某日未明。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム……」
不気味な呪文の詠唱が、闇に響く。
真神学園旧校舎、地下十階。そこに彼女――裏密ミサはいた。
何を使って描いたのかは分からないが、床には直径三メートル程の魔法陣が淡い光を放っている。
いつもの制服に黒フード、ではない。今日は黒のローブまで身に纏い、いつもよりも本格的に見える。絶え間なく口から呪が流れ、ある時はその両手が印を結ぶ。
そして――彼女の儀式は完了した。
「うふふふ〜大成功〜」
魔法陣から這い出してきた「モノ」を見て、満足そうに頷く裏密。
「これもひーちゃんのおかげね〜」
つい先日、裏密は龍麻達の仲間に加わった。そして初めて旧校舎に入ったのだ。今まで入らなかったのは他でもない。ここの魔物の戦力が分からなかったからである。この真神に黒魔術士は自分だけだ。下手に敵に囲まれて、タコ殴りに遭えば、それでお終いだ。だが、龍麻達と一緒に入ったおかげで、一人で安全に降りれる目安ができたというわけだ。そして、ここなら少々の無茶をしても外への影響はない。
これでも一応、周囲には気を遣っていたりする。
「さ〜て〜。後はこのコがどう成長するか楽しみだわ〜」
本当に嬉しそうな声だ。もっともそれに気付く者は少ないだろうが。
「じゃ〜今日は帰ろうかな〜」
喚び出した「モノ」を残して裏密は旧校舎を後にした。
それが事の発端だった。
5月27日。
「へっくしゅん!」
自分のくしゃみで龍麻は目を覚ました。空が見える。青ではない。黒だ。
「あ、もうこんな時間だ」
真神学園屋上。ちょうど時計台の真上に龍麻は寝転がっていた。
体を起こし、大きく伸びをする。
龍麻はこの場所がお気に入りだった。元々高い場所は好きだったし、ここで昼寝をすると気持ちいいのだ。今日も授業が終わってから、ここで昼寝をしていたのである。
「寝坊したかな」
そんなことを考えて龍麻は空を見上げた。
空に瞬くはずの星はあまり見えない。東京の空気のせいもあるし、地上の光もその原因だ。が、高校生が学校にいるのは不自然な時間であることには変わりない。
「帰ろうか」
自分の荷物が置いてある3−Cの教室へ向かおうとして、龍麻は足を止めた。
旧校舎の方から奇妙な気配が流れてくる。そう、旧校舎の中の空気――負の感情の入り混じった空気だ。
「何か出てきたのかな? ま、いいか。旧校舎には守護者がいるし」
気にせず、そのまま校舎内に入る扉に手を掛け、何気に空を見る。雲一つない空には申し訳程度に星が見える。他には何もない。そう、月さえも。
「……今日は新月じゃないか!」
その事実に気付き、慌てて龍麻は扉を開けようとして、それすら面倒なのか柵の方へ駆けだした。
そして跳躍――そのまま飛び降りる。屋上からだと、四階から飛び降りた事になる。このまま落ちればさすがに怪我をするが、そこまで考えなしではない。壁すれすれに落下し、途中の窓――わずかにあるスペースで何度か足を着き、勢いを殺す。
余裕で着地し、龍麻は旧校舎へ向かった。
一方、その旧校舎の守護者は予想外の苦戦を強いられていた。
普段でも人並み以上の能力を持ち、満月期には無敵と言っても過言ではない人狼といえども新月期にはその能力は落ちる。
そんな状態でも、旧校舎の上階にいる魔物相手なら問題なく対応できるのだが、今回のそれは勝手が違った。
「一体、どこの階から迷い出てきたんだ、こいつは!」
目の前にいる物体を見て吐き捨てるように言う犬神。
黒いゲル状の物体。その所々には旧校舎の魔物が身体の一部を覗かせている。どうやら取り込まれているらしい。
「ちぃっ!」
魔物に向けて犬神は腕を振り下ろした。衝撃波が土煙を巻き上げ魔物を襲う。しかし、その身体は衝撃波を吸収・拡散させた。
「やはり効果はない、か」
若干のダメージは与えているが、厄介な事に相手は再生能力まで持っているようだ。
(しかし、どういうことだ? 旧校舎には結界があるはずだが)
心当たりがないわけでもないが、今はそれを考えている場合ではない。
と、魔物に取り込まれた犬の頭がこちらを見た。錯覚か、とも思ったが違う。
それの正体を思い出すよりも早く、犬が雷撃を放った。
「まだ自我があるのか!?」
取り込まれた魔物にまだ息があるのか、それとも、この物体がそうさせているのか、犬もどきは続けて雷撃を放ってくる。
それを避けながら、舌打ちする。が――
