考察1 竹橋事件と京極慶吾のクーデター
竹橋事件について
この事件は1878年に近衛砲兵がおこした叛乱です。東京の麹町竹橋
門内の近衛砲兵大隊の兵士が、西南戦争後の恩賞の不公平さや給料
減額などを不満として暴動を起こしたものです。天皇に直訴しようとしまし
たが、一日のうちに鎮圧されました。その後首謀者とみなされる者53名
が銃殺され、多数の兵士が処罰を受けたそうです。
この後軍人訓戒が出されたり、憲兵をもうけるなど、軍隊は急速に質的
に変貌していきます。上官の命令は天皇の命令、兵隊の命より装備品が
大事など、過酷な鉄の規律ができていきます。
その後陸軍内での叛乱は起きず、京極のクーデターが二度目になると
いう訳です。
ただ、この二つの叛乱の性格はかなり異なります。竹橋事件は、その目
的には政府転覆などのクーデターの意図はなく、待遇改善を勝ちとるた
めの行動でした。また、叛乱の中心は徴兵でかりだされた兵卒・下士官た
ちでした。京極のクーデターの中心は、士官学校出のエリート将校たちだ
と推測されます。
京極のクーデターについて
京極のクーデター事件がその後に及ぼした影響について考えてみます
と、まず帝都防衛の強化があげられるでしょう。霊子甲冑などの装備面
は進歩していったものと思います。もっともそれ以前から帝都危機が続い
ているため、この事件が契機となっているわけではありませんが。
私はむしろ、このクーデター事件は、もっと他のことに利用されたものと
憶測しています。現職の陸軍大臣がクーデターを起こしたことは、軍部、
政府にとって大失態でした。閣僚の一人として、帝都の防衛・復興に責任
を持つものが、魔に魅入られ叛乱を起こしたことで、軍部、政府の首脳部
の立場はあやういものになります。
この失態は、軍内外のさらなるしめつけを行うことで、のりきっていくの
ではと考えました。失態ということを危機という論理にすりかえ、防衛のた
め取締りを強化するということです。防衛の名を借りた弾圧を行ったので
はと思います。当時、労働争議、小作争議がよく起こり、労働運動の高
揚、社会主義思想の広まりなど、支配層は危機的な条件を抱えていまし
た。このクーデターをきっかけに、不穏分子を捕まえ、治安維持につとめ
るということができます。おりしも1925年は治安維持法が成立します。こ
ういった悪法は執行するものが恣意的に使い、どんどんエスカレートして
いくものです。
こうして軍、政府に対抗する勢力を弱体化していくことが、より軍部の力
を大きくし、京極の説いた「軍部統治国家論」の理想に近いものへと進む
可能性も考えられます。
二つの叛乱から
こういう憶測から、この二つの叛乱に共通することは、より反動的な政
治へと進む契機となった悲劇的事件といえるかもしれません。京極にとっ
て、竹橋事件は参考資料ぐらいの位置づけでしかなかったかもしれませ
んが、二つの叛乱の成否はともかく歴史的に重要な局面をつくった可能
性があります。
補筆・修正
クーデターの際、閣議決定で内閣が陸軍の新しい内部規約法案を承認
ましたので、事態が事態だけに軍部はこの法律を受容れざる得ないこと
は想像できます。そこには、山口大臣や花小路伯爵の働きかけもあった
かもしれません
しかし、この法律は無効化される恐れがあると思いました。後になって
から、統帥権をたてに無効化することもありうると思います。軍としては内
部のことまで口出ししてほしくない意向があります。
確かに陸軍内部の混乱はしばらく続き弱体化は避けられそうにないで
しょうが、軍部内の懲りない面々はいるでしょうから、既得権の回復を図
ろうとするかもしれません。
軍の権力が低下しても、社会の矛盾を力で押さえ込もうとする権力の構
造はあまり変わらないと思います。このクーデターが逆に軍を弱体化させ
たとしても、より反動的な政治へと進む可能性はあり、楽観視できるもの
ではないと思ってます。
京極慶吾と竹橋事件 陸軍史上二度目の叛乱にて 2004/11/10より
考察2 京極慶吾の出世について
日露戦争後の大出世
京極氏の異例な出世について、いくつか出世の要因となること
を以下にあげます。
1、戦争前から、上層部にその才能を認められ注目されていた
2、戦争中に期待以上の戦功をあげた。戦略上きわめて重要な
戦いで、勝利に多大に貢献した
3、戦争後、彼の功績と才能を上層部がきわめて高く評価した
4、勝ったとはいえ、国力は消耗していたので、地位をよりあ
げることで、恩賞をおぎなった
5、藩閥への不満をそらす。手柄をたてていけばそれなりの出
世させることを示すことで、藩閥への不満をそらせた。
1〜5と要因をあげましたが、しかしこれだけでは異例ともいえる昇進を
説明するのはむずかしいと思いました。その時の陸軍の上層部の政治
的な思惑が大きくからんでいると私は憶測しました。もしかしたら、後の降
魔の脅威を予測してのはからいだったかもしれません。
陸相就任について
では昇進後の彼の動静についてですが、あまりめだった動きをしなか
ったのではと憶測しています。というより、じっくりと力をつけていったのだ
ろうと推測してます。彼自身、どれほどの軍功をあげても、権力はとれな
いことを知っていたでしょう。そこにはかならず政治的戦略を遂行しなけ
ればなりません。薩摩でも、長州でもない若造がはしゃいだとてたかが知
れています。
史実での大正では、大正政変という権力内部の抗争が起こっています
。おそらくこのことはある程度太正の時代にも反映されていると推測して
います。このことをあてはめて考えますと、太正時代に入るとき、力を増
した政党と、既存の政治勢力との闘争がおこり、政、財、官、軍などが権
力の主導権をとるため、癒着、対立、共闘、分裂などくりひろげることに
なったものと思います。こういった状況は京極氏にとって好材料だったと
思います。彼自身はその渦中にはつかず離れずと、力を蓄えながら自分
の派閥を大きくしていったものと憶測します。
そして、藩閥の力が弱まるにつれ、陸軍内部でも派閥争いが熾烈にな
り、しかも軍内部の汚職事件、降魔の事件など、内憂外患の様相があっ
たのではと思います。そういう中で、組閣の際、陸軍は誰をだすか、派閥
争いが拮抗状態の時、白羽の矢が京極氏へと向けられたのではないか
と察します。おそらく政務能力も抜群の彼に陸相という重要な地位につか
せることは妥当だったのでしょう。
たしか長州のエリート軍人の田中義一が50代半ばぐらいではじめて閣
僚入りしたことを考えると、驚くべきものです
セガ公式サイト「サクラ大戦 BBS」
誕生日おめでとうございます 2005/02/26より
(本日京極慶吾陸軍大臣誕生日也(『2』バレ) でざいや・改@帝国遊戯団MG組・「黒」 2005/
02/26 へのコメント)
|