何も聞こえない。何の気配も感じられない。閉じていた目を開くが何も見えない。闇の中に龍麻は一人で立っていた。
状況が飲み込めない。が、心の中にはある種の感情が生まれていた。不安と恐怖、それが渦巻いている。
今いる場所がどこかは分からない。かといってそのまま立っているわけにもいかない。一歩足を出す。
ぱしゃ……
水溜まりに踏み込んだような音。次の瞬間、足下が一色に染まった。真紅――血の色。
「な……!?」
思わず足を引く。その足に何かが触れた。それに目をやり、龍麻は言葉を失う。
それは人間の手だった。折れた刀を握りしめた手――その手の持ち主である赤毛の少年は全身を血で染め、その場に倒れている。見開かれた目に光はない。
「きょ……ういち……?」
かすれた声が龍麻の口から漏れる。
背後で何かが倒れるような音がした。慌てて振り向くとそこには見慣れた学生服を着た大柄の少年がうつ伏せに倒れている。顔が見えずとも誰なのか分かった。
「雄矢……」
それだけではない。葵も、小蒔も、雨紋も、高見沢も、藤咲も、裏密も、紫暮も。仲間全員が血の海に伏していた。
そこで初めて気付く。自分の服、そして両手に大量の血が付着していることに。
不安と恐怖が増大していく。
「僕が……」
殺した。自分が。この手で。仲間を。
あり得ない、そう否定したくてもできない。これは起こり得るのだ。
そう認識したところで不意に――全てが消える。仲間の死体も血の海も消え失せ、別の光景に変わった。
天井が見えた。見覚えのある天井――品川の廃屋、その地下室だ。体は手術台に拘束されたままだ。側に比良坂が立っている。その向こうには狂気に支配された白衣の男、死蝋とその作品である腐童の姿も見える。
(あの時の状況……!?)
腐童が近付いてきた。あの時と違うのは、何も聞こえない事だ。死蝋の声も、腐童の足音も聞こえなかった。
(く……動け!)
体を動かそうと試みる龍麻。しかしその意志に反し、あの時とは違って指一つ動かない。瞬き一つできなかった。
腐童の前に飛び出す比良坂。障害を排除するべく腐童はその腕を比良坂に叩きつけた。
殴り飛ばされた比良坂の姿を最後に、再び景色が変わる。
古い廃屋。そこにいる五人の子供。手には懐中電灯を持ち、闇を照らしながら奥へと進んでいく。
(また……この夢……)
先程と同じで音は無い。彼らが何か話しているが、何も聞こえない。しかし、龍麻はその内容を知っていた。
一人の少年が立ち止まる。その顔に浮かぶのは不安の表情。それに気付いた他の子供達が振り向き、笑っている。その中で白のジャンバーを着た一人が心配そうに少年に近付いた。
『大丈夫? 顔色悪いよ?』
『これ以上、進んだら駄目だよ。ここから先は……危ない』
二人の唇の動きに応じて、言葉が龍麻の脳裏に浮かぶ。
(そうだ……確かにそう言ってた)
まったくもう、といった顔でその少女は溜息をつく。それを見てまた笑う他の三人の子供達。幾度か言葉を交わし、彼らはそのまま奥へと進み――数秒後、慌てて戻ってきた。
少女が何があったのか問い詰める。恐怖に顔を歪めた少年達はまともに答えることができない。何気なく奥に目をやると、その先にいたのは刀を携えた一つの影。時代劇に出てくる侍のような格好をした男。ただ、その着物は破れ、血にまみれている。
それが人でないことに気付いたのは、先程、危険を警告した少年だけだった。が、それを指摘するより早く少女がそれに近づく。
