新宿区桜ヶ丘中央病院。
品川から運ばれた龍麻は、ここで岩山の治療を受けていた。
「センセー、ひーちゃんの容態は!?」
病室から出てきた岩山に京一が詰め寄った。他の者達もそちらに注目する。
「危なかったな……もう少し遅ければ手遅れだった」
「だった、って事は、大丈夫なんだな!」
その言葉に胸を撫で下ろす一同。が、話はそこで終わらなかった。
「今の所は、だ。しばらくは絶対安静、面会謝絶だ」
まだ予断は許されない、ということだ。面会謝絶の言葉に再び沈む京一達。
「ところで聞きたい事がある。緋勇に何があった?」
「何が、とは?」
訊き返す醍醐。難しい顔をして、岩山が言う。
「あれは普通じゃない。人間があんな状態になるなどあり得んのだ。全身の筋肉や骨、特に酷いのは腕や脚だが、負荷に耐えられずに崩壊――まあ、この場合は骨折や断裂を起こしかけている。《氣》の流れも正常ではない」
「「「「……」」」」
あまりの被害に言葉が出ない。岩山は溜息をついた。
「とりあえず、詳しい話を聞かせておくれ。話はそれからだ」
「――というのが今日までの出来事です」
院長室で京一達は全てを話した。今ここに残っているのは真神の四人。京一、醍醐、葵、そして裏密だ。
他の者達は家に帰した。全員残ると言ったのだが、岩山が追い出したのだ。
「怪我人は家で大人しくしておいで!」
と、まあそういうことだ。怪我をしてない者――女性陣は異議を唱えたが
「気を失う程のショックを受けて何を言うか!」
と、これまた一喝。最後までごねたのは藤咲だったが京一と葵が何とか落ち着かせ、高見沢を送っていかせるように仕向けた。
というわけで真神の生徒だけが残ったのだ。何故裏密がいるのかと言うと、以前岩山が会ってみたいと言っていた事がその理由。
「って事なんだけどよ、何か分かるか?」
「ふむ……《暴走》か」
「それも聞いた話とは様子が違っていて……龍麻くん本人から聞いた話とも、そのお義姉さんから聞いた話とも……」
「そうだな。先の話――お前達が聞いた事のある《暴走》の話だと、自分を傷つける者、その恐れのある者を排除する、といったものだったな」
「ええ。相手の《氣》や負の感情に呑まれたらそうなる、と聞いていました」
葵の言葉に考え込む岩山。
「で、今回のは自分の《氣》に呑まれた、と。誰が付けたかは知らないが、狂戦士とはよく言ったものだ」
「あたしは前の《暴走》の事は知らないけど〜今回のは狂戦士そのものだったわ〜」
「狂戦士、ってのもよく分かんねぇよな。要は、敵味方の区別無く暴れる奴のことじゃねぇのかよ?」
裏密の言葉にどっちも同じじゃねぇかと口を挟む京一。それに裏密が言葉を付け加えた。
「それだけじゃないわ〜。自分の命を顧みない事もその要素〜」
「命を……顧みない?」
「そう〜。敵の攻撃を無視して〜ただ相手を攻撃する〜。よく思い出してみて〜。今回のひーちゃんが〜、一度でも敵の攻撃を避けようとした〜?」
言われて記憶を探る三人。確かに龍麻は攻撃しかしていない。円空破で粉砕した死人の時も、相手の攻撃を無視して掌打を叩き込んでいた。腐童の攻撃も避けるではなく、蹴りで吹き飛ばし、最後も問答無用で攻撃前の死蝋を屠っている。
まあ、反撃の余地を与えていなかったようにも思えるが。
