1997年12月15日。
――明日香学園高等学校2−C。
「それじゃ今日はここまで。来週の水曜に試験をするから、ちゃんと復習しておくように」
男教師が授業の終了を告げると、日直の女生徒の号令で皆が席を立つ。型どおりの挨拶を交わし、男教師が出ていくと生徒達は思い思いの行動に移った。
いつもの学校、いつもの教室――何一つ変わらない平穏な日常。少なくともこの学園に通うほとんどの生徒にとってはそうであっただろう。しかし、確かにその日常は崩れつつあった。
「――ん?」
一人の男子生徒が訝しげな声を上げた。
「おい、あの入口の所にいるのA組に来た転校生じゃねぇか?」
「そういえば……確か莎草とかいう奴だぜ」
別の男子がそちらに目を向け、答える。
そこにいたのは一人の男子生徒だった。色白で茶色の髪をした、目つきの悪い男。何かを物色するような目で教室内を見回している。
男子達の声が聞こえたのか、それとも視線に気付いたのか女生徒達が莎草の方を見た。
「ちょっとっ、あんた――何かウチのクラスに用?」
一人の女生徒が莎草に声をかける。もちろん友好的なものではなく、明らかに非難の声だ。莎草は答えなかったが、視線はそのまま女生徒達を向いている。
「何じーっと、見てんのよ。あたしたちの事、いやらしい瞳で見て――」
「ちょ……ちょっと、やめなよ――」
「だって、こいつが……」
別の女生徒が慌てて止めようとする。それでも突っかかっていこうとする女生徒だが莎草は相変わらずだ。
「気持ち悪い奴……」
女生徒の侮蔑の声も気にした様子はなく、やがて莎草はくくくッと笑うとその場を去った。
「なっ何よ、あいつ……」
「ほんと、不気味な奴よね」
「あいつ、どこから来たんだっけ?」
「確か、東京のガッコからだぜ。あっちって、あんなのばっかなのかねぇ」
側にいた男子生徒達が話に加わった。
「でも、こっちだって得体の知れない奴はいるけどな」
その言葉に、数人の生徒は一斉に一人の生徒の姿を追った。
教室の一番前、窓際に座っている男子生徒。線が細く、服を変えて化粧でもしたら女生徒でも通用しそうな美貌の持ち主だが――
不意に――その男子が席を立った。周りの生徒達がその行動に注目する。
(おい、聞こえたんじゃねぇの?)
(ま……まさか……)
(やばいよ……最近また他校の生徒が病院送りにされたって……)
何やら小声で話し合う生徒達だが少年はそのままこちらへ向かってくる。
「ひ……ち、違うんだ……緋勇!」
余計なことを言った生徒が顔面蒼白で後ずさった。
「べ……別に……お前の事じゃないよ! 俺は何も……!」
「……」
一人盛り上がる男子の側を、緋勇と呼ばれた男子は何もせずに通り過ぎる。呆然とするクラスメイトを残して教室を出て行くが
「きゃっ!?」
廊下に出た途端、誰かとぶつかった。声からすると女のようだが、同時にドサドサ、と荷物を落とす音が廊下に響く。
「ごめんね。大丈夫?」
しりもちをついた状態でぶつかってきた女生徒が謝ってくる。教室にいた生徒達は皆、次に起こるであろう惨劇を予想した。緋勇がこのままで済ますはずがない、と。
しかし――
「うん。そっちこそ、大丈夫?」
予想に思い切り反して、女生徒に手を差し伸べる。
「あたしは大丈夫。……よかった。荷物を持ってて、前が見えなくて……」
教室から起こるどよめきに怪訝な表情をするが、手を借りて立ち上がる。と、同時に予鈴がなった。後5分で授業が始まる。
「あ、あたしもう行かなきゃ。これ、教室まで運ばなきゃならないの」
「……手伝おうか?」
その問いに、再びC組の教室からどよめきが起こる。
「いいわよ、ひとりで運べるから……と言いたいところだけど」
廊下に散らばる教材を拾い集めながら、その女生徒は言った。