突如、紅蓮の炎が犬神の脇を通り抜けた。
『ギョエェェェェェッ!?』
どこからともなく絶叫を上げ、のたうち回る(というか蠢く)魔物。焼ける匂いが、嫌でも敏感な犬神の鼻を刺激する。
「らしくないですよ、先生」
その声に、内心安堵するする犬神。振り向くとそこには自分の知った顔があった。
「こんな時間に何をしている?」
「いえ、ちょっと屋上で昼寝を」
正直に答え、龍麻は隣に並んだ。目の前の物体を見て、尋ねる。
「で、こいつは何ですか?」
「俺が知りたいくらいだ。どうやら旧校舎から出てきたらしいな」
「まあ、それくらいは予想がつきますけど。結界、壊れたんですか?」
「多分、な!」
魔物の身体が盛り上がり、巨大な腕となって突き進む。左右に跳び、それを避ける二人。
「破っ!」
その腕に向かって発剄を放つ龍麻。が、効果は薄かった。
「衝撃は無駄だぞ、緋勇。この手の奴には打撃系は無意味だ」
「でしょうね。それならそれで、手はありますけど」
再び迫る黒い腕を、半身をずらして回避し、それに触れる。
「雪蓮掌!」
放たれた冷《氣》が腕を這い回り、瞬時に凍結させる。続く龍星脚がそれを四散させた。
「こんなものですかね」
あっさりと言ってのける龍麻に苦笑する犬神。
(確実に強くなっているな、こいつは)
旧校舎の鍵を渡して以来、龍麻の《力》は格段に上がっている。旧校舎そのものが与える影響もそうだが、龍麻自身の素質も無視できない。それに加えて最近東京で起こっている事件に介入しているのもその理由だろう。
「やはり、実戦で腕を磨くのは有効なようだな」
「まあ、そうですね。何事もやってみない事には始まりませんから」
一気に間合いを詰めて、龍麻は再び雪蓮掌を叩き込んだ。
身体を崩壊させ、悲鳴を上げつつ後退する魔物。が、龍麻はそれを見逃すつもりはない。
「これで終わりだっ!巫炎!」
龍麻の両手に炎《氣》が生じる。炎の剣の如きその軌跡が、魔物を焼き払うのにそう時間はかからなかった。
「済まなかったな、緋勇」
場所は変わって生物室。あの後、残った破片を一欠けも残さず焼き尽くし、旧校舎の結界を修復させた二人は、ここで一息ついていた。
「いえ。まあ、今日が新月だったのは不幸としか言いようがないですね」
「ああ。お前がいてくれて助かった」
言いつつ犬神は一升瓶を手に準備室から戻ってきた。
「まあ、一杯やれ」
「いただきます」
コップに注がれた酒を受け取り、一気に流し込む。
「ふぅ。美味しいですね、これ」
「それが高校三年生のセリフか?」
「校内に酒を持ち込む教師のセリフでもないと思いますけど」
しばしの沈黙――そして同時に二人は苦笑した。
「でも、どういうことです?」
「何がだ?」
「あの結界、誰が破ったんです?」
二杯目を注いでもらって龍麻が問う。
少なくとも、魔物が自力で破れるものではないことぐらい、二人は十分承知だ。
「考えられるのは外からの干渉だな。今日のアレは旧校舎に棲んでいるのとは毛色が違う」
「って事は……彼女ですか? 駄目じゃないですか、自分の生徒の面倒くらい見ないと」
「いくらあいつでも、アレを外へ解き放つと思うか? それに、もし犯人があいつなら、これはお前の領分だろう? あいつの監督権はお前にあるんだからな」
犬神も一杯目を空にして、二杯目を注ぐ。
その頃には二杯目を空にして、龍麻はコップを机に戻した。
「分かりました。一応、こっちの方は僕から言っておきます」
「ああ、そうしてくれ」
「じゃ、僕は帰ります。下校時間も過ぎたことだし」
一礼して、龍麻は生物室を出て行った。
一人残った犬神は溜息をつく。
「まったく……彼女にも困ったものだ」
今回の件に関して、犯人の心当たりはある。が、それを龍麻に言うつもりはない。教えれば、必ず態度に出てしまうだろう。これ以上余計な事を言う必要はあるまい。
「人間関係は大事にしないとな」
その人間関係をこじらせる原因を作った、人にあらざる生物教師はそう呟き、再び溜息をついた。
夜の学校は不気味だ。薄暗い廊下、嫌に響く足音。
普通の人ならこれだけで不安が生じるだろう。
「でも、ここまで酷い学校は他にないよね。雄矢がいたら、これ以上は進みたくないって言うんだろうな」
奇妙な空気を感じつつ、二階廊下を歩く龍麻はそんなことを考えた。
真神学園オカルト研究会。目の前にその入口が見える。
とりあえず、今回の魔物の事で注意しておこうと足を運んだのだが、気配から察するにまだいるようだ。
