11月3日――真神学園。
文化祭当日。校内は活気に満ち溢れている。大方の準備はどこも終わっているが、それでも最終的な調整に追われているところも少なくない。
3−Cの準備はすでに完了していた。ちなみに3−Cは喫茶店。メニューはともかく、雰囲気的には茶屋のようになっている。
そんな中、いつものメンバーが集まっていた。ただ、一人を除いて。
「遅いわね」
その足りない一人の姿を捜しているのは、生徒会長の美里葵。今日の彼女は、藤の花の柄を基調とした水色の着物姿である。
「もしかして、逃げたのかなぁ?」
「まぁ、そう考えたくもなるだろうけどよ。ひーちゃんが責任放棄するわけねぇだろ。しかし小蒔……」
小蒔の格好を見て、京一は頭を掻く。
「そういうのって、アリなのか?」
着物、というにはちと無理がある。裾は短く、膝の少し上まで。袖もない。強いて言うなら、やや露出気味で明るい忍装束に見えなくもない。
「いいじゃないか、あったんだからさ。普通の着物だと動きにくいし。でも京一だって、人のこと言えないじゃないか」
負けじと小蒔が言い返す。京一の方はというと、侍らしく羽織袴にでもすればいいものを着流しにし、腰には刀。自由奔放と言えば聞こえはいいが、一見浪人者だ。
「刀がなかったら、ただの遊び人だねっ」
「うるせーよ。きっちりしたのは部員に任せてあるからいいんだよ」
「そういえば、剣道部員は新撰組の仮装をしていたか」
「あぁ。何故かみんな乗り気でよ。ま、いいんじゃねぇの? それよりも、だ。醍醐、お前の格好もどうよ?」
ちなみに醍醐は、誰がどう見ても坊主だった。寺の僧侶というよりは、修行僧っぽい。
「ただでさえカタブツだってのによぉ、何で坊主なんだ?」
「仕方なかろう。これしかサイズの合うのがなかったからな。まぁ、選り好みして、龍麻一人だけあんな格好させるのも気の毒だろう」
と、醍醐はきょろきょろと視線を動かす。
「それにしても、龍麻の奴は遅いな……」
何せ「あの格好」である。近くにいれば気付きそうなものだが、それらしい姿はない。
「ひょっとして、何かあったのか?」
「いや、さっきからいるんだけど」
声は背後から来た。誰一人としてその存在に気付かなかった葵達は、一斉にそちらを向く。そして
「「「「……」」」」
一様に目を見開いた。
「あの……そんなに食い入るように見ないでくれる……?」
そこにいたのは龍麻――なのだろう。少なくとも声は龍麻のそれであり、その顔も、よくよく見れば……ただ、意外だったのは、以前お披露目をした時と格好が違うことだった。
今の龍麻は白地に百合の柄の入った着物を着ていた。青い帯が白い着物に映えている。化粧は薄めで、頭には黒い長髪のカツラ。
どこから見ても、女性にしか見えない。葵達も、以前の姿を見ていなければ見逃していただろう。首から上だけがあの時と変わらないが、着物一つですっかり雰囲気が変わっている。
「ひーちゃん……その格好はどうしたよ?」
「アレよりはマシだから……上から着たんだ」
はぁ、と物憂げな表情で龍麻は溜息をついた。そんな仕草一つもとても絵になる。これで微笑でも浮かべようものなら、何人かの男どもは道を踏み外すだろう。
「なぁ、ひーちゃん。いっそのこと、外国行って性転ぎゃあっ!?」
ぐりぐりと、草鞋履きの京一の足を草履で踏みつける。靴とは違い、足の甲は保護されていないので、痛みは靴履きの時の比ではなかった。
「何か言った、蓬莱寺君……?」
「わ、分かったからやめてくれーっ!」
悲鳴を上げる京一に、とどめとばかりに全体重を乗せ、ようやく龍麻は足を離す。
「分かればよろしい。まったく……」
踏まれた足をさする京一を視界から外し、再度龍麻は溜息をつく。
「で、ひーちゃん。そのカッコで出るの? コンテスト」
「この方が都合がいいかな……」
インパクトは以前の格好の方が強いだろうが、今のままでも充分だ。少なくとも、龍麻に対抗できそうな「逸材」は、他のクラスにはいないだろう。
「で、コンテスト何時からだっけ?」
「開催式の直後。その後、十六時までに投票。得票数の多い人が優勝、じゃなかったっけ。まぁ、お披露目が済んだらさっさと着替えさせてもらうよ……」
「あら。それは駄目よ、龍麻くん」
すぐにでも解放されたいという龍麻の望みは、葵の声によって砕かれた。
「一般の来訪者からも票を募るから、参加者はコンテスト終了まで女装を止めるのは無理よ。一応、写真を掲示するんだけど、結果発表の時に実物がいないと問題だろうって。それに結果発表だってあるし」
遠回しに、龍麻は入賞すると言っている葵である。
「じ、じゃあ、今日はずっとこの格好のままでなきゃいけないわけ!?」
「もしくは、もう一方の格好だな」
絶望感いっぱいの龍麻の叫びに、悪気はないのだろうが容赦ない醍醐の一言。
「……終わった……」
がっくりと、龍麻はその場に膝を着くのだった。
真神学園の文化祭は、こうして幕を開けた――
3−C教室。
「はぁ……」
こうして溜息をつくのは何度目だろうか。溜息をつくたびに幸せが逃げると言うが、もしそうなら、今の龍麻はどれだけの幸せを逃がしているのか分かったものではない。もっとも龍麻にしてみれば、今の格好をしているだけで十二分に不幸なのだろうが……
「でも、すごかったねぇ」
茶を啜り、小蒔がぽんと龍麻の肩を叩く。
「みんな、ひーちゃん見て固まってるんだもん」
「言わないで……」
開催式の直後、予定通りコンテストが行われた。とは言え凝ったものではなく、先に龍麻が言っていたようにお披露目、そして二言三言司会と話す程度のものだ。女装した者が舞台に現れるたびに巻き起こる大爆笑。当然と言えば当然の反応である。生徒達も、次にどんなゲテモノが出てくるのかと、別の意味で期待していたのだが――
龍麻の番になると、場の空気は一変したのだ。
まず、一気に会場である体育館が静寂に支配された。その場にいた者達全てが、舞台上の龍麻に釘付けとなる。この反応に一番驚いたのは実は龍麻だったりする。他の連中と同じように、笑われるだけならばどれだけよかっただろうか。しかし現実は違ったのだ。
そして次第にざわめきが戻ってくる。男子は喝采を上げ、あるいは口笛を吹き鳴らし、女子もほう、と息を漏らす。それだけ、龍麻の容姿がずば抜けていたと言うことだ。だがその中で、3−Cの面々だけは、その後に起こるであろう反応を予想し、ほとんどの者が耳を塞いでいた。
