渋谷区――某所。夜。
 一人の男がビルの上から街を見下ろしていた。黒い長髪、黒のコート。漆黒を身に纏うも、その格好とは対照的な蒼白い顔をした、少年とも言える若い男。その右肩には羽を休める一羽の鴉。
 眼下に広がる景色――光の海。
「不浄の光に包まれし街――滅びを知らぬ、傲った人間共。この街は、汚れてしまった」
 独り言ちる男に答えるかのように、肩の鴉が一鳴きする。
「いや、この街だけではない。留まる事を知らない人間の欲望は全てを汚す。……人は淘汰されるべきなのだ……《力》を持つ者によって……」
「それはどうかと思うがな!」
 突然背後からの声。振り向きもせずに男はその場を跳び退く。一瞬遅れて先程までいた場所に閃光が走った。
「随分な仕打ちだね……」
「そうかい? お前がやってることに比べりゃマシだろ」
 現れたのは逆立つ金髪の若い男。胸に赤い十字架を入れた学生服、その手には長い棒のようなもの――槍が握られている。
「選ばれし者の証である《力》を持っていても……力を貸してはくれないのかい?」
「お前ほど人間を見限ってないンでな。気持ちは分からンでもないが、やっていいことと悪いことがある。止めさせてもらうぜ」
 金髪の男の構えた槍が光――いや、雷を帯びる。
「僕を止められるのかい?」
 その声に応えるかのように、黒髪の男の周囲に闇が集う。その正体は無数の鴉だ。
「止めるさ」
 金と黒、二つの影がぶつかり合った。



 4月13日。3−C教室、放課後。
「よお、龍麻」
 授業も終わり、クラスメイトが次々と教室を出ていく中、醍醐が声をかけてきた。
「授業も終わったことだし、他の奴らも誘って、ラーメンでも食いに行かないか?」
「いいけど。でも雄矢、昼は食べてたよね?」
「うむ。しかし、この時間になると、どうも腹が減ってな」
「まあ、燃費は悪そうだけど」
 こいつめ、と醍醐が龍麻の頭をかき回す。そこへ美里がやって来た。
「おっ、ちょうど良かった。美里、お前も一緒にラーメンを食いに行かないか?」
 醍醐の問いに葵がうふふ、と笑う。
「醍醐くんたら京一くんみたいなこと言って。でも……私も行っていいの?」
 そう言ってくる葵に、もちろん、と龍麻は返した。
「食事は人数が多い方が楽しいしね」
「ありがとう、龍麻くん」
「よし、決まりだな」
 続いて小蒔と京一、つまりはいつものメンツに声をかける。もちろん断る者はいなかった。
「よし、それじゃあ……」
「ちょおっと待ったー!」
 聞き慣れた声に京一が顔をしかめる。声の主、アン子が教室へ入ってきた。
「そこのいつもの五人組〜ちょっとでいいからあたしの頼みを聞いてみない〜?」
「遠野さん……別にいいけど……」
「やっぱり緋勇君は頼りになるわ〜。お礼にこれあげちゃう」
 上機嫌でアン子は真神新聞を龍麻に渡した。トップはレスリング部関連だ。どうやら活動を再開したらしい。
 しかし、上機嫌なのはアン子だけだった。
「聞きたくない……」
「俺も同感。お前の頼みを聞くとロクなコトにならねぇ気がする」
 小蒔と京一が即座に反対する。醍醐も乗り気ではないようだ。
「悪いが俺達はこれからラーメンを……」
「何よっ! あたしの話とラーメンと――」
「「ラーメン」」
 問答無用で京一と小蒔が言い切った。
「お前の味方しても何の得もねぇしな。こき使われるのがオチだ。なんせ、お前は口がうまい上にとんでもねぇ守銭奴だ」
「ちょっとっ! 勝手なこと言わないでよね! 誰が守銭奴――」
「この間の花見」
 京一のその言葉にアン子の顔が引きつった。
「一枚三百円。何人に売ったか知らないが、二十人は下らねぇだろ?」
「京一、何の話だ?」
「わーっ! わーっ!」
 慌てるアン子だがもう遅い。
「花見の時、こいつ龍麻の写真撮ってたろ?」
 私服姿の龍麻の写真。そんなこともあったが……確かあの時のアン子の言葉は……
「お前、本当に売ったのか?」
 醍醐の問いに、あははと乾いた声で笑うアン子。そのまま恐る恐る龍麻の方を見る。
「……怒ってる?」
「いや、そんなことはないけど……何枚売れたの?」
「現在百二十六枚。校内だけで。まだ伸びるわよ、多分」
 百二十六かける三百……三万七千八百円也。
「……やっぱ、守銭奴じゃねぇか。随分稼いだなぁ、アン子?」
「あう……」
「しかも龍麻に断りもなく」
「……分かったわよ。緋勇君には後でモデル料を払うから……」
