僕と後輩とその隣人。





早朝。
まだ日の昇り切らない薄闇に轟音が響く。
天霊界の東のはずれに位置する霊山。
その中腹にある、森に囲まれた大きな滝の中に、
一人座禅を組む男の姿があった。
癖のある、漆黒の髪に黒い簡素な服。
前髪は目を覆い隠す程長く、その表情をうかがうことはできない。
不動明王イルヴァーナ。
いや、正確には「元」不動明王というべきか。
彼がそうだったのは一万年以上前までの話である。

基本的に温暖である天霊界。
しかし、この霊山に限ってはそうではなく、
冷えた空気が山を覆っていた。
滝の水温も凍えるほどに冷たかったが、
イルヴァーナはまったく気にする様子もなく瞑想を続けていた。

どのぐらいそうしていただろうか。

あたりが完全に明るくなった頃、イルヴァーナはふと目を開いた。
滝を囲む森の奥に、不穏な気配を感じたのである。
黒のソーマ。
その大きさは彼とほぼ同等で、かなりの実力者であることを示している。
イルヴァーナの眉がつり上がった。

(…誰だ?)

人里から遠く離れたこの山に人が寄り付くことは殆どない。
わざわざやってくる理由があるとすれば、
この山にただ一人住んでいる彼に会うことだけだ。
とはいえ、黒のソーマの持ち主に友人などいない。

イルヴァーナは眉をしかめた。
わからない。
誰が、なぜ、こんなところに。

けれど、そうして悩んだのも一瞬のことだった。

(ま、見りゃわかるか)

イルヴァーナは素早く滝から上がると、真言を唱えた。
白い光が体を包みこみ、吸い込まれていくと同時に気配が消える。
己の内側にソーマを隠蔽する術。ソーマ封じの術である。
手のひらをひらひらと裏返して術が完璧なことを確認すると、
イルヴァーナは滝の上へ一跳びに飛び上がり、
滝の上にも茂っている木々の中の、低い茂みの中へ身を隠した。

そこからは滝壺とその周辺の様子がよく見えるのだ。
さすがに森の中の様子は見えないが、
相手がソーマを全く隠していないため、位置は手に取るようにわかる。
普通に歩くのよりも、かなりゆっくりとしたスピードで近づいてくるのを
イルヴァーナはそのままの体勢で待った。

やがて。

森から現れたのは、生気の失せた顔をした一人の男だった。

その男の顔をイルヴァーナは知っていた。
灰白色の髪に漆黒の目。彼に少しだけ似た、その顔立ち。
不動明王アカラナータ。彼の後輩に当たる、現役不動明王である。
もっとも、彼の記憶の中のアカラナータには
四六時中暴れているぐらいの元気があったのだが。

(うわ、ひどいな…)

顔面蒼白で目の下に隈を作った、まるで幽霊のような姿に
イルヴァーナは眉をしかめる。

と、数日前に訪ねてきた友人、霧帝メキラの言葉を思い出した。
たしか、少々いじめてやったとかなんとか言っていたような気がする。

彼は基本的には気さくで、良い友人なのだけれど、
その口から飛び出す言葉が、時にとんでもない破壊力を生む事を
イルヴァーナは知っている。

(今回も派手にぶち壊したみたいだなぁ)

そのままざばざばと滝壺に入っていったアカラナータは、
やがて滝の中に座り込み、ピクリとも動かなくなった。
強烈な水圧にも関わらず、結界も張らず、
うつろな目はぼんやりと開いたまま、瞬きすらしない。

(ま、その辺はおいおい確認をとるとして、帰るか)

イルヴァーナはひとつため息をつくと立ち上がった。
滝を占領されてしまった以上、瞑想の続行は不可能である。

「死ぬなよー」

立ち去る前に呼びかけた声が、アカラナータに届いたのかどうか。


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