……」
どうやらまともに取り合うつもりはないらしい。それでも醍醐としては下手に動きが取れない。まずは小蒔の無事を確認しなければならないのだ。
「……しばらく見ない内に随分と変わったな」
「ほぉ……俺のどこが変わったって? 言ってみろよ」
人を小馬鹿にしたような醜い笑みを浮かべる佐久間。
「雰囲気がな……それに――」
(あれは……陰の《氣》だ……俺にここまで視えるのも珍しいが……)
うっすらとではあるが、確かに佐久間の周囲に赤い《氣》が視える。
(つまり、佐久間も《力》を得た、ということか……龍脈とやらも厄介な事をしてくれる)
「俺はなぁ、醍醐……もう、てめぇの手下じゃねぇんだよ」
それ以上何も言わない醍醐に、佐久間は口元を歪めて言った。
「俺は《力》を手に入れたんだ……あいつらからな」
「あいつら、だと……!?」
すぐにその「あいつら」の正体に思い当たる。他人に《力》を与えるというやり口は前にもあった。
「それは違うぞ佐久間! その《力》は諸刃の剣だ!」
「うるせぇっ! いつまでも善人面してんじゃねぇ!」
佐久間の目に宿る憎しみの光に、醍醐は言葉が出ない。
「何もかも気に食わねぇ。蓬莱寺も、てめぇも! そして、あいつ……緋勇も……!」
龍麻の名を叫んだ時だけ、声が震える。
蓬莱寺京一――何かにつけて絡んでくる。言動の一つ一つが癇に障る。醍醐雄矢――いつも要らない世話を焼く。事ある度に善人面して近付いてくる。気に入らない。
が、佐久間は勘違いをしている。そもそも、京一自身は佐久間など相手にしていない。面倒だから。パタンとしては佐久間が絡んだ結果、京一がそれを切り返しているだけなのだが、本人はそれに気付いていない。
醍醐自身は本心から佐久間を案じていた。昔の自分を見ているようで、どうにかして更生させられれば、と考えていたからだ。だからこそ、レスリング部にも引っ張り込んだ。もっとも、その一連の行動も佐久間にとってはうっとおしいだけだった。素直に善意を受け取る、そんな心の余裕は佐久間にはすっかり無くなっていたのだ。
そして、緋勇龍麻。彼を気に食わない点はいくつもある。まず、女生徒達に騒がれていたこと、そんな中、自分が惚れている美里葵が、彼と親しげに話していたこと、京一が構っていたこと。
ここまでは完全な逆恨みだが、それ以上に佐久間は龍麻の存在を認めたくなかった。
転校初日に体育館裏で、取り巻きの二人が宙を舞い、二人が一撃で倒されたあの時、龍麻が見せたあの目――そして、廊下で出会った時のあの目。
自分が狩られる立場だと、そう認識させられる獣のような鋭い目。自分に恐怖を与える者。今まで力でのし上がってきた自分を、一戦交える必要もなく否定する存在。
そんな、自分を煩わせる存在達に、苛立ちだけが募る日常の中で、佐久間は非日常へと足を踏み入れた。そして得たのだ。気に入らないものを排除する《力》、欲しいものを手に入れる《力》――そして、本人は気付いていないが、己を滅ぼし得る《力》を。
「誰からやってやろうかと思ったんだけどよ。ちょうどコイツに借りがあったんでな……」
言いつつ佐久間は木の陰から人を引きずり出した。
「桜井……!」
「だ……いご……クン……」
紛れもなく小蒔だった。かなり手酷くやられたらしく、傷だらけだ。意識は残っているのか、弱々しく醍醐の名を口にする。
「てめぇの次は、蓬莱寺だ。そして緋勇をブッ殺して美里を手に入れる。今の俺に勝てる奴なんざ、いやしねぇ」
「……人から与えられた《力》で事を為して何になる!?」
「勝てればいいんだよ。おっと、動くなよ」
今にも跳びかかろうとする醍醐を牽制し、佐久間はナイフを取り出した。そして小蒔の髪を掴んで引き上げ、顔に押し当てる。
「動くと、こいつのツラに一生消えねぇ傷がつくぜ」
「貴様……!」
「ひゃーははははははっ!」
優越感に浸り、高笑いする佐久間に、醍醐の怒りが膨れ上がる。しかし、小蒔を人質に取られている以上、迂闊な真似はできない。
(このまま……佐久間の言いなりになるしかないのか……?)
その時。
目醒めよ――
「くっ……!?」
聞き覚えのある声が頭に響いた。
(これは……あの時の……!?)
