6月24日。3−C教室、放課後。
 本日最後の授業が終わり、生徒達のある者は帰宅の準備を始め、ある者は部活へと向かう。そんな中、龍麻は教科書を鞄に放り込んでいた。
(今日の晩ご飯、何にしようかな)
 そんなことを考えていると、授業担当だった担任のマリアがこちらに声をかけてくる。
「何でしょう?」
「後で職員室へ来て。話があるの」
「話、ですか?」
 どうしたものだろうか、と考える龍麻。話の内容にここで触れないのがいかにも胡散臭い。が、ここで断って余計な勘ぐりを受けるのも避けたいところだ。
「了解しました」
 仰々しく敬礼する龍麻。それを見てマリアが笑う。
「フフフ……それじゃ、後でね」
「なんだ、呼び出しか?」
 マリアが教室を出ていくと、京一がやって来た。
「うらやましーねぇ。何にせよ、あんな美人に呼び出されるってのは男としてイイ気分だよなぁ。俺も、個人的に手とり足とり腰とり教えてもらいてぇもんだ」
「京一の場合、教えてもらいたい意味が違うだろっ!」
 その言葉に、京一は一瞬驚きの表情を見せた。が、すぐに不機嫌そうな顔に変わる。
「小蒔……人の話を立ち聞きするなんて趣味悪ぃぞ」
「よく言うよ。でかい声で、そんな話してる方が悪いんだよ。ね、葵?」
 小蒔に同意を求められて葵がおかしそうに笑う。
 そこへいつもの如く京一の一言。
「あのなぁ、美里。お前もこんな男女の言う事、真に受けるなよ」
「なんだよぉ」
「こいつはナンだ……ほら、見て分かんだろ? 女の服なんて着てるが、きっと男だぜ」
 何も言わずに聞いている三人。龍麻と葵は呆れ、小蒔は額に青スジが浮いている。気付いているのかいないのか、言葉を続ける京一。
「その証拠に胸がない!」
「……京一くん……」
「なんだい、美少年?」
 感情を感じさせない静かな声の小蒔に、京一は面白そうな目を向ける。
「ボクはチョット誤解してたよ。キミのコト、アホだアホだって思ってたけど間違ってた」
「うんうん、過ちは誰にでもあるもんだ。問題はそれに気付くかどうかだからな。俺のように、完璧な人間は、ナカナカいるもんじゃないぜ。な、ひーちゃん?」
「……そういう人間はね、自分で自分を誉めないものだよ」
「ちっ、お前だけは俺の事わかってくれると思ったんだけどな。俺の良さが分かんねぇとはカワイそうな奴らだぜ。ま、男は背のデカさじゃないからな。気を落とさず生きていくこった。なっ、桜井くん」
 そこまで言うと京一は大笑いを始めた。最早、龍麻にも葵にも、この男を止める気力はない。ほとほと呆れ果て、同時に溜息をつく二人。
 一方、もう一人の当事者は――
 同じく笑いながらも弓を取り出していた。弦も張り終え、矢も手にしている。
「どわっ! 小、小蒔……ナンだその弓は!?」
「ゴメン、京一……死んでくれ」
 そのままゆっくりと、矢をつがえる。
「お、落ち着け小蒔! いくら、お前より俺の方が背もナニもデカイからって……いくらお前がひーちゃんより女らしくないからって、いきなり殺すってのは……は!?」
 がし
「あ、あの〜ひーちゃん? この手は何かな〜?」
 背後に立った龍麻(無表情)が、京一の腕を掴み、動きを封じている。脂汗を流しながら問う京一に、龍麻は答えず小蒔に一言。
「せめて『普通』に射てね。血が出ると、後片付けが厄介だから」
「うん、善処する」
 そう言う小蒔ではあったが、既にその矢には《氣》が込められていた。
(ヤバイ……本当に殺される!)