一閃する刀、舞い散る血。何が起こったか理解できないといった表情で少年に倒れ込む少女。
『真紀……?』
『たっちゃん……逃げて……』
二度目の斬撃――再び紅が視界に広がる。刀が少女の右肩を斬り裂き、白のジャンバーを瞬く間に赤に染め上げる。更に刃は少年の左肩に食い込んだ。
三人の少年達は腰を抜かしたのかその場に座り込んで震えている。その中で、事切れた少女を放り出して少年が立ち上がる。その身に紅く輝く陰の《氣》と、具現化した龍を纏い、瞳に怒りと憎悪を浮かべて。
少年――龍麻は《力》を解放した。
未だに目を覚まさない龍麻を見ながら、葵はずっと考えていた。
(私には……一体、何ができるの? 誰かのために、大切な人のために――)
《力》に目醒めたのには何か意味があると、今までそう考えていた。が、その意味とは何だろうか。自分の持つ癒しの《力》――龍麻はこうした援護があるから安心して戦える、そう言っていた。しかし、その《力》が使われることは最近はない。戦い慣れしたのか、負傷するといった事自体が稀になっていた。
さらに品川の事件。
『肝心な時に限って《力》なんて何の役にも立たない』
あの時の龍麻の言葉が重く心にのしかかる。自分も何もできなかった。身を挺して龍麻を救った一人の少女を自分は救ってやれなかった。
「私の《力》は何のためにあるの……?」
そう自問しつつ龍麻の額に触れた。熱が出てきている。本当ならここから連れ出すのが一番なのだが、いくら龍麻が細身だからといっても葵一人で運ぶのは無理だ。
ふと――龍麻の様子が変わった。苦しそうな表情を浮かべ、うなされている。
「……僕、が……殺……た……」
途切れ途切れで何を言っているのかはよく分からない。
「比良……さ……」
続いて比良坂の名を口にする。あの時の事を夢に見ているようだ。それから少し間を置いて――
「真紀……!」
叫ぶと同時に龍麻は目を覚ました。その視界に葵の心配そうな顔が見える。
「葵……さん……?」
完全に覚醒していない頭で考える龍麻。病院を抜け出し、旧校舎に潜り、犬神の妨害を受けてその後は――
状況を把握したのか龍麻が慌てて起き上がる。身体を襲う苦痛を無視し、そのまま周囲を見回すが、犬神の姿はない。京一達もいない。いるのは葵だけだ。
「どうして……ここに?」
葵に背を向けたままで龍麻が問う。
「旧校舎にいるんじゃないかって、そう思って。来てみたら鍵が開いていたから」
「そう……」
それ以上、龍麻は何も言わない。葵も言葉が見つからず、沈黙を守っている。しばらくして再び龍麻が口を開いた。
「どれくらい寝てた?」
「そうね……三十分くらいかしら」
「僕、何か言ってた?」
その問いに葵は答えない。それでも龍麻は察したようだった。
そこへ、逆に葵の方から質問する。
「龍麻くんはどうしてここへ?」
「……」
「身体が完全ではないって分かってるんでしょう?そんな状態で旧校舎のこんな深い所まで来たら、いくら龍麻くんでも――」
そこまで言って言葉が止まる。いや、それ以上口にしたくなかった。龍麻が何を考えてここへ来たのか、想像してしまったからだ。そんな思いを肯定するかのような龍麻の一言。
「僕が生きていると、それだけで皆に危害が及ぶ」
葵が目を見開く。何よりも、龍麻の口からそんな言葉が出た事が信じられなかった。
「そう思ったら、自然と足がここに向かってた。ここなら誰も来ないから、誰も傷つけない。誰も巻き込まない」