そう。この時点で、舞台にいるのが龍麻であると気付いている者はいなかったのである。一部を除き、それが「本物の女性」であると思っていたのだ。何かの余興であろう、と。
そして告げられる真実。司会が龍麻を紹介した瞬間――
体育館を揺るがす絶叫が発生した。発生源は言うまでもなく男子だった。バカみたいに口を開け、食い入るように龍麻に視線を注ぐ。「男でもいい……」などと言った者がいたとかいないとか。その一方で「負けた……」などと呟きながら膝を着く女子達もいたそうだが、それはそれである。
勿論反応は生徒に留まらず、その場にいた教師達もそれにやられていた。あのマリアですら魂を抜かれたように呆然としていた。教師の例外は犬神くらいだろう。舞台上の龍麻を見て、吹き出しそうになるのを必死に我慢していたという。それはそれで珍しい光景であったろう。
まるで魅了の術を使ったかのように、龍麻はその場にいた者達を支配してしまっていたのだ。本人には甚だ不本意な結果であったに違いない……。
「ま、これでひーちゃんの優勝は確実だな」
団子をくわえて、小蒔とは逆の肩をぽんと叩く京一。
「第一回ミスター女装コンテスト優勝者として、真神の歴史に名を残せるぞ、ひーちゃん。しかも公式に」
「冗談じゃない……」
げんなりとした表情で、龍麻は団子を頬張った。精神的にかなり追いつめられているようだ。
「そんなことで名を残すくらいなら、悪事を働いて名を残した方がマシだよ……」
「それもどうかと思うが……そういえば、遠野が喜々として部室に駆け込んでいたな」
恐らく参加者の写真を現像するのだろう、と付け加える醍醐に、京一はニヤリといつもの意地悪い笑みを浮かべる。
「あのアン子がそれだけで済ませるはずねぇだろ。絶対、ひーちゃんの写真だけ別口で売りさばくつもりだぜ。今回の客層は男子だろうけどよ」
それを聞いて龍麻の顔に縦線が走った。今までにも女子が自分の写真を買い求めたりしていたのは知っているが、よりによって女装した自分の写真を、しかも男子が持ち歩いているなど――怖い。怖すぎる。
「一枚千円でも売れるんじゃないかなぁ」
などと無責任なことを言うのは小蒔だ。
「ま、それはいいとしてさ。ひーちゃん気をつけなよ。校外の人も来るんだから、ナンパされないようにしないと」
それを聞いて、龍麻の表情は益々渋くなる。自分が男子に言い寄られるところなど、想像したくもない。
「だから、僕は男――!」
「すまんな、龍麻。その格好じゃ、まったく説得力がないぞ」
主張したいのは分かるが、醍醐の言う通りだった。この状態で男だと見破れる人間など、まずいないと言っていい。《氣》を読むなりすれば話は違ってくるかもしれないが、そんな事ができるのは魔人、しかも武道家肌の連中だけだ。
「一日、ここで大人しくしてるからいい……」
力無くそう言って、また溜息をつく。が――
「だな。その方がみんなもお前を見つけやすいだろうよ」
何気ない京一の一言にそちらを向いた。追いつめられた、と言う表現がぴったりくるような表情をして。
「ん? 何の話、京一?」
「いや、今日の文化祭、仲間に声を掛けておいたからな」
小蒔と京一のやり取りに、さー、と龍麻の顔から血の気が失せていく。それはもう劇的に。
「へー……ボクも雪乃と雛乃に声掛けたけど。後は誰が来るのさ?」
「雨紋だろ、藤咲は先約があってパス、高見沢は当直だからパス。紫暮のヤローは出稽古の関係で無理だって言ってたな。後は如月にアラン、諸羽にさやかちゃん、劉だ。コスモはショーがあるとかで来れねぇとよ」
さやかちゃん、のところだけは声を落として、京一は仲間の名を挙げた。
「あ、それとマリィも来るわよ。アランくん達と一緒に動くって言ってたわね」
半数近い仲間がここへ来る、そういうことらしい。
(……冗談じゃない……)
例のアルバムを見ている如月はともかくとして、他の仲間達にまでこの姿を見られるのは避けたいところだ。とは言え、この格好を止めるわけにもいかない。
(……こうなったら、どこかに身を隠すしか…)
そう考えたところで、教室の入り口から声が掛かった。
「あ……緋勇。ここにいたのか」
名前は知らないが、文化祭の実行委員の男子だ。こちらを見て一瞬動揺したようだったが、教室に入ってくる。
「済まないけど、少し手伝って欲しい事があるんだ。いいか?」
「おい、待てよ。ひーちゃんはクラスの出し物の手伝いが――」
「全然構わないよ。それじゃ行こう。今行こう、すぐ行こう」
それを止めようとする京一。言葉にした通りに手伝いがあるというわけではないのだが、ここで龍麻を逃すと仲間達へのさらし者にすることができない。
しかし龍麻は立ち上がり、男子生徒を押して教室を出て行こうとする。沈んでいた表情が、妙に明るくなっていた。
「ちょっ……待て、ひーちゃん!」
「そういうことだから。ぢゃっ」
びっ、と片手を挙げて、龍麻は京一の制止を振り切って出て行ってしまう。
だが、それが何の解決にもならない事に、龍麻は気付いていなかった。写真は確実に張り出される。それに、結果発表の時には人前に出なくてはならないのだから。遅いか早いか、それだけの違いしかなかったのである。
真神学園――奏楽堂。
「で、僕は何をすればいいの?」
内容も聞かずにやって来た龍麻は、舞台の袖でそう実行委員に尋ねた。
奏楽堂はいつにない熱気に包まれている。真神の、そして外部のバンドをやっている者達が演奏を繰り広げているからだ。
「あぁ、今回外部から参加した人達への花束贈呈だよ。別に、緋勇でなくてもよかったんだけどな。せっかくだから綺麗どころを使おうと」
「綺麗どころ、って僕は芸者じゃないんだけどね」
「それだけ化ければ、立派な芸だと思うぞ」
ジト目を向けるが、今の自分では何を言っても無駄らしい。実行委員の一言に、龍麻は諦めて肩を落とした。
「で、全員に花を配って回るわけ?」
外部の入場が始まっている事もあり、奏楽堂にもかなりの人が集まっている。
「いや、緋勇の担当は一組だけだよ」
「一組?」
バンドの参加数だって少ないわけではない。しかし今の言いようだと、その中の一つのためだけに呼ばれたということになる。
「それは……楽でいいけど」
「まぁ、結構有名なバンドだからな。それなりの対応を、ってわけさ」
舞台からの演奏が途絶え、歓声があがった。どうやら、一区切りついたようだが、その割には衰えるどころかヒートアップしているように感じられるのは何故だろう?
