「しかし、美里と桜井はまだ来てないようだな……」
始めにいた場所へ戻ってきても、二人はまだ来ていなかった。
「まあ、彼女達のことだから、先に泳いでるって事はないと思うけど……京一?」
未だにいじけている京一に声をかける。
「いい加減に諦めたら?」
「あーあ……やっぱ、俺とひーちゃんで来るべきだったよなぁ」
どうやらオネェちゃんの事は頭から離れていないらしい。
「そうすりゃ今頃、プールサイドでオネェちゃんに囲まれて……酒池肉林って感じだったのによぉ……」
(重傷だな……)
「なぁに言ってんのよっ。相変わらず馬鹿ねぇ、アンタ」
「なにぃ……?」
艶っぽい声が京一をけなす。
「一体誰――」
「は〜い。ふふっ、元気にしてた?」
振り向いた京一が、そちらに目をやった醍醐が、硬直するのが気配で分かった。龍麻もそちらを向き――同じく硬直する。
そこにいたのは藤咲だった。豹柄のビキニを着て、こちらに手を挙げている。
釘付け状態の二人。龍麻はというと、目のやり場に困って視線をわずかに外している。
「す、すげぇ……」
「きょっ、京一……よだれがでてるぞ」
「おっ、おうっ」
しばらく京一と醍醐の反応を楽しんでいた藤咲だったが、何やら思いついたのか、龍麻の正面まで移動して、顔を覗き込む。
「ねぇ、龍麻くん……」
「な、何……?」
妖艶な笑みを浮かべる藤咲に、思わず後ずさる龍麻。
「どう? 今日のあたし。グッと来ない?」
胸を抱えるように腕を組む。そのせいで、彼女の豊かな胸が更に強調された。
「う、うん。そうだね。とても色っぽいけど、ちょっと僕には刺激が強すぎ……」
「ふふふ……ありがと。龍麻くんにそう言ってもらえるなんて……あたし、ゾクゾクしちゃう」
更に間を詰める藤咲。退く龍麻。いつの間にやらフェンス際まで追いつめられていた。自分のすぐ目の前に彼女の胸がある。端から見れば羨ましい光景なのだろうが、龍麻の方はたまったものではない。
(だ、誰か助けて……)
「あはははは! やっぱり面白いわ、龍麻くんって。今時珍しいわよ」
真っ赤になって狼狽えている龍麻に、とりあえず満足したのか、笑いながら藤咲が離れる。
「戦いの時はすごく強くて、堂々としてて、格好いいのにね。ま、そのギャップも一つの魅力かしら?」
「……悪かったね」
「あーあ。あたしもアテが外れたし、この際、龍麻くん達と一緒に遊んじゃおうかなぁ……」
「アテって……なんのことだ?」
ようやく立ち直った醍醐が問うと、藤咲は面白くなさそうに
「ここのプールって、短大生の穴場じゃない? それを目当てに来る男を逆にカモろうと思ってたのに、ろくな男がいやしない」
「カモるって……」
以前、舞子と三人で遊びに行った時、絡んできたチンピラを彼女がタコ殴りにし、「迷惑料」を巻き上げた事を思い出す。まさか、アレをやるつもりだったのだろうか?