「龍麻くん、それは――」
葵が何か言うよりも早く
「誰も死なないし、誰も……少なくとも人間は殺さずにすむ」
その一言に、血の気が引いていくのが葵には分かった。《暴走》状態になると、その間の事は覚えていないとそう言っていたのは龍麻本人だ。だから、《暴走》した事は別として、あの惨劇を覚えていないというのは、自分達が龍麻を連れ戻すためには都合がよかった。仲間を殺そうとした記憶など、ない方がいい。しかし龍麻の物言いは――
「覚えてるんだ……兵庫がいることを承知で発剄を撃ったのも、雷人と亜里沙を巻き込む形で巫炎を放ったのも。この手で死蝋を殺したのも! その後で京一達を、皆を殺そうとした事も! 品川の一件は全部覚えているんだ!」
地面を引っ掻く音が聞こえた。背を向けたままなので、龍麻の表情は見えない。ただでさえ弱まっている《氣》が揺らぐ。
「恐いんだ……自分のせいで誰かが傷つくのが……自分が《暴走》することが……その結果、仲間を自分の手で殺してしまうかも知れないことが……」
「……」
「今回は皆に危害が及ぶ前に力尽きたから最悪の事態だけは避けられたけど……次に同じ事があったら間違いなく僕は皆を……仲間を殺してしまう……」
龍麻の言う通りだろう。あの時、京一達は龍麻の《氣》に圧されて何もできなかった。今の京一達では《暴走》した龍麻を止めることはできない。
「それにあの時、僕は護るべきもの、大切な仲間を傷つける可能性を無視して、ただ敵を斃すために《暴走》に身を委ねてしまったんだ。もう僕には皆と一緒にいる資格なんてない」
そこで初めて龍麻がこちらを向いた。いつもの穏やかな、優しげな顔ではない。かといって品川の時のような悪意を宿したものでもない。道を見失った迷子のような、そんな表情だ。
「もう誰も僕のせいで傷つけたくない……」
怯えの宿った目を逸らし、再び葵に背を向ける。
「誰も殺したくない……! そうなるくらいなら――」
「龍麻くん……?」
「仲間を殺すくらいなら、いっそ自分が死んでしまった方がいい!」
「龍麻くん!?」
自らの死を望む龍麻の言葉。それを聞いた途端にその姿が揺らいだように葵には見えた。錯覚だったのだろうが、今にも消えてしまいそうな、そんな希薄な存在感しかない龍麻を葵はいつの間にか抱きすくめていた。
「お願いだからそんな事言わないで……」
「……」
「《力》を持っていても私達は万能じゃない。力の及ばない事だってあるわ。私だってあの時、彼女を――比良坂さんを救えなかった。龍麻くんを止める事ができなかった」
「違う……それは僕のせいで……」
消え入りそうな声で何やら龍麻が呟くが、それを無視して葵はなおも諭すように言葉を続ける。
「でも龍麻くんは今までに多くの人を救ってきた。前いた学校では比嘉さんと青葉さん達を、旧校舎では私を、私達を。墨田の事件でも私を救ってくれた。杉並では小蒔を、他の被害者達を助けたじゃない」
「……」
「それだけじゃないわ。敵だった藤咲さんと嵯峨野くんを、杉並の事件で醍醐くんの心を救ったのも龍麻くんよ」
「それでも僕は……」
「《暴走》の事を、その恐さを今回の件でみんなが知った。それでもみんな、龍麻くんを心配して捜しているわ」
自分は皆を殺そうとしたのに何故?
「龍麻くんはこれからも多くの人を救える人だから」
人ひとり救えなかった自分が?
「私達の大切な友達――仲間だから」
こんな自分を、まだ仲間だと?
