5月2日。新宿、桜ヶ丘中央病院。
「さて、今日はこれで終わりだよ」
 そう言って岩山たか子は、名残惜しそうに手を離した。
「ありがとうございます、先生」
「なに、いいんだよ。これが仕事だし、お前さんみたいな美形の患者なら大歓迎だ」
 包帯の代わりに、奇妙な――呪符を繋ぎ合わせたような――ものを巻き付けた左腕を吊して言うと、岩山はいつものようにひひひと笑う。
「それで……後どのくらいで治りそうですか?」
「あと4日もすれば指まで動くようになるだろうさ。しかし、普通の人間に比べて治癒能力の高い患者はつまらないね。しかもお前は霊的なダメージに対する回復力も人並み以上だときてる」
 やや呆れたように言って、岩山はカルテを一瞥し、机に置くと、カップをこちらに差し出した。カップの中身はやや緑がかった半透明の液体。岩山特製の薬草茶だ。診察に来るたびに出されるそれには、薬草という言葉から連想される苦みはない。ハーブティーと同じような感覚で飲める物だ。
 それに口をつけて、龍麻は言った。
「先生の腕のおかげだと思っています」
「まあ、お前さんにそう言われると悪い気はしないね」
 腕が動かなくなったと病院にやって来てから6日。経過は順調だ。現在のところ、肩は動くし肘も動く。手首と指はまだだが、岩山の言うとおりなら、完治はそう先のことではないだろう。
「しかし、京一もそうだがお前さんの《力》は並外れているな。お前さんの両親もそうなのかい?」
 必ずしも血統によるものではないが、《力》を持つ血縁者がいる者に《力》が顕れるケースは少なくないらしい。知識としてそれは知っているが、岩山の問いには首を傾げるしかない。
「さあ……実の両親がどんな人だったのかは僕もよく知りません。ただ、母は僕を生んだ時に死んだそうです。父は《力》の持ち主ではあったそうですが」
「そうか。まあ、無理はせぬ事だ」
「はい。それでは帰ります。次は4日後でいいんですね?」
 出された茶を飲み干して、席を立つ。次に来るのは連休明けになるだろう。
「そうだね。それまでに動くようになったら、その時においで」
「ではまた――!?」
 ドアを開けようとノブに手を伸ばしたが、掴む前に横へ軽く跳んだ。ドアの向こうに気配を感じたからだ。
「院長先生〜!」
 退避完了直後、ドアが開いて看護婦が飛び込んできた。あのままドアを開けようとしていたら、直撃を受けていたところだ。また、後ろに下がっていても看護婦に特攻されていただろう。
「あ〜緋勇くんだ〜! 腕大丈夫〜?」
 入ってきた看護婦は、先日仲間になった高見沢舞子だった。ただ、ナース姿ではなく、私服だが。
「うん、まだ動かないけど……それより先生に用があったんじゃないの?」
「あ、そうだった〜」
 相変わらずのテンションに、こっそり溜息をつく。それに気付くはずもなく、高見沢は岩山に向き直り、報告した。
「引き継ぎ終わりました〜。今日は帰りま〜す」
「ああ、ご苦労さん」
「失礼しま〜す。あ、緋勇くんこれから暇〜?」
 挨拶を終えた高見沢が訊ねてくる。出会った時からそうだが、何かと唐突な娘である。
「え? いや、今日は行く所があるんだけど」
「え〜。そんなのつまらない〜」
 正直に答えると、高見沢は不満の声を漏らした。そして、何かに気付いたような表情になり、疑わしげな目を向けてくる。
「ひょっとしてデートぉ?」
 行動も唐突だが、発言は更にぶっ飛んでいた。どこをどう解釈すれば、そう連想できるのか。それとも、そう思えない自分の方がおかしいのだろうか?
 とりあえず溜息をついて、先の発言を否定した。
「違うってば。1人じゃデートはできないでしょ? 全くの別件だよ」
「んー、それじゃあ、舞子も行っていい?」
 唇に人さし指を当て、天井を数秒見上げた高見沢は、そう問うた。
 問題は、ない。付いて来られて困るわけでもない。ただ、遊びに行くわけではない。向こうが期待しているような場所では、決してないだろう。
「それは構わないけど……行って面白いところじゃ――」
「わあぃ緋勇くんとデートだぁ!」
 だから、念を押そうとしたのだが、言葉は途中で遮られた。
 