「しかも、ヘンなウワサのせいで、最近、港区中のプールで客足が減ってるって話よ。さっきの撮影も、区が提案したCM用のグラビア撮影だって」
「撮影って、誰が来てたの?」
「あら、龍麻くん、気になるの?」
「いや、どうでもいいんだけど。約一名、見そびれてへこんでたから」
意外そうな藤咲に、龍麻は京一に視線を移して言った。なるほど、と笑い、藤咲が名を口にする。
「舞園さやかよ」
「何だとぉっ!?」
いきなり叫び、そのまま放心状態になる京一。余程ショックだったのだろう、何やらぶつぶつ言っている。
舞園さやかの名は、龍麻も知っている。平成の歌姫とか呼ばれている、現役女子高生アイドルだったはずだ。確かに彼女の歌は聴いてて心地よい。
「で、変な噂って?」
「さあねぇ〜、あたしもよくは知らないわ。……悪いけど、あたしはもう帰るわ。龍麻くんも元気そうで安心したし」
「もう? さっき一緒に遊ぼうかって……もうすぐ葵さんと小蒔さんも来るよ?」
「京一と二人だけならともかく、醍醐がいるってことはそうなんでしょうけどね、遠慮しとくわ。せっかく葵と一緒なんだから、今日一日ゆっくり楽しんで頂戴」
「はい?」
「うふっ、またね、龍麻くん」
藤咲は踵を返し、去っていった。
「……ねぇ、雄矢。さっきのって、どういう意味だろう?」
「俺に聞くな。しかし、ヘンな噂というのが気になるな……」
「そうだね。一体何の事だろ?」
「また何か事件でも――むっ!?」
突然、醍醐の様子が変わる。心なしか、顔色が悪い。
「この気配……何となく、知っているような……」
「な、何か寒気がしねぇか?」
復活したのか京一も周囲を見回す。ちなみに今は夏で、天気は晴れだ。寒気も何も――そう思うのが普通だろうが、今感じている気配の主が「彼女」なら、十分にあり得る。
「……うふふ〜三人とも元気ぃ〜?」
聞き覚えのある声。京一と醍醐の疑問は確信へと変わった。しかし、その姿は見えない。いや、分かっていないだけなのだが。
「やあ、ミサちゃん」
「うふふふふ〜。こんな所で会うなんて偶然〜」
龍麻の声に、そちらを振り向く京一と醍醐。そこにいたのは、花柄の付いた水色の水着を着て、腰にピンクの布を巻いている女の子だ。信じられなかったが、それが裏密だった。いつものビン底メガネと人形はない。
「ミサちゃんも泳ぎに来たの?」
「いいえ〜。でも〜ひーちゃんたちもこのプールを選ぶなんて〜、なかなか侮れないわ〜」
にぃっ、と笑う裏密だが、いつもの眼鏡がないせいか、何だか違和感がある。
「そりゃ、どういう意味だよ? ここに何かあるのか?」
「ここには出るのよ〜」
問う京一に、裏密は嬉しそうに答えた。
「白い腹、灰緑色の鱗〜、瞬きしない濁った目〜。うふふ〜。早く現れないかしら〜」
「それって一体?」
龍麻の問いには答えず、例の不気味な笑い声を残し、裏密は行ってしまった。
「な、何が出るっていうんだ……」
「海坊主か?」
「こっ、ここはプールだろっ」
(海坊主は幽霊じゃなくて妖怪だったはずだけど)
怯える醍醐を見ながら、それでよく旧校舎の魔物と戦えるなぁ、と龍麻は思う。
「ま、あいつの言うことは、気にしないに限るぜ」
「そうは言ってもね……」
気楽な京一とは対照的に、龍麻は裏密の言葉が気になっていた。
先の言葉から察するに、人にあらざる異形がここに出る、ということだろうか。
(総合してみると、半魚人っぽいな。でも日本だし……河童?)