「いや、それは別に……そうだ、遠野さんもラーメン食べに行く?」
 気落ちしているアン子に、龍麻はそう提案した。
「モデル料はいいから、みんなにラーメン奢るってことで。それに、もしかしたら話を聞いてくれる人がいるかもしれないし」
「やれやれ……龍麻はお人好しだな……」
「よっしゃ! そうと決まれば話は早い。頼みでも何でも聞いてやるから行こうぜ」
 京一がいつもの袋――以前より膨らんでいるが――を振り回して言った。
「ま、いいか。ラーメンもタダだし、アン子の話も実はちょっと気になるしね」
「……そうだな、俺達も付き合うとするか。しかし、龍麻は本当にいいのか?」
「何が?」
「写真の件だ。肖像権というものが……」
「別にいいよ。隠し撮りされたわけじゃないし。それに今から回収するのもかわいそうだしね。ただ、一枚三百円で僕の写真が売れる方がよっぽど不思議だけど。物好きが多いね、この学校」
 その発言に思わずハニワ化する醍醐。気にすんな、と京一が醍醐を現実へ引きずり戻した。
「こいつは環境が特殊だったから仕方ねぇのさ。……おい、龍麻。今度俺と一緒にナンパしに行くか? お前がいれば成功間違いなし!」
「やめといた方がいいと思うよ」
「何だよ、お前も行くか美少年?」
 京一の言葉に普段なら怒るところだが、にやにやしながら小蒔が反撃した。
「どーせみんな龍麻クンに流れるんだから。惨めになるだけだって」
「あははは、言えてるわねそれ」
 声を出して笑い出す小蒔とアン子。やれやれ、と醍醐が溜息をついた。
「お前ら……ラーメン食いに行かないのか?」


 真神学園正門前。
 いざラーメン屋へ、と外に出ようとした矢先のこと。
「そういえば犬神先生の姿を今日は見てないけど……」
 最近色々と彼に世話になっている龍麻の一言。それに京一が反応した。
「何だよ、龍麻。あのヤローがどうかしたのか?」
「……京一、教師に向かってあのヤローはないんじゃないかな?」
「いいんだよ! いつも俺を目の敵にしやがって……」
「それは自業自得と言うんだ」
 情け容赦ない醍醐のつっこみが京一に直撃する。
「京一は犬神先生が嫌いなんだね」
「当たり前だ! マリア先生ならともかく、誰があんなくたびれたイヤミ中年に好感を持つもんか。俺はアイツのことが……!」
「俺が何だって? 蓬莱寺京一」
 話題の当事者がいつの間にやら京一の背後に立っていた。生物教師犬神杜人。
 にやにや笑いながら問う犬神に、京一の顔は驚愕の表情から次第に蒼ざめていった。
「そ……そりゃもちろん……好きに決まってるじゃないですか……やだなぁ先生。あはははは……」
「まぁいい。ところで緋勇、お前らこれからどこへ行くんだ?」
「これから皆でラーメンを食べに。遠野さんの奢りで」
「遠野の……? 珍しいこともあるもんだな」
 名指しで問う犬神。正直に龍麻が答えると、自分の生徒を前にそんなことを言った。
「そ……そういえば先生。さっき廊下でミサちゃんと何か話してませんでした?」
 話題をすり替えるかのようなアン子の言葉に京一と醍醐の顔が曇る。
「犬神と裏密……最悪の組み合わせだな……」
「いい度胸だな蓬莱寺。まあ、ちょっと面白い話を聞いただけだ。未の方角に禽と獣の暗示が出てるとな」
「未……南南西ですか」
 犬神の言葉に少し考えて龍麻が呟く。正直なところ、龍麻は裏密の占いを信頼していた。旧校舎の件、中央公園の件と色々と世話になっている。
「それで……他には何か?」
「いや、後は陰陽系の占いに凝っているとか言っていたが……お前達には今の件だけだ。それから緋勇、お前にはもう一つ。これを渡してくれと頼まれた」
 犬神は白衣のポケットを探り、布製の鉢巻きのようなものを龍麻に差し出した。
 黄色、いや金色の地に目のような模様が刺繍された風変わりな代物だ。確か密教系でこのような法具があったような……。
「金箆だな。阿闍梨が灌頂の時につけるものだ」
 その説明にああ、と納得する龍麻。いずれにせよ何らかの《力》が宿っているようだ。黒魔術系としか思えない霊研に何故密教系の法具があるのか疑問の残るところだが、先程も陰陽道がどうとか言っていたし、随分幅広く手がけているようだ。
「どういう意図でそれを渡してくれと言ったのかは分からんが、せっかくだ。もらっておけ。それと寄り道も結構だが、厄介事には首を突っ込むなよ。最近はこの辺りも物騒だからな……」