「次でそのバンドの演奏だからな。終わったら頼むぜ」
プログラムを見ながら、実行委員。
「うん。でも、有名なバンドって――」
舞台からの歓声、そして演奏が聞こえ始める。言いかけた言葉を龍麻は飲み込んだ。聞こえてくる曲に聞き覚えがあったからだ。メジャーのコピーではなく、自分がよく知るバンドのオリジナル……。
「あ、あの……ひょっとして、今演奏してるのって……」
ギギギと油の切れたからくり人形のように、龍麻は首を実行委員の方へと向ける。
「あ、緋勇も知ってるのか。渋谷の『CROW』だよ」
「な、何故に?」
仲間と顔を合わせたくなかったからこそ逃げてきたというのに、龍麻の目論見はいきなり挫かれる事となった。
不幸へのカウントダウンが始まっている。
もうじき演奏が終わる。そうなると、自分は花束を持って『CROW』のメンバーの前に姿を見せねばならなくなるのだ。『CROW』とは直接の面識があるし、何より仲間である雨紋雷人がいる。3−Cを逃亡して一時間も経たないうちに、仲間の一人との接触……考えただけで気が重い。
「ねぇ。今更だけど、他の人に代わってもらうってのは……」
「何言ってんだよ。ここでお前が辞めたら、呼んだ意味がないだろう? 心配するな、名前は出さないから」
往生際が悪い龍麻はそれでも何とかこの事態を回避しようとするのだが、それが通るわけもなく――
舞台の方から流れてくる歓声と拍手。いつの間にやら演奏も終わっていた。
「ほら、出番だぞ」
半ば押し出される形で、龍麻は花束を手にステージへと足を踏み入れる。
興奮冷めやらぬ奏楽堂内は、別の意味で騒がしくなった。その発生源は、言うまでもなく他校の生徒達だ。少なくとも、真神の生徒達にはある程度の免疫はできているらしい。正体を知っていれば、それも当然といえる。
ステージ上の『CROW』メンバー達は、現れた龍麻を前に呆然としている。仲間の一人である雨紋ですら例外ではなかった。
(ううっ……頼むからそんな目で見ないで……)
やや顔を赤らめてこちらを見つめる雨紋――少なくとも、自分の正体には気付いていない。気付いていれば、こんな反応を示したりはしない。
(落ち着け、落ち着くんだ緋勇龍麻。向こうは気付いていない。だったら、このまま花を渡してすぐに退散すればいいんだ。平常心、平常心……)
心中の呟きとは裏腹に、がちがちの状態で龍麻は持っていた花束をゆっくりと持ち上げる。
「ど、どぞ……う……」
意識して高めに出した声は裏返っていた。しかもどもりが酷い。
「あ、あぁ……サンキュ……」
一方、雨紋は一層顔を赤らめ、それを受け取る。そして、更に何か言おうとしたが、その時には、龍麻は風の如き早さでステージから去っていた。
結局その正体に気付くことなく、雨紋以下『CROW』のメンバー達は、次の演奏が始まるまでその場に立ち尽くしていたのだった。
不機嫌。
今の織部雪乃の心境を一言で表せば、こうなるだろう。
いつからこうなったのか――それははっきりしている。『CROW』の演奏が終わってからだ。正確には、着物姿の女性(龍麻)が花束を持って現れてから、である。
(ったく……雨紋のヤロー、鼻の下のばしやがって……って、どーしてこんなにイライラすんだよ……)
とまぁ、つまり、やきもちである。とは言え、現時点ではこの二人、付き合っているわけではないのだが。そもそも、雪乃自身が自分の感情の正体に気付いているかは疑問だ――二人が会うといえば、手合わせをする時だけで、色気のいの字もないのだから。
「……姉様、さっきからどうなさったのです?」
様子がおかしいことには気付いていた雛乃が訊ねるが、雪乃の方は無反応。
(先程の女性のこと、でしょうね)
と、雛乃は推察する。ただ、その捉え方は違う。ステージに女性が現れた時の、周囲の反応――それのせいだろうと考えていた。ああいう、女性を見せ物のように見る男達というのを、雪乃は嫌っている。
まさか、あの時の雨紋の反応が気にくわなかったから、などとは夢にも思っていない。
(さて、これからどうしたものでしょう)
こうなったら、雪乃はしばらく元には戻らない。機嫌を直すまで放置しておくしか手はない。
とりあえず、3−Cの教室――龍麻達のいる所へ向かおう。そう考えて雛乃は姉に声を掛けようとして
「おわっ!」
突然現れた人影に、その機会を失った。
「すんません、驚かせてもうて……」
白いバンダナらしきものを額に巻いた、日本人とは少し違う顔立ちの、学生服姿の青年――劉は、そう謝りかけて、途中で言葉を止める。その目は、じっと目の前にいる少女、雛乃に向けられている。
「あの……何か?」
「い、いや、別に何でもあらへん。あんさんみたいな別嬪さんが――いやいや、そうやのうて……つい見とれてし……でものうて……!」
訊ねる雛乃に、しばしの間を置き、真っ赤になって劉が慌てる。まさか、ここまで自分の好みに合致しそうな女性に出会うとは思わなかったのだ。ちなみに、劉の好みは大和撫子、らしい。
しかし、このままではまずい。何故だかは分からないが、墓穴を更に深くしてしまうような気がする。何とか誤魔化せないものかと混乱していた劉はあることに気付く。
「た、ただ……そ、そう、ここまで《氣》の大きいお人に会うとは思わなかったもんやから……つくづく、そういうお人らに縁があるんやな、と……つまりはそうゆうことやな!」
「まぁ、そうでしたか」