初めて旧校舎で闘った時に、頭に響いた声。
目醒めよ――
「ぐ……おぉぉっ……」
繰り返し頭に響く声に醍醐は膝をついた。身体の奥から湧き上がる《力》に自由が利かない。
「な、何だっ!?」
頭を抑え、苦しむ醍醐に、さすがに佐久間も様子がおかしい事に気付く。
「醍醐クンっ!?」
目醒めよ――
「さ、桜井……逃げ……」
次々と現れる過去の記憶。それらが少しずつ意識の奥底へ沈んでいく。代わりに浮かび上がってきたのは闘いへの渇望。目の前にいる誰でもいい――自らの力を振るいたいという衝動が大きくなっていく。
(くっ……このままでは……俺は――)
目醒めよ――
「があぁぁぁぁぁっ!」
何とか《力》を制御しようとする醍醐。しかし、その努力も空しく――醍醐の意識は薄れていった。
醍醐の姿が変わっていく。学生服は盛り上がる筋肉に破られ、髪は逆立ち、耳は形を変え、身体には縞模様が浮かび上がる。
「……な、何なんだよこりゃあっ……!?」
目の前で起こる事態に頭がついていかない。《力》を得たといっても、佐久間はこの手の事件については全くの無関係だったのだ。
小蒔は別の意味で事態が把握できずにいた。
(どうして……醍醐クンがこんな姿に……!?)
異形に変えられた水岐の姿が一瞬浮かぶ。しかし、ここに鬼道衆の姿はない。となると、変えられたのではないということになる。
(これが醍醐クンの《力》だっていうの……?)
すっかり戦意を喪失している佐久間から離れ、小蒔は何とか身を起こす。佐久間に痛めつけられたダメージがまだ残っているので、自分にできるのはこの状況を見守ることくらいだ。
醍醐が一歩足を踏み出す。その先には佐久間がいた。
「ひ……ち、近寄るんじゃねぇ!」
恐怖に顔を引きつらせ、佐久間は後ずさる。その声に引かれるように近付く醍醐。
「だ、誰か……助けてくれぇぇぇっ!」
追い詰められているとは言え、随分と自分勝手な物言いだ。しかし今の佐久間の中にはこの状況から逃げ出したいという思いしかない。目の前にいる存在には敵わない、それが理屈でなく分かるからだ。
立っているだけの気力もないのか、這うようにして醍醐から距離を取る佐久間。それを追う醍醐。そんな二人の間に割って入る者がいた。
鬼面に忍装束――鬼道衆の忍軍。
「鬼道衆が、何で……?」
疑問に思う小蒔だったが、下忍達は刀を抜き、醍醐を取り囲んだ。突然の乱入者に佐久間も動きを止める。
下忍の一人が背後から醍醐に襲いかかった。しかし
ゴッ!
醍醐の腕の一振りが、下忍をバラバラに引き裂いた。
その光景に、小蒔の脳裏に過去の記憶が呼び起こされる。
品川で龍麻が《暴走》した時の圧倒的な《力》。龍麻の攻撃でボロ屑のように破壊されていく死人の群れ。あの時の恐怖が甦ってくる。
「まさか……醍醐クンまで《暴走》してるの……?」
しかし、龍麻のものとは違う。姿が変わるなど龍麻の時にはなかった。ただ今の醍醐が纏う《氣》は陰の《氣》だ。それだけは同じだった。
続いて別の下忍が一斉に動く。それぞれの刀が醍醐の身体を捉えるが、その刃が醍醐を傷つける事はなかった。《氣》によって保護された肌が、完全に斬撃を無効化している。
「ガアァァァァァッ!」
猛虎の如き醍醐の咆吼と共に、膨大な《氣》が衝撃波となって下忍達を吹き飛ばす。壁に、木に叩きつけられ、耳障りな音を立てて下忍が砕ける。
障害を排除し、再び佐久間に向かう醍醐。
佐久間はそこから動けなかった。蛇に睨まれた蛙ではないが、醍醐の《氣》に気圧されて、身体がいうことをきかない。ガタガタと歯を鳴らし、震えることしかできなかった。そこへ
変生せよ――
佐久間の耳に、自分に《力》を与えてくれたあの男の声が響いた。
「ど、どこにいるんだ!? 早く助けてくれっ!」
(貴様の役目はもう終わりだ)
藁にもすがる思いで懇願する佐久間に、冷たい言葉が返ってくる。
(だが、もう少し役に立ってもらおう。堕ちよ、佐久間……)
「何だと――ぐっ……!?」
突然の頭痛が言葉を途切れさせた。頭の中にどす黒い何かが渦巻くような感覚。
(クククク……変生せよ……)
「ぐおぉぉぉぉっ!?」
変化にそう時間は掛からなかった。陰の《氣》が膨れ上がった次の瞬間には、佐久間の身体は既に人ではなくなっていた。変色した肌に鋭い爪、醜い顔。腹には大きな口が開き、白い牙と赤い口腔をのぞかせている。
陰の《氣》の不快感と、認めたくない現実に意識が飛びそうになるが、歯を食いしばって小蒔は耐えた。それでも、そう長く保ちそうにない。
佐久間が吼え、大柄な身体からは想像できない速さで醍醐が佐久間に襲いかかる。
薄れゆく意識の中、小蒔が最後に見たのは、醍醐に引き裂かれ、肉塊にされていく佐久間の姿だった。