考察1 帽子について
19世紀末ごろから20世紀初頭にかけて、フランス人=ベレー帽という
ことが世界的に認識されたようです。つまりフランス人ならベレー帽をか
ぶっているものだという見方が世界的に広まったようです。今でこそ、ベ
レー帽はフランス人のかぶるもの、という感覚はすたれているとは思いま
すが。
実はベレー帽をかぶっていたのはフランス人でなく、バスク地方の人だ
ったようです。では、なぜフランス人のかぶるものになったのかというと、
19世紀末ごろに2回あったパリ万博などで、当時パリに来た人たちが、
ベレー帽をよく見かけたところからそのように見られたらしいです。
19世紀になってから、交通機関・交通網が発達し、バスク地方から出
稼ぎで来られる方が多くなりました。特に万博のような大規模な催し物で
は、その準備から終わるまで、相当の人員を必要としたことは想像でき
ます。ですから万博に来た人たちが、出稼ぎのバスク地方の人のベレー
帽姿をよく見かけても不思議ではないです。
それでは、サクラ大戦3ではどうかというと、1926年の巴里万博が開
催されている時期になります。もう一つ加えますと、1924年にパリオリン
ピックが開催されていますので、立て続けに大きな行事が行われていま
す。当然バスク地方の人が、この時期にたくさん出稼ぎに来てもおかしく
はないです。
では、ベレー帽は大戦3の中で見かけたかというと、よく確認できていま
せん。市場で働いている青年アンリが、つばなしの白い帽子をかぶってい
るように見受けました。ベレー帽としては、これのような気がするのですが
・・・。どうもモンティーベレーともバスクベレーとも違うように見えるので、
何とも判断しかねます。
しかし、どうもそれ以前に帽子をかぶっている人が少ないようですね。当
時は帽子をかぶること自体が習慣・風俗として定着していたようだったの
で、サクラの世界で帽子の着用率の低さはサクラならではとも感じます。
補足
1924年のパリオリンピック、1926年の巴里万博と書きましたが、実の
ところ1900年にパリで万博とオリンピックは同時に開催されたようです。
この20年以上前の苦い経験が1926年の巴里万博に生かされていると
思います。というのも、1900年のオリンピックは、万博のためにないがし
ろに運営されたようです。
だから、万博は1924年に設定されず、2年後に開催されたものと思わ
れます。また、この時期には、オリンピックの地位も向上したということも
あるでしょう。万博のために、オリンピックを台無しにすることはさけようと
したものと思われます。
1930年代の映画で「パリ祭」という有名な映画があるそうです。パリの
裏町のモンマルトルを舞台にしていて、当時のパリの風俗・風景を垣間
見ることができるようです。実際のところ、この映画がベレー帽のフラン
ス人をさらに広めたようです。
考察2 降魔の呼び方について
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