いかにも取って付けたような理由で完結したが、それを聞いた雛乃の方は、何故か納得したらしい。ただ、気になることがあった。『《氣》の大きなお人』と目の前の青年は言った。つまり《氣》のことを知っている。そして、こうも言った。『そういうお人らに縁がある』と。この青年が言っている者達とは一体誰のことだろうか? 《力》を持っている人間はそれなりにいるのだろうが、雛乃の知る限り、そういった人間は彼らしかいない。
「ひょっとして、龍麻さん達のことですか?」
この青年は悪い人間には見えなかった。彼から感じる《氣》も、常人より大きく、そして暖かい。龍麻とはまた違った、側にいるだけで安らぐ《氣》とでも言うか。それだけで初対面の人間にそう訊ねるのは軽率であったろうが、雛乃の予想は当たっていた。
「って、あんさん、アニキのこと知っとるんか?」
「兄貴……? まぁ、龍麻さんの身内の方でしたか。義理の姉が二人いる、とは聞いていましたが、弟さんもいらっしゃったのですね」
「いや、そういう意味やのうて……」
ボケボケな雛乃の言葉にペースを崩したのか、『何でやねん』とつっこむのも忘れ、どう説明したものかと劉は頭を掻く。だがその前に
「コラてめぇ……ウチの雛に何の用だ?」
背後から声がかかった。不機嫌さを隠そうともしない、いや、怒気を乗せた声だ。振り向いた劉の目に、きつい表情をしたポニーテールの少女が映る。
「姉様」
青年――劉は別に姉が嫌うナンパの類ではない。そうでなくとも過保護気味の姉は、自分に近付く男に対して威圧的な態度を取る。先の件もあり、間が悪かったと言えばそれまでだが、雪乃の態度は初対面の者に対するそれではなく、雛乃はそれをたしなめようとした。だが当の劉はと言うと
「ねえさま? ……ほうほう……」
それに臆する様子もなく、雪乃を見る。その様子に雪乃はたじろく。劉の視線は値踏みすると言った類の不快なものではない。それ故に自分をじっと見る意図が読めなかった。
「な、何だよ……?」
と、声にも動揺が表れる。すると劉は目を細め、にっ、と笑った。
「いや、よう似とるなぁと思うて。外見がやのうて、なんちゅーか《氣》がな」
「……てめぇ、何モンだ?」
「わいの名は劉弦月。ちょいと人様とは違う《力》を持つ中国人留学生や。あんさんらが知っとるアニキ……緋勇龍麻に縁のあるモンや」
「何だ、龍麻くんの知り合いか」
《氣》という言葉に警戒した雪乃は、龍麻の名を聞いてあっさりとそれを解いた。これも不用心と言えばそれまでだが、雛乃が向ける非難めいた眼差しも、警戒心を解く一因となっていた。
「どうやら、そっちもそうみたいやな。仲間がたくさんおるっちゅーのは聞いとったんやけど、全員は知らんから。よければ、そっちの名前も教えてもらえんか?」
こっちは名乗った、といった表情を向ける劉に、姉妹が応えようとしたその時。
「あら、あの方は」
廊下を行き交う人々の中に、雛乃はある人物を見つけた。
奏楽堂で、仲間である雨紋に花束を渡した黒髪の女性が、こちらへと歩いてくるのだ。雛乃の視線を追うように雪乃はそちらを見て、一度は元に戻った表情を再び不機嫌なものに変える。劉もそちらを見るが、こちらは他の男子達と似たような反応を示す。すなわち見惚れていた。
その女性は早足で歩いていたが、一瞬こちらを見たかと思うと顔を逸らし、更に速度を上げて脇をすり抜け、そのまま去ってしまった。
「随分と急いでいたようですが、何かあったのでしょうか?」
「なぁ、聞いてもええか?」
女性の背をそれぞれ違った目で見送る姉妹に、いつの間にやら真顔に戻った劉が問いかける。
「今の別嬪さん、誰かに似とったような気がするんやけど……」
「そうか? あんだけの美人なら、一度会ったら忘れねぇと思うけどな……少なくとも、オレにはその記憶はねぇよ」
「でもなぁ……あの《氣》はどこかで……」
雪乃は気のない返事を返したが、劉は何やら思うところがあるらしく首を傾げている。ややして、劉はぱん、と手を叩いた。
「そうや、アニキや。アニキに似とるんや」
「龍麻さん、ですか? ですが……」
「おいおい、龍麻くんは男だぞ? さっきのはどう見ても女じゃねぇか」
否定的な姉妹。劉も、自分で言ったはいいが、確信はないようだ。
「それはそうやけど。あれじゃ、アニキじゃなくてアネキやしな。《氣》は似とったような気がしたんやけどなぁ」
見た目からは、先の女性が我らが指揮官であるとは信じがたい。ただ、劉が《氣》のことを口にした。それを考慮すると、まるっきり間違いであるとも思えないのだ。しかも、自分達の知る龍麻に、先の女性の髪型を重ねてみると、そう違和感がない。
「「「まさか……」」」
三人は顔を見合わせたが、自分達の予想がまさか当たっていようとは、この時は思わなかった。
人目を引く一団があった。現在の状況を考えると、それは珍しくないのかも知れない。現在、真神は文化祭の真っ直中で、着物を身に着けた者も少なくない。外来の者達に着物を貸し出すというイベントも実施されている。が、そこで視線を集めているのは、部外者であり、服装は私服、他校の制服だった。
「フーン。エンニチみたいにニギヤカだね」
その中の一人、赤い私服を着た金髪の少女――マリィが、物珍しそうに目を動かしている。
「HAHAHA、賑やかなのはタノシーネッ!」
「ふむ……文化祭全体のイメージをこういう形で表現するとは、考えたな」
その隣にいた長身の外国人青年――アランも、明るく笑っていた。すぐ後ろにいた黒髪の美形――如月は、何やら感心しているようだ。