「――と、ようやくお出ましのようだぜ」
京一の声が、龍麻の意識を引き戻す。見ると、小蒔と葵が笑いながらこちらへ歩いてきていた。
「……遅くなってごめんなさい」
「あははは。三人とも、なに、そのカッコ」
小蒔が男性陣を見て笑う。
「うるせぇな! 大事なもんは、肌身離さず持っとく主義なんだよ」
「よく言うよ。最近、木刀の方は持ち歩いてないくせに。水場だからわざわざ引っぱり出してきたんでしょ?」
鋭いツッコミに京一が言葉を詰まらせる。醍醐はというと、笑われたのがショックだったのか、落ち込んでるようだ。
「で、ひーちゃんはどうしたの? そんなの着て」
「日に焼けるのが嫌だから、って言うのは冗談だけど、ちょっと、ね」
「ふーん。ひーちゃん白いからなぁ。少しくらい焼いた方がいいんじゃない?」
「それより、二人とも結構可愛いじゃねぇか」
珍しく京一が「二人」をほめる。小蒔の水着は水色のスポーツタイプのビキニ、葵の方はオレンジの縁取りの入ったクリーム色のワンピースだ。
「当然! ねえねえ、ひーちゃん! どう? ボク、カワイイ?」
京一にそう言うと、龍麻に向き直ってそう訊いてくる。
「うん、かわいいよ」
そう言うと、小蒔はえへへと照れたような笑みを浮かべる。それから醍醐の方を見て、同じ質問を浴びせた。顔を赤くして狼狽えていた醍醐だったが、小蒔としては聞きたかった回答を引き出せたらしく、喜んでいる。
「ほらっ、葵も訊いてみなよ」
「で、でも……あの……」
「いいから、訊いてみなって」
言いつつ小蒔が葵の背中を押し、龍麻の正面へ移動させた。再度促され、葵が躊躇いがちに口を開く。
「あ、あの……龍麻くん……この水着……似合ってるかしら……?」
頬を朱に染めて問う葵。龍麻はそれには答えず、葵を見つめていた。
授業で彼女の水着姿を見た時には別に何とも思わなかったが、こうして見ると全然違っていて、清楚な印象を受ける。
「う、うん……すごく似合ってる……」
真っ赤になって、何とか答える龍麻。葵の方も、龍麻の言葉のせいか、それともその反応のせいかは分からないが、先程よりも赤みを増した顔でありがとうと呟く。
「「よーし、それじゃ、遊ぶぞー!」」
京一と小蒔が声をあげ、プールに飛び込もうとしたその時
「……ん? おい、あれは――」
「どうした醍醐? おおっ! あの形のいいバストと、極上の脚線美はエリちゃん!」
醍醐の声にそちらを向き、京一はその人物を見つけた。
(どういった覚え方をして……)
口には出さずにそうつっこんで、龍麻もやって来る人物――以前、渋谷の件で知り合った天野絵莉を見る。もちろんスーツ姿ではなくプールに来る格好、黄色のビキニに身を包んでいる。
「ふふっ、久しぶりね。こんな所で会うなんて、本当に奇遇ね。まさか――わたしの事、忘れてないわよね?」
サングラスを外し、見回してから、龍麻に視線を向ける。
「覚えていますよ。お久しぶりです天野さん、お元気そうで」
「みんなも元気そうね。相変わらず……危険なことに手を出しているの?」
何かを探るような彼女の視線を正面から受け止め
「聞くまでもないでしょう? そう言う天野さんこそ、厄介な事件を追いかけてるんじゃないですか?」
「さぁ、それはどうかしらね。でも、どうやらあなた達とは、また会うことになりそうね」
龍麻の問いに、はぐらかすような事を言うが、また会うと言った時点で認めているようなものだ。
「それじゃ、向こうで友達が待っているから。またね」
手を振って、天野はその場を去る。名残惜しそうに京一がその姿を見送っているが、龍麻、醍醐、葵の三人は顔を見合わせていた。
「気になるな……また、何か事件が起こっているのか?」
「そう言えば、ここに来る時に会った、水岐って人も気になる事を言ってたね」
「えぇ……海は全てを呑み込むとか、海の眷属が何とか……」