「入るよ」
そう断ってから龍麻は入り口を開けた。
部室内に電気は点いていない。ここの照明はいつも蝋燭だ。薄暗いが、この方が雰囲気が出るそうだ。
部長の裏密ミサはいつもの位置に座っている。が、龍麻の来訪は彼女にも意外だったようだ。
「……オカルト研へようこそ〜」
「今晩は、裏密さん」
「……」
普通に挨拶をするが、裏密は無反応。いや、どうやら気に入らなかったのか不満げな表情になる。不思議に思う龍麻だったが、すぐにその理由に気付いた。
「ミサちゃん」
言い直すと裏密は満足げに、にぃっと笑う。蝋燭に照らされたそれを見て、つくづく醍醐がいなくて良かったと思う龍麻だった。
「何か用〜?」
「単刀直入に言うよ。旧校舎のあのスライムみたいなのは裏み……じゃない、ミサちゃんが召喚したんじゃない?」
「そうよ〜。なんだ〜、ひーちゃんてばもうあのコを斃したのね〜」
あっさりと裏密はそれを認める。残念そうではあったが。
「でも、今日は旧校舎には入らないんじゃなかったの〜?」
「入ってないよ。アレが外に出てきたんだ」
その言葉に裏密は驚いたようだ。一瞬表情が変化したが、すぐに元に戻るとこう尋ねてきた。
「誰が出したの〜?」
「いまのところ不明。結界が破られてたから、ただの悪戯ではないと思うけどね」
「……調べてみようか〜?」
「いや、いいよ。どうせ、また何かちょっかい出してくるだろうし。それよりも」
腕組みなどして龍麻は口調を強める。
「しばらくは召喚禁止ね。どの程度のものを喚び出せるのかは知らないけど、また今回みたいな事があったら大変だから」
「でも〜」
「駄目。するなら召喚した後できちんと送り返すこと。関係ない生徒が巻き込まれたら困るでしょ?」
それを考慮しての旧校舎使用だったのだが、結界が何者かに破られるとなると話は変わってくる。龍麻の通告に異議を唱えたものの、裏密にもそれは分かっていた。
「分かったわ〜」
「ありがとう」
もう少し問答があるかと思っていたが、意外と物分かりがいい裏密。龍麻は内心ほっとした。
「じゃ僕はこれで。ミサちゃんもそろそろ帰った方がいいよ。またね」
龍麻はオカルト研を後にしようとして
「あ、そうだ。今度頼みたい事があるんだけどいいかな?」
「入部はいつでも歓迎するわよ〜」
ニヤリと笑う裏密に、そうじゃなくて、と手を振る龍麻。
「旧校舎の戦利品の事なんだ。よく分からないものが多くてね。今度鑑定してほしいんだ。どんな効果があるのか分からないまま家に置いておくのも勿体ないし」
「了解〜。興味あるから喜んで〜。でもひーちゃんホントに入部しない〜? 魔術の知識もそこそこあるみたいだから〜きっといい魔術士になれるわよ〜」
「うーん……今更戦闘方法を変えるつもりはないけどね。それに知識じゃ役立つことはあっても戦えないし。でも、簡単なやつで、何か役に立ちそうなのがあればまた今度教えてよ」
「それじゃ〜準部員ということで〜」
言いつつ裏密は足下から一枚の紙を取り出す。
「ここにサインを〜」
「……」
古めかしい色をした、古文書のような一枚の紙。どこの言葉か分からない文字で書かれた文章。そして下の方に記されている魔術的な記号と印。
「さ、ど〜ぞ〜」
更にサイン用であろうペンとインク、そして何故か短剣を取り出す。
「これ、本当に入部届け?」
「何か問題でも〜?」
魔術的な意味合いがかなり、いや完全に魔術的なものであろうそれらを見て、龍麻が問う。裏密は気にした様子もない。
「この短剣は?」
「血判用よ〜。噛み切るよりはいいと思って〜」
「読めないんですけど」
「大丈夫〜。サインしてしまえばこちらのものだから〜」
「……」
「……」
沈黙が流れる。時折、どこからか入ってくる風が蝋燭の炎をゆらし、その度に室内の影が踊る。
「辞退させて頂きます。じゃ、そーゆーことで今度よろしく!」
それだけ言って、脱兎の如く龍麻は逃げ出した。
「……残念〜」
契約できればしめたものだったのだが、そううまくいくはずもない。が、多少なりとも興味はあるようだ。社交辞令で魔術に興味を示す馬鹿もいないだろう。
どちらにせよ、龍麻が望むならできうる限りの協力をするつもりである。彼の側にいると退屈しないで済みそうだし、進んで自分好みの事件に介入するだろう。
「次は何が起こるかな〜」
楽しそうに裏密は独り言ちた。
契約書――もとい入部届けの内容。それは裏密だけが知っている。