 頭の中に警報が鳴り響く。何とかこの状況から逃れようと周囲を見回す京一。困った顔の葵、面白そうにこちらを見ているクラスメイト達。そしてその中にいつもいるはずの人間がいないことに気付く。
「あー! 醍醐が女ナンパしてる!」
「「えっ?」」
 その言葉に、思わず京一の視線を追う3−Cの面々。もちろんその先には誰もいない。
 しかし、その隙に京一は龍麻の拘束を振り解き、視線の反対――窓から飛び降りようとしていた。
「じゃあな、小蒔。また明日遊んでやるよ。はははははは!」
 そして、飛び降りる。
「こら、待て京一!」
 さすがに飛び降りるわけにはいかないのか、走って教室を飛び出す小蒔。もちろん弓を携えて。
 それを呆然と見送るクラスメイト達。やがて、我に返り、それぞれ動き出した。
 何度目かの溜息をつく龍麻と葵。顔を見合わせ、どちらからともなく笑う。
「あ――もうこんな時間。私もそろそろ行かなくちゃ」
 腕時計を見る葵。
「あ、生徒会だったっけ。頑張ってね」
「ええ。それじゃあ」
 龍麻が激励の言葉を贈ると笑みを返して教室を出ていった。
「さて、それじゃ僕も帰……っちゃ駄目だったんだ」
 先程の騒ぎで、すっかり忘れていた。マリアに呼ばれていたのだ。
「仕方ない、か」
 覚悟を決めて、龍麻は教室を出た。


 一階に下りると、奇妙な感覚に囚われた。
 放課後の一階。普段なら、この時間でも生徒達で賑わっているはずだが、生徒の姿が見当たらない。
 無意識に鞄の中にある手甲を確認する。いざ戦闘になれば、こんな物を装備する暇などないのだが、気分の問題だ。まあ、敵対する理由は自分にはないし、いきなりここで戦闘になることもないだろう。
 そのまま職員室の前まで来て、深呼吸一回。そして、ドアを開けた。
「失礼します」
「フフフッ、来たわね」
 蠱惑的な、というのだろうか――普段は出すことのないであろう声が耳に入ってくる。少なくとも、教師が生徒に対して出す声色ではない。
「そこの空いている椅子に座って。他のセンセイ方は、会議中でいないから大丈夫よ」
 確かに職員室には誰もいない。言われるままに座る龍麻。そして、気付いた事をマリアに問う。
「他の先生方は、ってマリア先生はいいんですか?」
「大丈夫よ、大事なところはもう済ませてあるから」
 言いつつマリアは脚を組み直した。正直、目のやり場に困る。
「アナタを呼んだのは他でもないわ。いつかみんなでお花見に行ったでしょ? その時のコトなの……」
「はあ」
 今更どうしたというのか。あの時、確かに自分達、特に龍麻と葵はその《力》をマリアの前で振るった。が、その時のマリアは、それ程驚いた様子ではなかった。
「あれからずっと考えていたんだけど、アナタたちのあの――《力》というのかしら……あれはなんなのかしら?」
 なんなのかしらと言われても、そんな事は龍麻にも分からない。教えてくれる者がいるわけではないのだ。
(何が言いたいんだろう?狙いは何だ?)
 意図が読めず、曖昧に頷くしか今の龍麻にはできない。
「超能力とは違うし、生まれ持ったものでもないようだし。アナタはどう? 《力》の源は何だと思う?」
「強い想い」
 きっぱりと即答する。これは今までの経験から出てくる結論だ。
「何かを為したいとか誰かを護りたいとか、そういった想いが《力》になると僕は思っています。花見の時にもそう言いませんでしたか?」
「そうだったわね。でも、あの時はまさかこういった《力》の事を指しているとは思いもしなかったわ」
 そう言って笑うマリアに龍麻は苦笑する。自分だってそんなつもりで言ったつもりはない。
「強い想い、ね。友情とか愛かしら。龍麻クンらしいわ」
「悪い意味でなら怒りや憎しみといったところですね」
 龍麻の口調がいつもとは違うことにマリアは気付いたが、それについては言及しなかった。
 お互い無言の状態が続く。
「ワタシはね龍麻クン……こう思うの。アナタ達の――いいえ、アナタの《力》は何かの鍵なんじゃないか……って」
「鍵、ですか?」
「そう――例えば、何か別の大きな《力》を手に入れるための」
(この人は……僕の《力》の事を何か知っているのか?)