「龍麻くんが《暴走》を、その結果を恐れて苦しんでいるのは分かるわ。でも、龍麻くんならきっと乗り越えられる。《暴走》なんかに絶対負けない」
「分からないよ……今の僕には、そう言い切るだけの自信がないんだ。もしまた《暴走》したら、今度こそ僕は――」
「その時は……私が龍麻くんを止める」
葵の口調が変わった。優しい声から、決意の宿った力強い声に。それでも龍麻は力無く首を横に振る。
「無理だよ、そんなの……」
「そうね。『《暴走》した』龍麻くんを止めるなんて、私一人じゃ絶対無理。みんなが束になっても今の私達じゃそんな事できない。でも『《暴走》するのを』止めることはできる」
龍麻を包む腕に力がこもる。そして葵は言った。はっきりと。
「もし今度《暴走》したら、私はこの身を龍麻くんの前に晒します」
沈黙の後――
「し、正気なの!? それがどういう事なのか……!」
葵の発した言葉の意味。《暴走》した龍麻の前に立つ事が意味するのは――慌てて振り向く龍麻だが、自分の背中にある葵の顔は見えない。が、震えているのは分かった。
「そうなったら、私は確実に龍麻くんに殺されるでしょうね」
「だったら何で!?」
「私だって死にたいわけじゃない。でも、龍麻くんだって私を殺したいわけじゃないでしょう?」
「当たり前じゃないか! だから僕は……!」
「だったら、もう《暴走》なんてしないわね?少なくとも《暴走》に自ら身を委ねるようなことは」
再び口調が優しいものに戻った。離れはしないが、体に回した腕も緩まる。震えも収まったようだ。
「私は龍麻くんの《暴走》を防ぐ鎖。龍麻くんの中にいる《暴走》という名の魔人を封じるための枷」
今後、龍麻が《暴走》する可能性自体は、まずないと葵は考えていた。ただ、それも本人の意思あってのことだ。品川のような「状況」は、自分達がうまく動けば阻止できる。しかし、最終的に《暴走》してしまうかどうかは龍麻の意志、《暴走》を抑えようという思いにかかってくる。
《暴走》したら確実に一人殺してしまうという状況を作り上げることで、《暴走》に抗う意志を強めてやろう、葵はそう考えたのだ。幸い、龍麻の慌てぶりを見る限りでは、自分には人質としての価値があるようだった。
これで《暴走》については片が付く。後は、龍麻の死にたいという意志を封じるだけだ。
「私達には龍麻くんが必要なの。それに、龍麻くんに自らの命を絶つ権利はないわ。誰のおかげで龍麻くんは今、こうして生きているの?」
「……!」
自分を庇って命を落とした少女が浮かぶ。彼女のおかげで自分は今、生きている。
(ここで僕が死んだら、彼女が僕を庇った意味がなくなる?)
唯一の肉親を裏切ってまで自分を助けた少女。自分が救ってやれなかった少女。
(僕は、生きなくちゃいけないのか……彼女のためにも)
彼女だけではない。今まで自分に関わった人々を裏切ることにもなる。そんな簡単で重要なことを自分は忘れていたのだ。
(……僕は……)
どうやら龍麻も落ち着いたようだ。身体の方は相変わらずだが、感情による《氣》の乱れは収まっていた。そこで葵は自分が何をしているのかに気付く。顔に血が上るのが分かる。慌てて離れるが、その途端、龍麻の身体が倒れた。
「龍麻くん……!?」
再度抱き起こし、額に触れてみる。熱が上がっていた。
(やっぱり、このままじゃいけない……)
こうなったら引きずってでも龍麻をここから連れ出そう、そう考えたその時――
「美里!」
聞き覚えのある声が、出口の方から聞こえてきた。そちらを向くと、京一、醍醐、小蒔の三人が近付いてくるのが見える。
「みんな……どうして!?」
「一度学校に戻ってきたら、外で犬神先生に会ってな」
「犬神先生に?」
「うむ。『美里が旧校舎の方に行ったが、また何かやらかすんじゃないだろうな』と言ったのでな」
醍醐が理由を説明した。その後を京一が続ける。
「そんな話聞いてなかったしよ。こりゃもしかしたら、ってんで来てみたら入り口が開いてたから入ってきたんだ」