「本当はね、結構大変だったんだ。お言葉に甘えようかな。急がないと授業が始まっちゃうし。じゃ、付いて来て」
「決まりだね」
「あたし2−Aの青葉さとみ。ブルーの青に葉っぱの葉、さとみは平仮名。あなたは?」
教室に向かう途中で女生徒が自己紹介をしてくる。
「2−Cの緋勇龍麻。緋色の緋に勇気の勇、難しい龍に麻袋の麻」
「あさぶくろ?」
「麻薬の麻でもいいけど」
「あ、なるほど……あれ、緋勇くんってどこかで聞いたような……」
自分の自己紹介を終えた後の青葉の言葉に龍麻は思わずこけそうになった。まさかこの学校の生徒で自分の事を知らない生徒がいるとは。
「ほんとに知らないの、僕の事?」
「うん。ま、いいわ。こうやって知り合えたのも何かの縁かも知れないし、よろしくね」
「あ……うん、一応よろしく」
「違うクラスだけど仲良くしましょ。でも不思議ね」
教材を担ぎ直しながら青葉が首を傾げる。
「あなたみたいな人がC組にいたら、気付きそうなものだけど……」
「知ってるはずだよ。聞いたことあるでしょ? 《悪霊憑き》って」
「うそっ! それって緋勇くんの事だったの!?」
驚く青葉に龍麻は頷いた。
悪霊憑き――龍麻に付けられた異名である。小学生の頃に起きた事件がきっかけでついたものだ。自分が全てを失ったあの事件の。
「ふーん、でもよかった」
「え、何が?」
青葉の言葉の意図が読めずに思わず龍麻は訊き返す。
「だってさ、聞くのと見るのとじゃ大違いなんだもん。噂なんてアテにならないものね。教材を運ぶように言ってくれた先生に感謝しなくちゃ」
(それは見てないからだよ。本当の僕を)
口には出さずに心の中でそう呟く。自分の《力》がどれだけ普通の人間から見れば異質なものかはよく分かっている。
「それじゃ、ここでいいわ」
気が付くと目的の場所、2−Aに着いていた。
「手伝ってくれてありがと。助かったわ。それじゃ……きゃっ!?」
龍麻から教材を受け取り、教室に入ろうとした青葉はまた人にぶつかった。バランスを崩した荷物が再び散乱する。
(あれ、こいつは確か……)
青葉にぶつかったのは莎草だった。先程まで2−Cの辺りをうろついていたが、やはり大した反応はしていない。何も言わずに青葉を見ている。
「おい、ちょっと待てよ。ぶつかっといて、謝りもしないのかよ?」
「比嘉くん……」
声は莎草の後ろから来た。どうやら比嘉と言うらしい。少し茶色がかった短い髪をした、比較的がっしりとした体格の男子だ。
「落ちた荷物ぐらい、拾ってやってもいいんじゃないか、莎草?」
「あ、比嘉くん、あたしは大丈夫だから――」
同じクラスの人間であっても反応は変わらない。結局無言のまま、莎草は教室を出て行った。
「あっ、おい……何だ、あいつ……」
莎草の背中を見ながら呟く比嘉だが、肩をすくめると青葉の方を向いた。
「さとみ、大丈夫か?」
「う……うん」
「まったく莎草の奴……」
落ちている荷物を拾いながらまだ莎草への不満を漏らす比嘉だったが、青葉の他にもう一人いることに気付く。
「あ、そうそう――さっきこれを運ぶの手伝ってもらったの。紹介するわ」
「いや、知ってる。緋勇……龍麻だっけ? ふむふむ……」
A組の教室が騒がしくなるが、比嘉は無遠慮に龍麻を見回した。
「意外と綺麗なんだな。百聞より一見ってのはホントだな」
「男に対する誉め言葉じゃないね」
「ハハ、悪い悪い。俺はここのクラスの比嘉焚実だ。焚実でいいよ。こいつとは幼馴染みってやつだ」
笑いながらそう言い、青葉に視線を移すが再び龍麻を見る。
「さっきの……莎草って奴も同じクラスでね、三ヶ月くらい前に転校してきた。とは言っても誰とも進んで話そうともしない、どこに住んでるのかも分からない、変わった奴だけどな。ま、これからもよろしくな、緋勇」
「僕がどういう人間なのか分かって言ってるの?」