 犬神の言葉にアン子が肩を震わせた。どうやら先程の頼み事というのは厄介事らしい。それもかなりの。
「それと緋勇、ちょっとこっちへ来い」
「……何です?」
 皆から少し離れた場所へ移動し、声を抑えて何やら話している二人。
「何話してるのかしら?」
「アン子、お前集音マイクとか持ってないのか?」
「あるわけないでしょ。あたしは盗聴屋じゃないわ」
 少しして龍麻が戻ってくる。犬神はそのまま校舎へと消えた。
「何の話だったんだ?」
「ん? いや、別に。生物関係の調べもの。聞きたい?」
「冗談だろ。勉強の話なんてお断りだ」
 大袈裟に肩をすくめる京一。それを見て皆が笑う。
 そのまま龍麻達はラーメン屋に向かった。



「そう言えば醍醐君。佐久間が入院したって話、知ってる?」
 注文を終え、唐突にアン子が訊ねる。醍醐はもちろん、他の者も初耳らしい。あたしも今日入手したばかりなんだけど、と前置きしてアン子は続ける。
「何でも渋谷にある高校の連中と喧嘩したって話よ。発端は目があったとか何とかってお決まりのパターンなんだけど」
「チンピラか、あいつは」
 そう言っていつもの味噌ラーメンを頬張る京一。醍醐は無言で話を聞いている。
「結果は佐久間と相手の生徒六人の内三人が病院送り。職員室でも問題になってるわ」
「……最近のあいつは何かに苛立っているようだった。俺がもっと早く相談に乗っていれば……」
「僕のせいかな……」
 醍醐に続いて、黙っていた龍麻が口を開く。その表情は暗い。
「転校初日から怪我させて、この間も勝負を受けずに無用な圧力かけちゃったし……」
「まーた自分のせいだってか?そんなんじゃねぇよ。そもそもあれは向こうから仕掛けてきたんだろうが」
「……ま、あいつのことだからすぐ退院してくるでしょ。気に病むことないわよ、緋勇君も醍醐君も」
「そうそう。で……頼みってのは何だよアン子?」
 佐久間の話を打ち切って京一が訊ねる。
「まさか、新聞部に入れって言うんじゃねぇだろうな?」
「あら、それもいいわね。来る者は拒まずだからいつでも歓迎するわよ。そう言えば緋勇君はまだ無所属だったわね。どう?」
「ふぁい?」
 ラーメンと一緒に頼んだミニチャーハンをかき込みつつ聞き返す龍麻。
「いただき!」
 そこへ素早くカメラを取り出し、アン子がシャッターを押す。フィルムの中にはチャーハンを頬張っている龍麻が収められた。
「あの……むぐ……遠野さん?いくら何でも今のは……」
「いいのいいの。美形は何やっても絵になるから。日常の一コマ……いくらにしよう」
「とにかく、こんな奴が部長やってる部には入るなって事だ」
 呆れた口調で京一が言う。
「どうせ、今だってくだらねぇ事件に首突っ込んで――」
「くだらないとは何よ? あんた、少しは新聞くらい読みなさいよね」
 店に置いてある新聞を京一に渡す。なになに、とそれに目を通し――
「渋谷住民を脅かす謎の猟奇殺人事件。ついに九人目の犠牲者……全身の裂傷と眼球の損失、内臓破裂……こりゃひでぇな。こんなの見たら当分肉は食えねーだろうな」
 隣の醍醐が唐突に箸を置いた。今日の醍醐の注文――カルビラーメン大盛り(カルビ増量版)。どうやら想像してしまったようだ。
 恨めしそうに京一を見る醍醐を尻目に葵が口を開く。
「そういえばその事件って、現場に必ず鴉の羽が散乱してるって……」
「まさかアン子、この犯人を捕まえるの手伝えって言うんじゃないだろうね!?」
 冗談じゃない、と言わんばかりの小蒔の反応に、アン子はぱたぱたと手を振った。
「桜井ちゃん、それは公僕の仕事。あたしは記事を書くのが仕事。こんなおいしい事件を警察になんて任せておけると思う?」
「……おいしいって……お前な……」
 京一のこめかみを拳で圧迫しつつ、呻く醍醐。
(鴉……人を襲う……でも鴉の生態は……)
「……龍麻くん、どうしたの?」
 葵の声で、考え事をしていた龍麻は我に返った。
「いや、ちょっと鴉の事をね……鴉が人を襲うなんて、普段はまずないから」
「そうよね。あるとすれば雛の養育期、それも雛を護る時くらいしか私には思いつかないわ」
「確かに鴉は雑食だから何でも食べるけど……都会には鴉の食べ物はいくらでもある。わざわざ人を襲って食べるなんて事はありえない。……あくまで普通の鴉なら、だけど」
