よしだ とくめい
吉 田 徳 明
1961年 大分県国東町に生まれ、中学時代からギターの弾き語りを始める。
1985年 沖縄にてアルゼンチンのフォルクロリスタ、シルビオ・モレーノ氏と出会い南米の民族
楽器「チャランゴ」
の音に魅了され、それ以来チャランゴを学び始める。
1988年 青年海外協力隊員として南米「ボリヴィア」へ派遣され3年間滞在する。
ボリヴィアではデジタル制御の技術指導を行なう傍ら、チャランゴ奏者のW・E・セン
テージャス氏、アレ
ハンドロ・カマラ氏、ヘラルド・パレハ氏に師事する。
1991年 帰国。これより毎年「日本漫遊チャランゴ弾き語りの旅」を続けている。
1993年 自己充電のため、ボリヴィア、ペルー、エクアドル各国を旅する。
インティ・キジャ(lNTl−KILLA)とはアンデス地方に住むケチュア族の言葉で、太陽(インティ)と月(キジャ)を意味する.東洋(中国)の思想に、この世にあるすべての物は陰陽からなり五行のかかわりを持つという「陰陽五行」の考え方があるが、ここでは「太陽(陽)と月(陰)」、まさしくこの世すべての生態系をつかさどり、そのあり方をも語るという意味を持つ。
また、大分の方言で「不正だ」という意味の「いんちきじゃ」という言葉ももじっている。
チャランゴ弾き語りで日本漫遊 吉田徳明
哀愁を帯びた音色のチャランゴとの出会い
弦長わずか37センチ、10本の弦、共鳴胴にはアルマジロの甲羅を使用したものもあるが、私は木彫りのものを愛用している.指でつま弾けば、チャランと乾いた大きな音が鳴る.元来、アンデス地方には弦楽器がなかったらしく、侵略者スペイン人の持ち込んだギターをまねてインディオが作った楽器がこのチャランゴだといわれている。虐げられた彼らの嘆きが込められているのであろうか、その音色はどことなく哀愁を帯びている。
私がこの楽器と初めて出会ったのは、沖縄にあるライブハウスを訪ねた時のこと.アルゼンチンの演奏家がつま弾くウクレレのような楽器からは、アンデスの風景、インディオの魂の叫びが洗れ出したのだ.体が震えた。
それは協力隊に参加する3年前、まだ電気メーカーに勤務していた頃のことである。協力隊員だったから師事することができたマエストのこと。
仕事を退職して協力隊に応募、縁あってポリビアに派遣となった.現地での私の任務は、大統領府下の福祉施設にて電子科教師への技術指導、および授業を受け持つことであった。対象となる生徒は全国から集められた孤児たちで、彼らとは教室の外でも接することが多く、特にいろんな地方の話や祭の話には興味深く耳を傾けた.
チャランゴは着任後すぐに入手し、マエストロ・W・E・センテージャス氏に師事することができた。
マエストロからは音楽だけにととまることなく、文化、習慣などについてもたくきんのことを学んだ.そして、「あなたが私の国のために来てくれたのだから、私も何かあなたにしなければ」と、レッスンの料金を半額にしてくれたのである。チャランゴの奏法、技法は各演奏者、地方によつてさまざまで、その後アレハンドロ・カマラ氏、ヘラルド・バレハ氏の門もたたいた。
余暇は貪欲にいろんな事に挑戦し、ラバスの下町に住み舞踏教室やボリビア料理数室へも通った。また、各村ごとに色合い柄に工夫を凝らした民族衣装や織物にはすっかり魅了され収集する。
任期中ボリビアで体験したさまざまなことは、私の価値観、人生観を変え、今の大きな原動力となっている.
仕事を離れ、弾き語りに賭ける真意
帰国後、電気関係の仕事に復職せず。「インティ・キジヤ日本漫遊チャランゴ弾き語りの旅」を続けている.
昭和天皇崩御、天安門事件、べルリンの壁崩壊、湾岸戦争=時代が大きなうねりをあけ激動する時をアンデスの高原都市で過ごし、異文化の中で無意識のうちに比較の対象を母国に求めていたのか、あらためて日本という国を見つめ直すことになった.
そして、1度は自分の足で全国を見て回りたいという思いに駆られ始めた旅も今年で5年目を迎える.
チャランゴ片手にアンデスの歌や曲、ボリビアでの体験談や各地で見聞した話を盛り込んだ演奏会を行いながら、毎年テーマを掲げ約3万キロの道程を走る.
演奏会場は専用ホールにこだわることなく、変わったところではお寺の本堂や博物館、教会、お城、ある村では農家の納屋に人を集めて歌った。基本的にマイクロホンは使用しない.生の音声が届く広さがその音楽を楽しむ本来のあるべき姿で、それは人の心のすき間を埋めるには程よい空間だと感じている。「インティ・キジャ」とはアンデス地方に住むケチェア族の言葉で太陽{インティ〉と月〈キジヤ)を意味する.中国の古い思想にすべてのものは陰と陽から成り、五行のかかわりを持つという考え方があるが、ここでは太陽と月、まさしく生体系を司りそのあり方をもの語るという大きな意味を持つ.また、故郷大分の方言で「不正行為」のことを「いんちきじや」と言い、この音発をもっている。
この旅は、物事の秩序が乱れ始め人と自然のあり方の墟が飽和状態に達している今日、われわれが忙しさの中で忘れかけている大切なことを再発見し、報道されることの真実と事実の狭間で物事のあり方を再確認しようという旅である.
以前、ボリビアの田舎で日本から来たと答えると、バスで何時間かかるのかと問われたことがある.笑ってしまったが、その問いに大きなメッセージのようなものを感じた.マスメディアの発達により、茶の間に居ながら世界中の出来事がリアルタイムでわかるようになったが、そこには黒い影が顔をのぞかしている.文明の進歩につれ、遠くが近くに、近くが遠くになっていき、ことの結果を急ぎ過ぎるきらいがある.今はだ日本を4周したにすぎず、旅の答えを出すことはできないが、10周した頃には何かがそこから見えてくるのではないだろうかという期待のもと、私の漫遊の旅は続いている。
*この文章は10年前に書かれたもので、その後2年の充電期間をおき、現在彼は12周目の日本漫遊を続けています。
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