「俺は自分のこの目で見たものしか信じないタチでな。《悪霊憑き》の噂なんてどーでもいいのさ」
腕を組んでふんぞり返る比嘉に思わず龍麻は苦笑した。
「そのためにクラスから孤立しても?」
「その程度の奴しかいないクラスなんてこっちから願い下げだ」
「……一応、よろしく」
先程の青葉の時と同じような回答をして、龍麻は生物室に向かった。
「緋勇龍麻――」
放課後、帰宅しようとした龍麻を呼び止める者がいた。
「緋勇龍麻君――だね?」
声の主は一人の男だった。黒いスーツに青のシャツ、赤いネクタイをした長髪の男。一見するとカタギに見えないが、その物腰からチンピラでないことが分かる。
そう、例えるなら武道家のような――
「そうですけど」
一応頭を下げる。すると
「私とは初対面なはずだが、随分と友好的なんだな、君は」
と言って、はははと男は笑った。
「だが、気に入ってもらえたようで光栄だよ」
「失礼ですが……あなたは?」
「緋勇龍麻――明日香学園高校在学中。実の両親とは幼い頃、死別。以来母方の伯父夫婦に引き取られていたが、中学入学前に父方の叔父夫婦に引き取られる」
問いには答えずに男は龍麻の身上を語り始めた。
「ごく平凡な学園生活とごく平凡な日常生活を送ることを望みながらも、それが叶わぬまま現在に至る」
「……!」
「学業・スポーツに関する成績も平凡そのものを装い……交友関係は皆無。しかし危険からはかけ離れた生活を送っている」
(何でここまで知っている!? 両親のことはともかく、成績のことは誰にも話してないのに……)
ただでさえ目立つ龍麻がこれ以上余計な厄介事を呼び込まないようにと考えたのが成績の手加減だった。勉強にしろスポーツにしろ、それなりにできる人間というのは目立つ。だからこそ、走るときはスピードを抑え、テストでは回答をわざと間違えたりしていたのだ。しかしこの事は《力》の事を知っている養父母にも二人の義姉にも話していない。
「お言葉ですけど……危険からかけ離れた、というのは誤りですよ」
「そうかね? 事実、君の命を危険にさらせる程の敵が君の周りにいるかね?」
「……」
「私の名前は鳴瀧冬吾。君の――君の実の父親である緋勇弦麻の事で話がある」
それだけ言うと男――鳴瀧は歩きだした。この方向には確か公園があったはずだ。
確かに怪しいが、危害を加えるつもりはないらしい。それだけは「確信」できた。それに実の父親のことで話がある、とも言った。どうやら実の父とは知り合いのようだ。
とりあえず、龍麻はついて行くことにする。予想した通り、鳴瀧は学校近くの公園で足を止めた。
「突然学校まで会いに行って、迷惑だったかも知れないが、どうしても、早く君に会う必要があってね。許してくれ」
「いえ。でも……なぜ今頃になって?」
「それに答える前に二、三質問をさせてくれ」
鳴瀧が龍麻に問うたのは出生地、生年月日、血液型だった。正直にそれを答えると、何かを確信したようだった。
「やはり……間違いはないようだな。その瞳とその雰囲気――君の両親である弦麻と迦代さんの面影がある」
実の両親の名前は龍麻も知っていた。もっとも名前以外のことは全く知らない。知りたいとも思わなかった。自分を家族として迎え入れてくれた叔父達に悪いと思ったのかも知れない。だから両親の面影があると言われてもどの辺りがそうなのかは全く分からない。写真すら見たことがないのだから。
しばらく鳴瀧は何も話さなかった。目を閉じて何かを考え――いや、思い出しているようだ。沈黙に耐えられず、声をかけると鳴瀧はすまない、と言い、思った通り昔を思い出していたと語る。
「君は両親のことは何も知らないんだったな」
「ええ、名前ぐらいしか」
「私の口からは何も言えないが、いずれ知ることもあるだろう」
「面白いことを言いますね」
腕を組んで龍麻は鳴瀧を見据えた。