 普通なら、を強調して言う龍麻にアン子を除く四人の視線が集中した。
「しかし龍麻、鴉のやり方を模した人間の仕業だとも考えられるぞ?」
「わざわざ鴉の羽を集めて、鴉の嘴や爪を模した凶器で人を殺して……? そんなことしても何のメリットもないよ。実際、鴉に襲われている人の目撃例もあるし。実行犯は鴉だろうね」
「とにかくよ! その真偽をあたしは確かめたいの!」
 席を立ち、拳を握ってアン子が力説する。
「あたしの推理では犯人は鴉よ。でも犯人が人間にしろ鴉にしろ、不可思議な事件であることに変わりはないわ! だからあたしが真実を掴んでやるのよ!」
 そこまで言って一息つき、
「というわけで渋谷に行きたいんだけど女の子一人じゃ何かと物騒だし……お願い! 渋谷に行くの付き合ってよ!」
 アン子の言葉に黙る五人。
「……一つ気になるんだが……龍麻、お前『実行犯は』って言ったよな?」
「うん、そう言った」
「それって鴉を操ってる奴がいるって事か?」
「あくまでその可能性がある、かな」
 京一の問いにそう答える龍麻。
 先程学校を出る時に犬神が自分達に言った言葉――未に禽と獣の暗示。
 そしてもう一つ、自分に言った言葉――鴉に気を付けろ。
 禽というのが鴉の事なら獣とは何か? 獣……人外……《力》を持つ魔人……考えすぎだろうか?
「だとしたらその人は、私達のような《力》を持った人かもしれない……」
「行くしかない……いや、行かなきゃならない。少なくとも僕は」
 葵の言葉に龍麻は立ち上がった。京一達も次々と席を立つ。
「何言ってんだよ。僕は、じゃなくて僕達は、だろ?」
「渋谷は新宿の隣。いつ他人事でなくなるか分からんのも確かだ。行くしかないな」
「うん。放っておくなんてできないよね」
「あ、でも遠野さんは留守番ね」
「な……何で!? これはあたしが追っている事件なのよ!?」
 龍麻の発言にくってかかるアン子。まあ、当然の反応だが、それについては四人とも龍麻と同意見だ。
「相手の正体が分からない以上、連れて行くのは危険すぎる。君の目がくり抜かれても責任取れないし……」
 さらっと怖いことを言う龍麻。一方醍醐は、やはり女性陣を連れて行きたくはないらしい。相変わらず進歩がない。何やら京一と言い合っているが
「雄矢、悪いけどそっちの二人は連れて行くよ」
「さすが龍麻クン! 話が分かるぅ!」
「ありがとう、龍麻くん。私、足手まといにならないようにするから……」
 龍麻の決定ならばここで異議を唱えるわけにもいかない。《力》の絡んだ事件にあっては、あくまで龍麻が指揮官、そう決めたのだから。
「……仕方ないな。美里も桜井も、くれぐれも無理はするなよ」
「まったく、いつになったら分かるのかね? あのタイショーは」
 囁くように京一が言う。
「旧校舎の時と全然変わってねぇよ」
「そのうち分かるよ。さあ、行こう」
「あたしの代わりに、ちゃんと特ダネ掴んで来てよね!」
 勘定をアン子に任せ、龍麻達は店を後にした。



 渋谷駅前。とりあえず渋谷へ来たものの、特に変わった様子はない。駅周辺は多くの人で賑わっている。
「ここも相変わらず騒がしい街だな」
「うむ。人も結構出ているな。しかし……これからどうする? 今の時点では何の手掛かりも無いが」
「アン子だったら何か知ってたかもね。何も聞かずに来たのは失敗だったなぁ。ねぇ、龍麻クン、何か心当たり無い?」
 龍麻の返事はない。見ると少し離れた所で立ち止まっている。その視線の先には忠犬ハチ公の像があった。
「龍麻クン、何やってるの?」
「珍しいんだろ。地元から出たこと無いって言ってたからな。新宿も家と学校の周辺しか知らないらしいぜ。あ、あと中央公園もか」
 いつまでも鑑賞させておくわけにもいかないので、醍醐が龍麻を回収しに行く。
「こんな事がなければ色々案内もしてあげられるのだけど……」
「まあ、それはこの件が全部片付いてからだな」
 少しして醍醐が龍麻を伴い戻ってきた。
「で、どこから手を着けるよ?」
「そうだね……人の少ない所、もしくは自然の多い所かな?」
「この辺でそーゆー場所は……代々木公園くらいだな。よし、行ってみようぜ」
 そう言って京一達が歩き出す。地理に疎い龍麻としては付いて行くしかない。
(本当に人が多いな東京は……)