 自分の《力》が他の仲間とは違う――マリアの言葉にはそういった意味合いが含まれている。確かに生まれながらにしてその《力》の一部は常に龍麻と共にあった。それが次第に大きな《力》へと「成長」しているのも分かる。だがそれは本人だからこそ分かることだ。
(先生の言葉が仮に事実だとして……別の大きな《力》って何だ? 先生は他に何を知っている?)
「ネェ龍麻クン……」
 気付くとマリアの顔が自分のすぐ近くにあった。碧の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「うわっ!?」
 思わず後ろへ下がる龍麻だが、椅子は後方の机に当たって停止し、それ以上の後退を許さない。その狼狽ぶりにマリアが笑う。
「ちょっと、ここで服を脱いでくれる?」
「は……!?」
 マリアの言葉に龍麻は自分の耳を疑う。幻聴とは違う。間違いなくマリアの口から出た言葉だ。
「アナタの体を見たいの……」
「あ、あの……それはちょっと……」
(ど、どうしてこんな展開になるかな)
 顔が熱くなるのを感じながら龍麻は混乱した頭で考える。しかし信じられない事に龍麻はその言葉に頷いていた。もちろん自分の意志ではない。
(まさか……!)
 マリアの目は相変わらず自分の目を見ている。その瞳が普通ではない輝きを宿している事にようやく気付いた。
(魅了の瞳――チャーム・アイ!)
 以前、凶津の事件の時に、裏密から邪眼の話が出た。あの時は石化に関する話だったが、邪眼そのものには様々な効果がある。石化、金縛り、そして魅了等。
(迂闊だった……)
 が、後悔先に立たず。もう遅い。
「アリガト……それじゃ――」
 言いつつ手を伸ばしてくるマリア。抵抗しようにも体が動かない。
 これからどんな目に遭うのか。教師と生徒の一線を越える位で済めば御の字だ――それはそれで困るのだが。
 まな板の上の鯉、などと思わず考えてしまう龍麻。その間にもマリアの手が龍麻のシャツのボタンに掛かり――
 ガラッ!
 絶体絶命かと思われたその時、職員室のドアが派手な音と共に開いた。
「よぉ、緋勇じゃないか。何だ、なんか悪さでもしたのか?」
「犬神……センセイ。何でアナタがここに……?」
 生物教師が龍麻の姿を認め、そんなことを問う。マリアは犬神の出現に驚いたようだった。
「ん? どうしましたマリア先生。恐い顔して」
「マリア先生。ここは職員室ですよ? 犬神先生がいてもおかしくないじゃないですか」
 術から解放された龍麻の言葉に、犬神が笑う。
「そうですよ。いやあ、僕がいくら物臭さな教師だからってひどいなぁマリア先生」
「そ、そうね……」
 二人にそう言われてはマリアもそう頷くしかない。もっとも職員室内には不穏な空気が満ち始めている。言うまでもなく発生源はマリアだ。
「緋勇クン……もう行ってもいいわ……」
「あ、僕の事なら気にせず、話を続けてください」
 疲れた口調のマリアに、挑発するかのような犬神の一言。一瞬マリアの表情が引きつるのを龍麻は見逃さなかった。
(珍しいものが見れたな)
「緋勇クン、ありがとう。この続きはまた今度……ね」
「そうですね。待ってますよ」
 心にもないことを言って、龍麻はこの異空間から逃げ出そうと出口に向かう。そこへ犬神が声をかけた。
「そういや、緋勇。お前、旧校舎には入ってないだろうな?」
「入ってませんよ」
 連絡無しには、と心の中で付け加える。鍵をもらって以来、報告の義務は一度たりとも怠っていない。
「何か騒ぎでもあったんですか?」
 先日の『騒動』の件をさりげなく持ち出してみる。表面上はマリアに変化は見られない。
「いや。入っていないならいい。もう一度だけ言っておくが、あそこには近付くな。あそこは――良くない……」
 誰に対しての言葉なのかはこの際言うまい。
「それともう一つ。以前頼まれていたものだがどうする?」
