7月11日。新宿駅前。
「……あつい……」
 相も変わらず人が溢れているその場所で、龍麻は青い空を見上げながら呟いた。
 とにかく暑い。日陰に避難しているが、それでもこの暑さだけはどうにもならない。都会は暑いぞと故郷を出る時に誰かが言っていたのを思い出す。
(緑が少ないから、というよりビルが多いからなんだろうな)
 建ち並ぶビルに視線を移しながら、龍麻は烏龍茶の入ったペットボトルを空にした。側にある買い物袋にはまだ手をつけていないボトルが二つある。
 遅れるよりはよかろうと早めに来たことを少し後悔していたりする。
 そもそも龍麻は暑いのが苦手だった。服を着ればしのげる「寒さ」とは違い、暑いのは服を脱いでも暑いのだ。
 それでも最近はその暑さを克服する方法ができたのだが、この人混みでそれはできない。
 だらしなく座り込み、ボーっとしていると、聞き慣れた声が耳に届いた。水色を基調としたワンピースを着た葵がすぐ側に立っている。
「おはよう、龍麻くん……って、どうしたの?」
 覇気のない龍麻を見て、葵が問う。苦笑しつつ、龍麻は立ち上がった。
「いや、あまりに暑いものだから。暑いの苦手なんだ」
「そう言えばいつもより明るい服装をしているわね」
 今日の龍麻は薄い色のジーンズに、白のTシャツ。白の長袖シャツを、袖を使って腰に巻いている。黒や濃紺といった暗めの色を好む龍麻にしては珍しい。
 龍麻くんにも苦手なものがあったのね、と可笑しそうに葵が笑った。
「そういえば、小蒔さんは? 確か一緒に来るって言ってなかった?」
「ええ、途中までは一緒だったんだけど……何か忘れ物をしたからって……」
 そう言うと葵は空を見上げた。龍麻もつられて再度空を見る。
「今日も暑くなりそう」
 どこまでも青い空に、申し訳程度に浮かんでいる雲。この分だと今日一日は日が隠れることもなさそうだ。
「それにしても、昨日の京一くん、少し可哀想だったわね」
 思い出したのか葵が笑う。その言葉に、龍麻も昨日の事を思い出していた。



「ひーちゃん。明日、俺とプール行かねぇか?」
 唐突に、京一がそう提案してきた。何故かにやけながら。
「どうしたの、いきなり?」
「俺さぁ、い〜とこ知ってんだよ。ちょっと耳貸せ」
 声を落とすとそのまま龍麻に近寄り、こそこそと話し始める。
「港区の芝プールってとこなんだけどよ、近くの短大のオネェ様方が穴場にしてるんだとよ。行けば天国間違いなし、ナンパしほーだい!」
「……」
 一体、京一はどこからこういった情報を仕入れてくるのだろうか? 半ば呆れつつ考える龍麻。
「な、行こうぜひーちゃん。ヤツらには内緒でよぉ……」
「ふ〜ん、誰に内緒なのかな〜?」
 そこへ別の声が割って入ってくる。その声に後ずさる京一。
「げっ! こっ……小蒔!」
「へぇ〜、ふ〜ん。男ふたりでプールねぇ〜。確かに最近暑いもんねぇ」
 何やら言いたげに京一に詰め寄る小蒔。冷や汗など流しながら京一は追いつめられていく。そこへ小蒔の発言。
「そうだっ! どうせ行くならみんなで行こうよっ!」
「なにぃ!? お前なぁ、毎度毎度同じ手で俺達の邪魔ばっか――」
「あ! 葵ィー、醍醐クーン! 明日みんなでプールに行こうよーっ!」
 京一の抗議の声が届くはずもなく。
 いつの間にやら話はまとまっていた。



「結局みんなで行くことになっちゃって」
「いいんじゃないかな? その方が楽しいよ、きっと」
 龍麻としても、ナンパをしたいわけではないので、ある意味好都合だったのだが、それは京一には言えない。
(まあ、京一には悪いかもしれないけど)
 そんな事を考えていると
「ねぇ、龍麻くん。あの……私、龍麻くんに聞きたい事があるの……」
 思い詰めた表情で、葵が言う。その目には迷いのようなものも見て取れた。何だろうと思いながらも龍麻は頷く。
「ん、何?」