「それに〜今回の《暴走》では〜、ひーちゃんは自分で自分を傷つけてるの〜」
「そう、そこが前者との違いだな」
「どういう事だ?」
「俺に聞くな、京一」
京一と醍醐のやりとりに、やれやれと岩山が肩をすくめる。
「いいかい? 緋勇が自分を見失う点では同じだ。見境無く攻撃するのも同様。ここまではいいね?」
「ああ、そりゃ分かるけどよ」
「が、あくまで前者は緋勇本人の自覚する限界の範囲での行動だ。本人に無理な事はできん。例えば、緋勇本人が瓦を十枚割れるとしよう。前者なら、どれだけ見境がなかろうと、十枚以上を割ることはできん。が、後者ならばそれを越えることができる、そういう事だ」
その言葉に一同は押し黙る。が、京一が疑問を口にした。
「それっておかしくねぇか?限界以上の力なんて、そもそも有り得るのかよ?」
「まあ、結論から言えば、人間は無意識に自分の力を抑えているのさ。全開の力に身体が耐えられないからね。その無理のないギリギリの所が今言う限界だ。が、実際はそれ以上の力を出すことができるんだよ」
「自分の身体を気にしなければ、か」
岩山の話の通りだとしたら、龍麻はそのリミッターを自分で解除した事になる。信じ難いが、それなら龍麻が片手で死人を持ち上げたのも納得がいく。
「しかし先生。俺は《力》が覚醒してから以前よりも筋力が上がっているのですが、それも自分でその制御を外しているという事ですか?」
難しい顔で醍醐が問う。今の言葉で自分の身体に不安が生じたのだろう。が、岩山はそれを否定した。
「それは《氣》の影響だよ。《氣》の上昇に伴う身体機能の強化、そのためさ。別に身体を酷使している訳じゃないから、緋勇の例とは違うね。もちろん緋勇の場合も当てはまっていいはずなのだが、別の問題のせいでそうならなかったみたいだね」
「その……問題って何ですか?」
「《氣》の過剰解放だ。本来の《氣》の流れに逆らい、無理矢理《氣》を引き出した結果、通常働くはずの《氣》による保護が無くなり、身体に負担を掛けたんだ。それに、一度に解放する《氣》の大きさにも限度があるんだよ。最大放出容量が百あるからって、一度に百を取り出したら、そりゃ負荷も大きい」
「それが原因で龍麻くんはあんなに……」
誰の目から見ても落ち込んでいる葵。本当なら彼女も家に戻っているべきなのだが、比良坂が息を引き取るまでの龍麻の状況を知っていて、なおかつ意識を保っていたのは彼女だけだったので残ってもらっている。
「まあ、体を壊した原因はそれだがね。分からないのは何故今回に限って《暴走》したかだ。渋谷の一件では《暴走》しかけたが自分で抑え込んだのだろう? 自分の《暴走》がどんな影響を周囲に与えるか、それは緋勇本人が一番よく分かっているはずだ。が、何故今回はそれができなかったのか?」
「おいおいセンセー、そりゃ人ひとり死んだら誰だって逆上するぜ」
呆れたようにそう言ったのは京一だ。
「いくらひーちゃんだって人間だぜ? 感情的になる事もあるさ」
「その結果、お前達を殺す結果になってもか? つまりわしが言いたいのは、それすら忘れる要因があったのではないか、という事だ。相手を斃す事だけにこだわってしまう要因がな」
あの時――比良坂が死んだ時、龍麻はどんな状態だった? 何をして、何を言った?