「今、手元にあるんですか?」
「いや、生物室だ」
「取りに行きますよ」
「そうか。なら、俺も行こう」
 よく分からないやりとりをして、龍麻はマリアに会釈をすると犬神と共に職員室を出た。
「はあ。助かりましたよ犬神先生」
 廊下に出るなり溜息をつく龍麻。あのままだったらどうなっていたことか。
 頼まれ事など何もない。要は職員室を二人で出る口実だ。
「お邪魔だったか?」
「勘弁してくださいよ。でも、これで僕を警戒するようになりましたかね?」
「大丈夫だろう。普通の人間ならあの状況で身動きできないのを緊張と受け止めるだろうからな。お前が術に気付いたなどとは思っていないはずだ」
「今まで通りに接しておけばいいですね」
 先刻の邪眼の件である。まあ、邪眼などと言う発想自体、普通の高校生にはできないだろう。それを承知でマリアも仕掛けてきたはずだ。
「でも先生、今は戻ってるみたいですけど、この辺りに何かありましたか?」
 人の気配がいつも通りに感じられる廊下に気付いた龍麻が尋ねる。
 犬神は黙って入口の左下を指した。
 何かの落書きを拭き取ったような跡がある。
「六道迷符の印だ。人を遠ざける働きがある」
「便利な物ですね。僕にも使えますかね?」
「悪用するなよ」
 それでもその手順を龍麻に教える犬神。
「まあ、お前のことだから大丈夫だとは……」
「あら? 龍麻君じゃない。元気?」
 そこへアン子が現れた。
「何、呼び出し? 龍麻君も見掛けによらずワルねぇ。誰に呼び出されたの?」
「マリア先生だけど」
「ふーん。でも、ちょっと嬉しいんじゃないのぉ。美人に呼び出されて」
「何を期待してるのか知らないけど教師と生徒だよ。マンガやドラマみたいにはいかないって」
 そう言って肩をすくめると、アン子はつまらなそうに横を向いた。
「なーんだ。ま、いいわ。龍麻君は新聞部のいいネタ――じゃなかった、お客だから、あたしもいろいろ期待してるって事、忘れないでよ」
 期待されても困るんだけどな、と胸中で呟く龍麻。
「それじゃ、あたしも犬神先生に呼ばれてるから――」
「悪いな緋勇、続きは今度だ」
「はい。それじゃあ失礼します」
 会釈をしてその場を去る龍麻を、再びアン子が呼び止めた。
「そう言えば、校門の所に女の子が待ってたわよ」
「女の子?」
「もぅ、隅に置けないわね。このぉ、えっちぃ」
 冷やかすアン子だが、龍麻にはその女の子に心当たりがない。強いて言えば藤咲か高見沢だろうか。校外の女の子の知り合いといえばそれくらいだ。
 とりあえず、会ってみないと何も始まらない。礼を言うと龍麻は校門へ向かった。


 真神学園正門前。
「緋勇さん」
 校門で待っていたのは比良坂紗夜だった。
「あの、ごめんなさい。突然来てしまって……」
「別に構わないよ。どうしたの?」
 意外ではあったが、そう尋ねる。
「この間のお礼が言いたくて、それで――」
 そう言えば、杉並の事件の際に、不良(?)に絡まれていた事があったのを思い出す。
「あの時は本当に助かりました。ありがとうございます」
「お礼を言われる程の事はしてないよ。実際、あいつらは勝手に逃げていったし。まあ、何事もなくてよかったけど、ああいうのがいる場所では気を付けなきゃ駄目だよ」
 諭すような龍麻の言葉に、頬を染めながらはいと頷く。そして、躊躇いがちに口を開いた。
「実は……今日はお願いがあるんです。ええと――」
「?」
「今からわたしと……デートしてくれませんか?」
(デート……日付、年代、会合の約束……異性と会うこと)
 どのデートの事だろうなどと思いつつ龍麻は比良坂を見る。その表情は真剣そのもの、どうやらからかっているわけではないようだ。
「……デートって、僕と?」
 無言でこくんと頷く比良坂。その顔は真っ赤だ。
(こういう場合はどうすればいいんだろう?)