 以前とはまるで違う環境に龍麻はまだ馴染めないでいた。とにかく人が多い。自分に関わる人間も関わらない人間も。学校で他人と話す機会は以前に比べてはるかに増えた。とにかく相手の方から話しかけてくるのだ。長い間孤独だったせいか、戸惑うこともある。
 人混みの歩き方を知らないので、京一達との距離が次第に開いていく。前方の歩行者灯器が点滅を始めた。このままでは取り残される。慌てて後を追い――
「きゃっ!」
 横断歩道の手前で龍麻は一人の少女とぶつかった。
「痛たた……」
 長い栗色の髪の少女がしりもちを着いている。どうやら自分と同じ、もしくはそれより下の高校生のようだ。京一なら制服だけでそれを見抜けそうだが。
「ごめんなさい。ボーっとしてて。お怪我はないですか?」
「いや、全然。それより君の方は大丈夫?」
「あ……あの……私は大丈夫ですから。本当にごめんなさい」
 そう言って頭を下げる少女。
「でもよかった。あなたに怪我がなくて……」
「まあ、ぶつかっただけだからね」
「……あの……よかったら、お名前を教えて頂けますか?」
 唐突な少女の言葉に龍麻は戸惑う。それでも教えない理由もないので字句の解釈付きで丁寧に名乗った。
「緋勇龍麻……さん……」
 一瞬の沈黙の後、少女は恥ずかしそうに笑う。
「あ、ごめんなさい。おかしいですよね。初めて会ったはずなのになんだか……」
「龍麻くん……どこなの……?」
 少し離れた所から葵の声が聞こえた。どうやら自分を捜してくれているらしい。
「あ……変なこと言ってごめんなさい」
「いや……」
 確かに変だ。奇妙な違和感がある。何かがおかしい。
 また会えるといいですね、と言い残して少女は人混みに消えた。その後すぐに葵が姿を現す。
「龍麻くん……よかった、いつの間にかいなくなっちゃうから……」
「あ、ごめん。ちょっと迷ってた」
「みんなも待ってるわ。行きましょう」
 もう一度龍麻は先程の少女の去った方を見る。もちろんその姿が見つかるわけでもないのだが。
(何だったんだ……? 今のコ……)
 拭い去れぬ違和感を胸に、龍麻は葵の後を追った。


「もう、龍麻クン、どこ行ってたんだよ」
 合流した直後、小蒔が人差し指を突きつけて睨んできた。どうやら心配してくれていたようだ。素直に謝ると、京一がまあいいじゃねぇか、と助け船を出す。
「それより醍醐、さっきの話、龍麻にもしてやれよ」
「さっきの話?」
「うむ。犬神先生が言っていた裏密の予言について考えてみたんだが、禽というのは鴉のことじゃないかと思うんだ」
「もしくは鴉を陰で操ってる誰かのことだよね。となると獣ってなんだろ?」
「別の誰かが介入してるのか、それとも犯人の事かも知れないな」
「ボクたちに協力してくれるような人だったらイイね」
 明るく言う小蒔の言葉を、龍麻は素直に受け入れることはできなかった。良くも悪くも《力》は人を変える。幸い京一達は、簡単に陰に魅入られるような弱い人間ではない。だが、その均衡が崩れると最後、待つのは破滅だ。かつて陰に魅入られ、その身を堕とした男が脳裏に浮かぶ。
「龍麻くん?」
 葵の声にはっと我に返ると、皆の心配そうな視線が龍麻に注がれていた。
「あ……何でもないんだ……ちょっと考え事……」
 確かに週末の旧校舎で醍醐と小蒔も《力》の扱いを覚えてきた。だが、不安定であるのは変わらない。今はまだ話すべきではない。陰に堕ちた人間がどうなるか、は。
「龍麻クン、何かおかしいよ? 何かあったんじゃ……」
「きゃあぁぁぁっ!」
 小蒔の声を遮って、若い女性の悲鳴が聞こえたのはその時だった。
「聞こえた……確かに聞こえたぜ! お姉ちゃんが助けを求める声がなあっ!」
 止める間もなく京一はあっという間に路地裏に消えた。龍麻たちもすぐに後を追う。
 そして、路地裏で彼らが見たものは、スーツ姿の女性を襲っていた鴉の群だった。
「遠野の推理が当たったか……!」
「おい! あンたら……!」
 突然の声に顔を上げると、塀の上に金髪を逆立てた、変わった学生服を着た男が座っていた。その肩には何やら長い物を担いでいる。
「レディが助けを求めてンだ、その気あンなら手ェ貸しなッ!」
 男は跳び降りると同時に長物を袋から取り出した。槍だ。
 龍麻も既に手甲を装備していた。京一も同様に木刀を構える。
「君は?」
「オレ様は雨紋雷人だ……ってそンな場合じゃねぇな」
 雨紋と名乗った男は槍を携え、鴉の群に突入した。
(疾い……!)