「それに、ミサちゃんも、亜里沙も何か言ってたっけ」
「ミサちゃん達も来てるの?」
「ああ。藤咲はもう帰ったようだが、最近港区のプールで客が減っていると……妙な噂があるとか言っていたな」
「ミサちゃんも、ここには何か出るって。やっぱり――」
「葵ーっ! 冷たくて気持ちいいよーっ」
真剣な話をしている側で、小蒔のはしゃぐ声がそれを中断させた。見るといつの間にやら京一と小蒔がプールの中にいる。
「ひーちゃんも醍醐クンも早くおいでよーっ」
「あいつら、いつの間に」
それを見てやれやれと溜息をつく三人。
「せっかく来たんだもの、水に入りましょうか」
「はははっ、そうだな……それじゃ、行くかっ」
醍醐がプールに飛び込む。あの巨体である、かなり大きな波が立ち、京一がそれに飲まれていた。
「行きましょ、龍麻くん」
「そうだね」
パーカーを脱ぎ、龍麻もプールに飛び込む。冷たい水が、暑さでダレた身体を引き締めてくれるような感じだ。
葵は飛び込まず、足からゆっくりと水に入ってきた。こういうところにも性格が表れている。
「……どうしたの?」
視線に気付いた龍麻がそちらを向く。何かに驚いたような表情を見せている葵だが、その理由は龍麻には分かっていた。多分、見えたのだろう。
「ひーちゃん、どうしたのその傷?」
続いて小蒔がそれを指摘した。
龍麻の背中、肩胛骨の間から左下にかけて大きな直線状の傷がある。どう見ても刃傷だ。
「これ? 高校二年生の時にちょっとね」
「まったく、ひーちゃんともあろう者が、背中を斬られるとはな。俺だったら絶対そんな事ねぇぜ」
傷がある事は知っているが、どういう状況でのものかは知らない京一が、そんなことを言う。
「そう? それじゃ、同じ状況を今度試してみようか?」
「あぁ、いいぜ」
「そう。それじゃ、スタンガンを浴びてもらって、その後で八人の不良に五分くらいタコ殴り――」
「ちょっと待てぃ!」
自信満々の京一だったが、さすがに顔色を変えた。慌てる京一を見て小蒔と醍醐が笑う。
「遠慮する……そ、それより醍醐。ゴーグル貸してくれよ」
「何に使う気だ?」
「オネェちゃんのおみ足を鮮明に見るためだ!」
「……断る」
そうするうちに、ゴーグルの争奪戦を開始する京一と醍醐。小蒔も面白がって京一に加勢している。
「龍麻くん。今の話って、二年二学期の乱闘騒ぎの?」
以前、アン子が入手した報告書から、大体何があったのかを知っている葵が問いかける。龍麻は無言で頷いた。
「それじゃあ、龍麻くんが《暴走》したのって、その時が――」
「二回目、かな。自衛のための《暴走》はその時が初めてだけど」
薄々と気付いていた事だが、龍麻の《暴走》は一つではないようだ。詳しい事は聞いていないので、どう違うのかはまだ知らないが。
龍麻は右手で自分の左肩辺りを撫でる。そこで葵は肩にあるもう一つの傷に気付いた。背中のものと同じく、刃物による傷だ。ただ、付いたのは別の理由のような気がする。
「葵さんには話しておかないとね。僕の《暴走》に関する事は全て。でないと、対策も立てられ――」
「おい、ひーちゃん! お前も手伝えよ!」
「龍麻! 京一と桜井をどうにかしてくれ!」
京一と醍醐がそれぞれ龍麻に助勢を求めてくる。話す機会を逸してしまった。
「……また、次の機会にしようか。せっかく今日は骨休めなんだし」
「ええ。どちらに加勢するのか分からないけど、頑張ってね」
「やっぱり二対一は卑怯かな」
そう言い、醍醐に加勢しようと龍麻が動こうとしたその時
「フフフッ。みんな、随分と楽しそうね」
「あれ? 今、誰か呼ばなかった?」
小蒔の問いに、皆の動きが止まる。龍麻にも確かに聞こえた。
「そうか?」
「ちょっと、上がってみましょうか」
葵の提案に従い、皆がプールサイドに上がる。そこにいたのは――
「あ、マリアセンセー!」
「こんな所で会うなんて、偶然ね」