「そう言えば……」
葵が躊躇いながらも口を開いた。
「こう言ってました。また目の前にいる人を救えなかった、って……」
「ふむ、一番厄介だな。心の傷か」
渋い表情で岩山が呟く。
「心の傷?」
「過去の出来事、それも辛い過去のな。精神的外傷――トラウマというやつだ。こればかりは薬や霊的治療で治せるものではないからな」
「前にも似たような事があったのか」
「そんならひーちゃんが起きた時に聞いてみりゃいいじゃねぇか」
「ばかもん! 今そんな事をしてみろ! その場で《暴走》する可能性もあるのだぞ!?」
何気ない京一の言葉に岩山は一喝する。
「とにかく、今のわし達にできるのは身体の治療だけだ。間違っても聞いたりするんじゃないよ。少なくとも本人から話すまではな。さ、話はこれくらいにしてそろそろ帰るんだ」
「なあ、センセー。一目でいいからよ、ひーちゃんに――」
「気持ちは分かるが却下だ。今の緋勇は治癒用の結界の中だ。例外はない」
あっさりと断られ、肩を落とす京一。京一だけではない、醍醐も葵もだ。例外は裏密で、何やら考えているように見える。
再び促され、京一達は院長室を出ていった。
7月1日。早朝。桜ヶ丘中央病院。
「ひーちゃんが、いなくなっただと!?」
「一体どういう事なンだ!?」
今朝、岩山から連絡があり、来てみれば「緋勇が行方不明」と告げられた。岩山に詰め寄る京一と雨紋。醍醐と紫暮は心配はしているのだろうが動きはない。
ちなみに女性陣は呼ばれていなかった。
「大体、龍麻サンは意識不明の重体じゃなかったのかよ!?」
「そうだ。いや、出て行った以上、そうだったと言うのが正しいか」
「ひーちゃんの意識が戻ったってのか!?」
「だろうな。少なくともわしや高見沢、美里の《力》で身体の治療はほぼ済んでおった」
淡々と岩山は事実のみを述べた。
「だから、起きて動くことも十分可能だ。だが《氣》の流れの方はまだ正常ではない」
「しかし先生、何故龍麻はそんな真似を? あいつの事だ、自分の体調を把握できないわけがないのですが」
「そればかりは本人のみぞ知る、といったところだな。まあ、唯一救いなのは《暴走》状態からは脱した事か」
「何故そう言いきれるんです?」
醍醐の問いに、岩山は肩をすくめて見せた。
「病室は無傷。出口に使った窓も鍵は壊れていない。しかもベッドのシーツまで整えて出て行きおったからな。律儀な事だ」
「こうしちゃいられねぇ、ひーちゃんを捜すぞ!」
京一が言い、皆が頷く。しかし、それを岩山が制した。
「やめておけ」
「な、何言ってんだよ!? ひーちゃんが危険だって言ったのはセンセーだろ!?」
「なら聞くが、緋勇の行き先に心当たりがあるのか?」
そう言われると、反論できない。龍麻が立ち寄りそうな場所の見当が、まったくないのだ。確かに闇雲に捜したところで見つかりはしないだろう。
「一つだけ、心当たりが無くもない」
腕を組んだままで紫暮が漏らす。次の瞬間、全員の視線が一斉に注がれた。多少戸惑ったようだが、気を取り直すと言葉を続ける。と言ってもただ一言。
「品川だ」
品川――先日自分達が異形と戦った地。一人の少女が命を落とし、一人の少年が殺戮を繰り広げた場所。
「俺に思いつくのはそれくらいだな」
「よし、そんじゃ、行ってみようぜ」
が、再び岩山がそれを止める。
「失踪した理由も分からずに、見つけてどうするつもりだ? 今はそっとしておけ」
「しかし、今の龍麻が敵に襲われでもしたら大変な事になる。保護はするべきだと思うのですが」
醍醐には気になることが一つある。品川で出会った炎角という男。鬼道衆を名乗ったあの男は今回の件には関わっていないと言っていたが、全くの無関係ではなさそうだった。もしも龍麻に目をつけたのなら今以上の好機はないだろう。