「父の事で話があると言っておきながら、何も言えないというのは妙な話ですね?」
「今、話せることは限られる。そういう意味だよ。だが、これだけは教えておこう。君の父親と私は、表裏一体からなる古武道を習っていた。とても……歴史が古いものでね。無手の技を極め、その継承者は素手で岩をも砕いたという」
突拍子もない話ではあるが、《力》がそれを可能にしているのかも知れない。ふと気になって鳴瀧に訊ねる。
「では、あなたにはそれができると?」
「さて、ね。とにかく弦麻が表の――陽の技を、私が裏の――陰の技を習っていた」
「兄弟弟子、ですか」
「そのようなものだ。特に緋勇の家は先祖代々陽の技を伝承する家系でね。つまり、君の身体にはその血が連綿と流れている。いきなりの話では信じられないかも知れないが」
数年前の叔父の言葉が脳裏に浮かぶ。あれは確か叔父に合気道を習い始めた頃だったはずだが……
「そうでもないです……武術の素質という意味では叔父にも言われましたよ。それだけのことができるのに、何でやられたらやり返さないんだ、って」
「なるほど……身をもって実証済みということか」
フッ、と笑い、鳴瀧は周囲に視線を巡らせた。
「ところで最近、君の周りで奇妙なことはなかったか?」
奇妙、と言われれば自分の《力》がそれだろうが、龍麻は首を横に振る。
「この街でここ数日の間に何かが起こるだろう。これは君の父親の友人としての忠告だ。くれぐれも気を抜かないように。それとこれを渡しておこう」
渡されたのは一枚の地図だった。「道場」と書かれた場所に印がある。
「仕事で近い内に海外へ旅立つが、しばらくは、そこに滞在している。何かあったらここを訪ねるといい。では、これで失礼する」
それだけ言うと鳴瀧は去っていった。
「結局……父親の事なんてほとんど話していないじゃないか」
忠告、異変。その二言が頭の中で巡る。一応、心配してくれているんだなと納得して、龍麻は家に向かった。
その頃、体育館の裏側では莎草が数名の男子生徒を呼び出していた。
「鳴瀧冬吾に会った?」
その日の晩、龍麻は義父の兵麻に放課後の出来事を話した。
「ええ。知ってますか?」
「お前の実の父親、弦麻の友人……いや、親友だな。弦麻とは対の古武術を使う」
「陰陽の技がどうの、とか言ってましたけど。うちの合気道とは別なんですか?」
「確かに緋勇の家が代々継承してきたらしいが……うちのはホントにただの合気道だからな」
食後のお銚子を空にして、兵麻は言った。
「しかし、異変か……何やら厄介な事になりそうだな」
「僕が関わってるから……ここへ来たんでしょうか?」
「首を突っ込みそうだから、じゃない?」
つまみを持ってきてそう言ったのは義姉の香澄だった。龍麻より二つ年上である。髪を肩口まで伸ばしており、いつもにこにこしているが、怒るとコワい。龍麻には優しいが。
「たっちゃん、結局誰かが困ってるとその人に手を貸すでしょ。その異変が何なのかは分からないけど、身の回りの人が巻き込まれたら絶対に放っておかないじゃない。例えその人にどんな仕打ちを受けていても」
「それがたっちゃんのいいところなんじゃねーか。姉ちゃんだって分かってるんだろ?」
つい先程まで焼き魚と格闘していたもう一人の義姉、沙雪が口を挟む。龍麻の一つ年上である。長い黒髪を後ろで無造作に束ねている。気が強く、手も早いが、龍麻にとってはやはり優しい姉だ。
「でもね、それで誤解が解ければいいけど大抵逆効果でしょ? たっちゃんが可哀想で」
背後から龍麻を抱きしめる香澄。決して悪気はないのだがその腕はしっかりと龍麻の首に入っていた。
「か、香澄姉……くるし……!」
「あら、ごめんなさい!」
慌てて腕を離すが首にはしっかりとその痕が残っていた。見かけによらず、力は強い。