「龍麻くんは、今まで私達を導いてくれた。《力》に目醒めた後も色々気を遣ってくれて、そのおかげで私達は今もこうしていられる。それには感謝してるわ。でも、あれから……品川の件から、私ずっと考えるの」
 品川の件。その言葉に龍麻の表情が曇るが、それも一瞬でいつもの優しい顔に戻った。
「考えるって、何を?」
 何事もなかったように促す龍麻。心配させまいとしているのだろうが、ずきりと胸が痛む。自分の発言を後悔する葵だったが、どうしても聞いておきたかった。少し間を置き、決心して切り出す。
「自分には、何ができるんだろうって。私、役に立ってるのかな?」
 いつだったか、同じような事を言った仲間を龍麻は思い出していた。あの時とは状況も違うが、似たようなものだ。自信を無くして自分に疑問を持つ辺りは。
「時々、自信がないの……みんなのために――何かしたいのに……。だから教えて。龍麻くんの目から見て、私はどう見えるのか。役に立ってるのか」
「葵さんは、どうすれば役に立ってると思えるの?」
「それが分からないから聞いてるの」
「今のままで、いいんだよ」
 袋から烏龍茶を出し、口を開けてから
「葵さんの《力》は戦闘向きじゃない。だから、そう思うんだろうね。皆が傷つきながら戦ってるのに、自分はその時には何もできない。他の女性達、小蒔さんや亜里沙、ミサちゃん、それに舞子までもが攻撃の手段を持ってる。なのに自分は戦えない、それどころか最近癒しの《力》すら使う機会がない、そう思ってるんじゃない?」
 そう言い、喉に流し込む。葵はというと、龍麻の指摘に驚いていた。図星だったからだ。
「戦えないから役に立たない、じゃないんだよ。その様子じゃ気付いてないんだろうけど、癒しの《力》を使ってないのはどうしてだと思う?」
「え? それは、みんなが怪我一つすることなく戦えるだけ強いから……」
 消え入りそうな声で答える葵に、龍麻は首を横に振って見せた。
「防御や攻撃補助の《力》があるから、だよ。傷つく前に敵を倒せてるのも、本当なら目に見える怪我が、癒す必要のないかすり傷や打ち身で済んでるのは、葵さんの援護のおかげなんだから」
 一息ついて葵を見る。
「だから、自信を持っていいよ。それに、葵さんのおかげで一番助かってるのは僕なんだからね」
「私が? 龍麻くんの役に立ってる?」
 意外な一言だった。戦闘において圧倒的な《力》を持つ龍麻は、誰かの助けがなくても十分に戦える。その龍麻に自分が何をしてやれていると言うのか。
「うん。京一もそうだけど、葵さんの《氣》はね、僕を落ち着かせてくれる。直接何かしてるわけじゃないけど、自分を見失いそうになった時、それは何よりも心強いんだ。それに約束してくれたじゃない、僕を止めてくれるって。それだけでも僕には十分なんだけど、葵さんはそれだけじゃ満足できないかな?」
「そ、そんな事ない!」
 龍麻の表情が悲しげに見えたので、葵は慌てて手を振った。だが、それは演技だったらしく、葵の反応を可笑しそうに龍麻は見ている。
「そういう事だから、気負うことはないよ。自分で思っている以上に、みんなは葵さんに頼ってる。自分にできる事、焦らずこれから探していけばいいんだから。以上、指揮官から美里葵嬢への評価でした」
 ぽん、と肩に手を置いて微笑んでみせる。葵はやや頬を染めながら頷いた。
「ありがとう。私にできる事……今はまだ、分からないけど、それでもいつか――」
「葵、ひーちゃん!」
 その時、人混みの中から小蒔の声が聞こえた。そちらに目をやると、声の主と、さらにもう一人。
「小蒔と醍醐くんだわ」
「おっはよー! さっき、そこで醍醐クンと会ってさ」
「よぉ、早いな」
 二人がやって来た。小蒔は白のTシャツ(?)にショートパンツ。活動的な小蒔にはぴったりな格好だ。やはり暑いからだろうが、軽装である。しかし……
「雄矢。君、気は確か……?」
「なんだ、いきなり」
 醍醐の格好は……学生服だった。しかも冬服。龍麻が正気を疑っても罪はあるまい。
(いや、実はこう見えて、スーツみたいに夏用で、意外と涼しいとか?)