 デートの誘いなど一度も受けたことのない龍麻は本気でそんなことを考えていた。ただ、ここで断れば彼女が悲しむのではないか、ということくらいは分かる。
「僕でいいなら喜んで」
 微笑み付きで返事をすると、比良坂は心底嬉しそうな表情を浮かべる。
「でも、どこに行くとか言われても僕も東京の地理には詳しくないから……どうしようかな?」
「わたし、行きたい所があるんです。そこで構いませんか?」
「うん。それじゃ、任せるよ」
 比良坂の案内に付いて行く龍麻。その姿が見えなくなった頃、一人の男子生徒がひょっこり現れた。
「ありゃ紗夜ちゃんと……ひーちゃんじゃねぇか」
 蓬莱寺京一その人である。小蒔の追撃をかわして校門近くに潜伏していたのだ。
「へぇ、ひーちゃんもなかなかやるねぇ。しかし大丈夫かね、こーいった事に慣れてねぇだろうしな」
 異性関係にはてんで鈍い龍麻である。少し心配になると同時に野次馬根性が湧き出てくる。
「こりゃ親友としては、ちゃんと見届けてやらねぇとな」
 尾行を開始しようとした矢先、背後から怒声と矢が飛んできた。もちろん反射的に避けている。矢は校門の壁にあっさりと突き立った。
「見つけたぞ京一! 観念しなよ!」
「げ、小蒔!?」
 どうやら諦めていなかったらしい。いつの間に補充したのか、矢筒には矢がぎっしりだ。
「今なら《力》無しの十射で許してあげるよ!」
「そんなに食らったら死ぬだろうが!」
「世のため人のため全ての女性のため……死ね!」
「無茶言うな〜!」
 京一の計画は、実行されることはなかった。



 しながわ水族館。
「わぁ、かわいい。おいでっ」
 水槽の前で、魚相手に比良坂がはしゃいでいる。こうしてみると普通の女の子だな、と龍麻はそれを見ながら考えていた。
 その視線に気付いたのか、比良坂は龍麻の方を向く。
「あ、ごめんなさい。一人ではしゃいじゃって」
「ん? 気にしなくてもいいよ。僕も楽しんでるから」
 水族館に来たのはこれで二度目だ。物珍しさもあって、比良坂ほどではないものの、龍麻も鑑賞を楽しんでいた。
 龍麻の言葉が嬉しかったのか、比良坂がえへへと笑う。
「ただ……緋勇さんにわたしの住んでる街を見せたくて」
「いい所だね。身近にこういった場所があるのはいいよね。いい気分転換になるし」
「そうですね。それじゃ、そろそろ出ましょうか」
「もういいの?」
「ええ。行きましょう」
 二人は水族館を後にした。


「緋勇さん。見て見て、魚がいますよ」
 少し歩いて近くの公園に入る。池の側で魚が跳ねたのを見て比良坂が声を上げた。
「あ、でも魚なら水族館で見てきましたよね」
「そうだけど、あっちのは普段見ることのない魚だからね。こういう場所のとはまた違うよ」
 返事をして龍麻は周囲の木々に目を向ける。どんな場所でも緑があると落ち着く。特にこの東京という土地では。
「緋勇さん、一つ聞いていいですか?」
「ん、何?」
「緋勇さんは奇跡って信じますか?」
 池の側から戻ってきてそう質問してくる。少し考えて、龍麻は答えた。
「信じるよ。単に超常の力としての奇跡もそうだけど、人の想いが起こす奇跡もね」
「人の想い……愛の奇跡ですか? 緋勇さんって夢があるんですね」
 そう言った比良坂が一瞬儚げに映る。