「まったく姉ちゃんは。たっちゃんを殺す気かよ」
そう言いつつ沙雪がお銚子と猪口を持って近付いてくる。
緋勇家では食事中ではなく、食後に酒を飲む習慣があった。食事は食事、酒は酒で楽しむ、という趣旨らしい。
「ま、気付けにきゅっといけ」
ちなみに緋勇家の三人の子供は全員未成年である。
「あ、いただきます」
「沙雪ちゃん、私も」
「父さんも」
「そんなにないよ。ねーお母さん。お酒追加〜」
龍麻に酒を注いでから沙雪は台所にいる母親――真由華に声をかけた。そのままお銚子を口に付け、残りを喉に流し込む。
「まあ、そんなに深く考えるなよ。多分、今考えても何の解決にもならねぇから。それならその時までどっしりと構える! 後は自分の思うままにやれ!」
「あら、沙雪ちゃんもお姉さんらしいこと言うようになったわねぇ」
お銚子の追加を盆に乗せて、義母の真由華が居間に入ってきた。声をかけてからできるまでの時間が妙に短いが、既に用意していたのだろう。さすが主婦である。が、
「はい、後は一人一本づつですよ。未成年なんだから余り飲み過ぎないようにね」
普通は飲むなと注意するところだが飲み過ぎるなと言うあたり、やはり真由華も普通ではない。
「でも鳴瀧さん、今は何をやってるのかしら」
「武術の道場をやってるみたいです。近々、外国へ行くとも言ってましたけど」
「そう。でもたっちゃん、一つ忘れてるわよ」
酒の入った猪口を真由華に突きつけられ、思わず龍麻は身構えた。
「敬語はやめなさいって。私達は家族なんだから。血の繋がりとかは関係ないの。親に敬語使うのって、不自然よ」
「う……うん、わかった」
「よろしい」
そのまま猪口を龍麻に手渡す。替わりに空になった龍麻の猪口を受け取ると、それを使って自分のお銚子を制圧にかかった。
「異変、か……いつもとは異なること、変わったこと、かな?」
確かに今日は変わったことがあった。自分を見ても動じない人間に二人も出会った。実の父親の友人とやらにも会った。しかし、どう考えても自分の身に危険が降りかかる要因とは思えなかったし、その気配も「感じ」なかった。
「ねえ義父さん。義父さんには心当たりはない?」
「ん……見当が付かないな。第一、鳴瀧とは十年以上会ってないんだ」
「なんだよ、まだ気にしてんのか? 今考えるだけ無駄だってオレが言っただろ?」
沙雪が半眼でこちらを睨む。顔は既に真っ赤だ。出来上がっているらしい。
「そ、そうだけどさ」
「だったら考えるな。酒が不味くなるぞ」
とりあえず、ここでは考え事もできない。諦めて龍麻は今を楽しむことにする。
緋勇家の晩はこうして更けていった。
翌日12月16日。
「緋勇くん、おはよっ。昨日はありがとね」
「おすっ緋勇」
登校早々に自分に声をかけてくる者がいた。昨日出会った変わり者の二人だ。青葉さとみと比嘉焚実だったか。
「……おはよう」
「どうした、元気ないな」
比嘉が、顔を覗き込んでくる。
「悩み事でもあるのか?」
「いや……物好きだなと思って」
二人とも不思議そうな顔をするが、龍麻が何を言いたいかは分かったらしい。
「お前のことは他の奴らにも聞いたよ。でも、あまりに馬鹿げててさ。怒るを通り越して呆れちまったね」
「そうそう。悪霊に取り憑かれてるとか、お化けが見えるとか」
どうやら全く信じていないようだ。
「そんな奴いるはずないのによ。なあ、緋勇?」
「正しいところもあるんだよ。視えるっていうのは本当だから」
同意を求める比嘉の言葉を否定して、龍麻は廊下の窓から校庭を見た。別にそこから何かが「視える」わけではないが。
「見えるって……お化け?」
「意識して視ればね。普段は視えないけど」
「それじゃあ、三丁目の踏切に出るって話本当!?」
何故か嬉しそうに青葉が訊いてくる。こういった話が好きなのだろうか?