担任のマリアだった。ただでさえグラマーなのに、水着――しかもハイレグということもあり、そのボディラインが一層際立っている。水着の赤とは対照的な白い肌が眩しい。
「センセー、すっごーい。大胆な水着ぃ。さっすがぁ」
溜息を漏らす小蒔に、アリガト、と微笑むマリア。
「でも、男の子にはちょっと、刺激が強かったみたいね?」
京一は大口で目を見開き、醍醐は真っ赤になったまま硬直している。龍麻は――意外なことに、大した反応を見せていない。高見沢、藤咲、葵の時とは違い、平然としている。やや、顔は赤いが。
「フフフ……ワタシも、まだそういう対象に見てもらえるってことかしら? でも、そういう目で見られるのって、女としては嬉しいけれど、教師の立場からすると少し複雑な気分だわ。桜井サンや美里サンに比べたら、こんなにオバさんなのに。ねぇ緋勇クン?」
「そんな事ないですよ。先生、美人なんですから自信持っていいです」
「もう、緋勇クンまで。でも、冗談でも嬉しいわ」
龍麻の言葉に、妖艶な微笑みで答えるマリア。これが下心ある男なら、また、彼女の「本性」を知らない男なら、一発で撃沈されているのだろうが、そこは龍麻である。平然と自分も笑みを返す。
「ところで先生、お一人ですか?」
「いえ、女友達と一緒にね。彼女に誘われて来たの。まさかあなた達と会うとは思わなかったわ」
「そうですか。で、どうです先生?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべ、龍麻が問う。
「どう、って?」
「この前言ってたじゃないですか、職員室で。僕の――」
「あ……そ、それじゃ、友達が待ってるから……」
軽く腕を広げ、続ける龍麻に、マリアはそれを遮るように言うと、そのまま行ってしまった。「あの件」を他の生徒に知られるわけにもいかないだろう。少なくとも教師が口にするセリフではなかったのだから。
「ねぇ、ひーちゃん。マリアセンセーどうしたの?」
「さあ……どうしたんだろうね?」
小蒔の質問に曖昧に答えつつ、ちょっとやりすぎたかな、などと反省する龍麻だった。
夕方になり、幾分過ごしやすい時間になってきた。とは言え、気温差による気怠さだけはどうしようもない。さらにほぼ一日遊んでいたこともあり、皆疲れているようだ。
「今日は久しぶりに、のんびり遊んだ気がするぜ」
「あぁ……後味の悪い事件が続いていたからな。どうだ、龍麻。お前も少しは気晴らしになったか?」
京一の言葉に頷いた醍醐が訊いてくる。どうも品川以来、皆には気を遣わせている。あれだけの事をした自分を責めることもなく、心配してくれている。それが龍麻にはとても嬉しかった。だからこそ思う。二度と同じ過ちを繰り返すまいと。
「うん。とっても楽しかったよ」
簡潔な感想だが、龍麻の表情を見て醍醐が破顔した。
「そうか。お前がそんな風に笑えるなら、今日は本当に、来てよかった」
「お、二人とも出てきたみたいだな」
男性陣より遅れること五分、女性陣が出てきた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「女性は髪を乾かすのに時間がかかるからね。仕方ないよ」
「でも、ひーちゃんも男の子にしては長いよね。もう乾いたの?」
尋ねる小蒔に、笑いながら龍麻が答える。
「まあ、人気のない所で、巫炎を調節してだね……」
「ホント!?」
「冗談だよ。いくら何でもそれは、ね」
「冷《氣》で涼をとるくらいだからな。やりかねねぇよ、ひーちゃんなら」
京一のツッコミに、違いない、と醍醐達も笑う。
「それより、いっぱい遊んだからお腹空いちゃったよ〜」
「そうだな。よし、帰りに新宿で何か食っていくか」
「いいねぇ。プールで泳いだ後のラーメンはまた格別だしなっ」
「また、ラーメンか……」
呆れる醍醐に京一は口をとがらせた。