 暑さで溶けかかった頭でそんな事を考える。しかし、葵も小蒔も何故それを指摘しないのだろうか?
「しかし、今日は絶好のプール日和だな」
「ほんとね。晴れて良かったわ」
 固まってしまった龍麻をそのままに、葵達は話を始めている。そうするうちに京一も姿を見せた。醍醐の格好を見て、顔を歪める。
「おい、醍醐。お前なんだ、そのカッコ? 相っ変わらず、暑苦しいヤツだな……」
 ここにも正常な反応を示す人間が一人。どうやら自分が変なわけではないようだ。何となく、龍麻はほっとしていた。
「ふんっ、学生が学ラン着て、何が悪いんだ?」
「このクソ暑い中、よくそんな格好してられんな、って言ってんだよ」
「心頭滅却すればなんとやら、だ。まあ、忍耐とか我慢とかいう言葉を知らないお前には縁のない話かもしれんがな」
(夏に冬服を着る理由にはならないよ、雄矢……)
 口に出すのもしんどいので、龍麻は胸の中でそうつっこんでおいた。



 港区――芝公園。
「ふーっ。それにしても、今日もあっちぃなぁ」
 手で扇ぎながら京一。この辺りは木が多いので駅前よりはましだが、それでも暑い。更に蝉の声がそれに拍車を掛ける。蝉が鳴いているだけで、何となく暑く感じてしまうのはそれが夏を象徴するものだからだろうか。
「でも、学校以外では今年初めてのプールだもんね。ボク楽しみだなぁ」
「うふふ、そうね」
 この暑さでも女性陣はあまり暑いとは言わない。醍醐は先程から黙ったままだ。そして、龍麻は――
「龍麻、さっきからどうした?」
 気になっていたのか、醍醐が尋ねてくる。
「え、何が?」
「いや、胸の辺りを押さえているからな。体の調子でも悪いのか?」
「涼しいなぁ、って」
 その言葉の意味が分からず、首を傾げる一同。が、葵が一番に気付いた。
「龍麻くん……いくらなんでもそれはどうかと思うの」
 龍麻の手に宿る白銀の光を認めて、葵が指摘した。
 雪蓮掌の低出力版である。自分で作った冷《氣》で涼を取っていたのだ。確かにこれは人の多い場所ではできない。
「あー涼しい……」
「いいなぁ、ひーちゃん。……あ、見て見て! 東京タワーだよ!」
 口には出していなかったが、どうやら小蒔もこの暑さにはうんざりしてたらしい。龍麻を羨ましそうに見ていたが、視界に入った別のものを見て声をあげた。
「あったりめぇだろ! 今更、何言ってんだよ? そんなもん、見慣れてるだろうが」
「あ、東京タワーだ。へぇ、こんな所にあったんだ。こうして見ると、大きいね」
 うんざりした口調の京一とは対照的に、龍麻の声は明るかった。
「あ、そうか。ひーちゃん初めてなんだね」
「うん。まだまだ東京の名所って見に行ってないから。お寺とかも見て回りたいんだけどね」
「あ、そう言えば増上寺もここからすぐなのよ」
 龍麻の言葉で思い出したのか、葵が言う。
「お寺? 近くにお寺なんてあったんだ……」
「ええ。由緒正しい、古いお寺よ」
「確か、徳川家の菩提寺だったっけ。将軍の墓なんかもあったと思うけど」
 感心したように言う小蒔に、葵と龍麻が説明をした。
「東京タワーに寺だぁ?」
 勘弁してくれとばかりに不機嫌な声を出す京一。
「何考えてんだ、このクソ暑いのに。俺は、早くプールに行って、美人でナイス・バディのオネェちゃんと遊ぶんだ!」
「京一……お前の頭は、本当に女の事しか考えてないんだな」
 いつもの如く呆れる醍醐だが、そんな嫌味など通用する京一ではなかった。当然だ、と胸を張って答える。
「まったく……どうする龍麻? 別に俺は、どこかに寄るのも構わんが……」
「僕個人としては、増上寺に行きたい気分だけど……趣味だからね、寺社仏閣巡り」