 素早く繰り出された突きが二羽の鴉を貫く。飛び回る鴉を正確に突く技量――かなりの手練だ。
「葵さんと小蒔さんは退いて! 雄矢は二人とそっちの女性の護衛!」
 弓の準備ができていない小蒔は戦闘に参加できない。同様に蹴り技主体の醍醐に空からの敵は厄介だ。そう状況を分析し、龍麻は《氣》を練りかけて――それを中断した。
「京一、技は禁止!」
 一般人が二人(?)いる以上、《力》を使うのは控えた方がいい。しかし、一瞬《氣》が高まったのに雨紋は気付いたようだった。こちらを見てにやりと笑う雨紋。その頭上に鴉が襲いかかる。
「ライトニングボルトっ!」
 次の瞬間、放たれた雷光が鴉を捉えた。煙を上げて落下する鴉。驚愕の表情の醍醐達。龍麻と京一は顔を見合わせ、頷く。どうやら隠す必要はない。
「雪蓮掌!」
「剣掌っ!」
 冷気を乗せた掌打が一羽を凍結させ、木刀の軌跡を追う《氣》が別の鴉を叩き落とす。
 残った鴉達は敵わないと見たのか空高く舞い上がり、姿を消した。


「へへっ、シビれたかい?」
「やるね」
 槍を担いで問う雨紋に、龍麻は素直に賞賛と笑みを送った。
「で、お前、一体何モンだ?」
「オレ様はただの通りすがりの正義の味方さ。そンなことより」
 京一の問いにそう答え、雨紋はスーツ姿の美人に向き直った。
「あンたも懲りない人だな。ホントいい根性してるぜ」
「フフフッ……あなたに助けてもらうのはこれで二度目ね。あ、あなた達もありがとう。これ、渡しておくわ」
 会話から察するに、前にもこんな事があったようだ。お礼の言葉と共に差し出した名刺には「ルポライター 天野絵莉」とあった。
「ってことは何かを調べてる途中かい?」
 京一の問いに、天野は笑って頷いた。それを見て、雨紋はやや大袈裟に溜息をつく。
「もうこの件からは手を引いた方が身のためだ。オレ様もこれ以上は面倒見切れないぜ」
「それって鴉のこと!?」
 訊ねる小蒔だが雨紋は何も答えない。そのまま龍麻に視線を送る。
「僕達はこの事件に用があるんだ」
 龍麻の言葉に雨紋の表情が変化した。一瞬の驚愕の後、何かを楽しむような笑みを浮かべる。
「で、これからどこへ?」
「代々木公園にとりあえずは」
「知ってて行く訳じゃなさそうだな。あそこがどういう状況か分かってンのか?」
「いや、まだ知らない。教えてもらえると嬉しいんだけど」
 雨紋の顔から笑みが消え、厳しい表情に変わる。そして再び問いかける。
「何しに行くンだ?」
「人食い鴉を退治に、さ」
 木刀を収めて京一が得意げに言った。その後を醍醐が続ける。
「今まで半信半疑だったが……実際に目にして確信が持てた。この件は普通じゃない」
「普通じゃない、ね……あンた自分が何言ってるか分かってンのかよ? 鴉が人を襲って殺すなンてあり得ないぜ」
「普通なら、な。だがあの鴉たちは明らかに殺意を持っていた。それに鴉以外にも――」
「ああ、あんな《氣》を発するヤツは少なくとも正気じゃねぇ」
 醍醐と京一の言葉に不思議そうな顔をする女性陣。どうやら気付かなかったらしい。
「……どうやらダテや酔狂で言ってるワケじゃねぇようだな。あンたら本気で代々木公園に行くつもりなのか?」
「うん。行かなきゃならない理由があるしね」
「ワケあり、か。でもあそこは……代々木公園はスゲエ数の鴉に占領されてて入るどこじゃない。悪いことは言わない。ハンパな気持ちならやめとくンだな」
「何だと!」
 さすがに今までの態度に耐えかねたのか、京一が声を荒らげる。それを醍醐が制して一歩前に出た。
「俺達は別にお前と争いに来たわけじゃない。話を聞いてくれないか?」
「そういや名前も聞いてなかったな。あンたは?」
「俺の名は醍醐雄矢。新宿の真神学園の三年だ」
「へぇ……あンたが真神の醍醐かい」
「知っててもらって光栄だな」
「渋谷区は新宿の隣だからな。魔人学園の名を知らねぇヤツはいないさ。それに……」
 にやりと笑って一言。
「何でも転校生に一撃でノされたって未確認情報まであるしな」
「う……」