「いいじゃねぇか。好きなんだからよ。それとも他に何かあるか?」
そう言われると、醍醐も反論できない。特に何がいいと決めていたわけではないからだ。
「いいんじゃないかな、ラーメンで? 久しく食べてないし」
「そうだよねぇ。この所、外食っていうとひーちゃんの家だったし。いいんじゃない?」
ハイ決定、と小蒔が歩き出す。結局、異議を唱える者もなく、龍麻達はもと来た道を戻ろうとして――
「「「「「――!?」」」」」
突然どこからともなく漂ってきた悪臭に五人は鼻を押さえた。
「なっ、何、この臭い……」
「生臭い――いや、それを通り越して、腐っているような……一体どこから……」
「プール……!」
周囲を見回す小蒔と醍醐だが、龍麻はその異臭の出所に気付く。
「キャアアアアーッ!」
「化け物よぉっ!」
プールの方から聞こえる女性客らしき人の悲鳴。プールの入口から次々と客が飛び出してくる。入口周辺は大混乱に陥った。
「化け物だとぉっ!?」
「龍麻、ここは――龍麻、どうしたっ!?」
指示を仰ぐべく龍麻の方を向く醍醐だったが、当の龍麻はその場に膝を着いて、額に汗を滲ませていた。醍醐の声に、他の者達も龍麻の様子に気付く。
「ひーちゃん!?」
「だ、大丈夫……忘れてただけだから……」
駆け寄る京一達に言うと同時に龍麻は《氣》を解放する。しかし、その《氣》はいつも龍麻が展開するものよりはるかに大きかった――《氣》の圧力で髪がなびく程に。
「龍麻くん、本当に大丈夫なの? 顔色も悪いし……」
「うん……京一、雄矢。悪いけど先に行って。すぐに僕も行くから」
「お、おう。無理すんなよ! 醍醐、行くぞ!」
「う、うむ!」
心配する葵に応え、未だに安定しない《氣》を制御しようとしながらも二人に指示を出す龍麻。京一と醍醐はプールへと向かうが
「駄目だ! 行ってはいけない!」
聞き慣れない声がそれを制止した。
「誰だ、お前?」
人の流れに逆らうように、一人の男子高校生が立っている。龍麻には見覚えのない人間だ。それは皆も同じだったらしく、突然現れたその少年に注目している。
「水の中では、人間は到底奴らに及ばない。それに今から行っても間に合わない。また何人か攫われた……この様子では、どうやら増上寺も奴らの手に落ちたな」
「君は?」
問う龍麻に目を向けた少年が、名乗る。
「僕は如月翡翠という。まあ、そんな事はどうでもいい。君たちは、一刻も早くここを離れて、今起こった事は、全て忘れてしまうことだ」
「んだとぉ!? いきなり出てきて、なに勝手なことぬかしやがる! てめぇが出て来なけりゃ、助けられたかも知れねぇだろ!?」
「僕はそうは思わない。助けに行った所で……」
かみつく京一には取り合わず、如月と名乗った少年は膝を着いたままの龍麻を見て、言った。
「犠牲者が増えるだけだ」
「て、てめぇ!」
「如月とか言ったか。あんたはどうしてそんなに落ち着いているんだ?」
跳びかかろうとした京一を羽交い締めにして醍醐が尋ねる。
「一体、何を知っている?」
「話してもいいが、きっと君たちは信じないだろう。それにこの一件に他人を巻き込むのは本意じゃない。僕は、ただ義務を果たそうとしているだけだ。この東京を護るというね」
「義務だか何だか知らねぇが、一人で解決できる問題なのかよ?」
ようやく大人しくなった京一が、醍醐の腕を振り解く。
「そんなもん背負い込んで、おっ死んじまってみろ、それこそくだらねぇぞ」
こちらを拒絶するような言葉を吐く如月だが、京一はそれが自分達の事を案じてのものだと気付いた。何の事はない、最近転校してきた男子生徒によく似ているのだ。何者も巻き込むまいと、全てを自分で背負い込んでいた親友に。
「……僕を心配してくれるのかい?」
「お前にそっくりで、何でも自分で抱え込む奴がいるんでな」