「渋い趣味だな」
「くうぅ〜。ひーちゃん! やっぱ、お前はそういうヤツか!」
 よほど水着のオネェちゃんと遊びたいのだろう。京一が詰め寄ってくる。暑苦しい事この上ないが、そこは龍麻も京一の性格は把握していた。
「大丈夫だって。オネェちゃん達が京一をほったらかしにして帰るわけないじゃない。待っててくれるって。楽しい事は、後に取っておくのもいいものだよ」
「そっか? そうだよな。仕方ねぇ、さっさと寺でもどこでも行こうぜ」
 とっとと進む京一を見て「単純なヤツ」と小蒔が呟くのが聞こえたが、京一には聞こえなかったようだ。
「ま、いいよね。どのみちプールには行くんだし、ひーちゃんの希望もあるし」
「たまにはのんびり寺を見物するのも悪くはないな。ところで増上寺っていうのはどんな寺なんだ?」
 歩きながら醍醐が龍麻と葵を見る。その問いに葵が答えた。
「そうね――浄土宗増上寺は、室町時代に創建されたお寺で、1598年の江戸城拡張工事のために、この場所に移されて、徳川家の菩提寺として、徳川家康の尊崇を受けたの」
「ということは昔は江戸城の近くにあったんだな。龍麻もさっき菩提寺だとか言っていたが、徳川の墓があるのか?」
「ええ。でも、敷地の多くは太平洋戦争後に売却されてしまって、今は本堂の左奥に、ひっそりと立っているぐらいなの。それに、全部の将軍がここに眠っているわけじゃなくて、日光東照宮と谷中徳川墓地、それから上野の寛永寺にも眠っているのよ」
「ふーん……でも葵、どうしてそんなに増上寺のコト知ってるの?」
 そんなことを言ったのは小蒔だ。それは龍麻も気になった。自分と同じような趣味があるならともかく、こうもすらすらと寺の歴史について語れる者などそうはいない。
「ああ、たいしたもんだ。さすが、学年トップの成績だな」
「も、もう……そんなんじゃないわ」
 醍醐の言葉に、葵は照れながら答えた。
「何度か来たことがあるし、自分でも少し調べたの」
「調べた?」
「ええ。何か……すごく気になって。でも、どうしてこのお寺がそんなに気になるのか、自分でも、よく分からない」
 一瞬、不安げな表情を見せる葵。そして更に何か言おうとした時――
「ん? 誰かコッチに来るよ」
 小蒔の声に、皆がそちらを見る。天下の往来である。自分達以外に人がいるのは当然なのだが、小蒔の言った「誰か」は、明らかに龍麻達に向かってきていた。
「やぁ」
 物静かな雰囲気を漂わせた少年。年齢は自分達と同じくらいだろうか。茶色の長い髪をした細身の優男。この暑さの中、長袖のシャツなど着ている。
「この世界は、放蕩と死に溢れている。だが、それも美しき婦人たちの前では無に等しい」
 やって来るなり、そのようなことを口にする。それが誰のことを指しているのか――この場にいる女性は葵と小蒔だが、そちらを見てのセリフではない。だから
「なんか、ブツブツいってるよ……」
 と小蒔が漏らしたところで罪はあるまい。しかし、その言葉は少年の耳に届いたようだった。
「君――今、僕に何か言ったかい?」
「えっ、ボッ、ボク? 別になにも……」
 その問いに、小蒔は慌てて手を振って退がる。少年の方はと言えば小蒔の顔を見て
「君は美しい顔をしているね……」
 それを聞いた京一が、ぽかんと口を開けているのが見えた。呆れているのだろう。その褒められた本人も、わけが分からないといった表情を見せている。それには構わず少年は続ける。
「まるで、髑髏の上に腰掛けた乙女のようだ」