「ヒスーイ、気に入ったのなら、自分のトコロでもやればいいデース」
「生憎と、うちの学校の文化祭は終わったのでね。自分たちでやるのは無理だな。来年以降は分からないが、僕たちには直接の関係はない」
自分達は現在高校三年生だ。来年には卒業してしまうし、そうなったら、わざわざ母校の文化祭に顔を出すこともあるまい。
「それもそーデスね。とにかく、今日は楽しみまショウ。まずはアミーゴたちと合流デース」
「アラン、翡翠! 早く葵オネエチャンたちのトコロへ行くよ!」
先行していたマリィが促す。色々と見てみたい気持ちはあるが、今日は葵が着物を着るということを前もって聞いていたので、そちらが第一優先だった。
自分の義姉が美人の部類に入るであろう事は分かっている。和風の装いが似合いそうなことも。さぞかし綺麗なのだろうと期待しつつ歩を進めるマリィの視界に
「アレ?」
一人の着物姿が映った。長い黒髪を見て葵かと思ったが、どうやら違う。百合の柄が入った白い着物。平均に比べて背は高いようだ。どこか疲れたような表情をしてはいるが文句なしの美人であった――とは言えそれは実のところ女性ではなく、本来なら自分がよく知る人物なのだが、勿論気付いてはいない。
マリィはしばらくその女性(笑)を見ていたが
(……葵オネエチャンの方が美人だモン……)
と、心の中で呟いた。きっとその女性(笑)も反論はしないだろう。逆のことを言われれば落ち込むかも知れないが。
「Oh、Beautiful!」
どうやらアランもその存在に気付いたらしく、背後から声が聞こえた。そして次には行動を起こしていた。
「オジョーサン! チョットお話いいデースか?」
突然声を掛けてきた外国人青年に、女性(笑)は顔を思いっきり引きつらせていた。それを気にした様子はなく、青年――アランは色々と話しかけている。その様子に、何故かムッとした表情を作るマリィ。今は自分とアラン、如月の三人で行動しているのだ。それを忘れてナンパに走る彼を見て不機嫌になっても罪はない。
この辺の複雑な心情は別として、ここでマリィがするべき事は一つ。
むぎゅっ!
「Ouch!」
マリィに思いっきり足を踏みつけられ、アランは悲鳴を上げた。
「マ、マリィ!?」
「何をしてるノ? マリィ(と翡翠)がいるノニ」
目尻に涙を浮かべて抗議するアラン。マリィはそれを気にするでもなく、ジト目を向ける。その隙をついて、女性は着物とは思えない速さでその場を去って行った。
アランはそれを引き留めようとするが――今度は脇腹を思いっきりつねられ、再度悲鳴を上げるのだった。
この時二人は、もう一人の連れの姿が消えていることに気付かなかった。
しばらく走り続け、ようやく龍麻は足を止めた。息切れはないが、盛大に溜息をつく。
小蒔が冗談気味に言っていたことが現実になるとは思わなかった。しかも、それをしたのは自分の仲間ときた。心労がどんどん溜まっていく。
(いやになっちゃうよ。僕が一体何をしたっていうのさ)
いくら女装しているとは言え、男にナンパされるとは……。まぁ、下手に女性っぽい顔の造作をしているのが原因である。こればかりはどうしようもない。恨むとするならば、実の両親である弦麻と迦代か。ただの逆恨みだし、そんな気は毛頭ないが。
いい加減、どうでもよくなってきた。このままどこかへ雲隠れしてやろうかという気さえ起きてくる。そもそも、コンテスト自体は結果発表だけだし、写真だって掲示されているので、実物を見ずとも投票はそれで事足りるだろう。最後に顔を見せるだけでいい、そう考えて
「ちょっといいかな?」
背後から掛かった声に、龍麻は身体を硬直させた。一難去ってまた一難とはこのことだろうか。汗が頬を伝っていくのが分かる。
「な、何かご用でしょうか……?」
意識して声を変え、恐る恐る振り向くと、そこには予想通りの人物が居た。先の声の主――如月翡翠が。
(な、何で――!?)
如月が文化祭に来ていることは問題ではない。来ることは分かっていたし、先程アラン達と遭遇した時にもその姿はあった。問題は、その彼が何故自分の背後にいたのかということ。あの場から龍麻は逃亡したのだ。その自分の後ろに如月がいるはずがない。
「ちょっと道を訊ねたいんだが、構わないか?」
現状を分析しようと頭を巡らせる龍麻に、如月はそう言った。
「道、ですか?」
「あぁ。3−Cの教室へは、どう行けばいい?」
それを聞いて龍麻は疑問に思う。それこそ、誰に聞いてもいい質問だ。自分である必要はない。まさか、先程のアランのように下心があるわけでもあるまい。ならば何故自分に声を――?
(ま、まさか……)
考えられる可能性は二つだ。一つは偶然、そしてもう一つは故意、つまり分かってやっている。
前者は可能性として挙げたが、まず違う。だが、後者なら――自分をからかっているのだとしたら。
(翡翠は僕の『写真』を見てるから……でも、アレは小中学生の頃のだし、今の僕と結びつけるなんて……)
いくら何でも、過去の自分の写真から今の自分を連想したとは思えない。だが、他に納得できそうな理由が思い付かなかった。
「3−Cだったら、この階段を三階まで上がったらすぐです。茶屋みたいになってるので、間違えることもないですよ。では、私はこれで」
いつまでも接触していたくないので、説明だけしてその場を離脱しようと試みる。
「案内してくれないか?」
しかし如月はそれを許さなかった。肩を掴んで、龍麻を引き留める。この行動は、龍麻にとっても意外だった。
(な、何で……?)