にやりと笑って京一は龍麻の方を見た。龍麻はというと、その言葉に苦笑している。それでも先程よりは落ち着いたようで、しっかりとその場に立っていた。
「少なくとも、今回の件が警察なんかに任せて片付くものじゃないって事は分かるよ。だからこそ、僕達は君の力になりたい」
龍麻の言葉に皆が頷く。如月は何か言おうとしたが、その時遠くからパトカーのサイレンが流れてきた。これだけの騒ぎだ、誰かが通報してもおかしくはない。
「悪いが、僕はこれで失礼するよ。せっかくの申し出だが、これは僕自身が出した答えだからね。ここであった事は忘れるんだ」
背を向け立ち去ろうとする如月。それを葵が呼び止める。
「あの、一つだけ! さっき、増上寺って……あそこが何だというの?」
「……あそこの地下には《門》がある」
こちらを向かずにそれだけ言うと、今度こそ如月は人混みに消えた。
「行っちゃった……一体、何者だったんだろ」
「考えるのは後にしようぜ。警察が来ると色々面倒だからな。ここは奴の言う通り、消えた方が良さそうだぜ」
別にここで何かをしたわけではないのだが、色々と訊かれるのも面倒なので、龍麻達はその場から離脱することにした。
芝公園まで一目散に走り、ようやく龍麻達は一息ついた。
「まったく、プールで泳いだ後に全力疾走なんてするもんじゃねぇ」
「走ったせいで、余計にお腹空いちゃったよ」
京一と小蒔はその場に座り込んでいる。葵も近くの木に寄り掛かり、肩で息をしていた。例外は醍醐と龍麻だ。かなりの距離を走ったはずだが、皆より疲労の色は薄い。
「それにしても、港区で一体何が起こっているんだ。プールから人が消え、そして化け物の噂」
「いや、化け物はいるよ。多分、ミサちゃんが言ってた奴だ。《氣》も感じた」
「ええ……確かにプールからそれらしい《氣》を感じたわ……」
呼吸が整わない状態で、それでも葵が会話に加わってくる。
「でも……一体どうしたの、龍麻くん? さっきのはまるで――」
「プールでその《氣》を感じたのはひーちゃんと葵だけだよ。ボクや京一達が分からないくらい弱かったんでしょ?」
「うん、そうなんだけどね。実は、全然《氣》を張ってなかったんだ」
苦笑しつつ龍麻が小蒔の問いに答えた。
「退院してから、一度も《氣》を纏ってないんだよ。もしもまたあの時みたいに、って思ったら、恐くてね。だから弱い陰の《氣》にも、まともに当てられちゃって。それで反射的に自分の《氣》を解放したんだけど、加減ができなくて」
普段から、龍麻は自分の《氣》を薄く自分に張り巡らせていた。それは、自分の感知能力をある程度抑えるためのものだ。そうすることで、直接負の感情や陰の《氣》を受けないようにしていたのだが、品川の件以来、《虐殺暴走》を恐れてその《氣》を消していたのだ。
「そっか。品川の時は自分の《氣》が原因だったもんな」
「でも、そんな事言ってられないよね。何とかしないと」
また何やら事件が起こっているというのに、何もせずにいるなどできない。それにこれは自分が克服しなくてはいけない事だ。
「しっかし、分からねぇのはあの如月って奴だな」
「彼は、この事件の真相を知ってそうな口振りだったわ。多分あの人も……」
「《力》の持ち主、か。まあ、奴のことはともかくとして、もう少し情報がいるな」
「って事は、やっぱアン子か。こういったのにはあんまり関わらせたくねぇんだけどな」
「明日学校で相談してみよう。今日の所は新宿へ戻ろう」
醍醐がそう締めくくり、とりあえず食事をして帰ろうという事になった。
「京一、雄矢」
その道中で、龍麻は女性陣には聞こえないように二人に声をかける。
「悪いけど、食事の後で付き合ってくれないかな?」
「ああ、構わんが……」
「どうしたんだ?」
「ちょっと、手伝って欲しいんだ。旧校舎へ行く」
その口調に込められた決意のようなものを感じ取り、二人はそれ以上何も聞かずに頷いた。