 そう言って、微笑む。最初の一言で終わっていれば、それでよかったのだろうが、後の一言のせいで龍麻はこの少年が何を考えているのか分からなくなった。小蒔が美しいかどうかはともかく(失礼かも知れないが)髑髏という言葉とワンセットでは、素直に褒めているように思えない。
 ようやく我に返ったのか京一の声。
「小蒔を見て美しいとは……こいつはかなりイカレてるぜ」
「きょ〜いち〜」
 いつもの京一の軽口に、いつもの如く反応する小蒔だが、そのやりとり自体はどうでもよいのか、少年は微笑みを崩さずなおも続けた。
「だが――美しいものほど、残酷で罪深きものはない……。――なんという惨劇。時こそが人の命を囓る。姿見せぬこの敵は、人の命を蝕んで、我らが失う血を啜り、いと得意げに肥え太るのだ――」
(電波の人?)
 一瞬そう思った龍麻だが、少年が同じく呆けている京一と小蒔にボードレールの詩だよと説明しているのを聞いて、その考えを撤回する。要は、詩を読んでいただけだったのだ。それが分からなければ、ただのアブナイ人にしか見えないが。
 一体何者だろうかと考えたその時、小蒔がそれを尋ねる。すると
「僕を知らないのかい? 詩人という高貴なる僕を」
 どうやら意外と有名人らしい。自分を知らない、と言われてショックだったのだろう、大袈裟な身振り付きで嘆いて見せる。
 しかし、葵は何かに気付いたようだった。
「そう言えば……港区の、セント=クライスト学院に13歳で文壇デビューした天才詩人がいるって……確か名前は水岐――」
「おお……」
 確かにここは港区だし、詩人と名乗っている事もある。でも、まさかと思った次の瞬間には、葵の言葉に少年が驚きと感嘆の表情を浮かべていた。
「君こそは、砂礫の砂漠にいる慈悲深き尼僧」
 相変わらず、言う事は詩的――というか解りにくかったが。
「僕がその水岐涼だよ」
「この人、天才だったんだ……どうりで、いってるコトが難しいワケだ……」
 聞きようによっては失礼なことを言っているのだが、水岐と名乗った少年は小蒔の独り言を気にする事なく笑う。絵になる笑みだ。
「僕の高貴な世界を理解できる人は少ない……ところで、そこの君……」
 不意に龍麻の方を見て話を振ってくる水岐。
「君は、海は好きかい?」
 唐突に「海は好き?」ときた。
 少し考えてから、龍麻は答えた。
「好きだよ」
 泳ぐのは好きだし、釣りもする。今の家族とも何度か遊びに行っている。嫌な思い出もあるが海は楽しい所だ。それに何があるか分からない不思議な場所でもある。
 とにかくその答えに水岐は満足したようだった。
「海が好きな人間は、僕の詩を理解できる人間だ。君のような人に会えて嬉しいよ」
 彼の詩を読んだ事はないが、果たして理解できるかは疑問だ。彼の言葉に、とりあえずそんな考えはおくびに出さず、笑みを返すことにする。
 そこへ、今まで傍観していた京一が不機嫌そうに口を挟んだ。京一にとってはこういった人種は苦手なのだろう。
「天才詩人だか何だか知らねぇけど、いきなり、海は好き? はねぇだろ……そんなこと、どうでもいいじゃねぇか」
「フフフ……どうでもいいことじゃないさ。海は偉大なんだよ。全てを生み出し、そして――全てを無に還す」
 言いようのない不安が走る。これが詩の引用なのかどうかは分からないが、確かに水岐の意志のようなものが最後の言葉に感じられたのだ。
「海は、全てを呑み込む。汚れた人間も腐敗しきった世界も――。今の世界は、一度海へと還るべきなんだよ……」
 途中から水岐の言葉は耳に入らなかった。龍麻の脳裏に以前相対した人物が浮かぶ。渋谷で敵対した鴉の王――
(この人は……唐栖に似ているんだ。まさか……)