「わたしは奇跡なんてないと思います。だって奇跡があるなら――大切な人を失う事なんてないじゃないですか」
 表情は変わらないが、その声には深い悲しみが感じられる。過去に何かあったのだろう。大切な人を失った何かが。
(大切な人、か……)
 杉並の事件以来、龍麻は過去を思い出すことが多くなった。そして今も、昔の記憶が呼び起こされる。
「……緋勇さん?」
「あ、何?」
「ごめんなさい、変なこと言っちゃって……」
 龍麻の様子から何かを感じたのだろう、比良坂が謝ってくる。そして別の話題を切り出した。
「わたしね、夢があるんです……何だと思います?」
「うーん、女性の夢なら結婚とか」
「そうですね、愛する人と結ばれるのもいいかもしれませんね」
「って事は、ハズレ?」
「わたしの夢……えへへ、笑わないでくださいね。実は看護婦さんになる事なんです」
 看護婦と聞いて、仲間の一人が頭に浮かぶ。
「あの……変ですか? こんな夢……」
 恥ずかしそうに問う比良坂に、そのまま彼女――高見沢の格好を重ねてみた。格好で決まるものでもないが、似合いそうだ。
「そんな事はないよ。比良坂さんならいい看護婦さんになれるよ、きっと」
 その言葉に、頬を染めて微笑む比良坂。が、その状態も長くは続かず、寂しげな表情になる。それを気取られまいとしたのか、彼女は龍麻から視線を逸らして池の方を向いた。
「わたし……小さい頃に両親を亡くしてるんです」
 先程の話。その中に出てきた大切な人とは両親の事だったのだ。
「飛行機事故で……たくさんの人がその事故で死にました。わたしは……父と母に護られてほとんどケガもなかったそうです。でも父と母は――。だからかもしれません。看護婦さんに憧れるのは――。看護婦さんになって苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。誰かの命を……」
 そこまで言って、比良坂は龍麻に視線を戻した。
「ごめんなさい。こんな話して……」
「話せば楽になる事もあるよ。僕には聞く事しかできないけど、また何かあればいつでもおいで。お兄さんが相談に乗ってあげるから」
 そう言って龍麻は比良坂の頭を撫でてやった。
「もう、子供扱いしないでくださいよぉ」
「ははは、ごめん」
 怒った素振りを見せる比良坂だが、声は笑っている。
「もう……帰ります。今日はつきあってくれてありがとうございました」
「うん。気をつけて帰――」
 言いかけて、止まる。
「ごめんなさい……!」
 辛そうな、悲しそうな顔でそう言うと比良坂はそのまま駆け出した。
 何が起こったのか分からずその場に立ち尽くす龍麻だったが、我に返り慌てて比良坂を追いかける。しかしその姿はどこにもない。
「一体……どうしたんだろう?」
 別に龍麻が何かをしたわけではないし、何かを言ったからああなったのではないのだが、気になる事には変わりない。問い質したいところだが、見失ってはそれも無理だ。
 どうしたものかと考えながら――ふと足下に落ちている物に気付く。
 拾い上げてみると、それは仲の良さそうな兄妹が写っている一枚の写真だった。



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