「どうせ、君も行くんだろう、龍麻?」
沈黙――それはもう長い沈黙が流れた。実際は一分ほどだが、何時間も経ったような気がする沈黙。
「まさか、君がこんな格好をしているとは思わなかったな。蓬莱寺君の言う通り、面白い物が見られたよ」
「な、な、な――?」
「何故分かったか、って?」
言葉を吐けない龍麻を見て、おかしそうに如月が笑う。
「これでも、常に周囲に気を配っているんでね。君の《氣》を察知するくらい容易い。何より、僕が一番よく知っている《氣》だ、間違えようはずがない。驚いたのは事実だけどね」
外見からではなく、本質――《氣》で確認したというのがいかにも忍というか、如月らしい。が
「しかし……まさかここまでとはね。いや、笑う気はないんだが……」
無遠慮に龍麻を見る如月の顔は、笑いを堪えるのに必死だった。口元を抑え、肩は震えている。我慢が限界を超えるのもそう先のことではない。
それを見ているうちに、段々と腹が立ってきた。好きでこのような格好をしているわけではないのに、あんまりな態度だ。向こうも悪いとは思っているようだが、今見る限りではその姿に説得力はなく――
「……楽しそうだね」
冷たい声が周囲を支配した。その声と、気配に、如月は笑いを堪えるのを止める。いや、そんな感情は一発で吹き飛んでいた。背中を冷たいものが伝い、だらだらと汗が流れ出る。蛇に睨まれた蛙の如く、身動き一つできない。その元凶は、目の前にいる美女――に見える青年。表情は全くない。いや、その口元がニヤリと歪んだ。
「そんなに楽しい?」
「い、いや、そういうわけではないが……」
身の危険を感じ、言い繕おうとする如月だったが、時は既に遅い。
「ふーん……それじゃあ、もっと楽しいことを教えてあげようか?」
(く、逃げなくては! このままでは……殺られる!)
そう思った瞬間、とてつもなく重い一撃が、如月の鳩尾を貫いていた。
3−C教室。
段ボールに紙を貼り付けただけの簡易な看板がそこにはあった。『真神茶屋』とある。その名の通り、茶屋風の喫茶店である。
「お茶二つとお団子二皿お願いしまーす」
注文を受けて、奥へ歩きながら指示を出したのは、龍麻だった。
如月を始末(?)し、しばらく時間を空けてから、戻ってきたのである。もちろん、京一達が居なくなっているのを確認して。更に、他の仲間達が一度は訪れているのも確認済み。戻ってくる可能性もあるが、そう何度も茶屋に入り浸ることはないだろうと踏んでの行動だった。
もっとも、こうなったのには理由がある。自分の服と他の着物は実行委員に抑えられており、着替えることは不可能。結局、途中で雲隠れしようとしたがそれは叶わなかったのだ。
「はい、準備できたよ。よろしく、緋勇さん♪」
「はいはい……」
楽しそうなクラスメイトとは逆に、龍麻の顔には苦笑が浮かぶ。少なくとも、この格好をしている限りは自分は男子扱いされないということが嫌と言うほど分かったからだ。文字通り看板娘と化している。現に、クラスメイトは自分を緋勇くんとは呼ばず、緋勇さんと呼ぶ。龍麻ちゃんと呼ばれないだけ御の字かも知れない。
(あぁ……何で僕がこんな目に……)
心の中で涙を流しつつ、黙々と仕事をこなす。接客商売なので、多少引きつっていても笑みは絶やさない。口調もさりげなく女言葉。自らそうと言わない限り、男だとは思われないだろう。今までにも、外部の男子に声を掛けられたりしている。いい加減慣れた――甚だ不本意ではあるが。
まぁ、それもあと少しの辛抱だ。もう三十分もすれば結果発表が始まるし、それが終われば晴れて自由の身。いつもの格好に戻れるのである。最終的に、また体育館でその姿を晒さなくてはならないのだが、こればかりは仕方ない。
「さて、と。もう一頑張りしようか」
空になったお盆を持ったまま、龍麻は大きく伸びをして
カカッ!
お盆を振り下ろしたと同時に乾いた音が響いた。
「おや」
お盆に刺さった三本の金属。それに龍麻は見覚えがあった。自分も使っている四方手裏剣。これを使っているのは自分以外にはただ一人、これを調達してくれた人物だけである。
もちろん、偶然防げたわけではなく、自らの意志でもって、お盆を盾にしたのだ。
「思ったより遅かったね」
手裏剣の飛んできた方へと龍麻は向き直る。
「……」
そこにいたのは一人の女性。薄い紫を基調とした着物姿。ただ、袖がなく、足がやや露出しているところを見ると、やはりどこか普通の着物とは違う。強いていえば小蒔が着ていたのと同系統にも思える。
「どういうつもりだ?」
その口から発せられた声は冷たく、僅かに震えていた。その声に乗せられた感情が怒りであるのは明白だ。薄い化粧を施した顔が赤いのは、羞恥のためか、それとも怒りのためか。
周囲にいた生徒達も、一体何事かと固唾を呑んで見守っている。そんな中
「おや、誰かと思えば王蘭高校の如月翡翠君」
「「「「「ええーっ!?」」」」」
周囲にいた生徒達の何割かが悲鳴にも近い声を上げた。男子が叫んだのは目の前の美人が男に見えなかったからであり、女子が叫んだのは目の前の美人が『あの如月翡翠』であるからである。
ガガッ!
