真神学園生物教師、犬神杜人は職員室で溜息をついた。
 旧校舎の一件である。
 誰も入れないように鍵を掛けたのは随分前だ。それでも鍵を持ち出して侵入し、二度と戻ってこなかった生徒や、何らかの「影響」を受けた者は両手では数え切れない。そして今日もあそこに入った者がいる。
(術も役に立たず、か)
 鍵を持ち出す者が出てから、鍵には細工をしておいた。簡単な術だが普通では決して開けることのできない施錠。鍵とキーワード、その二つが旧校舎の扉を開ける唯一の方法。
 そのはずだったのだが――鍵はあくまで鍵であって、扉を閉じる以外の効力はない。故に抜け道などあっては役に立たない。そして扉そのものに特別な加護を与えるものでもないので、扉を破壊する、という荒技の前には無力だ。それでも一応、抜け道は塞いだし扉も直しておいた。鍵と術はしっかりと掛けてある。
 今日の侵入者は6人。3−Cの緋勇龍麻、美里葵、蓬莱寺京一、桜井小蒔、醍醐雄矢、そして自分の担任する3−Bの遠野杏子。この内、遠野に関しては生物のレポートという罰を与えておいた。一応今回の件の第一当事者である。生徒会長を利用して鍵を入手するなどもってのほかだ。それに、なんの「影響」も受けていない。これは問題なかった。
 しかし、後の5人は別だ。緋勇以下5人は旧校舎の中に倒れていた。蝙蝠の死体があったがこれを殺ったのは緋勇達だろう。その手段が問題だが、恐らくこの5人には「影響」が出ている。
 そういえば、去年転校していった生徒も「影響」を受けた生徒だったはずだ。
(今頃、どこで何をしているやら。まあ、俺には関係ないが)
 煙草を吸うべく懐から取り出す。箱はとても軽かった。振ってみると音1つしない。
「……切れたか……」
 空の箱を握り潰し、別のポケットを探す。ない。白衣のポケットを探る。ない。机の中も探るが目当ての物はやはりない。
 再び溜息をついて代わりにコーヒーを入れようと席を立ち、
「失礼します」
 そこに訪問者が現れた。制服ではなく、私服姿で。濃紺のジーンズに黒革のジャンバー。どちらかと言えば女性的な顔立ちだが、こういった格好に違和感は全くない。むしろ似合っている。今日の当事者の1人、緋勇龍麻だった。
「どうした? マリア先生ならもう帰ったが……」
「いえ、犬神先生に用があるんです」
「俺に、か……?」
 はい、と緋勇は職員室に入ってくる。手には買い物袋。中身は缶コーヒー数本と――
「緋勇……お前は未成年だったな?」
「ええ、高校生ですから。それが何か?」
「なら、その煙草は何だ?」
 袋の中には煙草が1カートン入っていた。銘柄は「しんせい」。自分が吸っているのと同じだ。
「ああ、これですか? お礼です」
 緋勇は袋から出した煙草をこちらに差し出す。反射的に、つい受け取ってしまった。
「本当はお酒にでもしようかと思ったんですが、先生の好みは分からないので。確か先生の吸ってた煙草はこれですよね?」
「……何故俺が礼をされなくてはいけないんだ? 別に何もしてやった覚えはないが?」
「旧校舎から僕達を引っぱり出してくれたのは犬神先生でしょう?」
 いきなり緋勇は核心を突いてきた。
「あのまま中に放置されていたら危なかったかもしれない。助けて頂いたお礼です」
「……すまんが、話が見えない。他を当たってくれ」
「とぼけないでください」
 はぐらかそうとしたが、しかしはっきりと、緋勇は言った。
「あそこの管理者はあなただと、以前ご自分で仰いましたよね?」
「だからと言って俺が何をしてやったと? 何故、そう言い切れる?」
「僕の制服に煙草の匂いが付いてましたよ。ちょっと調べてみましたが、この学校の教師でしんせいを吸っているのは先生だけです。僕は煙草は吸いません」
(まさか……いくら何でもそれで気付いただと? ありえん話だ、俺じゃあるまいし。第一、煙草を吸わない人間が、どうして匂いだけで銘柄まで当てられる?)
 平静を装って犬神は考えた。しかし以前からこの生徒は自分に意味深な質問を投げかけている。
(恐らく……仕方ない、覚悟を決めるか)
「……腹の探り合いはやめにしよう。緋勇、お前は何を知っている?」
 心持ち後ろに退がる。自分の間合いをとるべく――否、『緋勇』の間合いから離れるために。
「お前の目的は何だ?」
「目的は2つ……」
 緋勇も袋を机に置き、自然体で犬神に向き合う。
「1つは先程も言ったようにお礼です。そしてもう1つは……」
「もう1つは……?」
 人気のない職員室に、自分の声が妙に大きく響く。今学校に残っているのは教師では自分だけだし、生徒は今ここにいる緋勇だけだ。いざとなれば何とか「処理」できるだろう。そこまで考えたのに、
「もう1つはお願いです」
「お願い、だと?」
「ええ、そうです。正確には許可が欲しいんですけど」
「は……?」
 自分の予想を大きく外れた緋勇の言葉に思わず間抜けな声を出してしまった。
(こいつは……俺を狩るつもりじゃないのか? 人外である俺を……)
「一応僕からカードを晒しましょう。その方が先生も安心できるでしょうから」
 側にある椅子に勝手に座り、緋勇は袋からコーヒー缶を2本取り出した。
「先生はブラックの方でいいですか?」
「あ、ああ……」
 無造作に緋勇は缶の1つを放り投げてきた。それを受け取り、自分の席に腰を下ろす。缶を空け、口は付けずに目の前の来訪者の言葉を待つ。手元に残った缶に視線を落としたまま、
「僕には《力》があります。《人ならざる力》が」
 緋勇は告白した。