「まあ、治療の途中だしな。見つけたら連れておいで。ただし京一と醍醐、お前達は学校へ行け。緋勇に関わりある者が急に休めば、いらぬ詮索を受けるぞ」
「……分かったよ」
とりあえず、納得はしたらしい。
「では雨紋、紫暮。そっちは頼む」
「うむ。任せておけ。見つけたらすぐに連絡する」
紫暮と雨紋は部屋を出ていった。
真神学園3−C教室。
ほとんど生徒が来ていない教室で、京一は醍醐に尋ねた。
「醍醐。一つ聞きたかった事があるんだけどよ」
「ん、何だ?」
「品川で会った炎角とかいう奴、何者だ? お前、さっき敵がどうとか言ってたろ?」
そう言えば、鬼道衆の話は凶津の側にいた自分と龍麻しか聞いていなかった。
「そうだったな、言うのをすっかり忘れていた」
「お前もひーちゃんも、何で隠し事ばっかりするのかねぇ。で?」
「炎角に会ったのは、あの時が初めてだ。が、鬼道衆の話は凶津から聞いた」
「凶津から?」
「ああ、俺達の情報を凶津に与えたのはそいつらだったらしい。今回もあの白衣の男に協力していたようだったな。龍麻の事は別件だったみたいだが」
「鬼道衆、か。一体何が目的なんだ?」
机に足を放り出し、京一が椅子にもたれる。
「言えることは、《力》を持つ人間に何か関わりがある、くらいだな。そのうち俺達にも接触してくるかもしれん」
「だったら叩き潰してやるさ。紗夜ちゃんの無念を晴らしてやる」
「おっはよー!」
そこへ小蒔と葵がやってきた。
「で、ひーちゃんどうだった?」
近付いてきて、小声で問う。龍麻が入院している事をクラスの者は知らない。そう、担任のマリアでさえも。先週から無断欠席として扱われていた。
「やっぱりまだ起きないの?」
「うむ、それがな……」
「おい、醍醐!」
要らぬ心配はさせまいと、黙っているつもりだった京一に対し、醍醐が現状を話そうとする。京一が慌てて止めるがもう遅い。しまったといった顔をする醍醐。溜息をつく京一。そんな二人に葵と小蒔は顔を見合わせた。
「何かあったの?」
「もしかして悪化したの!? どうなのさ京一!?」
問い詰められ、仕方なく京一は本当の事を話した。
「いや、まあ……怪我の方は回復したらしい。ただ……本人が行方不明だ」
「「え?」」
「だから、病院を抜け出しちまったんだよ。雨紋と紫暮が捜しに行ってるがな」
「どーゆー事!? そんな事をどうして隠そうとしたのさ!?ボク達だって捜しに行かなきゃ!」
案の定、小蒔がかみついてきた。どうやってなだめてやろうかと考える京一だったが、小蒔を抑えたのは葵だった。
「やめなさい、小蒔」
「どうして!? 葵はひーちゃんが心配じゃないの!?」
声を荒らげる小蒔。荒いとは言っても声の大きさだけは抑えてあるので聞かれる心配はない。そのくらいの分別は残っているようだ。
「どこを捜すの? 小蒔には龍麻くんの居場所に心当たりがある? それに、私達が動いたら気付かれるわよ。アン子ちゃんやマリア先生に。その時、どう説明するつもり?」
そう、何も説明できないのだ。今回の件は誰にも知られてはいけない。
「説明なんてできないわ。だからこそ私達は目立つ動きをしてはいけないの。捜すのなら学校が終わってからよ。そうでしょ、京一くん、醍醐くん?」
「あ、ああ……」
取り乱すかと思っていただけに、葵の冷静な物言いは京一達には意外だった。
「そういう理由だから雨紋達に頼んでるんだ。あいつらは真神の生徒じゃないからな。多少動いたところで何を言われるワケでもねぇし」
「心当たりがない以上、下手に動けない。桜井の時とは状況が違うしな」
葵、京一、醍醐にそう言われては小蒔に反論はできない。何か言いたそうだったが、教室の生徒の数も増えてきた。これ以上話すのは無理だ。
「とりあえず、放課後だ。それまでは大人しくしてろよ」