 この少年も《力》の持ち主なのだろうか、そう考える龍麻。少なくとも今の時点では敵意のようなものは感じられないが。
「全てが海の底へ沈むんだ。誰も逃れることは叶わない――この世界はもうすぐ、海の眷属によって支配されるんだ――」
「俺達は、お前の妄想に付き合ってやるほどヒマじゃねぇんだよっ!」
 片手でこめかみを押さえながら、京一は木刀の入った袋を水岐に突きつける。しかし水岐は怯むことなく、悠然としている。やってられるかとばかりに舌打ちし、京一は皆の方を向いた。
「おい、こんな奴ほっといて、さっさとプールに行こうぜ」
「待ちたまえ……君たち、プールに――芝プールに行くのかい?」
「そーだよ! 悪ぃかっ!?」
 額に青筋を浮かべ、それでも律儀に反応する京一。
「いや……楽しんでくるといい。そうだ――今日、会えた記念に、君にこれをあげよう」
 言うなり、水岐は手に乗るくらいの玉を取り出し、龍麻に手渡した。一見するとただの蒼い玉なのだが、龍麻はそれが何であるのか知っていた。
 水神之玉。《氣》を込めることにより発動し、目標にダメージを与えることのできる道具だ。
「君、これをどこで……?」
 尋ねる龍麻だったが、当の水岐は、また会えるような気がするよ、などと意味深なセリフを残し、去ってしまった。
「行っちゃったよ……何が言いたかったんだろ?」
 去っていく水岐を見ながら小蒔が呟く。もちろん答えられる者は誰もいない。
「まあ……時間もくったし……。寄り道はまた今度にしてプールに行こうか」
 色々と気になる事はあるが、せっかくの骨休みだ。
 龍麻の提案に、皆が頷いた。



 港区――芝プール。
 夏。何と言っても海かプールである。ここ芝プールにも多くの人々が遊びに来ていた。こんなに賑わっているプールを龍麻は見た事がない。が、龍麻達――否、男子二人は妙に浮いていた。
「京一……どうしてお前は、こんな所まで木刀を持って来てるんだ?」
「そう言うお前こそ、何なんだその格好は?」
 京一と醍醐が、お互いを見て何やら言っている。龍麻は少し離れた所で他人のフリをしていた。
 まず京一。サングラスはともかく、こんな所にまで木刀を持って来ている。そして醍醐は、ゴーグルにシュノーケル――怪しさ大爆発。
(夏だからなぁ……仕方ないか)
 別に暑さのせいではないだろうが、そう納得しようとする龍麻。そこへ二人が詰め寄ってきた。
「おい、ひーちゃん。この際だから、はっきり醍醐に言ってやってくれ」
「いくら何でも、龍麻が言えば、さすがの京一も自分の馬鹿さ加減に気付くだろう」
 どうやら、自覚というものは持ち合わせていないようだった。龍麻は深々と嘆息し
「プールに木刀持ち込む人はいないよね。普通なら」
「ぐっ……!?」
「それから、シュノーケルをプールで使う人も初めて見た」
「むぅ……」
 それだけ言うと、龍麻は自販機で買った烏龍茶を喉に流し込んだ。
「ところで龍麻、お前のその格好は何だ?」
 醍醐が龍麻を指して問う。
 龍麻は普通に水着を着ている。ただ上半身は裸ではなく、パーカーを羽織っていた。しかし裾が長く、膝の上くらいまである。
「それで泳ぐつもりではあるまい?」
「泳ぐ時は脱ぐよ。でも、人目に晒すのもどうかと思ってね」
「そうだったな。まあ、余計な誤解を招くのもつまらんからな」
 龍麻の意図を察したのか、腕など組んで醍醐が頷く。そこへ
「おい、そこの二人組」
 突然聞き慣れぬ声が龍麻達を呼ぶ。そちらを見ると、青いスポーツタイプの水着を着たポニーテールの一人の少女が立っていた。
「二人組?」
「そうだよ。怪しげな格好してるお前らだ。他に誰がいるってんだよ」