再び手裏剣が繰り出された。慌てることなく龍麻はそれをお盆で防ぎきる。
「どうかしたの?」
「どうかしたの、だと? 一体、何の怨みがあって僕にこんな格好をさせた!?」
どうやら女装させられたのがご立腹のようだ。『氷の男』ともあろう者が、随分と熱くなっている。
「だって……笑ったでしょう? この格好の『私』を」
女口調を崩さずに、余裕ある態度を見せる龍麻。冷酷さを含んだその薄い笑みが、周囲の生徒達を魅了する。勿論計算したわけではないのだが、天然なだけタチが悪い。いずれにしても、龍麻も先の如月には腹が立ったと見える。
「だったら、同じ目に遭ってもらおうかと思っただけ。それに、似合いそうだったし」
ひゅうぅぅぅ、と寒風が二人の間を吹き抜けた――ような気がした。
「……とにかく、僕の服を返してもらおうか!」
「却下」
お盆を近くのテーブルに置き、龍麻は踵を返した。
「に……逃がすかっ!」
三度、如月は手裏剣を放った。人に武器を向けることに躊躇がないわけではないが、今回は座右の銘である『無』を実践するのは無理だったようだ。
手裏剣は狙い通り龍麻の足へと迫る。しかしそれはあっさりと弾かれた。白い布によって。
始め、それが何であるのか理解できた者はいなかった。だが、続いて青く長い布が視界を舞う。それが帯であることに気付くと、先の白い布は着物なのだと理解できた。つまり、龍麻は着物を脱ぎ、それで手裏剣を払ったことになる。
では、その着物の下はどうなっているのだろうか? 答えは目の前にあった。
「……た、龍麻……君は恥ずかしくないのかっ!?」
「うるさいっ! 誰が好きでこんな格好するもんかっ!」
目の前の現実を信じられず、叫ぶ如月に、これまたそれ以上の声量で龍麻が叫び返した。
ちなみに今の龍麻の格好はこうである。
形状は小蒔の着ていたのと大差ない。基本色は黒で、足はタイツに覆われている。履き物は先のまま草履だったがそれを脱ぎ捨てる。それからどこからともなく紐を取り出し、髪を後ろでまとめて縛る。
一言で言うならその姿は、某水戸の御老公に付き従うくノ一であった。そりゃあ恥ずかしいだろう。
再び龍麻は身を翻した。先程とは違い、機動性は格段に上がっている。あっという間にその姿が遠ざかっていく。
「逃がすかっ!」
それを追う如月翡翠。
その場にいた者達は呆然とそれを見送るしかない。
真神の校舎内で忍者ショーが開催された。
校舎内を一組の男女が歩いている。優しげで人の良さそうな少年は、何やら細長い袋を手に持ち、茶色がかった長髪を後ろに束ねた少女は眼鏡を掛けている。
剣聖の弟子と、平成の歌姫の二人であった。仕事が長引いたために遅くはなったが、こうして真神へとやって来たのだ。ちなみに舞園の眼鏡は変装用のダテである。
「それにしても、すごいね」
「ええ。他校の文化祭なんて初めて来たから、どんなものかと思ってたけど」
外部からの来訪者もあり、かなりの人出になっていた。そんな中を、二人は色々と見て回っていたのだ。意識しているかどうかは別として、デート以外の何ものでもない。
「そう言えば、龍麻さん達はどこにいるのかしら?」
「え、っと……教室で喫茶店みたいなのをやるって言ってたけど、今そこにいるかどうかは分からないね」
入り口でもらった案内を見ながら霧島は答える。
「でも、せっかくだから行ってみようか。おいしいお団子があるって言ってたし」
「ええ、そうしましょう」
二人は上階へ続く階段へと歩いて行く。
「でも、結局龍麻先輩が何をするのかは教えてくれなかったよね」
「そうね。気になるけど、会ったらすぐ分かるかな?」
出店のことは聞いていても、龍麻については一切が伏せられていた。もしも二人が掲示板に目を向けていれば、そこに龍麻の名前と共に写真を見つけることができたのだが、その機会は未だにない。
「実は、結構楽しみにしてるんだけどね。一体――」
バン!
霧島の言葉は何かを蹴る音にかき消された。何事かと音の発生源へと首を向けると、見えたのは、壁を蹴ってこちらへ跳んでくる黒い忍装束の女性だった。両手に苦無を一本ずつ携えている。
「うわっ!?」
咄嗟のことで反応できない霧島をよそに、黒髪の女性は片方の苦無を口にくわえ、彼の肩に空いた方の手を着いて体勢を変える。そのまま再び壁を蹴り、霧島と舞園の頭上を跳び越えて行った。更に、それを追うように別の女性が似たようなパタンで二人を跳び越える。何だったのだろうと振り向いた時には、既に二人の姿はない。
「霧島くん、大丈夫?」
舞園が駆け寄ってくる。霧島は尻餅をついたまま、二人が駆け抜けていった階段を見つめていた。
「ねぇ、さやかちゃん。さっきの二人、見た?」
舞園の方を見ずに、霧島は問う。
「うん、すごかったね」
「それでさ、二人ともすごく綺麗だったんだけど」
「……けど?」
霧島が何やら言おうとするが、それが先程の女性のことだったので言葉に不機嫌な何かが宿る。一瞬ではあったが、舞園も二人の顔を見た。確かに美人だったのだ。霧島がそれに見惚れたのだろうかと表情を硬くするが
「後から来た人、如月さんに似てなかった?」
「は?」
続く言葉を聞いて、らしからぬ間抜けな声を出す。
「いや、だから、後から来た薄紫の人。どことなく、あの骨董品店の人に似てたような気がしたんだ」
そう言われて、舞園は如月を思い浮かべる。その姿に先の着物を重ね、化粧を施してみると――
「そう言われると、そんな気もする」
「うん。それに、最初の人も、どこかで見たような気がするんだよ。あれだけの身のこなしだから、ただ者じゃないと思うんだけど」
察するに、霧島は先の二人を異性としてではなく、武道の使い手と捉えたようだ。
「ひょっとしたら、まだ紹介されていない仲間の人かも知れないね」
内心ホッとしながら、舞園は当たり障りのない回答を返す。
「後で、龍麻さん達に会ったら聞いてみましょう」
「ひーちゃんがどうしたって? さやかちゃん」
とそこへタイミングよく、京一が現れた。側に醍醐もいる。
「あ、蓬莱寺さんに醍醐さん」
「霧島に舞園か。よく来たな」
頭を下げる二人に、醍醐は手を挙げて答えた。
「どうだ、楽しんでいるか?」
「はい。お二人とも、よく似合ってますよ」