「平凡な生活を送るのには、全く無用の《力》です。でも、そのおかげで人以外の存在ものを見抜くことができます」
 こきゅ、と緋勇が缶を空ける音がやけに大きく聞こえた。
「普段は意識しない限り視えないんですが……先生に対しては使わせてもらいました。言いたい事が分かりますか?」
「いつ……いや、初めて会った時には既に気付いていたというわけだ」
「ええ。でも悪い人では……っと、悪い人狼でないことは分かりましたから。だから先生を斃すとか、そういった目的も理由もありません」
「悪くない……それはどうかな……?」
 コーヒーを一口して笑う。要らぬやり取りをしたせいか、ややぬるくなっていた。
「それとも……それも分かるのか? お前の《力》で?」
「ええ、少なくとも自分に向けられる負の感情だけは、ですけど。一応、自分についてはこれで全部です。もういいでしょう?」
「いいだろう」
(こいつは敵にはならない……やれやれ、自分の何分の一も生きていない人間にここまで自分を晒す気にさせられるとはな)
 以前、そんな人間がいたが、どことなく似ている。外見だけではなく内面――根本的な部分が。
「確かに俺は人狼だ。お前達を助けたのも俺だし、旧校舎を管理……いや、監視しているのも事実だ。あそこに誰も近づけないためにな」
「あそこには……何があるんです?」
「簡単に言えば《氣》の吹き溜まりだ」
「龍穴、とかいうやつですか?」
 緋勇の言葉に首肯する。
「大地の《氣》は人間に影響を与える。ここ最近、気脈――龍脈が乱れたためにその影響を受けた人間が増えている。その結果、得た《力》を存分に使って人間は好き放題だ」
「それで、ですか。莎草のような人間が増えたのは」
 意外なところで知っている名前が出てきた。真神から転校していった問題児の名だ。
「あれを知っているのか……どうしてる?」
「……死にました……いえ、僕がこの手で……殺したそうです……」
 やや間を置いて、緋勇は答える。その言い方に眉をひそめた。当事者の吐くセリフにしては断言ではない。まるで人から聞いたかのような言い方だったからだ。
「彼の悪意、《氣》に飲まれて僕は自分を見失い、自分を護るために彼を『排除』したんです――無意識のうちに」
 その時の事を思い出したのか、緋勇の声が少し震えた。
「……そんなお前がよくあの中で正気を保っていられたな?」
 旧校舎がどんな場所であるのかは、よく知っている。あそこは陰の《氣》、負の感情が満ちている。緋勇の話が事実なら、入った途端に異変が起こってもおかしくない場所だ。
「自分の力で対処できるうちは問題ないんです。危機的状況……自分の命が危ない場合にそうなるみたいですね。明確な殺意と、それに見合う攻撃が向けられるとかなり危険なんですけど」
 それで納得がいった。緋勇のもう1つの用件、お願いとやらの見当もつく。
「……お前の願い、旧校舎の件だな?」
 緋勇は頷いた。
「あそこは負の感情に満ちている。それに加えて魔の気配がします。あそこで僕は自分を鍛えたいんです。負の感情に飲まれないように……自分が自分を保てるように」
(自己防衛に伴う破壊・殺戮衝動の増幅、か。確かに問題ではあるな。真神で問題を起こさないのであれば、どうでもいいんだが、そういうわけにもいくまい)
「条件つきだ」
 残ったコーヒーを一気に流し込み、犬神は言った。
「まず1つ。入る時には申告しろ。事前……無理なら事後でも構わん」
「はい。方法は?」
「お前、インターネットに接続できるパソコンは持っているか?」
「ええ……分かりました、後でアドレスを下さい」
「2つ目は……入った人数、状況を報告すること」
 この様子では近い内に蓬莱寺達も旧校舎に入るだろう。彼らも覚醒した以上、緋勇が何の対策も立てずに放っておくわけがない。
「はい。ありがとうございます、犬神先生」
 頭を下げる緋勇に犬神は鍵を放ってよこした。
「入口の鍵だ。キーワードは『月光』……それで開く。だから次からは扉を壊すなよ。俺は工作は苦手なんだ」
「あはは、生物教師ですもんね。了解です」
 鍵をポケットにしまい込み、緋勇も缶の中身を一気に飲み干すと席を立つ。そこへ犬神は問いかけた。
「緋勇、1つ確認するが……ここには人外が何人いる?」
 緋勇は少しの間、天井に視線を彷徨わせていたが、自信なさげに答えた。
「……犬神先生の他は……1人だと思います。ただ、『彼女』ははっきりしないんです。それっぽい、としか分かりません」
「そうか……まあいい」
 それ以上のことは何も言わずにおいた。自然に振る舞っておけ、という意味だ。緋勇もそれを察したようだった。
「では、これで。失礼します」
「ああ、気を付けてな……というのは無用な心配か。とりあえず、煙草は有り難くもらっておく。それと緋勇」
「はい?」
「日本酒は嫌いじゃない。いい酒で、それが辛口ならなおよし、だ」
 早速煙草を取り出し、火をつけながら言ってやると、
「覚えておきます」
 その言葉に笑みを浮かべ、緋勇は職員室を出ていった。そして再び顔を覗かせると、
「それと先生、早速ですけど、これから降りますから。これ、使います」
 ポケットから旧校舎の鍵を取り出し、掲げて見せてから、今度こそ去って行った。
 
 
 
 真神学園生物教師、犬神杜人。人狼にして真神学園旧校舎の管理人兼守護者。教師と生徒、ではなく、人狼と黄龍の器との個人的な繋がりはこうして始まった。
 
 
 

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