 京一と醍醐は顔を見合わせた。自分達は三人のはずだが……。
 見ると、龍麻はいつの間にやらその場を離れ、ベンチに座って缶を傾けている。
「おい、ひーちゃん! なに他人のフリしてんだよっ!?」
 吠える京一を無視して、龍麻は茶をすする。
「なんだ、姉ちゃんこいつらの友達か?」
「ね……姉ちゃん……?」
 気の強そうな少女は龍麻に向かってそんな事を言う。龍麻は手に持っていた缶を取り落とした。
「友達は選んだ方がいいぜ。こんな怪しいヤツらと付き合ってると、ろくな事がねぇぞ」
「……」
「それより何か用があったんじゃないのか?」
 笑いを堪える京一を無視して、醍醐が尋ねた。どうやら「自分によく似た性格は正反対の女の子」を捜しているらしい。心当たりがないというと、一応礼を言ってそのまま去っていった。
「なんだ、今の女は」
「ははは。口の悪さはお前といい勝負だな」
「言ってろよ。しかし、ひーちゃん。やっぱ、上脱いだ方がいいんじゃねぇの? そんなんじゃ、オネェちゃんも寄ってこねぇぞ?」
「まあ……さすがにもう間違えられる事もないと思うけど」
 京一の言葉に、龍麻は肩をすくめて見せた。脱いでも問題ないだろうが、好奇の目に晒されるのは好きではない。龍麻の考えが分かっていて言ったのだろう、京一もそれ以上は言及しなかった。
「さて、と。そんなことより、美里と小蒔が来るまで、先に水に入ってようぜ」
「そうだな、少し汗ばんできたしな。どうだ龍麻。俺達で、少し先に泳いでこないか?」
 二人の提案に考える龍麻。すこしして首を横に振る。
「せっかくだけど、待ってるよ。先に泳ぐのも悪い気がするしね」
「義理堅いヤツだな。ま、いいさ。ひーちゃん、これ頼む」
 京一が木刀をこちらへ放り投げる。そのまま醍醐と一緒にプールへ飛び込んでいった。
 ひーちゃんは早く美里の水着姿が見たいんだろうよ、と言い残して。
「水着姿も何も……授業で見てるのに、何を今更……?」
 そんな事を考え、烏龍茶を一口。そこへ
「あの……すいません」
 いつの間にやら側に一人の少女が立っていた。長い黒髪を後ろで束ねた、ピンクの水着を着た少女。ひ弱な印象を受けるが、彼女の《氣》は決して弱いものではなかった。
「あ、あの……つかぬことをお伺いしますが……」
 丁寧な、というより古風な物言いの少女を見ながら、龍麻は妙な錯覚を覚えた。何となくだが、先程会った少女に似ているのだ。
「わたくしと、よく似た顔立ちの、女性を見かけてはいらっしゃいませんか?」
「多分、見たと思う。同じような質問をしてきた女の子がいたんだ。青い水着を着た――」
「おい、雛!」
 言いかけた龍麻だったが、聞き覚えのある声がそれを中断させた。先程の青い水着の少女だ。
「あっ、姉様!」
「まったく……急にいなくなるから、心配したんだぞ」
「ごめんなさい……姉様」
 思った通り、知り合いだったようだ。しかも、会話から察するに姉妹のようだ。年齢は二人とも自分と同じくらいに見えるが、双子なのだろうか。
「変な男にでも引っ掛かってんじゃないかと、思ってさ。よう、さっきの姉ちゃん。妹が迷惑かけてすまなかったな――って、どうした、不機嫌そうな顔して?」
「姉様、そんな言い方失礼ですわ」
 龍麻に声をかける姉だが、どうやら態度に出てしまったらしい。怪訝そうに聞いてくる少女に妹の方が咎めるように言った。意味が分からなかったのか、問い返す。
「失礼って、何がだよ?」
「殿方に向かって、姉ちゃんはありませんわ」
 その言葉に――姉の方の目が点になった。妹の方は自分が男だと気付いてくれたようだ。