「いや……そこでは視たこと無いけど」
「ふーん。すごいのね緋勇くんって」
その言葉に龍麻は耳を疑った。意外な一言だ。
「……すごい?」
そうだよ、と青葉が答える。隣で比嘉もうんうん、と頷いていた。
「人には無いものを持ってるって事でしょ?」
「ま、本人がそれを望んでるかどうかは別だけどな。気にするなよ緋勇」
龍麻の肩をぽんと叩いて比嘉は言った。
「それでお前って人間の本質が変わる訳じゃないだろ?」
比嘉の言葉はどこかで聞いたことがある。同じようなことを言われたことが。
「ところで緋勇、今日暇か?」
「今日?」
「ああ、放課後喫茶店にでも寄って――」
「離して下さいっ!」
女生徒の声が比嘉の会話を遮った。
そちらを見ると一人の女生徒が二人の男子生徒ともめている。どうやらどこかへ連れて行こうとしているようだ。
「あれは、緋勇のクラスの女子じゃないか……?」
言われてみると見たことがある。もっとも話をしたことは一度もない。
「いいから来いよ。莎草さんが呼んでんだよ」
莎草の名を口に出し、無理矢理女生徒を連れて行こうとする。他の生徒達は誰も動こうとはしない。
「ちっ、何で誰も助けてやらないんだ? おい!」
比嘉がそちらへ走っていった。
「何やってんだよ、嫌がってるじゃないか」
よく見るとその男子は比嘉と同じクラスの人間だった。確かにガラは悪かったが、こんな事をするような人間ではなかったはずだが。
「邪魔するな……」
「お前には関係ない……」
「そうはいかないな。大体、何で莎草の言いなりになってるんだ? 借りでもあるのか? それとも弱みでも――」
「うるさい、そこをどけ。あいつに逆らうわけには――!」
そこまで言って男の顔色が急に変化した。怒りの赤から恐怖の蒼に。
「離してやれないかな」
いつの間に来たのか、龍麻が男達に静かに告げる。青葉も後ろからついて来ていた。
「ひ、緋勇……!」
比嘉の言葉には耳を貸さなかった二人だが、龍麻の姿を見た途端、慌ててその場から逃げ出していく。
「……すごいな緋勇って……」
「……別に」
「あ、あの……」
比嘉は素直に感心したようだったが、龍麻は素っ気ない。そこへ先程絡まれていた女子が比嘉に声をかけてきた。
「ありがとう、比嘉くん」
「ああ、大丈夫だった?」
「ええ」
「そりゃよかった。でも俺は大したことしてないよ。礼なら緋勇に――」
そう言った途端に女生徒の顔がこわばる。そういえば先程から龍麻の方を一度も見ていない。それに龍麻が男達に声をかけた時、同じようにこの女生徒の顔も蒼くなっていたのを思い出す。
「……おい、まさかあんたまで緋勇の――」
「比嘉君、いいんだ」
何やら言おうとした比嘉を、龍麻が止める。
「慣れてる」
「ば……馬鹿なこと言うなよ! そんなの間違ってる!」
怒りを露わにする比嘉だが、龍麻は素っ気ない。
「それに、心のこもっていない礼なんて、言われても嬉しくないし。だから……いいんだ」
「そーだな、その通りだ」