京一に釘を刺され、小蒔は自分の席に戻っていった。
「しかし龍麻の奴、自棄になっていなければいいが……」
「だな。あいつの事だ、今回の件は全部自分の責任だなんて言いかねないからな。いや、そう思ったから出てったのか」
京一と醍醐の声は暗い。特に京一は龍麻が《暴走》を恐れているのをよく知っている。転校初日の一件での表情、醍醐に勝負を挑まれた時の表情、墨田で《暴走》について指摘した時の表情。何かに怯えていたそれらの表情が鮮明に浮かんでくる。
「……美里もそろそろ席に戻った方がいいぞ」
時計を見て京一。それに従い、自分の席に戻る葵を見て醍醐が呟く。
「強いな、美里は」
「ああ。意外だったけどな」
が、二人は気付かなかった。平静を装ってはいたが、葵が何かに耐えるように拳を握りしめていた事に。
放課後。
生徒会が終わり、葵は下校しようとしていた。京一達は龍麻の捜索に出ている。
結局、品川――あの廃屋に龍麻はいなかったらしく、捜索の手を広げているのだが、吉報はない。
(どこに行ったのかしら、龍麻くん)
今朝のやりとりが頭に浮かぶ。本当なら、自分は龍麻を捜しに行きたかった。どこにいるのか分からなくても、心当たりが無くてもそうしたかったのだ。が、自分の立場を考えるとそれもできなかった。
生徒会長であり、クラス委員長でもある葵が生徒会や授業をエスケープするわけにはいかない。それでも構わないという思いもあったのだが、その後の事を考えると実行できなかった。追求してくるであろう者に二人ほど思い当たったからだ。
行きたい、しかし行けない――二つの思いがせめぎ合い、結局授業や生徒会の内容などほとんど覚えていなかったりする。
そんな事を考えているうちに、葵は体育館裏まで来ていた。何故ここに来たかは自分でも分からない。
転校初日に龍麻が佐久間達を叩き伏せた場所。龍麻の《力》の一端を垣間見た場所。
周囲を見回すが龍麻の姿はそこにはない。
(こんな所にいるはずはないわね)
龍麻は病院を抜け出した。その龍麻が、人目につく場所にいるはずはない。誰の目にも届かない場所、あるいは誰も知らない場所に身を潜めているのだろう。
(龍麻くんが知っている場所で、私達の知らない場所)
それこそ考えるだけ無駄だ。分かるはずがない。
(誰の目にも届かない場所)
まだ、こちらの方が救いはある。と言っても範囲は限りなく広がってしまうのであまり意味はない。
(私達の知っている場所)
確実に誰かの目に止まる。潜伏するには向かない。
いずれにせよ、龍麻が知っている場所など、この東京という土地では僅かなはずだ。更に人目につかない場所となると――
しかし、ここである場所が浮かんできた。
「私達の知っている場所で、人目につかない場所。誰も立ち入らない、立ち入れない場所!」
思わず声に出し、葵はそのまま駆け出した。
いくら何でもあり得ない、そんな考えが頭をよぎる。が、あの龍麻ならそれくらいするのではという考えも同時に浮かんできた。今の龍麻の状況を考えれば、いるはずのない場所だ。だからこそ誰も調べていない。
いて欲しいと思う。が、そんな場所にいて欲しくないという思いも生まれる。見つかるだけならいいのだが、別の不安があるからだ。
やがて目的地に着く。葵の予想は当たっていた。
真神学園旧校舎。
「やっぱり、ここなの?」
ここの鍵を持っているのは龍麻だけだ。その入口の鍵が外されている以上、この中にいるのだろう。
皆を呼ぼう、そう考える前に葵の足は旧校舎内に向かっていた。以前にも一人で入った事はある。自分の身の危険という意味では恐怖を感じなかった。たとえ、攻撃手段を持っていなくても。
皆で旧校舎へ入るようになってから取り付けたロープを伝い、奥にある穴から下に降りる。