「そういう事。自分で言うのも何だけど、変な男じゃないつもりだけどね」
「あ、その、えーと……すまなかったな。じゃ、オレ達はこれで……」
「あっ、姉様!?……申し訳ありません、姉様には後でよく言っておきますので。それでは、わたくしも失礼いたします」
 逃げるように去っていく姉。妹の方は、龍麻に頭を下げ、姉の後を追っていった。
 それを見送りながらふと考える。
「似てないけど、似てるのかな」
 見た目はともかく、《氣》の質が同じような気がする。同じ、というか同じものから二つに分かれた正反対のもの。陰と陽、表裏一体といった言葉が浮かんで消えた。
「双子は己が半身、か」
「おい、ひーちゃん。なにボーっとしてんだよ」
 そこへ、いきなり現れた京一が背中を叩く。その力に咳き込む龍麻。
「すこしは力加減をしてくれないかな?」
「へいへい。で、オネェちゃんの水着にでも見とれてたのか?」
「まさか。でも、どうしたの?先に泳いでるって……」
 戻って来たにしては、それ程時間は経っていない。不思議に思って尋ねると
「あっ、そうそう。向こうでなんかの撮影やってるみたいなんだ。ちょっと見に行かねぇか?」
「撮影? 誰が来てるの?」
「それを確かめに行くんだよ。小蒔が出てくると、またうるせぇだろうから――」
「あれぇ〜? こんなとこで会うなんてぇ、すっごい偶然〜!」
 どこかのんびりとした、脱力しそうな声が聞こえた。
「たっ、高見沢じゃないか……」
 何故か狼狽えている醍醐の声。そちらを向くと、黄緑色のビキニを着た高見沢がいる。何故かポーズまで決めて。
「うふふっ、元気ぃ〜?」
「おっ、お前って、結構、ナイスバディだったんだな……」
「えへへっ、わ〜い、ほめられたぁ」
 京一の一言に、喜ぶ高見沢。
(こういう時の女の子って、こういう反応するのが普通なんだろうか?)
 女の子というのはどうも分からない。そんな事を考えていると
「ひーちゃん、身体の方はもう大丈夫? どこかおかしくない〜?」
 と聞いてくる。こういうところは、さすが看護婦(の卵)だ。なるべく首から下は見ないようにして、答える。
「うん。どこも異常なし。普通に動くし、もう大丈夫」
「よかったぁ〜。でもぉ、無理はしちゃ駄目だよぉ」
「と、ところで高見沢……お前、一人でここに来たのか? まさか……」
 蒼い顔で醍醐が尋ねた。隣の京一も同じような表情だ。恐らく「彼女」が来ているのではないかと危惧しているのだろう。しかし高見沢の回答は、ありがたいことに二人の予想とは違っていた。
「看護学校のお友達さんとだよぉ。この近くの病院のお手伝いに行った帰りなのぉ」
「あれ、それだったら、友達が待ってるんじゃないの?」
「あ、忘れてたぁ。アイスが溶けちゃう〜」
 龍麻の指摘にそれを思い出したのか、高見沢はそのまま行ってしまった。
「あ、おい! 行くなら白衣の天使のお友達を――!」
「行ってしまったぞ」
 呼び止めようとする京一だったが、既にその姿はない。
「ひーちゃ〜ん! せっかく未来の白衣の天使ちゃんとお近づきになれるチャンスを〜!」
「はいはい。それより撮影はどうするの?」
 龍麻に食ってかかる京一。しかし龍麻はあっさりとそれをかわした。
「ひーちゃん、最近冷たいな……」
「行くの、行かないの?」
「……行きます」
 口では勝てないと悟ったのか、諦めて当初の目的である人だかりの方へ向かう。しかし、撮影はもう終わったらしく、スタッフが後片付けを始めていた。



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