マルセ太郎チラシ
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主催 問い合わせ
西大寺井戸端会議 090-8990-8240(松島屋)
マルセ太郎
スクリーンのない映画館

「生きる」
参加料 当日 3000円
前売り 2500円
12月12日(火) 19:30〜21:30 チケット取り扱いはこちら
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昭和8年大阪生れ。
新劇俳優を志し、29年上京。マルセル・マルソーの舞台をみてパントマイムに興味をもち、彼
の名前にちなんでマルセ太郎と命名。その後コント活動を経て、動物の形態模写を中心に、
浅草の演芸場に出演。特にサルの形態模写はその迫真力で他を圧倒。評論家の矢野誠一氏
をして「内面的な描写からサルにせまり、本物のサルよりもはるかにサルらしく哀しげだ」といわ
しめる芸である。
59年より、映画再現芸というまったく新しいジャンルを開拓。−本の映画の最初から最後まで
徹底的に語り尽くす一人芸である。レパートリーは十数本。
平成3年講談社より「芸人魂」を出版。
平成5年より「黄昏に踊る」と題して老人に視点を置いた喜劇を書き下ろし、自ら演出・出演し
話題となる。
平成6年6月、NHK教育テレビの「芸術劇場」で「泥の河」を放送。
平成8年6月、NHKテレビ(BS−2)でドキュメンタリー「生き様を演じる」〜マルセ太郎の芸人
魂〜を放送。現在は「肝臓ガン」と戦いながらも、全国各地で公演活動を展開するかたわら、
舞台の台本執筆に取り組んでいる。
「スクリーンのない映画館」と呼ぶマルセ太郎(62)の一人芸の迫力は、実際に経験してみないと、よく伝わらない。ある映画を1本、1人で語りつくし、演じ切る。彼の批評を加えた表現が、時としてスクリーンを超えるのである。
 (中略)取り上げる映画は、黒沢明監督「生きる」(1952年)だ。
 実直な市役所の市民課長(志村喬)が、胃がんで余命いくばくもないことを知って、貧しい街の環境を改善し、小さな公園を造成することに情熱を傾ける。雪の夜、公園のぶらんこで歌をくちずさみながら、課長は死を迎えた・・・・。
 この「生きる」を、マルセは喜劇と見る。例えば、課長の葬式で盛り上がった役人たちが、翌日にまたいつものお役所仕事に戻るラストなど、黒沢監督の鋭い「笑い」が随所で光る。日本映画に珍しい骨太の人間喜劇だと、マルセは語る。
 昨年正月、マルセは肝臓がんのため右半分を切除。手術後も腫瘍が見付かり、7月に純度の高いアルコール「エタノール」の直接注入、10月に「肝動脈塞栓術」を受けている。激痛を伴う治療だった。「がん宣告を受けて分かったが、死期を悟って生き方を改めるという感覚、あれは違いますね。人生観や芸風が変わることはない。ただ『生きる』にも出てくる、病院の人事までよく知ってる待合室の病院通はいましたね」
 彼の好著「芸人魂」のように、自身の闘病体験も芸に織り込む気迫の魂を持っている。だが、決して悲壮感はない。「人生は喜劇」なのだから。波乱の人生だった。在日朝鮮人二世として大阪・生野に生まれた。高校卒業後に、ヒロポン中毒に陥り、地獄のような生活を送る。「40年以上も昔のことだが、その時に注射針でC型肝炎に感染し、今回のがんとバチが当たった」。ようやく中毒から逃れ、上京。パントマイムを志し、名手マルセル・マルソーにあやかって、今の芸名になった。
 だが、マイムの才能に見切りを付け、トリオを組むものの解散、お笑いブームとは無縁の芸人として過ごした。サル年1980年、サルの形態模写で一時テレビの売れっ子となるが、2カ月も持たなかった。
 苦しい中で、彼は定期的に笑いのライブ活動を続けた。84年、映画「瀬戸内少年野球団」(篠田正浩監督)を昼間に見て、戦後間もない時期の子供たちを描いた作品として真実味に欠けると怒りを覚え、夜のライブで批判した後、比較する形で小粟康平監督「泥の河」(81年)をアクション入りで演じたのである。
 観客の1人だった永六輔氏が「映画批評のエンターティンメント」と激賞、協力もあって、翌年から東京・渋谷のジァン・ジァンで「スクリーンのない映画館」公演が始まったのだ。
 この「泥の河」は、絶品である。戦争の傷跡がまだ癒えないころの大阪を舞台に、うどん店の少年と運河の上に浮かぶ船に住んでいる子供たちの友情が描かれる。マルセは映画の少年たちと一体化し、喜びと悲しみを舞台いっばいに表現する。大阪生まれ、あの時代の空気は肌で知っている。
 失礼ながら、映画自体より面白いんじゃないか、と感じるほどだ。「小栗監督に、僕が在日二世だから、船の少年を見事に演じられる、と言われたことがあります。確かに、アジアのラテンと言われるくらい、朝鮮半島の人たぢは陽気に話すし、在日の人もしゃべるエネルギーにあふれている」
 十数年前、一家そろって日本国籍を所得し、いま本名は日本名の金原正周。2男1女の子供たちは、「父親がバクチしたり、旅に出たり、とまったく教育的なことはやらなかったのに」、しっかり育った。弁護士になった二男は、以前の姓だった「金」を事務所で名乗っている。
 「スクリーンのない映画館」に登場した映画は、すでに20本近い。多少の批判はあっても、マルセが共感した映画ばかりだ。「近ごろの映画は、思想性がなくてね。技巧や流行ばかり」。マルセが嘆いた.
毎日新聞より抜粋