人の気配のない地下洞窟。が、本来あるべき魔物の気配もなかった。それだけで龍麻がこの先にいると確信できた。道中に転がる無数の魔物――そのほとんどが原形を保っていなかった――がそれを証明している。
(また《暴走》してるのかしら……急がないと)
歩みを早める葵だが、一方で別の懸案が浮かんでくる。
《暴走》状態の龍麻に言葉が通用しないのは品川の件で分かっている。力ずくで止めると言っても自分にその力はない。
不安だけが大きくなる。それでも葵は進むのを止めない。
そして、一体何階まで降りたのか分からなくなった頃、葵は目的の人物を見つけた。
通路の先、今までのパターン通りなら広場になっているであろう場所に、真神の夏服を着た龍麻が立っていた――その身に蒼の《氣》を纏って。
臨戦態勢であるのは間違いないが、少なくとも《暴走》はしていない。ただ、《氣》がひどく乱れているのが分かる。辛そうな表情で龍麻は奥を見据えている。
「どうした。諦める気になったか?」
龍麻のものではない、別の声が聞こえた。しかも、自分に聞き覚えのある声だ。
「どいてください……」
「断る」
同時に生じた震動が足下を揺らす。後方に跳び退く龍麻。今までいた場所を衝撃波が行き過ぎる。視界から消えた龍麻を追って、別の影が葵の目に映った。
(犬神先生……!?)
一瞬だったが、見間違えるはずがない。紛れもなく生物教師の犬神だった。
何故ここにいるのか、そう考える間にも派手な音が続いて響く。
「そんな身体でここまで来たのは褒めてやるが、これ以上は行かせん」
「くっ……!」
再び視界に龍麻の姿が入る。先程と違うのは、その場に転がっていることだ。どうやら犬神の攻撃で吹き飛ばされたようだった。
「諦めろ。新月が過ぎたばかりだといっても、今のお前になら負けはしない。大人しく病院へ――仲間の元へ戻れ」
「嫌です……」
起き上がりながら、呻くように漏らしたその言葉は、はっきりと葵の耳に届いた。
「もう……戻れませんよ……」
「蓬莱寺達がお前を捜している。お前が何を危惧しているのかは分かるつもりだが、逃げてどうなるものでもあるまい」
「だからここで、終わらせます……」
「……やれやれ、頑固な奴だな。悪いがここでお前に死なれると色々と面倒だ。しばらく眠ってもらおうか」
「そう簡単に――」
龍麻が構える前に、犬神が一気に間を詰める。《氣》を宿した右腕が振り下ろされ、生じた衝撃波が龍麻を再び吹き飛ばした。
「言っただろう、今のお前になら負けはしないと」
懐から煙草を取り出し、くわえながら犬神。
「逃げるくらいなら乗り越えて見せろ。死ぬのは全てを失って、心も体も完全に壊れてからにするんだな」
火を付け、煙を吐き出す。
「そういう事だ、美里」
いきなり名を呼ばれ、葵は戸惑う。犬神は一度もこちらを見てはいなかった。なのに何故自分がいると分かったのか。
「あの……犬神先生……」
「どうした?」
「どうして先生がここに……? それに、どうして龍麻くんの――」
通路から姿を見せて、問う葵だったが、遮るように犬神が口を開いた。
「知らない方がいい事もある」
「え?」
「後は任せる。じゃあな」
「あ、あの、犬神先生!?」
それだけ言うと犬神は去ってしまった。
しばらく呆然とする葵。が、ここへ来た本来の目的を思い出す。
「龍麻くん!」
壁の前に倒れている龍麻に駆け寄り、抱き起こす。まずは傷の治療だ。
右手に生まれた光を葵は龍麻に当てる。服の上からなので体の傷は分からないが、腕や顔といった目に見える場所の傷が瞬く間に消えていった。呼吸が穏やかになったのを見計らって《力》を使うのを止める。
「よかった……」
無事、と言える状況ではなかったが見つけることはできた。その事に安堵する。
龍麻の頭を自分の膝に乗せ、とりあえず葵は龍麻が目を覚ますまで待つことにした。