「それより葵、ひーちゃんは!?」
龍麻の姿を認め、小蒔が尋ねる。ここでの会話は伏せて、現状だけを葵は伝えた。
「熱がひどいの。早く病院へ連れて行かないと」
「よっしゃ。醍醐」
「おう」
醍醐が軽々と龍麻を背負った。そのまま京一の先導で外へと急ぐ。
「ひーちゃんが見つかって良かったね、葵」
「え、ええ……」
小蒔の声に、曖昧に頷く葵。
確かに見つかったことに関しては嬉しい。だが、まだ安心できない。龍麻に自分の言葉が届いたのか、また自分達の元へ戻ってきてくれるのか、その答えをまだ本人の口から聞いていないのだから。
目が覚めると見知った天井だった。自分が入院していた病室。
「桜ヶ丘……」
上体を起こしてみる。身体は違和感なく動いた。自分の《氣》も正常に流れているようだ。
あの後――葵が自分を励ましてくれたのは覚えている。その後の記憶はなかった。急に体の力が抜けて、気が遠くなって――
何とか思い出そうとしていると、病室のドアが開く。
「龍麻くん。気がついたのね」
葵だった。制服を着ているということは平日のようだ。
「今日、何日?」
「7月2日よ。龍麻くんが脱走してから一日しか経ってないわ」
「……みんなは?」
「お見舞いには来るって言ってたけど、いつ来るかは何も」
「そう……」
それ以上の言葉は出ない。どう切り出していいのか分からなかった。が、葵の方からそのきっかけを作ってくれた。
「龍麻くん、答えて」
近くの椅子を引き寄せ、ベッドのすぐ側に腰掛けると、葵は不安の混じった眼差しを龍麻に向ける。
「これから、龍麻くんはどうするつもりなの?」
「……皆が僕を心配してくれているのは嬉しいよ。生きなきゃ駄目だっていうのも今は分かる。でも、だからって今の僕が皆の側にいるのは――」
「いつ《暴走》するか分からないから?」
返事はない。が、その表情を見れば分かる。軽く息をつく葵。
「葵さんは恐くないの? 下手をすれば……僕に殺されるんだよ?」
あの時の葵の言葉。言うだけなら簡単なのだが、葵の口調は本気だった。有事の際には、言葉通り行動するだろう。しかし、少し間を置いてから葵ははっきりとその問いに答えた。
「恐いわ。でもね、それ以上に私は龍麻くんを信じてるの。決して自分に負けたりしないって」
「……ありがとう、葵さん」
龍麻は葵の手を取り、自分の小指を葵の小指に絡める。不思議そうな顔をする葵に、龍麻は目を閉じて言った。
「もう二度と僕は逃げない。《暴走》にも負けない。絶対に葵さんを殺したりしない。それを今、ここで誓う」
そう、これは誓いだ。自分を必要としてくれている仲間への、命を懸けて自分を護った少女への、そして自らを懸けて自分を止めると言ってくれた少女への。
「もう二度と、皆の前から黙って消えたりはしない」
ふと目を開けると、葵が俯いている。どうしたのだろうと思っていると、自分の手に冷たいものが落ちてくる。そこでようやく葵が泣いているのに気付いた。
「あ、葵さん……? あの、僕何か変なこと言った?」
「違うの……」
自分の事で女性が泣く、と言う状況自体今回が初めてだ。何か変なことを言ってしまったのだろうかと不安になる龍麻だが、葵はそれを否定してくれた。
「嬉しいの……私の言葉が届いたことが……もし、これでも戻ってこなかったらどうしようって思ってたから……」
「……ごめんね、色々と迷惑掛けて」
このまま二人きりならそれなりにいい雰囲気になっていたのだろう――たとえそこが病室でも。が、どういうわけかお邪魔虫というものはそういったタイミングに合わせてやって来る。いや、だからこそお邪魔虫なのかもしれないが。
「ひーちゃん、起きたか!?」
病院だというのに派手な音を立てながらドアを開け、京一、醍醐、小蒔、そして何故か裏密が入ってくる。