 
「あ、そうだ。高見沢さん、嵯峨野の容態は?」
 診察室を出て、訊ねる。
 先日の件で、嵯峨野は自分の夢の中に留まっていた。自分の《力》で自滅することはないだろうが、あのまま眠らせておくと肉体の方が衰弱するのは当然なので、桜ヶ丘へ入院させる事を岩山に頼んだのだ。
「えっとぉ……よく眠ってるよ。身体に異常はないし」
「そう」
「会って行く?」
 こちらの表情から何かを察したのか、高見沢が提案してきたが、首を横に振って答えとした。
「いや、こっちの嵯峨野に会っても話はできないからいいよ」
 あれから一度夢で会ってるし、とは口にせずに歩を進める。
「そお? あ、ねぇねぇ緋勇くん。今日は何処行くのぉ?」
「まずは花屋さん」
 問いにそう答え、少し歩いて足を止めた。高見沢の足が、止まっているのに気付いたからだ。振り向いてみると、きょとんとした高見沢が立っている。
 何かおかしな事を言ったかなと思いつつも、龍麻は再度出口へ向かって足を出す。
「あ〜待ってよぉ!」
 10秒近い間を置いて、慌ただしい高見沢の足音が追いかけてきた。
 
 
 
 藤咲亜里沙は人気のない広大な敷地を歩いていた。周囲には名を彫った石柱――墓が建ち並んでいる。右手には水の入った桶、その中には花束とひしゃく。左手には鎖、その先にいるのは愛犬のエルだ。
 もう5月だというのに肌寒い。風が強いせいだろうか。
「久しぶりだね、ここに来るのも」
 独り言ち、あらためて周囲を見回してみる。弟の葬式以来、ここへは一度も来ていなかった。
 弟、弘司はいじめが原因で自殺した。いじめをなくそうと奔走した弟の担任教師は責任を問われ辞職した。その後のことはよく覚えていない。弟をいじめた連中を1人残らず半殺しにし、気が付けば嵯峨野の復讐を煽っていた。間接的にとはいえ嵯峨野に殺人を犯させ、結果、その本人は夢の世界に閉じ籠もってしまい、自分だけが、今こうしている。
「何やってたんだろ、あたし……」
 復讐は何も生み出さない、そんなことをしても誰も喜ばない――心のどこかでそれに気付いていたはずなのに、結局自分自身の力ではそれを認める事はできなかった。あの時、彼に、彼らに出会わなければ、自分は今も同じ過ちを繰り返していただろう。
「緋勇龍麻とその仲間達、か。全くお人好しな連中だよ。ねぇ、エル?」
 問いかけるがもちろん返事はない。ただ、愛犬は元気よく尻尾を振っている。
 それを見て自然と笑みがこぼれた。
「ま、いいさ。こんなあたしをあいつらは受け入れてくれたんだ。今度はこっちの番……借りを作ったままってのもアレだしさ」
 自分に言い聞かせるように呟いて、視線を弟の眠る墓の方にやり――足を止めた。先客がいる。
 緋勇龍麻と高見沢舞子だ。自分にとっての恩人と言っても過言ではない人物が2人して、弘司の墓の前にいた。
 思わずその場に身を潜める。そうする理由は別にないのだが身体が反射的に動いたのだ。振り返ってこちらを見るエルを抱き寄せると、藤咲は耳を澄まし、墓石の陰からそちらを窺う。
「ねぇ、どうしてお墓参りしようなんて思ったの〜?」
 舞子の不思議そうな声が耳に届いた。人が墓に来る理由など、普通なら1つしかない。墓参り。あの2人は、弟の墓参りに来てくれたのだ。
「そうだね。どうしてだろう?」
 線香の束にマッチの火を近づけて、龍麻も不思議そうに言った。
「ただ……お礼がしたかったんだと思う」
「お礼?」