「どうやらデマじゃないようだな。まあ、いいさ。さっきも名乗ったがもう一度自己紹介だ。オレ様は雨紋雷人、渋谷の神代高校の二年だ。そっちのは?」
 龍麻達を見て雨紋が問う。葵と小蒔は素直に、京一もしぶしぶながら名乗った。
「で、あンたは……?」
「僕は緋勇龍麻。同じく真神の三年生」
「……聞かない名だな。あれだけの使い手なのに」
「こっちへは来たばかりだからね。それより、鴉の件だけど……よければ手を貸してくれないかな?」
「なっ、何でオレ様があンた達に……」
「俺が見たところ、あながち違う目的とは思えんが……違うか?」
 醍醐の言葉に雨紋が困惑の表情を浮かべる。だが、それに応えたのは雨紋の声ではなかった。
「クックック……その通りだろう、雨紋?」
「唐栖……!」
 声の主に覚えがあるらしい雨紋が担いでいた槍を構える。
「僕や君の他にも《力》を持った人間がいたとは……いささか計算外だったよ」
 同時に聞こえる甲高い音。その音に思わず皆が耳を塞ぐ。
「なっ……何、この音!?」
 立っているのも難しいのか、小蒔がその場に膝を着く。天野も同様だ。
 音の発信源を特定したいところだが、近くにある高架橋の壁に反響してそれどころではない。
「何者だっ、姿を見せろ!」
「ククク……僕の名は唐栖亮一。鴉の王たる《力》を授かった者」
 不意に音が弱まった。同時に、女性の中でただ一人立っていた葵がふらつく。その肩を支えてやって、龍麻は気配を探った。
「あなた……あなたは一体何者なの!?」
 立ち上がるのは無理なようだが、声は出せるらしい天野が周囲を見回して問う。
「おや、無事でしたか。昨日も妙な邪魔が入ったし、今度こそ、あなたを十人目の犠牲者にしてあげようと思ってたのに……」
「……やっぱりあなたが鴉を使ってやったの?」
 どうやら何度か襲われているようだ。となると、
(この人か……先生が助けた女性って)
 校門で犬神が言っていた、鴉に襲われていた人間というのは天野のことだったのだ。
「貴様ッ、一体何が目的だ!?」
「ククク……地上をはいずる虫螻に、神の意志が理解できるはずもない」
 吠える醍醐だが返ってきたのは人を見下すような声のみ。未だにその姿は見えない。気配も特定できなかった。
 神の《力》――以前莎草も同じ事を言っていたのを思い出す。確かにそう受け取るのも分からなくはない。だが――
(何でそう傲慢になれるんだ……《力》が人の価値じゃないのに……)
「龍麻くん……痛い……」
「あ、ごめん……」
 葵を支える手に思わず力を込めていたようだ。龍麻の様子がおかしいのに気付き、どうしたのと声をかける葵だが、龍麻は曖昧な笑みだけを返した。
「雨紋も仲間ができて良かったじゃないか……それだけの人数なら僕を倒せるかも知れないよ」
「テメェ……」
「僕は逃げも隠れもしない。待っているよ……僕の城で……」
 再び響く甲高い音。結局カラスとか名乗った男は一度も姿を見せることはなかった。
「ちっ……姿も見せずに何が逃げも隠れもしない、だ!」
 側にあったゴミ箱に八つ当たりする京一。
「どうやら、かなり普通じゃないのが出て来たな。これからどうすべきか……」
 いつものように腕組みして醍醐が難しい顔で呟く。
「そんなの決まってんだろ!? あんなイカレタ野郎、野放しにしておけるはずがねぇ! 奴の城とやらに乗り込んでブチのめす! そうだろ、龍麻!?」
 同意を求める京一。醍醐と小蒔も頷いた。
「うむ……遠野には悪いが、ここは俺達で片を付けるか」
「そうこなくっちゃ! ボク達が何とかしなくちゃね」
(直接会うまで何とも言えないけど……莎草よりはまだこっち側にいるみたいだ)
 それならまだ救いはある。今度こそ莎草の二の舞にはさせない。
「……あなた達……一体……?」
「私達はただ……私達なりに東京を、この街を護りたいと思っているんです」
 天野の訝しげな視線と声に、葵が答える。
「でもあなた達は高校生でしょ? そういうのは警察や大人達の――」
「子供が、と思われるかも知れません。でも……みんな、友達や愛する人の住む街を護りたいという気持ちは同じだと思います。私達の《力》だって、そのためにあるような気がするんです……」