突然背後から別の声が聞こえてくる。振り向くと一人の女生徒が立っていた。リボンの色から見て三年生らしい。
「おい、そこの」
絡まれていた女子を見て――いや、睨みつけて三年生が言った。
「人間として、最低限のことができないんならさっさと行け」
「……」
「行けって言ってんだよ! 失せろ!」
その怒声が引き金になり、女生徒はそのまま走り去った。三年生は続けて龍麻の方を向く。
「まったく……やっぱり余計なことに関わって」
「……あそこまで言わなくてもいいのに。彼女、泣き出しそうだったよ」
「あのなぁ、たっちゃんがそんなだからいけないんだろ?」
(たっちゃん!?)
比嘉と青葉は思わず心の中で叫んでいた。
あれだけ学校内で恐れられている龍麻に対して愛称で呼びかけ、なおかつ龍麻に説教まで――
「あ、あの……」
「……なんだい、あんた?」
恐る恐る三年生に声をかける比嘉だったが、当の本人は不機嫌さを隠そうともしない。そこへ龍麻の一言。
「沙雪姉、頼むから……」
「「お姉さん!?」」
二人は同時に――しかも声を上げて叫んでいた。
「……たっちゃん、こいつら、誰?」
「あ……俺は比嘉です」
「青葉……と言います」
「たっちゃんの……何?」
「えっと……」
刺すような視線に耐えつつ、やっとの思いで比嘉が口を開いた。
「緋勇くんの友達……に、なりたいな……と……」
沙雪は少しの間黙っていたが、ふーんと言って表情を柔らかくした。
「変わりモンだねあんたら。ま、いいけどさ……仲良くしてやってね」
「「は、はい」」
こくこくと頷く二人を満足そうに見て、沙雪はそのまま背を向ける。
「さて、そんじゃ戻るか」
「何か用があったんじゃないの?」
「いや、別に。ただ寄っただけ。じゃあな」
龍麻の問いに、あっさりと答えると、沙雪は歩いて行ってしまった。
「あれ……緋勇の姉さんか?」
「すごい人だね……」
比嘉と青葉は呆然としている。無理もないことだが。
「そうかもね。まあ、実の姉じゃないけど」
「え……?」
「実の両親は僕が赤子の頃に他界してるんだ。今の親は叔父さんだよ。義姉さんも従姉」
「あ……ごめんなさい」
「いいよ。今では本当の家族だし。みんないい人達だしね」
青葉が謝るが、龍麻は手を振って答える。
それにしても、この二人は本当に自分のことを怖がらない。しかし、いつまでこのように接してくれるかは分からない。
(いつまで……)
「なあ、緋勇。今日ガッコが終わったらつきあってくれよ」
「え……僕? 悪いけどそっちの趣味は……」
「違う! せっかく知り合えたんだ、友達への第一歩としてサテンにでも行こうってことだよ!」
あんまりなボケに、ムキになる比嘉。それを見て青葉が笑う。
「そうそう。ね、いいでしょ?」
(本当に分からないな、この二人は……いや、これが普通なのかも知れない)
少し考えて、龍麻は答えた。
「そちらがいいのなら……」
「よし、決まりだ。それじゃあ、放課後な」
「じゃあね」
そう言って二人は自分達の教室へ向かう。それを見送りつつ、龍麻は一言。
「自分の……普通って何だろう?」