そう言って舞園は京一達の格好を見た。京一はだらしなく笑い、醍醐は苦笑でそれに応じた。
「あ、そう言えばお二人に訊きたいことがあったんです」
「訊きたいこと? 何だよ諸羽?」
「僕達に紹介していない仲間って、まだいますか?」
眉を顰める先輩二人に、霧島は先の出来事を話す。それを聞いた京一は意地悪い笑みを浮かべ、醍醐はやはり苦笑するのだった。
真神の校舎の外れに一人の少女が居た。名を橘朱日という。如月と同じ王蘭高校の生徒であり、如月のクラスメイトである。その彼女が、何故こんな場所にいるのか。
最初は友人と回っていた橘であったが、その途中で呼び止められたのである。白い着物を着た、黒い長髪の女性に。その女性はこう言った。
『十六時にこの場所で待っていて欲しい。それまでこれを預かっていてくれない? 』と。
手渡されたのは何かが入った布包み。大した重さはないし、固い物でもない。
ここまで言えばお分かりだと思うが、女性の正体は龍麻であり、渡されたのは如月の服である。勿論橘はそれに気付いていない。
胡散臭いことこの上ないし、普通なら断りそうなものだが、何故か彼女は断ることができなかった。元々、頼まれ事を断れない損な性分なのである。その相手がたまたま、見知らぬ女性であった、それだけのことだ。
(でも、失敗したかも知れない)
今更ながらに後悔していたりする。相手が誰なのかも知らず、しかもこんな、よく分からない頼まれ事だ。
ふぅ、と後悔と共に息を吐き、腕時計に目をやる。時刻は十六時を指していた。
「約束の時間なのに、まだ来ないのね」
預かり物をしている以上、必ずここへ来るはずだが、その姿は見えない。ひょっとしてただのいたずらではないだろうか、そう考え始めたところへ
「おまたせっ!」
頭上から声がやって来た。見上げると、校舎の窓から黒いモノが降ってくる。それは自分から少し離れた所へ着地し、こちらへとやって来た。服装こそ変わっているが、自分をここへと繋ぎ止めた女性だ。
「ごめんなさい、待ちました?」
「いえ、ほんの少しです」
奇妙な登場をした女性に引きつつも、そう答える。そして、疑問を口にした。
「あの。どうして私にこんなことを?」
「あぁ、実は会わせたい人がいて。あなたを見かけたのは偶然だし、相手が乗ってくるかどうかは賭だったんだけど、うまくいったから」
どこか楽しそうにその女性は笑った。
「会わせたい人?」
「ええ。あと数秒もすれば――」
黒髪の女性は自分が飛び降りてきた窓へと顔を向ける。と同時に今度は薄紫のモノが降ってきた。そして、それは橘が知っている者だった。
「さぁ、いい加減に観念――っ!?」
短髪の女性――否、如月は、何故か逃げずにじっとしている龍麻に詰め寄ろうとして、側にいる女性に気付いた。
「た、橘……さん……?」
「き、如月……くん……!?」
お互いを見て、硬直する二人。如月は、何故彼女がこんな所にいるのか分からず、橘は何故如月が女装しているのかが分からない。何故、という言葉が頭の中を駆け巡る。
二人の周囲の時間は止まった。そして、再起動を果たした時には、龍麻の姿はどこにもなかった。
「やれやれ……結局、結果発表さぼっちゃったな」
更衣室、この場合は演劇部の部室へ向かいながら、龍麻は何げに言葉を漏らした。如月との鬼ごっこが思った以上に長引き、硬直した二人を眺めている内にそれなりに時間が経ってしまったのである。
「まぁ、仕方ないよね。とりあえず、これ以上のさらし者にはならずにすんだことだし。後で怒られるかも知れないけど、たまにはいいか」
そう自己完結をして、龍麻は部室の扉を開けた。カツラを外し、そのまま着物を脱ごうとして
「よう、遅かったな、ひーちゃん」
そこに京一がいるのに気付いた。悪だくみをしている時に浮かべる邪笑を貼り付けて。
「京一……って……っ!」
目を見開き、龍麻はその場で固まる。そこにいたのは京一だけではなかったのだ。
「あー……一度見ているとは言え、すごいカッコだね、ひーちゃん」
「そ、そうね……」
「龍麻には悪いが、やはり男には見えんな」
小蒔が、葵が、醍醐が。
「……あ、あれって龍麻サン、だったのかよ……?」
「ジーザス……あ、あのBeautyが、アミーゴ……!?」
見惚れた女性が、そして口説こうとした女性が、龍麻であることを知った雨紋とアランが。
「た、龍麻……くん……?」
「まぁ。やはり龍麻さんだったのですね」
呆然とした雪乃が。何故か納得している雛乃が。
「はぁ……ホンマにアニキやったとはなぁ。いや、この場合はアネキって言った方がええんかいな?」
「龍麻……オネエチャン……ダッタノ?」
驚きはしたようだが何やら笑っている劉と、未だに現実が把握できていないマリィが。
「た、龍麻先輩が……あの女性!?」
「龍麻さん……そんな趣味が……」
現実を認められない霧島と、何やら勘違いしている舞園が。
つまり、如月以外の仲間達がここに集まっていたのだ。
「な、ななななな何で……」
「いやぁ。ひーちゃん、みんなを避けてたろ? それでも結果発表には顔出すと思ってみんなを連れてったんだが、姿を見せねぇし。せっかくだからと思って、ここへ集めたわけだ」
してやったり、と京一は笑みを崩さない。だがその言葉は龍麻の耳には届いていなかった。
かつてアルバムを見られた時と同様に。龍麻は石化した。
こうして波乱に満ちた文化祭は大成功をおさめた。ちなみにコンテストの結果だが、言うまでもなく龍麻が圧勝。式には出なかったが、後日、賞状とトロフィーが写真と共に与えられた。
龍麻の写真(白い着物姿)は、某新聞部長によって大量に売りさばかれることになる。くノ一姿は誰も写真に撮ることはできなかった。某新聞部長はたいそう悔しがったという。ただ、某霊研部長だけが、それを入手することに成功したという噂が立ったが、誰も確認できなかった――怖くて。ある意味一番の勝者は彼女かも知れない。
文化祭に来なかった仲間達は、写真こそ見たが、実物を拝めなくて残念がったとか。
ちなみに龍麻に次ぐ不幸を被った如月だが。しばらく橘に頭が上がらなかったそうな。
いずれにせよ、皆の思い出に深く刻まれた一日であったことは疑いようはない。