「そう。藤咲さんを立ち直らせてくれたお礼かな」
 線香全てに朱が灯ったのを確認すると、龍麻はその束を一振りし、火を消した。
「彼の――弘司君の声がなければ、彼女自身も素直になれなかったと思うんだ。彼女、気が強そうだし、自分の考えを曲げるのって苦手そうだから」
 本人がすぐ近くにいることなど、龍麻は考えもしていないのだろう。その言葉にはいささかむっとする。否定できないだけに、余計に腹が立った。
「だから、そのお礼。ここにいないのは分かってるけどね――そうだ、高見沢さんにもお礼を言わなくちゃね」
「わたし?」
「彼の声を伝えたのは高見沢さんの《力》があればこそだからね。ありがとう」
 龍麻が頭を下げると、高見沢はえへへと笑って見せた。
「でも、それなら緋勇くんもそうだよ。舞子の《力》だけじゃ、疑われたかもしれないし〜。弟さんの姿を視せてあげたのは緋勇くんでしょ?」
「僕の《力》だけじゃどうしようもなかったのは事実だよ。大体、視せる事を思いついたのも高見沢さんじゃないか」
「じゃあみんなの力だね〜。わたしの《力》と緋勇くんの《力》、それに弟さんの気持ち……その全部のおかげ〜!」
「そうかもね。でも……」
 その場にしゃがみ、手を合わせる龍麻の声がやや沈んだ。
「たまに思うんだ。こういうのって、他人から見たらどうなんだろうって。偽善っぽく見えるのかな? 本当は単なる自己満足なんじゃないか? ってね」
 何を言い出すのか、と藤咲は思った。あのお人好しの少年は、本気でそんなことを思っているのか、と。
 冗談ではない。どこの世界に、偽善で命まで懸けられる人間がいるものか。あの時、龍麻は力ずくで全てを片付けることだってできたのだ。そして、その方が簡単で、危険も少なかった。龍麻達の目的を考えれば、そうする事の方が当然だったし、それを為し得る《力》もあった。しかし龍麻はそうしなかった。そんな彼の行動が、偽善でなどあるものか。
 龍麻の言葉を聞いた高見沢は少し考える素振りを見せたが、ぶんぶんと首を横に振った。長い髪が龍麻の頬を打つ。本人はそれに気付いていないようだが。
「そんなことないよ〜。周りがそう思っても、舞子は緋勇くんを信じる。だって、緋勇くんの《氣》はいつも優しくて暖かいから。見せかけの優しさなんかじゃないって、みんなは分かってくれるよぉ〜」
「そうかな……?」
 だが高見沢の言葉にも、龍麻は自信なさげだ。
 少し、カチンときた。恩人の態度がそれでは、その行為によって救われた自分達はどうなるのか、と。もっと、胸を張ればいいのだ。確かに自分達は、救われたのだから。
「そうだよ」
 言って、墓石の陰から立ち上がった。振り向いた2人が、驚きの表情を見せる。
「あんたは本気であたし達の心配をしてくれた。あたしにもそれくらい分かるよ。たとえ気が強くて、自分の考え曲げるのが苦手でもね」
 エルを連れて2人に近付きながらそう言い、意味ありげに笑ってやる。龍麻はやれやれと頬を掻いた。
「いつから?」
「そのコの『ねぇ、どうして』の辺りから」
 高見沢を見ながら答えると、龍麻は降参とばかりに両手を軽く挙げた。
「人が悪いね。隠れる事ないんじゃないかな?」
「緋勇くんなら気付くと思ったんだけどね。やっぱり、怪我が原因?」
 龍麻の左腕に目をやり、問う。夢の中での戦闘で、肩から先が吹き飛んだ左腕――実体には異常なかったものの、まだ動かないようだ。