四人の目には、泣いている葵とその涙を拭ってやっている龍麻の姿(ただし、二人とも硬直中)が映った。そういうつもりではないのだろうが、端から見ればいちゃついているようにしか見えない。
「だ〜か〜ら〜もう少し後にした方がいいって言ったのに〜」
言いながらも裏密は笑っていた。醍醐は顔を赤くしながらあさっての方を向く。京一と小蒔は――
「「ひーちゃ〜ん……」」
怒っていた。
「ひーちゃん! てめぇさんざん心配させといて、何いちゃついてやがる!?」
「いや、別にそういうつもりじゃ……」
「どうして葵が泣いてるの!? ひーちゃん葵に何したのさ!?」
「あ、あの、小蒔、それは違うの……」
一瞬にして騒がしくなる病室。このままの方が面白いのだが放っておくわけにもいかない。溜息をつき、苦労人が手を叩く。
「そのくらいにしておけ。あまり騒ぐと院長先生が来るぞ」
「……ちっ、仕方ねえ」
その一言で京一は止まった。小蒔の方は、葵がなだめている。
一応静かになったのを確認して、醍醐は心底安心した顔で龍麻に声をかける。
「どうやら回復したようだな」
「うん。もう普通に動ける。明日にでも登校できるよ」
「そうか。それはいいが……龍麻、お前に聞きたいことがある」
真剣な表情で、醍醐は手近な椅子に腰を下ろした。
「何故、病院を抜け出した?」
「……それは……」
「覚えてないんですって」
龍麻よりも先に、葵が答えた。
「病院から、というよりも品川の件から今日までの事、何も覚えてないって」
「……そうか。《暴走》の影響だろうな」
「まあ、覚えてねぇ方が――」
「こら京一!」
何やら言いかけた京一の口を小蒔が塞ぐ。とりあえず龍麻は不思議そうな顔をして見せた。
「まあ、気にするな。色々あったが、お前が無事なだけでもよかった」
誤魔化すように、醍醐が言う。
自分が品川の件を覚えていること、そして自分が旧校舎へ行った本当の理由。それを知っているのは葵だけだ。だからこそ、葵はあんな事を言ったのだろう。
知らない方がいいこともある。何気なく葵は旧校舎で犬神が言っていた言葉を思い出していた。
龍麻は龍麻で、葵の配慮に心の中で感謝する。
「ところで〜」
不意に裏密が龍麻の側にやって来た。
「ひーちゃんにちょっといい話〜」
「……?」
「《暴走》をある程度制御する方法があるの〜」
「制御?」
「まあ、要は呪いなんだけどね〜。そうなりかけたら発動する呪い〜」
言いながらも裏密は一枚の紙を取り出した。龍麻には見覚えがあるものだった。
「裏密さん。これ、この前の入部届けと全く同じだけど?」
「あれ〜? 間違えた〜」
それを片付ける裏密だが「惜しかったわ〜」という小さな呟きは確かに皆の耳に入っていた。続けて別の紙を取り出す。
「こっちなんだけどね〜。呪いの内容は〜自分で決められるわよ〜。苦痛が襲うでもいいし〜石化するでもいいし〜蛙になるでも――」
「呪い、ってのが胡散臭いけどな……」
「龍麻……俺としてはあまりお薦めできないが」
「でも、これで《暴走》が防げるなら、一考の価値はあるかも……」
京一達はあらかじめ聞いていたのだろう。慌てた様子もなく、自分達の考えを述べる。
「さあ〜ここにサインを〜」
いつの間にやらペンと短剣を取り出している(どこから?)裏密だが、龍麻は首を横に振った。
「いらない」
「って、いいのかよ?」
「龍麻がそう言うならいいのだが……」
「ホントにいいの? ひーちゃん」
断ったのが意外だったのか、不安げに三人が確認してくる。どうやら三人とも受けると思っていたようだ。
(それも一つの手だけど、ね。今となってはもう必要ない。だって――)
「大丈夫だよ、もう。それに」
言いつつ龍麻は横目で葵を見る。
「契約、約束は先約があるから」
約束――呪いとは違って直接的な《力》による干渉は一切無い。確かに裏密の提案を受け入れる方が確実なのだろう。しかし、自分にはもう不要だ。
葵の決意。先程の指切り。ただの言葉ではあるが、それは自分にとっては何よりも強く、効果のある契約なのだから。