「天野さん、この件を『普通の猟奇殺人事件』と認識した時点で、大人達には何もできないんです。今までこの件を追っていたあなたなら、それが分かっているはずです」
 龍麻の言葉に苦笑する天野。薄々は感づいていたようだ。
「そうね、確かに最近の奇妙な事件は常識では考えられないものが多いわ。だからこそ興味を持ったんだけど……私はここまでのようね。どうかしら、私の持っている情報を提供させてもらえないかしら?」
 真神組、そして雨紋の視線が龍麻に向く。お願いしますと龍麻は頭を下げた。
 彼女の話は鴉の生態と歴史に関するものだった。生態についてはアン子からの話、龍麻達自身の知識とそう大差はない。しかし、その歴史についてはほとんどの者が初めて耳にするものだった。多くの神話に神の遣いとして登場する鴉。ギリシャ神話や北欧神話については龍麻も初耳だったが、日本神話の八咫烏くらいなら聞いたことがあった。
「ふーん、全然知らなかった。でも鴉ってなんだか怖いし……たくさん集まってると気味悪いし……龍麻クンはそう思わない?」
「不吉なものだって認識があるからね。つい墓場とか連想してしまうからそう思うんだろうけど、勝手に人間の価値観押しつけちゃ鴉が可哀想だよ」
「……変わってるね、龍麻クン」
 二人のやりとりに天野が笑うのが聞こえた。
「まあ、鴉についてはそんなところね。あの唐栖って子が何を考えているかは分からないけど、あの口振りからして単なる快楽殺人者でないのは確かね」
「何故です?」
「自分の欲のために人を殺しているのなら、神の意志なんて言い方はしない。あくまで神の意志を代行している……使命感みたいなもので動いてるような気がする」
 醍醐の問いに龍麻が答える。それに感心したように天野も頷く。
「そうね、彼なりの正義の下に行動しているわ。それにしても鋭いわね、緋勇君」
「ありがとうございます。とにかく……彼に会ってみないと始まりませんから、そろそろ行きます」
「ええ。気を付けてね」
「……って取材、いいのかよ?」
 女性には優しい京一が気遣うように言うが天野は首を横に振る。
「記事にできないものをいつまでも追うわけにはいかないの。ルポライターっていうのは私にとってビジネスだから」
「それが賢明です。今回の件からは手を引いてください」
「おい龍麻! そう言う言い方……!」
「そうだよ! 天野サンが可哀想じゃないか! せっかくここまで――!」
「いいのよ。蓬莱寺君に桜井さん。緋勇君の言う通りだわ」
 龍麻に食ってかかる京一と小蒔を止めたのは天野だった。
「私がついて行けば必ず足手まといになる。それに、引き際が分からないほど無謀でもないつもりよ」
「でもよ……」
「少しは緋勇君の気持ちも察してあげなさい。ありがとうね、緋勇君」
「……すいません」
 謝る龍麻に何を言うの、と天野が笑う。
「駄目よ、謝っちゃ。あなたの判断は正しいわ」
「これが半月先なら問題ないんですけどね」
「だったら、もしまた何かあったらその時はお願いね」
「はい」
「それじゃ、気を付けてね。また会いましょう」
 そう言って天野は龍麻達に背を向け、駅方面へと消えていった。
「さて……雨紋、唐栖の言っていた城ってどこなのか教えてくれないかな?」
「ああ、あンたらが行こうとしてたトコだ」
「公園、だね……で、雨紋はどうする? さっきも言ったけど……」
「オレ様に協力してくれってことか?」
「うん。君の力を借りたい。駄目かな?」
 龍麻の依頼に少し考える雨紋。戦力が必要なのは確かだ。以前接触した時も、結局奴には逃げられている。
「さて、どうしたもンか」
 そう言いつつも雨紋の考えは既に決まっていた。
「ま、いいだろ。オレ様もちょうどヤツのトコへ行こうと思ってたトコだ。これ以上……放っとくわけにもいかないからな。ここは共同戦線といこうか。とりあえずはよろしくな」



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