「いや。単に周囲の警戒を忘れてただけ。それに腕は大丈夫。一応、肩と肘は動くしね。手首と指も、もうじき動くようになるって」
「じゃあ、元通りになるんだね?」
 一生ものの傷を与えずに済んだ事に安堵する。もちろん、治るからと言って自分達のしたことが消えるわけではないが。
 龍麻は立ち上がると墓の前を開けてくれた。
「これでも感謝してるんだよ。あたしを、麗司を、そして弘司まで救ってくれて」
 礼を言って墓の前に座り、花を置いて手を合わせた。
「ホントなら、美里って娘を救うだけで済んだのに。あたし達を叩きのめしてそれでおしまいだったはずなのに、あんな回りくどい事してまでさ」
「そうしたかっただけだよ。力ずくで解決するしかない事が多いとね、できることなら、ってそう思っちゃうんだ」
 あっさりと、そう言ってのける龍麻。が、その声が少し寂しげに聞こえたのは気のせいではないはずだ。恐らく、彼にも色々とあったのだろう。それについて追及する気はない。ただ、湿っぽい空気は性に合わない。今回の件で陰気になるのは、これで最後にしたいものだ。
「さって、と。墓参りも済んだし。緋勇くん、今日は暇?」
 立ち上がり、龍麻を見る。こういう時にすべきことは決まっている。パーッと騒げばいいのだ。
「え? そりゃ、このためだけに来たから、これが済んだら特に用事はないけど」
「そう。それじゃ、これから遊びに行かない? いい店知ってるんだけど」
 墓参りから一転して遊びの誘いだったからか、戸惑う龍麻。そこに高見沢が割り込んできた。
「もぉ〜2人だけでお話ししてずるい〜」
 勿論、先程から1人、蚊帳の外だった高見沢をないがしろにするつもりはない。彼女も自分の恩人なのだから。
「心配しなくても3人で、よ。来るわよね?」
「もっちろん〜! ねぇねぇ、緋勇くんもいいよね〜!?」
「そういうことで。いいでしょ緋勇くん? 両手に花よ〜?」
 高見沢と2人で、龍麻に迫る。龍麻は顔を赤くしながら後ずさる。なるほど、こういうのが彼には有効らしい。
「わ、分かった、行くからそこでストップ!」
「「よし決まり〜」」
 口を揃えて、高見沢とハイタッチ。龍麻がこっそりと溜息をついたようだったがそれを無視した。
 いつの間にやら鎖を持った高見沢が、エルに引っ張られていく。自分の隣には龍麻がいる。ふと、チャンスだと思った。やはり、こういったことはきちんとしておくべきだ。
「あ、緋勇くん」
「何?」
 自然な動作で龍麻がこちらを見る。ただ一言、発するだけなのに、それが急に困難なことに思えた。すぐそこまで出かかっていた言葉が、止まってしまう。柄にもなく緊張しているのが自分でも分かった。気合いを入れるべく頬を叩き、意を決して口を開く。しかし――
「――」
 一際強い風が吹く。耳元で唸る風の音が、自分の発した声を掻き消した。本人でこれだ。恐らく、
「……今、何て言ったの?」
 案の定、その言葉を贈った相手には届いていなかった。しかし、改めてもう一度言うのは気恥ずかしい。これでもかなりの労力と勇気を必要としたのだ。二度目はどうも無理っぽい。
「な、何でもない。それよりあの子を追いかけるよ」
「ちょ、ちょっと藤咲さん?」
 問いには答えず、藤咲は龍麻の背を押した。
 
 
 
 ――ありがとう
 それは発した本人と、風だけが知っている。
 
 
 

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